religionsloveの日記

室町物語です。

富士の人穴の草子②-異郷譚4ー

その2

 さて、和田胤長は頼家殿の御前に参って、岩屋のいきさつをこれこれと申し上げました。頼家殿はお聞ききになって、岩屋の奥の有様を見届けなかった事が、気がかりでならず、重ねておっしゃいます。「領主のいない所領が四百町ある。誰でもよい、所領を望む者がいるならば人穴へ入って探検して参れ。」と。諸国の侍たちは口々に、「命があってこそ所領もほしいだろうが、死して後にはどうにもならない。」と言って、入ろういう人は誰もいません。

 このような折、伊豆の国の住人、新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、藤原鎌足の大臣の十二代の後裔、しろつみの中納言には十三代、この新田の四郎忠綱は、「私が持っている所領は千六百町である。かの四百町の所領を賜って、二千町にして我が子のまつぼう、おくぼうに千町づつ持たせたいものだ。」と思って、督の殿の御前に参り、「私が人穴へ入ってみましょう。」と申し上げました。鎌倉殿それをお聞きになって、御喜びなさることこの上ございません。直ちに四百町を賜うという将軍自署花押の御判を頂いて御前を罷り、自邸でまつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝らお聞きなさい。私は鎌倉殿の御使いとして人穴へ入ることとなった。これと申すのも汝らを思う故である。四百町の御判を賜って、汝らに千町づつ持たせたいからである。」とお語りなさると、二人の子供は、「父上の御命があってこそ千町万町もほしいのです。」と申してひきとめるのですが、忠綱は、「たとえ人穴へ入ったとしても、祟りさえなければ死ぬこともあるまい。ご安心しなさい。」と慰め諭しなさいます。「もし死んだとしてもこの忠綱の事を嘆いてはいけない。どうか兄弟仲良く戦場でも駆けるも引くも兄弟語り合わせて、君の御大事には参上して、一門の名をも上げなさい。」と懇ろに教えなさいました。兄弟のたちはいたしかたないと御前を下がります。忠綱は、「ああ諸国の侍たちは、所領を望む我を強欲で憎らしい思うだろう。いや、それもしかたないことだ。私だって他人だって子を思うのは世の習いであるよ。松・杉を植え置くのも(子孫繁栄を願う、または子孫に財産を残すための)子供を思う道であるよ。」古歌にも見えますように、

  人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな(子を持つ親として、心の

  中は闇というわけではないが、 子どもの行く末を考えると道に迷ったかのようにな

  るのだ。)

 という言葉までも思い出されてしまいます。

 このようにして出立する、新田のその日の装束はいつにも優れて華やかでした。肌着には四ツ目変わりの帷子の脇を深く解いて、精好の直垂は露(裾の紐)を結んで肩に懸け、烏帽子懸けを強く引き結び、両方の括をり縫いつけるようにして、まふ総造りの太刀を佩き、白鞘巻の腰刀に、爪紅の扇を差し添えて、鎌倉殿より遅しとの御不興で遣わされた工藤左衛門尉祐経を相具(あいぐ)して、松明十六丁を持たせ、「七日後の午の刻に帰りましょう。」と言って新田は人穴へ入ったのでした。

 こうして一町ほど行きますが何もありません。和田が会ったという機織りなさる女房もいらっしゃいません。佩いていた太刀を抜き持って、四方に振り回していきますと、六七町行ったかと思うと地上のように月が現れて、地の色を見ると青黄赤白黒の五色の松原へぞ出たのでした。小川が流れています。足跡を見るとたった今人が渡ったとみえます。この川を越してみると八棟造りの檜皮葺きの御所が九つ連なって建っています。この内へ入ってみると軒から落ちる水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾くように聞こえます。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めてしまいそうに爽やかです。中に入ってよくよく見れば瓔珞の珠が連ねて懸けられています。その明るさは夜昼の差別もありません。蓮の花が開くのを見て昼と知り、つぼむのを見ては夜と知ります。ある所を見るとたった今人が弾き慣らしたと覚しく、一面の琵琶を立てられています。

