religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)⑨ー稚児物語4ー

第九

 その後、比叡山全山で衆議があって、彼の葬送の地に一囲のお堂を建立し、玉若殿の肖像を据えて、三千人の大衆が千部の法華経を頓写(一日で書き写す事)して菩提を弔いなされました。

 ある時、花若殿が御影堂に参拝し御覧になると、いつしか人気のない庭の草は雨に滴り、一本の松は風に鳴っています。さびしげな堂舎を開いてご覧になると、大覚世尊釈迦牟尼仏、左右には文殊普賢の二菩薩がましまし、天井には四種の蓮華が降り、天人が姿を現し、天の鼓が自然と鳴っている風情が描かれ、四面の壁には四季の絵画が描かれています。東には春を描き、花明上苑 軽軒馳九陌塵 猿叫空山 斜月磨千岩砂(花上苑に明らかなり 軽軒九陌の塵に馳す 猿空山に叫ぶ 斜月千岩の砂を磨く)の風情です。南には夏を描き、苔生石面軽衣短 荷出池心小蓋疎(苔石面に生じて軽衣短し 荷池心より出でて小蓋疎なり)の風情、西には秋を描き、三五夜中新月色 二千里外故人情(三五夜中新月の色 二千里の外故人の情)の趣、北には冬を描き、暁入梁王苑雪満群山 夜登庾公楼月明千里(暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり 夜庾公の楼に登れば月千里に明らかなり)、といった趣を表しています。正面の左には一脚の卓子あります。綾の法被、錦せん(金偏に泉)、水引、金襴の打敷、宣旨、爾銅の三具足、紫銅双飾(もろかざり)、鍮鉐(ちゅうじゃく)、香匙、銀の火匙があり、また紅花緑葉の香合に、沈香を盛ります。夜に入ったので、青絹の行灯に一穂の灯をともします。花若殿は「香火一炉灯一盞 白頭夜礼仏名経(香火一炉灯一盞 白頭にして夜礼仏名経を礼す)」という詩句の心を思い出されたのでした。

 余りに名残りが尽きないので、その夜は玉若殿の仏前に向かって、一炉の香を焚きなさいます。すると昔の漢の李夫人が反魂香の煙に姿を現しなさったのを悲しみなさった武帝の思い、あるいは巫山の神女が夢で、「私は雲となり、雨となって立ち現れましょう。」と言ったのを、覚めた後でその面影を慕ひなさったという楚の襄王(懐王)の御涙も、今の我が身のの上のようだと思いなさるのでした。

 「『*漢皓避秦朝 望礙孤峰月 陶朱辞越暮 眼混五湖烟(漢皓秦を避けし朝、望み孤峰の月を礙⦅ささ⦆ふ。陶朱越を辞し暮、眼五湖の烟を混ず。)』と朗詠集にもある。

こうなったらこれをきっかけに、つらいこの世を遁れるにこしたことはないようだ。五帝の昔には、許由・巣父は、尭帝の寵を遁れて隠遁し、周の伯夷・叔斉は武王に仕えるのを拒否して首陽山で蕨しか食べずに命を絶った。漢朝の綺里季・夏黄公・東園公・甪里(ろくり)先生は高祖に仕えず商山の雲に下に隠れ住んだ。人はこれをを称して四皓と言った。顔駟は漢の文帝・景帝・武帝の三代の寵を得られなかったのを恨み(実際は武帝には重用された)、晋の阮籍阮咸・劉伶・向秀・稽康・山涛・王戎等は竹林に籠居して自ら七賢と名乗った。安石(謝安)は会稽山に起居し、商の伊尹は有莘野に逃れ、太公望は渭陽に釣糸を垂れ、諸葛孔明は隴畝(いなか)で耕作をし、魯仲連は海上へと去り、屈宋(屈原)は汨羅に身を沈め、甫里先生(陸亀蒙)は俗人の交わりを嫌い、五柳先生(陶淵明)は「帰去来の賦(辞)」を作り、姜肱は江海に浮かび、范蠡は湖水に掉さし、いずれも俗塵を遁れた。このような人々のようになりたいならば、山林に斗藪(仏道修行)してに閉じ籠もり、樹の下石の上に住みたいものだ。」

