religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)⑥ー稚児物語4ー

第六

 日数を経ていくと弥(いや)増しに心の月を掩っていき、胸につきまとうのは雲と霧で、心が晴れわたることはありません。玉若殿は、「むなしくはかない露のような我が身を、宿す草葉のような所に風が吹き添って露を飛ばすように死んでいくことは、嫌だと思っても詮無いこの浮き世ほさだめです。」と言って、万事に無常を観じて、和漢朗詠集の章句を思い出されて、口ずさみなさったのです。

  観身岸額離根草 論命江頭不繋舟

  (身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江頭に繋がざる舟=我が身

  を見れば岸辺から根が離れて浮かんでいる草のようなもの、命をたとえていうと川

  のほとりに繋留していない舟のようなもの)

  手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかのよにもすむかな

  (手にすくった水に澄んで宿っている月の姿があるのかないのか分からないような

  夜です。同じように私は生きているか死んでいるのか分からないような世に住んで

  いるのです。)

 無理を押して皆の御慰みにと詠みなさる御姿は、ただもう蓮の花が風に委み、女郎花が露重げにもたれている風情よりも、いっそういたわしい御様子です。師匠の僧正を始め、三塔の衆徒までも、この上なく真心を込めて、大法秘法を修しなさる有様は、昔の、「恵亮脳を砕きしかば二帝位につき給ふ、尊意智慧を振りしかば、菅相霊ををさめ給ふ止む(恵亮が頭を砕いて脳髄で護摩を焚いたら二帝⦅清和天皇⦆が位に即いた、尊恵が剣を振りなさって、菅原道真の悪霊を止めた)」といわれる修法と異なることのないほどです。医家は薬の数を尽くし、陰陽家は録命術を究めます。

 しかし、玉若殿が言う事には、

 「師匠の懇ろな御祈祷、山中の皆様の厚い志はありがとうございます。そうではありますが、無常の暴風には神も仙人もかないませんし、命を奪う猛鬼には貴きも賤しきもからめとられてしまいます。たとえ四部の医書をよく読んで百の治療に長じていても、どうして有待の依身である我が身を救うことが出来ましょうか。また、五経医書の節々を詳しく読んで衆生の病を医すといっても、どうして前世からの業病を治すことが出来ましょう。わたしはただ一筋に後生善処(来世で極楽浄土に生まれ変わること)だけを願うのでございます。」

 師匠を始め皆の者はわけもなく袖を湿らすのでした。そうはいっても、「定業亦能転 求長寿得長寿(その報いを受ける時期が定まっている行為でさえも、仏の教えを十分に受ける力があればよく転じて報いを免れるでき、長寿を求めれば長寿は得られる)」という誓願もあるのだと思い、根本中堂・医王善逝(薬師如来)・十二神将・日吉山王・八大王子・二十一社護法善神を始めとして、難行苦行をして病平癒の宿願を立てそれぞれに祈祷なされました。その外の諸社においても神馬を引き、幣帛を捧げて、「西王母の桃を食べた東方朔の八千年の寿命を与え給え」と祈ったけれども、定業には限りがあるので、護持の法力も叶わず。名医耆婆・扁鵲を頼む典薬の医療も、安倍晴明芦屋道満の子孫である陰陽師の秘術も尽くし切ってしまいました。美妙であった花のようなお顔も無常の風にしぼみ、鮮やかであった月のような姿も、有為の雲に隠れなさろうとしています。それでもさすがに常日頃嗜みなさっていることとて、今わの際にも筆を染めて、

  露結ぶ草の葉末に風添ひて散る玉若と人やいはまし

  (露が結んだ草の葉末にも風が吹き添えて玉と散っていきます。そのようにはかな

  く生きて死んでいった玉若と人は言うだろうか)

 と詠じて、とうとう亡くなりなさったのです。

 古詩にいうといいます、

  平生顔色病中変 (平生の顔色は病中変じ=いつもの顔色は病で変わり)

  芳体如眠新死姿 (芳体眠るが如き新死の姿=芳ばしい体は眠るような死んだばか  

          りの姿)

  恩愛昔朋留尚有 (恩愛の昔の朋は留めて尚有り=恩愛を受けた朋はまだ留まって

          いるのに)

  飛揚夕魂去何之 (飛揚の夕べの魂は去りて何くにか之く=魂は飛び去ってこの夕

          べに何処に行くのか)

  管花忽尽春三月 (管花忽ちに尽きぬ春三月=管花未詳 菅の花は春三月には落ち

          てしまった)

  命葉易零秋一時 (命葉零ち易し秋一時=命ある葉は秋の一瞬に散ってしまう)

  老少元来無定境 (老いも若きも元来定まった境は無い)

  後前難遁速兼遅 (死の後前は早いも遅いも逃れる事はできない)

 又、

  花も散り春も過ぎ行く木の下に寿(いのち)は尽きぬ入相の鐘

  (花も散って春も過ぎていく木の下に命は尽きていきます。夕暮れの鐘が鳴りま

  す。)

