第七章
律師はこの返事を見て心浮かれる。
まだ逢ってもいないのに逢瀬の後の別れのつらさを思いやり、山へ帰ろうとの心は全く起きない。暫くはここに留まって、せめて遠目にでもあの梢を眺めて暮らしたいとさえ思うが、それはさすがに節度を欠く行いだろうと、
「桂寿よ、かたじけなかった。稚児殿のご返事は確かに頂いた。私はいったん比叡の山に帰る。いつかは逢える日もあるだろう。必ず戻ってまいるから。」
と、童に別れを告げて比叡山へと帰る。
しかし、一足歩んでは振り返り、二足歩んでは一歩戻ると、遅々として歩は進まない。春の日長というのに坂本までもたどり着かずに日が暮れる。戸津の辺りの埴生の小屋に一夜の宿を借りる。
終夜悶々として、翌朝山へ上ろうとするが、千曳の縄が腰につけられているように、心の中で別の自分が引き留めるのだ。
桂海はふらふらと彷徨する。つま先は大津を刺している。
雨が降り出す。蓑笠をまとい旅の体で行くと、前方遠く唐傘を差した騎馬がやって来る。遠目に見やると桂寿である。
「これは律師、不思議なこと。実は申し上げたいことがございまして、見知らぬ山までも行こうとしたのでございますよ。このようなところでお会いできようとは。」
といって馬より飛び下り、桂海の手を取って側の辻堂へ立ち寄る。
「いかがいたした。」
と問うと桂寿は懐から色美しく香を焚きしめた文を取り出す。入れていた袖まで香気につつまれている。
「梅若様は、あなたが叡山に帰られたとお聞きになって、私をなじるのです。『どうして帰したのですか。あなたはその方とお話をしたのでしょう。それならどのあたりにお住まいかも察せましょう。たとえお山がどんなに奥深くても、あなたが全く知らない場所でも、きっと必ず訪ねて参れ。』と。まだ会ってもいないあなたにどれだけ心を奪われたのか、とんでもない無茶なお言葉。若君、一晩泣き明かされたのでしょうか、袖はぐっしょり夜露で濡れて、もう重いのなんのって。」
と冗談めかして笑うので、桂海も戯れて、
「稚児殿は私にあってもおらぬ。勝手に話を想像して勝手に別れを嘆くとは。おぬしのこしらえ事ではないのか。」
と切り返しつつ封を開く。
いつはりのある世を知らでたのみけん我が心さへ恨めしの身や
(男女の仲にうそはつきものなのに、そんなことも気づかないであなたを信じてしま
った。そんな私の愚かな心までもうらめしくおもわれますよ.)
(注)埴生の小屋=粗末な小屋。
千曳の縄=千人で曳いても動かない石を曳く縄。
いつはりのある世=世は世間ではなく、男女の仲。ここでは僧と稚児の仲。