religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について④ー

内容4

 一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

 公家の子弟は、白い水干を着るそうです。貫全は坊官ですが、坊官は公家相当ですけれども、妻帯の世襲ですから正式に公家といえるのでしょうか。それに対して武家の子弟は、侍法師相当の稚児ですが、長絹を着るようです。水干は首の辺りが横に輪っかのようになっているのに対して、長絹は輪っかがないので左右から重ねた三角状になっているのでしょうね。一目でわかります。ここはこだわりどころでしょう。見る人が見ればわかるのです。

 貫全が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉に与かったようです。その時は「空色(白色にこだわらず。か?)」で菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)を結花(普通は黒だが、)黒い糸ではなくその時に応じた色とりどりの糸でくくった鮮やかな衣装で、法師(中方以下の僧と思います)の肩に乗って行列に参加したようです。自分で歩く時は金剛草履だったようです。法師の肩に乗るとは、その年齢では歩くのもたどたどしいほどの幼児だったのでしょうか。

 なんとも派手な格好で供奉に加わった貫全さん。稚児の頃から御門跡のお気に入りだったようですね。陪膳がいなければ坂本(近江の坂本と京の坂本がありますが)まで呼び寄せたのもこのような関係からでしょうか。

 筆者と貫全はどのような関係でしょうか。筆者が貫全とごく親しい存在なのはわかりますが。貫全は梶井寺家の世襲になってから八代目(山内文庫本では代々)でしたね。その息子でしょうか。父の語ったことを書き留めたとも考えられます。しかし供奉の時法師に肩に乗った、などというリアルな描写は目撃しなければ書かない気がします。すると父とか兄なのかも。そうでなければ、かなり長い間付き合いのあった親しい人でしょう。あるいは本人かも。

 白水干の稚児ではないが、長絹を着ている侍法師の稚児とは扱いが違うよ、ちょっと上だよ、とのニュアンスが感じられます。

 その文脈の続きで、稚児の眉と御童子の眉の違いを述べます。眉毛を毛抜きで抜いてのっぺりさせてその上に眉を書く黛は、化粧の一つだったのでしょうが、階級を示す記号でもあったようです。

 児眉。上ニシンヲ立。末ニホフ。

 御童子眉。三日月ナリニ脇ニシンヲ立。両方ニホヒアリ

 「芯を立てる」とはどのような行為でしょうか。「匂い」というのは黛で眉を描いてぼかした部分のようです。眉毛を抜いて黛を引く習慣はどの階層の人までがしていたのでしょうか。中方の御童子も眉は作っているのですが、差をつけているのです。

 その次に堂衆について書かれます。根本中堂の長講は清僧で、

 「中方ナレドモ此職准上方弟子児ヲ持也。」

 とあります。この記述は二つの意味を含みます。先ず、中方は稚児を持たない事です。稚児を持つのは上方なのです。上方は稚児を訓育する立場です。その稚児がやがて上僧となって次の稚児を訓育します。それに対して中方は雑役として童子を使うのみです。稚児は持てません。次に、稚児・童子を持つのは清僧なのですね。堂衆は中方であっても重要な役割であって、清僧だから稚児を持てたのです。妻帯はそれを必要としません。上僧は清僧であるから血統の後継を待ちません。その代わり弟子として稚児を取り、その稚児が後継となっていきます。その過程で稚児が崇高な愛情の対象ともなっていったようです。(稚児灌頂などという秘事があるようですが、ここでは触れません。)

 次は執当について。貫全が務めていた職掌ですね。根本中堂では清僧が務めるようです。あれっ、貫全は妻帯ですね。

 本文では、

 一 執当。根本ハ清僧也。中古ヨリ以来妻帯ノユエニ。寒中三十三日暁垢離一ヲトリ。従正月朔至十五日修正。毎暁彼堂至内陳出仕也。此外妻帯不入内陳。言全ハ不修此行。貫全ハ。一生修此行也。

 とあります。中世以来、根本中堂の執当は清僧が務めることになっていたようで寺家家は寒中の早暁に、三十三日間水垢離をして身を清めてから、正月一日から十五日までの修正(修正会?正月の法会か?)の毎暁に中堂の内陣に出仕したと記述されます。このようにお清めをした執当以外の妻帯は内陣に入ることはできなかったようです。「言全」はこの行を修めなかったようです。当然中堂には入れなかったのでしょうね。貫全は(活字本では「貫マツタクは」と書かれています。「全」を「マツタク」とカタカナで書いたのは「貫全」を固有名詞と思わずに書写か翻刻したのでしょう。)ずっとこの厳しい寒垢離をしながら出仕していたのでしょう。ところで、この水垢離を放棄したヘタレな言全って誰?ヘタレは言い過ぎか。貫全が立派だったのでしょう。「全」という字がつくのだから貫全の一族っぽい感じです。この人が筆者かな?「言」のつく僧侶の名前ってあまり聞きません。

 一 下僧。下法師也。後ニ公人ニ成ル。公人ノ息モ。御童子ニナレバ。中方ト成ル。中方ノ息モ。児ニナレバ上方ト成ル。下法師モ三代目ニハ。上方ニ成ルトハ申セドモ。中方ニハ成レドモ。上方ニ成ル事ハ稀也。

 ここまで「蹇驢嘶餘」を漫然と読んできた感じですが、この部分を読んで「ああそうか。」と思った二十数年前が思い出されます。

 土谷恵氏は「中絵寺院の童と児」(史学雑誌101-12)という論文で稚児と童の関係について考察されました。そこでは、従来論じられてきた寺院児童に関する言説が持つ曖昧さ、不正確さの原因に貴族・房官・侍などの児童の帰属する階層性が明確に示されていない点を指摘して、それを明らかにしました。

 土谷氏は中世寺院の童たちの代表は、児・中童子・大童子であるとし、その房内での序列は児ー中童子ー大童子、法会などの行列の中では上童ー中童子ー大童子であることを論証します。さらに児にも貴族・房官・侍などの出自によって身分差・階層差があり主に房内の雑事を務めていた存在と見ています。

 中童子は法会の行列や持幡童など児と共通する役を務めることも多のですが、児とは出身階級を異にし、明確な身分差があったとします。

 大童子は御童子とも呼ばれ、中童子との違いは従来言われてきたような年齢による区別ではなく身分差であるとします。この下層にある大童子には出家の道は閉ざされ、生涯童形で過ごすこととなり、寺院での役務も多様であったと述べます。氏はこの大童子が中世寺院の童姿の代表であったとしています。

 「蹇驢嘶餘」は成立が室町末から戦国時代にかけてですので、中世寺院から多少制度が変わってきているかもしれませんが、土谷氏の指摘にかなっている記述です。氏も参照されているでしょうから当然かもしれませんが。

 ただ、ここでは下僧も三代後には上方になれる可能性がある、と書かれています。稀にはですが。いろいろな僧職・いろいろな童形が寺院にはいたようですが、おおざっぱに上・中・下に別けられていたようですね。

 土谷氏のいう、大童子という出家できない寺院関係者がいるのは、そうかとも思いますが、どちらかというと下僧にはなれても、童形のままの方が仕事がもらえるので童形にとどまったと考えた方がいいように思われます。

 今は「寺院における童形の研究」ってどうなっているのでしょうか。「文学」も「国文学」も「解釈と鑑賞」も、更には「言語」も「受験の国語」もなくなった今。

 そうそう、その二十年ほど前の頃、 

 「竉 南都ニ童子ヲ松コソ千代コソト云殿ノ字ヲ不云トコソト云也」(運歩色葉集) 

 「雑仕美女モシハ僧坊ノ中童子ヲナニコソトヨヘリ」         (名語記)

 なんて記述を見つけていました。稚児は「○○殿」と呼ばれていたのですね。それに対して、童子(南都の)・中童子は「○○こそ」と呼ばれていたみたいですね。「~こそ」は子供や女性を呼ぶ時の呼称です。性愛の対象だから女性を呼ぶように呼んだのかなあ、と思った記憶があります。

 その4はここまでにしましょう。 

 「蹇驢嘶餘」は まだまだ続くのですが、童形に関する記述はこの辺までです。その5で、貫全という人物や童形について考えてまとめとしたいと思います。

 

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について③ー

その3

 次いで梶井門跡について詳しく書かれています。門跡はその1,その2でも比叡山ヒエラルキーの最上位に位置付けられます。この門跡とは皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺家・院家で、山門(比叡山)では、円融(梶井)院(三千院とも)・青蓮院・妙法院がそれに当たります。

 一 梶井殿尭胤親王。東塔南谷円融房。御住山御登山已後。一生不被下山也。坊官五日ノ番オハリテ下山仕ル。次ノ番未登山衆徒ニハ。被居間敷由被仰。御膳不参也。執当貫全ヲ。坂本召ニ人ヲ下ス。夜半ノ時節登山。御膳ヲ進也。