 とありますのも(出典は不祥ですが)このような事を作ったのでしょうか。

 師匠・後見・花若殿は、枕元や足元に取り付いて、声も惜しまず泣き悲しんだのですが、花が枝から落ちて再びその枝に開くことなく、沈む月が西に傾いて再び中天に帰ることがないようで、雪かと見えた真っ白な肌も冷えてしまって、乱れて残る黛の色や、こぼれかかる緑の黒髪や、いいようもない御容貌は変わらないけれども、ひとたび微笑めば百の媚態のあった双つの眼も塞がって、顔色は変わりはてたのです。花若殿はそれでも手を取って泣き沈みなさるのです。じつに竹馬の頃からも、同じ寝所で生育し、「長恨歌玄宗楊貴妃ではないのですが、比翼連理と語らいなさった友ですので、帰らぬ旅の別れ路を歎きなさるのももっともなことです。唐の玄宗が紫茵香嚢の離別(楊貴妃との別れをいうか)を悲しみ、秦の穆公のが味愁紛粧(典拠未詳)の有様を歎きなさったのと同様です。その死を見る人は声をつまらせ、その死を聞く者は断腸の思いです。天神神祇も激しく悲しみ、悲しみの余り日月星宿もその明るさを失うほどです。鬼畜は涙を浮かべ、草木は刈れて色を変ずるその有様は、昔、尼連禅河の畔で、釈尊御入滅の二月の十五日に、鷲峰山の日の光が、泥恒の水に沈んで、伽耶城の月の影が、栴檀の烟に隠れて、十大御弟子・五百羅漢のみならず五十二類の者までも別れの道の悲しみに沈んだものと変わりありません。所謂沙羅双樹が枯れて白い鶴のような姿となったという様子が今目の当りに顕れているようです。

原文 

 日数を経ぬれば弥(いや)増しに心の月を掩へるは、胸に立ち添ふ雲と霧、晴れ遣る方ぞなかりける。「あだにはかなき露の身を、宿す草葉に風添ひて、厭ふ甲斐なき浮世かな。」とて、万無常を観じ、口談(くちずさ)み給ふ。

  *観身岸額離根草 論命江頭不繋舟

  (身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江頭に繋がざる舟)

  *手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかのよにもすむかな

 と云ふ朗詠を思し召し出だし、せめても御慰みに詠み給ふ御気色、偏に芙蓉の風に委(しほ)れ、女郎花の露重げなる風情よりも、猶いたはしき御様なり。

 師匠の僧正を始め奉り、三塔の衆徒迄も、無二の丹誠を抽(ぬき)んで、大法秘法を修め給ふ有様、昔、*恵亮いただき(「寧」偏に「頁」でいただきとのルビ)を推せば二帝位に即き、*尊恵剣を振り給へば、菅相霊を止むと云ひしに異ならず。医家の薬を尽くし、陰陽*録命術を究む。

 玉若殿曰ひけるは、

 「師匠の御懇祈、満山の芳志有難く候ふ。さりながら無常の暴風は神仙を論ぜず、奪精の猛鬼は貴賤を纏縛す。縦ひ*四部の書を鑑じて百療に長ずとも、何ぞ*有待の依身を救はんや。また*五経の節を詳して衆病を医すとも、豈に先世の業病を治むかな。只一筋に後生善処をのみ願ひ候ふ。」

 と曰ひければ、師匠を始め坐ろに袖を湿らしけり。しかれども、「*定業亦能転 求長寿得長寿」の誓願在りとて、*根本中堂・医王善逝・十二神将・日吉山王・八大王子・二十一社護法善神を始め、難行苦行を致し宿願区(まちまち)なり。其の外諸社に神馬を引き、幣帛を捧げ、*王母も方朔が寿命と祈りけれども、定業限りありければ、護持の法力も叶はず。*耆婆・扁鵲と憑(たの)みし典薬が医療も、*晴明・道満が子孫なる陰陽等が秘術も尽くし了んぬ。妙なりし花顔も無常の風に凋み、鮮やかなりし月姿、有為の雲に隠れ給ふ。流草(さすが)平生御*窘(たしなみ)の事なれば、今はの御時筆を染め、

  露結ぶ草の葉末に風添ひて散る玉若と人やいはまし

 と詠じ、聿(つひ)にはかなくなり給ふ。

 *古詩に云はく、

  平生顔色病中変 (平生の顔色は病中変じ)

  芳体如眠新死姿 (芳体眠るが如き新死の姿)

  恩愛昔朋留尚有 (恩愛の昔の朋は留めて尚有り)

  飛揚夕魂去何之 (飛揚の夕べの魂は去りて何くにか之く)

  管花忽尽春三月 (管花忽ちに尽きぬ春三月)

  命葉易零秋一時 (命葉零ち易し秋一時)

  老少元来無定境 (老少元来定境無し)

  後前難遁速兼遅 (後前遁る難し速きと遅とを)

