religionsloveの日記

室町物語です。

蓬莱物語①-異郷譚1ー

 室町物語(広義でいう御伽草子)には異郷を扱った物語が多数あります。「中世小説の研究(市古貞次氏)」の分類では、「異郷小説」と呼びます。異郷そのものをテーマとしたものとしは、「蓬莱物語」「不老不死」がありますが、テーマは本地物だったり怪婚談だったりするものの、舞台が異郷に及ぶものは多くあります。

 「稚児物語」のように截然と分類できないジャンルですが、そのうちのいくつかを紹介したいと思います。「梵天国」「御曹子島渡り」「浦島太郎」「浜出」「さざれ石」は御伽草子で現代語訳も多く出ているので、それ以外のものを取り上げたいと思います。
第一

 昔から今に至るまで、すばらしい例として語り伝えますことは数多いのですが、その中でもとりわけ霊験あらたかなものは不老不死の薬です。それは年老いた容貌を引き戻して再び元の若い姿にし、もとから若い者は寿命をのばして容色は常盤木や松の緑のようにいつまでも変わらず、末永く命を保つのです。

 そもそもこの不老不死の薬が出たところを尋ねると、その由来は蓬莱山にあるといいます。しかしながらこの山は大海の中にあって、諸々の仙人が集まり住む所なのです。またこの山を藐姑射(はこや)の山とも名付けられています。中国ではその昔、五帝の第四にあたりなさる唐堯と申す帝が自らこの山に行幸なさって、四人の神仙に会いなさいました。仙人は大いに喜んで不老不死の薬を献上いたしました。

 唐堯は都へ帰る道すがら、帰ったら人に施し与えようと思し召しなさったけれども、この帝堯と申す方は、上代の聖人です。五常仁義礼智信)の道を正しく行い、天然自然の心理を尊んで、人を教化して世を治め、この道をあまねく伝えてなさって後々の世までも絶やすまいと、常に心にかけなさっている方でした。

 もしこの薬を人に与えて、寿命を長く保ち命が尽きなければ、この薬を頼みとして、ほしいままに世を乱し、五常の道を忘れて、天然自然の真理はやぶられてしまうだろう。そうすれば国家も乱れて、世の中が鎮まることもないだろうと考え、かねてから末の世を深く思い、遠く慮っていたので、この不老不死の薬を世に広めなさりませんでした。そして箱の中に隠して驪山という山の中に埋め隠しなさいました。その薬の徳のおかげで山中は大いに潤って、草木は夥しく繁茂しました。またこの薬の箱の上には黄精(鳴子百合)という草が生えました。後の世の仙人は、この草を手に入れて丹薬を練って服用したとかいうことです。これは長生不死の薬草で、今の世でも黄精は体を養生する三百六十種の草木の中の第一と定められています。

 さて、かの蓬莱山と申す山についていうと、ここから(この世から)南海に向かって三万余里の波濤を経ると、その次の大海は冥海と名付けられています。水の色は黒くて深さは限りありません。この故に黒海とも名付けれれています。風が吹くことはないのですが、波は常に高く上がり、漫々として満ち溢れていて、雲や煙のように立ち重なる波はその高さ百余丈、日夜まったく止むことはありません。当然のことながら舟も筏も通うことはできないので、人の世とは長く隔絶されていました。天仙神力の輩(ともがら)だけが思い通りに渡ることができるので、またこの海を天池とも名付けたとかいうことです。この冥海を渡って、また三万里を過ぎて蓬莱山の岸に到ります。

 この山が出現したその昔を推測すると、我が朝がおこる以前、唐土三皇の第一伏羲氏の御代のころ、大海の底に六匹の亀がいました。年劫を積み重ねてその大きさは一万里でした。ある時その六匹の亀が一か所に集まり、海中に漂っていた大きな浮き島を甲にのせて差し上げました。この浮き島は諸々の宝が集まった結晶で、綺麗美妙の名山です。波打ち際の岸より峰の岩間に至るまで、水晶輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉色とりどりの宝玉が光り、まさに光明赫奕(こうみょうかくえき)と輝いていました。

 このようにしてできた山は年を経るうちに、草木が多く生えてきました。その草木のありさまはまったく人間世界の種類とは異なります。花が咲き果実の実る粧いは、色といい匂いといい、また味わいの素晴らしさといい想像も表現もできないほどです。上界では梵天国の大果報の徳を受け、下界では変幻自在に存在する竜宮城をもとに出現した山なので、どうしてこの世に類がありましょうか。その後不思議な獣、珍しい鳥が数々に出まれ出ました。角の形毛の色、翼の粧い鳴き囀る声はおのずから天地五行の徳に従うもので、五の調子が乱れないように調和が崩れることはありません。

原文

 昔が今に至るまで、めでたきためしに言ひ伝え侍る事、数々多きその中に、殊にすぐれて奇特なるは不老不死の薬とて、老いたる形を引き返し再び元の姿となし、もとより若き輩は齢(よはひ)を延べていつまでも変はらぬ色は常盤木や、松の緑の末永く、保つ命の限りなし。

 そもそもこの薬の出(いづ)る所を尋ぬれば、蓬莱山にありと言ふ。しかるにこの山は大海のうちにありて、諸々の仙人の集まり住む所なり。あるいはこの山を*藐姑射(はこや)の山とも名付けたり。唐土(もろこし)の古、五帝には第四にあたらせ給ふ*唐堯と申す帝、自らこの山に御幸(みゆき)して四人の神仙にあひ給ふ。仙人大いに喜びて不老不死の薬を奉り侍りけり。唐堯すでに都へ帰り給ひつつ、人に施し与へむと思し召しけれども、この帝と申すは、これ上代の聖人なり。*五常の道を正しくして、天理のまことを尊びつつ、人に教へて世を治め、この道を伝へ給ひ末の世までも絶えさじと、常に心にかけ給ふ。

 もしこの薬を人に与へ、齢久しく命尽きずば、この薬を頼みとしてほしいままに世を乱し、五常の道を忘れては、天理のまことを破るべし。しからば国家も乱れつつ、世の鎮まることあらじと、かねてより末の世を深く思ひ、遠く計りて不老不死の薬をば世に広め給はず。箱のうちに隠しつつ*驪山といふ山のうちに埋み置かせ給ひけり。その薬の徳故に山中大いにうるおひて、草木はなはだ栄えたり。またこの薬の箱の上には*黄精(わうせい)といふ草生ひたり。後の世の仙人、この草を取り得て丹薬を練りて服すとかや。長生不死の薬草にて、今の世までも黄精は命を養ふ三百六十種の草木の中の第一とす。

(注)藐姑射の山=邈(はる)か遠くにある姑射山。不老不死の仙人が住むという山。

   唐堯=三皇五帝は、中国古代の伝説上の帝王。唐堯(帝堯)には「鼓腹撃壌」の

    故事がある。

   五常儒教で人が常に行うべき正しい道。仁、義、礼、智、信。

   驪山=中国西安の東南にある山。麓に温泉があり、故事も多い。

   黄精=漢方薬。鳴子百合の根茎。強壮薬。

 しかるに、かの蓬莱山と申すは、これより南海に向かつて三万余里の波濤を経て、その次の大海をば冥海と名付けたり。水の色黒にして深きこと限りなし。この故に黒海とも名付けたり。風吹くことなけれども波常に高く上がり、漫々として湛へたれば、*雲のなみ煙の波その高さ百余丈、日夜さらに止むことなし。世の常のことには舟も筏も通ふことなければ、人間長く隔たりぬ。天仙神力の輩(ともがら)のみ心に任せて渡る故に、またこの海を*天池とも名付くとかや。かの冥海を渡ること、また三万里をうち過ぎて蓬莱山の岸に到る。

 この山始めて現れしその古を案ずるに、*我が朝その上唐土三皇の第一伏羲氏の御時に、大海の底に六の亀あり。年を重ね劫を積みてその大きさ一万里なり。ある時六の亀ひとところに集まり、海中に漂ふところの大山を甲にのせて差し上げたり。もとよりこの山は諸々の宝の集まりたりし精なれば綺麗美妙の名山なり。波打ち際の岸よりも峰の岩間に至るまで、*水晶(精)輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉いろいろの玉の光り、さながら*光明赫奕たり。

 かくて年を経るままに、草木多く生出たり。その草木のありさまさらに人間世界の種にあらず。花咲き実る粧ひ、色といひ匂ひといひ、また味はひのうるはしきは心も言葉も及ばず。上には梵天の大果報の徳を受け、下には*竜宮の変化無方の所より現れ出でし山なれば、なじかはこの世に類あらん。その後あやしきけだもの珍しき鳥数々に出産す。角の形毛の色、翼の粧ひ、鳴き囀る声、自づから天地五行の徳に従ひ、*五の調子乱るることなし。

(注)雲のなみ煙の波=波の立ち重なっている様を雲にたとえていう。

   天池=天然の大池。海をいう。

   我が朝その上=私の解釈によると我が朝以前に中国王朝があったことになる。そ

    のような史観に立った人の作という事になるが、別解もあるか。

   水晶(精)輪=水晶でできた輪宝(車輪の形をした宝石)。

   光明赫奕=多くな光彩を放つさま。

   竜宮の変化無方の所=竜宮城が変幻自在に存在する宮殿という意味か。

   五の調子=五調子。唐楽、雅楽の調子。調和がとれているの意か。五調には頑丈

    の意味もある。

 

塵荊鈔(抄)⑯ー稚児物語4ー

第十六

 広く諸経の文言を見ると、六道における衆生は、その苦しみはまちまちである。

 第一に、地獄道は、熱い鉄が堆く地に積もり、溶けた銅が河と流れて、鉄の城の四面は、猛火が洞然として激しく燃えている。研刺磨擣の苦しみで、飢骨は油を出し、刀の山、剣の樹の痛さに悲しみ、手足に血をぽたぽたと垂らす。焦熱、大焦熱地獄の炎に咽び、泣けども涙は落ちない。火の輪は眼にふりかかり、火の焦げる勢いは足の裏を焼き、紅蓮、大紅蓮地獄の氷に閉じこめられ、叫べども声が出でない。寒風が手足を貫き、鉄杖が頭や目を穿つ。これは煩悩殺生の因果である。この道では無二地蔵と達多菩薩、ならびび清浄観をお頼みもうしあげるべきである。

 第二に餓鬼道は、長く飢え困苦しておのずからやせ衰え憔悴し、久しく渇え逼迫して、ひたすら飢えやつれて慌てふためいている。百の果実が林に実を結んでも、見るとそれば剣の樹に変じ、万の水は海に満ちていても、汲みに向かうと灼熱の銅の汁となる。食物を願っても微塵も与える人はなく、住居を求めても暫時も息う場所はない。これは慳貪放逸の業報である。この道では善美地蔵、宝受菩薩、ならびに真観をお頼み申し上げるべきである。

 第三に畜生道とは、霊鳥や猛獣や喘耎(いもむし)の類、肖翹(蝶や蜂)のような物、羽翔潜鱗(空飛ぶ鳥や水に沈む魚)など、その姿は限りなくあり、大小が混雑している。親子の恩愛は、人間と同じとはいっても、成長するにつれて、互いに喰い合ってもまったく気づかない。闇のような愚かさはまことに深く、本来の覚りとは最も遠い所にある。飛ぶ蛾は灯火に吸い込まれ、蚊や虻は蜘蛛の網に掛かり、山の鹿野の麋(なれじか)は東へ西へと迷走する。峡谷の猿や泉の獺(かわうそ)は、夕暮れも朝方もわからない。飛ぶ鳥は天の高きを知らず、遊ぶ魚は渕の深きを覚らない。あるものは聾(みみしい)駭(おろか)無足(あしなえ)で、身のうちには苦しみがある。あるものはくねくねと蛇のように進み、心のなかには愁いがある。哀しいことだ、生死の苦しみは終わりがない。悲しいことだ、迷いを出離するのは何時だろう。梵網経にいう、『一切衆生類を見る時は、汝是畜生発菩提心(汝ら畜生よ、菩提心を発せよ)と唱えなさい。』と。ある人師がこの文を解釈して言った、『畜生はたとえ理解できなくても、説法の声は毛孔から入っていき、ついには菩提にいたる縁となるだろう。』と。この道では伏勝地蔵、救脱菩薩ならびに慈観をお頼み申し上げるべきである。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚(怒り恨むこと)を心に含んで、星旄電戟の軍勢をもって争いをなし、体中に疵を蒙り、いつまでも怨讐を懐いて魚鱗鶴翼の陣を張り、満身に汗を流して戦っている。天から枷や鎖が降り下って囚われ、首を廻らす事もできない。地からは鉄刀が垂直に立てられ、足の置ける所はない。昼夜闘戦の鬨(ときのこえ)が耳に聞こえ落ち、朝夕傷を受けた血が大きな盾の上に浮かんでいる。また、天帝帝釈天とと覇権を争い、しばしばその居城喜見城を侵略し、その領土須弥山を掌握し、日や月を我がものとするが、ついには天帝の軍に砕き破れて恐ろしさに満ちているのである。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗としている。およそ衆生はみな本覚の如来であり、世尊とみなしていいものである。相対しては恭敬すべきなのに、どうして害心を生ずるのであろうか。ましてや、一念の瞋恚で俱胝劫(永遠)の善根を焼き、刹那の怨害で無量生の苦報を招くといえるであろう。この道では諸竜地蔵、持地菩薩ならびに悲観をお頼み申し上げるべきである。

