religionsloveの日記

室町物語です。

幻夢物語(全編)-リリジョンズラブ3-

 そもそも、世尊の四八相のように美しい月の容貌は、十五夜の雲に隠れ、釈王の十善のように素晴らしい花の姿は、都の内の嵐に散ります。命あるものは必ず滅び、盛りあるものは必ず衰えるのが定めです。

 しかし往々にして、花鳥を賞玩して、無為に春夏を送り、月雪を愛して、空しく秋冬を過ごしてしまいます。これは人や物に執着する悪縁と言えましょう。世俗の人でさえ戒めるべきことです。まして、仏弟子においては言うまでもありません。

 さほど昔のことではございませんが、都大原の奥に、一心三観の古き流派を問い、四教五時の教義を学んだ一人の法師がおりました。その名を幻夢と申します。

  ある時、草の庵の内はひっそりして、五月雨が音も静かに降り続ける折節、幻夢は遥か昔から遠い未来までをつらつれ考えて、

 「私はたまたま優曇華の花のようなありがたい仏法に出会った。それなのに、この生を無為に送ったならば、これ以上の後悔はないだろう。人の無常はわが身のことと思いながら、それでもまだ空しく年月を送り、生死流転の迷いの元を断ち切るよすがも全くない。

 つらつら昔のことを考えると、恵心僧都は、『貧は菩提の種である。』とのお言葉を遺し、高野上人は、『貧窮は閑居の友だ。』とおっしゃった。

 さて、私は、戒・定・慧の三学には欠けているが、貧しく賤しく孤独の身である。仏法を求めるにはかえって好都合である。しかし、確乎とした道心がなければ、生死の迷いを離れることは難しいであろう。今、我が身には邪念の雲に覆われているとはいえ、自らが持つ月のように澄みきった心は、胸の内にはっきりあるのだ。

 であるから、智者大師のお教えでは、『阿鼻地獄の罪人の身や心も、すべて極聖(仏)の心となり、毘盧遮那仏の仏心や仏土も、凡夫がひたすら念ずる心を越えるものではない。』とおっしゃっている。

 またある人の和歌に、

 雲晴れて後の光と思ふなよもとより空にありあけの月

 (雲が晴れて後に光が現れると思ってはいけない。有明の月は元々空にあるのだ。)

 とある。

 その他の諸経の論談でも、どんなに愚かなものにでも、本来仏性が備わっていることは明らかなのである。。

 高祖大師のお教えでは、『四重罪・五逆罪にも勝る罪がある。人として得難い命を受けたのに、仏法を学ばないことだ。』とおっしゃっている。

 こうであるのに、無知蒙昧の煩悩を打ち払って、本来備わっているはずの鏡のように澄んだ心を磨かないのは愚かな中でもひときわ愚かなことだ。そうはいっても道心というものは、昔から今に至るまで、仏陀に祈り、神明に願って得られるものだと聞いている。

 神々によって衆生利益の霊験は様々であろうが、とりわけ日吉山王は仏法擁護の神として、大乗修行の人の発心を促してくださるとうかがっている。だから、かの山王の和光を仰いで、悟りに至らせていただこう。」

 と思って、それ以来、常に日吉権現に詣でて、生死の一大事をお祈り申し上げていました。

 

 ある時、大宮権現の前で祈願して、

 「実にこの神は、衆生を救おうと願い立って、釈迦如来がお姿を変えられた、他の神々とは違い、一段と優れた神様である。願わくは私、幻夢の志すところを円満に成就させてください。」

 と願立てしましたところ、社殿がぐらぐら揺れ動き、本殿の中から、

 「自らが持つ心月を明らかにさせたいと思うならば、根本中堂の薬師如来に祈りなさい。」

 と夢うつつともなく、御示現の声がしたので、幻夢は非常に歓喜しました。

 それ以来、ひたすら根本中堂に参詣し、薬師如来の十二大願を仰いで、祈り念ずることに余念がありませんでした。

 そうしているうちに、十一月七日、明日は薬師如来のご縁日であり、さらに、円頓授戒の機会でありましたので、夜中に大原の草庵を出立して根本中堂に参詣しました。

 「畏れ多くもこの如来は、伝教大師が手ずから作り、桓武天皇が御建立なさった後は、今現在に至るまで、年月久しく法灯を掲げる人々が絶えません。比類なき霊像です。どうか仏弟子であるこの私の願うところを成就させてください。」

