第十一
文の途中ですが、話題が「鏡」に変わるので回を改めます。
(玉若の夢を花若が叡山の衆徒に語ったが、)
比叡山三塔の大衆は衆議して、「鏡を置くのは問題ないだろう。」と議定なされましたが、ある若い衆徒の中から、「舞の座敷に水鏡を置くのは危ないと思われます。影を映すのが目的ならば、本当の鏡を置かれた方がいいのではないでしょうか。」と発言したので、花若殿は言いました。
「おっしゃることはもっともなことですが、水鏡については典拠とする説がありそうです。まず鏡については西域天竺が発祥で、華厳経には十鏡一灯の説(一つの灯も十の鏡には十の映じ方がある。一つの真実も多様な観じ方がある、の意か。)を説きます。中国では、黄帝が西王母と会った時、王母が初めて十二面の鏡を鋳造して黄帝に与え、黄帝は月に一鏡づつ用いたといいます。また、堯の家臣で師の尹寿が用いたのが始めともいいます。秦の始皇帝の三尺鏡は人の五臓六腑を映して、善悪邪正、病気の有無を表し、始皇帝が崩じて後、同時になくなってしまったといいます。唐の代法善の鉄鏡も、臓腑を照らして病を治したといいます。流子が持っていた鏡は、流子が他人に嫁ぐ時、鶴となって飛び去ったといいます。唐の太宗皇帝は、銅の鏡で自分を顧み、古の鏡で世の興亡を鑑み、人(家臣の魏徴の諫言)を鏡として理世安楽の政治を遂げなさったといいます。永明禅師は「宗鏡録」を編纂し、神秀和尚は心を明鏡の台に喩えた偈を作りました。六祖慧能は論駁し明鏡を打破する詩を次韻で作りました。馬祖は師匠慧譲の行為によって瓦を磨いて鏡としたそうです。本朝の三種の神器も、内侍所(八咫鏡)は伊勢神宮にまします御鏡で、人皇第九代開化天皇まで帝と同じ皇居に安置なされていました。第十代崇神天皇が天照大神の霊威を畏れて、内侍所(御殿の名)とは別の神殿に移しなさいました。中比(さほど古くはない時代)から再び温明殿の内侍所に安置されました。六十二代村上天皇の文徳三年己未九月二十二日の内裏焼失の時は、神鏡は自ら南殿の桜の枝に飛び移りなさったといいます。その時、関白で小野宮殿の藤原実頼が礼拝黙祷して「我が袖に宿らせ給え。」と祈ったところ、鏡は左の袖に飛び移りなさったといいます。末代までもその霊威は際立っていることだと伝えられています。また建長寺開山の蘭渓道隆所持の鏡は入滅の後、禅師の威儀正しい姿をその鏡面に留めたといいます。それは観自在菩薩の相であったといいます。一山国師がそれを記録して、今も建長寺にあるといいます。また天人が影を映し、絶えず煙の立っているのは、武蔵野の堀兼の井です。このような鏡は各々別の鏡です。玉若殿が望んだのは、昔、正頼(せいらい)と呼ばれる鷹匠が、飛び去った鷹の池に姿を映しているのを見て気付いた話は、『野守の鏡』といって、玉若殿がはかなくなって生まれ変わった鷹を映すのには水鏡が本来でございましょう。」とおっしゃったので、水鏡を用いることに決められました。
原文
(玉若の夢を花若が叡山の衆徒に語ったが、)
三塔衆議して、「鏡安き事」と議定せらるる処に、或る若徒の中より、「舞の座敷に水鏡は殆く覚え候ふ。影を移(映)さるべき用ならば、真の鏡をや置かるべき。」とありければ、花若殿曰く、
