religionsloveの日記

室町物語です。

富士の人穴の草子④-異郷譚4ー

その4

 「新田よよく聞け。六道というのは地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道である。次に畜生道を見せよう。」と言って、先に進みなさると、蛇が三匹います。左右は女の蛇で真ん中に男の蛇を置いて巻き絡んで男が女の口を吸っています。その吹く息は炎が百丈ばかり立ち上がっていました。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩は、「あれこそ娑婆で二股かけて女房に胸を焦がしたる者であるよ。男女ともに一万三百四千年は浮かばれる事はないのだ。」とおっしゃいます。

 また、ある方角を見れば、獄卒が罪人を取り押さえて舌を二尋(3メートル)ほど引き抜かれて釘を打たれている者のいる処があります。また、眼をくり抜かれている処もあります。鉄の(ような真っ黒な?)犬や鴉どもが人の肉を喰い散らす処もあります。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩はおっしゃいます。「あれこそ娑婆で親・主君に対して悪行した者が、あのように苦を受けているのだ。」と。

 また、こちらでは女の股を鋸で引いている処があります。「これは娑婆で男を一人持っているのに他の(世間の)男に浮気をした女が、あのように苦を受けて四百五千年がほどは浮かばれないのだ。」

 また、ある処を見ると十二単衣で着飾った女房が岩の上に立って、肉体を引き裂から引き裂かれ喰い散らされている処があります。この女がわめき叫ぶことはこの上ありません。「あれこそ娑婆で遊女として生きていた女が数多くの男を貪って愛着したせいだ畜生道へ堕ちたのだ。」。

 また、こちらでは女の鼻の上に灯台(灯明台)を立てて顔の皮を剝ぎ、油がその顔に垂れている処があります。「あれこそ娑婆で男に美しく見られようとして、もともと見目悪く生まれついた容貌を、どうにか装えばと思って、美しくなるはずもないのに一紙半銭(少額)さえも後生のために寄進することなく、しまいにはくわんなどの札(寄進を募る願の札?)を配ると、『あら嫌な事』(化粧の誘惑をいうのか)と耳も傾けずに、男に隠れてこっそり紅や白粉などを買い取って、顔に塗りたくった女が、あのように苦を受けて五十万劫ばかりは浮かばれないのだ。」。

 それを行き過ぎて次を見ると、ある罪人に鉄の差し縄(捕縛縄)を三十本つけて引っ張って来ます。よくよく見れば荒んだ感じの尼です。新田はこれを見て大菩薩に尋ねますと、「あれこそ上野国あかつか(吾妻?)の荘にいる碓氷の尼という者である。人が喜ぶのを嫉み、人の憂えているのを聞いては喜び、しかも富貴の家主として生まれて眷属を三百人も抱えている。しかしこの者どもには塩・味噌をも食わせないで、自分は朝夕の食事は豪華に誂えさせてて食べ、全く下人たちに情けをかけるような事はない。ことさらに僧・法師を供養する事もない。少しの恵みも施さないので、この尼は十王の裁断を待つこともなく、ただちに無間へ堕とせということで釜底へ押し入れられているのである。さあ新田よ、お聞きなさい。男も女も地獄に堕ちるとはいうが、中でも女が堕ちるというのは、女の思う事みな悪道だからである。それだから、男の所へ近づかないように一年の内八十四日は物忌みされるのである。このような罪を知らないで善根に傾かないのはかわいそうなことである。」。

 またこちらでは鉄の綱を三十本ほどつけた女が引っ張られて来ました。新田が、大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で地頭であったが、罪なき百姓を不当に苛み、愁い悩ませた者が、胸に釘を打たれて、吹き上がる血は百丈ばかりだ。その身は奈落に堕ちて浮かぶことはない。」。