  第五に人道では、この身は常に不浄にして、さまざまな穢れがその中に満ちて内生は熟臓があって、外相は皮膜に覆われ、唾や汗が常に流出して、膿や血がいつまでも充満している。たまたま受け難き人身を受けて人間界に生まれたのに死ぬことを嫌がって、幸いにも逢い難き仏教に逢ったというのに菩提を願わない。日夜煩悩に追い立てられて暫くも心休まる事はない。生者は死に、盛者は衰えるというのに、会者定離の理をわきまえないで、ややもすれば、名利にのみ執着して、貪欲を業として、あまつさえ愛楽に引かれて邪執を宗として、一生は尽きるのに願望だけは尽きない。哀しいことだ、ふたたび三悪の趣(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕す事は。まことに悲しむべきであり、恥ずべきである。

 第六の天道では、悲想天で八万歳の寿命があっても、やはり必滅の愁いがある。欲界の六天でも、五衰の悲しみを免れることはできない。善見城の勝れて妙なる楽しみ、色界の中間禅の高い楼閣にいること、これらもまた夢の中の果報であり、幻の間の快楽である。この時に浄い修業を行えばどうして等しく妙覚に到らないことがあろうか。この道では伏恩地蔵、月光菩薩、ならびに広大智恵観をお頼み申し上げるべきである。ましてや三界は火宅のような迷いと苦しみに満ちた世界である。世が治まった安楽の上代でさえ人は遁世した。乱世澆季末法濁乱の今、前後の定まらない東岱(岱山=死者の霊魂が集まる山)の煙は、とりもなおさず朝に親しみ、夕に語らった友を火葬したものではないか。新しかったり古かったりする北芒山(墓地として知られる)の露は、遠くで聞き近くで見た人そのものではないか。私はたまたま頭を剃つても心は剃っていない。衣を墨色に染めたならば心までも染めないことがあろうか、いや心までも染めなくてはいけない。こうしてこそ真正の善知識となるであろう。」との思いに到って、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

  (このような状態にならなければ世を捨てる心もきっと起きなかっただろう。今は

  憂き世にはすまない身となってしまったよ)

 と詠んで、花若殿は、蟄居の後に、幾多の星霜を積み、生住異滅の無常を観じ、無上菩提の不退転の境地に入り、涅槃の岸にたどり着きなさったのです。

 それにしても僧正・花若殿・玉若殿は、多生の縁が浅くなくて、ふたたび同じ蓮に縁を結びなさったのです。かの発心成仏の因縁は、三人の氏神である、八幡・春日・厳島垂迹した和光同塵の御加護で、八相成道の御利益であり、とても素晴らしい事です。

原文

 凡そ*諸経の文を見るに、六道の衆生、其の苦区(まちまち)なり。

 第一、地獄道は、熱鉄地を堆しうし、*銅汁河を流し、*銕(鉄)城四面、猛火洞然たり。研刺磨擣の苦しみ、*飢骨油を出だし、刀山剣樹に悲しみ、手足に血を*疣(あや)す。*焼(焦?)熱、大焼熱の焔に咽び、泣けども涙落ちず。火輪眼に転じ、火燥趺(あなうら)を焚き、紅蓮、大紅蓮の氷に閉ぢられ、叫べども声出でず。寒風手足を列(つらぬ)き、銕(鉄)杖頭目を穿つ。是れ煩悩殺生の因果なり。*無二地蔵達多菩薩、幷びに清浄観を憑み奉るべし。

 第二に餓鬼道は、長飢困苦して自ら枯槁憔悴し、久渇逼迫して、偏に*飢羸障(慞)惶す。百菓林に結べども、之を見ば剣樹と変じ、万水海に崇すれども、之に向かへば銅汁と成る。食を楽(ねが)ふに微塵も与ふる人無く、居を求むるに暫時も息む処なし。是れ慳貪放逸の業報なり。善美地蔵、宝受菩薩、幷びに真観を憑み奉るべし。

 第三に畜生道とは、霊禽猛獣*喘耎の類、*肖翹の物、羽翔潜鱗等、其の貌万品にして、大小混雑せり。親子の恩愛、人間と同じと雖も、成長に及びて、互ひに相噉(か)み食して更に知る処なし。痴闇誠に深く、本覚尤も遠し。飛蛾は灯火に著して蚊虻は蛛網に繋がり、山鹿野麋東西に迷ふ。峡猿泉獺、昏暁を弁へず。飛鳥天の高きを知らず、遊魚渕の深きを覚えず。或は*聾駭(騃)無足にして、身在れば乃ち苦あり。或は蜿転腹行して、心在れば自づから愁ひあり。哀しいかな、生死終はることなく、悲しいかな出離何時ぞ。梵網経に云はく、『一切衆生類を見ん時、如(汝)是畜生発菩提心と唱ふべし。』と。*人師此の文を釈して云はく、『設ひ領解無くとも、法音毛孔に入り、遂に菩提縁とならん。』と云々。伏勝地蔵、救脱菩薩幷びにに慈観を憑み奉るべし。

(注)諸経=天上道の「非想の八万劫」の用例を求めたところ、平家物語・灌頂巻六

    道」に類似の文章があった。「非想の八万劫、なほ必滅の愁へにあひ、欲界の

    六天、いまだ五衰の悲しみをまぬかれず。善見城の勝妙の楽、仲間禅の高台の

    閣、また夢の裏の果報、幻の間の楽しみ、すでに流転無窮なり。車輪のめぐる

    がごとし。天人の五衰の悲しみは、人間にも候ひけるものを。」日本古典文学

    全集の注(市古貞治氏)によると典拠は「六道講式(二十五三昧式)・源信

    撰」というので「大日本仏教全書」で当たってみるとその大部分の表現がそれ

    に拠っているようである。ただ、美文調にするために語順を違えたり対句にし

    たりしている。天上道の表現がと人間道の方に入っていたりして、丸写しでは

    ない。

   銅汁=熱い銅の溶けた汁。

   銕(鉄)城=地獄の城。

   飢骨油を出だし=意味不詳。「骨が油を出す」という用例は未見。

   疣す=零す。血や汗などをしたたらす。ぽたぽたとたらす。「疣」はいぼ。

   焼熱、大焼熱=焦熱地獄大焦熱地獄。炎熱で焼かれる地獄。

   紅蓮、大紅蓮=紅蓮地獄、大紅蓮地獄。極寒に体が裂けて真紅の蓮の花のように

    なるという地獄。

   無二地蔵・・・=以下、人道以外の段落末には、頼みとすべき地蔵・菩薩・五観

    が記されている。

   枯槁憔悴=やせ衰え憔悴する事。

   飢羸障惶=慞飢えやつれてあわてること。法華経・譬喩品第三に「飢羸慞惶 処

    処求食」とある。

   喘耎=ウェブ上の中国語辞典では、喘蝡に同じで「無足虫、多く蛾を生ずる」と

    ある。芋虫の類か。

   肖翹=蝶や蜂などの小さい虫。

   羽翔潜鱗=「千字文」に「海鹹河淡 鱗潜羽翔」とある。

   聾駭無足=「法華経・譬喩品第三」に「聾騃無足 蜿転腹行 為諸小虫 之所唼

    食」とある。

   人師=人の師。徳のある人。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚を含みて、*星矛(旄)電戟の争ひを成し、遍体疵を蒙り、鎮(とこしなへ)に怨讎を懐きて魚鱗鶴翼陣を張り、満身汗を流す。天より枷鎖降り下して首を廻らす事を得ず。地より銕刀を捧げて、足を措くに処なし。昼夜闘戦の鬨(ときのこゑ)耳に落ち、旦夕遭傷血櫓(ちたて)を泛ぶ。又天帝と権を争ひ、屢々*喜見城を侵し、須弥山を担(にぎ)り、日月輪を把り、天帝の軍に摧破せられて畏怖万端なり。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗とす。凡そ衆生は皆是本覚の如来、*当成の世尊なり。相向かひては恭敬すべきに、何ぞ害心を生ずべき。況や、一念の瞋恚に俱低(胝)劫の善根を焼き、刹那の怨害も無量生の苦報を招くと云へり。諸竜地蔵、持地菩薩幷びに悲観を憑み奉るべし。

  第五に人道とは、この身は常に不浄にして、雑穢其の中に満ちて内には生*熟臓ありて、外相皮膜を覆ひ、唾汗常に流出して、膿血鎮なへに充満す。偶々受け難き人身を受けて*生死を厭はば、幸ひに逢ひ難き仏教に逢ひて菩提を願はず。日夜煩悩に逼遷せられて暫くも停息する事なし。生者は死し、盛者をば衰ふると云へども、会者定離の理を弁へず、動(やや)もすれば、名利にのみ着して、貪欲を業とし、剰へ愛楽に引かれて邪執を宗とし、一生は尽くれども希望は竭(つ)きず。哀しいかな、又*三悪の趣に堕せん事、誠に以て悲しむべし、恥づべし。

 第六に天道とは、悲(非)想の八万歳、尚ほ必滅の愁ひあり。*欲界の六天、五衰の悲しみを免れず。*善見城の*勝妙の楽しみ、中間禅の高台の閣、亦是れ夢中果報、幻化の間の快楽なり。此の時何ぞ浄業を修して等地妙覚に到らざる。伏恩地蔵、月光菩薩、幷びに広大智恵観を憑み奉るべし。況や三界は火宅なり。理世安楽の上代さへ世を遁る。乱世澆季末法濁乱の今、東岱前後の烟、便ち是れ朝に昵(むつ)び、夕に語らひし友に非ずや。北芒新旧の露、遠く聞き近く見し人に非ずや。適々頭(かうべ)を剃つて心を剃らず。衣を染めて心を染めざらんや。是ぞ真正の善知識。」と思ひ取りて、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

 とて蟄居の後、幾多の星霜を積み、*生住異滅の無常を観じ、無上菩提の*不退に入り、涅槃の岸に致し給ふ。

 然れども僧正・花若殿・玉若殿、多生の縁浅からずして、また同じ蓮の縁を結び給ふ。彼の発心成仏の因縁、*三人の氏神、八幡・春日・厳島の*和光同塵の冥助、八相成道の利物、有り難き事なり。

(注)星矛(旄)電戟=「星旄電戟」は、星のように輝く旗と稲妻のように鋭い光を放

    つ戟。威勢を示す軍勢。多くの軍勢。

   魚鱗鶴翼=兵法の陣形。

   血櫓=血にまみれた大きな盾。

   喜見城=帝釈天の居城。天帝は帝釈天のこと。

   須弥山=世界に中心にある山。帝釈天の地。

   俱胝劫=極めて長い時間。

   当成の世尊=「当成」語義未詳。現代中国語により「~とみなす」の意にとらえ

    た。

   熟臓=成熟した臓器か?

   生死を厭はば=死ぬことを嫌がる、の意か。

   三悪の趣=三悪趣三悪道地獄道・餓鬼道・畜生道。   

   欲界の六天=六欲天四王天、忉利天、夜摩天兜率天楽変化天、他化自在

    天。三界は下から、欲界、色界、無色界。    

   善見城=喜見城に同じ。

   勝妙=すぐれてたえなるもの。

   中間禅=色界の四禅の一つ。梵天王の境地。

   生住異滅=一切の持仏が出現して生滅していく過程での四つのありかた。生じ、

    とどまり、変化し、亡びる事。四相。

   不退=功徳・善根が増進し、悪趣には戻らない状態。不退転。

   三人の氏神=花若(源氏)の氏神八幡宮、僧正(藤原氏)の氏神春日権現

    玉若(平氏)の氏神厳島神社

   和光同塵=仏が日本の神に垂迹して姿を現すこと。

 

 これで「稚児物語」に関して管見に及ぶものは訳し切りました。

  1.  