「仰せはさる御事なれども、*鏡に就きて本説ありげに候ふ。先ず鏡は西域より事起こりて、華厳には*十鏡一灯を説き、震旦には*黄帝西王母と会せし時、王母始めて十二面の鏡を鋳て月を逐つて用うと云ふ。または堯の臣*尹寿、是を始むと云ふ。*秦の始皇の三尺鏡は五臓六腑を移(映)し、始皇崩じて後、同じく共に失せにき。唐の*代法善が銕(鉄の古字)鏡も、臓腑を照らし病を治す。*流子が持し鏡、他人と稼(とつ)ぐ時、鶴となりて飛び去りぬ。唐の*太宗皇帝は人を鏡として理世安楽の政を遂げ給ふ。*永明禅師は宗鏡録を集め、*神秀和尚は心を明鏡の台に喩ふ。六祖また明鏡を打破し、*馬祖は瓦子を鏡となす。吾が朝三所の神器、*内侍所は伊勢の宮居の御鏡、人皇第九代開化天皇まで同殿に住み給ふ。第十代崇神天皇霊威に恐み、別殿に移し給ふ。中比よりまた温明殿に安置せらる。六十二代村上天皇文徳三年己未九月二十二日大内焼失の時は、自ら南殿の桜の枝に飛び移り給ふ。其の時関白*小野宮殿実頼礼拝黙祷の時、左の袖に移り給ふ。末代迄も霊威*掲焉の御事なり。また*建長開山所持の鏡は入滅の後、禅師の*義(儀)貌を留む。即ち観自在の相なり。*一山国師其の記を作り、今に建長にあり。また天人影を移(映)し、絶えぬ烟の見えけるは、武蔵野*崛難(堀兼)の井。かやうの鏡は各々別の鏡、*正頼(せいらい)が古へはかなくなりし鷹の宿りしは*野守の鏡とて、鷹には水鏡が本にて候ふ。」と曰(のたま)ひければ、水鏡に定めけり。
(注)鏡に就きて=以下鏡について、和漢西域の故事を列挙する。
十鏡一灯=「華厳経」を説いた法蔵に「鏡灯の比喩」があるという。「華厳経・
菩薩明難品」には「明浄の鏡」の用例が二か所ある。
黄帝=黄帝が天から十二面の鏡を授かりひと月一面、十二か月一年用いたという
伝説がある。出典はわからないがWEB上で、「在会见了西王母之后铸造了十二
面镜子,每月一个换着用。据说这就是镜子的开始。」という表現を見つけた。
尹寿=「百度百科」によると帝堯の師らしい。鏡の故事は発見できなかった。
秦の始皇=「西京雑記」によると、秦の始皇帝の持つ鏡は人の善悪邪正、病気の
有無などを照らしたという。「秦鏡」という熟語がある。
代法善=未詳。
流子=未詳。
太宗=唐朝二世皇帝、李世民。「貞観政要」に「三鏡の教え」として、太宗は銅
鏡で自分を映し、古の鏡で世の興亡を映し、人の鏡で自分の行動の是非を映す
と心がけているという、名君の信条が述べられている。
永明禅師=五代十国時代の法眼宗の僧。「宗鏡録」はその主著。夢にかかわるエ
ピソードがあったのか。
神秀和尚・・・=神秀(禅宗北宗の六祖)。六祖(慧能、南宗として正統の六祖
とされた。兄弟弟子で、神秀が、「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫
染塵埃」という偈を作ると、慧能は、「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物
何処有塵埃」と論駁したという。次韻で同じ韻字を用いている。
馬祖=唐代の僧。「南岳磨甎」の熟語がある。馬祖が座禅をしていると師匠の慧
譲が、「何をしているのか。」と尋ねた。馬祖が、「仏になるために座禅をし
ています。」と答えると、慧譲は瓦を磨き始めて、「鏡にするのだ。」と言っ
たという。まるで、というかまさしく禅問答の話。
内侍所=三種の神器の神鏡。八咫鏡。宮中内侍所に安置されていたが崇神天皇の
時に天照大神を恐れて別所に移されたという。
小野宮殿実頼=藤原実頼。小野宮殿と呼ばれた。このあたりは、「平家物語・巻
十一・鏡」に類似の記述が見られる。
掲焉=著しいさま。
建長開山=蘭渓道隆。鎌倉中期の臨済宗の渡来僧。鏡のエピソードは「元亨釈
書」にある。
義貌=儀容。礼儀正しく堂々とした容貌。