 筆者の執筆時もしくはそのちょっと前の梶井門跡は尭胤親王のようです。東塔の南谷円融房が居所なのでしょうか。梶井殿は生前は院号がないそうで、「円融院」とか「梶井院」とかは言わないようで、入滅あるいは隠居後に院号は贈られるそうです。その尭胤親王ですが、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。その尭胤法親王のエピソードが記されています。尭胤親王は登山以後一生山を下りなかったようです。という事は没後に書いたのか、それとも現時点での話なのか・・・ある時、陪膳係の坊官が五日間の当番を終えて下山したのに次の当番がまだ上ってこなかった。しかし親王は衆徒に陪膳させて食べようとはしませんでした。衆徒は坊官よりワンランク落ち、侍法師と同等です。門跡の陪膳は坊官の役と決まっていたようです。そこで人をして麓の坂本にいた執当の貫全を呼び寄せ、貫全が夜半に登山してから御膳を召し上がったとか。貫全ってその1であれこれ語った人ですね。執当は三綱(上座・寺主・都維那)が輪番で務めたようです。坊官クラスです。これはどんな意味のお話なのでしょう。尭胤親王が気難しい方だった?そうではなくて、このような作法は厳格に守られるべきだ、との意味でしょうね。たとえ真夜中まで門跡がお預けを食っても。逆に現状そういうことがいい加減になっていたのでしょう。それともこれほどまでに貫全は親王のお気に入りだったよ、という自慢話なのでしょうか。応仁の乱が1467年~1477年。室町時代から戦国時代にかかろうという時です。筆者は仲のいい貫全とこのような事を語り合っていたのでしょうか。

 その次に梶井殿の御膳の食器について記されます。それは省略します・

 次に寺家について。

 一 猪熊ノ寺家。梶井ノ寺家。此一族多シ。ミナ山門ノ執当ニ任ズル家也。猪熊今ハ断絶。梶井寺家イニシヘハ清僧也。貫全マデ八代(貫全マデハ代々:山内文庫本)妻帯也。当門跡ニ随ナリ。但梶井殿家来也。

 この貫全は梶井寺家の者で、猪熊寺家とともに山門の執当に任ぜられる家だったようです。猪熊寺家は廃絶してしまったのですか、もともと清僧だった梶井寺家は貫全の八代前(山内文庫本では単に代々。漢数字の「八」かたかなの「ハ」は分かりづらいらいですね。)から妻帯し梶井門跡の家来だったようです。尭胤親王(当門跡)に随ってはいますが、梶井殿に来る親王がどのような皇族かは決まっていないで、親王の家来というのではなくて、梶井殿(円融院・三千院)に由来する一族なのですね。

 固有名詞はやっかいなもので、私はこの「寺家」を「院家」より寺格の落ちる寺を指す一般名詞だと思っていました。ところが、ここでの「寺家」はそうではなくて、「寺家」という姓のようです。「猪熊系の寺家さん、梶井系の寺家さんなど、寺家一族は結構いるよ、猪熊の寺家さんは断絶したけどね。」と解釈できてすっとしました。「地下家伝」という江戸時代後期の天保年間に成立した地下官人諸家の系図をまとめた書物があります。このご時世(コロナ禍)で図書館に行って調べるという事はできないのですが、ウィキペディアによると、「地下家の一覧」の諸門跡坊官等の項に、梶井宮(院ではないところは蹇驢嘶餘の院号を持たない、という記述と合っています。)坊官として、「寺家家」がありました。本姓(藤原氏とか源氏とか)を持たず、初叙は「法橋」で極位は「法印」とあります。確かに梶井門跡の「寺家」家があったのですね。以前出てきた「極」の意味も、その家柄での最高到達点と確認できました。本姓がないのは当然で、何代か前の清僧が妻帯して世襲になったからで、テキストとの齟齬はありません。寺家一族は、国文学研究資料館・電子資料館の地下家伝・芳賀人名辞典データベースで、江戸時代の「寺家養昌」「寺家養気」「寺家養忠」「寺家養仙」「寺家養敬」「寺家養恕」「寺家養正」が確認できます。貫全の子孫ですね、たぶん。

 ただ、姓の「寺家」なのか、格式としての「寺家」なのかはその時に応じて判断しなければなりません。

 本文では尭胤親王のエピソードの前に書かれていますが、門跡の御膳に御相伴することの記述があります。

 一 門跡御相伴。堂上殿上人マデ被罷出也。殿上人ノ膳ヲバ居事ハ。坊官ナリ。アグル事ハ。侍法師也。公卿ハ。アグル事モ坊官ナリ。院家ハ御相伴也。出世。坊官。御相伴ニ古来不出也。但シ可依家ノ流例。衆徒召使童子ヲ御門跡御寵愛アレバ。白衣中帯ノ体ニテ。御次ノ間マデ参。半身ヲ出シテ杯ヲ給。或被召迄也。後ハ臈次被乱也。

 この一節は面白いと思います。門跡が(多分梶井殿でしょうが。)御膳を召し上がる時には、公卿・殿上人は同伴できるのですね。院家は同伴できます。出世、坊官は同伴できないのですね。出世・坊官はクラスとしては殿上人レベルだと思うのですが、給仕はしても同席はできないのですね。ただし、流例(古くからの習慣)によってはOKの場合もあるようです。

 「居事」とはその場にいて陪膳することだと思いますが、坊官の務めです。先の(記述は後ですが)、坊官がいなくなったので貫全が来るまで膳に付かなかった尭胤親王の話と合致します。膳の上げ下げに関しては公卿は坊官がして、殿上人は侍法師がしてもいいような記述です。その方が効率的なのか、決め事なのか。たぶん後者なのでしょう。

 その後です。「衆徒」は中方です。「出世」「坊官」も同伴できない御膳ですが、衆徒の召し使う「童子」でも御門跡の「御寵愛」があれば、「白衣中帯」の姿で、次の間まで参上し、半身を出して杯を受けることができるのです。もしくは中に入ることが(召る)こともあるようです。「後ハ臈次被乱」はちょっとわかりずらい。「臈次」は、「物事の順序」の意味ですが、「後」が「それ以外」はなのか、「時代が下ると」なのかで解釈が違ってきます。まあ、でもその辺があいまいになっているもでしょう。

 衆徒が召し使う中童子でも(杯を受けるのだから幼児ではなく少年しょう。)門跡の御寵愛があれば、杯を受けたり仕候することができたようです。ただし、白衣中帯で。ということは、それ以上の存在(児・稚児)はもっときらびやかな格好で仕候していたのでしょうね。

 という事は、門跡クラスが稚児を寵愛していたのは自明のこととして、中方の御童子にもちょっかいを出していたと読めるのですが、深読みでしょうか。

 戦国時代であれば、大名たちが男色に何の罪悪感も持たないことに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが愕然としたという話が思い出されます。かなり昔に読んでの出どの文献に載っていたのでしょうかそれは思い出せません。

 思いがけず、梶井寺家について、その形がわかってきました。また、稚児や童子についても理解の手掛かりが見えてきました。

 その4では稚児と童子の違い、貫全とは誰だったのか、について読み進めます。

 

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について②ー

内容2

 右貫全話之。

 と書かれた続きを読みます。ここからは筆者自身の知識でしょうか。まず山王七社について言及します。上中下七社で合計二十一社あるのですが、その上七社についてです。

 次にその七座の公人(雑役)として中方(中間僧)では無職の衆徒、法会の時先達をする維那、男(俗人?)の鑰取(かいどり=鍵の管理者)、下法師の出納・庫主・政所・専当(執当の補助役)を列挙します。

 執当が輿の先導をする引きか、次に門跡の輿舁きについて述べます。八瀬童子が十二人の結いを単位として、その人数とか屋根なしの坂輿とか、細かい規定があります。牛車の場合は八瀬童子ではなく牛飼いを使います。輿とは人力の駕籠で、八瀬村の住民がその専門職だったみたいです。童子とはいっても大人ですから皆が常時童形をしていたかはわかりません。牛車を牽く牛飼いは、活字本では「菊童以下」となっていますが、山内文庫影印本では、菊に読めない字です。「ナントカ童」以下で、それは八瀬童子以下の身分だったのでしょう。

 次に地位の序列が書かれています。似たような序列が出てくるのは三回目ですが、貫全さんの言ではなく、筆者のまとめ直しでしょうか。

 一 ①三門跡。②脇門跡。③院家。④清僧出世院号権大僧都法印官位共ニ極ルナリ。御持仏堂ノ法事ヲ勤也。堂上の息。或ハ養子ナリ。妻帯坊官歯黒。坊号公名叙位不任官也。御門主ニ奉公給仕スル也。出世等輩也。不禁四足二足類。以下輩同ジ。児ノ時水干。同(妻帯)侍法師。同(歯黒)国名叙位不任官也。児ノ時長絹。坊号ヲモ付ナリ。⑦御承仕。名乗也。慶信慶光ナド云ナリ。御持仏堂事ヲ司也。荘厳ヲ仕。仏具ノ取沙汰アルナリ。幼時御童子也。国名ヲモ付。又名乗之外。金光。金祐。金党。真宗。真光。真党ト云付ナリ。⑧御格勤。同。⑨下僧。下法師也。浄衣肩絹袴。幼名必有異名。

