religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)⑤ー稚児物語4ー

第五

 「あなたとても岩や木でできている身の上ではごさいますまい。心の底に秘めている恋心をお語りなさい。」

 と僧正が責めておっしゃると、玉若殿はこれを聞いて、

 「まことにおっしゃることは道理です。さほど遠くない昔の事でしょうか、俊恵法師といった者は、この世に並ぶ者のない数寄者のお方でした。ですから春には雲や鳥の跡を見て、花の下で名残惜しくて家に帰ることを忘れ、秋には十五夜の月を夜もすがら詠めて、二千里の外の友人に心を馳せました。そうはいっても花が散り蝶がその羽色が衰える季節を見ると、有為転変の理が涙となって視界を遮り、葉が落ち秋の虫が悲し気に鳴く様を見ては、老少不定の嘆きが胸に満ちます。この道理に諸事を忘れたのです。それなのに、二月中旬釈迦入滅の頃、余寒がまだ残って籬の山の花ざかりの時を待ちながら過ごしている際に、『取るに足りない私の命も花の咲くのを待っていると惜しく感じられるよ。』と上の空になっている様子を、妻女はこれを不審に思って、『どのような誰に心を奪われて、花の咲いていない木陰を吟じて、心を悩ませているのだろう。』と嫉妬したので、その時俊恵法師は、そうだとも違うとも返事はしないで、一首を詠じたのです。

  あぢきなや花待ちかぬる思ひゆへ恋すと妹にうたがはれぬる

  (情けないことだ。花の咲くのを待ちかねてつらい思いをしているのに、妻には誰

  かを恋していると疑われてしまったよ。)

 この歌を聞いて妻は嫉妬の疑いを解いたという事です。昔にもこのように疑われた例はございますから、今の師匠のお考えも見当外れだとは思いません。ただ、私のお国は筑紫の大宰府です。路程百里の険難の道を通って、遥かに遠い国境を越えて、幼少の頃に叡山に上ってからは、まだ故郷へは帰ったことはございません。ですから二親や兄弟の面影が身に寄り添って離れず、涙が袖に溢れて包み隠すこともできません。人目にもわかるように穂に出て、穂に出た糸薄ではありませんが、乱れた心で錦を織ったという蘇恵の夫を恋しく思うその衣、それに朱買臣が故郷会稽に錦を飾った故事は、真守迄も羨ましく(?)、望郷の内に没したという東平王の古墳の松は故郷の方へ傾いているといいます。讃岐で薨去なさった崇徳院の火葬の煙は都の方へ靡いたといいます。これらは皆生まれ故郷や家族をを恋しく思う気持ちです。吾身に重ね合わせられるのでございます。」

 と言いますので、僧正は是を聞きなさり、

 「まことに禽獣の類さえ、『胡馬北風に嘶(いば)う、越鳥南枝に巣くう』といいます。寒い国の雁は暖かい国で啄んでいても、春を待ってその寒い北国へ帰るそうで、華胥国の燕は、南国に巣を作っても、本国を忘れないという例もあります。ましてや人間においては故郷を偲ぶのは当然の事です。玉若殿の御様子は雁が列を乱して北嶺(比叡山)の峰の雲で腸をこすって断ち切れたように悲しみに満ちて、籠の鳥が友を偲んで大宰府で月を見ては恋焦がれなさって、このように心を乱していると見えます。少々狂気じみてはいますが至極もっともな理、二親兄弟、古里の親類上下に至るまで、恋しいと思い申し上げている、そのような思いが積もっていったのでしょう。延喜の帝醍醐天皇の御狂気は天満天神菅原道真の無罪遠流の御祟り、冷泉院の狂気(もももけ)は民部卿藤原元方の悪霊とか。小野小町のなれの果ては、深草の四位の少将が恨みです。物思いが祟りを成すこともありましょう。一方、魚籃馬郎婦観音は恋に狂い自分に求婚する若者にお経を暗誦させることで、一切衆生を利益して、自身も解脱なさったという事です。このような例も多いのですから、玉若殿の御悩みもまことに素晴らしいことです。」

 と言って、僧正は涙を流したのでした。

原文 

 「御身とても岩木を 結ばぬ御事なり。心の底を語り給へ。」

 と。僧正強ちに曰ひければ、玉若殿聞き給ひ、

 「勝(げ)にも仰すは御理、中古の比かや、*俊恵法師と云ひし者、天下無双の物数寄の仁たり。されば春は雲鳥の跡を花の底に惜しみて帰らん事を忘れ、秋は三五の月を終夜に詠みて、*二千里の外に心を遣はす。然れども花飛び蝶衰色の節を見ては、有為転変の理の涙眼に遮り、葉落ち虫愁ふる有様を見ては、老少不定の嘆き胸に満つ。此の理へは諸事を忘れけり。然るに*二月中旬の比、余寒未だ残りて*籬の山の花時を過ぐす間、『数ならぬ命も花を待たば惜しきかな』と、上の空になる色を、妻女是を怪しみ、『如何なる誰に心を移して、花なき陰を吟じ、心を悩ますらん』と、妬みければ其の時俊恵法師は是非の返事に及ばず、一首詠じけり。