 

塵荊鈔(抄)⑮ー稚児物語4ー

第十五

 このようにして新発意となった花若は、師匠や同朋との別離がこらえようもなく悲しく、事に触れて大衆に交わることも空しく思われて、無常の思いばかりが心に染みて、常に静かに物思いなさっているのでした。「この世に飽きて、その秋(あき)風ではないが風に夢が醒めて、浮世の外(浄土)の月影を、隠さずに眺めたいものだ。かりそめの夢のような世に明け暮れ、妄念ばかり起こして、名利の思い囚われて、迷いの三界のしがらみを離れられないのは哀しいことだ。形は沙門(僧侶)のようにして、名は釈氏(釈尊の弟子)に借りた(僧名を名乗った)身で、槿(むくげ)の籬のようなはかない栄華を祈り、浮雲のようなむなしい富貴を望み、我執・偏執の満ちた空虚な境境に住んで、電光や朝露のような一瞬の仮の宿りを楽しみ、無始輪廻の罪業は厚くて身を身に任せることもできず、心を心に戒めることもし得ないで、人に随い、友に交わる習いや、詩歌管絃の遊びに肝を砕き、狂言綺語の戯れにまでも心を染める事は、ひとえに人々と交わっているせいであるよ。寂寞とした柴の庵にわずかに松風の音だけが軒先に聞こえ、木の間に漏れて来る月影を、独り寂しい深山で、厭ってもしかたない浮雲が、別の所で時雨を誘って、一方では夕露が結ばれ、荻を吹く風にその露は散って、草は末枯れ(うらが)れて虫の音は、弱り果ててしまったこのつらい秋に、心を静め無常を観じたならば、きっと心も澄んで涅槃の境地に至るであろう。そうはいってもさすがに住み慣れた吾が山比叡山を見捨てる事は難しく、友情を誓い合った朋輩とも別れがたい。」と、悟りきれぬ拙い心にはこの山を捨てかねていたのですが、「生死を厭い、菩提を願わなければいけないのは、まさにこの時である。」と思って、いよいよ二人の精霊の後世を弔って、勤行観念の修行を懈怠なく修めなさいました。「駒隙」の成句ではありませんが、隙行く駒を繋がないような早く流れる月日であるので、死別した春の花の匂いは、空しい風のぽつんとある松に残り、夏木立ちの緑は、秋が来てその色を改め、夕日の紅葉にうつろい、冬の天になると、凍った霜を吹く嵐で、落ち葉の上を打つ雹は、庭を白妙にして降り積もる雪のように積もった恨みは消え残りません。花若殿は「厚かましくも我が身は生き残って、袖を枕と独り仮寝をしていることだ。」と鬱々と日々を過ごしていましたが、歎きの色はさらに増していき、

  日数経ばわすれやするとおもひしに猶ほ恋しさのまさりこそゆけ

  (日にちが経てば忘れると思っていたが、尚更恋しさが増していくことだ)

 と詠じて、夜半に紛れて僧坊を抜け出して、薬師如来山王権現を伏し拝んで、東坂本に下りなさったのでした。

 志賀唐崎を過ぎて行くと、古い都(大津京)の桜の色が美しい。これこそ昔の名残りでしょう。恋しき人に逢うではありませんが、その逢坂の関の関屋を傍目に見ながら、大津の浜に出ていき、渚の波の浦伝いに、瀬田の唐橋を渡って、諸国流浪の身となり、諸国の山々寺々徘徊し、霊仏霊社を参詣して、精霊の供養だけでなく、自分自身の得脱をも祈ったのでした。しかし国(比叡山)を遠ざかり日は経ったのですが、自分が住み慣れた古寺で親しく交わった友とのつらい別れを思い出すと、ひどく慕わしさが募るのでした。それに添えて夕暮れの物憂さが重なる時に、比叡山のある方角の空を眺めると、雲井を遥かに雁が北に向かって飛んでいきます。その雁にちなむ雁書(手紙)ではないが、思いを列ねた言葉を、言わないで(手紙を送らないで)気を滅入らせているのでした。

 「それにしても、いつまで生きるか知らないが、その『しら』ではないが白雪のように、まだ消えてしまわないし我が身の命は、生きているのか死んでいるのか判らない様子で生き永らえて、夏にかかると心が暗くなって、五月雨が降るように思うばかりで、涙を袖で防ぐこともできないように溢れてしまう。秋になると野原は草の露が重く、深山は松風が吹いて、約束もしないのに待つ松虫や、妻を恋いしがって鳴く小牡鹿(さおじか)も、我が身と同類だと思われるのである。そうでなくても秋の夕辺は哀しいのに、萩の上を吹く風が身に染みて、どこの里かも分からないが悲しげに砧を打つ音がする。その打ち衣を着て訪ねる人もいなくて、ひどく恨めしさが募るのである。

 古仏は言った、『風声水音を聞いて仏本尊だと念じないのは、愚鈍の者が致すところである。飛花落葉を見て肉身(父母から受けた仏身)を観じないのは、観行(心を観る修行)が欠けているからである。』と。青々たる蒼松翠竹は、悉く真如(一切の存在の真実)である。妍々たる(美しい)紅花黄葉は、般若(真実を悟る智慧)でないことはない。森羅万象を見て、衆生(生きとし生ける者)の仏性は、我等の真如であると観じなくてはいけない。春の花が梢に綻び、夏の木立ちが緑を茂らせ、秋の紅葉が庭に敷きつめられ、はやくも季節が廻り冬枯れが烈しくなるのまで、無常を促す機会となるのである。明月は天に輝いているが、汚泥の水にその影(姿)は沈み、降る白雪もかりそめに、木々の梢に宿を借りて積もるが、風に随えばたやすく散り、縁に任せるならばいつまでも宿っている。(?)我等の仏性もこのようなものである。これらを観じないならば、鬼畜木石にも劣っている。そのようなわけで真如仏性は迷っていれば心の外にある。悟るならば身の内にあってたやすく得られるであろう。しかし、身の内の真如仏性は悟り難くて迷い易い。心の外の三毒六賊は迷い易くて、捨て難いのであるから、進心を友として(悟りを得ようとする心を強く持って)、ある時には禅法修行のために衆会する場臨んで、聞法(仏の教えを聴く)の縁を結ぶのである。ある時は念仏三昧の場に詣でて、罪障の垢を濯ぎ、名聞利養を棄てきり、飛花落葉の観行を凝らすのである。

原文

 かくて花若*新発意(しんぼち)、師匠同朋の別離為方(せんかた)無く、事に触れて交衆詮なく覚えて、無常のみ心に染み、常には心を澄まし侍りけり。「世を*秋風に夢醒めて、浮世の外の月影を、隠せで詠(なが)めばや。あだには夢の世に明け暮れ、妄念をのみ起こし、名利の思ひに繋がれて、三界の網(きずな)を離れも遣らぬ哀れさよ。形を沙門に類せし名を釈氏に借れる身の、*槿籬の栄華を祈り、浮雲の富貴を望み、我執・偏執のあだなる境に住し、電光朝露の仮なる宿りを楽しみ、無始輪廻の業厚くして身に身を任せず、心を心に戒めかね、人に随ひ、友に交はる習ひ、詩歌管絃の遊び肝に命じ、狂言綺語の戯れまでも心に染めける事、是れも偏に交衆の故ぞかし。寂寞(じゃくまく)たる柴の庵に纔かに松風の音のみ軒に聞こえ、木の間に漏り来る月影を、独り深山のさびしきに、厭ふ甲斐なき浮雲の、余処の時雨を誘ひ来て、*結ぶとすれば夕露の、荻吹く風に打ち散りて、草裡枯(うらが)れて虫の音の、弱り了てぬる浮き秋に、心を静め無常を観ぜんに、などか心の澄までは候ふべき。さすが栖馴れし吾山も棄て難く、契りし朋友も離れがたし」と、*拙心に捨てかねけるが、「生死を厭ひ、菩提を願ふべき事、偏に此の時なり」とて、弥よ幽霊の後世を弔ひ、勤行観念懈怠なく修し給ふ。*隙行く駒繋がぬ月日なれば、別れし春の花の匂ひ、空しき風独松に残り、夏木立ちの緑、秋来て其の色を改め、夕日紅葉にうつろひ、冬の天にも成りければ、凍れる霜を吹く嵐、落ち葉の上を打つ雹(あられ)、庭白妙に降る雪の積む恨みに消え遣らぬ、*強面吾身の長経(ながらへ)て、肩敷く袖の仮枕、嬉しからぬ日数は隔たれど、歎きの色は猶ほ勝れければ、

  日数経ばわすれやするとおもひしに猶ほ恋しさのまさりこそゆけ

 とうち詠じ、夜半に紛れ坊を出で、医王善逝山王大師を伏し拝み、東坂本に下り給ふ。

(注)新発意=新たに出家した者。

   秋風=「秋」に「秋」と「飽き」を掛ける。

   槿籬の栄華=槿は朝に咲き夕べにしぼむことから、はかない栄華のたとえ。

   結ぶとすれば=つながりがよくわからない。時雨が降ると夕露が結ばれるのか。

   拙心=未詳。心を謙譲した表現であろうが。

   隙行く駒=「駒隙」は月日の早く過ぎ去ることのたとえ。

   強面=厚かましいの意か。

   医王善逝=薬師如来。根本中堂の本尊。

 *志賀唐崎を過ぎ行けば、古き都の花の色、是ぞ昔の名残りなる。恋しき人に合坂(逢坂)の、関屋を余所に見成しつつ、大津の浜にうち出でて、渚の波の浦伝ひ、勢多の唐橋うち渡り、諸国流浪の身と成りて、山々寺々徘徊し、霊仏霊社参詣し、自身も得脱を祈りけり。*国遠ざかり日は経れど、吾栖馴れし古寺の、契りし友の浮き別れ、最(いとど)余波ぞ勝りける。猶ほ夕暮れの物憂さに、其の方の空詠むれば、雲井遥かに*帰る雁、思ひ列ぬる言の葉を、言はで心を腐(くた)しける。

 「さても何(いつ)までか白雪の、猶ほ消し遣らぬ身の命、有るか無きかに長経(ながらへ)て、夏に懸れば掻き暮れて、降る五月雨の思ひのみ、涙を袖に塞き敢へず。野原は草の露重く、深山は松風吹きて、契りも知らぬ松虫や、妻恋ひかぬる小男鹿(さおしか)も、思へば我が身の類なり。さらぬだに秋は夕部(辺)の哀しきに、萩の上風身に染みて、里をば分かず*打ち衣、着て問ふ人も無き儘に、最(いと)恨みぞ勝りける。

(注)志賀唐崎・・・=ここからの記述が語り手の地の文か花若の語りなのか判然とし

    ないが。「さても・・・以下を花若の思いと取った。

   志賀唐崎=大津市にある歌枕。天智天皇大津京があった。平忠度の歌に「さざ

    波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(千載和歌集)がある。

   国=花若の故郷の坂東足利の里か、比叡山か。「国」は気になるが比叡山と取っ

    ておく。

   帰る雁=春になって北へ帰る雁。雁は手紙を象徴する。

   打ち衣=砧を打つ事(秋の哀しさの象徴)と粗末な僧服(裏衣)を掛ける。

 其れ古仏の云ふ、『*風声水音を聞きて本尊と念ぜざるは、愚鈍の致す処なり。飛花落葉を見て肉身を観ぜざるは、*観行の闕けたるなり。』と云々。青々たる蒼松翠竹、悉く是れ*真如なり。妍々たる紅花黄葉、*般若に非ずと云ふ事なし。森羅万象之を見るに、衆生の仏性、我等が真如と観ずべし。春の花の梢に綻び、夏の木立ちの緑を茂し、秋の紅葉の庭にしき、はや冬枯れの冽(はげ)しきまで、無常を促す便りなり。明月天を照らせども、*淤泥の水に影沈み、降る白雪も*濔爾(かりそめ)に、木々の梢に宿を借り、風に随ひて散り易く、縁に任せて宿り易し。我等が仏性も此くの如し。是等を観ぜざるは、鬼畜木石に劣れり。されば真如仏性は迷へば心の外に在り。悟れば身の内に在りて得易し。身の内の真如仏性は悟り難くして迷ひ易し。心の外の三毒六賊は迷ひ易くして、棄て難しとなれば、*進心を友として、或時は禅法衆会の砌(には)に望みて、聞法の縁を結ぶ。或時は念仏三昧の場に詣で、罪障の垢を濯ぎ、名聞利養を棄て了て、飛花落葉の観行を凝らす。凡そ諸経の文を見るに、六道の衆生、其の苦区(まちまち)なり。

(注)風声水音・・・=出典未詳。

   観行=自分の心を観ずる修行。

   真如=一切存在の真実の姿。

   般若=悟りを得る智慧。真理を把握する智慧

   淤泥=汚泥。

   濔爾=「濔」は水が満ちる、数が多いことだが、なぜ「かりそめ」と訓むのか?