 貫全の話とそれほど齟齬はなさそうですが、いくつかの情報が追加されています。御承仕は貫全の話だと「妻帯出家随意」となっていますが、この部分では妻帯にくくられています。

 出世は院号権大僧都・法印が官位共に極(きわめ)る、と読めます。そこが昇進の頂点でしょうか。それに対して、坊官は「公名叙位」は「不任官」なようです。よくわかりませんが、権大僧都とか法印(後に述べる地下家伝では江戸時代には法印が極位のようですが。)とかには任ぜられないのでしょう。でも出世と「等輩」なのですね。お歯黒をしていたようです。お歯黒はどのような社会的記号だったのでしょうか。江戸時代には成人女性もしくは既婚の女性を意味する記号であったようですが、それ以前には公家や武士の男性もしていたようです。わざわざ坊官でそれに触れているという事は多分清僧の出世はお歯黒をしていないのでしょう。四足(獣肉)二足(鳥肉)も禁じられていません。これでは俗人とあまり変わらないような気がしますが。侍法師も国号で呼ばれるようですが、坊号も付くようで、坊官に準じたポジションのようです。

 御承仕・御格勤は、坊官や侍法師とは位が異なるようです。「名乗也」と書かれていますが、「名乗」がよくわかりません。成人名として誰かに付けてもらったのでしょうか。自ら名乗ったのでしょうか。また名乗以外にも別の呼称があったようです。あくまでも印象ですが、名乗の「慶信」「慶光」よりも別名の「金光」「金祐」などの方が「金光丸」「金祐丸」といった呼び名として使えそうな気がします。かしこまった名前と、通称なのでしょうか。

 出自について注目してみましょう。出世は(そしてそれ以上は)清僧ですから世襲はありません。出自は堂上の公家ですね。養子もありというのがひっかかりますが、これぞと見込んだ優秀な子供は、身分が低くてもいったん公家の養子になるという形で出世になれたのかもしれません。坊官・侍法師は世襲が可能な人たちですね。これらの人は幼時は「児(稚児)」であったようです。ところが坊官になる稚児は「水干」を着ていて、侍法師になる稚児は「長絹」を着ている、とあります。同じ稚児姿でも用いる衣装が違ったようです。

 ところが、御承仕・御格勤は幼時は御童子なのです。児(稚児)とは表現されません。児と御童子は区別されます。ただ他の文書に見える「法会の時の童子」は身分というより役割なので事情は違います。また、固定化された身分としての児・童子ではなく本来の意味での「こども」として使われることもありますから、「児・童子」はその場に応じて解釈しないといけませんね。ここでは出自によってランクにはっきり差をつけているようです。さらに下僧となると御童子でもありません。「幼名必有異名」とは子供時代には別の名前で呼ばれていた、ということでしょう。「ナントカ丸」とは呼ばれていても御童子ではないのですね。

 子供だから誰でも「児(稚児)」、誰でも「童子」という訳ではなさそうです。そのような視点から「稚児物語」を読んでみると、別の側面が見えてきそうです。稚児は別格なのです。もう稚児というだけで扱われ方が格段に違います。稚児が僧を慕って寺を抜け出したり、よんどころなく旅をしたりしても、行く先々で懇ろに扱われます。

 次いで、法印・法眼、は大納言以上の子息が順序を経ないで直叙されること、妻帯僧も功績や家柄によって僧正・法印まで栄達する事、三綱・堂衆・公人・山徒法師ならびに中方妻帯衆は、獣肉鳥肉は食べてはいけないが魚は食べていいと書かれています。あれっ?さっき坊官以下の妻帯は肉食OKじゃなかったっけ?次に衆徒は清僧で、権大僧都・法印が極で僧正になることは稀だと、平民も徳によって任じられるそうで、東寺にその例が多いと書かれます。あちこち話が飛びます。随録とはそのようなものでしょう。

 その2はこの辺にしておきましょう。なんとなく比叡山の人的構成がわかってきた気がします。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について①ー

蹇驢嘶餘とは

 群書類従雑部45巻第490に「蹇驢嘶餘」という書籍が収められています。書中にある人名から室町末葉から戦国時代に入る頃の随録と推定されています。蹇驢とは足の萎えたロバ、嘶餘とは余計な嘶きとの事でしょう。「取るに足りない者のつぶやき」というへりくだった書名のようです。内容は僧職・服装・織物糸等について書かれ、個人的な備忘というより正しい知識を読む人に伝えようとしたもののようです。「愚かな私が書き残すこととですが、僧職やそれに応じた服装など誤りなきようお心得ください。」といったメッセージが込められているのかもしれません。作者は不祥ですが、比叡山関係者で上記の知識に造詣の深い方なのでしょう。梶井門跡と関係が深い方のようです。

 誤りを正す意図があったとすれば、当時にも従来のルールに反する服装や作法をしている者がいたということでしょう。特に身分序列を弁えずに不相応な振る舞いをする事への抵抗感が執筆動機の根底にあったのでしょうか。

 「稚児物語」に登場する稚児やそれに従う童子はある一定のイメージの元に描かれています。もちろん個々の物語で独自のキャラクターは発揮しますが、稚児で言えば眉目秀麗、仏法はもちろん詩歌管弦にも秀で、多くの者の羨望と時には権力者の嫉妬を受けます。意志の強さを見せる場合もありますが、基本はかなきか弱き存在です。扈従するのは中童子でしょうが、主君と乳母子のような関係です。このような物語中の関係性は現実社会を投影しているのだろうな、と思いながらある時、群書類従を繰っていると「蹇驢嘶餘」に稚児(児)眉のと御童子眉の違いを記す部分がありました。八の字眉の絵だから目立ったのですが。稚児について詳しく述べているのかなあと思って、丁寧に読んでみようと思いました。

 私は寺院制度や寺院文化の研究者ではありませんので、読んでいても今ひとつわからない所が多いのですが、どうも身分関係はかなり厳格で、その厳格さは童形(稚児・童子)についても同様らしいのです。もちろん厳格に守られていないから嘶いているのでしょうが。

 読んでみても、だから何?という事になるのかもしれませんが、とにかく読みます。

 本文は二十年以上前に複写した山梨大学国文学教室蔵の群書類従の活字本をテキストとしましたが、改めてパソコンで検索すると、国文学研究資料館の電子資料館の新日本古典籍データベースでは高知城歴博山内文庫の「蹇驢嘶餘」の写本が画像で見られるのですね。すごい時代になりました。影印本が自宅でただで見られるとは。これから先を読んでみたいと思う方は「蹇驢嘶餘 国文学研究資料館」で検索して本文を参照しながら見るといいと思います。活字本をテキストにしましたが、読み比べて山内文庫の方が適当と思われた所は、適宜改めました。

内容1

 本文は、一、・・・という形で箇条書きの様々なことが書き留められています。大きい見出し語のような部分と小さな字で大字一行分に二行で割り注のように書かれた部分があります。電子資料館でご覧ください。

 まず白河法皇の住居であった法勝寺住持の法衣について、聖道衣であったのが、後醍醐天皇が円観(本文では慈威和尚、諱恵鎮。でもウィキペディアでは円観が見出し語です。)に再興させた時から律衣となったようです。円観を戒師として後醍醐天皇が授戒して以来「紫衣御免」となったとあります。法勝寺は現在は廃寺ですが1535年(天文4年)には法要が行われていたようで、1590年(天正18年)に勅命によって西教寺に併合されて廃寺になったようなので、もう少しお寺が元気な時の記述なのでしょう。それとも廃寺同然に零落しつつある法勝寺が、人々に忘れ去られつつあるのに対して忘れちゃいけないよ、との意味で書き記したのでしょうか。住持の法衣にこだわっています。ランクは下から聖道衣・律衣・紫衣の順でしょう。紫衣は勅許がなければ着られない法衣(袈裟と言ってはいけないのかな)ですね。法勝寺は権威あるお寺です。

 次に叡山十六谷を、東塔・西塔・横川の順に列挙します。さらに別所として五寺を隠遁地として黒谷(法然上人ゆかり)安楽院(恵心僧都ゆかり)などを挙げてています。その割り注に「律衣」「黒衣」「黒衣ハリ衣」とあるのはそれぞれの住持の法衣のランクでしょうか。

 次は 、(a)出世以下の地位と(b)山門三門の門跡以下の序列を記します。

 (a)では

 一 ①出世。院号。公家。或公家養子。②坊官。坊号妻帯。③侍法師。国名妻帯。④御承仕。持仏堂ヲ司ル。妻帯出家随意。⑤御格勤。御膳ヲ調也。⑥下僧。下法師也。

 となっています。 高い順に列挙しているのでしょう。出世者は公家あるいはその養子で「ナントカ院」と呼ばれたみたいです。坊官は「ナントカ坊」と呼ばれたのですね。妻帯者みたいですね。出世と同位かそのちょっと下なのでしょうが、公然と妻帯していたのです。その下の侍法師も妻帯で「相模法師」とか「伊予法師」とか国名で呼ばれていたのでしょう。「松帆物語」という稚児物語に登場した伊予法師はこの侍法師のランクだったのでしょう。御承仕、御格勤は職掌ですが、承仕は出家僧でも妻帯でもどちらでもいいようです。③④⑤に身分差があるのかはわかりませんが、下僧の上にあるので中僧(中間法師)かと思います。侍法師は上僧かも。ところで妻帯の僧はどこに奥さんを住ませていたのでしょうね。さすがに山には置けないので夜な夜な山を下ったのでしょうか。親鸞聖人は叡山から百夜京都の六角堂に参籠したといいますが、その宗教的情熱に匹敵するくらいの情熱で妻帯したのでしょうか。