 とお思いになって、その夜はこの御堂で通夜して、ことさらに菩提を弔いなさるのでした。

原文

 其の後、満山衆議あり、彼の葬送の地に一囲の精舎を建立し、玉若殿の御影を居(す)ゑ、三千の大衆千部の法華妙典を頓写して、御菩提を弔ひ申され、(る。か)或る時、花若殿彼の御影堂に参り御覧ずれば、いつしか*寒庭の草は雨に滴り、一株の松は風に吟ず。ものあはれなる堂舎を開き御覧ずれば、大覚世尊、左右は普賢文珠の二菩薩、天井に*四種の花を雨(ふ)らし、天人影向し、*天鼓自然鳴の風情を書き、四方にはまた四季の画を書したり。東を春に司り、*花明上苑 軽軒馳九陌塵 猿叫空山 斜月磨千岩砂(花上苑に明らかなり 軽軒九陌の塵に馳す 猿空山に叫ぶ 斜月千岩の砂を磨く)、南を夏に司り、*苔生石面軽衣短 荷出池心小蓋疎(苔石面に生じて軽衣短し 荷池心より出でて小蓋疎なり)、西を秋に司り、*三五夜中新月色 二千里外故人情(三五夜中新月の色 二千里の外故人の情)、北を冬に司り、*暁入梁王苑雪満群山 夜登庾公楼月明千里(暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり 夜庾公の楼に登れば月千里に明らかなり)、と云ふ心を書きたり。正面の左には一脚の卓子あり。*綾の法被、錦せん(金偏に泉)、水引、金襴の打敷、宣旨、爾銅の三具足、紫銅双飾(もろかざり)、鍮鉐(ちゅうじゃく)、香匙、銀の火匙、また紅花緑葉の香合に、沈香を盛り、夜に入りければ、青絹の行灯に*一拄の灯あり。「*香火一炉灯一盞 白頭夜礼仏名経(香火一炉灯一盞 白頭にして夜礼仏名経を礼す)」と云ふ心を思し出だされたり。

 余りに名残りの尽きぬ儘に、其の夜は彼の仏前に迎(向か)ひ、一炉の香を焼き給へば、昔の漢の李夫人が反魂香の烟に形を現じけるを悲しみ給ふ漢の武帝の御思ひ、あるいは巫山の神女が雲となり、雨となりて夢の後に立ちし面影を慕ひ給ひし楚の襄王(懐王か)の御泪、今吾が身の上と思し出でたり。

 「『*漢皓避秦朝 望礙孤峰月 陶朱辞越暮 眼混五湖烟(漢皓秦を避けし朝、望み孤峰の月を礙⦅ささ⦆ふ。陶朱越を辞し暮、眼五湖の烟を混ず。)』とあり。所詮此の次に憂き事を遁れんにはしかざれば、五帝の昔、*許由・巣父、尭帝の寵を遁れ、周の伯夷・叔斉は命を首陽の蕨に絶つ。漢朝の綺里季・夏黄公・東園公・甪里(ろくり)先生は身を商山の雲に伴ふ。人是を称して四皓と云へり。顔駟は三代の寵を恨み、晋の阮籍阮咸・劉伶・向秀・稽康・山涛・王戎等竹林に籠居して自ら七賢と号せり。安石は会稽山に臥し、伊尹は有莘野に逃れ、公望は渭陽に釣し、孔明が隴畝に耕し、仲連海上に去り、屈宋汨羅に沈み、甫里先生俗人の交はりを嫌ひ、五柳先生帰去来の賦を作り、姜肱が江海に浮かび、范蠡が湖水に掉さす輩の如きは、山林斗藪に閉ぢ籠もり、樹下石上に住まばや。」

 と思し召しける間、其の夜は彼の御堂に通夜ありて、弥よ御菩提を吊(とぶら=弔の俗字)ひ給ふ。

(注)寒庭の草は・・・=「泣露千般草 吟風一葉松(寒山詩)」に拠るか。

   四種の花=四華。法華経が説かれた時、空から降ったという四種の蓮の花。

   天鼓自然鳴=天鼓(雷)が自然に鳴る事。鼓の音とともに天人が来迎する図。

   花明上苑・・・=「和漢朗詠集・花」が典拠か。晩唐の張読の詩句。

   苔生石面・・・=「和漢朗詠集・首夏」が典拠か。物部安興の詩句。

   三五夜中・・・=「和漢朗詠集・八月十五夜」が典拠か。白居易の詩句。

   暁入梁王・・・=「和漢朗詠集・雪」が典拠か。謝観の詩句。

   綾の法被=以下仏具・調度の類の描写。法被は椅子(卓子)にかける布。錦せん

    (金偏に泉)は不明、錦の毛氈か、水引は幕、打敷は敷物、宣旨は不明。仏像

    を安置する台座に宣字座があるが、それか。経巻か。爾銅はどのような銅かは

    不明だが三具足は華瓶・燭台・香炉、「古銅の三具足」「唐銅の三具足」など

    の用例がある。紫銅は青銅、双飾は左右対になる燭台と花瓶か、三具足とかぶ

    るが。鍮鉐は真鍮製の仏具であろう、花瓶か。香匙は香をすくい取る匙、火匙

    は香を香炉につぐ木製の柄のある匙。香合は蓋つきの香箱。

   一拄の灯=「一拄」という単位は未詳。「一柱」か。

   香火一炉・・・=「和漢朗詠集・仏名」が典拠か。白居易の詩句。

   漢皓避秦朝・・・=「和漢朗詠集・雲」が典拠か。大江以言の詩句。

   許由・・・=以下晩年または一時期隠棲した人物。顔駟は「蒙求和歌」に拠る

    か。安石は謝安の字、伊尹の話は「孟子・萬章章句上」に見える。公望は太公

    望呂尚、隴畝はうねとあぜ、田舎。仲連は魯仲連。屈宋は屈原と宋玉、楚の詩

    人。汨羅に沈んだのは屈原の方。甫里先生は陸亀蒙。五柳先生は陶淵明。姜肱

    は後漢の隠者。