religionsloveの日記

室町物語です。

弁の草紙⑦ーリリジョンズラブ7ー

その7

 ここに、真鏡坊昌澄という者がいた。愚かな法師ではあったが、書にはいささかの技量を持っていた。弁公はこの法師を召して、天台の四教五時の聖教を書いてほしいと依頼していた。

 日光山には数々の峰があった。神護景雲元年に勝道上人は、補陀落山(二荒山、男体山、日光山とも)を開闢しなさったが、本宮と中禅寺両社とを創建し、崇め奉ったが、その後智光行者と密約して、二荒山に分け入り、山頂に葛城山の霊窟を分祀し奥宮を祀ってとかいうことである。

 弘法大師空海は、その後、滝尾神社を創建して、多くの仏を彫像したという。

 慈覚大師円仁は、都から下って来て、二荒山の新宮を建立し、千手、弥勒、馬頭の霊像を彫って安置し、満願寺という寺号を付けて、神殿には様々な御宝物を納めた。その傍らに、文珠菩薩を置き、この山において宝祚長久(皇室の長久)を守らせようとしたのであるる。

 そのようなわけで、桓武・平城・嵯峨の三帝の勅願寺(帝の願いを体現する寺)として、正一位准三宮日光山大権現の神位を承り未来永劫まで、人民を守る聖地となったのである。

 そこで多くの法師、修験者、在俗の者がこの山々を廻り、いわゆる男体禅定が盛んに行われた。しかし、夏峰禅定はその中でも過酷を極め、遭難者が続出し暫くは廃絶していた。それをこの夏、復興することとなった。

 昌澄法師は、その夏峰の先達を務める事となった。弁公の四教五時筆写の依頼に対してこう返答した。

 「先達に選ばれたからには修行はお断りできません。出峰が無事終わったなら、すぐにもお書き申しましょう。」

 このように断って、五月半ばに入峰して、山林斗藪の行を行い、樹の下や石の上を寝床とし、身命をなげうって、一心不乱に修行していた。弁公が亡くなったとの噂は耳にしたが、山を下りることもできず、山中で篠懸衣(修験者の衣服)の袖を絞って泣いた。

 それでも、日限はあり、文月十四日には成就して山を下り、御墓に参った。しかしいくら臥し嘆いてもなんの甲斐もなく、その翌日から約束していた聖教を書いて、御墓に納めた。そして拙いながら一首の七言絶句を作り仏前に供えた。

  翰墨約君君別離(翰墨君と約し君は別離す)

  無親疎似有親疎(親疎無きは親疎有るに似たり)

  莫嫌紙上班班色(嫌う莫れ紙上班班の色)

  進孝野僧滴涙書(進孝の野僧書に滴涙す)

  「筆と墨で写経することを君と約束し君と別れた。親しくすることはできなかった

  が、心の中では親しく感じていたのだ。書き上げた文はまばらにしみができている

  がそれを嫌だと思わないでおくれ。野卑な僧だが心を込めて書いて、その涙が書に

  滴り落ちたのだ。」

 その夕べに真鏡坊に帰り、嘆きながらまどろんでいると、夢に弁公が現れ、書写した聖教を開きなさって、嬉しそうな表情で、一首お詠みになった。

  筆の跡見るとは知らじ夢の内も交はす言葉の例なければ

  (あなたの書いた聖教を私が読んでいるとは気づかないでしょう。夢の中で生きて

  いる人と死んでいる人が言葉を交わすなどという先例はなかったのですから。)

 いくばくもなく空が明けてゆくように思われ、もしや現の事かとと目を見開き、辺りを窺い見たが、そのような形跡はなく、やはり夢であったのだ。

 昌澄法師は、このような印象的な体験をして、我が身の徳の未だしきことを悔やんで、往生院という坊の蓮台に、弘法大師阿弥陀の霊像を作って安置し、弘法大師の真蹟という妙覚門の額を掲げた。この扁額は今に残っている。

 ある外典を見ると、「一日安閑は値万金」とある。また「大隠は朝市に隠れ、小隠は岩藪に隠るる」と書かれているのが見える。昌澄はいたずらに遁世するのではなく、多くの僧房の中で一日一日を心静かに仏道に励もうとした。しかし弁公への思いは忘れられず、法華経安楽行品の「在於閑処 修摂其心(閑かな所で心を修めよ)」という経文にを悟りを得て、教城坊の傍らに方丈の庵室を結び、朝夕に弁公の御菩提を弔って、二六時中法華経典を読誦していたという。庵室から聞こえてくる「寂莫無人声 読誦此経典(辺りは森として声なくこの経典を読誦する)」という章句を人々はありがたく思ったのである。