   進心=「心進む」は希望する気持ちが強くなること。

塵荊鈔(抄)⑭ー稚児物語4ー

第十四

 さて、花若殿は、朋友の玉若殿との別れといい、頼りになさっていた師匠との御別れなど、あれこれ世を厭う思いがますます深くなっていき、「いつまで他の人が先立って、最期に行く死出の道を嘆くのだろうか。恩愛別離の悲しみ、老少前後の恨み、何事がこの朋友・師匠との死別にまさろうか。」と思いを決めて、長かった髪を断ち切って、

  そりこぼす吾が黒髪のみるぶさは涙の海の物にこそあれ

  (剃り落とした私の黒髪を見ると涙が海のようにあふれる。それは髪削ぎに用いた

  海松房がうみのものであるからだろうなあ)

 と詠んで嬋娟たる秋の蝉のような元結を剃り落ろし、宛転たる峨眉のような鮮やかな黛を洗い落として、水干・大口に替えて、濃い墨染めに身をやつして、三宝に帰依し、五戒を保ちなさったのでした。

 花若殿は思います。「そもそも罪を滅し善を生ずる手段、正法に久しく留まる徳としては、出家受戒に過ぎたるものはない。たとえ三十三天に高さが忉利天に到るような宝塔を立てても、一日の出家の功徳には及ばないと思われる。だから三界の諸天神もその出家者の足を戴き、四種の転輪聖王もその出家者の履を取って敬うという。『清信士度人経』にいう、『流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者(三界を流転しても恩愛は断ち切ることができない。恩を棄てて無為に入る《出家する》こそが真実恩に報いる者である)』と。また『心地観経』にいう、『若善男女 一日一夜 出家修道 二百億劫 不堕悪道 生々得値 諸仏出世 永出三界 受諸快楽(もし善男善女が一日一夜出家修道したならば、二百億劫の間悪道に堕ちることなく、永遠に諸仏が世に現れるのに値⦅あ》うことができ、永く三界に諸快楽を受けるだろう)』と云々。また授戒は浄満如来心地の法門、花蔵世界の十無尽蔵だ(清らかな如来の心に到る門であり、蓮華蔵世界に到る無限の功徳だ。?)。だから梵網経にいう、『衆生受仏戒 即入諸仏位 位同入覚位 真是諸仏子(衆生は仏戒を受ければ即座に諸仏の位に入り、位は大覚と同じくなる。まことにこれは諸仏の子といえるだろう)』と云々。これは仏果の根本、聖人の瓔珞(装身具)、衆生の明鏡、苦海の筏船のような悟りの手立てである。このようなわけで菩薩の遠路には、戒を以て資糧とし、煩悩の重病には、戒を以て良薬とするというのだ。出家精進(授戒)は仏法の恵命(悟りの境地)であり、国家の福田(福を施す功徳)なのだ。

 そしてまた、法華経を頓写する功徳を申すならば、七朶八軸の蓮経(法華経)とは、円頓一実の境界(悟りの境地)であり、諸仏降霊の本智(諸仏に会う智恵)である。『妙法蓮華経』の五字の名を聞くと、刹宝施福(幸せをもたらす浄土)に辿り着き、『生滅滅已 寂滅為楽』の半偈の奥義を説くのに接すると、恒河沙と(無限に)ある小乗の教えは及ぶものがない。法華経には初善・中善・後善、どの善においても、正法として備わっていないものはない。已説・今説・当説いずれの時代にも、機縁としてこの法華経以上のものはない。ましてやそれを一千部頓写した功徳はどれほののものだろう。偉大な事だ、六万九千(法華経69384字)の金言を、各々三千衆徒が筆頭、毫端にありて(書写して)、その報恩は燦儼然として日や星が天に貼りついているようである。

 そしてその書写が終わった時にはたちまちに、霊鷲山の一会で説かれた世尊の教えは、厳然として存在し、世尊の眉間からは大光明が放たれて東方万八千土を照らしなさる、そうすれば精霊玉若殿が、即座に実相を悟つて仏の心の中に住む事が我らは見る事ができるであろう。そうすれば『法華経・薬王菩薩本事品』にあるように、『善哉々々 是真精進 是名真法』という不生不滅の因果を示して、無我無人の知を了解して、即座に大白牛車に乗って、八正道を進み、化城を経ることなく、玉若殿は直接に宝所(悟りの境地)に登りなさっただろう。」と。

原文

 さても花若殿は、朋友の玉若殿の別れと云ひ、憑み給へる師匠の御別れ、彼れ此れ厭離の思ひ弥々深く成りければ、何(いつ)までか別に人を先立ちて、終に遁ぬ路を歎かんと、恩愛別離の悲しみ、老少前後の恨み、何事か是に増さらんと思ひ取り、長(たけ)なる髪を押し切り、

  *そりこぼす吾が黒髪の*みるぶさは涙の海の物にこそあれ

 とて嬋娟たる秋の蝉の初髻を剃り落ろし、宛転たる峨眉の黛の匂ひを洗ひ棄て、水旱(干)大口引き換へて、濃い墨染めに身を窶(やつ)し、*三帰五戒を持ち給ふ。

(注)そりこぼす=そりこぼつ。剃り下ろす。

   みるぶさ=髪削ぎの時に用いる海松の枝が房になっているもの。

   三帰五戒=三宝に帰依し、五戒(殺生・偸盗・邪淫・妄語・飲酒)を禁ずる事。

 *其れ滅罪生善の計りごと、正法久住の徳、出家受戒に過ぎたるはなし。縦ひ三十三天に宝塔を立て、高さ忉利天に至るとも、一日の出家の功徳には過ぎじと見えたり。然れば三界の諸天は其の足を戴き、四種の輪王も其の履を取ると云へり。「*清信士度人経」に云ふ、「流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者」と。また「*心地観経」に云ふ、「若善男女 一日一夜 出家修道 二百億劫 不堕悪道 生々得値 諸仏出世 永出三界 受諸快楽」云々。また*戒は*浄満如来心地の法門、*花蔵世界の*十無尽蔵なり。されば*経に云ふ、「衆生受仏戒 即入諸仏位 位同入(大?)覚位 真是諸仏子」と云々。仏果の根本、聖人の瓔珞、衆生の明鏡、苦海の筏船なり。是故に菩薩の遠路には、戒を以て資粮(糧)とし、煩悩の重病には、戒を以て良薬とすと云へり。仏法の*恵命(えみやう)、国家の福田なり。

 *其れまた法華頓写の功徳を申すも*七朶八軸の蓮経とは、*円頓一実の境界、諸仏降霊の本智なり。五字の名を聞けば、*刹宝施福に踰え、*半偈の義を説けば、阿(河?)沙の小乗に過ぎたり。*初善・中善・後善、法として具せざるはなし。*已説・今説・当説、機として勝れたるはなし。況や一千部頓写の功徳をや。大なるかな*六万九千(法華経69384字)の金言、各々三千衆徒の筆頭、毫端にありて、燦儼然日星の天に麗(つ)くが如し。

 便ち見る、*霊山の一会、儼然未だ散ぜず、世尊の眉間より大光明を放ちて東方万八千土照らし給はん事を。然れば則ち幽霊玉若殿の、頓に実相を悟つて本妙心に住する事を。「*善哉々々 是真精進 是名真法」と不生不滅の因を示し、無我無人の知を了し、即ち*白牛の大車に駕して、*八正の覚路に進み、*化城を歴(へ)ずして、径(ただち)に宝所に登り給はん。

(注)其れ・・・=以下は語り手の独白か、花若殿の感懐か判然としないが、花若殿の

    感懐ととっておく。

   清信士度人経=散逸した経典。「平家物語・巻十 維盛出家」に、「左てしもあ

    るべき事ならねば、『流転三界中 恩愛不能断 棄恩入無為 真実報恩者』と

    三反唱へ給ひてつひに剃り下ろし給ひてけり。」出家する時の決まり文句か。

   心地観経=仏教経典。原典は未確認だが、ブログ上で訓読が確認できた。出家修

    道すれば永遠の快楽が得られる、との意か。

   戒=出家受戒をいうか。

   浄満如来心地=未詳。清らかな如来に到達する事を指すか。

   花蔵世界=華蔵世界。蓮華蔵世界。毘盧遮那仏の願と行とによって飾られた世

    界。

   十無尽蔵=十ある無限の功徳。

   経=「梵網経心地戒品第十」に見える。衆生は仏戒を受ければ真に諸仏子になる

    という意。

   恵命=慧命。悟りの境地を生命にたとえた語。

   七朶八軸の蓮経=「七朶」は未詳。「南無妙法蓮華経」の七字を指すか。「八軸

    の蓮経」は八巻の法華経

   其れ・・・=以下は「法華経」書写によって師匠・玉若殿が

   円頓一実=ただ一つの真実である理法は、完全で、すみやかに悟りを得させると

    いう事。

   刹宝施福=「刹宝」は「宝刹(浄土)」か。福を施す浄土?

   半偈=「雪山偈」の後半の二句。釈尊は自己の身体を羅刹に与える事を約してこ

    の半偈を教わったという。

   善哉々々=「法華経・薬王菩薩本事品」に「善哉々々 善男子 是真精進 是名

    真法」とある。

   初善・中善・後善=「法華経・序品」で世尊が説いた三種の善。

   已説・今説・当説=過去・現在・未来に説かれる法。どれも「法華経」に優るも

    のはないという。

   霊山の一会、儼然未だ散ぜず=日蓮御義口伝」に「霊山一会 厳然未散」とあ

    る。霊鷲山釈尊が説いた教えは厳然として残っているという意。出典は遡っ

    て求められるだろうが未見。

   白牛の大車=大百牛車。大乗・一乗の教えを牛車にたとえたもの。

   八正の覚路=八正道。八つの正しい仏道の実践法。

   化城=衆生が悟りの境地(宝所)に直接到るのが困難だと考えた導師が、方便と

    して仮に虚構した城。そこ(小乗)で憩うことで宝所(大乗)に到ると考え

    た。「法華経」を書写すれば、そんなまわりくどいことをしないでも大乗一実

    の境界に到らせてもらえる。

塵荊鈔(抄)⑬ー稚児物語4ー

第十三

 そうしているうちに右方の舞手が「新鳥蘇」という、鳥類の楽を舞っている最中に,

虚空から白鷹が、千部経の結縁(法会)のためにでありましょうか、舞下りてきました。

 およそ吾が朝での、放鷹(鷹狩)の起源を申し上げますと、人皇十七代の帝、仁徳天皇四十三年乙卯歳九月の事です。西ほくという者が百済国より名鷹を携えて渡来したのです。その使者の船は、越前の国敦賀の津に停泊しました。同国の丹生の北郡は、正頼公の知行の地でした。帝は法に則って(あるいは帛を贈り物として)政頼公に命じて百済使節を迎えさせました。正頼は敦賀に下り、その名鷹を請け取り、玄黄玉帛の豪華な贈り物を携えて西ほくの来訪を労います。またひそかに古竹という美女を送りました。かの使節は、そこで手厚いもてなしに感謝して家伝の秘書、鷹飼、犬飼の装飾を正頼公に授けました。公はかの使者に次のような歌を送りました。

  こちくてふことかたらはば笛竹のひとよのふしも人に知らすな

  (こちくという美しい女性と語り合った一夜の事は人には知らせないでください。

  同様に胡竹の笛の音は一節も人に聞かせてはいけないし、『こちく』の秘事は誰に

  も秘密です。)

 これを笛竹の歌といい、それに因む「笛竹鈔」という秘書があるのです。詳しい奥義は旃の巻に書き留めているという事です。正頼公は、かの使臣と上洛し、名鷹と秘訣の品々を叡覧に備えます。天皇はそこで正頼公を鷹匠として勢子や遠見の者を調達し、春蒐補耕や、秋獮省斂といった農閑期の狩を創始なさったのでした。その後めでたい兆しがあったという事で、そのお告げによって、かの鷹を富士山の麓に放ちなさったということです。するとその鷹から八王子が生じたというのです。これが本朝の鷹の道の濫觴(起源)です。かの正頼公は古代中国、古(いにしえ)の少昊の司寇の爽鳩氏、前漢景帝の郅都官のような方です。しかし実は文殊師利菩薩の生まれ変わりで、諏訪大明神垂迹です。