 (b)では、

 一 ①山門三門跡。②脇門跡。③院家。④出世清僧。⑤坊官。妻帯。同位或有諍。⑥侍法師。山徒。衆徒。同位也。

 となっています。出世と坊官は同位なのでしょうか。「諍」は活字本では「浄」なのですが、山内文庫の影印では「諍」になっていて、出世と坊官は身分は同じであるが仲が悪いととれます。

 身分の上下と妻帯か清僧かは留意すべき事だったようです。

 次に庁務(門跡家の坊官)、候人(門跡家の侍法師)について述べています。これも身分の違いを明らかにすることが主眼でしょう。上か中かそうでなくても微妙な違いがあったのでしょう。庁務と候人は違うぞ、という感じです。

 次は三綱について、三網とは寺院の雑務を処理する役職で、それは院家ではなくて、その下の出世・坊官などの寺家が多く務めるといいます。でもその下の中僧はなれないのでしょうね。

 「堂衆承仕中方ノナル」と続きます。中方(中僧)は三綱にはなれず、堂衆承仕までなのかな。下法師は役公人だそうです。これらはそれぞれの堂で任命していいようですが、三綱は補任(誰が任命するのでしょうか)だそうです。ちょっとわからない用語が出てきます。

 次いで張衣(はりぎぬ)について。「張衣」はつやのある布で仕立てた衣ですが、「晴れ着」に近いニュアンスでしょうか。門跡は香色(黄色味をおびた赤)の絹を着て、平人は布(絹以外のもの)を着ると書きます。

 更に、東塔西塔は事務長のような役を(多分)執行というが、横川では別当といい、名誉職として老僧が務めるが、実務役は若い衆徒が務めると書きます。衆徒は中僧でしょう。

 「右貫全語之」とあります。最初からここまでか、途中からかはわかりませんが、貫全から聞いたことだとあるのです。貫全さんは後で触れますが、筆者と親しい年長の方だと推察されます。二人の興味は身分やそれに伴う衣装など、今の叡山の衆徒の誤謬だったのではないでしょうか。(読み進めるとこの辺の認識がぶれてきますが。)

 童形についてさくっと読んでみようと思ったのですが、細かいところが気になってきます。思ったより長くなりそうです。何回かに分けて報告します。

稚児観音縁起 全編ー稚児物語1ー

 「稚児観音縁起」「稚児今参り」「花みつ」は、稚児が登場する物語ですが、稚児と僧侶の恋愛譚ではありません。ですから「リリジョンズラブ」というサブタイトルを付けるのは憚られますが、広義には「稚児物語」でしょう。しかし稚児のありようは窺い知れるものですので、サブタイトルを変えて現代語訳を試みて紹介することにします。私の関心は稚児と僧侶の恋愛よりもむしろ、中世寺院の稚児や童子の存在そのものだからです。もしくは稚児や童子がどのように描かれているか、あるいはどのようなイメージが付与されていたか、だからです。

 「稚児観音縁起」は鎌倉時代末期成立かといわれる、縁起・絵巻物です。話も短く物語的展開も見られませんが、「秋夜長物語」を頂点とする「稚児物語」の先駆をなすものといえるでしょう。すでに「漁屋無縁堂」というサイトで「稚児観音縁起絵巻詞書 原文と現代語訳+語注」をなされている方がいるので、そちらをご覧になれば十分どのようなものかはわかるでしょうが、私なりの訳や注を試みたいと思います。

 

  昔、我が日本国の、大和の国長谷寺のほど近くに、たいそうご立派な上人がいらっしゃった。止観の道場では一念三千の観想を怠らず、五相によって仏身を成じようと勤修の床の上で深く加持に努める事幾年にも及び、仏法修行の功を積んでいた。その齢は六十有余になっていたが、親しく我が身に仕え心安く世話をしてくれて、仏法の跡を継いで、己の後生菩提の徳果を祈ってくれるべき弟子はいなかった。

 上人は倩(つらつら)己の仏縁に恵まれないことを嘆いて、長谷寺の観音に三か年の月詣でを思い立った。「観音様、どうか現世で心安く給仕し、後世には仏法の跡を継がせることができるような弟子を一人お授けください。」と願を立てたのである。

 やがて三年の願は満ちたが、そのご利益は現れず、仏弟子は現れなかった。上人は観音様を恨めしく思いながらも、さらに三月参詣した。文字通りの三年三月の長きに亘ったのだが、全く霊験は現れなかった。その時にかの上人は、我が身の宿業を恨んで、

 「抑も、大聖観自在尊(観音様)は極楽浄土では阿弥陀如来を継ぐもので、補陀落世界では主である方だ。大きな慈悲心をもって菩薩にとどまって衆生を救おうとする願いは深いものである。であるから等しくすべてを救おうという誓願を、我が身一人だけ不公平に扱いなさることはありえないことでだろう。月は万水を選ばず照らすのだが、濁っている水には影を浮かべない。観音大悲の月輪は清明であるとはいっても、衆生の濁った心には影を宿しなさらない。私自身の力が及ばず罪障の雲が晴れないから救われないのだ。悲しいことよ。」

 と言って、その暁は泣く泣く家路へ向ったが、尾臥と申す山の麓を過ぎていた時、十三四歳ほどの紫の小袖に白い練貫の衣を重ね着して朽葉染の袴をはいた少年が優美なたたずまいで立っていた。月の光に照らされたその容貌は実に美しく、竹の簪を挿して元結で束ねて後ろ髪を長く垂らし、漢竹の横笛をゾクッとするほど魅力的に吹き鳴らしている。居待ち月の明け方の露に濡れそぼっているその姿は、春の柳が風に乱れている様子よりもなお嫋やかに見るのであった。

 この上人はこれを見て、「魔物が変じたのだろうか。とてもうつつの事とは思われない。」と思ったが、それでも近寄って少年に語りかけた。

 「もしお若き方よ、まだ夜も深くてございますのに、このような山野にたった一人佇んでおられるとは尋常ではなく思われます。そなたはどのような方でいらっしゃいますか。」

 すると少年は答えて、

 「私は、東大寺の辺りでとある院家にお仕えしていた者ですが、ここのところ少々師匠をお恨み申し上げることがあり、夜更けのうちに足に任せて寺を飛び出したのでございます。さて、あなた様はどこぞにお住まいの方でしょうか。僧徒の情というものはしかるべき事でございましょう。ああどうか私をお連れくださって、中童子としてでもよろしいから召し使ってはくださいませぬか。お願いいたします。」

 と申すので、この僧は喜んで言った。

 「そなたにもきっと深い子細があるのでしょう。細かい事情は今は聞かない事にしましょう。このまま私についてきなさい。」

 と自分の宿坊へ連れていったのである。

 上人は、一方ならず喜んでこの稚児を召し使い、日々を過ごしていたが、不思議にも稚児を捜し訪ねてくる者は誰もいなかった。この少年の振る舞いはことごとく上人の心にかなうばかりでなく、詩歌管弦にも並ぶ者ないほど優れていた。これはまさに観音様の御利益であろうと喜ぶうちに年月は流れていった。ところが三年が過ぎた春の暮、俄かにこの稚児が病に冒され苦しみだした。身体は日々に衰え、もはや万が一にも助かりそうもないほどに重篤となった。稚児は上人の膝を枕として、手に手を取り合って、顔に顔を近づけ今生の別れを惜しみ合う。稚児の遺言はまことに切ないものであった。

 「ああこの三年というもの、お上人様のお部屋に満ちるほどのご慈悲の内に日々を暮らし、褥に溢れるほどのご加護の下で夜々を明かし、朝夕に慈しみの教えを受けたことは、いずこに生まれ変わっても忘れる事はないでしょう。 老いも若きも命に定めはないというのが世の習いとは言いましても、もし私が生きながらえてお上人が先立たれましたならば、後々のご供養をも生きている限りはいたしたいと存じておりました。その思いも空しく違えて、先立ち申し上げる事は悲しい限りです。『師弟は三世の契り』と申します。後の世でもまた師弟としてお逢いいたしましょう。

 もしも、我が身が息絶え魂が去ってしまっても、墓所に埋葬しないでください。野辺で火葬の煙ともしないでください。そのまま棺の内に収めて、持仏堂に安置して五七日の法要が過ぎてから蓋を開けてご覧になってください。」

 と言いも終わらず息絶えてしまった。その魂は彼方へと立ち去って空しく墓原の露と消えなさったのである。

 その時の上人の心中はなんともやりきれない。鳥は死ぬ時はその声はや柔らかになるといい、人は別離の時はその言葉は哀切であるという。そうでなくても遺言の言葉だと思えば悲しいのに、このように来し方行く末の事を心を込めて何度も何度も言うので、その悲痛は胸に迫るものであった。