 と、広縁に座って、心をこめて祈るのでありました。

 その後、戒壇院に参って授戒に儀式も無事に終えて山を下りようとしました。縁日と授戒が重なって、諸国の道俗貴賤が幾千万と数知れず群がり集まっているのを見ておりますと、空が急に暗くなり、雪が降ってまいりました。

 雪を避けて四王院に立ち寄りましたところ、そこに、二人の法師と同行している、遠国から来たと思われる、年の程十四五歳の稚児が、これも雪の降りやむのを待って立ち寄っていたのでございます。この稚児はたいそう優雅でしとやかで、旅の疲れであろうか、なんとなくふさぎ込んでいる様子ですが、艶やかで美しく、粧いも華やかに見えます。

 なすこともなく時が過ぎましたが、雪はまだやみません。この稚児は連れの法師に向かって言いました。

 「東は志賀の浦でしょう。南に見えた山は平忠度が、『さざ波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな』と詠んだ旧跡でしょうか。今積もっている雪の梢が、山桜が咲いているように見えて興が催されます。ああ、どなたか、発句をお詠みください。言い捨ての即興の連歌をして遊びましょう。」

 そう言いますので、法師たちは、

 「我らが発句を詠んでも、おもしろくも何ともありません。若君がお詠みなされ。」

 と勧めるので、それならば、とりあえず発句は、としばし案じて、

 雪ぞ咲く冬ながら山の花ざかり

 (雪が桜のように咲いて冬なのに長等《ながら》山は花ざかりのようであることよ)

 と詠んだので、連れの法師が幻夢の方を見て、

 「若君が発句を詠まれましたが、私共は平素、句を付け申していますので、御僧が賞玩なさって脇句をお付けなされ。」

 と言いますので、幻夢は、

 「そうもしたいと思っていましたが、そうはいっても私めは無骨の極みで、御遠慮いたしていたのですが、そのようにおっしゃってくださるのならば、お笑い草となるでしょうが、はばかりながら。」

 と言って、

 震へを隠す霜のさくら木

 (霜の花が咲いた桜の木は震えを隠しているようだ)

 と脇句を付けたので、面々はとても感じ入りながら、連歌を楽しみました。

 すでに雪も晴れ、日も暮れ方になり、この稚児たちは東坂本に下る予定だといいましたので、幻夢は一人の法師に向かって、

 「そもそもどちらからお上りになったのですか。」

 と尋ねますと、

 「旅の身ですので名のるほどのことではございませんが、かりそめにもこのようにお付き合いしたのですから、隠すこともないでしょう。下野の国日光山の住僧でございます。この若君が授戒するために登山したので、お供して参ったのでございます。明日は本国へ帰るつもりです。」

 などと語りますので、幻夢は、

 「仰せの通りことわざにも、『一樹の陰に宿り、一河の流れを酌むも多生の縁浅からず』と伺っております。今日ここでめぐり逢い、語り合いましたのも、全くすべて前世の宿縁と思われます。

 このままでは、あまりに名残惜しく存じます。せめて明日だけでもご滞留なさって、疲れた足をお休めなさったらいかがと存じます。私めもご同道いたしたく存じますが、毎日のお勤めを怠ることもできませんので、大原というところの粗末な草庵に帰らねばなりません。

 明日は必ず早朝から伺って、もう一度若君の連歌をお聞きして、生前の思い出としたく思います。」

 などと、半ば強引に言うと、連れの法師は、

 「貴僧のお気持ちがとても深いことはお察しいたしました。それでは明日だけは、坂本にとどまりましょう。きっとおいでください。宿所は、生源寺の辻で、日光山の授戒者の宿とお尋ねください。」

 と言って、別れたのでございます。

 幻夢は知らず知らず心も浮かれ、足が地につかず、自分の房に帰って行きましたが、道すがら、「たとえ日々の勤めは欠くことになっても、あの方と連れ立って東坂本に下ればよかった。」と思います。そうはいっても引き返すことはできず、先刻の稚児の面影に魅かれた心ばかりを後に残して、身は大原へと帰り着きました。

  いつものように持仏堂に入り、閼伽の水を酌み、花を供えて壇上に向かい、一心に念ずるのですが、恋しい人を思う心ばかりがまとわりついて、そうでなくても嵐が激しい冬の夜を過ごすことはつらく、流す涙は墨染めの衣を凍らすほどで、「もしも稚児に恋い焦がれている私を、見とがめる人がいるならば、反論することもできない、僧侶というつらい立場だなあ。」と思い詫びるのです。