 鷹狩は殺生の罪とも言えましょうが、方便の殺生は、菩薩の万の善行をも超えた和光の利益を施します。衆芸を興ずる場においては、殺心を施すことが却って慈悲の心となり、群書を学ぶ畑で遊ぶ時には、文徳を修めることが却って武勇となるのです。

 政頼公が韘(ゆがけ)を佩びて右を顧みれば緑の鞲(たかだぬき)が霧をまとって、鷹はモズやつるを捉え、餌を執って左を旋回すると、朱色の緤(きずな)は雲を突き抜け、鷹はオオワシを攻撃するのでした。政頼公は、攣旋子、餌袋、へをまき(角へんに發)鞭桙、左右近衛の節々、随身の狩装束、犬飼鷹飼の緋の衽、藤紺の袴、革袴、錦の帽子、責子の杖等といった諸法を制定したのです。

 同じ仁徳天皇の御代に雲雀野で御幸をして以来、大原野、小塩、小野渡、淡津野、嵯峨野の原、交野、御野、小倉の峯、禁野の帰るさ、薦野、岩瀬野、鳥屋野、百舌野、宇多、芹川などの標野(御鷹場)でのお遊びは絶える事はございません。

 とりわけ大鷹、野曝しの熨羽、山鴘の上羽、峯飛渡る箸鷹の谷越え風流れ、升掻の羽見伏せ、窮れを搦む草執り、木居懸る鈴の音、またす立たずして摺り立て、雎鳩の羽使の動ぎ草、落羽も早き隼などは好まれました(?)。

 鷹の種類は、白鷹、兄鷹(せう)、鷂(はいたか)つみ(堂の上に下が木のへんに鳥のつくり)、?(堂の上に下が川のへんに鳥のつくり)、雀𪀚(えつさい)、兄鷂(このり)や差羽(さしば)、眉白(まみじろ)の鷹、真白符(ましらふ)羽白などです。帝の愛した鷹には古くは平城天皇の磐手、野守、延喜の帝白兄鷹、一条院の鳩屋、赤目、雎鳩腹、後一条院の難波、藤沢、山蛾等、柄巻、平賀鷹と申すものなど、数限りがございません。

 話に聞く鳩屋鷹と申す鷹は、昔出羽の平賀という所から帝に献上された名鷹です。この鷹は放たれた時、八幡に行って鳩と交わったそうです。次第に鳩も恐れなくなり、その中の一羽の鳩を伴って、平賀へ飛び下ったそうです。この鷹の母はその昔、ある鷲に取り殺されたそうです。その鷲がかの鳩に落ち合った所を、鷹と鳩が一緒に母の敵を食い殺したそうです。そして鷹は宮中に戻り、鳩は八幡に帰ったといいます。その鷹が鳩と契って産んだ子を鳩屋と名付けたということです。その歌に、

  出羽のなる平賀の御鷹立ち帰り親の為には鷲をとりけり

  (出羽の平賀に鷹は舞い戻って親の仇の鷲を討ち取ったことだなあ)

 また二十鳥屋飼ったという一説があります(意味不明)。鶚(みさご)腹の鷹、獺腹(うそばら)の犬という交配の俚諺も見られます。

  礒の山雎鳩(みさご)の巣鷹取り飼はば獺の子孕む犬を飼ふべし

  (磯山の鶚の巣にいる雛鷹を飼いならすならば、同時に獺の生んだ犬の子を飼うべ

  きです)

 黄鷹とは一歳の鷹をいい、撫(なで)鷹とは二歳をいい、鴘(かへる)ともいい、片鴘(かたかへり)も二歳の鷹です。青鷹は三歳をいい、白鷹とは諸鴘をいいます。赤鷹とは白い斑のある鷹です。山陰とは山で一年を経た鷹です。山片鴘とは山一年で鳥屋で一年過ごしたものをいいます。箸鷹(はしたか)は一説には鷹の総称といいます。また鷂(はいたか)をいうという説もあります。袖中鈔では鳥屋出しの鷹をいうとあります。鳥屋出しの時、古箸に火をともして出すからといいます。また七月の御魂(盂蘭盆会)の時供える苧殻の箸を使うともいいます。

 半(はしたこ)とは兄鷹(せう)より小さく鷂(はいたか)よりは大きい鷹です。兄鷹は雄、白鷹は雌、つみ(常のへんに鳥のつくり)は雄、鷂は雌、覚(离のへんに鳥のつくり)(のり)は雄、零鳥(にさい)は雌、鷣(つみ)雄です。また栖(巣)鷹鴘(すたかかへり)とは、巣鷹(巣の中にいたひなの鷹)をその年飼って二歳になったものです。空取鷹(そらとりたか)とは鳥を空中で攻めて、草むらに入らずに飛んだまま取るのをいうのです。また「退羽撃つ」という表現には数多の意味がございます。

  除羽打つ眉白の鷹の餌袋に置(招)き餌もささで帰りつるかな

  (言いつけに背かないで飛んでいく鷹の招き寄せる餌は無用な事なので刺さないで

  帰ったことだよ)

 小鷹が鷹匠の指図に背いて飛んで行ってしまうので、それを「除羽打つ」といい、また、手を離れた鷹をもいい、またそれを野涯(のぎは)打つともいうのです。

  かりそめに見てし鳥立(とだ)ちをたちしのび交野の雉の野涯打つなり

  (交野の鳥立ち⦅鳥を集めるように作った草原》を飛び立ちかねている雉をとちょ

  っと見ただけで鷹は野涯を打った⦅矢のように獲物に向かった》ことだなあ)

  御狩する末野にたてる一松*たがへる鷹の*こいにかもせむ

  (帝が狩りをする末野に立っている一本松は手元に帰ってくる鷹の止まり木にしよ

  う)

  鳥屋かえる吾がたならしの箸鷹のくると聞こえる鈴虫の音

  (羽を生え替えさせるために鳥屋に私の手なずけた箸鷹が帰って来ると、秋の鈴虫

  の声が聞こえることだよ)

 また「除羽打つ」を「軒端打つ」ともいいます。「たがへる」「たならん(し?)」という表現は、「たとと(意味不明)」と同音です。また「十度返る」を「とかへり」と読むことがあります。それは鷹が毛が生え変わるのをいいます。鷹狩をもとかえりといいます。

 斑模様は、白符、真白符、また大黒符、小黒鴫符、卯の花符、鶉符、青符、赤符があります。羽には委(なえ)羽、熨羽、本羽、立合羽、風切火打羽、桙羽、平羽。位毛、下毛、晶(さより)毛、絃(ことぢ)毛、乱緋、乱糸、蛛(くも)手、目隠、足毛。尾には尾像尾、屋像尾、町像尾など、けならしには、なら尾、大石打、小石打など、芝引きの尾は只一羽で摺るのです(意不通)。

 さて、その鷹は、首や頭は白い線を施したようで、羽毛は班模様でした。内爪、懸爪、取居(すへ)、鳥搦みの指は太く、翼のつけねをいう髀間(かくたい)の部分は広くて馬の通るほどです。後方に三つの河を流すような模様を施し、前方には小山を抱きかかえるような相好は、前代未聞の見事な姿です。人々に心残りをさせまいと、鏡にその影を映しなさると、その面持ちは稚児にして姿は鳥、迦陵頻伽の形に生き写しで、高く舞い上がり、雲仙(雲の彼方か?)へと飛び昇りました。三千坊の大衆が舞童を賞嘆していた大音声は、俄かにひっそりと哀傷悲歎のささめきとなって、そのみな涙で着衣の袖を濡らしたのでした。この時の鏡に映る風情は、十明達や、十羅刹のようです。鷹の姿は昔の玉若殿の麗しい容色を失ってはいません。まるで帝釈天がこの世に現れたかのようです。舞台の上の舞童は一円乗の守護神で、当比叡山の鎮守の、日吉山王が稚児として現じ、今日の法会を執り行いなさったかのようにきらびやかです。また西方浄土にいらっしゃる二十五の菩薩達が、伎楽や歌詠をして舞い遊びなさっても、この法会にはどうして勝りましょう、いやとても及びません。

 昔、大覚世尊(ほとけ)が霊鷲山にいらっしゃって、同居・方便・実報の三つの現世世界を司っていましたが、その三つの世界の成道(悟りを開く事)が今ここに達成されました。ですから「亡霊玉若殿は、忽ち歌菩提、舞菩提のお迎えをいただき、直ちに歌詠如来の果位(悟りの境地)に登り、六義(和歌)の華やかな才能を簪にして、極楽往生する九品の蓮台に到る方であってほしい。」と思う、見聞きした貴賤、集い会った尊卑も、ことごとく邪見の妄執を捨てて、無生の法忍の心の安らぎの覚えるような、僧俗相集った大法会として、天下無双の梵筵(仏教の宴席)でした。ただ生前の願いを成就するだけの法会ではありません。人々の滅後の証果(仏果が現れること=往生)も惑いありません。

 このようにして修善の供養は終わり、導師の僧正は高座を下り、持仏堂に閉じ籠もりました。そのまま軽い病にかかっていましたが、ある日、身を洗い清め浄衣を着て、縄床の椅子に趺坐して泊然として(心静かに)、往生なさいました。その時筆を染め、辞世の歌に、

  貯敷(たのもしき)四種曼陀羅の光かな吾が後の世もくらからんやは

  (四種曼陀羅の光り輝く図は頼もしいことだなあ。私が死んだあと行く世界も暗い

  ことがあろうか、いやきっと明るいだろう)

原文

 然る処に右の者共が「*新鳥蘇」と云ふ、鳥類の楽の最中に虚空より白鷹、千部の経結縁の為かや、舞下りけり。

 凡そ吾が朝、鷹の起こりを申せば、人皇十七代の帝、仁徳天皇四十三年乙卯歳九月、*西ほく(棘に似ているが、束を二つ並べてその下に人を書く)百済国より名鷹を渡さる。其の使ひの船、越前の国敦賀の津に泊まる。同国に丹生の北郡、正頼公の采邑の地なり。*帠(ゆへ)を以つて公に勅して百済使節を迎へしむ。正頼敦賀に下り、彼の名鷹を請け取り、*玄黄玉帛の盛礼を具へて西ほく(束束の下に人を書く)の*皇華を労ひて、また密かに古竹と云へる美女を送る。彼の使節、廼(すなは)ち懇懃の志を謝して家伝の秘書、鷹飼、犬飼の装飾正頼公に授く。公彼の使者に送る歌に、

  *こちくてふことかたらはば笛竹のひとよのふしも人に知らすな

 是を笛竹の歌と云ひ、故に「笛竹の鈔」と云へる秘書あり。精微蘊奥は留めて*旃の巻にあるとかや。正頼公、彼の使臣と上洛し、鷹幷に秘訣等を叡覧に備へ、天皇乃ち正頼公を鷹将(匠)として勢子遠見を調(ととの)へ、*春蒐補耕の法の始め、*秋獮省斂の道を興し給ふ。其の後奇瑞に依りて、彼の鷹を富士山に放さる。乃ち八王子を生ず。本朝鷹の道の濫觴なり。彼の正頼公は古の*爽鳩氏郅都官の属(たぐひ)の如し。寔は*曼殊室利の後身、*諏訪大明神垂迹なり。*方便の殺生は菩薩の万行に超ゆる和光の利益を致し、衆芸の場に出でて、殺心を施して慈となし、群書の圃に遊びては、文徳を修め武とす。*韘(ゆがけ)を佩びて右顧すれば*緑鞲霧を縈(まと)ふて、*鴂鵙鵠を択り、餌(ゑば)を執りて左旋すれば、*朱緤雲を穿ち、*鵰鷲兵を伐つ。*攣旋子、餌袋、へをまき(角へんに發)鞭桙、左右近衛の節々、随身の狩装束、犬飼鷹飼の緋の衽、藤紺の袴、革袴、錦の帽子、責子の杖等の法を定む。