 またある方角を見れば、罪人を鉄の(ような真っ黒な)犬が集まって、その叢を獅子(猪?)だ鳥だと名付けて追い回して、喰いちらかしている処もあります。「あれはいかなる業をなした者でございますか。」と申し上げますと、大菩薩は、「あれこそ娑婆で耕作することを物作る事を面倒くさがって、(入道のふりをして)人にたかって乞食をして貪った者があのように苦を受けて五十万劫までも地獄から浮かぶ事がないのだ。新田よくよく聞きなさい。俗人はは田畑を作り年貢を捧げて、その余るところで妻子を養って、僧法師を供養するならば、地獄に堕ちる事はあるはずがないのである。」とおっしゃる。

 またこちらでは罪人を火の車に乗せてあれやこれや獄卒の阿防羅刹が鉄の笞を打たれて四十四年もの間石牢に閉じ籠められ解放されていません。この者は娑婆で後生を弔っていたというのに浮かばれないのです。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると大菩薩は、「あれこそ遠江の国のそてしの宮の禰宜である。神の田畑を所領しているのに妻帯し妻子を持って神を祀る事はない。服喪をも忌まずに、心経の一巻をも読む事もないのでこのような苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事がないのだ。まったく人があってはならない者はえせ神主である。このような者には近づくだけでも地獄に堕ちるのだ。」。

 また、ここには舌を抜き出だされて叫ぶ者もいます。(誤ってどこからか挿入したのか。)

 また三十ほどの鉄球を付けられている女がいます。これは娑婆で咎なき下人に咎を言いがかり困らせた女で、このような苦を受けて七千劫がほども浮かぶ事はありません。

 またここには身の丈七尺ほどの法師を鬼どもが竜頭の蛇口の甕に入れて一日に三升四合の油を絞とっています。これは法師になったのに、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも理解せず、仏に香・花をもお供えする事もなく、禁じられている妻子を溺愛する者で、この苦を受ける事九千年です。

 またここには衣を腰に纏った法師が無間地獄の周囲を走り廻っています。これは娑婆で法師にはなったといいながら、海にる魚が塩に染まらないように仏法には染まらず、人目にだけは仏法を願い、心の内では欲心ばかりを優先させて、人に振る舞いをする事もなくて、万民の富を過剰に貪った出家があのように苦を受けるのです。それでも出家の功徳の力によって無間地獄には堕ないで(畜生道の)縁を走っているのです。

 またある処を見ると、腰の骨に釘を打たれ剣で切り裂かれている四大海のように腹の大きな女がいます。それは娑婆で男によく思われようとして、若いふりをして懐妊し、子はいらないと捨てた女がこのような苦を受けて十万劫は浮かばれる事がないのです。

 またこちらでは主人と思われる者と、下人と見える者が鉄の丸かし(鉄球)を懸けられて無間地獄の底へ押し込められています。これは娑婆で身を売ったのに、その売り状を受け取らず下人も逃げ失せた者です。その者らはこのような苦を受けて八万劫ほども浮かぶ事はありません。「この由を新田、人に語りなさい。白い紙に黒い文字を書いても、その証文を受け取らず勝手に振る舞うことは、大きな罪である。また決済がすんだのにその証文を返さないのも罪である。」。

 一方、天道を見ると美しい簪を挿した女が瓔珞の玉の輿に乗って黄金の幡を大悲の風に吹き靡かせて、二十五の菩薩は音楽を演奏して、観音・勢至菩薩が来臨なさる処があります。新田が、大菩薩に質問すると、「常陸の国の菊多の郡の女である。富貴の家に生まれて、しかも心優しく僧・法師を供養し無縁の者の面倒を見、寒がる者には衣服を与え、特にこの女は座頭に目をかけていた。このおかげで弁財天の慈悲によって、いよいよ富貴は日増し年増しに増していったのだ。そもそも座頭という者は人の役にたつ者ではない。そのような者に深く同情し世話をするので妙音弁財天もお守りなさったのである。この女房は幼い時から居ても立っても常に慈悲を心がけていた。それである歌にも、

  仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

  (仏とは何をいうのかというと、岩間の苔筵のようなものだ。まさに慈悲心に比べ

  られるものはない。慈悲心そのものが仏なのである。それは苔の筵のようだ?)