 愛別離苦の悲しみはどの人にもあるものだが、この上人の悲嘆は比類ないものであった。春の朝に花を見る人は散り別れるのを悲しみ、秋の暮に月を詠ずる客は陰る空を恨むごとく、美しいものを愛おしむのは世の常である。凡そ三年三月の間の長谷寺参詣の霊験と思われ最愛この上ない美しい稚児を得た。それが正に三年三月の間馴れ親しんだと思うと、突然の別れを迎えたのだ。そのお嘆きは至極道理であろう。月にも似た麗しい面影は、どこの雲に隠されたのか、花の如く可憐な粧いは、どんな風に散り去っていったのか。老少不定の涙が濡らす衣はいつになったら乾くであろうか。師弟別離のつらい思いはいずれの日にか止むのであろうか。傷ましいことよ、老いを負った者がこの世に留まり、いとけない者があの世へと去る。青い露草の花は散り紅い楓の葉が何事もないように残っているようなものである。僧正遍照の「すゑの露もとのしづくやよの中のをくれさくだつためしなるらん」の歌の心に通じている。

 さて、そのままにしておくわけにはいかないので、上人は泣く泣く稚児を棺に入れた。遺言のとおりに持仏堂に安置して仏事は怠りなく執り行われた。遠く近くの衆徒が集まって法華経一部十巻二十八品六万九千三百八十四文字をこの一日のうちに書写して納経して供養し、この稚児の菩提に手向けた。供養の説法が終わると、この上人は悲しみの思いがあまって棺の蓋を開けて稚児の姿をご覧になろうとする。すると室内には栴檀沈香の清らかな薫香立ち込めて、棺の中からはかつて蘭麝の艶めかしい香気を焚きしめた稚児が、その粧いを改めて、金色の十一面観音へと変じて現れたのである。

 青い蓮花の御眼は鮮やかで、丹い果実の唇は厳かな笑みを含み、迦陵頻伽のような美しい声を出して、上人に告げた。

 「我は現世の者ではない。普陀落世界の主、大聖観自在尊という、これが我が本身である。仮に縁ある衆生を済度しようと初瀬山の尾上(峰)の麓に住んでいたのだ。汝が多年の参詣の懇切さに感じ、我が三十三応身の中でも童男の姿に化身して、二世の契りを結ばせたのである。

 そなたをこれから七年後、中秋八月十五日には必ず汝を迎えに来よう。極楽の九品(くほん)の蓮台での再会を期せよ。」

 と言って、自ら黄金の光を放って電光のように虚空に上がり、紫の雲の中に隠れなさったのである。

 今に伝わる、興福寺の菩提院の稚児観音がこれである。この観音に契ろうと願って参詣し功徳を積む人は、観音様はそれがためにご利益を与えて、まさに童子の身となって顕現なさるのである。そのようなわけで近里・遠山の多くの衆徒が集って法華大乗(法華経)を書写したならば、観世音はその内証の功徳を顕して、忽ちに生身の体として姿を現し衆生を済度するのである。三世の諸仏がこの世に現れる真の目的と言うのは、今この大聖観自在尊が行ったこの内証のご功徳なのである。

原文

 昔、我が朝日本国、大和の国*長谷寺のほど近く、やごとなき上人まします。*止観の窓(の)中には*一念三千の観怠りなく、*五相成身の床の上▢▢▢*加持の*薫修年深く、仏法修行(の)功を積む、その齢六十有余なり。しかりといへども、現世心安く給仕を致し、仏法の跡を継ぎて、*後生菩提の徳果を祈るべき一人の弟子なかりけり。

 倩(つらつら)、*過去の宿縁の拙きことを嘆いて、長谷寺の観音に三年の間月詣でを企つ。「現世に心安く給仕し、後世には仏法の跡を継がしめむしかるべく弟子一人授け給へ。」と*祈精す。

 既に三年に満すれども、その*勝利一もなし。観音を恨みながら、また重ねて三月の間参りけり。既に*三年三月に満しけれども、さらに御示現なし。その時にかの上人、我が身の宿業を恨みて、

 「抑(そもそ)も、*大聖観自在尊は極楽浄土の*儲(まう)けの君、*普(補)陀落世界の主なり。*大悲闡提(だいひせんだい)の悲願これ深し。されば平等一子の誓願を、我が身一人に於いて*偏頗おはしまさじ。月は万水撰(えら)ばず照らせども、濁れる水に影を浮かべず。観音大悲の月輪は清明なりといへども、衆生の濁れる心に影を宿し給はず。力及ばず我が身の罪障の雲の晴れざるのみこそ悲しけれ。」

 とて、その暁泣く泣く家路へ下向する間、*尾臥の山と申す麓を過ぐる程に、

 

(注)長谷寺奈良県桜井市にある真言宗の寺。本尊は十一面観音。

   止観の窓=①「止観」は雑念を止めて一つの事に集中し、正しい智慧を起こし対

    象を観ること。天台宗が最も重視する実践法だが、②天台宗の異称でもある。

    「窓」は「学びの窓」というように、「建物」「道場」の意であろう。

     「止観窓前雖弄天真独朗之夜月(止観の道場の前で天真独朗の夜の月を愛で

    たとはいっても)」(太平記・巻八・山徒寄京都事)

   一念三千の観=止観①の意。

   五相成身=真言の行者が五段階の観行を修して仏身を得る事。

   加持=修法上の作法。加持が下に付く単語には、「自行加持」「護身加持」「三

    宝加持」「三密加持」などがある。

   薫修=仏道修行を積むこと。善行を積むこと。

   後生菩提=来世の極楽往生

   過去の宿縁=前世からの運命。

   祈精=祈請か。祈請は神仏に誓いを立ててその加護を祈る事。祈誓。

   勝利=すぐれた御利益。

   三年三月=ここでは実際の年月だが、長い年月のたとえにも言う。

   大聖観自在尊=観音の尊称。

   儲けの君=皇太子。観音は極楽浄土に於いて勢至菩薩とともに阿弥陀如来の脇侍

    として、阿弥陀にとってそのかわりとなりうる補処(ふしょ)の菩薩として最

    適であるで「儲けの君」と言ったのであろう。(日本大百科全書による)

   普陀落世界=インドの南海岸にあり観音が住むといわれる山。

   大悲闡提=大悲心をもって世に人のすべてを救おうとする菩薩。すべての人を救

    うことはできないから、いつまでも菩薩にとどまって成仏できない。

   偏頗=不公平。えこひいき。自分だけがひいきされて救われる事はないのだか

    ら、救われないのはすべて自分のせいであるという事。

   尾臥の山=未詳。後に出てくる「初瀬山の尾上」か。

 

 十三四計りなる少人の月の貌(かんばせ)まことに厳(いつくし)く、*紫の小袖に*白練貫を折り重ねて、*朽葉染の袴の優なるに、*漢竹の横笛心すごく吹き鳴らし、竹なる*簪(かんざし)し、*元結おしすべらかして、頃は*八月十八日の曙方に、露にしほれたる気色に見えて、春の柳の風に乱れたるよりもなほ嫋(たを)やかに見給へり。

 かの上人これを見て、「さらに現とも覚えず。*魔縁の変ずるか。」と思ひけれども近く立ち寄りて少人に問ひ奉るやう、

 「抑も未だ夜の深く候ふに、かかる山野にただ一人佇みおはする御事、ただ事ならず覚え候ふ。いかなる人にておはし候ふぞ。」

 と申すに、少人答へていはく、

 「童はこれ、*東大寺の辺りに候ひしが、聊(いささ)かこの程、師匠を恨み奉りて、*夜をこめて足に任せて罷り出でて候ふなり。抑も君は何(いか)なる所におはし候ふぞ。かつは僧徒の情は*さる事にてこそ候へ。あはれ具し連れおはして、*中童子にも召し仕はせ候へかし。頼み奉らばや。」

 と申されければ、かの僧悦びて申すやう、

 「さだめて子細おはすらむ。是非の子細をば暫く閣(おき)て、やがてお供申すべし。」

 とて我が宿坊へ相具して下向しけり。

 僧、なのめならず悦びて明かし暮らしけれども、かの少人行方を尋ぬる人もなし。上人心に違ふ事さらに侍らず。詩歌管弦にも並びなし。偏に観音の利生とのみ悦びて年月を送りけるほどに、三年と申す春の暮に、俄かにかの少人、*病悩を受けおはしけり。*四大日々に衰へて*万死一生になりし時、かの少人上人の膝を枕にし、手に手を取り組み、顔を顔に合はせて互ひに別れを惜しみ給ひけるに、遺言実に哀れに覚ゆ。

 「抑もこの三年がほど、慈悲の室の内に日を暮らし、*忍辱(にんにく)のふすまの下に夜を明かし、朝夕に慈訓を受けし事*何の生にか忘れむ。  設(たと)ひ老少不定の習ひなりとも、我が身ながらへて御身先立ち給はば、設ひ後の御孝養をも、我が身生きて申さばや、とこそ思ひ候ひつれ。思ひ空しく相違して、先立ち奉る事のみこそ悲しけれ。『*師匠は三世の契り』と申せば、後世にはまた逢ひ奉らむ。