 起きもせず、かといって寝ることもできず、寒い夜を明かします。逢瀬であれば、別れを告げる夜明けの鐘の音はさぞやつらかろうけれども、一人寝の朝にはかえって嬉しく、袖にためた涙とともに、うきうきした心で草庵を出て、一歩でも早くと急ぎつつ、まずは山上へ登り、そして東坂本へ下り着きました。

 約束の通りに生源寺の辻で、

 「日光山の授戒者の宿はこのあたりですか。」

 と尋ねますと、ある家から、

 「どちらからお尋ねになったのですか。」

 と声がかかりますので、

 「大原からです。」

 と答えました。

 「そうでございますか。こちらは日光山の授戒者と申す方がお泊りになっていたのですが、『大原から来た、といって訪ねてくる方がいらしたら、これを差し上げてください。』と言って手紙を託されました。」

 と言って手渡しましたので、幻夢は茫然として、現実のこととも思われず、涙ながらに開いてみますと、

 「昨日のご対面は、本当に、『一樹の陰』の例えではありませんが、縁浅からず思われまして、せめて今日ばかりはとどまりたいとは思いましたが、浮き世の常で、思うに任せない急な知らせが参りまして、急いで旅立たなければならなくなりました。私の名残惜しさはお察しください。

 もしも、思い立って東国に旅する機会がございましたならば、日光山の竹林房で帥(そつ・そち)もしくは侍従とお尋ねください。」

 と書いてあって、末尾に一首の歌が添えられてありました。

 夜もすがら旅寝の枕さめ侘びて結ばぬ夢に面影もなし  花松

 (旅寝に枕していても、あなたに会えない侘しさで一晩中目が覚め続けていて、夢を

  結ぶこともできないので、あなたの面影も浮かびません  花松)

 と書かれてあるのです。

 「これはあの若君の筆のすさびか。」と、思いは増すばかりで、その面影が心から離れず、やるせない恋心に、「この身は、なんともつらいことになったのか。」と、こらえきれずに雨のごとく涙を流し、墨染めの衣の袖も、絞るほどになりました。

 志賀寺上人が、宇多天皇の妃、京極の御息所に許されない恋心を抱いたという故事も、今は自分の事のように思われるのです。

 しかし、こうしているわけにもいきませんので、泣く泣く大原の僧房に帰りました。

 それ以来、仏道に向かう情熱も冷めて、「早く、あの稚児、花松丸君に、も一度会わせてください。」と神仏にも祈り、ただ明け暮れは、この手紙を繰り返し読むばかりで、念誦読経など放り出してしまったのでございます。

 ほどなく、月日も過ぎていきます。年も改まり春になれば、軒端に近い梅の枝に、羽ばたく鶯の初音もすばらしく、それを追って咲く桜を見るにつけても、去年の冬に雪の梢を、桜の花と見立て眺めた人のことをばかり思い焦がれ、その煙が雲となり、雨となり、すべてのものが愛欲にとらわれる妄念となってしまうと思われるのでした。

 幻夢としても空しく月日を送るにはせんないことで、「下野国とかに下って、どうにかして尋ねて、もう一度若君に会いたいものだ。」と思い立ちました。麻の衣に菅の笠という身なりで、憂き節の多い竹の杖をつき、尽きない思いを道しるべとして、遥かに遠い東国への道に浮かれ出ます。幻夢も我ながら愚かなこととは思うのですが、やはり恋しい人の面影が眼前を去らないで、志賀の歌枕、鏡山を通り過ぎても、鏡も悲しみの涙に曇るようで、どうにも忘れることはできません。

 夜を日に継いで行きまして、三月の十五日の酉の刻には日光山に着いたのでございます。そしてすぐにも竹林房を訪ねようとしたのですが、日光山は僧房の数六、七百にも及ぶ大きなお山でして、たやすく見つけることはできません。春の長い日も暮れてしまいますが、泊まるつてもないのでした。

 本堂の前に佇んでおりますと、法師が一人通り過ぎます。

 「この山にあるという竹林房とはどちらでしょうか。」

 と尋ねますと、

 「それがしも竹林房は存じておりますが、ここからはだいぶ遠いところでございますよ。それにこんな夜中に旅人などが訪ねて行ってもきっと門を開けることはないでしょう。

 それにこの輪王寺は規律の厳しいところでして、あなたのように夜中にうろついているときっととがめられますよ。今夜はどこでもいいからお泊りなさって、夜が明けてからお尋ねなされよ。」