 弁公はある人の夢で、「私は鹿島のみかくれ明神が、仮にこの世に出現し、あまたの人を発心させようとしたのだ。確かに皆に告げよ。」と言ったともいう。

 またある人が夢で、一首の歌を示されたという。

  恋しくは上りても見よ弁の石我は権社の神とこそなれ

  (恋しいならば黒髪山に上って弁の石を見よ。私は二荒山権現の神となったのだか

  ら。)

 黒髪山の頂に、弁の岩という霊石がある。富士山の望夫石の古い言い伝えを思うと、似通っている部分もあり、新たな言い伝えになるのだろうか。

 かような不思議な物語があったのである。人は皆、あるいは語り、あるいは嘆いた。このような時、人の唱うべきは、弥陀の名号、願うべきは、極楽浄土であろう、と考え、一向に阿弥陀仏を二度三度と唱えて、目を閉じ塞ぎ、袖を濡らじて極楽浄土を願ったということである。(了)

 

原文

 またここに、*真鏡坊昌澄と言ふ人あり。愚かなれども、筆取る技を得たり。弁公かの法師を召して、天台の*四教五時の名目を書くべき由のたまひけり。

 その夏の頃、この山に峯あり。*神護景雲元年に勝道上人、この山を開闢し給ふに、*本宮と中禅寺両社を崇めおき給ひて後、*智光行者に*密約し給ひて後、葛城の霊窟を移し踏み分け給ひけるとかや。

 *弘法大師、その後、滝尾の霊社作り立て、品品の仏像を刻みおき給ふ。

 *慈覚大師、下り給ひて新宮を建立し給ひ、千手、弥勒、馬頭の霊像を刻み立て、満願寺といふ寺号をなしおき、神殿には程程の御宝物を納め給ふ。傍らにまた、文珠の霊像を作り立て、当山の*宝祚を守らしめ給ひける。

 されば、桓武・平城・嵯峨の三帝の*勅願寺として、*正一位准三宮日光山大権現と御神官参らせ給ひて未来永劫まで、人民の守らせ給へとなり。

 さて、昌澄法師、*夏峰の先達に当たりて、弁公へ返答しけるは、「修行否み難し。出峰の事終わりて、書き奉らん。」と申し乞ひて五月半ばに入峰して、*山林斗藪の行を立て、樹下石上を宿とし、不惜身命に身をなして、一心不乱に修行しけるに、弁公うせ給ひぬと聞こえければ、*篠懸(すずかけ)の袖を絞りける。

 されども、日限りあれば、文月十四日に成就して、御墓に参り臥し嘆けども甲斐なく、翌日よりかの聖教を書き奉り、御墓に納め参らせ、愚かなれども一絶を仏前に供へける。

  翰墨約君君別離 無親疎似有親疎

  莫嫌紙上班班色 進孝野僧滴涙書

 その夕べ我が宿に帰り、嘆き明かしてまどろみたりける夢に、弁公、この聖教を開き給ひて、御嬉しげなりける御顔ばせにて、一首詠ませ給ひける。

  筆の跡見るとは知らじ夢の内も交はす言葉の例なければ

 と詠ませ給ひ、その夢に暫しもなくて明けゆく空に覚えけり。もしやと目を開き、辺りを窺ひけれども、跡形もなくなりにけり。

 昌澄法師、かやうのあはれどもに、*いささかなる身を恨みて、往生院と言ふ蓮台に、弘法大師阿弥陀の霊像を作り立てて、*妙覚門と額をあそばしける。今に絶えざる事どもなり。

 ある外典を見るに、「*一日安閑は値万金」とあり。また「*大隠は朝市に隠れ、小隠は岩藪に隠るる」と言へり。

 しかしただ、*かの傍らに住ままほしく、「*在於閑処 修摂其心」と言ふ経文を悟り得て、方丈なる庵室を結び、朝夕にかの御菩提を弔ひ参らせて、二六時中には法華経典を読み奉る。されば、「*寂莫無人声 読誦此経典」と読み上げけるを聞く人疎かにはせざりけり。

 弁公ある人の夢に、「*鹿島のみかくれ明神の、仮に現じ給ひ、あまたの人を発心させ給ふと確かに告げ。」ともありけり。

 またある人の夢に、一首の歌あり。

  恋しくは上りても見よ弁の石我は権社の神とこそなれ

 黒髪山の頂に、弁の岩と言ふ霊石あり。富士の岳の*望夫石の古語を思へば、こと合ひたる心地して、新たなりける事どもなり。

 かかる不思議どもに、人皆*なみいて、あるは語り、あるは嘆き、よしさらば、人の唱ふべきものは、弥陀の名号、願ふべき業は、*安養の浄刹なるべしと一慶に不惜の阿弥陀仏を両三遍申して、目を閉じ塞ぎ、袖を濡らさぬはなかりけり。