 このような歌を聞くにつけてもこの女房の志の深さが知られるのだ。こうして女房はその善行を帝釈天に奏上され、九品浄土へと観音・勢至菩薩が迎えにおいでなさったのである。新田よ娑婆で皆に触れよ。他念なく一切の人、牛馬に至るまで憐れみをかければ必ず極楽に参ることができるぞ。」と答えなさいます。

 また傍らを見ると獄卒が鉄の綱で縛って少しも放さず罪人を責めています。この縄にからめられて悲しむ事この上ありません。これは娑婆で数多くの生き物を殺したために、このような苦しみを受けたので五百万劫がほども浮かばれる事はありません。

 またある処を見ると、鬼ども百人が持つ石を、罪人の胸に上に押しつけて押すしている処があります。これは娑婆で鳥の子(卵)を取っておいしいものを独り占めして食べていた者がこのような苦を受けて六万劫ほどは浮かばれないのです。

 また入道を逆さまに吊るして頭から肉を剥ぎ取っている処があります。新田が大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で尊いふりをして、内心には欲心深くて、神仏は何とも思わずに、香・花を供える事もなく、念仏の一遍も唱えず、人目ばかり気にする出家者である。」と答えます。

 またここに錐(きり)で罪人の眼を揉んでいる処があります。これは娑婆で人の眼をごまかし盗みをした者が、あのように苦を受けて五百万劫ほどは浮かばれないのです。「さあ新田よお聞きなさい。教主釈尊のお説きなさった経を読む人は仏に近い者である。たとえ一字でもお経を知って唱えている者に悪行する事は、無間地獄に堕ちる業である。経文の一字も知らない者は盲目と同じなのである。」。

 また女が月の障りの日に腹をあおいで冷やす事、そうして衣装を脱いで裸になる事は無間地獄に堕ちる行為です。

 またここには紅蓮・大紅蓮地獄の氷に身を閉じこめられて震えわななく者がいます。「あれは娑婆で夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の者を盗み、衣装を剥ぎ取った者が、このように氷に閉じこめれられて悲しむ事三万五千年となるのである。」。

 またここには尼がいます。年の盛りに髪を下ろした後に後悔して、「ああ私に髪さえあったならば男に袂を引かれる(誘惑される)のに。他の女が私の男に愛されているのを見て嫉妬し、尼になった事よ、あらうらめしい。昔が懐かしいなあ。」とて、吹く風に、立つ波ににつけても歌を詠んで俗を好む風情で、尼になった事をすっかり忘れて、我を忘れて和歌を詠じ、男と通じて懐妊し、出産した者が、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かれては、目・鼻から血を流してどうにもなりません。いまさら後悔してももかなはないことで、畜生地獄に堕とされて間断なく苦を受けるのです。

 またこちらには女房がいるのですが、獄卒の鬼は、「娑婆で男狂いしたその数を見よ。」と言って鉄の丸かしを大方三百ほど懸け鉄の縄を付けて、さらに、「自分が好み交わった男の数を隠しても、十王の前で全く隠すことはできない。」と言って責め、一万五千年ほども苦を受けるのです。

 またここに鉄の米櫃に顔を入れて火焔となって燃えている者がいます。あれが娑婆で食事時に、来客があると食事を振る舞うのを惜しく思って顔を真っ赤にして腹を立てて、罪のない下人や子に向かって腹を立てた者が、四十万劫ほども火焔となって燃え焦がされるのです。ですから食事時に人が来たら食事を施せば、御施行といってどれほどか利益は増すのです。この世では富貴となるのです。