 といいますので、

 「どこで宿を貸してくれましょうか。」

 と問いますと、

 「このような夜更け、人も寝静まっていますから、宿を貸してくれる人もいないでしょうなあ。そうそう、ここから五町程峰の方に行けばお堂がございます。そこで夜を明かしなされ。あそこに火が光っているでしょう。そこですよ。

 申し訳ございません。自分勝手が許されるなら私の房へ泊めてやることもできるのですが、何しろご禁制なので・・・」

 と言い残して本堂の方へ行ってしまうのでした。

 幻夢はいよいよ心細くて、涙ながらに見知らぬ山路を分け入って、灯りを目印に行くと、五町程と教えられたものの、二十町程行ってやっとそのお堂に着きました。

 見ると、長い年月誰も住んでいませんようで、そうはいっても香や花、灯明などは寺中の誰かが常に供えていると見えて、灯りが仄かに揺れているのです。

 正面に回って御本尊を拝みますと、これは阿弥陀三尊です。曇り切ってはいない春の朧月は、仏の白毫のような柔らかな光を添え、春の嵐に散る花びらは、四智円明の悟りで飾っているように厳かです。実に神々しくも趣深いのではありますが、それにつけても恋しい人のことばかりが思い出されて、旅寝の枕もやるせなく感じる折節、麓の方から笛の音が聞こえてきました。不思議にも妙なる調べで、天人がお現れなさったのかと思われて、しばらくは聞き入っていましたが、次第に笛の音は近付いてきました。

 「この道は常に人が行きかうとも思われない。それに近くに住む家もなさそうだのに不思議なことだ。」

 と思っていると、この音色の主は阿弥陀堂の前に来て、しばらく笛を吹いていました。

 いうに言われない趣深い音色で、外に出てその姿を見たいと思いますが、一方では恐ろしくぞくぞくするようでもあり、心落ち着けて、どうしたことかと気にしていますと、足音静かに歩み寄って、妻戸を押し開いて礼堂に上がってきます。

 見ると、刺繍の施した練絹の小袖に精好の大口袴をはいて、萌黄縅の胴丸に、草摺りを長く着こなして、上には白練りを被って、金作りの太刀を腰にした、十六歳ばかりの稚児が立っています。

 「もしや天魔・鬼神が私を苦しめようとして来たのであろうか。ままよ、恋しい人のために殺されるのならば、是非ないことだ。」

 と思い、よくよくみると、心を尽くして恋焦がれた花松殿ではござらぬか。

 意外なことに茫然としていますとこの稚児は、

 「旅の御僧、なんとなく会った気がしますが、はっきり見たわけでもない春の夜の夢の浮橋のようで定かではありません。どちらの方が、このどこに何があるかわからない山に、呼子鳥はいましても、呼んでくれる導きもないのに、入っていらっしゃたのですか。」

 と言いますので、

 「私は都近く大原という所の者でございます。つらく思う浮草のような我が身は、根を絶えきって水に誘われるように、浮かれ歩いているのです。

 この山に知っている人がいて訪ねたのですが、逢うことが難しく、旅寝の枕を貸してくれる人もいないので、この堂で一夜を明かそうと泊っているのです。」

 と答えますと、

 「そもそも、この山にはどのような方をお尋ねになったのですか。」

 とおっしゃいますので、

 「竹林房の、帥の公と侍従の公と申す方を尋ねて参りました。」

 と言うと、

 「それでは去年の冬に、比叡山で雪の晴れるのを待とうと、四王院に立ち寄って、言い捨ての連歌をいたした、大原の幻夢公がいらしたのですか。」

 と答えます。

 「その通りです。あなたのためにここまで尋ねて下りましたが、前世の奇縁が尽きなかったものと見えて、お会いできたことはうれしいことです。」

 と言って、去年の手紙をも取り出して、ただただ泣くのでした。

 さて、稚児がおっしゃるには、

 「私めも、夕暮れを眺めるにつけても、三夕の歌ではありませんが、秋でなくても悲しくて、季節がら、春の有明の月は朧にかすんで、桜の花の明るさも、涙のせいで曇っているのだと愚痴を言い、つらさを託して笛を吹いて心を澄ましているところに、『都より竹林房をお尋ねの旅の僧がいらっしゃる。』とのこと、ある人が語ったので、もしやあなたのことかと、人目も気にせず、白露をかき分け、山分け衣の袖を濡らして、ここまで参りました。