(注)新鳥蘇=「しんとりそ」、舞楽の曲名。高麗楽

   西ほく=未詳。仁徳天皇の御代の放鷹の起源としては、「群書類従」や「古事類

    苑」を参照すると、「日本書紀」には、阿弭古(あびこ)氏が捕らえた稀鳥を

    帝に献上したところ、酒君(公)(さけのきみ、もしくはしゅこう)が、「こ

    れは百済でいう倶知(くち)である。」と言い、飼いならして鳥を狩ったのが

    初めだとある。酒公は百済の王族でらる。「嵯峨野物語」では仁徳天皇の御代

    に高麗から鷹が献上されたとある。これも「酒のきみ」が飼育したとある。

    「養鷹記」では、仁徳46年に百済が使者を遣わして、鷹と犬を献上したとあ

    る。使者が越州敦賀の津に着くが、その時の鷹飼が米光、犬飼が袖光といっ

    た。勅命を奉じた政頼は敦賀に赴き米光に就いて鷹狩を学んだという。政頼は

    帝に賞せられ采邑を賜ったとある。「鷹経弁疑論」では、仁徳16(46か)

    年に摩訶陀国(インドのガンジス川州流域の国)から越前敦賀の津に駿王鳥と

    呼ばれた鷹が持ち運ばれた。鷹匠は勾陣、またの名を采毛といった。姿は僧の

    ようで帽子をかぶっていた。公卿たちは僉議して勅命で蔵人政頼を派遣したと

    世に言われるが、(事実に)相応しないとある。「小倉問答」には、唐より

    「俊鷹」という鷹を持参して渡来したシュクヮウ(光)という鷹匠は、三年間

    滞在して帰国の際に美人「こちく」に鷹書一巻を与えたとある。「鷹聞書」の

    「鷹秘抄」では、仁徳46年に百済から名鷹「くりてう」に十二巻の文書が添

    えれられて献上されたが読むことができなかったとある。使者は帽子をかぶり

    僧のようであったという。やがて政頼の時代にから(唐もしくは韓)の鷹飼い

    が敦賀の津にやってきて、十二巻の書を開いて、十八の秘事三十六巻を習っ

    て、そのお礼に「こちく」というはした女を与えると、鷹飼いは喜んで鷹匠

    装束や道具を差し上げたという。鷹の道を学んだ政頼は上京の際にこちくに極

    意は秘密にするように和歌を送る。それは「夜とる沢の水」という秘薬の事で

    あるという。その他、「啓蒙抄」に「兼光」兼光とこちくの娘で政頼の妻は

    「朱光、もしくはよねみつ」、「政頼流鷹方之書」では、鷹飼いは「来光」犬

    飼いは「由光」、「政頼流鷹詞」では鷹飼いは「米光」犬飼は「田光」、「鷹

    秘伝書」では、鷹飼いは「米光」犬飼いは「神光」。

     「西ほく」に該当する固有名はどれだろうか。あるいは役職等の一般名詞か

    もしれない。

   帠=法(のり)という意味だが、「ゆへ」という訓はわからない。あるいは

    「帛」か。

   玄黄玉帛=黄色や黒色の素晴らしい供物、贈り物。

   皇華=勅使。来朝したことをいうか。

   こちくてふ・・・=「こちく」は美女の名であるが、呉竹もしくは胡竹(横笛)

    も意味し、それが「此方来(こちく)」とかけているのであろう。「ことかた

    らふ」は「語り合う」のだが、男女の仲で言い契るニュアンスもある。「笛

    竹」は「ひと節」を引き出し、「一夜」と掛ける。「ふし」もメロディーであ

    り、秘伝の一節だろう。「こちく」「笛竹」「ひとよ」「ふし」は縁語。歌の

    こころは、「こちくという美しい女性と一夜語り合ったならそのことは人には

    知らせないでおくれ。同じように胡竹の笛の音は一節も人に聞かせてはいけな

    いし、『こちく』の秘事は誰にも秘密です。」か。

   旃の巻=笛竹抄の巻名か。秘伝の類が書かれていたのか。

   春蒐補耕・秋獮省斂=「春蒐・秋獮」は春の狩や秋の狩で、耕作や収穫を補うこ

    とか。「天子適諸侯曰巡狩、諸侯朝於天子曰述職。春省耕而補不足,秋省斂而助不

    給。(孟子・告子下)」という記述がある。天子は狩と称して春秋に巡察して農具

    を補助したり、労働力を補った、ということか。

   爽鳩氏郅都官=爽鳩は鷹類の鳥名。爽鳩氏は五帝である少昊の司寇。郅都は前漢

    景帝時代の官吏。「蒼鷹」と呼ばれ恐れられた。

   曼殊室利=文殊師利。文殊菩薩

   諏訪大明神=武道の神、狩猟の神とされる。

   方便の殺生=鷹狩の殺生を仏の方便として正当化する論理。学問が武勇に通じと

    いう逆説と対にして説いている。

   韘=鷹匠が左手にはめる革製の手袋。

   緑鞲=緑色の鞲(たかだぬき)。鷹を腕に止まらせる革の手袋。

   鴂鵙鵠=鴂(もず)鵙(もず)鵠(つる、白鳥)。

   朱緤=朱色の緤(きずな)。

   鵰鷲=オオワシ。飼鷹がオオワシを討つのか。飼っているのがオオワシで兵を討

    つのか。前者に取る。

   攣旋子=以下鷹狩の道具か。  

 同じ代、*雲雀野の御幸より以降(このかた)*大原野、小塩、小野渡、淡津の野、嵯峨野の原、交野、御野、小倉の峯、禁野の帰るさ、薦野、岩瀬野、鳥屋野、百舌野、宇多、芹川の*勝遊絶ゆる事なし。殊更*大鷹、野曝しの熨羽、山鴘の上羽、峯飛渡る箸鷹の谷越え風流れ、升掻の羽見伏せ、窮(つか)れを搦む草執り、木居(こゐ)懸る鈴の音、またす立たずして摺り立て、雎鳩の羽使の動ぎ草、落羽も早き隼や、*白鷹、兄鷹(せう)、鷂(はいたか)つみ(堂の上に下が木のへんに鳥のつくり)、?(堂の上に下が川のへんに鳥のつくり)、雀𪀚(えつさい)、兄鷂(このり)や差羽(さしば)、眉白(まみじろ)の鷹、真白符(ましらふ)羽白、古の天皇の*磐手野守、延喜の帝白兄鷹、一条院の鳩屋、赤目、雎鳩腹、後一条院の難波、藤沢、山蛾等、柄巻、平賀鷹と申す共、屑(もののかず)にて候はじ。

(注)雲雀野=未詳。

   大原野=以下天皇の遊猟のために出入りを禁じられた標野(禁野=しめの)。

   勝遊=楽しく遊ぶこと。

   大鷹=以下はそれぞれの鷹の飛び方やしぐさか。

   白鷹=以下は鷹の種類。この辺は何かの資料を能く咀嚼しないで列挙しているの

    ではないかと思えてしまう。

   磐手=「大和物語」に見える平城天皇のお気に入りの鷹。以下帝の愛鷹。

 *彼の鳩屋鷹と申すは、昔出羽の平賀と云ふ所より名鷹を帝王に奉る。此の鷹放たれて*八幡に行き鳩中に交はる。漸く鳩も恐れず。或時此の鷹鳩一つと伴ひ、平賀へ飛び下る。此の鷹の母鷹其の古、鷲にとらる。其の鷲彼の鳩に落合ふ処を、鷹鳩相共に母の敵の鷲を食ひ殺す。鷹は宮中に参り、鳩は八幡に帰る。其の鷹鳩と契りて子を生みたるを鳩屋と名付けたりと云へり。其の歌に、

  出羽のなる平賀の御鷹立ち帰り親の為には鷲をとりけり

 また*二十鳥屋飼ひたるを云ふと一説あり(?)。*雎鳩(みはと)腹の鷹、獺腹(うそばら)の犬と云ふ事あり。

  礒(いそ)の山雎鳩(みさご)の巣鷹取り飼はば獺の子孕む犬を飼ふべし

(注)彼の鳩屋鷹=「かの」と冠されるほど知名度があったのか。

   八幡=京都府八幡市石清水八幡宮がある。鳩が峯という山もある。鳩は八幡神

    の使い鳥。

   二十鳥屋=未詳。

   雎鳩腹=鶚腹。鷹が鶚と交尾して生ませた子。「古今著聞集」に逸話あり。

 *黄鷹とは一歳を云ひ、撫(なで)鷹とは二歳を云ひ、鴘(かへる)とも云ひ、片鴘(かたかへり)も二歳なり。青鷹は三歳を云ひ、白鷹とは諸鴘を云ふ。赤鷹とは*白符にあり。山陰とは山にて一歳経たるなり。山片鴘とは山一年鳥屋一年を云ふ。箸鷹(はしたか)は一には鷹の摠(総)名と云へり。また鷂(はいたか)を云ふともあり。袖中鈔には*鳥屋出しの鷹を云ふ。鳥屋出しの時、古箸に火を燃(とぼ)し出だすなり。また*七月の御魂の箸とも云ふ。半(はしたこ)とは兄鷹(せう)より小さく鷂(はいたか)よりは大なり。兄鷹は雄(をたか)、白鷹は雌、つみ(常のへんに鳥のつくり)は雄、鷂は雌、覚(离のへんに鳥のつくり)(のり)は雄、零鳥(にさい)は雌、鷣(つみ)雄なり。また栖(巣)鷹鴘(すたかかへり)とは、巣鷹を其の年飼ひたるなり。空取鷹(そらとりたか)とは鳥を飛び攻めて、草に入らず空にて取るを云ふ。また*のきばう(退羽撃)つに数多(あまた)の儀侍り。

  除羽打つ眉白の鷹の餌袋に*置(招)き餌もささで帰りつるかな

 小鷹は常に主に背いて飛ぶ間、除羽打つと云ひ、また逸るる鷹をも云ひ、また野涯(のぎは)打つとも云へり。

  かりそめに見てし*鳥立(とだ)ちをたちしのび交野の雉の野涯打つなり

  御狩する末野にたてる一松*たがへる鷹の*こいにかもせむ

  *鳥屋かえる吾が*たならしの箸鷹のくると聞こえる鈴虫の音

 また軒端打つとも云へり。たがへる、たならん(し?)と云ふ事は、*たととと同音なり(?)。また十度返るをとかへりと読む。また毛を替ゆるをも云ふ。鷹狩をもとかへりと云ふ。

 符(斑)には白符、真白符、また大黒符、小黒鴫符、卯の花符、鶉符、青符、赤符。羽には委(なえ)羽、熨羽、本羽、立合の羽、風切火打羽、桙羽、平羽。位毛、下毛、晶(さより)毛、絃(ことぢ)毛、乱緋、乱糸、蛛(くも)手、目隠、足毛。尾には尾像(かた)尾、屋像尾、町像尾、*けならしは、なら尾、大石打、小石打、芝引きの尾は只一羽に摺(たた)み成せり。

(注)黄鷹とは=以下鷹の種類。斑や羽、毛や尾の種類を列挙する。

   七月の御魂=盂蘭盆会のこと。鷹の鳥屋出しはお盆過ぎで、その時古い箸、もし

    くはお盆の供物に供える苧殻の箸を燃やして出すらしい。

   白符にあり=「白符」は白斑の鷹であろう。「にあり」は断定の助動詞。「な

    り」と同じ。「復讐するは我にあり(聖書)」。

   鳥屋出し=成鳥になって鳥小屋を出る事。

   のきばうつ=鷹が鷹匠の手を離れて高く舞い上がる事。また獲物めがけて矢のよ

    うに飛び立つ事、飼い主に背いて飛び立つ事、獲物を取り得ないで羽ばたく

    事、などをもいう。

   置(招)き餌=鷹を呼び寄せるための餌。

   鳥立ち=鷹狩のために鳥が集まるように設けた湿地、沢、草むら。

   たがへる=手返る。鷹が鷹匠の手に返る事。

   こい=木居。狩の鷹が止まっている木。

   鳥屋かえる=夏の末に鷹が鳥屋にこもって羽が抜け落ちて冬に生え整うことを

    「鳥屋」という。そのために鳥屋に帰ることをいうか。

   たならし=手なずける事。

   たとと=未詳。「手」を意味する「た」にかかわる言葉か。

   けならし=意味不詳。「大石打」「小石打」が鷹の尾羽の名称なので、その関係

    か。音は「毛ならし」「飼いならし」に通じている。

 *首頭は白線を蒙るが如く、羽毛は班帖を著せたるに似たり。内爪、懸爪、取居(すへ)、鳥搦みの指太く、*髀間(かくたい)は広くして馬の通る計なり。後ろに三河を流し、前に小山を抱いたる相好、前代未聞の見事なり。人に思ひを尽くさせじと、鏡に影を移(映)し給へば、面は児して姿は鳥、*迦陵頻伽の形を移し、除羽打ち、雲仙と飛び昇る。三千坊の大衆は舞童を感ずる大音声、俄かに哀傷悲歎の小音(こごゑ)になりて、着衣の袖を湿(ぬら)しける。此の時の風情、*十明達、十羅刹の鏡に影を移し給ふか。また鷹の姿昔の潤色を忘れず。帝釈天の影向か。舞台の上の舞童は一円乗の守護神、当山の鎮守、日吉山王の児と現じ、今日の法会を取り行ひ給ふか。また西方浄土に御座ます二十五の菩薩達、妓楽歌詠して舞ひ遊び給ふとも、是には如何に勝るべき。