 またある方を見ると女房で、髪を百丈ほどの長さで、先端より火をつけられて焼かれている者がいます。「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると、「あれこそ娑婆にいた時、自分の髪の毛が一本落ちるのも惜しみ、千本にもしたいと思った者が今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千年がほども浮かばれずにいるのだ」。

 また子を持たない者は罪深き事この上ありません。また一人を持った者でも、その後子を生まない女も罪深いのです。また女の月の障りがないのも子を産めないので同様です。このような者どもは、子供に財を傾けることがないのですから、子のない寂しさに引き替えて富貴です。善根行わないで(蓄財し)、財産は持った上にも持ちたいと思って、衣服は着ている上にも重ねて着たいと思ったのでしょうが、死んだ後は風に木の葉が散るように何も残りません。ですからこのような(子のいない)時は後生を大事に思って、善根を施しなさい。子供を持った人も、子によるのであろうが(その子が弔ってくれるので)、それは少しの後生の種となるでしょう。ただし親が浮かばれるほど丁重に弔う子は稀です。

 またある処を見ると、手足を手斧で裂かれている者がいます。あれは娑婆で用もないのに木を伐り枯らした者で、呵責され続けているのです。

 

原文

 「新田よくよく聞け。六道といふは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天なり。*まづ畜生道を見せん。」とて、行き給ふに、蛇(くちなは)三筋あり。左右(さう)は女中に男を置きて巻き絡みて男の女口を吸ふ。吹く息は百丈ばかり立ち上がりけり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて二道かけて女房に胸を焦がせたる者よ。男女ともに一万三百四千歳がほど浮かぶ事なし。」。また、ある方を見れば、獄卒罪人を取つて押さへて舌を*二尋ばかり抜き釘を打つ処あり。また、眼を抜かるる処もあり。鉄の犬鴉ども肉叢を喰ひ乱す処あり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて親・主を悪行したる者、あのやうに苦を受くるなり。」また、ここに女の股を鋸にて引く処もあり。これは娑婆にて男一人持ちながら余(世?)の男に心を移したる女、あのやうに苦を受けて四百五千歳がほど浮かぶ事なし。また、ある処を見れば十二単を飾りたる女房の岩の上に立ちて、肉叢を引き裂き引き裂き獄卒ども喰ひ乱す処あり。この女わめき叫ぶことは限りなし。あれこそ娑婆にて*流れを立てたる女よろづの男を貪りて好きたりしによつて畜生道へ堕つるなり。また、ここに女の鼻の上に灯台を立て顔の皮を剝ぎ、油に垂るる処あり。「あれこそ娑婆にて男によく見られんとて、もとより見目悪く生まれつきたる容貌を、何とこしらへたればとて、よくもなるまじきに*一紙半銭なりとも後生のためにはなさずして、結句*くわんなどの札を配れば、あら忌まはしとて耳にも入れず。男に隠しては紅や白粉などをば買ひ取り、顔に塗りつけたる女、あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。」。

(注)まづ・・・=「次に」ぐらいの意か。以下の描写には六道を明確に分けて順序だ

    てている感じはない。

   二尋=一尋は四尺五寸乃至六尺。3メートルくらいか。

   流れを立てたる=遊女として生活を立てている。

   一紙半銭=ごくわずかなもののたとえ。寄進の額のわずかな場合に用いる。

   くわんなどの札=未詳。寄進を募るために配る御守り札か。「くわん」は願か。

 それを行き過ぎて見れば、ある罪人に鉄の*差し縄を三十筋つけて引つ張つて来る。よくよく見れば荒れたる尼なり。新田これを見て大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ上野国*あかつかの荘にうすひの尼と云ふ者なり。人の良くなるをば嫉み、人の憂ひを聞きては喜び、しかも富貴(ふつき)の家主と生まれて眷属を持つ事三百人に及べり。この者どもに塩・味噌をも食わせずして、我は朝夕の食ひ物を*綺麗にこしらへさせて喰ひ、さらに下人に情けがましき事もなし。ことに僧・法師を供養する事もなし。少しの利益をなさざれば、かの尼は*十王もさんだん(裁断)なし。すぐに無間へ堕とせとて釜底へ押し入れらるるなり。いかに新田、聞き候へ。男も女も地獄に堕つるとはいへども、中にも女の堕つるぞ、女の思ふ事みな悪道なり。しかる間、男の所へ近づかざる事一年の内に*八十四日忌まるるなり。かかる罪をば知らずして善根に傾かざることあはれなり。

