religionsloveの日記

室町物語です。

富士の人穴の草子 全編 -異郷譚4ー

 「異郷譚」の四番目に取り上げるのは「富士の人穴草子」です。前半は異郷譚っぽいのですが、後半は地獄めぐりの様相です。地獄は異郷とはいえませんね。刊本写本も多く有名な話なので紹介するまでもないのかもしれませんが、お付き合いください。

 原文は「室町物語大成 富士の人穴の草子 346」を漢字や仮名遣いを適宜改めて載せました。「大成」の「富士の人穴草子 347」(以下347と略します)「富士の人穴 474」(以下474と略します)、信州大学小谷コレクションの「富士の人穴草子(三種)」(以下小谷と略します)を参照しました。

その1

 頃は正治三(1201)年卯月三日、辰の刻に二代将軍左衛門督源頼家殿は、和田平太胤長を召して、「これ平太よ聞きなさい。音に聞く富士の人穴といってもその内部は誰も見たことがないという。どんな不思議な世界があるのだろうか。探検して参れ。」とおっしゃいました。胤長は畏まって、「承りました。天を翔ける翼、地を走る獣を取って参れとの御命令でございますならば、たやすい事でございますが、この富士の人穴はどのようにしたら入られましょうか。しかし、御命令に背いたとあれば天の恐れとなりましょう。二つとない命ですが主君に差し上げましょう。」と申し上げました。

 胤長は御前を罷り立ってすぐに伯父の義盛の御前に参り、「胤長はよにも不思議なる御命令を君より承りました。」と申します。義盛が何事ぞとおっしゃいますと、「それです、富士の人穴を探検して参れとの御命令でございまして、その人穴へ入りましたならば、この深沢へ再び帰る事ができるかはわかりません。ですから人々との対面も今日を限りでございましょう。みなみな後の世でお目にかかりましょう。」と申して心細げに暇乞いをいたします。義盛は涙を流しなさって、「幼けなきより膝の上で育てた胤長ゆえ殊に不憫とは思うが、公儀とならばいたしかたない。功名を上げてとくとく帰りなさい。」とおっしゃったので、平太は涙ぐんで立とうとします。

 ここに居合わせた朝比奈三郎義秀はこれを見て、泥丸(でいまる)という太刀を取り寄せて鍔元をニ三寸引き出し、平太をはったと睨んで、「吾殿の有様の見苦しさよ。日本国の侍が見る前で泣き顔を見せるとは未練がましいぞ。こんな者を一門の中に置いては、みんなが臆病になってしまうわい。そんなに恐ろしいなら首を差し出しなさい。打ち首にしよう。」と言ったので、これを聞いて、「某(それがし)は臆病ではございません。竜の住む世界、岩盤石、虎が臥す野辺であっても、一度二度とうち破って人穴へ入ろうと思っています。決して不覚を取る事はありません。」と言って朝比奈殿に暇乞いをして立ったのでした。朝比奈はこれを見て笑いながら、「いや、殿輩よ、『走る馬にも鞭を打つ』とか『血潮に染まる紅も、生地を紅に染めればより色を増す』という諺もござる。義秀も連れていってほしいとは思うけれども、一人指命されたことゆえいたしかたない。必ず功名を遂げて、一門の名を上げなされ。」と暇乞いのをしてとどまったのでした。

 平太のその日の装束はいつにもまして華やかでした。肌着には帷子を脇深く解いて、その上には段金(どんきん)の小袖を着て、霞流しの直垂は両の袂を結んで肩に懸け、烏帽子を強く結んで、両方の括りを結わえて、銀の胴金を施した一尺七寸の刀に、畳んだ扇を差し添えて、赤銅造りで練鍔(ねりつば)の太刀の二振りを提げて佩いて、松明十六丁を手下に持たせ、七日と申す時には帰りましょうと言って、岩屋の内に入りました。諸人はこれを見て、「弓取りの身ほどつらいものはないなあ。」と言ってみな涙を流しました。

 さて、平太が人穴へ入って一町ほど行って見れば、口が朱を差したように真っ赤な蛇が簀の子を描くようのとぐろを巻いています。主命なのでしかたなく飛び越え飛び越え五町ほど行ってみると、生臭い風が吹きます。恐ろしいことこの上ありません。それを行き過ぎてみると、年の頃十七八ばかりの女房が、十二単を重ねて着て、紅の袴をまとって、三十二相を具足しているような美人で、簪は蝉の羽を並べて、する墨を流したように繊細で美しい様子です。白金の踏板に黄金の杼を持って機を織っていらっしゃいましたが、迦陵頻ののような美しい声で、「何者が私の住む所へ来たのですか。」とおっしゃって平太の前へ出てきました。平太は畏まって、「私は鎌倉殿の御使いで、三浦の一門和田の平太胤長と申す者でございます。」と申し上げると、その女房は、「何者が使いであっても通すことはできません。無理に通ろうとしたならば、すぐさま命を奪いましょう。おまえは今年十八になると思うのですが、三十一という春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡と戦って討たれるはずです。早々に帰りなさい。」とおっしゃいますので、平太は、「いかに頼家殿が日本を支配しているといっても、命があればこそ所領もいただけるというものだ。愚かな事をするものではない。」と思い、岩屋の奥を見ないのは無念極まりなかったのですが、この女房の仰せに従って、仕方なく帰参したのでした。

その2

 さて、和田胤長は頼家殿の御前に参って、岩屋のいきさつをこれこれと申し上げました。頼家殿はお聞ききになって、岩屋の奥の有様を見届けなかった事が、気がかりでならず、重ねておっしゃいます。「領主のいない所領が四百町ある。誰でもよい、所領を望む者がいるならば人穴へ入って探検して参れ。」と。諸国の侍たちは口々に、「命があってこそ所領もほしいだろうが、死して後にはどうにもならない。」と言って、入ろういう人は誰もいません。

 このような折、伊豆の国の住人、新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、藤原鎌足の大臣の十二代の後裔、しろつみの中納言には十三代、この新田の四郎忠綱は、「私が持っている所領は千六百町である。かの四百町の所領を賜って、二千町にして我が子のまつぼう、おくぼうに千町づつ持たせたいものだ。」と思って、督の殿の御前に参り、「私が人穴へ入ってみましょう。」と申し上げました。鎌倉殿それをお聞きになって、御喜びなさることこの上ございません。直ちに四百町を賜うという将軍自署花押の御判を頂いて御前を罷り、自邸でまつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝らお聞きなさい。私は鎌倉殿の御使いとして人穴へ入ることとなった。これと申すのも汝らを思う故である。四百町の御判を賜って、汝らに千町づつ持たせたいからである。」とお語りなさると、二人の子供は、「父上の御命があってこそ千町万町もほしいのです。」と申してひきとめるのですが、忠綱は、「たとえ人穴へ入ったとしても、祟りさえなければ死ぬこともあるまい。ご安心しなさい。」と慰め諭しなさいます。「もし死んだとしてもこの忠綱の事を嘆いてはいけない。どうか兄弟仲良く戦場で駆けるも引くも兄弟語り合わせて、君の御大事には参上して、一門の名をも上げなさい。」と懇ろに教えなさいました。兄弟のたちはいたしかたないと御前を下がります。忠綱は、「ああ諸国の侍たちは、所領を望む我を強欲で憎らしい思うだろう。いや、それもしかたないことだ。私だって他人だって子を思うのは世の習いであるよ。松・杉を植え置くのも(子孫繁栄を願う、または子孫に財産を残すための)子供を思う道であるよ。」古歌にも見えますように、

  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな(子を持つ親として、心の

  中は闇というわけではないが、 子どもの行く末を考えると道に迷ったかのようにな

  るのだ。)

 という言葉までも思い出されてしまいます。

 このようにして出立する、新田のその日の装束はいつにも優れて華やかでした。肌着には四ツ目変わりの帷子の脇を深く解いて、精好の直垂は露(裾の紐)を結んで肩に懸け、烏帽子懸けを強く引き結び、両方の括をり縫いつけるようにして、まふ総造りの太刀を佩き、白鞘巻の腰刀に、爪紅の扇を差し添えて、鎌倉殿より遅しとの御不興で遣わされた工藤左衛門尉祐経を相具(あいぐ)して、松明十六丁を持たせ、「七日後の午の刻に帰りましょう。」と言って新田は人穴へ入ったのでした。

 こうして一町ほど行きますが何もありません。和田が会ったという機織りなさる女房もいらっしゃいません。佩いていた太刀を抜き持って、四方に振り回していきますと、六七町行ったかと思うと地上のように月が現れて、地の色を見ると青黄赤白黒の五色の松原へ出たのでした。小川が流れています。足跡を見るとたった今人が渡ったとみえます。この川を越してみると八棟造りの檜皮葺きの御所が九つ連なって建っています。この内へ入ってみると軒から落ちる水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾くように聞こえます。松吹く風の音は颯々として生死の眠りも覚めてしまいそうに爽やかです。中に入ってよくよく見れば瓔珞の珠が連ねて懸けられています。その明るさは夜昼の差別もありません。蓮の花が開くのを見て昼と知り、つぼむのを見ては夜と知ります。ある所を見るとたった今人が弾き慣らしたと覚しく、一面の琵琶を立てられています。

 赤地の錦で天井を張り青地の錦で柱を巻き立てて、その上を黄金白金で飾っています。その金銀が当たって鳴る音は祇園精舎の鐘の声もこうなのだろうかと思いやられます。その美しさは心も言葉も及ないほどで、我はまさに極楽浄土へ参ったのだと思い、嬉しい事この上ありません。

 さて丑寅の方角を指した道を見れば池があります。その内に島があり、島の上には閻浮檀金の黄金でできた光堂が鮮やかです。池に懸けた橋を見ると、八十九間懸けられています。その端には八十九の鈴(りん)が付けられています。一番の鈴が妙法蓮華経と囀るように鳴れば、鈴は悉く法華経一部八巻二十八品の文字の数を囀るようです。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女などが、この経の功力によって、一切衆生をみな九品の浄土に迎えとりなさってくださいと祈っているようで、「観以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく びょうどうせひいっさい どうほつぼだいしん おいじょうあんらつこく):観経疏」と囀るように聞こえます。この池の中には八葉の蓮華の台があります。水の色は五色にして趣深く、近く寄って見ると台の御所の東の庭に白金が延べて敷かれています。

 内からからかうような御声で、「何者が我が住む所へ来たのであるか。」とおっしゃる方がいます。姿を見ると、口は朱を差したように真っ赤で、眼は日月のように光っています。その丈は、二十尋(30メートル)くらいです。十六本の角を振り立てて現れました。吹く火焔の息は百丈ほど立ちあがり、紅の舌を出しなさっています、その姿は身の毛よだつばかりです。新田が頼家の使いと名乗ると、「これこれ新田よお聞きなさい。自らをば如何なる者と思のか。富士浅間大菩薩とは私のことであるぞ。おまえは日本の主鎌倉殿、頼家殿の使いであろうが、この人穴へ入って私の姿を見ようとするとは、頼家の運はすぐにも極まることであろう。

 ところで恥ずかしながら私にも懺悔することがある。自らが六根(目・耳・鼻・舌・身・意=体)には夜昼三度づつの苦しみがある。新田よお前の持っている剣を献上いたせ。我が六根に収めよう。」とおっしゃるので、たやすいことですと、四尺八寸のまふ房造りの太刀を抜いて差し上げると、大菩薩は受け取りなさって、刀身から逆さまに六根に吞み込んで収めなさいます。「素直に腰刀も差し出しなさい。」というので、同じくそれも差し出すと、またこれも六根に呑み収めなさいます。

その3

 その後大菩薩は、「ただ今頂いたの剣の恩返しに、あなたに六道の有様あらましを見せて帰そう。」と、毒蛇の形を十七八の童子に変身なさっておっしゃいます。「本当だろうか、日本の衆生は地獄が恐ろしいとはいうのだけれど、実際に行って帰ってきた者はいないし、極楽は楽しい所だといっても見てきた者はいないというが、それでは地獄の有様を見せて帰そう。」と、大菩薩は左脇に新田を挟んでて、まずは賽の河原に行ってお見せになります。

 「さあ汝に見せよう。お聞きなさい、まずは地獄の奉行を教えよう。一番に箱根、二番に伊豆の権現、三番に白山、四番には自分、五番に三島の大明神、六番に越中立山の権現にてあらせられる。これらは無間地獄の奉行六人である。竜蔵権現でおわせられる。百三十六地獄、奉行の御心から見放されたものは、必ず地獄に堕ちるのだ。まず賽の河原を見せよう。」と言って見せなさると、七つ八つほどの童部が、三つ四つの幼な子と手に手を取って悲しみにくれています。新田はこれを見て、「あれはいかなる者ですか。」と尋ね申し上げると大菩薩は、「あれこそ娑婆で親の胎内で九か月ほど辛苦をさせて生まれたのに、その恩に報いることなく幼く死んでしまった者だ。あのように河原へ出でて九千年もの間苦を受けるのだ。」と答えます。暫くして火焔が燃え出すと、河原の石はみな炎となって童子たちは白骨となってしまいました。ややあって鬼どもがやって来ました。そして鉄の錫杖でかつかつと打つと、また元の幼き者となります。

 さて、西の方を見ると三途の川というものが流れています。この川の深さは一万由旬、広さも一万由旬です。この川の端には優婆尊という者が立ちなさっています。この前を通る罪人は衣装を二十五の罪に当てはめて、二十五枚剝ぎ取られます。衣装がなければ身の皮を剝ぎ取って衣領樹の木に懸けなさいます。すると天の羽衣となります。この老婆はまさに大日如来の化身なのです。

 さてこの川を渡って見ると、死出の山があります。娑婆で一七日から七七日までの忌日を弔えば、中有を果てますが、その魂魄がやって来て山の向こうに向かって、「娑婆にて命日を弔いました。とくとく帝釈に報告する俱生神へこのことを申し伝えよ。」と大声で呼びかけると、俱生神は承知なさって、「八十億劫の罪を滅す善行あり」と、帝釈に申し上げて千の札に記録なさり、その報いとして九品の浄土へ参る者もいます。

 一方傍らを見れば、ある罪人には重い石を抱かせて獄卒が打擲し苛む所があります。また鉄の尖った巌を上れ上れと責めたてる所には幾千万ともしれない多くの亡者がいます。大菩薩は、「あれは娑婆で馬に重い荷物を付けて商いをしていた者である。利益を得ることに執着して、馬のつらさにも気づかず責め殺した者が、あのように苦を受けて一万八千年はこの地獄から浮かび上がることはできないのだ。必ずや新田よ娑婆に戻ったならば皆に触れよ。ものいわぬものだとて、馬に多く荷を付けてはいけない。地獄行きの種となるのだ。

 また、ある所を見ると、罪人を剣の先で刺し貫いて責める所もあります。剣の山を上れ上れと責められる罪人どもは、肉体から血がはじけ落ちる事は、ものにたとえると、まるで血潮に染まる紅が咲き乱れているようです。「あれこそは娑婆で主君・親の恩に報いずして、処処の住まい(生活)で主君・親に対して悪行をした者が、かかる苦を受けて浮かばれないのである。」

 また西の方を見ると、火の波・水の波が夥しく立ち上がる所を渡れ渡れと鬼どもが責め立てています。その者どもに手枷足枷を掛けて、四十四の脇や背の曲がりどころ・八十三の骨の関節・九億の毛穴ごとに釘を打っている所があります。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と申し上げます。大菩薩は、「あれこそ娑婆で慳貪・私欲の心をを持っていた者が、あのように苦を受けて少しも心安まる事がないのだ。全く人の持つまじきものは慳貪・私欲である。」

 また東の方に高い所があります。大菩薩は新田を連れて見せなさいますが、東へ向かった道があります。六道の辻というものです。この辻に忍辱の衣(袈裟)を召した法師が二人立ちなさっています。この法師の前に罪人どもが集まって、「仏様、私をお助けください。」と悲しみ訴えることこの上ありません。獄卒はその罪人どもを受け取って「これらは無間地獄へ堕とそう。」といいます。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と申すと大菩薩は、「あの法師と申すは六道能化の地蔵菩薩と申す者だ。娑婆にいた時に名利ばかりを好んで、娑婆では『地蔵菩薩』とも唱えない者が、今になって助け給えと申しても、決して聞き入れなさらないのだ。これも娑婆でみなに知らせなさい。」とおっしゃいます。「極楽に参りたいならば暁ごとに手を洗い地蔵の名号を百遍も二百遍も唱えなさい。」と懇切丁寧に教え諭します。

その4

 「新田よよく聞け。六道というのは地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道である。次に畜生道を見せよう。」と言って、先に進みなさると、蛇が三匹います。左右は女の蛇で真ん中に男の蛇を置いて巻き絡んで男が女の口を吸っています。その吹く息は炎が百丈ばかり立ち上がっていました。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩は、「あれこそ娑婆で二股かけて女房に胸を焦がしたる者であるよ。男女ともに一万三百四千年は浮かばれる事はないのだ。」とおっしゃいます。

 また、ある方角を見れば、獄卒が罪人を取り押さえて舌を二尋(3メートル)ほど引き抜かれて釘を打たれている者のいる処があります。また、眼をくり抜かれている処もあります。鉄の(ような真っ黒な?)犬や鴉どもが人の肉を喰い散らす処もあります。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩はおっしゃいます。「あれこそ娑婆で親・主君に対して悪行した者が、あのように苦を受けているのだ。」と。

 また、こちらでは女の股を鋸で引いている処があります。「これは娑婆で男を一人持っているのに他の(世間の)男に浮気をした女が、あのように苦を受けて四百五千年がほどは浮かばれないのだ。」

 また、ある処を見ると十二単衣で着飾った女房が岩の上に立って、肉体を引き裂かれ引き裂かれ喰い散らされている処があります。この女がわめき叫ぶことはこの上ありません。「あれこそ娑婆で遊女として生きていた女が数多くの男を貪って愛着したせいで畜生道へ堕ちたのだ。」。

 また、こちらでは女の鼻の上に灯台(灯明台)を立てて顔の皮が剝がされ、油がその顔に垂れている処があります。「あれこそ娑婆で男に美しく見られようとして、もともと見目悪く生まれついた容貌を、どうにか装えばと思って、美しくなるはずもないのに一紙半銭(少額)さえも後生のために寄進することなく、しまいにはくわんなどの札(寄進を募る願の札?)を配ると、『あら嫌な事』と耳も傾けずに、男に隠れてこっそり紅や白粉などを買い取って、顔に塗りたくった女が、あのように苦を受けて五十万劫ばかりは浮かばれないのだ。」。

 それを行き過ぎて次を見ると、ある罪人に鉄の差し縄(捕縛縄)を三十本つけて引っ張って来ます。よくよく見れば荒んだ感じの尼です。新田はこれを見て大菩薩に尋ねますと、「あれこそ上野国あかつか(吾妻?)の荘にいる碓氷の尼という者である。人が喜ぶのを嫉み、人の憂えているのを聞いては喜び、しかも富貴の家主として生まれて眷属を三百人も抱えている。しかしこの者どもには塩・味噌をも食わせないで、自分は朝夕の食事は豪華に誂えさせてて食べ、全く下人たちに情けをかけるような事はない。ことさらに僧・法師を供養する事もない。少しの恵みも施さないので、この尼は十王の裁断を待つこともなく、ただちに無間へ堕とせということで釜底へ押し入れられているのである。さあ新田よ、お聞きなさい。男も女も地獄に堕ちるとはいうが、中でも女が堕ちるというのは、女の思う事みな悪道だからである。それだから、男の所へ近づかないように一年の内八十四日は物忌みされるのである。このような罪を知らないで善根に傾かないのはかわいそうなことである。」。

 またこちらでは鉄の綱を三十本ほどつけた女が引っ張られて来ました。新田が、大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で地頭であったが、罪なき百姓を不当に苛み、愁い悩ませた者が、胸に釘を打たれて、吹き上がる血は百丈ばかりだ。その身は奈落に堕ちて浮かぶことはない。」。

 またある方角を見れば、罪人を鉄の(ような真っ黒な)犬が集まって、その肉を獅子(猪?)だ鳥だと名付けて追い回して、喰いちらかしている処もあります。「あれはいかなる業をなした者でございますか。」と申し上げますと、大菩薩は、「あれこそ娑婆で耕作することを面倒くさがって、(入道のふりをして)人にたかって乞食をして貪った者があのように苦を受けて五十万劫までも地獄から浮かぶ事がないのだ。新田よくよく聞きなさい。俗人はは田畑を作り年貢を捧げて、その余るところで妻子を養って、僧法師を供養するならば、地獄に堕ちる事はあるはずがないのである。」とおっしゃる。

 またこちらでは罪人を火の車に乗せてあれやこれや獄卒の阿防羅刹が鉄の笞で打って四十四年もの間石牢に閉じ籠めて解放しません。この者は娑婆で後生を弔っていたというのに浮かばれないのです。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると大菩薩は、「あれこそ遠江の国のそてしの宮の禰宜である。神の田畑を所領しているのに妻帯し妻子を持って神を祀る事はない。服喪をも忌まずに、心経の一巻をも読む事もないのでこのような苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事がないのだ。まったく人があってはならない者はえせ神主である。このような者には近づくだけでも地獄に堕ちるのだ。」。

 また、ここには舌を抜き出だされて叫ぶ者もいます。(誤ってどこからか挿入したのか。)

 また三十ほどの鉄球を付けられている女がいます。これは娑婆で咎なき下人に咎を言いがかり困らせた女で、このような苦を受けて七千劫がほども浮かぶ事はありません。

 またここには身の丈七尺ほどの法師を鬼どもが竜頭の蛇口の甕に入れて一日に三升四合の油を絞りとっています。これは法師になったのに、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも理解せず、仏に香・花をもお供えする事もなく、禁じられている妻子を溺愛する者で、この苦を受ける事九千年です。

 またここには衣を腰に纏った法師が無間地獄の周囲を走り廻っています。これは娑婆で法師にはなったといいながら、海にる魚が塩に染まらないように仏法には染まらず、人目にだけは仏法を願い、心の内では欲心ばかりを優先させて、人に振る舞いをする事もなくて、万民の富を過剰に貪った出家があのように苦を受けるのです。それでも出家の功徳の力によって無間地獄には堕ないで(畜生道の)縁を走っているのです。

 またある処を見ると、腰の骨に釘を打たれ剣で切り裂かれている四大海のように腹の大きな女がいます。それは娑婆で男によく思われようとして、若いふりをして懐妊し、子はいらないと捨てた女がこのような苦を受けて十万劫は浮かばれる事がないのです。

 またこちらでは主人と思われる者と、下人と見える者が鉄の丸かし(鉄球)を懸けられて無間地獄の底へ押し込められています。これは娑婆で身を売ったのに、その売り状を受け取らず下人も逃げ失せた者です。その者らはこのような苦を受けて八万劫ほども浮かぶ事はありません。「この由を新田、人に語りなさい。白い紙に黒い文字を書いても、その証文を受け取らず勝手に振る舞うことは、大きな罪である。また決済がすんだのにその証文を返さないのも罪である。」。

 一方、天道を見ると美しい簪を挿した女が瓔珞の玉の輿に乗って黄金の幡を大悲の風に吹き靡かせて、二十五の菩薩は音楽を演奏して、観音・勢至菩薩が来臨なさる処があります。新田が、大菩薩に質問すると、「常陸の国の菊多の郡の女である。富貴の家に生まれて、しかも心優しく僧・法師を供養し無縁の者の面倒を見、寒がる者には衣服を与え、特にこの女は座頭に目をかけていた。このおかげで弁財天の慈悲によって、いよいよ富貴は日増し年増しに増していったのだ。そもそも座頭という者は人の役にたつ者ではない。そのような者に深く同情し世話をするので妙音弁財天もお守りなさったのである。この女房は幼い時から居ても立っても常に慈悲を心がけていた。それである歌にも、

  仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

  (仏とは何をいうのかというと、岩間の苔筵のようなものだ。まさに慈悲心に比べ

  られるものはない。慈悲心そのものが仏なのである。それは苔の筵のようだ?)