 赤地の錦で天井を張り青地の錦で柱を巻き立てて、その上を黄金白金で飾っています。その金銀が当たって鳴る音は祇園精舎の鐘の声もこうなのだろうかと思いやられます。その美しさは心も言葉も及ないほどで、我はまさに極楽浄土へ参ったのだと思い、嬉しい事この上ありません。

 さて丑寅の方角を指した道を見れば池があります。その内に島があり、島の上には閻浮檀金の黄金でできた光堂が鮮やかです。池に懸けた橋を見ると、八十九間懸けられています。その端には八十九の鈴(りん)が付けられています。一番の鈴が妙法蓮華経と囀るように鳴れば、鈴は悉く法華経一部八巻二十八品の文字の数を囀るようです。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女などが、この経の功力によって、一切衆生をみな九品の浄土に迎えとりなさってくださいと祈っているようで、「観以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく びょうどうせひいっさい どうほつぼだいしん おいじょうあんらつこく):観経疏」と囀るように聞こえます。この池の中には八葉の蓮華の台があります。水の色は五色にして趣深く、近く寄って見ると台の御所の東の庭に白金が延べて敷かれています。

 内からからかうような御声で、「何者が我が住む所へ来たのであるか。」とおっしゃる方がいます。姿を見ると、口は朱を差したように真っ赤で、眼は日月のように光っています。その丈は、二十尋(30メートル)くらいです。十六本の角を振り立てて現れました。吹く火焔の息は百丈ほど立ちあがり、紅の舌を出しなさっています、その姿は身の毛よだつばかりです。新田が頼家の使いと名乗ると、「これこれ新田よお聞きなさい。自らをば如何なる者と思のか。富士浅間大菩薩とは私のことであるぞ。おまえは日本の主鎌倉殿、頼家殿の使いであろうが、この人穴へ入って私の姿を見ようとするとは、頼家の運はすぐにも極まることであろう。

 ところで恥ずかしながら私にも懺悔することがある。自らが六根(目・耳・鼻・舌・身・意=体)には夜昼三度づつの苦しみがある。新田よお前の持っている剣を献上いたせ。我が六根に収めよう。」とおっしゃるので、たやすいことですと、四尺八寸のまふ房造りの太刀を抜いて差し上げると、大菩薩は受け取りなさって、刀身から逆さまに六根に吞み込んで収めなさいます。「素直に腰刀も差し出しなさい。」というので、同じくそれも差し出すと、またこれも六根に呑み収めなさいます。

原文

 さて、かうの殿の御前に参りて、岩屋の節をかくと申す。かうの殿聞こし召し、岩屋の奥の有様見ぬ事、御心に懸けさせ給ひて、重ねて仰せけるやうは、「空き所の所領四百町あり。誰にてもあれ、所領望みの方々は人穴へ入り捜して参れ。」と仰せありければ、諸国の侍たち申しけるは、「命ありてこそ所領もほしけれ。死して後は何にかはせん。」とて、入らんといふ人もなし。