 抑も、我が身息絶え魂去りなば、*竜門の土にも埋まず、野外の煙ともなさずして、棺の内に収めて、*持仏堂に置きて*五七日を過ぎて開けて見るべし。」

 と言ひも果てず息絶えぬ。魂去りて空しく*北芒の露と消え給へり。

(注)紫の小袖=小袖は下着。内着。「紫の袖」は立派な服装の意にも用いられる。

   白練貫=白く光沢のある絹の衣。

   朽葉色=赤みを帯びた黄色。

   漢竹=中国渡来の竹。笛に作り珍重した。

   心すごく=もの寂しく。またはぞっとするほど美しく。

   簪し=簪を挿す。

   元結おしすべらかして=垂髪にする。髪を後ろで束ねて背中に長く垂らす。

   八月十八日=中秋の名月の三日後。居待ち月ともいう。居待ち月は明るい月と認

    識される。

   魔縁=悪魔。魔王。

   東大寺=奈良にある華厳宗の寺。法相宗興福寺は近い。

   夜をこめて=まだ夜が明けない間に~する。

   さる事=そうあるはずの事。僧徒というものは当然情に厚いはずである、の意。

   中童子=寺院に仕える童形の少年。稚児(上童)が貴族・武家の出自で学問修行

    のために養育されるのに対して、出自は低く(妻帯の中間僧の家など)給仕・

    雑役に従事する者として扱われる。「中童子にも」という表現には、本来は稚

    児の身分ではあるが、中童子としてでもいいから、というニュアンスがある。

   病悩=病気による苦しみ。

   四大=地・水・火・風からなる身体。

   万死一生=①ほとんど助かるとは思えない状態。②またそれから脱する事。ここ

    では①。

   忍辱のふすま=忍辱は屈辱に耐え安らぎの心を持つこと。「忍辱の袈裟(ころ

    も)」は忍辱の心があらゆる外障から身を守る事をいう。ここでは上人が少人

    に、昼は慈悲の心を注ぎ、夜は忍辱の心で守ってくれた、という譬喩表現。

    「ふすま」は同衾(床を共にする事)を連想させる。

   何の生=どこに生まれ変わっても。

   老少不定=人間の寿命はわからないもので、老人が早く死に若者が遅く死ぬとは

    限らない事。

   師匠は三世の契り=師弟は三世の契りという。師弟関係は前世でも来世でも変わ

    らないという事。「主従は三世の契り」という言葉もある。ちなみに夫婦は二

    世の契り、結婚披露宴のスピーチで使われる。親子は一世の契り。

   竜門の土=白居易の「題故元少伊集詩」に「竜門原上土 埋骨不埋名(竜門原上

    の土、骨を埋むとも名を埋めず)」とある。これが名を後世に残す、の意の慣

    用句になった。ここでは土葬をしないでほしいとの意。

   持仏堂=持仏または祖先の位牌を安置しておく堂、あるいは部屋。仏間。

   五七日=三十五日。死後七日ごとに行う供養の五回目の日。死者の霊は七七(四

    十九)日中有にとどまってからあの世に行くという。

   北芒=洛陽市東北にある邙山。多くの王侯貴族が葬られた墓地。転じて墓地一般

    をさす。

 

 その時、上人の心中せむかたなし。*鳥は死すとてはその声や柔らかに、人は別るるとてはその詞(ことば)哀れなり。さらぬだに詞だにも遺言と思へば悲しきに、来し方行く末の事かきくどき申されけるに、いとど哀れも切なり。

 愛別離苦の悲しみは人毎(ひとごと)なれどもこの嘆きは例(ためし)少なき事どもなり。春の朝に花を見る人散り別るるを悲しみ、秋の暮に月を詠ずる客陰る空を恨む。凡そ*三年三月の間の長谷寺の参詣の験(しるし)と覚えて*最愛たぐひなし。三年三月のほど相馴れて、俄かに別れて嘆きしも理なり。月に似たりし面影、何(ど)の雲にか隠し、花の如くなりし粧ひ、いかなる風にか誘はれけむ。老少不定の涙の衫(さん)と何(いづれ)の時にか乾かむ。師弟別離の思ひ何の日か休(やす)まむ。哀れなるかなや、老いを負ひたるは留まり、幼(いとけな)きなるは去る。*青花の散り紅葉のつれなきにたぐふ。*本の雫末の露に相似たり。

 泣く泣く、さてあるべきにあらねば入棺す。遺言まかせて持仏堂に置きて仏事怠りなし。近里遠山の大衆集ひて、今この*法華経を一日の中に書き奉り、供養してかの菩提に廻向す。供養の*説法果てしかば、かの上人*思ひのあまりに棺の蓋を開きて見給へば、*栴檀沈香の異香あまねく室内に薫ず。昔の*蘭麝の粧ひを改めて、金色の十一面観音と現ず。

 *青蓮の御眼鮮やかに、*丹菓の唇厳(いつく)しくして咲(えみ)を含み、*迦陵の御音を出だして、上人に告げて曰く、

 「我これ*人間の者にはあらず。普陀落世界の主、大聖観自在尊と言ふ、我が身これなり。暫く*有縁の衆生を度せむがために*初瀬山の尾上の麓に*住み給へり。汝が多年の参詣懇切に思へば、我が*三十三応の中には童男の形を現じて、*契りを二世に結ばしむ。

 今七年といはむ、秋八月十五日には必ず汝が迎へに来るべし。再会を極楽の*九品(くほん)の蓮台に期すべし。」

 とて、光を放ちて電光のごとく虚空に上がり*紫雲の中に隠れ給ひき。

 今、奈良の*菩提院の児観音これなり。この観音に*契りをかけて参詣し、功を積む人、ために利益して、正しく童子の身を現じ給ふ。しかるに近里・遠山の大衆集ひて法華大乗を書写せしかば、*内証の功徳をあらはし、忽ちに生身の体を現じおはす。三世の諸仏の*出世の本懐とし給ふは、今この大聖観自在尊の内証のご功徳なり。

 

(注)鳥は・・・=「鳥之将死 其鳴也哀 人之将死 其言也善(鳥の将に死なんとす

    るやその鳴くこと哀し 人の将に死なんとするやその言うこと善し)」(論語 

    泰伯篇)によるのだろうが、原典の意味は踏まえていない。

   三年三月=八月十八日に出会って三年後の春の暮(三月)だから三年六か月にな

    る計算だが。

   最愛=①たいそう愛する事。②男女または夫婦が互いに親しみ睦む事。②のニュ

    アンスか。

   衫=衣。単衣の衣。

   青花=ツユクサ。若々しいツユクサが散るのに老いた紅葉が知らん顔して残って

    いる、の意。

   本の雫末の露=人の寿命は長短はあっても死ぬことに変わりはないこと。「すゑ

    の露もとのしづくやよの中のをくれさくだつためしなるらん」(古今和歌六

    帖)

   法華経=仏教の主要経典の一つ。特に天台宗日蓮宗では尊重される。一部十巻

    二十八品六万九千三百八十四文字。一日で書写し終えるには何人必要だろう

    か。

   説法=仏の教えを説くことだが、儀式化された法要であろう。

   思ひのあまり=三十五日経ってから蓋を開けよという遺言を破ったことになる。

   栴檀沈香=「栴檀」は白檀とも。香木。釈迦入滅の時栴檀を焚いて荼毘に付した

    という。「沈香」も香木。

   蘭麝=蘭の花と麝香の香り。よい匂い。美しい女性が袖や衣にたきしめる芳香の

    描写に用いられる。蘭麝の香りの美少年から栴檀沈香の香りの観音へと変じた

    のである。

   青蓮の御眼・丹菓の唇・迦陵の声=仏の目・口・声の形容。

   人間=「じんかん」と読む。人の住む世界。現世。世間。

   有縁=仏や菩薩などに会いその教えを聞く機縁のあること。

   初瀬山=長谷寺のある初瀬にある山。尾臥山もその一つか。

   住み給へり=自敬表現。

   三十三応=観音が衆生救済のために三十三の身に変ずる事。童男はその一つ。

   契りを二世=夫婦の契りを交わすこと。上人と少人の関係を二世の契りと表現し

    ているのである。純粋な師弟関係でない所が室町稚児物語に通ずる。(稚児観

    音縁起は鎌倉末成立と考えられている。)

   九品の蓮台=極楽浄土にある蓮の台(うてな)。

   紫雲=紫色のめでたい雲。仏がこれに乗って現れたり死者を迎えに来たりすると

    いう。

   菩提院=興福寺の子院。菩提院大御堂。本尊は重要文化財阿弥陀如来坐像、脇

    侍として稚児観音立像も秘仏として安置されているという。

   内証の功徳=外用の功徳(相好・光明などの外見に現れる功徳)に対して、四

    智・三身などの内面に潜む功徳。

   出世の本懐=仏がこの世に現れた本意。真の目的。観音が衆生に信心によってこ

    の世に姿を現し救済するという功徳は、全ての仏が願っている本当の目的であ

    るというのだろう。

   