 このような歌を聞くにつけてもこの女房の志の深さが知られるのだ。こうして女房はその善行を帝釈天に奏上され、九品浄土へと観音・勢至菩薩が迎えにおいでなさったのである。新田よ娑婆で皆に触れよ。他念なく一切の人、牛馬に至るまで憐れみをかければ必ず極楽に参ることができるぞ。」と答えなさいます。

 また傍らを見ると獄卒が鉄の綱で縛って少しも放さず罪人を責めています。この縄にからめられて悲しむ事この上ありません。これは娑婆で数多くの生き物を殺したために、このような苦しみを受けたので五百万劫がほども浮かばれる事はありません。

 またある処を見ると、鬼ども百人が持つ石を、罪人の胸に上に押しつけて押すしている処があります。これは娑婆で鳥の子(卵)を取っておいしいものを独り占めして食べていた者がこのような苦を受けて六万劫ほどは浮かばれないのです。

 また入道を逆さまに吊るして頭から肉を剥ぎ取っている処があります。新田が大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で尊いふりをして、内心には欲心深くて、神仏は何とも思わずに、香・花を供える事もなく、念仏の一遍も唱えず、人目ばかり気にする出家者である。」と答えます。

 またここに錐(きり)で罪人の眼を揉んでいる処があります。これは娑婆で人の眼をごまかし盗みをした者が、あのように苦を受けて五百万劫ほどは浮かばれないのです。「さあ新田よお聞きなさい。教主釈尊のお説きなさった経を読む人は仏に近い者である。たとえ一字でもお経を知って唱えている者に悪行する事は、無間地獄に堕ちる業である。経文の一字も知らない者は盲目と同じなのである。」。

 また女が月の障りの日に腹をあおいで冷やす事、そうして衣装を脱いで裸になる事は無間地獄に堕ちる行為です。

 またここには紅蓮・大紅蓮地獄の氷に身を閉じこめられて震えわななく者がいます。「あれは娑婆で夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の者を盗み、衣装を剥ぎ取った者が、このように氷に閉じこめれられて悲しむ事三万五千年となるのである。」。

 またここには尼がいます。年の盛りに髪を下ろした後に後悔して、「ああ私に髪さえあったならば男に袂を引かれる(誘惑される)のに。他の女が私の男に愛されているのを見て嫉妬し、尼になった事よ、あらうらめしい。昔が懐かしいなあ。」とて、吹く風に、立つ波ににつけても歌を詠んで俗を好む風情で、尼になった事をすっかり忘れて、我を忘れて和歌を詠じ、男と通じて懐妊し、出産した者が、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かれては、目・鼻から血を流してどうにもなりません。いまさら後悔してももかなはないことで、畜生地獄に堕とされて間断なく苦を受けるのです。

 またこちらには女房がいるのですが、獄卒の鬼は、「娑婆で男狂いしたその数を見よ。」と言って鉄の丸かしを大方三百ほど懸け鉄の縄を付けて、さらに、「自分が好み交わった男の数を隠しても、十王の前で全く隠すことはできない。」と言って責め、一万五千年ほども苦を受けるのです。

 またここに鉄の米櫃に顔を入れて火焔となって燃えている者がいます。あれが娑婆で食事時に、来客があると食事を振る舞うのを惜しく思って顔を真っ赤にして腹を立てて、罪のない下人や子に向かって腹を立てた者が、四十万劫ほども火焔となって燃え焦がされるのです。ですから食事時に人が来たら食事を施せば、御施行といってどれほどか利益は増すのです。この世では富貴となるのです。

 またある方を見ると女房で、髪を百丈ほどの長さで、先端より火をつけられて焼かれている者がいます。「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると、「あれこそ娑婆にいた時、自分の髪の毛が一本落ちるのも惜しみ、千本にもしたいと思った者が今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千年がほども浮かばれずにいるのだ」。

 また子を持たない者は罪深き事この上ありません。また一人を持った者でも、その後子を生まない女も罪深いのです。また女の月の障りがないのも子を産めないので同様です。このような者どもは、子供に財を傾けることがないのですから、子のない寂しさに引き替えて富貴です。善根行わないで(蓄財し)、財産は持った上にも持ちたいと思って、衣服は着ている上にも重ねて着たいと思ったのでしょうが、死んだ後は風に木の葉が散るように何も残りません。ですからこのような(子のいない)時は後生を大事に思って、善根を施しなさい。子供を持った人も、子によるのであろうが(その子が弔ってくれるので)、それは少しの後生の種となるでしょう。ただし親が浮かばれるほど丁重に弔う子は稀です。

 またある処を見ると、手足を手斧で裂かれている者がいます。あれは娑婆で用もないのに木を伐り枯らした者で、呵責され続けているのです。

その5

 その畜生道を過ぎて、大菩薩は餓鬼道を見せようということで新田を連れて行きなさいます。

 ここにはまた、食物が前に据え置かれていても食べることができない者がいます。これは娑婆では財宝は持ってるのに、食事は他人にも施さず自分でも食べることを惜しんで、銭・米を持っている事を楽しみとして、寒さひもじさ我慢して節約していた者で、その者は、餓鬼道へ堕ち五十万劫がほども浮かばれる事がありません。「さあ新田、娑婆で皆に触れなさい。富貴であってももまた貧乏であっても、その分に応じて座敷を綺麗にして、きちんとした身なりをし、食事を綺麗に誂えて、人にも喰わせ自分も食べれば富貴にもなるのだ。夢に見るといってもこの世の姿以外のものは見ない。過去に善根を積まないで、現在に有徳の人を恨む事があるならば、餓鬼道に堕ちるのだ。」。

 またここには子を産んでその子を裂き喰らう者がいます。「あれは娑婆で生身の子を売って自分が食いつなぎ、または幼いを棄てた者どもが、あのように苦を受けて三百万劫ほどは浮かばれないのである。いかに煩わしくても子を売ったり捨てたりしてはいけない。」。

 またある罪人が米を一口含められているのに口から血が流れて食うことができません。「あれは娑婆で人に食物を与える事を惜しく思った者が、皆餓鬼道へ堕ちて浮かぶ事がないのだ。」。

 また餓鬼道の辻に出でて見ると、地蔵・帝釈の愛しなさっている者がいます。「あれは三河の国の平田の郡の、平田入道で名を妙心房という者である。夫婦ともに語り合わせて、私たちは娑婆では子というものを持つまい、としてひたすら憂き世を捨てて後世を祈ったのだ。二人は童子となって九品の浄土へ参りるのだ。かの浄土には三世の諸仏が集まりなさって、黄金の光堂を立てて住みなさっているという。」。

 また畜生道を御覧になると、天を翔る翼の鳥、地を走る獣どもが取り繋がれて、心安まることなく苦しめられています。あれは娑婆で子が親に心配をさせ、人間で継母継子に心配させた者が、みんな畜生道へ堕ちるのです。

 また修羅道を見ると、炎が夥しく立ち上っています、その中では弓箭(弓矢)を身に着け兵仗(武器)を調達して合戦に暇ありません。これは娑婆で弓矢当たって死んだ者で、修羅道へ堕ちて苦を受ける事、二千三百年です。

 このように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道をお見せになって、その後新田を脇に挟んで閻魔の庁へお着きになります。

 閻魔の庁はその内に黄金の紫宸殿が建立されています。その中に閻魔王をはじめ十王がお住みになっています。善根をする者は倶生神が黄金の札に書き付けなさいます。悪をする者は、鉄の札に書き付けなさいます。ここでまた鬼どもが、「さあ罪人よ神の領域を離れた七歳以降の娑婆で作った罪を見せよう。」と申して鉄の札を見せます。罪人が、「それほどの罪はございません。」と申すと、「それならば業の秤にかけよ。」とてかけなさいます。それに対してもとかく抗うので、「浄玻璃の鏡見せよ」と言って、すぐさま鏡をお見せになります。そこには神の域から人となった七歳以降の罪科が少しの隠れもなく映し出されてあります。こうなっては最早言い争いもしかねてひれ臥し頭を地につけて、「ああ仏様よ私をお助けください。」と嘆き悲しんで訴えますが、十王(閻魔大王)が、「汝は娑婆で子を持っていたか。」とおっしゃいますと、子を持っていたと答えた者は獄卒に請い、保留しておき、子を持たなかったという者は即座に無間地獄へ堕とされます。子が親の後世を弔うかもしれないからです。十王には必ずや慈悲の心があるのです。

 また鉄の臼で引かれき搗かれている罪人がいます。

 念仏の行者には十王は座を降りて、礼をもって待遇します。そうして浄土へ送りなさいます。

 こちらにはある入道を、鉄の弓で絶え間なく矢を射る処があります。あれは娑婆で知りもしないお経を知っているふりをして施しの斎(とき)を食べ、お布施を受け取って皆にとり囲まれて深く信仰礼拝された出家者で、あのように苦を受けて悲しんでいるのです。

 このようなところで大菩薩は、「さあ罪人どもよくよく聞きなさい。娑婆に残った者ども(家族など)が死んで一七日、二七日、五七日、四十九日、百か日を過ぎても死者を弔わないと獄卒どもは無間地獄へ堕とすぞ。」とおっしゃいます。十王はお聞きになって、涙を流しながら、「いやいや獄卒には三回忌をお待たせください。」とお願いなさると、「それでも弔わなかったら、獄卒にただちに受け取らせて地獄に堕とそう。」と言います。十王は、「さらに七年を待ってみてください。」とおっしゃいます。「それでも仏事を行わなければ十三回忌をお待ちください。」とおっしゃいました。それでも弔わなければ、この上はいたしかたないということで罪人を獄卒の手に渡しなさいます。無情にも無間地獄へ堕とすのでした。罪人はいったんは立ち戻って、「ああ尊い十王よ私を助けてください。」と悲しみ訴えます。

 「さあ新田よ地獄の様子の概略を見せたぞ。それでは今度は遊山のように楽しい極楽浄土の様子を見せよう。」といって新田を引き連れて西の方へ行かれます。そこには橋が四つあります。大菩薩は、「あれこそ仏・菩薩、尊い人を渡して九品の浄土へ入りなさる橋である。」とおっしゃいます。その向こうにいる阿弥陀仏は畏れ多くも光鮮やかにして霊験あらたかです。池のほとりには鳧雁鴛鴦が波の音も趣深く泳ぎ、黄金の幡を大悲の風に靡かせて、二十五の菩薩が音楽を演奏して舞い遊びなさっています。このようなところで花が天から降り下りて、心も言葉も及ばないほど美しい光景です。新田はこのような素晴らしい所にはずっといたいと思いました。大菩薩はなお仏菩薩のお住みになっているところを見せようと、新田を引き連れて拝ませなさいます。地蔵・竜樹・観音・勢至などの三世の諸仏がお住みになっているところや、座禅入定のところもあり、法華三昧の床もあり、真言の行者のところもあります。

 善根を傾けた者が暮らしているところもあります。このような中でも愚かで痴れ者で、欲の心念を持った者は、六根に釘を打たれ(て地獄に堕ち)るのです。

 ここに女房が毒蛇に喰われて叫んでいる処があります。これは娑婆で男に好意を懸けられて、その思いに報いない女で、一万五千年がほども浮かばれる事はありません。

 またここには男が善根を思い立っ(て施しをしようとし)たのに女房は顔を赤らめ(怒りで顔を真っ赤にし)、「今生こそ大事です。後生の事はどうなってもかまいません、なんとも嫌な善根ですよ。」と思い、施すべきものをも自分の衣装などにしようと思った女房が、剣の先に懸けられて五千万劫がほども浮かばれる事はありません。

 夫婦という者はどうにかして男と女房は相談し合って、女は男をいいように勧め、男は女房を勧めて善根をしなさい。

 「今生は夢の中の夢なのに、千年万年も生きていられると思い、財産を持ってもさらに重ねて持ちたいと思い、衣装は着ている上にも着重ねたいと思っている者は、地獄に堕ちる種である。ただ世の中をばあるに任せて過ごしなさい。今生はわずか五十六十年の間である。その行く末に久しく浄土に生まれて楽しむべき事を知らない者はまことに愚痴である。返す返すも善根に傾けなさい。善根に傾く者には邪魔・外道も障礙をしない。今生では栄華を誇り後生では極楽浄土へ参るのだ。」と、大菩薩はよくよく教えなさいます。

 その後大菩薩は、「新田よ、汝に見せたい事は多いのだが、概略は見せたので帰そう。」と言って、黄金の草子三帖に地獄・天国の様子をお描きになり、新田にお渡しになります。「さあ新田お聞きなさい。私の様子、また地獄・極楽のありさま、ありのままを人に語ってはいけない。三年三月過ぎたなら督の殿(頼家)にだけは語ってもよい。それ以前に語るとしたら、汝の命は取ってしまうぞ。督の殿の命もないであろうぞ。(他の者にはこの草子を見せて地獄極楽を示しなさい。)さあ地獄はこの草子に描き写してしまった。もうこれでいいだろう。もはや本国へ帰そう。」ということで東へ向かった道に送り出だしなさって、大菩薩は重ねて、「返す返すも私の様子を語ってはいけない。」とおっしゃって、やがて消えてしまいます。そうして新田は七日ほどで本国へとお帰りになりました。

 そうして帰朝した新田は、君の御前に参って、帰朝の由を申し上げますと、督の殿はお聞きになって喜ぶことこの上ありません。こうしていると諸国の大名も新田の物語を聞こうとして、落縁・広縁、鞠の懸りまでも貴きも賤しきも群集をなして集まりなさいます。そうして督の殿は木賊色の狩衣を召して、高座に居ずまいを正してお座りになり、「さあ新田よ、岩屋の内ではどのような不思議があったのか。とくとく語り申せ。」との御命令がありました。新田が畏まって頭を地につけて申すには、「岩屋のありさまを語り申し上げることは安き事ではございますが、語り申し上げると君に御大事がたちまちあるでしょう。私の命も絶えてしまいます。さてどうしましょうか。」。すると、重ねて、「たとえ大事があったとしても即座に語り申せ。」とのご命令です。新田は畏まって笏を立てて居ずまいを直して、岩屋の体、または六道四生のありさま、地獄極楽浄土の体を、細やかに語りました。

 聞く人は皆耳を澄まして、「なんとおもしろい事かな。」とさざめきなさいます。この語りはたとえるならば、釈尊の弟子、富楼那尊者の御説法もこうなのかと思われる巧みさでした。生死の眠りをさえ覚ますようです。

 こうしている間に、新田はその始終も語りも果てずに四十一歳と申す時には朝の露と消えてしまうのです。

 さて、天からは、「私の様子を語らせた頼家は助かることはできないだろう。そのきっかけとなった新田忠綱の命もすぐさま奪おう。」とよばわる声があって、二人とも死んでしまいました。諸国の大名はこれを聞いて、恐れ慄いたでした。

 やがて忠綱の死骸を、伊豆の国新田へ送りなさりますと、松房・おく房・女房・なん房はこれを見て、なんという事だとただひたすら泣き悲しみます。そうはいってもそのままではいられませんので、火葬して白骨と取り集め孝養行いなさいます。その後、松ほう・おくほう今に繁盛する事この上ありません。

 みなみなこの草子(秘伝とされたこの草子を)を御覧になる人は、即座にも富士浅間大菩薩と拝み奉りなさい。読む人も聞く人も精進をなして、よくよく聞いて念仏を申し、後生を願い、南無富士浅間大菩薩と百遍唱えなさい。よくよくこれを保つならば、三悪道地獄道畜生道・餓鬼道、修羅道はいいのか?)へ堕ちる事はないだでしょう。

 という事で、「富士の人穴の物語」は以上です。

原文

 そもそも頃は*正治三年卯月三日、辰の刻に頼家の*こうの殿、*和田の平太胤長(原文たねなを)を召して仰せけるやうは、「いかに平太承れ。音に聞く富士の人穴といへども未だ見ることもなし。いかなる不思議のことやある。探して参れ。」とありければ、胤長(原文たねなを)承りかしこまつて申しけるやうは、「さん候ふ。天を翔つる翼、地を走る獣を取りて参れとの御定にて候はば、安き御事にて候へども、これはいかんとしてか入り申すべき。御定を背き申せば天の恐れなり。二つとなき命を君に奉らん。」と申す。

 御前を罷り立ちすぐに義盛の御前に参り、*この由かくと申せば、「胤長(ここから胤長になっている)こそ*希代不思議なる御定を君より承って候ふ。」と申す。義盛何事ぞやと仰せありければ、「されば富士の人穴捜して参れとの御定にて候ふ間、かの人穴へ入るほどにて候はば、*深沢へ再び帰らん事は不定なり。されば人々の対面も今を限りにてぞ候ふ。みなみな後の世にこそお目にかからん。」とて心細げにて暇乞い申す。義盛涙を流し給ひけるは、「幼けなきより膝の上にて育てし間、とりわけ不憫と思へども、私ならぬ事なれば力及ばず。功名してとくとく帰り給へ。」とのたまへば、平太涙ぐみて立ちにける。

 かかりけるところに*朝比奈三郎義秀これを見て、*てひまるといふ太刀を取り寄せて鍔元ニ三寸寛げて、平太をはつたと睨めて、「烏許なる吾殿が有様や。日本の侍の見る前にて泣き顔にて見ゆる事こそ未練なれ。あれほどの者を一門の中に置いては、みなみな臆病になるべし。それほどならば首を延べ給へ。」と言ふければ、これを聞きて申しけるは、「某臆病にてはあらずや。辰の世界、岩盤石、虎臥す野辺なりとも、一度二度とはうち破りて入り候はんと思ふ我が身なり。不覚の事はよもあらじ。」とて暇乞ひして朝比奈殿とて立ちにけり。朝比奈これを見て笑ひながら申しけるやうは、「や、殿輩、*走る馬にも鞭を打つ血潮に染むる紅も、染むるによりて色を増す。義秀も連ればやとは思へども一人指されてある間力及ばず。相構へて功名して、一門の名を上げ給へ。」と暇乞ひしてとどまりけり。

(注)正治三年=正治三年は二月に建仁改元されているので卯月はないはずだが。

   こうの殿=衛門督を敬っていう語。頼家は正治二年に左衛門督に遷任。

   和田の平太胤長=鎌倉殿の御家人和田義盛の甥。胤直という人物は見当たらな

    い。

   この由かくと申せば=和田義盛が聞きなおしているので、不要な部分。

   希代不思議=世にもまれな事。

   深沢=鎌倉にある地名。和田氏の館があったのか。

   朝比奈三郎義秀=和田義盛の三男。剛勇無双と伝えられる。

   てひまる=名刀か?347では「四尺八寸のいかもの作り」474では「例の太

    刀」「四尺八寸の太刀」とあり、小谷に「四尺八寸の太刀」とある。四尺八寸

    はかなりの長さで、大太刀の形容に用いられるようである。「後鑑」に一色左

    京太夫が「四尺八寸の泥丸(どろまる)」を持ったとあるようだ。「古事類

    苑」によると、「明徳記」に一色詮範が「四尺三寸と聞こえし泥丸」持ってい

    たとあるようだ。朝比奈三郎が「泥丸」を所持していたかは確認できなかった

    が、泥丸という大太刀が存在していたのは確か七ようである。

   走る馬にも鞭を打つ=よく走っている馬にさらに鞭を加えていっそう早く走らせ

    ること。よい上にもよくすること。「血潮に染むる・・・」も同義か。

 平太がその日の装束はいつに優れて華やかなり。膚には帷子脇深くとき、その上には*段金(どんきん)といふ小袖を着、霞流しの直垂の両の袂結んで肩に懸け、烏帽子の影(掛け?)強くして、両の*括り結ひて白金の*胴金(どうがね)したる一尺七寸の刀に、たみたる(畳みたる?みたせる?)扇差し添へて、赤銅造りの太刀・練鍔(ねりつば)二振り提げて佩くままに、松明十六丁*持たせ、七日と申し候はんに帰るべしとて、ゆわや(岩屋?)の内に入りにけり。諸人これを見て、「弓取りの身ほどあはれなる事はあらじ。」とてみな涙をぞ流しける。

 さる間平太人穴へ入りて一町ばかり行きて見れば、口には朱を差したるごとくの蛇(くちなは)*簀の子を描きたるごとくなり。主命なれば力及ばず飛び越え飛び越え五町ばかり行きて見れば、生臭き風吹きけり。恐ろしきこと限りなし。それを行き過ぎ見れば、年の齢十七八ばかりなる女房(にうばう)の、十二単を重ねて紅の袴を*ふみしたひ、*三十二相を具足して、簪は蝉の羽を並べ、する墨を流せるがごとし。白金の*機(はた)あしに黄金の杼を持つて機を織りておはしますが、迦陵頻の御声にて、「何者なれば我が住む所へ来たるぞ。」とのたまひて出で給ふ。平太畏まつて申しけるは、「これは鎌倉殿の御使ひに、三浦の一門和田の平太*胤長と申す者にて候ふ。」と申しければ、かの女房のたまひけるは、「何者が使ひなりとも通すまじきなり。おして通るものならば、たちまち命を取るべきなり。」とのたまへば、*平太心に思ふやう、「いかに日本を持ちたればとて、命があればこそ所領もほしけれ、痴れたる事をばせぬものぞかし。汝は今年十八になると覚ゆるなり。三十一といはん春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡に戦ひて討たれむずるなり。早々帰れ。」とありければ、平太この由承つて岩屋の奥を見ぬ事無念さ申すばかりなけれども、女房の仰せなりければ、力及ばず帰りける。

(注)段金=中国産の錦の一種。

   括り=狩衣などの袖や裾に付けてある紐。

   胴金=鞘や柄が割れないように中ほどに付けた環状の金具。

   持たせ=使役なら部下を伴ったことになる。

   簀の子を描きたる=とぐろを巻く形容か。

   ふみしたひ=語義未詳。

   三十二相=仏の備えている三十二のすぐれた相好。転じて女性の美しい容貌。

   機あし=機脚か。踏板(ペダル)のことか。

   胤長=ここから正しい氏名になっている。かなり書き誤りが多い本文である。

   平太心に思ふやう=こう書いたあるが、以下は明らかに女房の言ったことであ

    る。胤長は確かに三十一歳で誅殺されているがこう言われて納得するのだろう

    か。女房が平太の心に訴えたのだと解する。347,474のほうがわかりや

    すい。

 さて、かうの殿の御前に参りて、岩屋の節をかくと申す。かうの殿聞こし召し、岩屋の奥の有様見ぬ事、御心に懸けさせ給ひて、重ねて仰せけるやうは、「空き所の所領四百町あり。誰にてもあれ、所領望みの方々は人穴へ入り捜して参れ。」と仰せありければ、諸国の侍たち申しけるは、「命ありてこそ所領もほしけれ。死して後は何にかはせん。」とて、入らんといふ人もなし。

 かかりける所に、伊豆の国の住人、*新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、鎌足の大臣には十二代、*しろつみの中納言には十三代、新田の四郎忠綱心に思ふやう、「我らが持ちたる所領千六百町なり。かの四百町の所領を賜つて、二千町にして我が子の*まつぼう、おくぼうに千町づつ持たせばや。」と思ひ、かうの殿の御前に参り、「人穴へ入りてみん。」と申し上げられける。鎌倉殿聞こし召し、御喜びは限りなし。やがて四百町の*御判を賜つて御前を罷り立ち、まつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝ら承れ。我は鎌倉殿の御使ひに人穴へ入るべきなり。これと申すも汝を思ふ故なり。四百町の御判を賜つて、汝らに千町づつ持たせんがためなり。」と語り給へば、二人の子供申すやう、「父の御命がありてこそ千町万町もほしけれ。」とて留め申したりければ、忠綱仰せけるやうは、「たとへ人穴へ入りたればとて、*しるしなくば死ぬことあるまじきなり。心安く思ひ候へ。」と慰め給ひける。「もし死したるとも忠綱が事侘ぶべからず。いかにも兄弟仲良く*駆けるも引くも語り合はせて、君の御大事に罷り立ち、一門の名をも*上げべし。」と懇ろに教へ給へリ。兄弟の者ども力及ばずとて御前を罷り立ち、「いかに諸国の侍たち、我を憎しと思ふらん。よしそれとても力なし。我も人も子を思ふ習ひぞよ。*松・杉を植え置くも子供を思ふ道ぞかし。古き歌にも見えたり。

  *人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」

 と云ふ言の葉までも思ひ出だされたり。

 さる間、新田がその日の装束はいつにも優れて華やかなり。膚には*四ツ目変わりの帷子、脇深く解きて*精好の直垂に、*露を結んで肩に懸け、烏帽子懸け強くして、両の括り縫いて、*まふ総の太刀、*白鞘巻の刀、*爪紅(つまくれなゐ)の扇差し添へて、鎌倉殿より御不興(奉行かも?)を添へられたり(る?)*工藤左衛門の助を相具して、松明十六丁持たせ、七日といはん午の刻に帰り候はんとて新田は人穴へ入りにける。

(注)しろつみの中納言=未詳。

   新田(日田)の四郎忠綱(忠常)=仁田四郎忠常。1167~1123。

   まつぼう、おくぼう=忠常の子?忠常は北条義時に討たれ仁田家は断絶したとあ

    る。子に僧となった証入がいる。「小谷」では「松房・松若」、474では「か

    つはう・おくはう」、347では「まつはう・まつわが」。長男は「松房」だろ

    う。次男は「奥房?松若?」。

   御判=御判物。将軍が自署花押した文書。

   しるし=霊験、ご利益。ここでは逆に祟りか。

   駆けるも引くも=「平家物語・二度之懸」に「弓矢取りはかくるもひくも折にこ

    そよれ」とある。梶原景時がわが子に言った言葉である。

   上げべし=上ぐべし、か。

   松・杉を植え置くも子供を思ふ道=故事や諺による表現か?