 またここに鉄の綱を三十筋ばかりつけたる女を引つ張つて来たりたり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて*地頭にてありしが、咎もなき百姓に悪く当たり、物思ひさせたる者、胸に釘を打たれて、ふきは(吹きは?)百丈ばかり上る、その身は奈落に堕ちて浮かぶことなし。またある方を見れば、罪人を鉄の犬集まりて、肉叢を獅子・鳥と名付けて追ひ回し、喰ひ乱す処もあり。あれはいかなる業の者にて候ふと申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて物作る事を悲しく思ひ、人を貪りたる者あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。新田よくよく聞け。ただ人は田畑を作り年貢を捧げ余るところにて妻子を育み、僧法師を供養せば地獄に堕つる事あるまじきなり。」。

 またここに罪人を火の車に乗せて*めんつおんつ*阿防羅刹鉄の笞(しもつと)当てられて四十四年に落ち着きて、石の牢に籠められ浮かぶ事なし。娑婆にて後生を弔ふといへども浮かぶ事なし。新田、「あれはいかなる者。」と問ひ申せば大菩薩、「あれこそ遠江の国*そてしの宮の禰宜なり。神の田畑を*控へて妻子を育みて神祀る事もなし。*服(ぶく)をも忌まずして、*心経の一巻をも読む事もなき故にかかる苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事なし。*ただ人の持つまじきものは神主なり。かやうの者には近づくまでも地獄に堕つるなり。また、ここに舌を抜き出だされて叫ぶ者あり。また鉄の*丸(まるかし)を三十ばかり付けらるる女あり。これは娑婆にて咎もなき下人に咎を言ひつけ嘆かせたる女、かかる苦を受けて七千劫がほど浮かぶ事なし。またここに丈七尺ばかり法師を鬼どもが*竜の口入れて一日に三升四合の油を絞るなり。これは法師になりたりといへども、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも知らず、仏に香・花をも参らす事もなし。妻子ばかり愛して過ぎたる者この苦を受くる事九千歳なり。またここに衣、腰に着けたる法師無間のはたを走り廻る。これは娑婆にて法師にはなるといへども、*海なる魚の塩に浸(し)まぬごとくにて、人目ばかり仏法を願ひ、心の内には欲心ばかりを先として、人に振る舞ふ事もなくて、万民の貪りて過ぎたる出家があのやうに苦を受くるなり。されども出家の功力によりて無間には堕ちざりけり。