 かかりける所に、伊豆の国の住人、*新田(日田)の四郎忠綱(忠常)、鎌足の大臣には十二代、*しろつみの中納言には十三代、新田の四郎忠綱心に思ふやう、「我らが持ちたる所領千六百町なり。かの四百町の所領を賜つて、二千町にして我が子の*まつぼう、おくぼうに千町づつ持たせばや。」と思ひ、かうの殿の御前に参り、「人穴へ入りてみん。」と申し上げられける。鎌倉殿聞こし召し、御喜びは限りなし。やがて四百町の*御判を賜つて御前を罷り立ち、まつぼう、おくぼう二人の子供を近づけて、「汝ら承れ。我は鎌倉殿の御使ひに人穴へ入るべきなり。これと申すも汝を思ふ故なり。四百町の御判を賜つて、汝らに千町づつ持たせんがためなり。」と語り給へば、二人の子供申すやう、「父の御命がありてこそ千町万町もほしけれ。」とて留め申したりければ、忠綱仰せけるやうは、「たとへ人穴へ入りたればとて、*しるしなくば死ぬことあるまじきなり。心安く思ひ候へ。」と慰め給ひける。「もし死したるとも忠綱が事侘ぶべからず。いかにも兄弟仲良く*駆けるも引くも語り合はせて、君の御大事に罷り立ち、一門の名をも*上げべし。」と懇ろに教へ給へリ。兄弟の者ども力及ばずとて御前を罷り立ち、「いかに諸国の侍たち、我を憎しと思ふらん。よしそれとても力なし。我も人も子を思ふ習ひぞよ。*松・杉を植え置くも子供を思ふ道ぞかし。古き歌にも見えたり。

  *人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に迷ひぬるかな」

 と云ふ言の葉までも思ひ出だされたり。

 さる間、新田がその日の装束はいつにも優れて華やかなり。膚には*四ツ目変わりの帷子、脇深く解きて*精好の直垂に、*露を結んで肩に懸け、烏帽子懸け強くして、両の括り縫いて、*まふ総の太刀、*白鞘巻の刀、*爪紅(つまくれなゐ)の扇差し添へて、鎌倉殿より御不興(奉行かも?)を添へられたり(る?)*工藤左衛門の助を相具して、松明十六丁持たせ、七日といはん午の刻に帰り候はんとて新田は人穴へ入りにける。

(注)しろつみの中納言=未詳。

   新田(日田)の四郎忠綱(忠常)=仁田四郎忠常。1167~1123。

   まつぼう、おくぼう=忠常の子?忠常は北条義時に討たれ仁田家は断絶したとあ

    る。子に僧となった証入がいる。「小谷」では「松房・松若」、474では「か

    つはう・おくはう」、347では「まつはう・まつわが」。長男は「松房」だろ

    う。次男は「奥房?松若?」。

   御判=御判物。将軍が自署花押した文書。

   しるし=霊験、ご利益。ここでは逆に祟りか。

   駆けるも引くも=「平家物語・二度之懸」に「弓矢取りはかくるもひくも折にこ

    そよれ」とある。梶原景時がわが子に言った言葉である。

   上げべし=上ぐべし、か。

   松・杉を植え置くも子供を思ふ道=故事や諺による表現か?