   人の親の・・・=「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」

    (後撰集 雑一・藤原兼輔)。

   四ツ目変わり=四変(よつがわり)か?着物の全面左半分と右半分、背面の左半

    分と右半分が異なった色や柄になっている帷子(下着)。

   精好=精好織。絹織物の一種、精密で美しい織物の意。

   露=狩衣・水干などの袖を括る緒の垂れた端。「烏帽子おしなほし、ひたたれの

    つゆむすびて、かたにかけ」(曾我物語6)。

   まふ総=未詳。「房造り」とは、刀身の表面に「房」と呼ばれる突起を付けた装

    飾技法らしい。刀身彫刻の一種か。もしくは「まう房」という刀工が作った太

    刀か。

   白巻鞘=柄や鞘を銀で装飾した鞘巻。腰刀。

   爪紅の扇=縁(へり)を紅色に染めた扇。

   工藤左衛門の助=工藤左衛門尉祐経。「曾我物語」に登場する。474では弟の工

    藤(宇佐美)祐茂とする。

 かくて一町ばかり行けども何もなし。機織り給ふ女房もましまさず。佩いたる太刀を抜き持つて、四方をうち振りて行くほどに、六七町行きたると思へば*日本のごとくに月現れて、地の色を見れば青黄赤白黒の五色なる松原へぞ出でたりける。小川流れたり。足跡を見ればただ今人の渡りたると見えたり。この川を越してみれば八棟造りの檜皮葺きの御所続けて九つあり。この内へ入りて見れば軒より落ちける水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾く。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めつべし。よくよくうち入りて見れば瓔珞の珠を連ぬき懸けられたり。夜昼の差別(しやべつ)もなかりけり。蓮(はちす)の開くを見て昼と知り、つぼむを見ては夜ぞと知り、ある所を見れば今人の弾き慣れたと覚しくて、一面の琵琶を立てられたり。

 赤地の錦にて天上を張り青地の錦にて柱を巻き立て、その上を黄金白金をもつて飾りたり。ともに当たりて鳴る声は祇園精舎の鐘の声もかくやと思ひやられたり。心も言葉も及ばれず、我はただ極楽浄土へ参るよと思ひ、嬉しき事限りなし。かくて丑寅の方へ指したる道を見れば池あり。その内に島あり。島の上には*閻浮檀金(えんぶだごん)の光鮮やかなり。池に懸けたる橋を見れば、八十九間懸けられたり。かの端に八十九の鈴(りん)を付けられたり。一番は妙法蓮華経と囀(さやづ)れば法華経一部八巻二十八品の文字の数を悉く囀りける。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女、この経の功力によつて、一切衆生をみな九品の浄土に迎へとらせ給へと祈る。「*願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく ひゃうとうせひ一さい どうほつぼだひしん おふじやうあんらつこく):観経疏」と囀りけり。

 かの池の中には八葉の蓮華あり。水の色五色にしておもしろく、近く寄りて見れば御所東の庭に白金を延べて敷かれたり。

 内よりからこひ(からかひ)たる御声にて、*「何者なれば我が住む所へ来たりたるぞ。」とのたまひける。姿を見れば、口には朱を差したるごとく、眼は日月のごとくなり。その丈、はたいろ(二十尋?)ばかりなり。十六の角を振り立てて現れたり。口より吹く息は百丈ばかり、立ちあがる紅の舌を出だし給ふ、身の毛よだつばかりなり。「いかに新田承れ。自らをば如何なる者と思ふぞや。富士浅間大菩薩とは我がことなり。日本の主鎌倉殿、家(頼家?)のかうの殿が使ひなり。これへ入りて自らが姿を見すること、頼家が運が極めなり。恥づかしながら懺悔するなり。自らが六根は夜昼三度づつ苦しみあり。新田が持ちたる剣を参らせよ。我が六根に収むべし。」と仰せられければ、易きことなりとて、四尺八寸のまふぶさか造りの太刀を抜きて参らせければ、大菩薩受け取り給ひて、逆さまに六根に収め給ふ。「おなじく刀も参らせよ。」とありければ、やがて参らせける。これも六根に収め給ふ。

(注)日本のごとく=地上のように。

   八棟造り=神社の本殿形式の一つ。

   閻浮檀金=閻浮堤の浮檀樹の下にあるという金塊。

   願以此功徳・・・=「観無量寿経疏(観経疏)」の冒頭の偈文の最後の四句。  

    474では「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経化城

    喩品第七)とある。

   「何者・・・=このあたり、文章が錯綜している感がある。大蛇の何者かの問い

    に、頼家の使いの新田であると答えてから、私は富士浅間大明神だと答えて、

    さらに、俺を探ろうとは新田、頼家共に後悔するぞ、と宣言したうえで、その

    太刀をわたしにくれぬか、というのが素直な展開だろう。

     でも、威張っているのに毒消しのために霊刀をくれとは厚かましい感があ

    る。私にはわかりづらい文章である。

 さて、かうの殿の御前に参りて、岩屋の節をかくと申す。かうの殿聞こし召し、岩屋の奥の有様見ぬ事、御心に懸けさせ給ひて、重ねて仰せけるやうは、「空き所の所領四百町あり。誰にてもあれ、所領望みの方々は人穴へ入り捜して参れ。」と仰せありければ、諸国の侍たち申しけるは、「命ありてこそ所領もほしけれ。死して後は何にかはせん。」とて、入らんといふ人もなし。

 かかりける所に、伊豆の国の住人、*新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、鎌足の大臣には十二代、*しろつみの中納言には十三代、新田の四郎忠綱心に思ふやう、「我らが持ちたる所領千六百町なり。かの四百町の所領を賜つて、二千町にして我が子の*まつぼう、おくぼうに千町づつ持たせばや。」と思ひ、かうの殿の御前に参り、「人穴へ入りてみん。」と申し上げられける。鎌倉殿聞こし召し、御喜びは限りなし。やがて四百町の*御判を賜つて御前を罷り立ち、まつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝ら承れ。我は鎌倉殿の御使ひに人穴へ入るべきなり。これと申すも汝を思ふ故なり。四百町の御判を賜つて、汝らに千町づつ持たせんがためなり。」と語り給へば、二人の子供申すやう、「父の御命がありてこそ千町万町もほしけれ。」とて留め申したりければ、忠綱仰せけるやうは、「たとへ人穴へ入りたればとて、*しるしなくば死ぬことあるまじきなり。心安く思ひ候へ。」と慰め給ひける。「もし死したるとも忠綱が事侘ぶべからず。いかにも兄弟仲良く*駆けるも引くも語り合はせて、君の御大事に罷り立ち、一門の名をも*上げべし。」と懇ろに教へ給へリ。兄弟の者ども力及ばずとて御前を罷り立ち、「いかに諸国の侍たち、我を憎しと思ふらん。よしそれとても力なし。我も人も子を思ふ習ひぞよ。*松・杉を植え置くも子供を思ふ道ぞかし。古き歌にも見えたり。

  *人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」

 と云ふ言の葉までも思ひ出だされたり。

 さる間、新田がその日の装束はいつにも優れて華やかなり。膚には*四ツ目変わりの帷子、脇深く解きて*精好の直垂に、*露を結んで肩に懸け、烏帽子懸け強くして、両の括り縫いて、*まふ総の太刀、*白鞘巻の刀、*爪紅(つまくれなゐ)の扇差し添へて、鎌倉殿より御不興(奉行かも?)を添へられたり(る?)*工藤左衛門の助を相具して、松明十六丁持たせ、七日といはん午の刻に帰り候はんとて新田は人穴へ入りにける。

(注)しろつみの中納言=未詳。

   新田(日田)の四郎忠綱(忠常)=仁田四郎忠常。1167~1123。

   まつぼう、おくぼう=忠常の子?忠常は北条義時に討たれ仁田家は断絶したとあ

    る。子に僧となった証入がいる。「小谷」では「松房・松若」、474では「か

    つはう・おくはう」、347では「まつはう・まつわが」。長男は「松房」だろ

    う。次男は「奥房?松若?」。

   御判=御判物。将軍が自署花押した文書。

   しるし=霊験、ご利益。ここでは逆に祟りか。

   駆けるも引くも=「平家物語・二度之懸」に「弓矢取りはかくるもひくも折にこ

    そよれ」とある。梶原景時がわが子に言った言葉である。

   上げべし=上ぐべし、か。

   松・杉を植え置くも子供を思ふ道=故事や諺による表現か?

   人の親の・・・=「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」

    (後撰集 雑一・藤原兼輔)。

   四ツ目変わり=四変(よつがわり)か?着物の全面左半分と右半分、背面の左半

    分と右半分が異なった色や柄になっている帷子(下着)。

   精好=精好織。絹織物の一種、精密で美しい織物の意。

   露=狩衣・水干などの袖を括る緒の垂れた端。「烏帽子おしなほし、ひたたれの

    つゆむすびて、かたにかけ」(曾我物語6)。

   まふ総=未詳。「房造り」とは、刀身の表面に「房」と呼ばれる突起を付けた装

    飾技法らしい。刀身彫刻の一種か。もしくは「まう房」という刀工が作った太

    刀か。

   白巻鞘=柄や鞘を銀で装飾した鞘巻。腰刀。

   爪紅の扇=縁(へり)を紅色に染めた扇。

   工藤左衛門の助=工藤左衛門尉祐経。「曾我物語」に登場する。474では弟の工

    藤(宇佐美)祐茂とする。

 かくて一町ばかり行けども何もなし。機織り給ふ女房もましまさず。佩いたる太刀を抜き持つて、四方をうち振りて行くほどに、六七町行きたると思へば*日本のごとくに月現れて、地の色を見れば青黄赤白黒の五色なる松原へぞ出でたりける。小川流れたり。足跡を見ればただ今人の渡りたると見えたり。この川を越してみれば八棟造りの檜皮葺きの御所続けて九つあり。この内へ入りて見れば軒より落ちける水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾く。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めつべし。よくよくうち入りて見れば瓔珞の珠を連ぬき懸けられたり。夜昼の差別(しやべつ)もなかりけり。蓮(はちす)の開くを見て昼と知り、つぼむを見ては夜ぞと知り、ある所を見れば今人の弾き慣れたと覚しくて、一面の琵琶を立てられたり。

 赤地の錦にて天上を張り青地の錦にて柱を巻き立て、その上を黄金白金をもつて飾りたり。ともに当たりて鳴る声は祇園精舎の鐘の声もかくやと思ひやられたり。心も言葉も及ばれず、我はただ極楽浄土へ参るよと思ひ、嬉しき事限りなし。かくて丑寅の方へ指したる道を見れば池あり。その内に島あり。島の上には*閻浮檀金(えんぶだごん)の光鮮やかなり。池に懸けたる橋を見れば、八十九間懸けられたり。かの端に八十九の鈴(りん)を付けられたり。一番は妙法蓮華経と囀(さやづ)れば法華経一部八巻二十八品の文字の数を悉く囀りける。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女、この経の功力によつて、一切衆生をみな九品の浄土に迎へとらせ給へと祈る。「*願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく ひゃうとうせひ一さい どうほつぼだひしん おふじやうあんらつこく):観経疏」と囀りけり。

 かの池の中には八葉の蓮華あり。水の色五色にしておもしろく、近く寄りて見れば御所東の庭に白金を延べて敷かれたり。

 内よりからこひ(からかひ)たる御声にて、*「何者なれば我が住む所へ来たりたるぞ。」とのたまひける。姿を見れば、口には朱を差したるごとく、眼は日月のごとくなり。その丈、はたいろ(二十尋?)ばかりなり。十六の角を振り立てて現れたり。口より吹く息は百丈ばかり、立ちあがる紅の舌を出だし給ふ、身の毛よだつばかりなり。「いかに新田承れ。自らをば如何なる者と思ふぞや。富士浅間大菩薩とは我がことなり。日本の主鎌倉殿、家(頼家?)のかうの殿が使ひなり。これへ入りて自らが姿を見すること、頼家が運が極めなり。恥づかしながら懺悔するなり。自らが六根は夜昼三度づつ苦しみあり。新田が持ちたる剣を参らせよ。我が六根に収むべし。」と仰せられければ、易きことなりとて、四尺八寸のまふぶさか造りの太刀を抜きて参らせければ、大菩薩受け取り給ひて、逆さまに六根に収め給ふ。「おなじく刀も参らせよ。」とありければ、やがて参らせける。これも六根に収め給ふ。

(注)日本のごとく=地上のように。

   八棟造り=神社の本殿形式の一つ。

   閻浮檀金=閻浮堤の浮檀樹の下にあるという金塊。

   願以此功徳・・・=「観無量寿経疏(観経疏)」の冒頭の偈文の最後の四句。  

    474では「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経化城

    喩品第七)とある。

   「何者・・・=このあたり、文章が錯綜している感がある。大蛇の何者かの問い

    に、頼家の使いの新田であると答えてから、私は富士浅間大明神だと答えて、

    さらに、俺を探ろうとは新田、頼家共に後悔するぞ、と宣言したうえで、その

    太刀をわたしにくれぬか、というのが素直な展開だろう。

     でも、威張っているのに毒消しのために霊刀をくれとは厚かましい感があ

    る。私にはわかりづらい文章である。

 その後大菩薩仰せに、「ただ今の剣の報幸に、汝に六道の有様をあらあら見せて帰すべし。」とて、毒蛇の形を引き変へて十七八の童子になり給ひて仰せけるやうは、「まことやらん、日本の衆生は地獄恐ろしといへども帰る者なし。極楽は楽みといへども見たる者なしといふに、地獄の有様を見せて帰さん。」とて、大菩薩の左の脇に新田を挟みて、まづ賽の河原を見せ給ふ。

 「いかに汝に見せる。承れ、*地獄の奉行を教へべし。一番に箱根、二番に伊豆の権現、三番に白山、四番にみづから、五番に三島の大明神、六番に越中立山の権現にてまします。無間地獄の奉行六人なり。*竜蔵権現にてわたらせ給ふ。*一百三十六地獄、奉行の御心にはなされ申しては、必ず地獄に堕つるなり。まづ賽の河原を見せん。」とて見せ給へば、七つ八つばかりの童部、三つ四つの幼き者ども手に手を取り組みて悲しむこと限りなし。新田これを見て、「あれはいかなる者ぞ。」と問ひ申せば大菩薩、「あれこそ娑婆にて親の胎内に九月がほど辛苦をさせて、その*恩の送らずしてむなしくなりたる者が、あのやうに河原へ出でて苦を受くりこと九千歳なり。」暫くありて火焔燃え出でければ、河原の石のみな炎となつて白骨となりにけり。ややあつて鬼ども来たり。鉄(くろがね)の錫にてくわつくわつと打ちければ、また元の幼き者となる。

 さて、西の方を見れば三途の川とて流れたり。この川の深きこと一万*由旬、広さも一万由旬なり。この川の端には「うばこせん(*優婆尊)」とて立ち給ふ。この前を通る罪人は衣装を二十五の罪に当てて、二十五枚剝ぎ取らるる。衣装なければ身の皮を剝ぎ取りびらんじゆ(衣領樹?)の木に懸け給ふ。天の羽衣になし給ふなり。この姥はすなはち大日如来の化身なり。

 さてこの川を渡りて見れば、死出の山あり。娑婆にて忌日を弔へば、魂魄来たりて山を隔てて言ふやうは、「娑婆にて命日を弔ふぞ。とくとく*俱生神へこの由を申せ。」と呼ばはれば、俱生神受け取り給ひて、八十億劫の罪を滅すとて、帝釈に申して千の札に付け給ひ九品の浄土へ参る者もあり。また傍らを見れば、ある罪人に重き石を付けて打ち苛む所あり。また鉄の巌の角を上れ上れと責むる所幾千万ともなし。大菩薩、「あれこそ娑婆にて馬に重きを付け商ひをしたる者よ。利を取る事をおもしろく思ひて、馬の息も知らず責め殺したる者、あの苦を受けて一万八千歳がほど浮かぶことなし。相構へて新田娑婆にて触れよ。ものいはぬものとて、馬に多く荷を付けべからず。地獄の種なり。

 また、ある所を見れば、罪人を剣の先に刺し貫きて責むる所もあり。剣の山を上れ上れと責むるかの罪人ども、*肉叢(ししむら)の落ちける事、ものによくよくたとふれば、血潮に染むる紅を咲き乱したるごとくなり。*あれこそ娑婆にて主・親の恩を送らずして、処処のすまひ(生活し?)、主・親を悪行したる者、かかる苦を受けて浮かぶことなし。また西の方を見れば、火の波・水の波夥しく立ち上がる所を渡れ渡れと鬼ども責むる。かの者どもに手枷足枷を掛けて、*四十四のつきふし・八十三の折骨・九億の毛穴ごとに釘を打つ所あり。新田、「あれはいかなる者。」と申す。大菩薩、「あれこそ娑婆にて*けんだんしよくを持ちたる者、あのやうに苦を受けて少しも心安き事なし。ただ人の持つまじきものはけんだんしよくなり。また東の方に高き所あり。新田を連れて見せ給ふに、東へ指したる道あり。*六道の辻なり。かの辻に*忍辱の衣を召したる法師二人立ち給ふ。かの前に罪人ども集まりて、仏なふ我を助け給へと悲しむ事限りなし。獄卒受け取りて無間へ堕とさんといふ。新田、「あれはいかなる者ぞ。」と申せば大菩薩のたまふやう、「あの法師と申すは*六道能化の地蔵菩薩と申し奉るなり。娑婆にありし時名利ばかりを好みて、娑婆にて地蔵菩薩とも唱へぬ者、今は助け給へと申せども、さらに用ひたまはず。娑婆にて触れよ。」と仰せたる。「極楽に参りたくば暁ごとに手を洗ひ地蔵の名号を百遍も二百遍も唱へべし。」と懇ろに教へ給ふ。

(注)地獄の奉行=どのような基準でこの六社が選定されたかは未詳。

   竜蔵権現=「竜蔵」は大乗経典の意だが、金華山には「竜蔵権現」と呼ばれる神

    社があるらしい。ここでは仏教由来の垂迹した神、という意味か。

   一百三十六地獄=八大地獄とそれぞれに属する各十六の小地獄計百二十八地獄を

    合わせていう。

   恩の送らず=恩に報いない。

   由旬=古代インドの距離の単位。7マイル(11.2キロ)とも9マイルとも。

   優婆尊=脱衣婆。三途の川岸で亡者の衣を剥ぎ取る鬼の老婆。

   俱生神=人の生まれた時から常にその両肩にあって善悪を記録するという男女二

    神。男神「同名」は左肩で善業を、女神「同生」は右肩で悪業を記録し閻魔王

    に報告するという。

   千の札=閻魔大王(ここでは帝釈天になっているが)に報告する善行・悪行を記

    録した札。

   肉叢の落ちける=肉が落ちるのではなく、剣に刺された肉体から血が滴る、の

    意だろう。

   あれこそ・・・=大菩薩の言葉。

   四十四のつきふし・・・=「つきふし」474では「わきふし」背中や脇などの可

    動域か。「おりほね」、日国では「腰骨」、関節か?四十四、八十三の数字を

    ヒントに調べる余地あり。

   けんだんしよく=未詳。「慳貪・私欲」か。

   六道の辻=六道に分かれる辻。

   忍辱の衣=袈裟。

   六道能化=六道にあって衆生を導く者。

 「新田よくよく聞け。六道といふは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天なり。*まづ畜生道を見せん。」とて、行き給ふに、蛇(くちなは)三筋あり。左右(さう)は女中に男を置きて巻き絡みて男の女口を吸ふ。吹く息は百丈ばかり立ち上がりけり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて二道かけて女房に胸を焦がせたる者よ。男女ともに一万三百四千歳がほど浮かぶ事なし。」。また、ある方を見れば、獄卒罪人を取つて押さへて舌を*二尋ばかり抜き釘を打つ処あり。また、眼を抜かるる処もあり。鉄の犬鴉ども肉叢を喰ひ乱す処あり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて親・主を悪行したる者、あのやうに苦を受くるなり。」また、ここに女の股を鋸にて引く処もあり。これは娑婆にて男一人持ちながら余(世?)の男に心を移したる女、あのやうに苦を受けて四百五千歳がほど浮かぶ事なし。また、ある処を見れば十二単を飾りたる女房の岩の上に立ちて、肉叢を引き裂き引き裂き獄卒ども喰ひ乱す処あり。この女わめき叫ぶことは限りなし。あれこそ娑婆にて*流れを立てたる女よろづの男を貪りて好きたりしによつて畜生道へ堕つるなり。また、ここに女の鼻の上に灯台を立て顔の皮を剝ぎ、油に垂るる処あり。「あれこそ娑婆にて男によく見られんとて、もとより見目悪く生まれつきたる容貌を、何とこしらへたればとて、よくもなるまじきに*一紙半銭なりとも後生のためにはなさずして、結句*くわんなどの札を配れば、あら忌まはしとて耳にも入れず。男に隠しては紅や白粉などをば買ひ取り、顔に塗りつけたる女、あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。」。

(注)まづ・・・=「次に」ぐらいの意か。以下の描写には六道を明確に分けて順序だ

    てている感じはない。

   二尋=一尋は四尺五寸乃至六尺。3メートルくらいか。

   流れを立てたる=遊女として生活を立てている。

   一紙半銭=ごくわずかなもののたとえ。寄進の額のわずかな場合に用いる。

   くわんなどの札=未詳。寄進を募るために配る御守り札か。「くわん」は願か。

 それを行き過ぎて見れば、ある罪人に鉄の*差し縄を三十筋つけて引つ張つて来る。よくよく見れば荒れたる尼なり。新田これを見て大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ上野国*あかつかの荘にうすひの尼と云ふ者なり。人の良くなるをば嫉み、人の憂ひを聞きては喜び、しかも富貴(ふつき)の家主と生まれて眷属を持つ事三百人に及べり。この者どもに塩・味噌をも食わせずして、我は朝夕の食ひ物を*綺麗にこしらへさせて喰ひ、さらに下人に情けがましき事もなし。ことに僧・法師を供養する事もなし。少しの利益をなさざれば、かの尼は*十王もさんだん(裁断)なし。すぐに無間へ堕とせとて釜底へ押し入れらるるなり。いかに新田、聞き候へ。男も女も地獄に堕つるとはいへども、中にも女の堕つるぞ、女の思ふ事みな悪道なり。しかる間、男の所へ近づかざる事一年の内に*八十四日忌まるるなり。かかる罪をば知らずして善根に傾かざることあはれなり。

 またここに鉄の綱を三十筋ばかりつけたる女を引つ張つて来たりたり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて*地頭にてありしが、咎もなき百姓に悪く当たり、物思ひさせたる者、胸に釘を打たれて、ふきは(吹きは?)百丈ばかり上る、その身は奈落に堕ちて浮かぶことなし。またある方を見れば、罪人を鉄の犬集まりて、肉叢を獅子・鳥と名付けて追ひ回し、喰ひ乱す処もあり。あれはいかなる業の者にて候ふと申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて物作る事を悲しく思ひ、人を貪りたる者あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。新田よくよく聞け。ただ人は田畑を作り年貢を捧げ余るところにて妻子を育み、僧法師を供養せば地獄に堕つる事あるまじきなり。」。

 またここに罪人を火の車に乗せて*めんつおんつ*阿防羅刹鉄の笞(しもつと)当てられて四十四年に落ち着きて、石の牢に籠められ浮かぶ事なし。娑婆にて後生を弔ふといへども浮かぶ事なし。新田、「あれはいかなる者。」と問ひ申せば大菩薩、「あれこそ遠江の国*そてしの宮の禰宜なり。神の田畑を*控へて妻子を育みて神祀る事もなし。*服(ぶく)をも忌まずして、*心経の一巻をも読む事もなき故にかかる苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事なし。*ただ人の持つまじきものは神主なり。かやうの者には近づくまでも地獄に堕つるなり。また、ここに舌を抜き出だされて叫ぶ者あり。また鉄の*丸(まるかし)を三十ばかり付けらるる女あり。これは娑婆にて咎もなき下人に咎を言ひつけ嘆かせたる女、かかる苦を受けて七千劫がほど浮かぶ事なし。またここに丈七尺ばかり法師を鬼どもが*竜の口入れて一日に三升四合の油を絞るなり。これは法師になりたりといへども、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも知らず、仏に香・花をも参らす事もなし。妻子ばかり愛して過ぎたる者この苦を受くる事九千歳なり。またここに衣、腰に着けたる法師無間のはたを走り廻る。これは娑婆にて法師にはなるといへども、*海なる魚の塩に浸(し)まぬごとくにて、人目ばかり仏法を願ひ、心の内には欲心ばかりを先として、人に振る舞ふ事もなくて、万民の貪りて過ぎたる出家があのやうに苦を受くるなり。されども出家の功力によりて無間には堕ちざりけり。

(注)差し縄=罪人をとらえて縛る縄。

   あかつかの荘=吾妻(あがつま)の荘か。吾妻郡には赤坂村というのもある。 

    「うすひ」は碓氷かとも思われるがよくわからない。347では「かまだの荘」

    とある。

   綺麗=豪華の意か。

   十王=十王は地獄へ堕とすかの裁断をするのだがそれもなく。もしくは「算

    段」か。

   八十四日=月経で1回七日物忌みすると年間で84日になる。

   地頭にてありしが=474では「ひとのしよりやうをおさへ、ちとう、まん所なと

    おいいたし」とある。

   めんつおんつ=笞の当て方の形容だろう。文脈上「とつおいつ(あれこれと)と

    いったニュアンスか。

   阿防羅刹=地獄の獄卒の一種。

   そてしの宮=未詳。347「そて殿の宮」474「そてうの宮」小谷「殿の氏神」。

   控へて=文脈上所領する、の意だが。

   服=服喪。

   心経=般若心経。

   ただ人の・・・=神主を否定したらその仕える神社はどうなのだろう。言ってい

    る当人は浅間大権現なのだが。「えせ神主」と解釈しておく。

   丸=まるかせ。囚人を繋留する鉄球。

   竜の口=竜の頭の形をした蛇口。そのような注ぎ口をもった容器か。

   海なる魚の塩に浸(し)まぬ=ことわざか。海にいても魚は塩に染まらない、と

    すれば、どんな環境にいても悪人は改まらないという意味か。

 またある処を見れば、腰の骨に釘を打たれ剣を以て切り裂かるるところに腹は四大海のごとくなる女あり。あれは娑婆にて男によく思はれんとて、若きよしをして懐妊し、子をあらし(あらじ)捨てたる女かかる苦を受けて十万劫がほど浮かぶ事なし。またここに*人の主と思しき者、下人と見えたる者に鉄の丸かしを懸けて無間の底へ押し入れらるる者あり。これは娑婆にて身を売りて、その売り状を取らずして逃げ失せたる者かかる苦を受けて八万劫がほど浮かぶ事なし。この由を新田、人に語り候へ。白き紙に黒き文字を書き、その状を取らずして我儘に振る舞ふ事、大きなる咎なり。殊に満ち済みたるにその状を出ださぬものも咎なり。また、天を見れば簪美(いつく)しき女瓔珞の玉の輿に乗りて黄金の幡を*大悲の風に吹き靡かして、*二十五の菩薩は音楽をなして、観音・勢至は影向し給ふ処あり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「常陸の国に*菊多の郡の女なり。しかも富貴の家に生まれて、心優しくて僧・法師を供養し無縁の者を育み、寒き者には衣装を与へ、殊にこの女は座頭に目をかけてあり。この上に弁財天の憐れみによつて、いよいよ富貴は日に増し年に増したり。されば座頭といふ者は人の用にもたたぬ者なり。かやうの者に深く志あるによつて妙音弁財天も守り給ふ。かの女房は幼けなき時より立居に慈悲を思ひけり。さればある歌にも、