(注)差し縄=罪人をとらえて縛る縄。

   あかつかの荘=吾妻(あがつま)の荘か。吾妻郡には赤坂村というのもある。 

    「うすひ」は碓氷かとも思われるがよくわからない。347では「かまだの荘」

    とある。

   綺麗=豪華の意か。

   十王=十王は地獄へ堕とすかの裁断をするのだがそれもなく。もしくは「算

    段」か。

   八十四日=月経で1回七日物忌みすると年間で84日になる。

   地頭にてありしが=474では「ひとのしよりやうをおさへ、ちとう、まん所なと

    おいいたし」とある。

   めんつおんつ=笞の当て方の形容だろう。文脈上「とつおいつ(あれこれと)と

    いったニュアンスか。

   阿防羅刹=地獄の獄卒の一種。

   そてしの宮=未詳。347「そて殿の宮」474「そてうの宮」小谷「殿の氏神」。

   控へて=文脈上所領する、の意だが。

   服=服喪。

   心経=般若心経。

   ただ人の・・・=神主を否定したらその仕える神社はどうなのだろう。言ってい

    る当人は浅間大権現なのだが。「えせ神主」と解釈しておく。

   丸=まるかせ。囚人を繋留する鉄球。

   竜の口=竜の頭の形をした蛇口。そのような注ぎ口をもった容器か。

   海なる魚の塩に浸(し)まぬ=ことわざか。海にいても魚は塩に染まらない、と

    すれば、どんな環境にいても悪人は改まらないという意味か。

 またある処を見れば、腰の骨に釘を打たれ剣を以て切り裂かるるところに腹は四大海のごとくなる女あり。あれは娑婆にて男によく思はれんとて、若きよしをして懐妊し、子をあらし(あらじ)捨てたる女かかる苦を受けて十万劫がほど浮かぶ事なし。またここに*人の主と思しき者、下人と見えたる者に鉄の丸かしを懸けて無間の底へ押し入れらるる者あり。これは娑婆にて身を売りて、その売り状を取らずして逃げ失せたる者かかる苦を受けて八万劫がほど浮かぶ事なし。この由を新田、人に語り候へ。白き紙に黒き文字を書き、その状を取らずして我儘に振る舞ふ事、大きなる咎なり。殊に満ち済みたるにその状を出ださぬものも咎なり。また、天を見れば簪美(いつく)しき女瓔珞の玉の輿に乗りて黄金の幡を*大悲の風に吹き靡かして、*二十五の菩薩は音楽をなして、観音・勢至は影向し給ふ処あり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「常陸の国に*菊多の郡の女なり。しかも富貴の家に生まれて、心優しくて僧・法師を供養し無縁の者を育み、寒き者には衣装を与へ、殊にこの女は座頭に目をかけてあり。この上に弁財天の憐れみによつて、いよいよ富貴は日に増し年に増したり。されば座頭といふ者は人の用にもたたぬ者なり。かやうの者に深く志あるによつて妙音弁財天も守り給ふ。かの女房は幼けなき時より立居に慈悲を思ひけり。さればある歌にも、

  *仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

 かやうの歌を聞くにつけても志深かりけり。かくてかの女房を帝釈に申せ、九品浄土へ観音・勢至迎ひ(へ)給へリ。新田娑婆にて触れよ。他念なくして一切の人、牛馬に至るまで憐れみをなせば必ず極楽に参るぞ。また傍らを見れば鉄の綱を付けて少しも放さず、罪人を責むる。この縄にかかりて悲しむ事限りなし。これは娑婆にてよろづ生き物を殺したるによつて、かかる苦しみを受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。またある処を見れば、鬼ども百人して持つ石を、罪人の胸に上に押しかけて押す処あり。これは娑婆にて鳥の子を取りて喰ひ我ばかり味よきものを喰ひたる者がかかる苦を受けて六万劫がほど浮かぶ事なし。また入道を逆さまして頭より肉(ししむら)を剥(へ)ぎ取る処あり。新田大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて尊きふりをして、内心には欲心深くして、神仏は何とも思はずして、香・花奉る事もなく、念仏の一遍も申さず、人目ばかりなりし出家なり。」。またここに罪人の眼を錐にて揉む処あり。これは娑婆にて人の眼を*晦(くら)かし盗みをしたる者、あのやうに苦を受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。「いかに新田承れ。*教主釈尊の説き給へる経を読む人は仏に近き者なり。一字も知りたる者を悪行する事、無間の業なり。一字も知らざる者は盲目と同じことなり。」。また月日に腹をあふる事、そうして衣装を脱ぎて裸になる事、無間の相なり。またここに*紅蓮・大紅蓮の氷に身を閉ぢられて震へ*わためく者あり。あれこそ娑婆にて夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の物を盗み、衣装を剥ぎ取りたる者、かやうの氷に閉ぢられて悲しき事三万五千歳なり。