  あぢきなや花待ちかぬる思ひゆへ恋すと妹にうたがはれぬる

 此の歌を聞きて妻女嫉妬の怪しみを止めけるとかや。昔もかやうに疑はれし事の候へば、今更御*僻事(ひがごと)とも思ひ侍らず。但自(みづから)が郷国、筑紫大宰府なり。路数百里の険難を経、遼遠の境を隔て、幼少にて登山の後、未だ故郷へ帰り候はず。されば二親幷に兄弟の面影、*見に添ひければ、袖に余れる吾が涙、裹(つつ)みかねたる有様の、*穂に出でけるが糸薄、乱れ心に錦織る、*蘇恵も人を恋衣、さて会稽の*朱買臣、錦の袂を廻(かへ)せしは、*真守迄も羨ましく、*東平王の墳の松、故郷の方へ傾きぬ。*崇徳葬処の御烟、都の方に靡きけり。皆是生土を恋ふる思ひなり。吾が身の上と思ひ合はせて候ふ。」

 と曰ひければ、僧正此の旨聞き給ふ。

 「勝に禽獣の類さへ*胡馬北風に嘶(いば)ふ、越鳥南枝に巣くふなる。寒国の雁は暖国に啄むと。(めど、か?)春を待ち得て帰るなる、*華胥国の燕、南国に巣を作るとも、本国を忘れぬ様(ためし)あり。況や人倫に於いてをや。玉若殿の御有様、*辺雁行を乱して、腸(はらわた)を北嶺の雲に断つ。籠鳥友を忍びて思ひを宰府の月に焦がれ給ひ、かやうの御乱心にや。少し*狂気におましますも十分の御理、二親兄弟、古里の親類上下に至る迄、恋しと思し奉る、左様の積もりも候ふべし。

 其れ延喜の帝の御狂気は*天満天神無罪遠流の御祟り、冷泉院の狂気(もももけ)は*元方の民部卿の悪霊か。小野小町がなれる了(はてと読むか?)、深草の四位の少将が恨みなり。さて*魚籃馬郎婦は狂人の学をして、一切衆生を利益し、自身も得脱し給へリ。かやうの様(ためし)多ければ、玉若殿の御事も勝に憐れなる御事。」

 とて、僧正涙を流しけり。

(注)俊恵法師=平安時代歌人鴨長明の歌論書「無名抄」に見える。このエピソー

    ドの出典は未詳。出家以前の話か。

   二千里の外に心を遣はす=白氏文集に拠る。友人を思う心。

   二月中旬=二月十五日は釈迦入滅の日。

   籬の山=未詳。解釈が難しい。

   僻事=間違い。心得違い。

   身に添ひ・・・=このあたり七五調。謡曲っぽい。

   穂に出でける=人目につくようになる。表面に出る。「穂」が縁語となって「糸

    薄」に続き、「糸」が「乱れ」へと続く。

   蘇恵=五胡十六国時代前秦の女性詩人。夫が赴任の際に帯同していかなかった

    のを悲しんで840字の回文の詩を錦に織り込んで贈ったという。「錦字(恋

    文」の語源。

   朱買臣=前漢武帝時代の官僚。若いころは貧しく妻は愛想をつかし離縁したが、

    後出世して故郷に錦を飾った朱買臣を見て元妻は恥じて自殺してという。

   真守=原文「真」にサネのルビあり。「さねもり」と読むか。未詳。平安時代

    期の刀工に真守という人がいたらしいが。

   東平王=中世の紀行文、今井宗久の「都のつと」に東平王の塚の記述がある。宮

    城県岩沼市に東平王墓古墳という前方後円墳が現存する。唐人(帰化人)の東

    平王が故郷を恋いながらこの地で亡くなったとある。また「本朝文粋」巻3

    に、「東平王之思旧里也、墳上之風靡西、天門山之伝新名也、峡中之煙掃

    地。」とある。望郷の異国人として知られたようである。東平王が誰かは諸説

    あるらしい(百済王敬福大野東人)。中国で東平王と呼ばれた人物には、後

    漢の光武帝の子劉蒼、三国時代呉の孫権の孫、孫明皓の子(名字不明)などが

    いる。

   崇徳=崇徳院保元の乱で敗れ、讃岐に配流され没す。

   胡馬北風・・・=「文選」の古詩「胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう」に

    拠る。故郷は忘れ難いこと。

   華胥国=老子が夢に見たという理想郷。

   辺雁行を乱して=意味が取りづらい。漢詩に典拠があるのか。「雁行の乱れ」は

    後三年の役の時に八幡太郎義家が雁行が乱れたことで伏兵に気づいたという故

    事。あまり関係がない。菅原道真の詩に「秋思詩編独断腸」という句がある

    が、関係があるか?「北嶺」「断腸」「籠鳥」「宰府の月」などから大体の感

    じはつかめるが。

   狂気=玉若は僧正を「僻事」とまではいわないが見当外れだと言い、僧正は玉若

    を「狂気」だと言う。麗しい師弟関係とは思えないのだが。

   天満天神=菅原道真

   元方の民部卿藤原元方。娘祐姫の子広平親王が皇太子になれなかったことで、

    失望し悶死したといわれる。その後怨霊となって冷泉天皇を祟ったと噂され

    た。

   小野小町平安時代歌人深草の少将は小野小町の元に九十九夜通ったが恋は

    成就しなかった。後年落魄し野ざらしになったという伝説がある。

   魚籃馬郎婦=魚籃観音。また馬郎婦観音ともいう。中国唐の時代、魚を扱う美女

    がおり、観音経・金剛経法華経を暗誦する者を探し、めでたくこの3つの経典を暗

    誦する者と結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、法華経を広めるため

    に現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音魚籃観音)として信仰されるようになっ

    たという。(ウィキペディア)恋に狂った若者たちに結婚の条件としてお経を暗誦

    させ導いたらしい。醍醐天皇以下の例が狂気が祟りとなったものであるのに対し

    て、魚籃観音の例は美貌で若者をかどわかすように見えて、実は衆生を救済する方

    便だったという話で、狂気を肯定し、玉若の聖性を示すのものであろう。