 

(注)真鏡坊昌澄=「天正十壬午歳五月晦日 二十四年中絶ノ夏峯為再興東山真鏡坊昌

    證先達入峯 五十二歳云其以後入峯記ニ不見(補陀落夏峯之次第・奥書)」 

    (日光その歴史と宗教・春秋社による)とあり、澄と證の違いはあるが、実在

    の人物と思われる。「弁の草紙」も実話に取材したのか。平泉澄氏は撰者に比

    定している。確かに昌澄には僧階や敬語が用いられていず、「愚か」「いささ

    かなる身」と卑下した表現で描かれている。

   四教五時の名目=釈迦の教説を四種に整理したものと、五つの時期に分類したも

    の。その経典の筆写を依頼したのか。名目が判じ難い。後出する聖教を指すよ

    うだ。

   本宮と中禅寺両社=二荒山神社には、本社(東照宮西)、中宮中禅寺湖

    岸)、奥宮(男体山山頂)がある。本社と中宮か。

   神護景雲元年=西暦767年。

   智光行者=奈良時代の僧。このエピソードは未確認。二荒山を踏破し、奥宮を建

    立したことが、「智光行者に密約し給ひて後、葛城の霊窟を移し踏み分け」た

    ことになるのか。智光に関わる葛城修験道に関わる霊窟、霊廟を分祀したの

    か。

   弘法大師空海。820年に日光を訪れて、滝尾神社、若子神社を建立したと伝え

    られる。

   慈覚大師=円仁。延暦寺第三代座主。848年日光を訪れて、本堂・薬師堂を建

    立したという。新宮が本堂なら、勝道上人が創建したのは奥宮かも知れない。

   宝祚=位。地位。「天下泰平宝祚長久万民安穏」などと天皇の長久を祈る文脈で

    用いられる。

   勅願寺=勅命によって建立された寺。ここでは勅願(天皇の願い)を具現させる

    ための祈祷の寺、という意味か。

   正一位准三宮=神社に朝廷より与えられた神位(神官)。

   夏峰=夏に男体山に上る山伏の行。男体禅定というらしい。かなりの苦行で、遭

    難者が続出し、永禄元(1558)年~天正10(1582)年の間中断していたと前

    出の真鏡坊の記述にある通り。先達は先導役。

   山林斗藪=山野に寝て修行すること。

   篠懸=修験者が着る服。

   翰墨約君・・・=七言絶句。承句が2ー2-3に区切れず、3-1-3となって

    おり、結句の四字目が孤平である。韻は上平六魚韻だが、起句は支韻で通韻す

    るのだろうか。翰墨は筆と墨。親疎は交際の意味か。進孝はよくわからない。

    聖教を書く約束をしたのに、それを果たさない間に君と別離した。親しく付き

    合うことはなかったが、心では親しみを感じてはいたのだ。紙がまだら模様に

    なっているがいやだと思わないでおくれ。あなたを思う野僧の涙が紙に滴り落

    ちたのだ、との意か。

   いささかなる身=自分の功徳の足りなさを言ったものか。それを恨んでどうした

    のかは行の飛んだ「しかし只」以後の記述か。往生院に籠ったのか。

   妙覚門=日光浄光寺には、弘法大師真蹟の「妙覚門」という扁額があるという。

    浄光寺は往生院と浄光坊が併合する形でできた寺らしい。

   一日安閑は値万金=「一日の命万金よりも重し(徒然草・九十三段)」とある。

    漢籍の典拠があるのか。

   大隠は朝市に隠れ=未熟で十分に悟り得ない隠者は境遇に煩わされることを恐れ

    て山林にのがれ隠れ、大悟徹底した隠者は山林に隠れないで、かえって市中な

    どにかくれ住んでいる。(精選版日本国語大辞典)「小隠隠陵藪 大隠隠朝

    市 伯夷竄首陽 老聃伏柱史(王康琚・反招隠詩)」が典拠。往生院はさほ

    ど山中ではない。

   かの傍ら=弁公が住んだ近く。往生院は教城坊と同じく東谷にあったのか。

   在於閑処 修摂其心=法華経・安楽行品の一節。

   寂莫無人声 読誦此経典=法華経・法師品の一節。

   鹿島のみかくれ明神=鹿島神宮

   望夫石=妻が出征する夫を見送り、そのまま化したと伝えられる石。望夫石伝説

    は広く東アジアに分布するようである。日本では、唐津の鏡山に松浦の佐用

    が大伴狭手比古との別離を悲しんで岩になったとの伝説がある。富士山におけ

    る望夫石伝説は未見。

   なみいて=そろって。

   安養の浄刹=極楽浄土。