  *仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

 かやうの歌を聞くにつけても志深かりけり。かくてかの女房を帝釈に申せ、九品浄土へ観音・勢至迎ひ(へ)給へリ。新田娑婆にて触れよ。他念なくして一切の人、牛馬に至るまで憐れみをなせば必ず極楽に参るぞ。また傍らを見れば鉄の綱を付けて少しも放さず、罪人を責むる。この縄にかかりて悲しむ事限りなし。これは娑婆にてよろづ生き物を殺したるによつて、かかる苦しみを受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。またある処を見れば、鬼ども百人して持つ石を、罪人の胸に上に押しかけて押す処あり。これは娑婆にて鳥の子を取りて喰ひ我ばかり味よきものを喰ひたる者がかかる苦を受けて六万劫がほど浮かぶ事なし。また入道を逆さまして頭より肉(ししむら)を剥(へ)ぎ取る処あり。新田大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて尊きふりをして、内心には欲心深くして、神仏は何とも思はずして、香・花奉る事もなく、念仏の一遍も申さず、人目ばかりなりし出家なり。」。またここに罪人の眼を錐にて揉む処あり。これは娑婆にて人の眼を*晦(くら)かし盗みをしたる者、あのやうに苦を受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。「いかに新田承れ。*教主釈尊の説き給へる経を読む人は仏に近き者なり。一字も知りたる者を悪行する事、無間の業なり。一字も知らざる者は盲目と同じことなり。」。また月日に腹をあふる事、そうして衣装を脱ぎて裸になる事、無間の相なり。またここに*紅蓮・大紅蓮の氷に身を閉ぢられて震へ*わためく者あり。あれこそ娑婆にて夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の物を盗み、衣装を剥ぎ取りたる者、かやうの氷に閉ぢられて悲しき事三万五千歳なり。

(注)人の主・・・=わかりずらい。地獄へ堕ちたのは主人なのか下人なのか。とりあ

    えず人身売買をしたのに、証明書を受け取らないで金だけ受け取って、下人も

    逃げてしまった、と解する。買った方は証明書がないので払い損となる。売買

    の証文の不正を罪だと言っているのだろう。

   大悲の風=大いなる慈悲のような優しい風。

   二五の菩薩=観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・師子吼・陀羅尼

    ・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・山海慧・金蔵・金剛蔵・光明王・華厳王・衆

    宝王・日照王・月光王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威

    徳王・無辺身の称。臨終の際に念仏を唱えると迎えに来るという菩

    薩。

   菊多の郡=福島県南東部にあった郡。

   仏とは・・・=一条拾玉抄所収の道歌。「いわま」は「言わま」と「岩間」をか

    ける。苔筵が慈悲心にどうつながるのかはわからない。

   晦かし=ごまかす。

   教主=教えを開いた人。仏。経文を唱えることの大切さを説くのであるが、前と

    うまくつながっていない。

   月日に腹をあふる事=「煽る」か「炙る」か。月の障り(生理)に腹を煽って冷

    やすことか。次の裸になるなというのも女に対してだろう。

   紅蓮・大紅蓮=八寒地獄の二つ。非常に寒い。

   わためく=「ふためく」か。ばたばたする。

 またここに尼のありけるが、年の盛り髪を下ろし後に後悔して、「あはれ我が髪さへあらば男に袂を引かれんものを。女の男に愛せらるるを見て妬(ねつた)び、「尼になりつる事よ、あらうらめしや。昔懐かしや。」とて、吹く風立つ波ににつけても歌を詠みたる風情にて、尼になりたる事をうち忘れ、*心も心ならず男をして懐妊し、*産の紐を解きたる者、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かるは目・鼻より血流れてせんかたなし。いまさら後悔すれどもかなはずして、畜生地獄に堕とされて苦を受くる事さらにひまなし。またここに女房のありけるに獄卒いふやうは、「娑婆にて男狂ひしたるその数を見よ。」とて鉄の丸かしを大方三百ばかり懸けさせて鉄の縄を付けて、鬼ども申しけるやうは、「己が好みし男の数は隠すといへども、十王の前にては少しも隠れなし。」とて一万五千歳がほど苦を受くるなり。またここに鉄の飯櫃に顔を入れて火焔となつて燃ゆる者あり。あれこそ娑婆にて食ひ物時、人の来るに惜しく思ひて顔を赤め腹を立ち、咎もなき下人や子に会ひて腹を立ちたる者、四十万劫がほど火焔となつて燃え焦がるるなり。されば食ひ物時人の来るに呉るれば、御施行とていかばかり利益は増すなり。今生は富貴なるなり。またある方を見れば女房に、髪を百しやう(尺?丈?)ばかりにして、先より火をつけて焚かるる者あり。「あれはいかなる者ぞ。」と問ひ申せば、「あれこそ娑婆にありし時、我が髪の一筋落つるをも千筋になさばやと思ひし者今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千歳がほど浮かぶ事なし。

 また子なき者とて罪深き事限りなし。また一人持ちたる者、後に子を生まざる女も罪深し。また女の月の障りなきもかくのごとし。かやうの者どもは、引き替へて富貴なり。善根はせずして、持ちたる上にも持たばやと思ひ、着たる上にも重ね着ばやと思ひしかども、死して後は風に木の葉散るがごとし。さればこのやうにあらん時は後生を大事に思ひて、善根をせよ。子供持ちたる人も、子によるべけれども、それは少しも後生の種なり。ただし親の浮かぶほど弔ふ子稀なり。またある処を見れば、手足を手斧(てうな)にて裂かるる者あり。あれは娑婆にて用もなき木を伐り枯らしたる者呵責せらるる事限りなし。

(注)心も心ならず=我を忘れて。

   産の紐を解きたる=出産した。

 *それを過ぎて、餓鬼道を見せんとて新田を連れて行き給ふ。

 ここに食物を前に据え置き喰はんとすれば、娑婆にて宝物は持ちたれども、人にも施さず我々も喰ふ事もなく、銭・米を持ちたる事をばおもしろく思ひ、寒さひだるさを堪忍して身を詰めたる者、餓鬼道へ堕ち五十万劫がほど浮かぶ事なし。いかに新田、娑婆にて触れよ。富貴にてもまた貧にても、分分に座敷を綺麗にして、衣装を嗜み食事を綺麗に拵へて、人にも喰はせ我々も喰ひすれば富貴にもなるなり。

 夢に見るもこの世の姿ならでは見ぬものなり。過去に善根をばせずして、現在にて有徳人を恨む事あらば、餓鬼道へ堕つるなり。またここに子を産みて裂き喰ふ者あり。あれは娑婆にて生身の子を売りて喰い、またまた幼けなき子を棄てたる者ども、あのやうに苦を受けて三百万劫がほど浮かぶ事なし。何と迷惑なりとも子を売り捨つる事なかれ。またある罪人に米一口含められて口より血流れて喰はれず。あれこそ娑婆にて人に物呉るる事悲しく思ひたる者、皆餓鬼道へ堕ちて浮かぶ事なし。

 また*餓鬼道の辻に出でて見れば、地蔵・帝釈の愛し給ふ者あり。あれこそ*三河の国の平田の郡に、平田入道、名をば妙心房といふ者、夫婦ともに語り合はせて、我娑婆にて子といふものを持たぬなりとて偏に憂き世を捨てて後世を祈る者童子となりて九品の浄土へ参る。かの浄土には三世の諸仏集まり給ひて、黄金の光堂を立て給ひたり。

 また畜生道を御覧ずれば、天を翔る翼、地を走る獣ども取り繋がれて、心安き事なし。あれこそ娑婆にて子が親に*思ひをかけ、人間は継母継子に思ひをかけたる者、これみな畜生道へ堕つるなり。

 また修羅道を見れば、炎立ち上る事夥しし、その中に弓箭(きうせん)を帯し兵仗(ひやうじやう)を調へて合戦暇なし。これは娑婆にて弓箭に会ひて死したる者、修羅道へ堕ちて苦を受くる事、二千三百歳なり。

 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天とて六道を見せ給ひて、その後新田を挟み閻魔の庁へ着かせ給ふ。

 その内に黄金の紫宸殿を建立せられたり。その内に*十王住ませ給ふ。善根をする者をば黄金の札に付け給ふ。悪をする者をば倶生神、鉄の札に付け給ふ。ここにまた鬼ども申すやう、「いかに罪人娑婆にて作りし罪*七歳よりの事見せん。」とて鉄の札を見せられけり。罪人申すやう、「それほどの罪は候はぬ。」と申せば、「さらば*業の秤にかけよ。」とてかけ給ふ。それをもとかく争ひ申せば、*浄玻璃の鏡見せよとて、やがて鏡を見せられたり。七歳よりの罪科少しも隠れなし。今は早や争ひ申しかねて臥し転び頭を地につけ、「あはれ仏なふ我を助け給へ。」と嘆き悲しめども、十王仰せけるは、「汝娑婆に子を持ちたるか。」とのたまへば、*子を持ちたるといふ者は獄卒に請ひ取りておかれける。子を持たざるといふ者をばやがて無間へ堕とさるる。相構へて慈悲心あるべし。あるいは鉄の臼にて引き搗かるる罪人あり。*念仏の行者を十王座を去って、礼をし給ふ。さて浄土へ送り給ふ。ここにある入道を、鉄の弓にて引き詰め差し詰めさんざんに射る処あり。あれは娑婆にて知らぬ経を知る体にして斎(とき)を喰い、布施を取り*囲繞渇仰せられたる出家があのやうなる苦を受けて悲しむなり。かかりけるところに大菩薩のたまひけるうやうは、「いかに罪人どもよくよく聞け。娑婆の者ども死して一七日、二七日、五七日、四十九日、百か日過ぐれども弔はざるをば獄卒ども無間へ堕とさん。」と言ふ。十王聞こし召し、涙を流し仰せけるは、「*いかに獄卒第三年を待ち候へ。」と請ひ給へば、それにも弔はざれば、獄卒ただ受け取り地獄に堕とさんといふ。十王仰せけるは、「さらに七年待ちて見よ。」と仰せける。それにも弔はざれば十三年を待ち候へと仰せける。それにも弔はざれば、この上はとて罪人を獄卒の手に渡し給ふ。情けなくも無間地獄へ堕としける。罪人立ち戻り、「あら尊(たふと)、十王なう我を助けたび給へ。」と悲しみけり。

(注)それを過ぎて・・・=この表現に従えばこれ以前は畜生道の描写ということにな

    るのだが、地獄との差異が判然としない。

   餓鬼道=少ししか触れていないが、この後修羅道にも少し触れて六道をコンプリ

    ートしたことになる。しかし、餓鬼道の描写にはなっていない。

   三河の国の平田の郡=愛知県蒲郡市に平田という地名がある。

   思ひをかけ=①執着する。②好意を持つ。③心配させる。③の意。

   兵仗=武器。

   十王=亡者の罪の軽重を糺す十人の判官をいうが、特に閻魔王をいう場合もあ

    る。

   七歳よりの事=「七つの前は神の内」という諺があり、七歳より前は神のうちに

    あるので罪科は問わないと思われていた。

   業の秤=地獄で生前の悪業の軽重を計るという秤。

   浄玻璃の鏡=閻魔の庁で亡者の生前の善悪を映し出す鏡。文字ではなく映像で示

    し亡者を納得させるのであろう。

   子を持ちたる=その子が親の後世を弔うからである。

   念仏の行者=つながりが不自然。唐突な描写。

   囲繞渇仰=周囲をとり囲んで深く信仰礼拝すること。

   いかに獄卒・・・=大菩薩の言葉に対して、獄卒に向かって答えるというのは矛

    盾する。訳では大菩薩に答える形にした。訳全体が逐語訳ではありません。

 「いかに新田地獄の体あらあら見せたり。いざや*ゆさん(遊山?)の体を見せん。」とて新田を引き具し*西の方へ行き給ふ。ここに橋四つあり。大菩薩、「あれこそ仏・菩薩、尊き人渡し給ふ九品の浄土へ入り給ふ。忝くも阿弥陀仏光鮮やかにして新たなり。池のほとりには*鳧雁鴛鴦(ふがんゑんあう)の波の音おもしろく、黄金の幡を大悲の風に靡かし、二十五の菩薩音楽をなして舞ひ遊び給ふ。かかるところに花降り下り心言葉も及ばず。新田かくてもかくてもあらまほしくぞ思ひける。なほも仏菩薩の住ませ給ふところを見せんとて、大菩薩新田を引き具して拝ませ給ひける。地蔵・*竜樹・観音・勢至・三世の諸仏住ませ給ふところに、座禅入定のところもあり、法華三昧の床もあり、真言の行者のところもあり。せんこく(善根か)に傾くところもあり。かかる中にも愚痴ばかり、*欲心念を構へたる者は、六根に釘を打たるるなり。

 ここに女房毒蛇に喰はれて叫ぶ処あり。これは娑婆にて男に念を懸けられて、その思ひを晴れやらぬ女、一万五千歳がほど浮かぶ事なし。またここに男善根に思ひ立てば女房顔を赤め、「今生こそ大事なれ。後生の事は何ともならばなれ、あら嫌の善根や。」と思ひ、我が衣装などにはせばやと思ひたる女房が、剣の先に懸けられて五千万劫がほど浮かぶ事なし。いかにも男と女房語り合はせて、女は男をいかにも勧め、男女房を勧めて善根をせよ。

 今生は夢の内の夢なるに、千年万年も送るべきと思ひ、持ちたる上にも持ち重ねばやと思ひ、着たる上にも着重ねばやと思ひたる者、地獄の種なり。ただ世の中をばあるに任せて過ぎよ。今生はわづか五十六十年が間なり。行く末久しく浄土へ生まれて楽しむべき事をば知らざる者まことに愚痴なり。返す返すも善根に傾くべし。善根に傾く者には邪魔・外道も障礙をなさず。今生にては栄華に誇り後生にては極楽浄土へ参るなりとよくよく教へ給ふ。

 その後大菩薩仰せけるやうは、「新田に見せたき事ども多かりけれども、あらあら見せて帰すべき。」とて、黄金の草子三帖*あそばして、新田に渡し給ふ。「いかに新田承れ。自らが体、また地獄極楽のありさま、ありのままに語るべからず。三年三月過ぎて、かうの殿にも語るべし。そのうちに語るほどならば、汝が命を取るべきなり。かうの殿が命もあるまじきぞ。地獄うつしてはいかがせん。はやはや本国へ帰さん。」とて東へ指したる道を送り出だし給ふとて、大菩薩重ねて仰せけるやうは、「返す返す自らがありさま語るべからず。」とのたまひて、失せ給ふ。さるほどに新田は本国へ七日と申せば帰り給ふ。

 さるほどに新田、君の御前に参り、この由かくと申し上げければ、かうの殿聞こし召し御喜びは限りなし。かかりけるところに国々の大名新田の物語を聞かんとて、落縁・広縁、鞠の懸りまでも貴賤群集をなし給ふ。さる間かうの殿*木賊(とくさ)色の狩衣召し、高座に直らせ給ひて、「いかに新田、岩屋の内にいかなる不思議かある。とくとく語り申せ。」と御定ありけり。新田畏まつて頭を地につけて申すやう、「岩屋のありさま語り申し候はんこと安き御事にて候へども、語り申しては君の御大事たちまちあるべし。それが命もあるまじきなり。さていかがせんと申し上げければ、重ねて御定あるやうは、「たとへ大事ありともとくとく語り申せ。」との御定なり。畏まつて笏立て直して申すやう、岩屋の体、または六道四生のありさま、地獄極楽浄土の体、細やかに語りける。

 聞く人皆耳を澄まして、さてもおもしろき事かなとささめき給ふ。この物語をものによくよくたとへば、釈尊の*富楼那尊の御説法もかくやと思ひ合わせたり。生死の眠りを覚ましけり。

 さる間、新田語りも果てず四十一と申すには朝の露と消えにけり。さてまた、天に声あつて呼ばはりけるやうは、「自らがありさま語らせたる頼家も助かるべからず。忠綱命もたちまち取るなり。」とて失せにけり。国々の大名これを聞き、恐ろしき事限りなし。

 さて忠綱が死骸をば、伊豆の国新田へ送り給ふ。*まつほう・おくほう・にうはう・なんはうこれを見て、そもいかなる御事ぞやとて泣き悲しむ事限りなし。さてあるべきにてあらざれば、煙となし白骨と取り集め孝養(けうやう)行ひ給ふ。さて松ほう・おくほう今に繁盛する事限りなし。

 みなみなこの草子を御覧ずる人は、すなはち富士浅間大菩薩と拝み奉るべし。読む人聞く人も精進をなし、よくよく聞きて念仏と申し、後生を願ひ、南無富士浅間大菩薩と百遍唱へべし。よくよくこれを保ち候はば、三悪道へ堕つる事あるべからず。よつて富士の人穴の物語かくのごとくなり。

(注)ゆさん=今まで凄惨な地獄の様子を見せていたので、今度は遊山のように楽しく

    極楽の様子を見せようという事か。

   西の方=西方浄土のある方角。

   新たなり=霊験や効果が著しい。あらたかなり。

   鳧雁鴛鴦=かも、がん、おしどり。水鳥。

   竜樹=実在の人物だが、竜樹菩薩として仏に数えられる。

   欲心念を構へたる=欲望の心念を持った者か。

   あそばして=「する」の尊敬語。ここでは、「書く」の意。347、474、小谷では

    年季が明けたら物語はせずに草子を見せて教え広めよ、とある。そのほうがわ

    かりやすい。

   木賊色の狩衣=黒っぽい緑色の狩衣。武士が好んだ色のようである。

   富楼那尊=釈迦の十大弟子の一人。富楼那尊者。説法第一とされ、弁舌に巧み。

   まつほう・おくほう・にうはう・なんはう=松房・奥房、は連想できるが女房、

    まではいいとして「なんぼう」は何なのか。北の方に対する南の方なのか。新

    田のお家は断絶して繁栄はないはずだが。

 

 本書は写本がとても多いようである。細かい部分の異同もかなりある。多くの人々に書写され人口に膾炙したのであろう。我々の価値観とはかなり異なり、なんだかなあと思われる表現も多い。しかし当時の人々にとっては奇抜な内容ではなく、「奇書」と呼ばれるようなものではなかったろうと思う。

 ただ、このシリーズは「異郷(ユートピア)」をテーマにするつもりだったので、地獄の描写の連続にはかなり閉口しました。もっと不思議系がいいなあ。

 

富士の人穴の草子⑤-異郷譚4ー

その5

 その畜生道を過ぎて、大菩薩は餓鬼道を見せようということで新田を連れて行きなさいます。

 ここにはまた、食物が前に据え置かれていても食べることができない者がいます。これは娑婆では財宝は持ってるのに、食事は他人にも施さず自分でも食べることを惜しんで、銭・米を持っている事を楽しみとして、寒さひもじさ我慢して節約していた者で、その者は、餓鬼道へ堕ち五十万劫がほども浮かばれる事がありません。「さあ新田、娑婆で皆に触れなさい。富貴であってももまた貧乏であっても、その分に応じて座敷を綺麗にして、きちんとした身なりをし、食事を綺麗に誂えて、人にも喰わせ自分も食べれば富貴にもなるのだ。夢に見るといってもこの世の姿以外のものは見ない。過去に善根を積まないで、現在に有徳の人を恨む事があるならば、餓鬼道に堕ちるのだ。」。

 またここには子を産んでその子を裂き喰らう者がいます。「あれは娑婆で生身の子を売って自分が食いつなぎ、または幼いを棄てた者どもが、あのように苦を受けて三百万劫ほどは浮かばれないのである。いかに煩わしくても子を売ったり捨てたりしてはいけない。」。

 またある罪人が米を一口含められているのに口から血が流れて食うことができません。「あれは娑婆で人に食物を与える事を惜しく思った者が、皆餓鬼道へ堕ちて浮かぶ事がないのだ。」。

 また餓鬼道の辻に出でて見ると、地蔵・帝釈の愛しなさっている者がいます。「あれは三河の国の平田の郡の、平田入道で名を妙心房という者である。夫婦ともに語り合わせて、私たちは娑婆では子というものを持つまい、としてひたすら憂き世を捨てて後世を祈ったのだ。二人は童子となって九品の浄土へ参りるのだ。かの浄土には三世の諸仏が集まりなさって、黄金の光堂を立てて住みなさっているという。」。

 また畜生道を御覧になると、天を翔る翼の鳥、地を走る獣どもが取り繋がれて、心安まることなく苦しめられています。あれは娑婆で子が親に心配をさせ、人間で継母継子に心配させた者が、みんな畜生道へ堕ちるのです。

 また修羅道を見ると、炎が夥しく立ち上っています、その中では弓箭(弓矢)を身に着け兵仗(武器)を調達して合戦に暇ありません。これは娑婆で弓矢当たって死んだ者で、修羅道へ堕ちて苦を受ける事、二千三百年です。

 このように地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天という六道をお見せになって、その後新田を脇に挟んで閻魔の庁へお着きになります。

 閻魔の庁はその内に黄金の紫宸殿が建立されています。その中に閻魔王をはじめ十王がお住みになっています。善根をする者は倶生神が黄金の札に書き付けなさいます。悪をする者は、鉄の札に書き付けなさいます。ここでまた鬼どもが、「さあ罪人よ神の領域を離れた七歳以降の娑婆で作った罪を見せよう。」と申して鉄の札を見せます。罪人が、「それほどの罪はございません。」と申すと、「それならば業の秤にかけよ。」とてかけなさいます。それに対してもとかく抗うので、「浄玻璃の鏡見せよ」と言って、すぐさま鏡をお見せになります。そこには神の域から人となった七歳以降の罪科が少しの隠れもなく映し出されてあります。こうなっては最早言い争いもしかねてひれ臥し頭を地につけて、「ああ仏様よ私をお助けください。」と嘆き悲しんで訴えますが、十王(閻魔大王)が、「汝は娑婆で子を持っていたか。」とおっしゃいますと、子を持っていたと答えた者は獄卒に請い、保留しておき、子を持たなかったという者は即座に無間地獄へ堕とされます。子が親の後世を弔うかもしれないからです。十王には必ずや慈悲の心があるのです。

 また鉄の臼で引かれき搗かれている罪人がいます。

 念仏の行者には十王は座を降りて、礼をもって待遇します。そうして浄土へ送りなさいます。

 こちらにはある入道を、鉄の弓で絶え間なく矢を射る処があります。あれは娑婆で知りもしないお経を知っているふりをして施しの斎(とき)を食べ、お布施を受け取って皆にとり囲まれて深く信仰礼拝された出家者で、あのように苦を受けて悲しんでいるのです。

 このようなところで大菩薩は、「さあ罪人どもよくよく聞きなさい。娑婆に残った者ども(家族など)が死んで一七日、二七日、五七日、四十九日、百か日を過ぎても死者を弔わないと獄卒どもは無間地獄へ堕とすぞ。」とおっしゃいます。十王はお聞きになって、涙を流しながら、「いやいや獄卒には三回忌をお待たせください。」とお願いなさると、「それでも弔わなかったら、獄卒にただちに受け取らせて地獄に堕とそう。」と言います。十王は、「さらに七年を待ってみてください。」とおっしゃいます。「それでも仏事を行わなければ十三回忌をお待ちください。」とおっしゃいました。それでも弔わなければ、この上はいたしかたないということで罪人を獄卒の手に渡しなさいます。無情にも無間地獄へ堕とすのでした。罪人はいったんは立ち戻って、「ああ尊い十王よ私を助けてください。」と悲しみ訴えます。

 「さあ新田よ地獄の様子の概略を見せたぞ。それでは今度は遊山のように楽しい極楽浄土の様子を見せよう。」といって新田を引き連れて西の方へ行かれます。そこには橋が四つあります。大菩薩は、「あれこそ仏・菩薩、尊い人を渡して九品の浄土へ入りなさる橋である。」とおっしゃいます。その向こうにいる阿弥陀仏は畏れ多くも光鮮やかにして霊験あらたかです。池のほとりには鳧雁鴛鴦が波の音も趣深く泳ぎ、黄金の幡を大悲の風に靡かせて、二十五の菩薩が音楽を演奏して舞い遊びなさっています。このようなところで花が天から降り下りて、心も言葉も及ばないほど美しい光景です。新田はこのような素晴らしい所にはずっといたいと思いました。大菩薩はなお仏菩薩のお住みになっているところを見せようと、新田を引き連れて拝ませなさいます。地蔵・竜樹・観音・勢至などの三世の諸仏がお住みになっているところや、座禅入定のところもあり、法華三昧の床もあり、真言の行者のところもあります。

 善根を傾けた者が暮らしているところもあります。このような中でも愚かで痴れ者で、欲の心念を持った者は、六根に釘を打たれ(て地獄に堕ち)るのです。

 ここに女房が毒蛇に喰われて叫んでいる処があります。これは娑婆で男に好意を懸けられて、その思いに報いない女で、一万五千年がほども浮かばれる事はありません。

 またここには男が善根を思い立っ(て施しをしようとし)たのに女房は顔を赤らめ(怒りで顔を真っ赤にし)、「今生こそ大事です。後生の事はどうなってもかまいません、なんとも嫌な善根ですよ。」と思い、施すべきものをも自分の衣装などにしようと思った女房が、剣の先に懸けられて五千万劫がほども浮かばれる事はありません。

 夫婦という者はどうにかして男と女房は相談し合って、女は男をいいように勧め、男は女房を勧めて善根をしなさい。

 「今生は夢の中の夢なのに、千年万年も生きていられると思い、財産を持ってもさらに重ねて持ちたいと思い、衣装は着ている上にも着重ねたいと思っている者は、地獄に堕ちる種である。ただ世の中をばあるに任せて過ごしなさい。今生はわずか五十六十年の間である。その行く末に久しく浄土に生まれて楽しむべき事を知らない者はまことに愚痴である。返す返すも善根に傾けなさい。善根に傾く者には邪魔・外道も障礙をしない。今生では栄華を誇り後生では極楽浄土へ参るのだ。」と、大菩薩はよくよく教えなさいます。