稚児観音縁起③ー稚児物語1ー

その3

 その時の上人の心中はなんともやりきれない。鳥は死ぬ時はその声はや柔らかになるといい、人は別離の時はその言葉は哀切であるという。そうでなくても遺言の言葉だと思えば悲しいのに、このように来し方行く末の事を心を込めて何度も何度も言うので、その悲痛は胸に迫るものであった。

 愛別離苦の悲しみはどの人にもあるものだが、この上人の悲嘆は比類ないものであった。春の朝に花を見る人は散り別れるのを悲しみ、秋の暮に月を詠ずる客は陰る空を恨むごとく、美しいものを愛おしむのは世の常である。凡そ三年三月の間の長谷寺参詣の霊験と思われ最愛この上ない美しい稚児を得た。それが正に三年三月の間馴れ親しんだと思うと、突然の別れを迎えたのだ。そのお嘆きは至極道理であろう。月にも似た麗しい面影は、どこの雲に隠されたのか、花の如く可憐な粧いは、どんな風に散り去っていったのか。老少不定の涙が濡らす衣はいつになったら乾くであろうか。師弟別離のつらい思いはいずれの日にか止むのであろうか。傷ましいことよ、老いを負った者がこの世に留まり、いとけない者があの世へと去る。青い露草の花は散り紅い楓の葉が何事もないように残っているようなものである。僧正遍照の「すゑの露もとのしづくやよの中のをくれさくだつためしなるらん」の歌の心に通じている。

 そのままにしておくわけにはいかないので、上人は泣く泣く稚児を棺に入れた。遺言のとおりに持仏堂に安置して仏事は怠りなく執り行われた。遠く近くの衆徒が集まって法華経一部十巻二十八品六万九千三百八十四文字をこの一日のうちに書写して納経して供養し、この稚児の菩提に手向けた。供養の説法が終わると、この上人は悲しみの思いがあまって棺の蓋を開けて稚児の姿をご覧になろうとする。すると室内には栴檀沈香の清らかな薫香立ち込めて、棺の中からはかつて蘭麝の艶めかしい香気を焚きしめた稚児が、その粧いを改めて、金色の十一面観音へと変じて現れたのである。

 青い蓮花の御眼は鮮やかで、丹い果実の唇は厳かな笑みを含み、迦陵頻伽のような美しい声を出して、上人に告げた。

 「我は現世の者ではない。普陀落世界の主、大聖観自在尊という、これが我が本身である。仮に縁ある衆生を済度しようと初瀬山の尾上の麓に住んでいたのだ。汝が多年の参詣を懇切に思い、我が三十三応身の中でも童男の姿に化身して、二世の契りを結ばせたのである。

 そなたをこれから七年後、中秋八月十五日には必ず汝を迎えに来よう。極楽の九品(くほん)の蓮台での再会を期せよ。」

 と言って、自ら黄金の光を放って電光のように虚空に上がり、紫の雲の中に隠れなさったのである。

 今に伝わる、興福寺の菩提院の稚児観音がこれである。この観音に契ろうと願って参詣し功徳を積む人は、観音様はそれがためにご利益を与えて、まさに童子の身となって顕現なさるのである。そのようなわけで近里・遠山の多くの衆徒が集って法華大乗(法華経)を書写したならば、観世音はその内証の功徳を顕して、忽ちに生身の体として姿を現し衆生を済度するのである。三世の諸仏がこの世に現れる真の目的と言うのは、今この大聖観自在尊が行ったこの内証のご功徳なのである。

 原文

 その時、上人の心中せむかたなし。*鳥は死すとてはその声や柔らかに、人は別るるとてはその詞(ことば)哀れなり。さらぬだに詞だにも遺言と思へば悲しきに、来し方行く末の事かきくどき申されけるに、いとど哀れも切なり。

 愛別離苦の悲しみは人毎(ひとごと)なれどもこの嘆きは例(ためし)少なき事どもなり。春の朝に花を見る人散り別るるを悲しみ、秋の暮に月を詠ずる客陰る空を恨む。凡そ*三年三月の間の長谷寺の参詣の験(しるし)と覚えて*最愛たぐひなし。三年三月のほど相馴れて、俄かに別れて嘆きしも理なり。月に似たりし面影、何(ど)の雲にか隠し、花の如くなりし粧ひ、いかなる風にか誘はれけむ。*老少不定の涙の衫(さん)と何(いづれ)の時にか乾かむ。師弟別離の思ひ何の日か休まむ。哀れなるかなや、老いを負ひたるは留まり、幼(いとけな)きなるは去る。*青花の散り紅葉のつれなきにたぐふ。*本の雫末の露に相似たり。

 泣く泣く、さてあるべきにあらねば入棺す。遺言まかせて持仏堂に置きて仏事怠りなし。近里遠山の大衆集ひて、今この*法華経を一日の中に書き奉り、供養してかの菩提に廻向す。供養の*説法果てしかば、かの上人*思ひのあまり棺の蓋を開きて見給へば、*栴檀沈香の異香あまねく室内に薫ず。昔の*蘭麝の粧ひを改めて、金色の十一面観音と現ず。

 *青蓮の御眼鮮やかに、*丹果の唇厳(いつく)しくして咲(えみ)を含み、*迦陵の声を出だして、上人に告げて曰く、

 「我これ*人間の者にはあらず。普陀落世界の主、大聖観自在尊と言ふ、我が身これなり。暫く*有縁の衆生を度せむがために*初瀬山の尾上の麓に*住み給へり。汝が多年の参詣懇切に思へば、我が*三十三応の中には童男の形を現じて、*契りを二世に結ばしむ。

 今七年といはむ、秋八月十五日には必ず汝が迎へに来るべし。再会を極楽の*九品(くほん)の蓮台に期すべし。」

 とて、光を放ちて電光のごとく虚空に上がり紫雲の中に隠れ給ひき。

 今、奈良の*菩提院の児観音これなり。この観音に*契りをかけて参詣し、功を積む人、ために利益して、正しく童子の身を現じ給ふ。しかるに近里・遠山の大衆集ひて法華大乗を書写せしかば、*内証の功徳をあらはし、忽ちに生身の体を現じおはす。三世の諸仏の*出世の本懐とし給ふは、今この大聖観自在尊の内証のご功徳なり。

 

(注)鳥は・・・=「鳥之将死 其鳴也哀 人之将死 其言也善(鳥の将に死なんとす

    るやその鳴くこと哀し 人の将に死なんとするやその言うこと善し)」(論語 

    泰伯篇)によるのだろうが、原典の意味は踏まえていない。

   三年三月=八月十八日に出会って三年後の春の暮(三月)だから三年六か月にな

    る計算だが。

   最愛=①たいそう愛する事。②男女または夫婦が互いに親しみ睦む事。②のニュ

    アンスか。

   老少不定=人間の寿命はわからないもので、老人が早く死に若者が遅く死ぬとは

    限らない事。

   衫=衣。単衣の衣。

   青花=ツユクサ。若々しいツユクサが散るのに老いた紅葉が知らん顔して残って

    いる、の意。

   本の雫末の露=人の寿命は長短はあっても死ぬことに変わりはないこと。「すゑ

    の露もとのしづくやよの中のをくれさくだつためしなるらん」(古今和歌六

    帖)

   法華経=仏教の主要経典の一つ。特に天台宗日蓮宗では尊重される。一部十巻

    二十八品六万九千三百八十四文字。一日で書写し終えるには何人必要だろう

    か。

   説法=仏の教えを説くことだが、儀式化された法要であろう。

   思ひのあまり=三十五日経ってから蓋を開けよという遺言を破ったことになる。

   栴檀沈香=「栴檀」は白檀とも。香木。釈迦入滅の時栴檀を焚いて荼毘に付した

    という。「沈香」も香木。

   蘭麝=蘭の花と麝香の香り。よい匂い。美しい女性が袖や衣にたきしめる芳香の

    描写に用いられる。蘭麝の香りの美少年から栴檀沈香の香りの観音へと変じた

    のである。

   青蓮の御眼・丹果の唇・迦陵の声=仏の目・口・声の形容。

   人間=「じんかん」と読む。人の住む世界。現世。世間。

   有縁=仏や菩薩などに会いその教えを聞く機縁のあること。

   初瀬山=長谷寺のある初瀬にある山。尾臥山もその一つか。

   住み給へり=自敬表現。

   三十三応=観音が衆生救済のために三十三の身に変ずる事。童男はその一つ。

   契りを二世=夫婦の契りを交わすこと。上人と少人の関係を二世の契りと表現し

    ているのである。純粋な師弟関係でない所が室町稚児物語に通ずる。(稚児観

    音縁起は鎌倉末成立と考えられている。)

   九品の蓮台=極楽浄土にある蓮の台(うてな)。

   紫雲=紫色のめでたい雲。仏がこれに乗って現れたり死者を迎えに来たりすると

    いう。

   菩提院=興福寺の子院。菩提院大御堂。本尊は重要文化財阿弥陀如来坐像、脇

    侍として稚児観音立像も安置されているという。

   内証の功徳=外用の功徳(相好・光明などの外見に現れる功徳)に対して、四

    智・三身などの内面に潜む功徳。

   出世の本懐=仏がこの世に現れた本意。真の目的。観音が衆生に信心によってこ

    の世に姿を現し救済するという功徳は、全ての仏が願っている本当の目的であ

    るというのだろう。

   