 さあ一緒に我が房に行きましょう。」

 と言って袖を引きなさると、

 「長旅のやつれた姿、恥ずかしい限りです。あなたにお目にかかれたらそれで十分です。もうこれで都に帰りましょう。」

 と言いますが、花松は重ねて言います。

 「粗末な身なりは旅の常、どうして見苦しいことでありましょう。ここまでお尋ねくださったあなたのお心はさぞ深いものだと思っていましたのに、私の申し出をお断りになるとは、今までおっしゃったことはみな嘘いつわりなのですか。」

 と恨み顔に強いて誘いますので、

 「それではともかく、あなたの仰せに従いましょう。」

 と言います。花松の言葉に幻夢は内心ずっと続いていたつらい気持ちも忘れ果てて喜び、稚児の後について歩いていくのでした。

 房に着くと夜はすでに更けているのに、人々は閨にも入らないで大勢の声が聞こえてきます。

 「こちらが竹林房です。少々お待ちください。」

 と言って稚児殿は中に入りなさる。しばらく待っていますと、

 「こちらです。」

 と言うのです。幻夢は、

 「これほど立派な所ならば、童子や同宿の僧などもいるはずなのに、花松殿があれこれ自分でするのは不思議なことだなあ。それともただ人目を憚ってそうするのかな。」

 と思って中に入ると、六間の広さの部屋をことさらきちんと整えて、紫檀の卓(しょく)に「没故花覚聖霊位」と書いてある位牌を立てて、その前には硯と懐紙を取り添えてある、とても立派な座敷へと案内されたのでございます。房内には人の物音がするのですが、この座敷にはこの稚児より他に人はいません。

 花松殿が言うには、

 「お師匠様は今夜にもお会いしてご挨拶申したいとのことですが、どうしてもやらなければならないことがございまして、明日ご対面したいとのことでございます。

 数奇な縁でございましょうか、叡山でかりそめにもお会い申して後は、恥ずかしい限りですが、あなたのことが片時も忘れられず、風の便りにでも聞きたいと思っていました。このような所にこうしてお下りいただいて、今宵思いがけずお会いできるのも、お互いが深く思い合っていたからだと存じます。

 風流を好む私たちですので、是非に連歌を一折でもいたしましょう。」

 と卓の上にあった硯と懐紙を取り寄せて、

 「私が執筆(しゅひつ)をいたしましょう。発句をお詠みください。」

 と言いますのを、幻夢は何度も辞退して、

 「梅若殿にご発句いただきたいと思います。かねてからずっと思っていたのですよ。」

 と申しますので、それならばと、

 夜嵐に明日見ぬ花の別れかな

 (夜に嵐が吹いて明日を見ないで桜の花は散り別れてしまうのだなあ)

 と詠んだので幻夢は、

 「このように申すのは不躾かもしれませんが、いつの間にか心安く思うようになりましたので、お頼みするのですが、そのご発句はふさわしくない表現ですので、お直しした方がよいのではないでしょうか。」

 と言いますと、花松殿がおっしゃるには、

 「そういう言い分もございますでしょうが、人の世が無常であることは、今に始まったことではないけれども、今あるからといって明日まで残ることが難しいものといえば桜の花ですよ。ですから文選には、『時無重到 花不再陽(この時は二度と来ない、この花は再び咲かない)』とあるのでしょうか。花も紅葉もいつまでもあるでしょうか。人の世もまたそうです。『千年の松の緑も最後には朽ちてしまう世の習い、松に咲き添う春の花が、夜中の嵐に誘われれば、明日を見ずに散り別れてしまうだろう。』と思いましたので、このように詠んだのです。」

 と答えますので、幻夢は実にすばらしく優雅なお心であるなあと思います。

 こうして連歌もほどなく終わりますと、花松殿は腰から笛を取り出し、この懐紙に巻き付けて幻夢に手渡すと、消えるようにいなくなったのでございました。

 幻夢は夢ともうつつともわかりかね、

 「もしかしたら天魔などが、私を悩まそうとしているのであろうか。それにこのまま房の中にいて、誰かに見られたらどんな目にあうだろう。急いでどこかへ逃げよう。」

 と思案して、間もなく夜が明けるのでそれを待って出ようとは思うのですが、たかぶった気持ちがすっかり冷え切って、ただぼんやりと笛と懐紙を持ったなり、動くこともためらわれていたのでした。