 その後大菩薩は、「新田よ、汝に見せたい事は多いのだが、概略は見せたので帰そう。」と言って、黄金の草子三帖に地獄・天国の様子をお描きになり、新田にお渡しになります。「さあ新田お聞きなさい。私の様子、また地獄・極楽のありさま、ありのままを人に語ってはいけない。三年三月過ぎたなら督の殿(頼家)にだけは語ってもよい。それ以前に語るとしたら、汝の命は取ってしまうぞ。督の殿の命もないであろうぞ。(他の者にはこの草子を見せて地獄極楽を示しなさい。)さあ地獄はこの草子に描き写してしまった。もうこれでいいだろう。もはや本国へ帰そう。」ということで東へ向かった道に送り出だしなさって、大菩薩は重ねて、「返す返すも私の様子を語ってはいけない。」とおっしゃって、やがて消えてしまいます。そうして新田は七日ほどで本国へとお帰りになりました。

 そうして帰朝した新田は、君の御前に参って、帰朝の由を申し上げますと、督の殿はお聞きになって喜ぶことこの上ありません。こうしていると諸国の大名も新田の物語を聞こうとして、落縁・広縁、鞠の懸りまでも貴きも賤しきも群集をなして集まりなさいます。そうして督の殿は木賊色の狩衣を召して、高座に居ずまいを正してお座りになり、「さあ新田よ、岩屋の内ではどのような不思議があったのか。とくとく語り申せ。」との御命令がありました。新田畏まって頭を地につけて申すには、「岩屋のありさまを語り申し上げることは安き事ではございますが、語り申し上げると君に御大事がたちまちあるでしょう。私の命も絶えてしまいます。さてどうしましょうか。」。すると、重ねて、「たとえ大事があったとしても即座に語り申せ。」とのご命令です。新田は畏まって笏を立てて居ずまいを直して、岩屋の体、または六道四生のありさま、地獄極楽浄土の体を、細やかに語りました。

 聞く人は皆耳を澄まして、「なんとおもしろい事かな。」とさざめきなさいます。この語りはたとえるならば、釈尊富楼那尊者の御説法もこうなのかと思われる巧みさでした。生死の眠りをさえ覚ますようです。

 こうしている間に、新田はその始終も語りも果てずに四十一歳と申す時には朝の露と消えてしまうのです。

 さて、天からは、「私の様子を語らせた頼家は助かることはできないだろう。そのきっかけとなった新田忠綱の命もすぐさま奪おう。」とよばわるこえがあって、二人とも死んでしまいました。諸国の大名はこれを聞いて、恐れ慄いたでした。

 やがて忠綱の死骸を、伊豆の国新田へ送りなさりますと、松房・おく房・女房・なん房はこれを見て、なんという事だとただひたすら泣き悲しみます。そうはいってもそのままではいられませんので、火葬して白骨と取り集め孝養行いなさいます。その後、松ほう・おくほう今に繁盛する事この上ありません。

 みなみなこの草子(秘伝とされたこの草子を)を御覧になる人は、即座にも富士浅間大菩薩と拝み奉りなさい。読む人も聞く人も精進をなして、よくよく聞いて念仏を申し、後生を願い、南無富士浅間大菩薩と百遍唱えなさい。よくよくこれを保つならば、三悪道地獄道畜生道・餓鬼道、修羅道はいいのか?)へ堕ちる事はないだでしょう。

 という事で、「富士の人穴の物語」は以上です。

原文

 *それを過ぎて、餓鬼道を見せんとて新田を連れて行き給ふ。

 ここに食物を前に据え置き喰はんとすれば、娑婆にて宝物は持ちたれども、人にも施さず我々も喰ふ事もなく、銭・米を持ちたる事をばおもしろく思ひ、寒さひだるさを堪忍して身を詰めたる者、餓鬼道へ堕ち五十万劫がほど浮かぶ事なし。いかに新田、娑婆にて触れよ。富貴にてもまた貧にても、分分に座敷を綺麗にして、衣装を嗜み食事を綺麗に拵へて、人にも喰はせ我々も喰ひすれば富貴にもなるなり。

 夢に見るもこの世の姿ならでは見ぬものなり。過去に善根をばせずして、現在にて有徳人を恨む事あらば、餓鬼道へ堕つるなり。またここに子を産みて裂き喰ふ者あり。あれは娑婆にて生身の子を売りて喰い、またまた幼けなき子を棄てたる者ども、あのやうに苦を受けて三百万劫がほど浮かぶ事なし。何と迷惑なりとも子を売り捨つる事なかれ。またある罪人に米一口含められて口より血流れて喰はれず。あれこそ娑婆にて人に物呉るる事悲しく思ひたる者、皆餓鬼道へ堕ちて浮かぶ事なし。

 また*餓鬼道の辻に出でて見れば、地蔵・帝釈の愛し給ふ者あり。あれこそ*三河の国の平田の郡に、平田入道、名をば妙心房といふ者、夫婦ともに語り合はせて、我娑婆にて子といふものを持たぬなりとて偏に憂き世を捨てて後世を祈る者童子となりて九品の浄土へ参る。かの浄土には三世の諸仏集まり給ひて、黄金の光堂を立て給ひたり。

 また畜生道を御覧ずれば、天を翔る翼、地を走る獣ども取り繋がれて、心安き事なし。あれこそ娑婆にて子が親に*思ひをかけ、人間は継母継子に思ひをかけたる者、これみな畜生道へ堕つるなり。

 また修羅道を見れば、炎立ち上る事夥しし、その中に弓箭(きうせん)を帯し兵仗(ひやうじやう)を調へて合戦暇なし。これは娑婆にて弓箭に会ひて死したる者、修羅道へ堕ちて苦を受くる事、二千三百歳なり。

 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天とて六道を見せ給ひて、その後新田を挟み閻魔の庁へ着かせ給ふ。

 その内に黄金の紫宸殿を建立せられたり。その内に*十王住ませ給ふ。善根をする者をば黄金の札に付け給ふ。悪をする者をば倶生神、鉄の札に付け給ふ。ここにまた鬼ども申すやう、「いかに罪人娑婆にて作りし罪*七歳よりの事見せん。」とて鉄の札を見せられけり。罪人申すやう、「それほどの罪は候はぬ。」と申せば、「さらば*業の秤にかけよ。」とてかけ給ふ。それをもとかく争ひ申せば、*浄玻璃の鏡見せよとて、やがて鏡を見せられたり。七歳よりの罪科少しも隠れなし。今は早や争ひ申しかねて臥し転び頭を地につけ、「あはれ仏なふ我を助け給へ。」と嘆き悲しめども、十王仰せけるは、「汝娑婆に子を持ちたるか。」とのたまへば、*子を持ちたるといふ者は獄卒に請ひ取りておかれける。子を持たざるといふ者をばやがて無間へ堕とさるる。相構へて慈悲心あるべし。あるいは鉄の臼にて引き搗かるる罪人あり。*念仏の行者を十王座を去って、礼をし給ふ。さて浄土へ送り給ふ。ここにある入道を、鉄の弓にて引き詰め差し詰めさんざんに射る処あり。あれは娑婆にて知らぬ経を知る体にして斎(とき)を喰い、布施を取り*囲繞渇仰せられたる出家があのやうなる苦を受けて悲しむなり。かかりけるところに大菩薩のたまひけるうやうは、「いかに罪人どもよくよく聞け。娑婆の者ども死して一七日、二七日、五七日、四十九日、百か日過ぐれども弔はざるをば獄卒ども無間へ堕とさん。」と言ふ。十王聞こし召し、涙を流し仰せけるは、「*いかに獄卒第三年を待ち候へ。」と請ひ給へば、それにも弔はざれば、獄卒ただ受け取り地獄に堕とさんといふ。十王仰せけるは、「さらに七年待ちて見よ。」と仰せける。それにも弔はざれば十三年を待ち候へと仰せける。それにも弔はざれば、この上はとて罪人を獄卒の手に渡し給ふ。情けなくも無間地獄へ堕としける。罪人立ち戻り、「あら尊(たふと)、十王なう我を助けたび給へ。」と悲しみけり。

(注)それを過ぎて・・・=この表現に従えばこれ以前は畜生道の描写ということにな

    るのだが、地獄との差異が判然としない。

   餓鬼道=少ししか触れていないが、この後修羅道にも少し触れて六道をコンプリ

    ートしたことになる。しかし、餓鬼道の描写にはなっていない。

   三河の国の平田の郡=愛知県蒲郡市に平田という地名がある。

   思ひをかけ=①執着する。②好意を持つ。③心配させる。③の意。

   兵仗=武器。

   十王=亡者の罪の軽重を糺す十人の判官をいうが、特に閻魔王をいう場合もあ

    る。

   七歳よりの事=「七つの前は神の内」という諺があり、七歳より前は神のうちに

    あるので罪科は問わないと思われていた。

   業の秤=地獄で生前の悪業の軽重を計るという秤。

   浄玻璃の鏡=閻魔の庁で亡者の生前の善悪を映し出す鏡。文字ではなく映像で示

    し亡者を納得させるのであろう。

   子を持ちたる=その子が親の後世を弔うからである。

   念仏の行者=つながりが不自然。唐突な描写。

   囲繞渇仰=周囲をとり囲んで深く信仰礼拝すること。

   いかに獄卒・・・=大菩薩の言葉に対して、獄卒に向かって答えるというのは矛

    盾する。訳では大菩薩に答える形にした。訳全体が逐語訳ではありません。

 「いかに新田地獄の体あらあら見せたり。いざや*ゆさん(遊山?)の体を見せん。」とて新田を引き具し*西の方へ行き給ふ。ここに橋四つあり。大菩薩、「あれこそ仏・菩薩、尊き人渡し給ふ九品の浄土へ入り給ふ。忝くも阿弥陀仏光鮮やかにして新たなり。池のほとりには*鳧雁鴛鴦(ふがんゑんあう)の波の音おもしろく、黄金の幡を大悲の風に靡かし、二十五の菩薩音楽をなして舞ひ遊び給ふ。かかるところに花降り下り心言葉も及ばず。新田かくてもかくてもあらまほしくぞ思ひける。なほも仏菩薩の住ませ給ふところを見せんとて、大菩薩新田を引き具して拝ませ給ひける。地蔵・*竜樹・観音・勢至・三世の諸仏住ませ給ふところに、座禅入定のところもあり、法華三昧の床もあり、真言の行者のところもあり。せんこく(善根か)に傾くところもあり。かかる中にも愚痴ばかり、*欲心念を構へたる者は、六根に釘を打たるるなり。

 ここに女房毒蛇に喰はれて叫ぶ処あり。これは娑婆にて男に念を懸けられて、その思ひを晴れやらぬ女、一万五千歳がほど浮かぶ事なし。またここに男善根に思ひ立てば女房顔を赤め、「今生こそ大事なれ。後生の事は何ともならばなれ、あら嫌の善根や。」と思ひ、我が衣装などにはせばやと思ひたる女房が、剣の先に懸けられて五千万劫がほど浮かぶ事なし。いかにも男と女房語り合はせて、女は男をいかにも勧め、男女房を勧めて善根をせよ。

 今生は夢の内の夢なるに、千年万年も送るべきと思ひ、持ちたる上にも持ち重ねばやと思ひ、着たる上にも着重ねばやと思ひたる者、地獄の種なり。ただ世の中をばあるに任せて過ぎよ。今生はわづか五十六十年が間なり。行く末久しく浄土へ生まれて楽しむべき事をば知らざる者まことに愚痴なり。返す返すも善根に傾くべし。善根に傾く者には邪魔・外道も障礙をなさず。今生にては栄華に誇り後生にては極楽浄土へ参るなりとよくよく教へ給ふ。

 その後大菩薩仰せけるやうは、「新田に見せたき事ども多かりけれども、あらあら見せて帰すべき。」とて、黄金の草子三帖*あそばして、新田に渡し給ふ。「いかに新田承れ。自らが体、また地獄極楽のありさま、ありのままに語るべからず。三年三月過ぎて、かうの殿にも語るべし。そのうちに語るほどならば、汝が命を取るべきなり。かうの殿が命もあるまじきぞ。地獄うつしてはいかがせん。はやはや本国へ帰さん。」とて東へ指したる道を送り出だし給ふとて、大菩薩重ねて仰せけるやうは、「返す返す自らがありさま語るべからず。」とのたまひて、失せ給ふ。さるほどに新田は本国へ七日と申せば帰り給ふ。

 さるほどに新田、君の御前に参り、この由かくと申し上げければ、かうの殿聞こし召し御喜びは限りなし。かかりけるところに国々の大名新田の物語を聞かんとて、落縁・広縁、鞠の懸りまでも貴賤群集をなし給ふ。さる間かうの殿*木賊(とくさ)色の狩衣召し、高座に直らせ給ひて、「いかに新田、岩屋の内にいかなる不思議かある。とくとく語り申せ。」と御定ありけり。新田畏まつて頭を地につけて申すやう、「岩屋のありさま語り申し候はんこと安き御事にて候へども、語り申しては君の御大事たちまちあるべし。それが命もあるまじきなり。さていかがせんと申し上げければ、重ねて御定あるやうは、「たとへ大事ありともとくとく語り申せ。」との御定なり。畏まつて笏立て直して申すやう、岩屋の体、または六道四生のありさま、地獄極楽浄土の体、細やかに語りける。

 聞く人皆耳を澄まして、さてもおもしろき事かなとささめき給ふ。この物語をものによくよくたとへば、釈尊の*富楼那尊の御説法もかくやと思ひ合わせたり。生死の眠りを覚ましけり。

 さる間、新田語りも果てず四十一と申すには朝の露と消えにけり。さてまた、天に声あつて呼ばはりけるやうは、「自らがありさま語らせたる頼家も助かるべからず。忠綱命もたちまち取るなり。」とて失せにけり。国々の大名これを聞き、恐ろしき事限りなし。

 さて忠綱が死骸をば、伊豆の国新田へ送り給ふ。*まつほう・おくほう・にうはう・なんはうこれを見て、そもいかなる御事ぞやとて泣き悲しむ事限りなし。さてあるべきにてあらざれば、煙となし白骨と取り集め孝養(けうやう)行ひ給ふ。さて松ほう・おくほう今に繁盛する事限りなし。

 みなみなこの草子を御覧ずる人は、すなはち富士浅間大菩薩と拝み奉るべし。読む人聞く人も精進をなし、よくよく聞きて念仏と申し、後生を願ひ、南無富士浅間大菩薩と百遍唱へべし。よくよくこれを保ち候はば、三悪道へ堕つる事あるべからず。よつて富士の人穴の物語かくのごとくなり。

(注)ゆさん=今まで凄惨な地獄の様子を見せていたので、今度は遊山のように楽しく

    極楽の様子を見せようという事か。

   西の方=西方浄土のある方角。

   新たなり=霊験や効果が著しい。あらたかなり。

   鳧雁鴛鴦=かも、がん、おしどり。水鳥。

   竜樹=実在の人物だが、竜樹菩薩として仏に数えられる。

   欲心念を構へたる=欲望の心念を持った者か。

   あそばして=「する」の尊敬語。ここでは、「書く」の意。347、474、小谷では

    年季が明けたら物語はせずに草子を見せて教え広めよ、とある。そのほうがわ

    かりやすい。

   木賊色の狩衣=黒っぽい緑色の狩衣。武士が好んだ色のようである。

   富楼那尊=釈迦の十大弟子の一人。富楼那尊者。説法第一とされ、弁舌に巧み。

   まつほう・おくほう・にうはう・なんはう=松房・奥房、は連想できるが女房、

    まではいいとして「なんぼう」は何なのか。北の方に対する南の方なのか。新

    田のお家は断絶して繁栄はないはずだが。

 

 本書は写本がとても多いようである。細かい部分の異同もかなりある。多くの人々に書写され人口に膾炙したのであろう。我々の価値観とはかなり異なり、なんだかなあと思われる表現も多い。しかし当時の人々にとっては奇抜な内容ではなく、「奇書」と呼ばれるようなものではなかったろうと思う。

 ただ、このシリーズは「異郷(ユートピア)」をテーマにするつもりだったので、地獄の描写の連続にはかなり閉口しました。もっと不思議系がいいなあ。

 

 

富士の人穴の草子④-異郷譚4ー

その4

 「新田よよく聞け。六道というのは地獄道・餓鬼道・畜生道修羅道・人道・天道である。次に畜生道を見せよう。」と言って、先に進みなさると、蛇が三匹います。左右は女の蛇で真ん中に男の蛇を置いて巻き絡んで男が女の口を吸っています。その吹く息は炎が百丈ばかり立ち上がっていました。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩は、「あれこそ娑婆で二股かけて女房に胸を焦がしたる者であるよ。男女ともに一万三百四千年は浮かばれる事はないのだ。」とおっしゃいます。

 また、ある方角を見れば、獄卒が罪人を取り押さえて舌を二尋(3メートル)ほど引き抜かれて釘を打たれている者のいる処があります。また、眼をくり抜かれている処もあります。鉄の(ような真っ黒な?)犬や鴉どもが人の肉を喰い散らす処もあります。新田が、「あれはいかなるものですか。」と問い申し上げると、大菩薩はおっしゃいます。「あれこそ娑婆で親・主君に対して悪行した者が、あのように苦を受けているのだ。」と。

 また、こちらでは女の股を鋸で引いている処があります。「これは娑婆で男を一人持っているのに他の(世間の)男に浮気をした女が、あのように苦を受けて四百五千年がほどは浮かばれないのだ。」

 また、ある処を見ると十二単衣で着飾った女房が岩の上に立って、肉体を引き裂から引き裂かれ喰い散らされている処があります。この女がわめき叫ぶことはこの上ありません。「あれこそ娑婆で遊女として生きていた女が数多くの男を貪って愛着したせいだ畜生道へ堕ちたのだ。」。

 また、こちらでは女の鼻の上に灯台(灯明台)を立てて顔の皮を剝ぎ、油がその顔に垂れている処があります。「あれこそ娑婆で男に美しく見られようとして、もともと見目悪く生まれついた容貌を、どうにか装えばと思って、美しくなるはずもないのに一紙半銭(少額)さえも後生のために寄進することなく、しまいにはくわんなどの札(寄進を募る願の札?)を配ると、『あら嫌な事』(化粧の誘惑をいうのか)と耳も傾けずに、男に隠れてこっそり紅や白粉などを買い取って、顔に塗りたくった女が、あのように苦を受けて五十万劫ばかりは浮かばれないのだ。」。

 それを行き過ぎて次を見ると、ある罪人に鉄の差し縄(捕縛縄)を三十本つけて引っ張って来ます。よくよく見れば荒んだ感じの尼です。新田はこれを見て大菩薩に尋ねますと、「あれこそ上野国あかつか(吾妻?)の荘にいる碓氷の尼という者である。人が喜ぶのを嫉み、人の憂えているのを聞いては喜び、しかも富貴の家主として生まれて眷属を三百人も抱えている。しかしこの者どもには塩・味噌をも食わせないで、自分は朝夕の食事は豪華に誂えさせてて食べ、全く下人たちに情けをかけるような事はない。ことさらに僧・法師を供養する事もない。少しの恵みも施さないので、この尼は十王の裁断を待つこともなく、ただちに無間へ堕とせということで釜底へ押し入れられているのである。さあ新田よ、お聞きなさい。男も女も地獄に堕ちるとはいうが、中でも女が堕ちるというのは、女の思う事みな悪道だからである。それだから、男の所へ近づかないように一年の内八十四日は物忌みされるのである。このような罪を知らないで善根に傾かないのはかわいそうなことである。」。

 またこちらでは鉄の綱を三十本ほどつけた女が引っ張られて来ました。新田が、大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で地頭であったが、罪なき百姓を不当に苛み、愁い悩ませた者が、胸に釘を打たれて、吹き上がる血は百丈ばかりだ。その身は奈落に堕ちて浮かぶことはない。」。

 またある方角を見れば、罪人を鉄の(ような真っ黒な)犬が集まって、その叢を獅子(猪?)だ鳥だと名付けて追い回して、喰いちらかしている処もあります。「あれはいかなる業をなした者でございますか。」と申し上げますと、大菩薩は、「あれこそ娑婆で耕作することを物作る事を面倒くさがって、(入道のふりをして)人にたかって乞食をして貪った者があのように苦を受けて五十万劫までも地獄から浮かぶ事がないのだ。新田よくよく聞きなさい。俗人はは田畑を作り年貢を捧げて、その余るところで妻子を養って、僧法師を供養するならば、地獄に堕ちる事はあるはずがないのである。」とおっしゃる。

 またこちらでは罪人を火の車に乗せてあれやこれや獄卒の阿防羅刹が鉄の笞を打たれて四十四年もの間石牢に閉じ籠められ解放されていません。この者は娑婆で後生を弔っていたというのに浮かばれないのです。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると大菩薩は、「あれこそ遠江の国のそてしの宮の禰宜である。神の田畑を所領しているのに妻帯し妻子を持って神を祀る事はない。服喪をも忌まずに、心経の一巻をも読む事もないのでこのような苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事がないのだ。まったく人があってはならない者はえせ神主である。このような者には近づくだけでも地獄に堕ちるのだ。」。

 また、ここには舌を抜き出だされて叫ぶ者もいます。(誤ってどこからか挿入したのか。)

 また三十ほどの鉄球を付けられている女がいます。これは娑婆で咎なき下人に咎を言いがかり困らせた女で、このような苦を受けて七千劫がほども浮かぶ事はありません。

 またここには身の丈七尺ほどの法師を鬼どもが竜頭の蛇口の甕に入れて一日に三升四合の油を絞とっています。これは法師になったのに、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも理解せず、仏に香・花をもお供えする事もなく、禁じられている妻子を溺愛する者で、この苦を受ける事九千年です。

 またここには衣を腰に纏った法師が無間地獄の周囲を走り廻っています。これは娑婆で法師にはなったといいながら、海にる魚が塩に染まらないように仏法には染まらず、人目にだけは仏法を願い、心の内では欲心ばかりを優先させて、人に振る舞いをする事もなくて、万民の富を過剰に貪った出家があのように苦を受けるのです。それでも出家の功徳の力によって無間地獄には堕ないで(畜生道の)縁を走っているのです。

 またある処を見ると、腰の骨に釘を打たれ剣で切り裂かれている四大海のように腹の大きな女がいます。それは娑婆で男によく思われようとして、若いふりをして懐妊し、子はいらないと捨てた女がこのような苦を受けて十万劫は浮かばれる事がないのです。

 またこちらでは主人と思われる者と、下人と見える者が鉄の丸かし(鉄球)を懸けられて無間地獄の底へ押し込められています。これは娑婆で身を売ったのに、その売り状を受け取らず下人も逃げ失せた者です。その者らはこのような苦を受けて八万劫ほども浮かぶ事はありません。「この由を新田、人に語りなさい。白い紙に黒い文字を書いても、その証文を受け取らず勝手に振る舞うことは、大きな罪である。また決済がすんだのにその証文を返さないのも罪である。」。

 一方、天道を見ると美しい簪を挿した女が瓔珞の玉の輿に乗って黄金の幡を大悲の風に吹き靡かせて、二十五の菩薩は音楽を演奏して、観音・勢至菩薩が来臨なさる処があります。新田が、大菩薩に質問すると、「常陸の国の菊多の郡の女である。富貴の家に生まれて、しかも心優しく僧・法師を供養し無縁の者の面倒を見、寒がる者には衣服を与え、特にこの女は座頭に目をかけていた。このおかげで弁財天の慈悲によって、いよいよ富貴は日増し年増しに増していったのだ。そもそも座頭という者は人の役にたつ者ではない。そのような者に深く同情し世話をするので妙音弁財天もお守りなさったのである。この女房は幼い時から居ても立っても常に慈悲を心がけていた。それである歌にも、

  仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

  (仏とは何をいうのかというと、岩間の苔筵のようなものだ。まさに慈悲心に比べ

  られるものはない。慈悲心そのものが仏なのである。それは苔の筵のようだ?)

