上 その1
そもそも、世尊の四八相のように美しい月の容貌は、十五夜の雲に隠れ、釈王の十善のように素晴らしい花の姿は、都の内の嵐に散ります。命あるものは必ず滅び、盛りあるものは必ず衰えるのが定めです。
しかし往々にして、花鳥を賞玩して、無為に春夏を送り、月雪を愛して、空しく秋冬を過ごしてしまいます。これは人や物に執着する悪縁と言えましょう。世俗の人でさえ戒めるべきことです。まして、仏弟子においては言うまでもありません。
さほど昔のことではございませんが、都大原の奥に、一心三観の古き流派を問い、四教五時の教義を学んだ一人の法師がおりました。その名を幻夢と申します。
ある時、草の庵の内はひっそりして、五月雨が音も静かに降り続ける折節、幻夢は遥か昔から遠い未来までをつらつれ考えて、
「私はたまたま優曇華の花のようなありがたい仏法に出会った。それなのに、この生を無為に送ったならば、これ以上の後悔はないだろう。人の無常はわが身のことと思いながら、それでもまだ空しく年月を送り、生死流転の迷いの元を断ち切るよすがも全くない。
つらつら昔のことを考えると、恵心僧都は、『貧は菩提の種である。』とのお言葉を遺し、高野上人は、『貧窮は閑居の友だ。』とおっしゃった。
さて、私は、「戒・定・慧」の三学には欠けているが、貧しく賤しく孤独の身である。仏法を求めるにはかえって好都合である。しかし、確乎とした道心がなければ、生死の迷いを離れることは難しいであろう。今、我が身には邪念の雲に覆われているとはいえ、自らが持つ月のように澄みきった心は、胸の内にはっきりあるのだ。
であるから、智者大師のお教えでは、『阿鼻地獄の罪人の身や心も、すべて極聖(仏)の心となり、毘盧遮那仏の仏心や仏土も、凡夫がひたすら念ずる心を越えるものではない。』とおっしゃっている。
またある人の和歌に、
雲晴れて後の光と思ふなよもとより空にありあけの月
(雲が晴れて後に光が現れると思ってはいけない。有明の月は元々空にあるのだ。)
とある。
その他の諸経の論談でも、どんなに愚かなものにでも、本来仏性が備わっていることは明らかなのである。。
高祖大師のお教えでは、『四重罪・五逆罪にも勝る罪がある。人として得難い命を受けたのに、仏法を学ばないことだ。』とおっしゃっている。
こうであるのに、無知蒙昧の煩悩を打ち払って、本来備わっているはずの鏡のように澄んだ心を磨かないのは愚かな中でもひときわ愚かなことだ。そうはいっても道心というものは、昔から今に至るまで、仏陀に祈り、神明に願って得られるものだと聞いている。
神々によって衆生利益の霊験は様々であろうが、とりわけ日吉山王は仏法擁護の神として、大乗修行の人の発心を促してくださるとうかがっている。だから、かの山王の和光を仰いで、悟りに至らせていただこう。」
と思って、それ以来、常に日吉権現に詣でて、生死の一大事をお祈り申し上げていました。
以下に「幻夢物語」の原文と注を掲載します。本文は、続群書類従本に拠りました。読みやすいようひらがなを漢字に改め、送り仮名を補い、句読点を施しました。漢字は新字体を用いました。仮名遣いが歴史的仮名遣いと異なっている場合は、歴史的仮名遣いに改めました。
室町物語大成本(内閣文庫本)、続史籍集覧本を参照して、主な異同を注に記しました。その際、続群書類従本は(群)、室町物語大成本は(大)、続史籍集覧本は(史)と省略して書きました。
原文 夫れ*世尊*四八の月のかほばせは、*三五の夜の雲に隠れ、*釈王*十善の花のかたちは*九重の嵐に散り、生あるものはかならず滅し、盛りあるものは必ず衰ふる習ひなり。
しかれども、花鳥をもてあそんで、いたづらに春夏を送り、月雪を愛して、むなしく秋冬を過ごし来ぬ、是、*愛着の*縁たり。世俗猶戒しむべし。況や仏子においてをや。
爰に中頃、都大原の奥に、*一心三観の*旧流をうかがひ、*四教五時の*配立学びし沙門一人あり。その名を幻夢と号す。
(注)世尊=仏を敬って言う語。
四八=四八の相。三十二相。仏の備えている三十二の優れた相。
三五の夜=十五夜。
釈王=釈迦のこと。世尊←→釈王の対句は、(大)では世間←→珍(宝?)光、
(史)では世間←→現光となっている。珍光、現光は未詳。
十善=十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)
を犯さない善行。
九重=①宮中。②都。
愛して=(群)では、「あひして」とあるが、文脈により改めた。
愛着=あいじゃく。愛情に執着すること。人や物にとらわれること。