(注)人の主・・・=わかりずらい。地獄へ堕ちたのは主人なのか下人なのか。とりあ

    えず人身売買をしたのに、証明書を受け取らないで金だけ受け取って、下人も

    逃げてしまった、と解する。買った方は証明書がないので払い損となる。売買

    の証文の不正を罪だと言っているのだろう。

   大悲の風=大いなる慈悲のような優しい風。

   二五の菩薩=観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・師子吼・陀羅尼

    ・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・山海慧・金蔵・金剛蔵・光明王・華厳王・衆

    宝王・日照王・月光王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威

    徳王・無辺身の称。臨終の際に念仏を唱えると迎えに来るという菩

    薩。

   菊多の郡=福島県南東部にあった郡。

   仏とは・・・=一条拾玉抄所収の道歌。「いわま」は「言わま」と「岩間」をか

    ける。苔筵が慈悲心にどうつながるのかはわからない。

   晦かし=ごまかす。

   教主=教えを開いた人。仏。経文を唱えることの大切さを説くのであるが、前と

    うまくつながっていない。

   月日に腹をあふる事=「煽る」か「炙る」か。月の障り(生理)に腹を煽って冷

    やすことか。次の裸になるなというのも女に対してだろう。

   紅蓮・大紅蓮=八寒地獄の二つ。非常に寒い。

   わためく=「ふためく」か。ばたばたする。

 またここに尼のありけるが、年の盛り髪を下ろし後に後悔して、「あはれ我が髪さへあらば男に袂を引かれんものを。女の男に愛せらるるを見て妬(ねつた)び、「尼になりつる事よ、あらうらめしや。昔懐かしや。」とて、吹く風立つ波ににつけても歌を詠みたる風情にて、尼になりたる事をうち忘れ、*心も心ならず男をして懐妊し、*産の紐を解きたる者、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かるは目・鼻より血流れてせんかたなし。いまさら後悔すれどもかなはずして、畜生地獄に堕とされて苦を受くる事さらにひまなし。またここに女房のありけるに獄卒いふやうは、「娑婆にて男狂ひしたるその数を見よ。」とて鉄の丸かしを大方三百ばかり懸けさせて鉄の縄を付けて、鬼ども申しけるやうは、「己が好みし男の数は隠すといへども、十王の前にては少しも隠れなし。」とて一万五千歳がほど苦を受くるなり。またここに鉄の飯櫃に顔を入れて火焔となつて燃ゆる者あり。あれこそ娑婆にて食ひ物時、人の来るに惜しく思ひて顔を赤め腹を立ち、咎もなき下人や子に会ひて腹を立ちたる者、四十万劫がほど火焔となつて燃え焦がるるなり。されば食ひ物時人の来るに呉るれば、御施行とていかばかり利益は増すなり。今生は富貴なるなり。またある方を見れば女房に、髪を百しやう(尺?丈?)ばかりにして、先より火をつけて焚かるる者あり。「あれはいかなる者ぞ。」と問ひ申せば、「あれこそ娑婆にありし時、我が髪の一筋落つるをも千筋になさばやと思ひし者今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千歳がほど浮かぶ事なし。

 また子なき者とて罪深き事限りなし。また一人持ちたる者、後に子を生まざる女も罪深し。また女の月の障りなきもかくのごとし。かやうの者どもは、引き替へて富貴なり。善根はせずして、持ちたる上にも持たばやと思ひ、着たる上にも重ね着ばやと思ひしかども、死して後は風に木の葉散るがごとし。さればこのやうにあらん時は後生を大事に思ひて、善根をせよ。子供持ちたる人も、子によるべけれども、それは少しも後生の種なり。ただし親の浮かぶほど弔ふ子稀なり。またある処を見れば、手足を手斧(てうな)にて裂かるる者あり。あれは娑婆にて用もなき木を伐り枯らしたる者呵責せらるる事限りなし。

(注)心も心ならず=我を忘れて。

   産の紐を解きたる=出産した。