 昔、*大覚世尊霊鷲山に御座して、*同居方便実報三土の位を司り、三所の*成道今茲に顕たり。然れば「亡霊玉若殿、忽ち*歌菩提、舞菩提の来迎に預かり、直ちに歌詠如来の*果位に登り、*六義の才花を簪にし、*九品の蓮台に到らん者をがな。」*と、所謂見聞の貴賤、集会の尊卑も、悉く邪見の妄執を捨て、*無生の法忍に入らん、真俗相依の大法会として、天下無双の*梵筵なり。豈に生前の所願を成就するのみならんや。滅後の証果惑ひなき者なり。かくて修善の事終はり、導師僧正高座を下り、持仏堂に閉ぢ籠もり、微疾を受けず(受す?)、或時*澡浴浄衣して、*縄床に趺坐して泊然として、往生し給ふ。其の時筆を染め、辞世の歌に、

  貯敷(たのもしき)四種曼陀羅の光かな吾が後の世もくらからんやは

(注)首頭は=やっと本題に戻った。少年時代に読んだ「レ・ミゼラブル」に近い冗長

    さである。もっとも、この書は冗長な部分が本題で、稚児物語的な部分が付け

    足しなのだろうが。

   髀間(かくたい)=鷹の部分の名称。翼のつけねのあたり。

   迦陵頻伽=人面美女、美声の鳥。

   十明達、十羅刹=「明達」聡明で道理によく通じている人。「十人の明達の士」

    が「十羅刹女」と対に存在するのか。「十明」+複数形「達」かも。「十羅刹

    女」は、法華経受持の人を護持する十人の女。

   大覚世尊=仏の尊称。

   同居方便実報三土=凡聖同居土・方便有余土・実報無障礙土の三つの国土。四土

    から「定寂光土」を抜いたもの。

   成道=悟りを開いて仏となること。

   歌菩提・舞菩提・歌詠如来=未見。造語であろうか。ありそうな言葉ではある。

   果位=仏道修行によって得られた悟り。

   六義の才花=「六義」は和歌を指すか。「才花」は「才華」。才華は優れた才

    能、華やかな才能。花の比喩として簪にたとえた。

   九品の蓮台=極楽浄土に往生する時に座る蓮台。

   と=受ける部分が不明。なんとなくわかるが係り受けが判然としない。意訳しま

    す。

   無生の法忍=一切のものは不生不滅であることを認めること。また、その悟りを

    得た心の安らぎ。

   梵筵=仏教の宴席。法会。

   澡浴浄衣=身を洗い清めて清浄の衣を着ること。

   縄床=座面や背もたれを縄を張った作った椅子。

 

 

塵荊鈔(抄)⑫ー稚児物語4ー

第十二

 そうしているうちに法会の日にもなったので、庭の前には宝樹宝幡(金銀や玉で飾った木や幡)を立てて、堂内の荘厳(厳かな飾りつけ)は金銀をちりばめ宝石を磨いて飾りつけます。導師である師匠の大阿闍梨の相好(表情)は、まるで釈尊が威儀を正しているようで、従僧が出仕する様子は、阿羅漢のようです。仏を賛美する梵唄は雲を穿つように聞こえ、管絃の演奏は天に響くようです。僧たちの論談決択(仏道の奥義を議論する事)は深奥を究め、義理を尽くして行われます。三千坊の大衆たちは裹頭姿(袈裟で顔を包み目だけを出す事)でに出で立ち、三十二人の舞童は風に雪が舞うように巧みに袖を翻して舞います。幢幡や天蓋は嵐にはためいて、自在天の荘厳さを移たようで、沈香や白檀の薫りが庭に漂い、海のかなたの彼岸の芬芳たる香りのようです。そうしているうちに、三世の諸仏(三千の大衆をそのように形容したか)は釈迦や阿羅漢のごとき輝きを増し、今日の導師は母多羅観音菩薩のように臂威力が備わっているようです。実にこれは千載一遇、末法像法にはめったにない素晴らしい法会です。聴聞する道俗、結縁する貴賤、金の輿や玉の輦、銀の鞍や刺繍を施した轂(こしき=牛車)、門前は市を成すにぎわいで、堂上は花のように華やかです。難波や奈良の伶人(楽人)たちは、高麗・新羅の曲の限りを演奏するのでした。

 その舞楽のプログラムは次のように勘案されました。

 まずは左右の宴舞で奚婁鼓で「一曲」が舞われます。

 次いで、舞楽には、春鶯囀、団乾旋、賀殿鳥、廻杯楽、胡飲酒、北庭楽、酒胡子、武徳楽、菩薩照応楽、渋河鳥、陵王、壱徳塩、新羅陵王。

 平調は、林歌、三台塩、皇麞、万歳楽、慶雲楽、裹頭楽、想夫恋、五常楽、泔洲、倍臚、回忽、扶南、郎君子、小娘子、雞徳、勇勝、春楊柳。

 大食調は散手、武昌楽、打毬楽、長慶子、庶人三台、輪鼓、褌脱、賀王恩、秦王、破陣楽、還城楽、抜頭、王昭君

 双調は、春庭楽、柳花園、地久、白浜、蘇志摩、登天楽。

 黄鐘調は、喜春楽、赤白桃李花、海生楽、長生楽、聖明楽、弄殿楽、赤白蓮華楽。

 盤渉調は、蘇合香、万秋楽、宗明楽、蘇莫者、鳥向楽、採桑老、輪台、青海波、白柱、竹林楽、千秋楽、越殿楽、感秋楽、雞鳴楽。

 壱越調は、高麗曲、新鳥蘇、古鳥蘇、皇仁庭、狛鉾、敷手、阿夜岐利(綾切)、仁和楽、延喜楽、長保楽、崑崙八仙、新勒鞨、胡蝶、帰徳、納蘇利。

 神楽の名。庭燎、韓神、宮人、木綿志天(ゆふしで)、階香鳥(しなかとり)、薦枕(こもまくら)、志津夜乃、磯等崎、小菅、篠浪、葦原田、上巻、大宮、湊田、蛬(きりぎりす)、早歌、浅闇、其駒、明星、由不(綿)作、昼目、弓立、風俗、足柄、古柳、今様。

 催馬楽。安尊(あなたふと)、梅が枝、桜人、美濃山、石川、葦垣、葛木、山背、真金吹(まかねふく)、本滋(もとしげき)、藤生野、婦我(いもとわれ)、鈴鹿河、奥山、浅緑、席田(むしろだ)、御馬草、竹河、此殿(このとの)、倉垣、総角(あげまき)、田中井戸、長沢、鏡山、高嶋、婦門(いもがかど)、高沙古、夏引、貫河、飛鳥井、東屋、走井、青柳、伊勢の海、我門(わがかど)、差櫛、衣替、鶏鳴(とりはなきぬ)、難波海、沢田河。

 以上、調子品玄は、風香調、追風調、黄鐘調、追黄鐘調、清調、双調、平調、啄木調です。

 

 四十五代聖武天皇の御宇のことです。林邑国(チャンパ=ベトナム南部にあった国)に大いなる慈悲心をお持ちの僧仏哲という方がいらっしゃいました。衆生の貧しさ乏しきを憐れんで、海に入って竜王が持つという如意宝珠を求めて、救済しようとしました。そこで舟に乗って南海に船出し、呪力をもって竜王を呼び出しました。竜王は波の上に現れました。そこで呪力で竜王を緊縛し宝珠を出せと要求しました。竜王は髻(もとどい)を解いてその中の珠を仏哲に授けるふりをしました。仏哲は、右の手に剣印を結んで、左の手を差し伸べて受けようとしました。すると竜王は言いました。「昔、竜女は釈尊に宝珠を献上した。釈尊は合掌して受けなさった。像法・末法仏弟子は片手でこれを受けなさるのか。」と。仏哲はそこで印を解いて合掌しました。竜王はその時に印が解けるのを見て、呪縛から脱して再び海に入って永らえたそうです。仏哲は空しく珠を得られなかったばかりでなく、舟も大破したそうです。その時、婆羅門僧の菩提僊那と海中で出逢い、仏哲はこのなりゆきを語り菩提に師事しました。やがて仏哲は菩提に伴われて来朝したのです。天平八年丙子七月の事です。本朝の楽部の中にある菩薩舞・抜頭舞などは林邑楽で、仏哲が伝えたものです。

原文

 さる程に会式の日にもなりしかば、庭前には宝樹宝幢を立て、堂内の荘厳、金銀を縷(ちりば)め珠玉を磨く。導師大阿闍梨師匠の僧正の相好、凡そ釈尊の威儀の如く、従僧出仕の気色、羅漢に斉(ひと)し。*伽陀梵唄は雲を穿ち、*糸竹呂律は天に響く。論談また淵底を究め、決択尤も義理を尽くす。三千坊の大衆は*裹頭に出で立ち、三十二人の舞童は回雪の袖を返す。幡蓋嵐に飄へして、自在天の荘厳を移し、沈檀砌に薫じて海彼岸の芬芳に類す。然る間、*三世の諸仏は*遮迦羅眼の光明を増し、今日の導師は*母多羅(左にノフトク也と傍書)臂威力を添ふ。寔(まこと)に是れ千載の一遇、*季像の勝会なり。聴聞の道俗、結縁の貴賤、金輿玉輦、銀鞍繍轂、*門前市を成し堂上花の如し。難波・奈良の*伶人ども、高麗・新羅の曲を尽くす。

 其の舞の目録を*勘ふるに、

 左右の宴舞一*奚婁。

 *舞楽には、春鶯囀、団乾旋、賀殿鳥、廻杯楽、胡飲酒、北庭楽、酒胡子、武徳楽、菩薩照応楽、渋河鳥、陵王、壱徳塩、新羅陵王。

 *平調は、林歌、三台塩、皇麞、万歳楽、慶雲楽、裹頭楽、想夫恋、五常楽、泔洲、倍臚、回忽、扶南、郎君子、小娘子、雞徳、勇勝、春楊柳。

 *大食調は散手、武昌楽、打毬楽、長慶子、庶人三台、輪鼓、褌脱、賀王恩、秦王、破陣楽、還城楽、抜頭、王昭君

 *双調は、春庭楽、柳花園、地久、白浜、蘇志摩、登天楽。

 *黄鐘調は、喜春楽、赤白桃李花、海生楽、長生楽、聖明楽、弄殿楽、赤白蓮華楽。

 *盤渉調は、蘇合香、万秋楽、宗明楽、蘇莫者、鳥向楽、採桑老、輪台、青海波、白柱、竹林楽、千秋楽、越殿楽、感秋楽、雞鳴楽。

 *壱越調は、高麗曲、新鳥蘇、古鳥蘇、皇仁庭、狛鉾、敷手、阿夜岐利(綾切)、仁和楽、延喜楽、長保楽、崑崙八仙、新勒鞨、胡蝶、帰徳、納蘇利。

 *神楽の名。庭燎、韓神、宮人、木綿志天(ゆふしで)、階香鳥(しなかとり)、薦枕(こもまくら)、志津夜乃、磯等崎、小菅、篠浪、葦原田、上巻、大宮、湊田、蛬(きりぎりす)、早歌、浅闇、其駒、明星、由不(綿)作、昼目、弓立、風俗、足柄、古柳、今様。

 *催馬楽。安尊(あなたふと)、梅が枝、桜人、美濃山、石川、葦垣、葛木、山背、真金吹(まかねふく)、本滋(もとしげき)、藤生野、婦我(いもとわれ)、鈴鹿河、奥山、浅緑、席田(むしろだ)、御馬草、竹河、此殿(このとの)、倉垣、総角(あげまき)、田中井戸、長沢、鏡山、高嶋、婦門(いもがかど)、高沙古、夏引、貫河、飛鳥井、東屋、走井、青柳、伊勢の海、我門(わがかど)、差櫛、衣替、鶏鳴(とりはなきぬ)、難波海、沢田河。