縁たり=(大)(史)因縁なり。
一心三観=「一心」は世界を表し出すものとしての心。唯心。「三観」は三種の
観法(真理を観察し、明らかにする方法)。
旧流=未詳。古い流派、昔からの教えの意か。(大)(史)「ことはり」。
四教五時=「四教」は釈迦一代の教説を四種に整理したもの。「五時」は釈迦一
代の教説を五つの時期的展開に分類したもの。
配立=(大)(史)は「はいりう」。配当、配置。「廃立」なら、仏語で棄てる
ことと立てること。
沙門=僧侶。法師。
ある時、、草の庵の内幽かにして、梅の雨の音静かなる折節に、*無始曠劫より*未来永永までの事を案ずるに、
「たまたま会ひ難き*曇華の仏法に会へり。今生いたづらに送りなば、後悔*何に及ばんや。人間の*無常は身の上の事ぞと思ひながら、*なほいたづらに年を送り、*生死の根元をさらに切るべき便りなし。
(注)無始曠劫=始めを知ることができない過ぎ去った遠い昔。
未来永永=未来永久にわたること。
曇華=優曇華。仏に会い難いことや極めてまれなことのたとえ。優曇華は三千年
に一度花が咲き、咲くときには転輪聖王が出現するという。
何に及ばんや=反語。この後悔は何に及ぶであろうか、いや何にも及ばない。
(限りない後悔となるであろう)。
なほ=(群)「なを」
無常=万物が常に変転すること。生命のはかないこと。人が死ぬこと。
生死の根元=生死を繰り返す流転輪廻の迷いの元。
つらつらいにしへを案ずるに、*恵心僧都は、『貧は菩提の種。』と御言葉を残し、 *高野上人は、『貧窮は閑居の友。』とのたまふ。
然るに、某(それがし)*戒・定・慧の三学欠けたれども、貧賤孤独の身なり。仏法を求むるに*便りあり。但し道心なくては*生死を離れ難かるべし。妄想の雲しばらく覆ふといへども、*自性の*心月は胸の内に朗らかなり。
(注)恵心僧都=源信。平安中期の天台宗の学僧。「往生要集」を著し、浄土教成立の
基盤を築いた。
戒・定・慧の三学=仏道修行の三つの要目。「戒」は善を修め悪を防ぐこと。
「定」は心身の乱れを静めること。「慧」は真理を証得すること。
以下の部分、(大)(史)「戒・定・慧の三学欠けざれども(史)は『受けざ
れども』、貧賤、俗の身なり。仏法を求むるに便りあり。」
便り=都合。好都合。
生死を=(大)(史)「生死の根源を」。
自性=本来の性質。本性。(大)(史)「生死」。
心月=月のように澄んだ心。
されば、*智者大師の御釈に、『*阿鼻の依正は全く*極聖の自心に処し、*毘盧の身土は*凡下の一念を*越えず。』とのたまへり。
またある人の歌に、
*雲晴れて後の光と思ふなよもとより空にありあけの月
その他、諸経の論談分明なり。
(注)智者大師=天台大師。智顗。中国隋代の僧。天台宗の開祖。
阿鼻の依正=「阿鼻」は阿鼻地獄。「依正」は依報と正報。環境とそこにいる
人。
極聖=極めて聖なるもの。仏。
凡下=凡夫。
越えず=(群)「越」(大)(史)により「越えず」に改めた。
「梁塵秘抄214 (新日本古典文学全集)」に「毘盧の身土のいみじきを 凡下の一
念越えずとか 阿鼻の依正の卑しきも聖の心に任せたり」とある。「沙石集」
に典拠があるようである。
雲晴れて・・・=「国歌大観」によるとこの歌は、「仏国禅師集」所収。仏国禅
師、高峰顕日(1241~1316)は後嵯峨天皇の皇子、禅僧。
*高祖大師の御釈に、『*四重五逆にも過ぎたる罪あり。得難き人身を得て、仏法を*学びざる、是なり。』とのたまへり。
このたび*無明の*塵労を払ひ、*本有の心鏡磨かざらむは、拙き中の拙きなり。但し、道心、昔より今に至るまで仏陀に祈り、神明に申して発得す。
*利生まちまちなれども、就中、*日吉山王は仏法擁護の神として、大乗修行の人を勧め給ふと承る。さるによりて、かの*和光を仰がん。」
と存じて、常に詣でて*生死一大事をぞ祈り申しける。
(注)高祖大師=最澄か。高祖は宗門の開祖のこと。(大)(史)「高野大師」
四重五逆=四重罪(殺生・偸盗・邪淫・妄語)と五逆罪(父を殺すこと・母を殺
すこと・阿羅漢を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること)
無明=無知蒙昧。
塵労=煩悩。
本有の心鏡=生まれながら備わっている鏡のように澄んだ心。
和光=和光垂迹。仏菩薩が本地の威徳の光を隠し、仮の姿をとった神として俗世
に現れること。神となった仏を参拝しようとの意。
生死一大事=生死の迷いを脱して悟りを開くきっかけ。