 このような歌を聞くにつけてもこの女房の志の深さが知られるのだ。こうして女房はその善行を帝釈天に奏上され、九品浄土へと観音・勢至菩薩が迎えにおいでなさったのである。新田よ娑婆で皆に触れよ。他念なく一切の人、牛馬に至るまで憐れみをかければ必ず極楽に参ることができるぞ。」と答えなさいます。

 また傍らを見ると獄卒が鉄の綱で縛って少しも放さず罪人を責めています。この縄にからめられて悲しむ事この上ありません。これは娑婆で数多くの生き物を殺したために、このような苦しみを受けたので五百万劫がほども浮かばれる事はありません。

 またある処を見ると、鬼ども百人が持つ石を、罪人の胸に上に押しつけて押すしている処があります。これは娑婆で鳥の子(卵)を取っておいしいものを独り占めして食べていた者がこのような苦を受けて六万劫ほどは浮かばれないのです。

 また入道を逆さまに吊るして頭から肉を剥ぎ取っている処があります。新田が大菩薩に問い申し上げますと、「あれこそ娑婆で尊いふりをして、内心には欲心深くて、神仏は何とも思わずに、香・花を供える事もなく、念仏の一遍も唱えず、人目ばかり気にする出家者である。」と答えます。

 またここに錐(きり)で罪人の眼を揉んでいる処があります。これは娑婆で人の眼をごまかし盗みをした者が、あのように苦を受けて五百万劫ほどは浮かばれないのです。「さあ新田よお聞きなさい。教主釈尊のお説きなさった経を読む人は仏に近い者である。たとえ一字でもお経を知って唱えている者に悪行する事は、無間地獄に堕ちる業である。経文の一字も知らない者は盲目と同じなのである。」。

 また女が月の障りの日に腹をあおいで冷やす事、そうして衣装を脱いで裸になる事は無間地獄に堕ちる行為です。

 またここには紅蓮・大紅蓮地獄の氷に身を閉じこめられて震えわななく者がいます。「あれは娑婆で夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の者を盗み、衣装を剥ぎ取った者が、このように氷に閉じこめれられて悲しむ事三万五千年となるのである。」。

 またここには尼がいます。年の盛りに髪を下ろした後に後悔して、「ああ私に髪さえあったならば男に袂を引かれる(誘惑される)のに。他の女が私の男に愛されているのを見て嫉妬し、尼になった事よ、あらうらめしい。昔が懐かしいなあ。」とて、吹く風に、立つ波ににつけても歌を詠んで俗を好む風情で、尼になった事をすっかり忘れて、我を忘れて和歌を詠じ、男と通じて懐妊し、出産した者が、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かれては、目・鼻から血を流してどうにもなりません。いまさら後悔してももかなはないことで、畜生地獄に堕とされて間断なく苦を受けるのです。

 またこちらには女房がいるのですが、獄卒の鬼は、「娑婆で男狂いしたその数を見よ。」と言って鉄の丸かしを大方三百ほど懸け鉄の縄を付けて、さらに、「自分が好み交わった男の数を隠しても、十王の前で全く隠すことはできない。」と言って責め、一万五千年ほども苦を受けるのです。

 またここに鉄の米櫃に顔を入れて火焔となって燃えている者がいます。あれが娑婆で食事時に、来客があると食事を振る舞うのを惜しく思って顔を真っ赤にして腹を立てて、罪のない下人や子に向かって腹を立てた者が、四十万劫ほども火焔となって燃え焦がされるのです。ですから食事時に人が来たら食事を施せば、御施行といってどれほどか利益は増すのです。この世では富貴となるのです。

 またある方を見ると女房で、髪を百丈ほどの長さで、先端より火をつけられて焼かれている者がいます。「あれはいかなる者ですか。」と問い申し上げると、「あれこそ娑婆にいた時、自分の髪の毛が一本落ちるのも惜しみ、千本にもしたいと思った者が今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千年がほども浮かばれずにいるのだ」。

 また子を持たない者は罪深き事この上ありません。また一人を持った者でも、その後子を生まない女も罪深いのです。また女の月の障りがないのも子を産めないので同様です。このような者どもは、子供に財を傾けることがないのですから、子のない寂しさに引き替えて富貴です。善根行わないで(蓄財し)、財産は持った上にも持ちたいと思って、衣服は着ている上にも重ねて着たいと思ったのでしょうが、死んだ後は風に木の葉が散るように何も残りません。ですからこのような(子のいない)時は後生を大事に思って、善根を施しなさい。子供を持った人も、子によるのであろうが(その子が弔ってくれるので)、それは少しの後生の種となるでしょう。ただし親が浮かばれるほど丁重に弔う子は稀です。

 またある処を見ると、手足を手斧で裂かれている者がいます。あれは娑婆で用もないのに木を伐り枯らした者で、呵責され続けているのです。

 

原文

 「新田よくよく聞け。六道といふは地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天なり。*まづ畜生道を見せん。」とて、行き給ふに、蛇(くちなは)三筋あり。左右(さう)は女中に男を置きて巻き絡みて男の女口を吸ふ。吹く息は百丈ばかり立ち上がりけり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて二道かけて女房に胸を焦がせたる者よ。男女ともに一万三百四千歳がほど浮かぶ事なし。」。また、ある方を見れば、獄卒罪人を取つて押さへて舌を*二尋ばかり抜き釘を打つ処あり。また、眼を抜かるる処もあり。鉄の犬鴉ども肉叢を喰ひ乱す処あり。新田、「あれはいかなるものぞ。」と問ひ申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて親・主を悪行したる者、あのやうに苦を受くるなり。」また、ここに女の股を鋸にて引く処もあり。これは娑婆にて男一人持ちながら余(世?)の男に心を移したる女、あのやうに苦を受けて四百五千歳がほど浮かぶ事なし。また、ある処を見れば十二単を飾りたる女房の岩の上に立ちて、肉叢を引き裂き引き裂き獄卒ども喰ひ乱す処あり。この女わめき叫ぶことは限りなし。あれこそ娑婆にて*流れを立てたる女よろづの男を貪りて好きたりしによつて畜生道へ堕つるなり。また、ここに女の鼻の上に灯台を立て顔の皮を剝ぎ、油に垂るる処あり。「あれこそ娑婆にて男によく見られんとて、もとより見目悪く生まれつきたる容貌を、何とこしらへたればとて、よくもなるまじきに*一紙半銭なりとも後生のためにはなさずして、結句*くわんなどの札を配れば、あら忌まはしとて耳にも入れず。男に隠しては紅や白粉などをば買ひ取り、顔に塗りつけたる女、あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。」。

(注)まづ・・・=「次に」ぐらいの意か。以下の描写には六道を明確に分けて順序だ

    てている感じはない。

   二尋=一尋は四尺五寸乃至六尺。3メートルくらいか。

   流れを立てたる=遊女として生活を立てている。

   一紙半銭=ごくわずかなもののたとえ。寄進の額のわずかな場合に用いる。

   くわんなどの札=未詳。寄進を募るために配る御守り札か。「くわん」は願か。

 それを行き過ぎて見れば、ある罪人に鉄の*差し縄を三十筋つけて引つ張つて来る。よくよく見れば荒れたる尼なり。新田これを見て大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ上野国*あかつかの荘にうすひの尼と云ふ者なり。人の良くなるをば嫉み、人の憂ひを聞きては喜び、しかも富貴(ふつき)の家主と生まれて眷属を持つ事三百人に及べり。この者どもに塩・味噌をも食わせずして、我は朝夕の食ひ物を*綺麗にこしらへさせて喰ひ、さらに下人に情けがましき事もなし。ことに僧・法師を供養する事もなし。少しの利益をなさざれば、かの尼は*十王もさんだん(裁断)なし。すぐに無間へ堕とせとて釜底へ押し入れらるるなり。いかに新田、聞き候へ。男も女も地獄に堕つるとはいへども、中にも女の堕つるぞ、女の思ふ事みな悪道なり。しかる間、男の所へ近づかざる事一年の内に*八十四日忌まるるなり。かかる罪をば知らずして善根に傾かざることあはれなり。

 またここに鉄の綱を三十筋ばかりつけたる女を引つ張つて来たりたり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて*地頭にてありしが、咎もなき百姓に悪く当たり、物思ひさせたる者、胸に釘を打たれて、ふきは(吹きは?)百丈ばかり上る、その身は奈落に堕ちて浮かぶことなし。またある方を見れば、罪人を鉄の犬集まりて、肉叢を獅子・鳥と名付けて追ひ回し、喰ひ乱す処もあり。あれはいかなる業の者にて候ふと申せば、大菩薩、「あれこそ娑婆にて物作る事を悲しく思ひ、人を貪りたる者あのやうに苦を受けて五十万劫がほど浮かぶ事なし。新田よくよく聞け。ただ人は田畑を作り年貢を捧げ余るところにて妻子を育み、僧法師を供養せば地獄に堕つる事あるまじきなり。」。

 またここに罪人を火の車に乗せて*めんつおんつ*阿防羅刹鉄の笞(しもつと)当てられて四十四年に落ち着きて、石の牢に籠められ浮かぶ事なし。娑婆にて後生を弔ふといへども浮かぶ事なし。新田、「あれはいかなる者。」と問ひ申せば大菩薩、「あれこそ遠江の国*そてしの宮の禰宜なり。神の田畑を*控へて妻子を育みて神祀る事もなし。*服(ぶく)をも忌まずして、*心経の一巻をも読む事もなき故にかかる苦を受けて八万地獄に堕ちて長く浮かぶ事なし。*ただ人の持つまじきものは神主なり。かやうの者には近づくまでも地獄に堕つるなり。また、ここに舌を抜き出だされて叫ぶ者あり。また鉄の*丸(まるかし)を三十ばかり付けらるる女あり。これは娑婆にて咎もなき下人に咎を言ひつけ嘆かせたる女、かかる苦を受けて七千劫がほど浮かぶ事なし。またここに丈七尺ばかり法師を鬼どもが*竜の口入れて一日に三升四合の油を絞るなり。これは法師になりたりといへども、仮名の文字をも知らず、まして経論・聖教の一巻をも知らず、仏に香・花をも参らす事もなし。妻子ばかり愛して過ぎたる者この苦を受くる事九千歳なり。またここに衣、腰に着けたる法師無間のはたを走り廻る。これは娑婆にて法師にはなるといへども、*海なる魚の塩に浸(し)まぬごとくにて、人目ばかり仏法を願ひ、心の内には欲心ばかりを先として、人に振る舞ふ事もなくて、万民の貪りて過ぎたる出家があのやうに苦を受くるなり。されども出家の功力によりて無間には堕ちざりけり。

(注)差し縄=罪人をとらえて縛る縄。

   あかつかの荘=吾妻(あがつま)の荘か。吾妻郡には赤坂村というのもある。 

    「うすひ」は碓氷かとも思われるがよくわからない。347では「かまだの荘」

    とある。

   綺麗=豪華の意か。

   十王=十王は地獄へ堕とすかの裁断をするのだがそれもなく。もしくは「算

    段」か。

   八十四日=月経で1回七日物忌みすると年間で84日になる。

   地頭にてありしが=474では「ひとのしよりやうをおさへ、ちとう、まん所なと

    おいいたし」とある。

   めんつおんつ=笞の当て方の形容だろう。文脈上「とつおいつ(あれこれと)と

    いったニュアンスか。

   阿防羅刹=地獄の獄卒の一種。

   そてしの宮=未詳。347「そて殿の宮」474「そてうの宮」小谷「殿の氏神」。

   控へて=文脈上所領する、の意だが。

   服=服喪。

   心経=般若心経。

   ただ人の・・・=神主を否定したらその仕える神社はどうなのだろう。言ってい

    る当人は浅間大権現なのだが。「えせ神主」と解釈しておく。

   丸=まるかせ。囚人を繋留する鉄球。

   竜の口=竜の頭の形をした蛇口。そのような注ぎ口をもった容器か。

   海なる魚の塩に浸(し)まぬ=ことわざか。海にいても魚は塩に染まらない、と

    すれば、どんな環境にいても悪人は改まらないという意味か。

 またある処を見れば、腰の骨に釘を打たれ剣を以て切り裂かるるところに腹は四大海のごとくなる女あり。あれは娑婆にて男によく思はれんとて、若きよしをして懐妊し、子をあらし(あらじ)捨てたる女かかる苦を受けて十万劫がほど浮かぶ事なし。またここに*人の主と思しき者、下人と見えたる者に鉄の丸かしを懸けて無間の底へ押し入れらるる者あり。これは娑婆にて身を売りて、その売り状を取らずして逃げ失せたる者かかる苦を受けて八万劫がほど浮かぶ事なし。この由を新田、人に語り候へ。白き紙に黒き文字を書き、その状を取らずして我儘に振る舞ふ事、大きなる咎なり。殊に満ち済みたるにその状を出ださぬものも咎なり。また、天を見れば簪美(いつく)しき女瓔珞の玉の輿に乗りて黄金の幡を*大悲の風に吹き靡かして、*二十五の菩薩は音楽をなして、観音・勢至は影向し給ふ処あり。新田、大菩薩に問ひ申せば、「常陸の国に*菊多の郡の女なり。しかも富貴の家に生まれて、心優しくて僧・法師を供養し無縁の者を育み、寒き者には衣装を与へ、殊にこの女は座頭に目をかけてあり。この上に弁財天の憐れみによつて、いよいよ富貴は日に増し年に増したり。されば座頭といふ者は人の用にもたたぬ者なり。かやうの者に深く志あるによつて妙音弁財天も守り給ふ。かの女房は幼けなき時より立居に慈悲を思ひけり。さればある歌にも、

  *仏とは何をいわまの苔筵ただ慈悲心にしくものはなし

 かやうの歌を聞くにつけても志深かりけり。かくてかの女房を帝釈に申せ、九品浄土へ観音・勢至迎ひ(へ)給へリ。新田娑婆にて触れよ。他念なくして一切の人、牛馬に至るまで憐れみをなせば必ず極楽に参るぞ。また傍らを見れば鉄の綱を付けて少しも放さず、罪人を責むる。この縄にかかりて悲しむ事限りなし。これは娑婆にてよろづ生き物を殺したるによつて、かかる苦しみを受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。またある処を見れば、鬼ども百人して持つ石を、罪人の胸に上に押しかけて押す処あり。これは娑婆にて鳥の子を取りて喰ひ我ばかり味よきものを喰ひたる者がかかる苦を受けて六万劫がほど浮かぶ事なし。また入道を逆さまして頭より肉(ししむら)を剥(へ)ぎ取る処あり。新田大菩薩に問ひ申せば、「あれこそ娑婆にて尊きふりをして、内心には欲心深くして、神仏は何とも思はずして、香・花奉る事もなく、念仏の一遍も申さず、人目ばかりなりし出家なり。」。またここに罪人の眼を錐にて揉む処あり。これは娑婆にて人の眼を*晦(くら)かし盗みをしたる者、あのやうに苦を受けて五百万劫がほど浮かぶ事なし。「いかに新田承れ。*教主釈尊の説き給へる経を読む人は仏に近き者なり。一字も知りたる者を悪行する事、無間の業なり。一字も知らざる者は盲目と同じことなり。」。また月日に腹をあふる事、そうして衣装を脱ぎて裸になる事、無間の相なり。またここに*紅蓮・大紅蓮の氷に身を閉ぢられて震へ*わためく者あり。あれこそ娑婆にて夜討ち・強盗・山賊・海賊をして人の物を盗み、衣装を剥ぎ取りたる者、かやうの氷に閉ぢられて悲しき事三万五千歳なり。

(注)人の主・・・=わかりずらい。地獄へ堕ちたのは主人なのか下人なのか。とりあ

    えず人身売買をしたのに、証明書を受け取らないで金だけ受け取って、下人も

    逃げてしまった、と解する。買った方は証明書がないので払い損となる。売買

    の証文の不正を罪だと言っているのだろう。

   大悲の風=大いなる慈悲のような優しい風。

   二五の菩薩=観音・勢至・薬王・薬上・普賢・法自在・師子吼・陀羅尼

    ・虚空蔵・徳蔵・宝蔵・山海慧・金蔵・金剛蔵・光明王・華厳王・衆

    宝王・日照王・月光王・三昧王・定自在王・大自在王・白象王・大威

    徳王・無辺身の称。臨終の際に念仏を唱えると迎えに来るという菩

    薩。

   菊多の郡=福島県南東部にあった郡。

   仏とは・・・=一条拾玉抄所収の道歌。「いわま」は「言わま」と「岩間」をか

    ける。苔筵が慈悲心にどうつながるのかはわからない。

   晦かし=ごまかす。

   教主=教えを開いた人。仏。経文を唱えることの大切さを説くのであるが、前と

    うまくつながっていない。

   月日に腹をあふる事=「煽る」か「炙る」か。月の障り(生理)に腹を煽って冷

    やすことか。次の裸になるなというのも女に対してだろう。

   紅蓮・大紅蓮=八寒地獄の二つ。非常に寒い。

   わためく=「ふためく」か。ばたばたする。

 またここに尼のありけるが、年の盛り髪を下ろし後に後悔して、「あはれ我が髪さへあらば男に袂を引かれんものを。女の男に愛せらるるを見て妬(ねつた)び、「尼になりつる事よ、あらうらめしや。昔懐かしや。」とて、吹く風立つ波ににつけても歌を詠みたる風情にて、尼になりたる事をうち忘れ、*心も心ならず男をして懐妊し、*産の紐を解きたる者、腰の骨に釘を打たれて、剣にて切り裂かるは目・鼻より血流れてせんかたなし。いまさら後悔すれどもかなはずして、畜生地獄に堕とされて苦を受くる事さらにひまなし。またここに女房のありけるに獄卒いふやうは、「娑婆にて男狂ひしたるその数を見よ。」とて鉄の丸かしを大方三百ばかり懸けさせて鉄の縄を付けて、鬼ども申しけるやうは、「己が好みし男の数は隠すといへども、十王の前にては少しも隠れなし。」とて一万五千歳がほど苦を受くるなり。またここに鉄の飯櫃に顔を入れて火焔となつて燃ゆる者あり。あれこそ娑婆にて食ひ物時、人の来るに惜しく思ひて顔を赤め腹を立ち、咎もなき下人や子に会ひて腹を立ちたる者、四十万劫がほど火焔となつて燃え焦がるるなり。されば食ひ物時人の来るに呉るれば、御施行とていかばかり利益は増すなり。今生は富貴なるなり。またある方を見れば女房に、髪を百しやう(尺?丈?)ばかりにして、先より火をつけて焚かるる者あり。「あれはいかなる者ぞ。」と問ひ申せば、「あれこそ娑婆にありし時、我が髪の一筋落つるをも千筋になさばやと思ひし者今は鉄の丸かしを額に焼き付けられて九千歳がほど浮かぶ事なし。

 また子なき者とて罪深き事限りなし。また一人持ちたる者、後に子を生まざる女も罪深し。また女の月の障りなきもかくのごとし。かやうの者どもは、引き替へて富貴なり。善根はせずして、持ちたる上にも持たばやと思ひ、着たる上にも重ね着ばやと思ひしかども、死して後は風に木の葉散るがごとし。さればこのやうにあらん時は後生を大事に思ひて、善根をせよ。子供持ちたる人も、子によるべけれども、それは少しも後生の種なり。ただし親の浮かぶほど弔ふ子稀なり。またある処を見れば、手足を手斧(てうな)にて裂かるる者あり。あれは娑婆にて用もなき木を伐り枯らしたる者呵責せらるる事限りなし。

(注)心も心ならず=我を忘れて。

   産の紐を解きたる=出産した。

 

富士の人穴の草子③-異郷譚4ー

その3

 その後大菩薩は、「ただ今頂いたの剣の恩返しに、あなたに六道の有様あらましを見せて帰そう。」と、毒蛇の形を十七八の童子に変身なさって仰しゃいます。「本当だろうか、日本の衆生は地獄が恐ろしいとはいうのだけれど、実際に行って帰ってきた者はいないし、極楽は楽しい所だといっても見てきた者はいないというが、それでは地獄の有様をみせて帰そう。」と、大菩薩は左脇に新田を挟んでて、まずは賽の河原に行ってお見せになります。

 「さあ汝に見せよう。お聞きなさい、まずは地獄の奉行を教えよう。一番に箱根、二番に伊豆の権現、三番に白山、四番には自分、五番に三島の大明神、六番に越中立山の権現にてあらせられる。これらは無間地獄の奉行六人である。竜蔵権現でおわせられる。百三十六地獄、奉行の御心から見放されたものは、必ず地獄に堕ちるのだ。まず賽の河原を見せよう。」と言って見せなさると、七つ八つほどの童部が、三つ四つの幼な子と手に手を取って悲しみにくれています。新田はこれを見て、「あれはいかなる者ですか。」と尋ね申し上げると大菩薩は、「あれこそ娑婆で親の胎内に九か月ほど辛苦をさせて生まれたのに、その恩に報いることなく幼く死んでしまった者だ。あのように河原へ出でて九千年もの間苦を受けるのだ。」と答えます。暫くして火焔が燃え出すと、河原の石はみな炎となって童子たちは白骨となってしまいました。ややあって鬼どもがやって来ました。そして鉄の錫杖でかつかつと打つと、また元の幼き者となります。

 さて、西の方を見ると三途の川というものが流れています。この川の深さは一万由旬、広さも一万由旬です。この川の端には優婆尊という者が立ちなさっています。この前を通る罪人は衣装を二十五の罪に当てはめて、二十五枚剝ぎ取られます。衣装がなければ身の皮を剝ぎ取って衣領樹の木に懸けなさいます。すると天の羽衣となります。この老婆はまさに大日如来の化身なのです。

 さてこの川を渡って見ると、死出の山があります。娑婆で一七日から七七日までの忌日を弔えば、中有を果てますが、その魂魄がやって来て山の向こうに向かって、「娑婆にて命日を弔いました。とくとく帝釈に報告する俱生神へこのことを申し伝えよ。」と大声で呼びかけると、俱生神は承知なさって、「八十億劫の罪を滅す善行あり」と、帝釈に申し上げて千の札に記録なさり、その報いとして九品の浄土へ参る者もいます。

 一方傍らを見れば、ある罪人には重い石を抱かせて獄卒が打擲し苛む所があります。また鉄の尖った巌を上れ上れと責めたてる所には幾千万ともしれない多くの亡者がいます。大菩薩は、「あれは娑婆で馬に重い荷物を付けて商いをしていた者である。利益を得ることに執着して、馬のつらさにも気づかず責め殺した者が、あのように苦を受けて一万八千年はこの地獄から浮かび上がることはできないのだ。必ずや新田よ娑婆に戻ったならば皆に触れよ。ものいわぬものだとて、馬に多く荷を付けてはいけない。地獄行きの種となるのだ。

 また、ある所を見ると、罪人を剣の先で刺し貫いて責める所もあります。剣の山を上れ上れと責められる罪人どもは、肉体から血がはじけ落ちる事は、ものにたとえると、まるで血潮に染まる紅が咲き乱れているようです。「あれこそは娑婆で主君・親の恩に報いずして、処処の住まい(生活)で主君・親に対して悪行をした者が、かかる苦を受けて浮かばれないのである。」

 また西の方を見ると、火の波・水の波が夥しく立ち上がる所を渡れ渡れと鬼どもが責め立てています。その者どもに手枷足枷を掛けて、四十四の脇や背の曲がりどころ・八十三の骨の関節・九億の毛穴ごとに釘を打っている所があります。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と申し上げます。大菩薩は、「あれこそ娑婆で慳貪・私欲の心をを持っていた者が、あのように苦を受けて少しも心安まる事がないのだ。全く人の持つまじきものは慳貪・私欲である。」

 また東の方に高い所があります。大菩薩は新田を連れて見せなさいますが、東へ向かった道があります。六道の辻というものです。この辻に忍辱の衣(袈裟)を召した法師が二人立ちなさっています。この法師の前に罪人どもが集まって、「仏様、私をお助けください。」と悲しみ訴えることこの上ありません。獄卒はその罪人どもを受け取って「これらは無間地獄へ堕とそう。」といいます。新田が、「あれはいかなる者ですか。」と申すと大菩薩は、「あの法師と申すは六道能化の地蔵菩薩と申す者だ。娑婆にいた時に名利ばかりを好んで、娑婆では『地蔵菩薩』とも唱えない者が、今になって助け給えと申しても、決して聞き入れなさらないのだ。これも娑婆でみなに知らせなさい。」とおっしゃいます。「極楽に参りたいならば暁ごとに手を洗い地蔵の名号を百遍も二百遍も唱えなさい。」と懇切丁寧に教え諭します。

原文

 その後大菩薩仰せに、「ただ今の剣の報幸に、汝に六道の有様をあらあら見せて帰すべし。」とて、毒蛇の形を引き変へて十七八の童子になり給ひて仰せけるやうは、「まことやらん、日本の衆生は地獄恐ろしといへども帰る者なし。極楽は楽みといへども見たる者なしといふに、地獄の有様を見せて帰さん。」とて、大菩薩の左の脇に新田を挟みて、まづ賽の河原を見せ給ふ。

 「いかに汝に見せる。承れ、*地獄の奉行を教へべし。一番に箱根、二番に伊豆の権現、三番に白山、四番にみづから、五番に三島の大明神、六番に越中立山の権現にてまします。無間地獄の奉行六人なり。*竜蔵権現にてわたらせ給ふ。*一百三十六地獄、奉行の御心にはなされ申しては、必ず地獄に堕つるなり。まづ賽の河原を見せん。」とて見せ給へば、七つ八つばかりの童部、三つ四つの幼き者ども手に手を取り組みて悲しむこと限りなし。新田これを見て、「あれはいかなる者ぞ。」と問ひ申せば大菩薩、「あれこそ娑婆にて親の胎内に九月がほど辛苦をさせて、その*恩の送らずしてむなしくなりたる者が、あのやうに河原へ出でて苦を受くりこと九千歳なり。」暫くありて火焔燃え出でければ、河原の石のみな炎となつて白骨となりにけり。ややあつて鬼ども来たり。鉄(くろがね)の錫にてくわつくわつと打ちければ、また元の幼き者となる。

 さて、西の方を見れば三途の川とて流れたり。この川の深きこと一万*由旬、広さも一万由旬なり。この川の端には「うばこせん(*優婆尊)」とて立ち給ふ。この前を通る罪人は衣装を二十五の罪に当てて、二十五枚剝ぎ取らるる。衣装なければ身の皮を剝ぎ取りびらんじゆ(衣領樹?)の木に懸け給ふ。天の羽衣になし給ふなり。この姥はすなはち大日如来の化身なり。

 さてこの川を渡りて見れば、死出の山あり。娑婆にて忌日を弔へば、魂魄来たりて山を隔てて言ふやうは、「娑婆にて命日を弔ふぞ。とくとく*俱生神へこの由を申せ。」と呼ばはれば、俱生神受け取り給ひて、八十億劫の罪を滅すとて、帝釈に申して千の札に付け給ひ九品の浄土へ参る者もあり。また傍らを見れば、ある罪人に重き石を付けて打ち苛む所あり。また鉄の巌の角を上れ上れと責むる所幾千万ともなし。大菩薩、「あれこそ娑婆にて馬に重きを付け商ひをしたる者よ。利を取る事をおもしろく思ひて、馬の息も知らず責め殺したる者、あの苦を受けて一万八千歳がほど浮かぶことなし。相構へて新田娑婆にて触れよ。ものいはぬものとて、馬に多く荷を付けべからず。地獄の種なり。