稚児観音縁起②ー稚児物語1ー

その2

 十三四歳ほどの紫の小袖に白い練貫の衣を重ね着して朽葉染の袴をはいた少年が優美なたたずまいで立っていた。月の光に照らされたその容貌は実に美しく、竹の簪を挿して元結で束ねて後ろ髪を長く垂らし、漢竹の横笛をゾクッとするほど魅力的に吹き鳴らしている。居待ち月の明け方の露に濡れそぼっているその姿は、春の柳が風に乱れている様子よりもなお嫋やかに見るのであった。

 この上人はこれを見て、「魔物が変じたのだろうか。とてもうつつの事とは思われない。」と思ったが、それでも近寄って少年に語りかけた。

 「もしお若き方よ、まだ夜も深くてございますのに、このような山野にたった一人佇んでおられるとは尋常ではなく思われます。そなたはどのような方でいらっしゃいますか。」

 すると少年は答えて、

 「私は、東大寺の辺りでとある院家にお仕えしていた者ですが、ここのところ少々師匠をお恨み申し上げることがあり、夜更けのうちに足に任せて寺を飛び出したのでございます。さて、あなた様はどこぞにお住まいの方でしょうか。僧徒の情というものはしかるべき事でございましょう。ああどうか私をお連れくださって、中童子としてでもよろしいから召し使ってはくださいませぬか。お願いいたします。」

 と申すので、この僧は喜んで言った。

 「そなたにもきっと深い子細があるのでしょう。細かい事情は今は聞かない事にしましょう。このまま私についてきなさい。」

 と自分の宿坊へ連れて行ったのである。

 上人は、一方ならず喜んでこの稚児を召し使い、日々を過ごしていたが、不思議にも稚児を捜し訪ねてくる者は誰もいなかった。この少年の振る舞いはことごとく上人の心にかなうばかりでなく、詩歌管弦にも並ぶ者ないほど優れていた。これはまさに観音様の御利益であろうと喜ぶうちに年月は流れていった。ところが三年が過ぎた春の暮、俄かにこの稚児が病に冒され苦しみだした。身体は日々に衰え、もはや万が一にも助かりそうもないほどに重篤となった。この稚児は上人の膝を枕として、手に手を取り合って、顔に顔を近づけ今生の別れを惜しみ合う。稚児の遺言はまことに切ないものであった。

 「ああこの三年というもの、お上人様のお部屋に満ちるほどのご慈悲の内に日々を暮らし、褥に溢れるほどのご加護の下で夜々明かし、朝夕に慈しみの教えを受けたことは、いずこに生まれ変わっても忘れる事はないでしょう。 老いも若きも命に定めはないというのが世の習いとは言いましても、もし私が生きながらえてお上人が先立たれましたならば、後々のご供養をも生きている限りはいたしたいと存じておりました。その思いも空しく違えて、先立ち申し上げる事は悲しい限りです。『師弟は三世の契り』と申します。後の世でもまた師弟としてお逢いいたしましょう。

 もしも、我が身が息絶え魂が去ってしまっても、墓所に埋葬しないでください。野辺で火葬の煙ともしないでください。そのまま棺の内に収めて、持仏堂に安置して五七日の法要が過ぎてから蓋を開けてご覧になってください。」

 と言ひも終わらず息絶えてしまった。その魂は彼方へと立ち去りて空しく墓原の露と消えなさったのである。

原文

 十三四計りなる少人の月の貌(かんばせ)まことに厳(いつくし)く、*紫の小袖に*白練貫を折り重ねて、*朽葉染の袴の優なるに、*漢竹の横笛心すごく吹き鳴らし、竹なる*簪(かんざし)し、*元結おしすべらかして、頃は*八月十八日の曙方に、露にしほれたる気色に見えて、春の柳の風に乱れたるよりもなほ嫋(たを)やかに見給へり。

 かの上人これを見て、「さらに現とも覚えず。*魔縁の変ずるか。」と思ひけれども近く立ち寄りて少人に問ひ奉るやう、

 「抑も未だ夜の深く候ふに、かかる山野にただ一人佇みおはする御事、ただ事ならず覚え候ふ。いかなる人にておはし候ふぞ。」

 と申すに、少人答へていはく、

 「童はこれ、*東大寺の辺りに候ひしが、聊(いささ)かこの程、師匠を恨み奉りて、*夜をこめて足に任せて罷り出でて候ふなり。抑も君は何(いか)なる所におはし候ふぞ。かつは僧徒の情はさる事にてこそ候へ。あはれ具し連れおはして、*中童子にも召し仕はせ候へかし。頼み奉らばや。」

 と申されければ、かの僧悦びて申すやう、

 「さだめて子細おはすらむ。是非の子細をば暫く閣(おき)て、やがてお供申すべし。」

 とて我が宿坊へ相具して下向しけり。

 僧、なのめならず悦びて明かし暮らしけれども、かの少人行方を尋ぬる人もなし。上人心に違ふ事さらに侍らず。詩歌管弦にも並びなし。偏に観音の利生とのみ悦びて年月を送りけるほどに、三年と申す春の暮に、俄かにかの少人、*病悩を受けおはしけり。*四大日々に衰へて*万死一生になりし時、かの少人上人の膝を枕にし、手に手を取り組み、顔を顔に合はせて互ひに別れを惜しみ給ひけるに、遺言実に哀れに覚ゆ。

 「抑もこの三年がほど、慈悲の室の内に日を暮らし、*忍辱(にんにく)のふすまの下に夜を明かし、朝夕に慈訓を受けし事*何の生にか忘れむ。  設(たと)ひ老少不定の習ひなりとも、我が身ながらへて御身先立ち給はば、設ひ後の御孝養をも、我が身生きて申さばや、とこそ思ひ候ひつれ。思ひ空しく相違して、先立ち奉る事のみこそ悲しけれ。『*師匠は三世の契り』と申せば、後世にはまた逢ひ奉らむ。

 抑も、我が身息絶え魂去りなば、*竜門の土にも埋まず、野外の煙ともなさずして、棺の内に収めて、*持仏堂に置きて*五七日を過ぎて開けて見るべし。」

 と言ひも果てず息絶えぬ。魂去りて空しく*北芒の露と消え給へり。

(注)紫の小袖=小袖は下着。内着。「紫の袖」は立派な服装の意にも用いられる。

   白練貫=白く光沢のある絹の衣。

   朽葉色=赤みを帯びた黄色。

   漢竹=中国渡来の竹。笛に作り珍重した。

   心すごく=もの寂しく。またはぞっとするほど美しく。

   簪し=簪を挿す。

   元結おしすべらかして=垂髪にする。髪を後ろで束ねて背中に長く垂らす。

   八月十八日=中秋の名月の三日後。居待ち月ともいう。居待ち月は明るい月と認

    識される。

   魔縁=悪魔。魔王。

   東大寺=奈良にある華厳宗の寺。法相宗興福寺は近い。

   夜をこめて=まだ夜が明けない間に~する。

   中童子=寺院に仕える童形の少年。稚児(上童)が貴族・武家の出自で学問修行

    のために養育されるのに対して、給仕・雑役に従事する者として扱われる。

    「中童子にも」という表現には、本来は稚児の身分ではあるが、中童子として

    でもいいから、というニュアンスがある。

   病悩=病気による苦しみ。

   四大=地・水・火・風からなる身体。

   万死一生=①ほとんど助かるとは思えない状態。②またそれから脱する事。ここ

    では①。

   忍辱のふすま=忍辱は屈辱に耐え安らぎの心を持つこと。「忍辱の袈裟(ころ

    も)」は忍辱の心があらゆる外障から身を守る事をいう。ここでは上人が少人

    に、昼は慈悲の心を注ぎ、夜は忍辱の心で守ってくれた、という譬喩表現。

    「ふすま」は同衾(床を共にする事)を連想させる。

   何の生=どこに生まれ変わっても。

   師匠は三世の契り=師弟は三世の契りという。師弟関係は前世でも来世でも変わ

    らないという事。「主従は三世の契り」という言葉もある。ちなみに夫婦は二

    世の契り、結婚披露宴のスピーチで使われる。親子は一世の契り。

   竜門の土=白居易の「題故元少伊集詩」に「竜門原上土 埋骨不埋名(竜門原上

    の土、骨を埋むとも名を埋めず)」とある。これが名を後世に残す、の意の慣

    用句になった。ここでは土葬をしないでほしいとの意。

   持仏堂=持仏または祖先の位牌を安置しておく堂、あるいは部屋。仏間。

   五七日=三十五日。死後七日ごとに行う供養の五回目の日。死者の霊は七七(四

    十九)日中有にとどまってからあの世に行くという。

   北芒=洛陽市東北にある邙山。多くの王侯貴族が葬られた墓地。転じて墓地一般

    をさす。