 又、

  花も散り春も過ぎ行く木の下に寿(いのち)は尽きぬ入相の鐘

 と候ふもかやうの事をや作り候ふ。

 師匠・後見・花若殿、*跡枕に取り付き、声も惜しまず泣き悲しめども、落花枝を辞して再び開く習ひなく、残月西に傾いて又中天に帰らざることなれば、雪かと見ゆる肌も冷え了って、乱れて残る黛の色、飜(こぼ)れて懸る緑の髪、わりなかりつる御貌は易(かは)らねど、一度咲(ゑ)めば百の媚在りし双つの眼も塞がりて、顔色変はり了(は)てければ、花若殿猶も手を取り組み泣き沈み給ふ。勝にも竹馬の比よりも、一つ衾(ふすま)に馴生成(なれそだて)、比翼連理と語らひ給ひし友なれば、帰らぬ旅の別れ路を歎き給ふも理なり。唐の玄宗の*紫茵香嚢の離別を悲しみ、秦の穆公の*味愁紛粧の有様を歎き給ひしに異ならず。見る人声を呑み、聞く者腸を断つ。天神神祇も感激を垂れ、日月星宿も其の明を失ふ。鬼畜涙を含み、草木色を変ずる有様、昔*泥連河の測(ほとり、側か)にて、釈尊御入滅の二月の中五日には、*鷲峰山の日の光、*泥恒の水に沈み、*伽耶城の月の影、栴檀の烟に隠れつつ、*十大御弟子・五百羅漢・五十二類の者迄も別れの道の悲しみ在り。所謂*沙羅林枯れて白鶴と成りし有様も親(まのあたり)顕れたり。

(注)手に結ぶ・・・=五句目が「世にこそありけれ」で、「拾遺和歌集 1322・紀貫

    之」に見える。本文と同じ「世にもすむかな」の形でその前の漢詩句とともに

    「和漢朗詠集・無常」に見える。「すむ」が月影もしくは水が「澄む」のとよ

    に「住む」を掛ける。「よ」は夜と世を掛ける。貫之辞世の歌。

   恵亮=平安前期の天台僧。惟仁親王清和天皇)が惟喬親王立太子を争った際

    に護持し大威徳法を修したという。春宮位を争う相撲で惟仁方の善男が惟喬方

    の名虎に負けそうになった時、独鈷で頭を割り、脳を芥子に混ぜて護摩を焚い

    て善男を勝たせたという。平家物語、曾我物語、保元物語などに見えるエピソ

    -ドで、「恵亮脳を砕きしかば二帝位につき給ふ、尊意智慧を振りしかば、菅

    相霊ををさめ給ふ止む」と叡山では何かにつけていわれていたらしい。尊恵は

    尊意の誤り。(百二十九本平家物語《新潮古典集成72句宇佐詣で⦆、覚一本

    《小学館新古典全集巻8名虎⦆)

   録命術=禄命術か。陰陽五行における運命を打開する呪法か。

   四部・五経=ともに中国の医学書。素問経・大素経・難経・明堂経(四部)。素

    問・霊枢・難経・金櫃要略・甲乙経(五経)。

   有待の依身=生滅無常の世に生きるはかない身。人の身。

   定業亦能転 求長寿得長寿=その報いを受ける時期が定まっている行為でさえ

    も、仏の教えを十分に受ける力があればよく転じて報いを免れるできるという

    こと。菩薩の願いとされる。「故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖をつ

    らね、幣帛礼奠を捧ること暇なし。(平家物語巻2康頼祝言)」

   根本中堂・・・=以下は比叡山の寺社。医王善逝は薬師如来

   王母も方朔が寿命=西王母という仙女が漢の武帝に長寿の仙桃を与えたという。

    東方朔はその桃を盗み食いして長生きしたという。

   耆婆・扁鵲=インド・中国の伝説的名医。
   晴明・道満=平安時代陰陽師安倍晴明芦屋道満
   窘=「窘」は苦しみ。ここでは「嗜み」の意味か。
   古詩=未詳。そのあとの歌も未詳。
   跡枕=後枕。足枕。足元枕元。
   紫茵香嚢=出典未詳。
   味愁紛粧=出典未詳。
   鷲峰山=霊鷲山。尼連禅河の畔にあり、釈迦が「感無量寿経」や「法華経」を説
    いたとされる山。
   泥連河=尼連禅河か。釈迦が大悟したというガンジス川の支流のネーランジャナ
    ー川。
   泥恒=「泥」は尼連禅河、「恒」は恒河(ガンジス川)か。
 
   伽耶城=ブッダガヤ。尼連禅河に臨む仏教の聖地。この地の菩提樹の下で釈迦が
    悟りを開いたという。
   十大御弟子・五百羅漢・五十二類=釈迦の入滅に立ち会った、仏弟子以下・
    人々・五十二類の生き物。
   沙羅林=釈迦の入滅した沙羅の林。入滅の際に白く枯れ、白い鶴のようであった
    いう。