 また、ある所を見れば、罪人を剣の先に刺し貫きて責むる所もあり。剣の山を上れ上れと責むるかの罪人ども、*肉叢(ししむら)の落ちける事、ものによくよくたとふれば、血潮に染むる紅を咲き乱したるごとくなり。*あれこそ娑婆にて主・親の恩を送らずして、処処のすまひ(生活し?)、主・親を悪行したる者、かかる苦を受けて浮かぶことなし。また西の方を見れば、火の波・水の波夥しく立ち上がる所を渡れ渡れと鬼ども責むる。かの者どもに手枷足枷を掛けて、*四十四のつきふし・八十三の折骨・九億の毛穴ごとに釘を打つ所あり。新田、「あれはいかなる者。」と申す。大菩薩、「あれこそ娑婆にて*けんだんしよくを持ちたる者、あのやうに苦を受けて少しも心安き事なし。ただ人の持つまじきものはけんだんしよくなり。また東の方に高き所あり。新田を連れて見せ給ふに、東へ指したる道あり。*六道の辻なり。かの辻に*忍辱の衣を召したる法師二人立ち給ふ。かの前に罪人ども集まりて、仏なふ我を助け給へと悲しむ事限りなし。獄卒受け取りて無間へ堕とさんといふ。新田、「あれはいかなる者ぞ。」と申せば大菩薩のたまふやう、「あの法師と申すは*六道能化の地蔵菩薩と申し奉るなり。娑婆にありし時名利ばかりを好みて、娑婆にて地蔵菩薩とも唱へぬ者、今は助け給へと申せども、さらに用ひたまはず。娑婆にて触れよ。」と仰せたる。「極楽に参りたくば暁ごとに手を洗ひ地蔵の名号を百遍も二百遍も唱へべし。」と懇ろに教へ給ふ。

(注)地獄の奉行=どのような基準でこの六社が選定されたかは未詳。

   竜蔵権現=「竜蔵」は大乗経典の意だが、金華山には「竜蔵権現」と呼ばれる神

    社があるらしい。ここでは仏教由来の垂迹した神、という意味か。

   一百三十六地獄=八大地獄とそれぞれに属する各十六の小地獄計百二十八地獄を

    合わせていう。

   恩の送らず=恩に報いない。

   由旬=古代インドの距離の単位。7マイル(11.2キロ)とも9マイルとも。

   優婆尊=脱衣婆。三途の川岸で亡者の衣を剥ぎ取る鬼の老婆。

   俱生神=人の生まれた時から常にその両肩にあって善悪を記録するという男女二

    神。男神「同名」は左肩で善業を、女神「同生」は右肩で悪業を記録し閻魔王

    に報告するという。

   千の札=閻魔大王(ここでは帝釈天になっているが)に報告する善行・悪行を記

    録した札。

   肉叢の落ちける=肉が落ちるのではなく、剣に刺された肉体から血が滴る、の

    意だろう。

   あれこそ・・・=大菩薩の言葉。

   四十四のつきふし・・・=「つきふし」474では「わきふし」背中や脇などの可

    動域か。「おりほね」、日国では「腰骨」、関節か?四十四、八十三の数字を

    ヒントに調べる余地あり。

   けんだんしよく=未詳。「慳貪・私欲」か。

   六道の辻=六道に分かれる辻。

   忍辱の衣=袈裟。

   六道能化=六道にあって衆生を導く者。

 

富士の人穴の草子②-異郷譚4ー

その2

 さて、和田胤長は頼家殿の御前に参って、岩屋のいきさつをこれこれと申し上げました。頼家殿はお聞ききになって、岩屋の奥の有様を見届けなかった事が、気がかりでならず、重ねておっしゃいます。「領主のいない所領が四百町ある。誰でもよい、所領を望む者がいるならば人穴へ入って探検して参れ。」と。諸国の侍たちは口々に、「命があってこそ所領もほしいだろうが、死して後にはどうにもならない。」と言って、入ろういう人は誰もいません。

 このような折、伊豆の国の住人、新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、藤原鎌足の大臣の十二代の後裔、しろつみの中納言には十三代、この新田の四郎忠綱は、「私が持っている所領は千六百町である。かの四百町の所領を賜って、二千町にして我が子のまつぼう、おくぼうに千町づつ持たせたいものだ。」と思って、督の殿の御前に参り、「私が人穴へ入ってみましょう。」と申し上げました。鎌倉殿それをお聞きになって、御喜びなさることこの上ございません。直ちに四百町を賜うという将軍自署花押の御判を頂いて御前を罷り、自邸でまつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝らお聞きなさい。私は鎌倉殿の御使いとして人穴へ入ることとなった。これと申すのも汝らを思う故である。四百町の御判を賜って、汝らに千町づつ持たせたいからである。」とお語りなさると、二人の子供は、「父上の御命があってこそ千町万町もほしいのです。」と申してひきとめるのですが、忠綱は、「たとえ人穴へ入ったとしても、祟りさえなければ死ぬこともあるまい。ご安心しなさい。」と慰め諭しなさいます。「もし死んだとしてもこの忠綱の事を嘆いてはいけない。どうか兄弟仲良く戦場でも駆けるも引くも兄弟語り合わせて、君の御大事には参上して、一門の名をも上げなさい。」と懇ろに教えなさいました。兄弟のたちはいたしかたないと御前を下がります。忠綱は、「ああ諸国の侍たちは、所領を望む我を強欲で憎らしい思うだろう。いや、それもしかたないことだ。私だって他人だって子を思うのは世の習いであるよ。松・杉を植え置くのも(子孫繁栄を願う、または子孫に財産を残すための)子供を思う道であるよ。」古歌にも見えますように、

  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな(子を持つ親として、心の

  中は闇というわけではないが、 子どもの行く末を考えると道に迷ったかのようにな

  るのだ。)

 という言葉までも思い出されてしまいます。

 このようにして出立する、新田のその日の装束はいつにも優れて華やかでした。肌着には四ツ目変わりの帷子の脇を深く解いて、精好の直垂は露(裾の紐)を結んで肩に懸け、烏帽子懸けを強く引き結び、両方の括をり縫いつけるようにして、まふ総造りの太刀を佩き、白鞘巻の腰刀に、爪紅の扇を差し添えて、鎌倉殿より遅しとの御不興で遣わされた工藤左衛門尉祐経を相具(あいぐ)して、松明十六丁を持たせ、「七日後の午の刻に帰りましょう。」と言って新田は人穴へ入ったのでした。

 こうして一町ほど行きますが何もありません。和田が会ったという機織りなさる女房もいらっしゃいません。佩いていた太刀を抜き持って、四方に振り回していきますと、六七町行ったかと思うと地上のように月が現れて、地の色を見ると青黄赤白黒の五色の松原へぞ出たのでした。小川が流れています。足跡を見るとたった今人が渡ったとみえます。この川を越してみると八棟造りの檜皮葺きの御所が九つ連なって建っています。この内へ入ってみると軒から落ちる水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾くように聞こえます。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めてしまいそうに爽やかです。中に入ってよくよく見れば瓔珞の珠が連ねて懸けられています。その明るさは夜昼の差別もありません。蓮の花が開くのを見て昼と知り、つぼむのを見ては夜と知ります。ある所を見るとたった今人が弾き慣らしたと覚しく、一面の琵琶を立てられています。

 赤地の錦で天井を張り青地の錦で柱を巻き立てて、その上を黄金白金で飾っています。その金銀が当たって鳴る音は祇園精舎の鐘の声もこうなのだろうかと思いやられます。その美しさは心も言葉も及ないほどで、我はまさに極楽浄土へ参ったのだと思い、嬉しい事この上ありません。

 さて丑寅の方角を指した道を見れば池があります。その内に島があり、島の上には閻浮檀金の黄金でできた光堂が鮮やかです。池に懸けた橋を見ると、八十九間懸けられています。その端には八十九の鈴(りん)が付けられています。一番の鈴が妙法蓮華経と囀るように鳴れば、鈴は悉く法華経一部八巻二十八品の文字の数を囀るようです。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女などが、この経の功力によって、一切衆生をみな九品の浄土に迎えとりなさってくださいと祈っているようで、「観以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく びょうどうせひいっさい どうほつぼだいしん おいじょうあんらつこく):観経疏」と囀るように聞こえます。この池の中には八葉の蓮華の台があります。水の色は五色にして趣深く、近く寄って見ると台の御所の東の庭に白金が延べて敷かれています。

 内からからかうような御声で、「何者が我が住む所へ来たのであるか。」とおっしゃる方がいます。姿を見ると、口は朱を差したように真っ赤で、眼は日月のように光っています。その丈は、二十尋(30メートル)くらいです。十六本の角を振り立てて現れました。吹く火焔の息は百丈ほど立ちあがり、紅の舌を出しなさっています、その姿は身の毛よだつばかりです。新田が頼家の使いと名乗ると、「これこれ新田よお聞きなさい。自らをば如何なる者と思のか。富士浅間大菩薩とは私のことであるぞ。おまえは日本の主鎌倉殿、頼家殿の使いであろうが、この人穴へ入って私の姿を見ようとするとは、頼家の運はすぐにも極まることであろう。

 ところで恥ずかしながら私にも懺悔することがある。自らが六根(目・耳・鼻・舌・身・意=体)には夜昼三度づつの苦しみがある。新田よお前の持っている剣を献上いたせ。我が六根に収めよう。」とおっしゃるので、たやすいことですと、四尺八寸のまふ房造りの太刀を抜いて差し上げると、大菩薩は受け取りなさって、刀身から逆さまに六根に吞み込んで収めなさいます。「素直に腰刀も差し出しなさい。」というので、同じくそれも差し出すと、またこれも六根に呑み収めなさいます。

原文

 さて、かうの殿の御前に参りて、岩屋の節をかくと申す。かうの殿聞こし召し、岩屋の奥の有様見ぬ事、御心に懸けさせ給ひて、重ねて仰せけるやうは、「空き所の所領四百町あり。誰にてもあれ、所領望みの方々は人穴へ入り捜して参れ。」と仰せありければ、諸国の侍たち申しけるは、「命ありてこそ所領もほしけれ。死して後は何にかはせん。」とて、入らんといふ人もなし。

 かかりける所に、伊豆の国の住人、*新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、鎌足の大臣には十二代、*しろつみの中納言には十三代、新田の四郎忠綱心に思ふやう、「我らが持ちたる所領千六百町なり。かの四百町の所領を賜つて、二千町にして我が子の*まつぼう、おくぼうに千町づつ持たせばや。」と思ひ、かうの殿の御前に参り、「人穴へ入りてみん。」と申し上げられける。鎌倉殿聞こし召し、御喜びは限りなし。やがて四百町の*御判を賜つて御前を罷り立ち、まつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝ら承れ。我は鎌倉殿の御使ひに人穴へ入るべきなり。これと申すも汝を思ふ故なり。四百町の御判を賜つて、汝らに千町づつ持たせんがためなり。」と語り給へば、二人の子供申すやう、「父の御命がありてこそ千町万町もほしけれ。」とて留め申したりければ、忠綱仰せけるやうは、「たとへ人穴へ入りたればとて、*しるしなくば死ぬことあるまじきなり。心安く思ひ候へ。」と慰め給ひける。「もし死したるとも忠綱が事侘ぶべからず。いかにも兄弟仲良く*駆けるも引くも語り合はせて、君の御大事に罷り立ち、一門の名をも*上げべし。」と懇ろに教へ給へリ。兄弟の者ども力及ばずとて御前を罷り立ち、「いかに諸国の侍たち、我を憎しと思ふらん。よしそれとても力なし。我も人も子を思ふ習ひぞよ。*松・杉を植え置くも子供を思ふ道ぞかし。古き歌にも見えたり。

  *人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」

 と云ふ言の葉までも思ひ出だされたり。

 さる間、新田がその日の装束はいつにも優れて華やかなり。膚には*四ツ目変わりの帷子、脇深く解きて*精好の直垂に、*露を結んで肩に懸け、烏帽子懸け強くして、両の括り縫いて、*まふ総の太刀、*白鞘巻の刀、*爪紅(つまくれなゐ)の扇差し添へて、鎌倉殿より御不興(奉行かも?)を添へられたり(る?)*工藤左衛門の助を相具して、松明十六丁持たせ、七日といはん午の刻に帰り候はんとて新田は人穴へ入りにける。

(注)しろつみの中納言=未詳。

   新田(日田)の四郎忠綱(忠常)=仁田四郎忠常。1167~1123。

   まつぼう、おくぼう=忠常の子?忠常は北条義時に討たれ仁田家は断絶したとあ

    る。子に僧となった証入がいる。「小谷」では「松房・松若」、474では「か

    つはう・おくはう」、347では「まつはう・まつわが」。長男は「松房」だろ

    う。次男は「奥房?松若?」。

   御判=御判物。将軍が自署花押した文書。

   しるし=霊験、ご利益。ここでは逆に祟りか。

   駆けるも引くも=「平家物語・二度之懸」に「弓矢取りはかくるもひくも折にこ

    そよれ」とある。梶原景時がわが子に言った言葉である。

   上げべし=上ぐべし、か。

   松・杉を植え置くも子供を思ふ道=故事や諺による表現か?

   人の親の・・・=「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」

    (後撰集 雑一・藤原兼輔)。

   四ツ目変わり=四変(よつがわり)か?着物の全面左半分と右半分、背面の左半

    分と右半分が異なった色や柄になっている帷子(下着)。

   精好=精好織。絹織物の一種、精密で美しい織物の意。

   露=狩衣・水干などの袖を括る緒の垂れた端。「烏帽子おしなほし、ひたたれの

    つゆむすびて、かたにかけ」(曾我物語6)。

   まふ総=未詳。「房造り」とは、刀身の表面に「房」と呼ばれる突起を付けた装

    飾技法らしい。刀身彫刻の一種か。もしくは「まう房」という刀工が作った太

    刀か。

   白巻鞘=柄や鞘を銀で装飾した鞘巻。腰刀。

   爪紅の扇=縁(へり)を紅色に染めた扇。

   工藤左衛門の助=工藤左衛門尉祐経。「曾我物語」に登場する。474では弟の工

    藤(宇佐美)祐茂とする。

 かくて一町ばかり行けども何もなし。機織り給ふ女房もましまさず。佩いたる太刀を抜き持つて、四方をうち振りて行くほどに、六七町行きたると思へば*日本のごとくに月現れて、地の色を見れば青黄赤白黒の五色なる松原へぞ出でたりける。小川流れたり。足跡を見ればただ今人の渡りたると見えたり。この川を越してみれば八棟造りの檜皮葺きの御所続けて九つあり。この内へ入りて見れば軒より落ちける水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾く。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めつべし。よくよくうち入りて見れば瓔珞の珠を連ぬき懸けられたり。夜昼の差別(しやべつ)もなかりけり。蓮(はちす)の開くを見て昼と知り、つぼむを見ては夜ぞと知り、ある所を見れば今人の弾き慣れたと覚しくて、一面の琵琶を立てられたり。

 赤地の錦にて天上を張り青地の錦にて柱を巻き立て、その上を黄金白金をもつて飾りたり。ともに当たりて鳴る声は祇園精舎の鐘の声もかくやと思ひやられたり。心も言葉も及ばれず、我はただ極楽浄土へ参るよと思ひ、嬉しき事限りなし。かくて丑寅の方へ指したる道を見れば池あり。その内に島あり。島の上には*閻浮檀金(えんぶだごん)の光鮮やかなり。池に懸けたる橋を見れば、八十九間懸けられたり。かの端に八十九の鈴(りん)を付けられたり。一番は妙法蓮華経と囀(さやづ)れば法華経一部八巻二十八品の文字の数を悉く囀りける。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女、この経の功力によつて、一切衆生をみな九品の浄土に迎へとらせ給へと祈る。「*願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく ひゃうとうせひ一さい どうほつぼだひしん おふじやうあんらつこく):観経疏」と囀りけり。

 かの池の中には八葉の蓮華あり。水の色五色にしておもしろく、近く寄りて見れば御所東の庭に白金を延べて敷かれたり。

 内よりからこひ(からかひ)たる御声にて、*「何者なれば我が住む所へ来たりたるぞ。」とのたまひける。姿を見れば、口には朱を差したるごとく、眼は日月のごとくなり。その丈、はたいろ(二十尋?)ばかりなり。十六の角を振り立てて現れたり。口より吹く息は百丈ばかり、立ちあがる紅の舌を出だし給ふ、身の毛よだつばかりなり。「いかに新田承れ。自らをば如何なる者と思ふぞや。富士浅間大菩薩とは我がことなり。日本の主鎌倉殿、家(頼家?)のかうの殿が使ひなり。これへ入りて自らが姿を見すること、頼家が運が極めなり。恥づかしながら懺悔するなり。自らが六根は夜昼三度づつ苦しみあり。新田が持ちたる剣を参らせよ。我が六根に収むべし。」と仰せられければ、易きことなりとて、四尺八寸のまふぶさか造りの太刀を抜きて参らせければ、大菩薩受け取り給ひて、逆さまに六根に収め給ふ。「おなじく刀も参らせよ。」とありければ、やがて参らせける。これも六根に収め給ふ。

(注)日本のごとく=地上のように。

   八棟造り=神社の本殿形式の一つ。

   閻浮檀金=閻浮堤の浮檀樹の下にあるという金塊。

   願以此功徳・・・=「観無量寿経疏(観経疏)」の冒頭の偈文の最後の四句。  

    474では「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経化城

    喩品第七)とある。

   「何者・・・=このあたり、文章が錯綜している感がある。大蛇の何者かの問い

    に、頼家の使いの新田であると答えてから、私は富士浅間大明神だと答えて、

    さらに、俺を探ろうとは新田、頼家共に後悔するぞ、と宣言したうえで、その

    太刀をわたしにくれぬか、というのが素直な展開だろう。

     でも、威張っているのに毒消しのために霊刀をくれとは厚かましい感があ

    る。私にはわかりづらい文章である。

 

富士の人穴の草子①-異郷譚4ー

 「異郷譚」の四番目に取り上げるのは「富士の人穴草子」です。前半は異郷譚っぽいのですが、後半は地獄めぐりの様相です。地獄は異郷とはいえませんね。刊本写本も多く有名な話なので紹介するまでもないのかもしれませんが、お付き合いください。

 原文は「室町物語大成 富士の人穴の草子 346」を漢字や仮名遣いを適宜改めて載せました。「大成」の「富士の人穴草子 347」(以下347と略します)「富士の人穴 474」(以下474と略します)、信州大学小谷コレクションの「富士の人穴草子(三種)」(以下小谷と略します)を参照しました。

その1

 頃は正治三(1201)年卯月三日、辰の刻に二代将軍左衛門督源頼家殿は、和田平太胤長を召して、「これ平太よ聞きなさい。音に聞く富士の人穴といってもその内部は誰も見たことがないという。どんな不思議な世界があるのだろうか。探検して参れ。」とおっしゃいました。胤長は畏まって、「承りました。天を翔ける翼、地を走る獣を取って参れとの御命令でございますならば、たやすい事でございますが、この富士の人穴はどのようにしたら入られましょうか。しかし、御命令に背いたとあれば天の恐れとなりましょう。二つとない命ですが主君に差し上げましょう。」と申し上げました。

 胤長は御前を罷り立ってすぐに伯父の義盛の御前に参り、「胤長はよにも不思議なる御命令を君より承りました。」と申します。義盛が何事ぞとおっしゃいますと、「それです、富士の人穴を探検して参れとの御命令でございまして、その人穴へ入りましたならば、この深沢へ再び帰る事ができるかはわかりません。ですから人々との対面も今日を限りでございましょう。みなみな後の世でお目にかかりましょう。」と申して心細げに暇乞いをいたします。義盛は涙を流しなさって、「幼けなきより膝の上で育てた胤長ゆえ殊に不憫とは思うが、公儀とならばいたしかたない。功名を上げてとくとく帰りなさい。」とおっしゃったので、平太は涙ぐんで立とうとします。

 ここに居合わせた朝比奈三郎義秀はこれを見て、泥丸(でいまる)という太刀を取り寄せて鍔元をニ三寸引き出し、平太をはったと睨んで、「吾殿の有様の見苦しさよ。日本国の侍が見る前で泣き顔を見せるとは未練がましいぞ。こんな者を一門の中に置いては、みんなが臆病になってしまうわい。そんなに恐ろしいなら首を差し出しなさい。打ち首にしよう。」と言ったので、これを聞いて、「某(それがし)は臆病ではございません。竜の住む世界、岩盤石、虎が臥す野辺であっても、一度二度とうち破って人穴へ入ろうと思っています。決して不覚を取る事はありません。」と言って朝比奈殿に暇乞いをして立ったのでした。朝比奈はこれを見て笑いながら、「いや、殿輩よ、『走る馬にも鞭を打つ』とか『血潮に染まる紅も、生地を紅に染めればより色を増す』という諺もござる。義秀も連れていってほしいとは思うけれども、一人指命されたことゆえいたしかたない。必ず功名を遂げて、一門の名を上げなされ。」と暇乞いのをしてとどまったのでした。

 平太のその日の装束はいつにもまして華やかでした。肌着には帷子を脇深く解いて、その上には段金(どんきん)の小袖を着て、霞流しの直垂は両の袂を結んで肩に懸け、烏帽子を強く結んで、両方の括りを結わえて、銀の胴金を施した一尺七寸の刀に、畳んだ扇を差し添えて、赤銅造りで練鍔(ねりつば)の太刀の二振りを提げて佩いて、松明十六丁を手下に持たせ、七日と申す時には帰りましょうと言って、岩屋の内に入りました。諸人はこれを見て、「弓取りの身ほどつらいものはないなあ。」と言ってみな涙を流しました。

 さて、平太が人穴へ入って一町ほど行って見れば、口が朱を差したように真っ赤な蛇が簀の子を描くようのとぐろを巻いています。主命なのでしかたなく飛び越え飛び越え五町ほど行ってみると、生臭い風が吹きます。恐ろしいことこの上ありません。それを行き過ぎてみると、年の頃十七八ばかりの女房が、十二単を重ねて着て、紅の袴をまとって、三十二相を具足しているように美しく、簪は蝉の羽を並べて、する墨を流したように繊細で美しい。白金の踏板に黄金の杼を持って機を織っていらっしゃいましたが、迦陵頻ののような美しい声で、「何者が私の住む所へ来たのですか。」とおっしゃって平太の前へ出てきました。平太は畏まって、「私は鎌倉殿の御使いで、三浦の一門和田の平太胤長と申す者でございます。」と申し上げると、その女房は、「何者が使いであっても通すことはできません。無理に通ろうとしたならば、すぐさま命を奪いましょう。おまえは今年十八になると思うのですが、三十一とう春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡と戦って討たれるはずです。早々に帰りなさい。」とおっしゃいますので、平太は、「いかに頼家殿が日本を支配しているといっても、命があればこそ所領もいただけるというものだ。愚かな事をするものではない。」と思い、岩屋の奥を見ないのは無念極まりなかったのですが、この女房の仰せに従って、仕方なく帰参したのでした。

原文

 そもそも頃は*正治三年卯月三日、辰の刻に頼家の*こうの殿、*和田の平太胤長(原文たねなを)を召して仰せけるやうは、「いかに平太承れ。音に聞く富士の人穴といへども未だ見ることもなし。いかなる不思議のことやある。探して参れ。」とありければ、胤長(原文たねなを)承りかしこまつて申しけるやうは、「さん候ふ。天を翔つる翼、地を走る獣を取りて参れとの御定にて候はば、安き御事にて候へども、これはいかんとしてか入り申すべき。御定を背き申せば天の恐れなり。二つとなき命を君に奉らん。」と申す。

 御前を罷り立ちすぐに義盛の御前に参り、*この由かくと申せば、「胤長(ここから胤長になっている)こそ*希代不思議なる御定を君より承って候ふ。」と申す。義盛何事ぞやと仰せありければ、「されば富士の人穴捜して参れとの御定にて候ふ間、かの人穴へ入るほどにて候はば、*深沢へ再び帰らん事は不定なり。されば人々の対面も今を限りにてぞ候ふ。みなみな後の世にこそお目にかからん。」とて心細げにて暇乞い申す。義盛涙を流し給ひけるは、「幼けなきより膝の上にて育てし間、とりわけ不憫と思へども、私ならぬ事なれば力及ばず。功名してとくとく帰り給へ。」とのたまへば、平太涙ぐみて立ちにける。

 かかりけるところに*朝比奈三郎義秀これを見て、*てひまるといふ太刀を取り寄せて鍔元ニ三寸寛げて、平太をはつたと睨めて、「烏許なる吾殿が有様や。日本の侍の見る前にて泣き顔にて見ゆる事こそ未練なれ。あれほどの者を一門の中に置いては、みなみな臆病になるべし。それほどならば首を延べ給へ。」と言ふければ、これを聞きて申しけるは、「某臆病にてはあらずや。辰の世界、岩盤石、虎臥す野辺なりとも、一度二度とはうち破りて入り候はんと思ふ我が身なり。不覚の事はよもあらじ。」とて暇乞ひして朝比奈殿とて立ちにけり。朝比奈これを見て笑ひながら申しけるやうは、「や、殿輩、*走る馬にも鞭を打つ血潮に染むる紅も、染むるによりて色を増す。義秀も連ればやとは思へども一人指されてある間力及ばず。相構へて功名して、一門の名を上げ給へ。」と暇乞ひしてとどまりけり。