 *調子品下、風香調、追風調、黄鐘調、追黄鐘調、清調、双調、平調、啄木調。

 

 四十五代聖武天皇の御宇、*釈仏哲、林邑国の人大慈ありて、衆生の貧乏を愍(あはれ)み、海に入り如意宝珠を索めて、*賑済を行はんと欲す。便ち舟に乗り南海に泛び、呪力を以つて竜王を召す。竜王波の上に出ず。乃ち呪縛して珠を索む。竜*髻珠を解いて哲に授けんとす。哲、右の手に剣の印を結び、左の手を舒べ之を受く。竜紿(あざむ)いて曰く、「昔、竜女釈尊に献ず。釈尊合掌して受け給ふ。像末の弟子隻手に之を受け給ふか。」と。哲印を解きて合掌す。竜時に印を解くるを見て、縛脱して海に入る。哲手を空しくす、舟また破る。此の時婆羅門の*菩提海中に逢ひ、哲此の事を語る。菩提と伴い来たる。天平八年丙子七月なり。本朝楽部の中に菩薩抜頭等の舞、林邑の楽なり。仏哲の伝ふる所なり。

(注)伽陀梵唄=仏を賛美する歌。

   糸竹呂律=楽器演奏。

   裹頭=僧侶が袈裟で頭から顔を包み、眼だけ出した装い。僧兵の装束。寔

   回雪の袖=雪が舞うように翻る袖。

   三世の諸仏=三世三千仏。現在過去未来にいる三千の仏。すべての仏。「今日の

    導師と対句になっている。そのままにとると意味が分かりずらい。「三千の大

    衆」を比喩として表現したととるのは無理があるか。

   遮迦羅眼=不明。釈迦羅漢か。そのように解釈しておく。

   母多羅=仏母である多羅観世音菩薩か。女身の菩薩。だとすると傍注の「野太

    く」とは合わない。「臂威力(腕力)」を添えるというのも変である。

   季像の勝会=「勝会」は盛大な法会。「季像」は「末法・像法」の意か。

   門前市を成し=「綺羅充満して堂上花の如し。軒騎群集して門前市をなす。(平

    家物語・巻一・我身栄花)」は類似の表現。

   伶人=音楽を演奏する人。楽人。

   勘ふる=舞のプログラムを考えてこのようにした、ということか。もしくは語り

    手の小座頭が推測するに、の意か。以下の曲は百五十くらいあり、玉若が夢で

    告げた百二十帖には合わない。

   奚婁=法会で行道(練り歩く事)に次いで奏される「一曲」に用いられる鼓。

   舞楽=舞を伴う雅楽。とすると、平調以下は管絃のみの演奏か。それでは玉若の

    夢に依頼に合わない。雅楽に詳しい方のご教示が頂けたら幸いです。

   平調・・・=以下の調は雅楽の唐楽の六調子。

   神楽=神楽歌。

   催馬楽=歌謡の一種。律と呂に分かれる。

   調子品下=調子品玄か。雅楽(琵琶など)の演奏法を列挙しているようである。

   釈仏哲=仏哲。林邑出身で聖武天皇の御代に渡来し、林邑楽を伝えたという。

   賑済=金品を施して被災者や困窮者を救う事。

   髻珠=竜王の髻(もとどり)の中にあった如意宝珠。「如意宝珠」は一切の願い

    が意のままにかなえられる不思議な珠で、「法華経提婆達多品第十二」で

    は、竜女が釈迦に献上して、そのおかげで男子に変成し仏になったという。

   菩提=菩提僊那南インドバラモン階級出身。弟子の仏哲と共に遣唐使と一緒

    に来日した渡来僧。

 

塵荊鈔(抄)⑪ー稚児物語4ー

第十一

 文の途中ですが、話題が「鏡」に変わるので回を改めます。

 (玉若の夢を花若が叡山の衆徒に語ったが、)

 比叡山三塔の大衆は衆議して、「鏡を置くのは問題ないだろう。」と議定なされましたが、ある若い衆徒の中から、「舞の座敷に水鏡を置くのは危ないと思われます。影を映すのが目的ならば、本当の鏡を置かれた方がいいのではないでしょうか。」と発言したので、花若殿は言いました。

 「おっしゃることはもっともなことですが、水鏡については典拠とする説がありそうです。まず鏡については西域天竺が発祥で、華厳経には十鏡一灯の説(一つの灯も十の鏡には十の映じ方がある。一つの真実も多様な観じ方がある、の意か。)を説きます。中国では、黄帝西王母と会った時、王母が初めて十二面の鏡を鋳造して黄帝に与え、黄帝は月に一鏡づつ用いたといいます。また、堯の家臣で師の尹寿が用いたのが始めともいいます。秦の始皇帝の三尺鏡は人の五臓六腑を映して、善悪邪正、病気の有無を表し始皇帝が崩じて後、同時になくなってしまったといいます。唐の代法善の鉄鏡も、臓腑を照らして病を治したといいます。流子が持っていた鏡は、流子が他人に嫁ぐ時、鶴となって飛び去ったといいます。唐の太宗皇帝は、銅の鏡で自分を顧み、古の鏡で世の興亡を鑑み、人(家臣の魏徴の諫言)を鏡として理世安楽の政治を遂げなさったといいます。永明禅師は「宗鏡録」を編纂し、神秀和尚は心を明鏡の台に喩えた偈を作りました。六祖慧能は論駁し明鏡を打破する詩を次韻で作りました。馬祖は師匠慧譲の行為によって瓦を磨いて鏡としたそうです。本朝の三種の神器も、内侍所(八咫鏡)は伊勢神宮にまします御鏡で、人皇第九代開化天皇まで帝と同じ皇居に安置なされていました。第十代崇神天皇天照大神の霊威を畏れて、内侍所(御殿の名)とは別の神殿に移しなさいました。中比(さほど古くはない時代)から再び温明殿の内侍所に安置されました。六十二代村上天皇の文徳三年己未九月二十二日の内裏焼失の時は、神鏡は自ら南殿の桜の枝に飛び移りなさったといいます。その時、関白で小野宮殿の藤原実頼が礼拝黙祷して「我が袖に宿らせ給え。」と祈ったところ、鏡は左の袖に飛び移りなさったといいます。末代までもその霊威は際立っていることだと伝えられています。また建長寺開山の蘭渓道隆所持の鏡は入滅の後、禅師の威儀正しい姿をその鏡面に留めたといいます。それは観自在菩薩の相であったといいます。一山国師がそれを記録して、今も建長寺にあるといいます。また天人が影を映し、絶えず煙の立っているのは、武蔵野の堀兼の井です。このような鏡は各々別の鏡です。玉若殿が望んだのは、昔、正頼(せいらい)と呼ばれる鷹匠が、飛び去った鷹の池に姿を映しているのを見て気付いた話は、『野守の鏡』といって、玉若殿がはかなくなって生まれ変わった鷹を映すのには水鏡が本来でございましょう。」とおっしゃったので、水鏡を用いることに決められました。

原文

 (玉若の夢を花若が叡山の衆徒に語ったが、)

 三塔衆議して、「鏡安き事」と議定せらるる処に、或る若徒の中より、「舞の座敷に水鏡は殆く覚え候ふ。影を移(映)さるべき用ならば、真の鏡をや置かるべき。」とありければ、花若殿曰く、

 「仰せはさる御事なれども、*鏡に就きて本説ありげに候ふ。先ず鏡は西域より事起こりて、華厳には*十鏡一灯を説き、震旦には*黄帝西王母と会せし時、王母始めて十二面の鏡を鋳て月を逐つて用うと云ふ。または堯の臣*尹寿、是を始むと云ふ。*秦の始皇の三尺鏡は五臓六腑を移(映)し、始皇崩じて後、同じく共に失せにき。唐の*代法善が銕(鉄の古字)鏡も、臓腑を照らし病を治す。*流子が持し鏡、他人と稼(とつ)ぐ時、鶴となりて飛び去りぬ。唐の*太宗皇帝は人を鏡として理世安楽の政を遂げ給ふ。*永明禅師は宗鏡録を集め、*神秀和尚は心を明鏡の台に喩ふ。六祖また明鏡を打破し、*馬祖は瓦子を鏡となす。吾が朝三所の神器、*内侍所は伊勢の宮居の御鏡、人皇第九代開化天皇まで同殿に住み給ふ。第十代崇神天皇霊威に恐み、別殿に移し給ふ。中比よりまた温明殿に安置せらる。六十二代村上天皇文徳三年己未九月二十二日大内焼失の時は、自ら南殿の桜の枝に飛び移り給ふ。其の時関白*小野宮殿実頼礼拝黙祷の時、左の袖に移り給ふ。末代迄も霊威*掲焉の御事なり。また*建長開山所持の鏡は入滅の後、禅師の*義(儀)貌を留む。即ち観自在の相なり。*一山国師其の記を作り、今に建長にあり。また天人影を移(映)し、絶えぬ烟の見えけるは、武蔵野*崛難(堀兼)の井。かやうの鏡は各々別の鏡、*正頼(せいらい)が古へはかなくなりし鷹の宿りしは*野守の鏡とて、鷹には水鏡が本にて候ふ。」と曰(のたま)ひければ、水鏡に定めけり。

(注)鏡に就きて=以下鏡について、和漢西域の故事を列挙する。

   十鏡一灯=「華厳経」を説いた法蔵に「鏡灯の比喩」があるという。「華厳経

    菩薩明難品」には「明浄の鏡」の用例が二か所ある。

   黄帝黄帝が天から十二面の鏡を授かりひと月一面、十二か月一年用いたという

    伝説がある。出典はわからないがWEB上で、「在会见了西王母之后铸造了十二

    面镜子,每月一个换着用。据说这就是镜子的开始。」という表現を見つけた。

   尹寿=「百度百科」によると帝堯の師らしい。鏡の故事は発見できなかった。

   秦の始皇=西京雑記」によると、秦の始皇帝の持つ鏡は人の善悪邪正、病気の

    有無などを照らしたという。「秦鏡」という熟語がある。

   代法善=未詳。

   流子=未詳。

   太宗=唐朝二世皇帝、李世民。「貞観政要」に「三鏡の教え」として、太宗は銅

    鏡で自分を映し、古の鏡で世の興亡を映し、人の鏡で自分の行動の是非を映す

    と心がけているという、名君の信条が述べられている。

   永明禅師=五代十国時代法眼宗の僧。「宗鏡録」はその主著。夢にかかわるエ

    ピソードがあったのか。

   神秀和尚・・・=神秀(禅宗北宗の六祖)。六祖(慧能、南宗として正統の六祖

    とされた。兄弟弟子で、神秀が、「身是菩提樹 心如明鏡台 時時勤払拭 莫

    染塵埃」という偈を作ると、慧能は、「菩提本無樹 明鏡亦非台 本来無一物

     何処有塵埃」と論駁したという。次韻で同じ韻字を用いている。

   馬祖=唐代の僧。「南岳磨甎」の熟語がある。馬祖が座禅をしていると師匠の慧

    譲が、「何をしているのか。」と尋ねた。馬祖が、「仏になるために座禅をし

    ています。」と答えると、慧譲は瓦を磨き始めて、「鏡にするのだ。」と言っ

    たという。まるで、というかまさしく禅問答の話。

   内侍所=三種の神器の神鏡。八咫鏡。宮中内侍所に安置されていたが崇神天皇

    時に天照大神を恐れて別所に移されたという。

   小野宮殿実頼=藤原実頼。小野宮殿と呼ばれた。このあたりは、「平家物語・巻

    十一・鏡」に類似の記述が見られる。

   掲焉=著しいさま。

   建長開山=蘭渓道隆。鎌倉中期の臨済宗の渡来僧。鏡のエピソードは「元亨釈

    書」にある。

   義貌=儀容。礼儀正しく堂々とした容貌。

   一山国師=一山一寧。鎌倉後期の臨済宗の渡来僧。

   崛難(堀兼)の井=狭山市にある旧跡。「枕草子」「千載集」に見える。鏡との

    関係はわからない。

   正頼=源正頼。斉頼、政頼とも。伝説的な鷹匠。それに起因し、「斉頼」は鷹を

    使って鳥を捉える事の巧みな人、もしくは一芸に精通した人を表す。

   野守の鏡=天子の狩りの時、梢に逃げた鷹を映した泉を「野守の鏡」といったと

    能「野守」、「袖中抄」などに見える。「はし鷹の野守の鏡得てしがな思ひ思

    はずよそながら見む(新古今・恋)」。