   人の親の・・・=「人の親の心は闇にあらねども子を思ふ道に惑ひぬるかな」

    (後撰集 雑一・藤原兼輔)。

   四ツ目変わり=四変(よつがわり)か?着物の全面左半分と右半分、背面の左半

    分と右半分が異なった色や柄になっている帷子(下着)。

   精好=精好織。絹織物の一種、精密で美しい織物の意。

   露=狩衣・水干などの袖を括る緒の垂れた端。「烏帽子おしなほし、ひたたれの

    つゆむすびて、かたにかけ」(曾我物語6)。

   まふ総=未詳。「房造り」とは、刀身の表面に「房」と呼ばれる突起を付けた装

    飾技法らしい。刀身彫刻の一種か。もしくは「まう房」という刀工が作った太

    刀か。

   白巻鞘=柄や鞘を銀で装飾した鞘巻。腰刀。

   爪紅の扇=縁(へり)を紅色に染めた扇。

   工藤左衛門の助=工藤左衛門尉祐経。「曾我物語」に登場する。474では弟の工

    藤(宇佐美)祐茂とする。

 かくて一町ばかり行けども何もなし。機織り給ふ女房もましまさず。佩いたる太刀を抜き持つて、四方をうち振りて行くほどに、六七町行きたると思へば*日本のごとくに月現れて、地の色を見れば青黄赤白黒の五色なる松原へぞ出でたりける。小川流れたり。足跡を見ればただ今人の渡りたると見えたり。この川を越してみれば八棟造りの檜皮葺きの御所続けて九つあり。この内へ入りて見れば軒より落ちける水の音は「けけんしゆじやう(下化衆生)」と琵琶を弾く。松吹く風の音は松風颯々として生死の眠りも覚めつべし。よくよくうち入りて見れば瓔珞の珠を連ぬき懸けられたり。夜昼の差別(しやべつ)もなかりけり。蓮(はちす)の開くを見て昼と知り、つぼむを見ては夜ぞと知り、ある所を見れば今人の弾き慣れたと覚しくて、一面の琵琶を立てられたり。

 赤地の錦にて天上を張り青地の錦にて柱を巻き立て、その上を黄金白金をもつて飾りたり。ともに当たりて鳴る声は祇園精舎の鐘の声もかくやと思ひやられたり。心も言葉も及ばれず、我はただ極楽浄土へ参るよと思ひ、嬉しき事限りなし。かくて丑寅の方へ指したる道を見れば池あり。その内に島あり。島の上には*閻浮檀金(えんぶだごん)の光鮮やかなり。池に懸けたる橋を見れば、八十九間懸けられたり。かの端に八十九の鈴(りん)を付けられたり。一番は妙法蓮華経と囀(さやづ)れば法華経一部八巻二十八品の文字の数を悉く囀りける。また、多聞・持国・増長・広目・十羅刹女、この経の功力によつて、一切衆生をみな九品の浄土に迎へとらせ給へと祈る。「*願以此功徳 平等施一切 同発菩提心 往生安楽国(くわんにしくどく ひゃうとうせひ一さい どうほつぼだひしん おふじやうあんらつこく):観経疏」と囀りけり。

 かの池の中には八葉の蓮華あり。水の色五色にしておもしろく、近く寄りて見れば御所東の庭に白金を延べて敷かれたり。

 内よりからこひ(からかひ)たる御声にて、*「何者なれば我が住む所へ来たりたるぞ。」とのたまひける。姿を見れば、口には朱を差したるごとく、眼は日月のごとくなり。その丈、はたいろ(二十尋?)ばかりなり。十六の角を振り立てて現れたり。口より吹く息は百丈ばかり、立ちあがる紅の舌を出だし給ふ、身の毛よだつばかりなり。「いかに新田承れ。自らをば如何なる者と思ふぞや。富士浅間大菩薩とは我がことなり。日本の主鎌倉殿、家(頼家?)のかうの殿が使ひなり。これへ入りて自らが姿を見すること、頼家が運が極めなり。恥づかしながら懺悔するなり。自らが六根は夜昼三度づつ苦しみあり。新田が持ちたる剣を参らせよ。我が六根に収むべし。」と仰せられければ、易きことなりとて、四尺八寸のまふぶさか造りの太刀を抜きて参らせければ、大菩薩受け取り給ひて、逆さまに六根に収め給ふ。「おなじく刀も参らせよ。」とありければ、やがて参らせける。これも六根に収め給ふ。

(注)日本のごとく=地上のように。

   八棟造り=神社の本殿形式の一つ。

   閻浮檀金=閻浮堤の浮檀樹の下にあるという金塊。

   願以此功徳・・・=「観無量寿経疏(観経疏)」の冒頭の偈文の最後の四句。  

    474では「願以此功徳 普及於一切 我等与衆生 皆共成仏道」(法華経化城

    喩品第七)とある。

   「何者・・・=このあたり、文章が錯綜している感がある。大蛇の何者かの問い

    に、頼家の使いの新田であると答えてから、私は富士浅間大明神だと答えて、

    さらに、俺を探ろうとは新田、頼家共に後悔するぞ、と宣言したうえで、その

    太刀をわたしにくれぬか、というのが素直な展開だろう。

     でも、威張っているのに毒消しのために霊刀をくれとは厚かましい感があ

    る。私にはわかりづらい文章である。