(注)正治三年=正治三年は二月に建仁改元されているので卯月はないはずだが。

   こうの殿=衛門督を敬っていう語。頼家は正治二年に左衛門督に遷任。

   和田の平太胤長=鎌倉殿の御家人和田義盛の甥。胤直という人物は見当たらな

    い。

   この由かくと申せば=和田義盛が聞きなおしているので、不要な部分。

   希代不思議=世にもまれな事。

   深沢=鎌倉にある地名。和田氏の館があったのか。

   朝比奈三郎義秀=和田義盛の三男。剛勇無双と伝えられる。

   てひまる=名刀か?347では「四尺八寸のいかもの作り」474では「例の太

    刀」「四尺八寸の太刀」とあり、小谷に「四尺八寸の太刀」とある。四尺八寸

    はかなりの長さで、大太刀の形容に用いられるようである。「後鑑」に一色左

    京太夫が「四尺八寸の泥丸(どろまる)」を持ったとあるようだ。「古事類

    苑」によると、「明徳記」に一色詮範が「四尺三寸と聞こえし泥丸」持ってい

    たとあるようだ。朝比奈三郎が「泥丸」を所持していたかは確認できなかった

    が、泥丸という大太刀が存在していたのは確か七ようである。

   走る馬にも鞭を打つ=よく走っている馬にさらに鞭を加えていっそう早く走らせ

    ること。よい上にもよくすること。「血潮に染むる・・・」も同義か。

 平太がその日の装束はいつに優れて華やかなり。膚には帷子脇深くとき、その上には*段金(どんきん)といふ小袖を着、霞流しの直垂の両の袂結んで肩に懸け、烏帽子の影(掛け?)強くして、両の*括り結ひて白金の*胴金(どうがね)したる一尺七寸の刀に、たみたる(畳みたる?みたせる?)扇差し添へて、赤銅造りの太刀・練鍔(ねりつば)二振り提げて佩くままに、松明十六丁*持たせ、七日と申し候はんに帰るべしとて、ゆわや(岩屋?)の内に入りにけり。諸人これを見て、「弓取りの身ほどあはれなる事はあらじ。」とてみな涙をぞ流しける。

 さる間平太人穴へ入りて一町ばかり行きて見れば、口には朱を差したるごとくの蛇(くちなは)*簀の子を描きたるごとくなり。主命なれば力及ばず飛び越え飛び越え五町ばかり行きて見れば、生臭き風吹きけり。恐ろしきこと限りなし。それを行き過ぎ見れば、年の齢十七八ばかりなる女房(にうばう)の、十二単を重ねて紅の袴を*ふみしたひ、*三十二相を具足して、簪は蝉の羽を並べ、する墨を流せるがごとし。白金の*機(はた)あしに黄金の杼を持つて機を織りておはしますが、迦陵頻の御声にて、「何者なれば我が住む所へ来たるぞ。」とのたまひて出で給ふ。平太畏まつて申しけるは、「これは鎌倉殿の御使ひに、三浦の一門和田の平太*胤長と申す者にて候ふ。」と申しければ、かの女房のたまひけるは、「何者が使ひなりとも通すまじきなり。おして通るものならば、たちまち命を取るべきなり。」とのたまへば、*平太心に思ふやう、「いかに日本を持ちたればとて、命があればこそ所領もほしけれ、痴れたる事をばせぬものぞかし。汝は今年十八になると覚ゆるなり。三十一といはん春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡に戦ひて討たれむずるなり。早々帰れ。」とありければ、平太この由承つて岩屋の奥を見ぬ事無念さ申すばかりなけれども、女房の仰せなりければ、力及ばず帰りける。

(注)段金=中国産の錦の一種。

   括り=狩衣などの袖や裾に付けてある紐。

   胴金=鞘や柄が割れないように中ほどに付けた環状の金具。

   持たせ=使役なら部下を伴ったことになる。

   簀の子を描きたる=とぐろを巻く形容か。

   ふみしたひ=語義未詳。

   三十二相=仏の備えている三十二のすぐれた相好。転じて女性の美しい容貌。

   機あし=機脚か。踏板(ペダル)のことか。

   胤長=ここから正しい氏名になっている。かなり書き誤りが多い本文である。

   平太心に思ふやう=こう書いたあるが、以下は明らかに女房の言ったことであ

    る。胤長は確かに三十一歳で誅殺されているがこう言われて納得するのだろう

    か。女房が平太の心に訴えたのだと解する。347,474のほうがわかりや

    すい。

 

かくれ里(劉阮天台)-異郷譚3ー

 「異郷譚」の三番目に取り上げるのは「かくれ里」(赤城文庫蔵)です。「室町物語大成」によれば、寛文か延宝ごろ(17世紀後半)の絵巻だそうです。題を欠いているため仮に「かくれ里」とつけたようですが、内容は「劉阮天台」呼ばれ画題にも採られているものですのでそれを副題に付けました。

 「幽明録」に「天台二女」という題で収められていて、高校の漢文の教科書にも採られています。また、日本では鎌倉初期の源光行の「蒙求和歌」に末尾に「ふるさとはありしにもあらず来し方に又かへるべき道はわすれぬ」という和歌を添えて載っています。叙述はこの二書より詳しいです。狩野派の手による絵巻らしいので絵に添えて文章も潤色したのかもしれません。でも前の紹介した「蓬莱物語」「不老不死」ほどは衒学的でないのは絵の邪魔にならない配慮でしょうか。主人公の劉晨と阮肇が「りうしん」「けんてう」とひらがなで書かれていたので出典を捜すのにやや手間取りましたが、インターネットは調べ物には非常に有効だと実感しました。何回か検索したらヒットしました。

 割と有名な話なので紹介するまでもないのかもしれません。まあとりあえずお付き合いください。

 

 唐土天台山に隠れ里がありました。世間ではこれを知ることはありませんでした。

 ところが後漢の明帝の御時、永平十五年壬申(みずのえさる)の年(後72)に、剡県の劉晨・阮肇という者は天台山に霊薬があるという事に聞き及んて、二人は相伴ってその山に分け登ったということです。その天台山という山は台州という国の天台県の北にあって、数百丈の滝の流れがあって、険しく厳めしい山でした。

 この二人は山に分け入って、ここかしこに薬を尋ね求めて、やがて日も暮れてしまおうとするので、自分の里に帰ろうと思って、麓の道に下ろうとしたのですが、忽然として自分の来た道を見失って、どう行ったらいいかわからなくなりました。どうしようかとあちらこちら彷徨っているうちに、二人とも疲れて目はくらみ気も失うようで、歩みももたどたどく、路傍に腰をかけて休みました。そしてそのあたりを見回しますと桃の木があります。桃がたわわに実っています。二人が大いに喜んでこの桃を取って食しますと、疲れもとれて身も爽やかなりました。

 さて、それから山を下ると、谷川に着きました。そこで川に下り流れに浸かり、水を飲んだり手足を洗ったりしていますと、川上の山間から菜っ葉が水に浮かんで流れてきました。怪しく思っているとふところ今度は胡麻飯ののついたお椀が流れてきました。二人は、「ここは人里近い所なのだろう。それならばこの川を渡っての山に上ってみよう。」と語り合って早速川を渡ったのですが、水の深さ四尺余りで、二人手を取りあって向かいの岸に上がって見やると、人里があると見えて煙がむらむらと立ちのぼっています。「きっとあそこはぞ人の住む所に違いない。」と喜び急いで下ると、再び谷のみぎわに出ました。

 その谷の傍らに美しい女子が二人います。見目形は実に優美で類ない粧いです。二人の前に立って向かって言うには、「もしもし劉晨・阮肇殿、あなたたちがここにおいでなさることはあらかじめ承知していたので、ここまで御迎えに参っていたのですよ。どうしてこんなに遅くなったのですか。お急ぎなさいませ。我が宿にご一緒に参りましょう。」と。二人はこれを聞いて大いに驚き、不思議に思いました。「どこともわからない山中を迷い歩いて心もとない時に、このように細やかなお言葉をかけてくださるとは、夢ともうつつともわかり難いことです。」と申し上げますと、女子は、「何をお疑いなさるのですか。あなたがたとは前世から契りを深く結んだ仲ですので、今このようにあなたがたはいらっしゃったのですよ。夢などとは思いなさるな。」と言って二人を一緒に伴って宿所へ帰ったのでした。

 劉晨・阮肇が案内された場所に着いて女子たちの住家を見申し上げますと、想像も表現もできない程の素晴らしさです。白金(しろがね=銀)の築地の内に七宝の宮殿が立ち並び、三方に黄金の門が開かれています。庭には宝石の砂を敷き散らし、天井には錦の帳を懸け並べて、七宝の瓔珞が春風に翻る有様は、まことに帝釈天の喜見城の厳かな飾りつけはこのようなものだろうかと思うほどです。

 さて、宮殿の内に入ってみると玉の石畳を敷物のように敷き詰めています。劉晨・阮肇の二人をこの床の上に招いて上らせて座らせ、女子も同じように向か合って座に居ずまいを正します。青衣を着た召使いの童女が珍しい料理が並べられた膳を捧げ持って来て四人の前に供えます。これを見るとに山海の珍しい物を揃えてさもざまな味付けで調理したもので、目にも耳にもしたことのない飲食です。やがて食事がすんで、黄金の盃が運ばれてきました。次に白金の銚子が出てきてこれを二人に勧めます。飲んでみるとその味わいは、世の常の酒とは全く違います。これは天の甘露というものでしょう。この酒を飲むやいなや、心は澄み透り晴れやかになって、身も軽やかに思われました。お仕えするものは、みなみな女子や男子の中でも比類ない者と見えます。その男女の見目形が美しく、きらびやかなことは、天女の姿もこのようなものなのでしょうか。

 さて、夜に入ると今度は種々の珍しい果実を提供して和ませてくれます。この宴の席に玉の簪を挿した女房たちが十人ほど入って来なさって、このようにおいでなさったことを言祝いで、桃を三つか五つ差し上げなさいました。これは世の常の桃ではありません、三千年に一度花が咲き実の成る崑崙山の桃の種からとれたものです。二人はこれを賞玩します。主人の女子はそこで次の様に語りました。「ただ今おいでになった女房たちはこの辺りに門を並べてお住みになっている人々です。あなたがたが思いがけずここにおいでなさったのをお祝いしていらっしゃったのです。」。劉晨・阮肇は喜んで礼儀正しく言葉を尽くしてお礼を言いました。そして女房たちにも酒を勧めなさいます。あなたこなたと盃が回され、酒宴は延々と続き人々は興に乗じて楽しみなさいました。

 二人の女主人は、琵琶・琴を取り出してお客様である女房たちの前に置きなさいます。女房たちは瑠璃の宝石をちりばめて飾った(瑠璃の宝石のように美しい)御手で弾きなさいます。その音声の妙なることは、まことにたとえようもございません。その音色に驚いて、鳳凰も舞い下り竜神も浮かび上がるほどです。やがて管絃の宴も果てたので客人の女房たちは暇乞いをして帰りなさいます。主の二女は劉晨・阮肇を誘って夜の臥所(ふしど)に入りなさいます。比翼連理の語らひである男女の契りは浅からず、明かし暮らしているうちに、十五日ほど過ぎると、劉晨と阮肇には故郷に帰りたいと思う心がもたげてきました。二女はこれを悟って様々に慰めもてなして、楽しみで万事を紛らわして月日を送りました。その所の景色はいつも春三月の天候のようです。野山は花盛りです。また木の実のなっている木もあります。草はみな五穀の類の稔るものばかりです。何百匹の鳥が木々の梢で囀り、もの寂しいなどということは全くありません。

 このようにして半年ほど過ぎた時、劉晨・阮肇が二女に、「われらが故郷を出た時はただちょっと山に入って薬を取ろうと思ってここまでやってきたのです。このようなの所に来てこんな楽しみを受けようとは、夢うつつにも思いも寄りませんでした。ですからいつまでもこうしてはいられません。ここにいるのはじつに喜ばしいことですが故郷も恋しゅうございますので、今は一度帰って老いた母、幼い子供などに逢ってよくよく暇乞いして、その後また参りましょう。」と申し出たので、二女はこの由をお聞き入れなさって、「確かにあなたがたの仰せになるように故郷を恋しく思われるのも気の毒に感じます。一旦お帰りなさって父母をも拝み、妻子にも会ってその後にまたおいでなさい。お待ちいたしましょう。」と言って暇乞いの宴をして送り出しました。

 童女を招いて、「あの人々を大唐国に送り届けよ。」と申されたので、承知しましたと申して童女は劉晨・阮肇を導いて山の洞を出て谷に下り、それから多くの山を越して麓に下ると大きな道に着きました。ここで童女は、「これより東に向かって三里ほど行きなされば人が大勢行き交う道に出なさるでしょう。」と教えつつ暇乞いをして帰りました。劉晨・阮肇はそが教えのとおりに東を差して歩みますと、人里が近いと見えて煙がかすかに立ち上る様子です。たしかに人里に近づいているようだと思って進んでいくと、人が大勢行き交う道に出て、剡県へ行くべき方角を尋ねて、終に故郷へ帰り着きました。

 さて、剡県の里に着いてみるとかつてあった住家も見えず、家があったと思われる所は田や畑などになっていて、どこを見てもかつて見たような所はありませんでした。まして顔見知りの人などいません。これはどうしたことかと不思議に思ってある家に立ち入って、「この里に劉晨・阮肇という者の妻子がいたと思うのですがどうなったのでしょうか。」と尋ねますと、主はそれを聞いて、「そのような人の名は聞いたことはございません。」と答えます。ここかしこの家々に立ち入りしかじかの事情を語って問いますと、ある家の主がこの由を聞いて、「たしかに世間の語り草としてそのようなことを伝え聞いております。昔漢の時代に劉晨・阮肇という人が、天台山に薬を取りに入って終に帰らなかったと。今教える方がその人の七世の孫です。」と言って劉し(劉氏?劉子?)の家を教えました。二人がそこを訪ねて対面すると劉しは年八十ほどの翁でした。しかじかと事情を語ると、その翁は、「その人々のことは既に二百年昔の事です。何故に今になってお訪ねなさるのですか。」と言うので、劉晨・阮肇、なんともこの者は不思議な事を言うのだろうと思いました。詳しく説明しようと思って二人は答えました。「我らはなんとその古の劉晨・阮肇という者です。かの山の中に住暮らしていたのはわずか半年ばかりのほどと思っていましたが、このように星霜年久しく積もっていたとはあきれたことです。今は父母にお会い申し上げることも、妻子を見ることも、この世ではかなわないことなのですね。」と言って嘆き悲しむと、主はこれを聞いて、「それでは我らのご先祖さまでいらっしゃいますか。昔我らが先祖にそのような事があったと親・祖父(おほぢ)が語り伝えなさっていましたが、名をのみ承っていましたのに、今まさしく御姿を見させたいただくとは不思議なことです。」と言って涙を流したということです。

 さて、里の人々はこれを聞いて不思議の事であるということで、家々からり老いも若きもこぞって集まって二人を見物し、みな不思議がりました。かくて劉晨・阮肇は暫くここに暮らしていたのですが、見知らぬ世界に伴侶・家族もいないので、何かにつけて心細く思われ、再びかの二女のもとを訪ねて天台山に入ったということです。晋の大康八年、丁未(ひのとひつじ)の年(後287)に、劉晨・阮肇は隠れ里に入って行方知れずとなりました。

原文

 唐土天台山に隠れ里ありけり。世にこれを知ることなかりき。

 しかるに後漢の*明帝の御時、永平十五年壬申(みずのえさる)の年、剡県の劉晨・阮肇と云ふ者天台山に*よき薬のありと云ふ事を聞き及びて、二人相伴ひかの山に分け登りけり。かの天台山と云ふ山は台州と云ふ国の天台県より北にあり、数百丈の滝の流れあり、険しく厳めしき山なりけり。

 かの二人山に分け入り、ここかしこにて薬を尋ね求めて、*やうやう日も暮れなんとするほどに、わがふるさとに帰らんと思ひて、麓の道に下りしが、たちまちに元来し道を失ひて、行くべき方も弁へず。いかがせんとてかなたこなたを巡り惑ふほどに、二人ともに疲れに臨みて目暮れ心消え、歩むもたどたどしかりければ、傍らなる橋(端?)に腰をかけて休み居たり。またそのあたりを見れば*桃の木あり。桃盛りに成れり。大きに喜びてこの桃を取りて食しければ、疲れも助かりて身も涼やかになりにけり。

 さてそれより下るほどに、谷川にぞ着きにける。すなはち川に下り浸り、水を飲み足手を洗ひなどして立ち居たるに、その川上は山間なるが*菜の葉水に浮かみて流れ出でたり。怪しく思ふところに胡麻飯のつける杯流れ来たれり。その時二人相語りていはく、「このところは里近き辺りなるべし。さらばこの川を渡りて向かひの山に上るべし。」とてすなはち川を渡るに、水の深さ四尺余りなりければ、二人手を取り組みて向かひの岸に上がりて見れば、人里ありと見えて煙むらむらと立ちのぼる。「さてはここぞ人の住む所なるべし。」と喜びて急ぎ下るほどに、また谷のみぎりに出でにけり。

 その谷の傍らに美しき女子二人あり。見目形世に優れ類なき粧ひなり。二人の前に立ち向かふていふやう、*「いかにや劉晨・阮肇汝たちここに来たり給ふことを、かねてよく知りぬる上に、ここまで御迎へに参りぬ。何ぞや来たり給ふことの遅かりしぞ。急がせ給へ。我が宿に伴ひ行き侍らん。」と云ひければ、二人の人々これを聞きて大きに驚き、怪しく思ひけり。「そことも知らぬ山中を惑ひありきて覚束なき折節に、かく細やかにのたまふこそ夢うつつとも弁へ難けれ。」と申しければ、女子の曰く、「何をか疑ひ給ふ。御身たちと先の世より契り深く結びし故にただ今ここに来たり給へリ。夢と*な思ひ給ふそ。」とて二人ともに相伴ひつつ宿所へぞ帰りける。

 劉晨・阮肇かしこに到りて女子の住家を見奉るに、心も言葉も及ばれず。白金の築地の内に七宝の宮殿を立て並べ、三方に黄金の門を開きたり。庭には玉の砂子を敷き散らし、天井には錦の帳を懸け並べ、七宝の*瓔珞春風に翻る有様、まことに*帝釈喜見城の荘厳もかくやと思ふばかりなり。

 さて、宮殿の内に入りて見れば玉の石畳の褥を延べたり。劉晨・阮肇二人をこの床の上に招き上せて座せしめ、女子も同じく相向かふ座に居直りけり。*青衣の童女*珍膳を捧げ来たつて四人の前に供へたり。これを見るに山海の珍物を揃へて百味の調したれば、未だ目にも見ず耳にも聞かざる所の飲食(おんじき)なり。食やうやくすんで後、黄金の盃もて来たれり。次に白金の銚子もて出でてこれを勧む。飲みてみるにその味はひ、世の常の酒にはあらず。これは天の甘露といふものなるべし。この酒を飲みしよりも、心澄み透り晴れやかにして、身軽らかに覚えけり。宮仕えするものはみなみな女子や男子の類なきところと見えたり。その男女の見目形美しく、きらやかなること、天女の姿もかくやらん。

(注)明帝=後漢第二代の皇帝。永平十五年は、後72年。

   よき薬=「幽明録」では「谷皮」とある。

   やうやう日も暮れなん=一日の出来事であろう。「幽明録」では13日彷徨った

    とある。

   桃の木=桃は霊性を感じさせる。また「桃花源記」をも連想させる。

   菜の葉=「幽明録」では「蕪菁」とある。

   「いかにや・・・=「幽明録」では劉・阮がお椀を手に持っているのを見て女た

    ちは笑ったとある。わざとお椀や蕪を流して劉・阮が来るように誘ったという

    ことだろう。来るのが遅いのをなじるのはそのせいである。

   な思ひ給ふそ=「な思ひ給ひそ」であるべきところ。禁止の意。

   瓔珞=天蓋にぶらさげる装飾。

   帝釈喜見城=帝釈天の居城。須弥山の頂上、忉利天の中央に位置する。

   青衣の童女=青い衣は賤しい召使の衣服。また青衣は采女を指す言葉でもある。

   珍膳=珍しい料理。

 さて、夜に入りしかば種々の珍菓を供へて慰めけり。かかりける所に玉の簪したる女房たち十人ばかり入り来たり給うて、かくのおはすことを喜ばしめて、すなはち桃を*三五供へ給ふ。これは世の常の桃にはあらず、三千年に一度花咲き実成る*崑崙山の桃の種なり。二人これを賞玩す。主の女子すなはち語りて曰く、「ただ今来たり給ふ女房たちはこの辺りに門を並べて住み給ふ人々なり。*汝たちのたまさかにここに詣で給ふことを喜びにおはしつるなり。」とのたまへば、劉晨・阮肇喜びて礼儀正しく言葉を尽くしけり。かの女房たちに酒を勧め給ふ。あなたこなたと盃巡りて、酒宴やや久しく人々興に乗じ給ふ。

 主の二女、琵琶・琴を取り出だして各人(まらうど)の女房たちの前に置き給ふ。*瑠璃を延べたるごとくなる御手をもつて弾き給ふ。その音声の妙なること、まことにたとふべきかたぞなかりける。鳳凰も舞ひ下がり竜神も浮かび出でるばかりなり。やうやう管絃も過ぎしかば客人の女房たちは暇乞ひして帰り給ふ。主の二女は劉晨、阮肇誘ふて夜の臥所(ふしど)に入り給ふ。*比翼連理の語らひ浅からずして、明かし暮らしけるほどに、十五日ばかりになりし時、劉晨・阮肇故郷に帰らんと思ふ心出で来にけり。二女これを悟りて様々に慰めもてなしけるほどに、楽しみによろづを紛らはして月日を送りぬ。その所の*景気はいつも春三月の天気のごとし。野山に花盛んなり。あるいは木の実なれる木もあり。草はみな五穀の類より外の草なし。*百の鳥木々の梢に囀り、もの寂しきことはあへてなかりけり。

 かくて半年ばかり過ぎし時、劉晨・阮肇二女に語りて申すやう、「われら故郷を出でし時はただかりそめに山に入りて薬を取るべしとてここに詣でつるなり。かやうの所に来たりてかかる楽しみを得べしとは、夢うつつにも思ひ寄らざる次第なり。いつまでもかくてあるべき。まことに喜ばしけれども故郷も恋しく侍れば、今一度帰りて老いたる母、幼き子供などに逢うてよくよく暇乞ひして、またこそ参り侍らめ。」と申しければ、二女この由を聞き給うて、「げにも汝たちの仰せらるるごとくに故郷を覚束なく思ひ給ふらんこともいとほしければ、一まづ帰り給うて父母をも拝み、妻子にも逢うてその後また来たり給へ。相待ち申し侍らん。」というて暇乞ひして出だしけり。

 *丱女を招きて、「あの人々を大唐に送り届けよ。」と申されければ、承ると申して劉晨、阮肇を誘ひ山の洞を出でて谷に下り、それより山をあまた越して麓に下れば大なる道あり。ここにして丱女の曰く、「これより*東に向かつて三里ばかり行き給はば人あまた行き交ふ道に出で給ふべし。」と教へつつ暇乞ひして帰りけり。劉晨・阮肇は彼が教へのごとくに東を差して歩みければ、人里近しと見えて煙かすかに立ち上る気色こそすれ。いかさま人倫に近づくよと思ひて出づるところに、人あまた行き交ふ道に出でて、剡県へ行くべき方を尋ね問ひて、終に故郷へ帰り着きにけり。

 さて、剡県の里に到りてみればありし住家も見えず、家ありし所と覚えしは田となり畑となりなどして、いづくを見れども元見し所はなかりけり。まして見知りたる人もなし。こはいかにと怪しく思ひてある家に立ち入りて云ふやう、「この里に劉晨・阮肇と云ふ者の妻子の候ひしはいかになり候ふやらん。」と言ひければ、主聞いて、「左様の人の名は聞きも及ばず。」とぞ答へける。ここかしこの家々に立ち入りしかじかの由を語りて問ひければ、ある家の主この由を聞きて、「まことに世語りにさやうの事を聞き伝へて侍り。昔漢の代に劉晨・阮肇といひし人、天台山に薬を取りに入りて終に帰らずと。すなはちその人の七世の孫なり。」とて*劉しが家を教へけり。二人かしこに臨んで見るに劉しは年八十ばかりの翁なり。しかじかの由を語りければ、かの翁申すやう、「その人々のことは既に二百年あまりに及べり。何故に今尋ね給ふぞ。」と言ひければ、劉晨、阮肇、いかさまこの者不思議なるものと覚えたり。語らんと思ひて二人答へて曰く、「我らはすなはち古の劉晨・阮肇と云ふ者なり。かの山の中に相住みしことわづかに半年ばかりのほどとこそ思ひつるに、かやうに星霜年久しく積もりけるにや。あさましや、今は父母に会ひ奉らんことも、妻子を見侍らんことも、この世にてはかなふべからず。」とて嘆き悲しみければ、主これを聞きて、「さては我らが先祖にておはしますか。昔我らが先祖にしかじかの事ありと親・祖父(おほぢ)の語り伝へ給ふに、名をのみ承り及びつるに、今まさしく御姿を見奉るこそ不思議なれ。」とて涙を流しける。

 さて、里の人々これを聞きて不思議の事なりとて、家々より老少こぞりあひて二人の人を見物し、とりどりに怪しみをなしけり。かくて劉晨・阮肇は暫くここに住みしかども、知らぬ世界に伴ふ方もなきところなれば、よろづにつけて心細く覚えしかば、またかの二女のもとを訪ねて天台山にぞ入りにける。晋の*大康八年、丁未(ひのとひつじ)の年に、劉晨・阮肇隠れ里に入りて行き方知らずなりにけり。

(注)三五=三つか五つ。十五個ともとれるが、ちょっと多いだろう。「幽明録」では

    「三五桃子」とある。

   崑崙山の桃の種=種は実のことか。もしくはその種から育った実か。崑崙山の桃

    は西王母伝説に見える、一つ食べれば三千年生きるという桃。

   汝たち=「幽明録」では「賀汝婿来」とあり、婿入りの祝言の扱いである。ちな

    みに女房の数は3、40人。

   瑠璃を延べたるごとくなる御手=この形容はよくわからない。瑠璃をブレスレッ

    トとして腕いっぱいに装飾しているのであろうか。

   比翼連理の語らひ=男女の深い契り。「長恨歌」に見える。

   景気=様子。有様。

   百の鳥=「幽明録」では逆に百の鳥が望郷を促したとある。

   丱女=童女

   東=中国では、東が平地や海、西が山や異郷というイメージがある。実際川は原

    則的に東流する。

   劉し=劉子、劉氏か。劉晨の後裔。

   大康八年=後287年。丁未。後漢の永平15年からは215年後。