 するとそこに、この房の主と見えます齢八十ばかりの老僧が入ってきました。眉は霜がかかったように白く垂れ下がり、額の皺は波打つように幾筋にも湛えています。濃い墨染めの衣に香色の袈裟を掛けて、実に沈痛な面持ちで現れるのでした。

 幻夢を見て不審げに、

 「あなたはどこの方でいらっしゃるのじゃ。」

 とおっしゃる。

 「わたしは、都大原の者です。」

 「だからどうして大原の人がここにおるのか。合点がゆかぬ。」

 「いや、実に不思議なことがござったのです。その一部始終をお話いたそう。お聞きくだされ。」

 「何事だというのじゃ。とくとくお語りなされ。」

 「そもそもこのぼうは竹林房と申す所でございますか。」

 「まちがいござらぬ。」

 「去年の十一月八日に授戒の為に、花松殿と申す少年を連れて、帥の公・

侍従の公、を連れて比叡山に登りましたか。]

 「そういうことはござった。」

 とおっしゃるので幻夢は、四王院に立ち寄って言い捨ての連歌をして以来、この暁に花松が消え去るようにいなくなったまでの不思議をつぶさに語って、笛と懐紙を差し出しましたので、老僧は涙にむせんでしばし言の葉もございませんでした。

 しばらくして、

 「帥の公・侍従の公おいでなさい。」

 と言うと、二人の法師がすぐに出てきました。

 「本当にこの客僧とお会い申したのか。」

 とおっしゃると、

 「そうでございます。花松殿のご授戒の時に、偶然に対面しました。」

 と言ってこの二人も、袂を顔に押し当てて泣くばかりです。

 そうして老僧が言うには、

 「客僧よ、お聞きください。

 この若君と申すは、この国の御家人、大胡左近将監家詮(だいごさこんのしょうげんいえあき)と申す人の子でござる。七歳の時、家詮は同国の住人小野寺右兵衛尉親任(おのでらうひょうえのじょうちかただ)と申す者と闘諍があって、討たれてしまったのです。

 それ以降、花松丸は常に、

 『ああ、大人となって親の仇を打ち取って無念を晴らして、追善供養をしたいものだ。』

 絶えず願っているようなので、

 『仏門に入って私の弟子になったからには、仏の定めに従って、決して仇討ちなどは思ってはいかん。出家得道して、ひたすら亡き父の精霊の菩提を弔うこそ正しい道じゃ。』

 といつも教え諭しておりまして、花松も、『どうであれ師匠の命には従いましょう。』と承知して仏道に打ち込んで年月を過ごしていたと思っていたのですが、今月の十日、それは桜の花盛りで、花松は、古里に帰って一族にも会い、また、知人も多くいるので、連歌などを催して遊びたく、暇を欲しいと切に申し入れるので、これまでずいぶんと長く山にとどまっていたので、それならたまには慰みごとをするのもよかろうと、

 『楽しみが果てたらすぐに山に上って参られよ。決して日頃思っているあのことはしてはならぬぞ。釈氏の門に入ったからには、明け暮れ、ひたすら仏法を思って、父母の後世を弔うことこそ、本当の孝子であるぞ。』

 と教え諭したのじゃが、悲しいことに無駄となってしもうた。

 こうして花松は暇乞いをして、『すぐに帰って参ります。』と出かけて行ったのじゃが、翌日の辰の刻ほどに、花松が召し使っていた中童子が、ひどく慌てて走ってきたので、『何事じゃ。』と尋ねると、涙をはらはら落として、

 『花松殿は、昨夜親の仇小野寺殿の館へ忍び入りなさって、やすやすと仇を討ち取って、館をも焼き払いましたが、ご自身も討ち死になされました。』

 と言ってその場につっぷして嘆いておるのじゃ。

 夢とも現実とも思われぬ。前日暇乞いして出て行った時の面影が目を離れぬ。そのような思いであったのなら、名残惜しんで心から止めたであろうに。神ならぬ身の悲しさ、これが永遠の別れとは、どうして知れようか。」

 最後まで語り切れずに、袖を絞らんばかりに泣きますので、幻夢も涙を添える他に術はありません。

 「花松は童に託して薄様に書かれた二通の手紙を遺しました。一通は私宛です。

 『それにしても生前は、師匠と頼み、弟子となりました。前世からの宿縁は忘れられないことです。命ながらえずっとお仕えしたいとも思うのですが、大人となって親の仇を討ち取り無念を晴らし、追善菩提に供えたいと連々と抱いていた思いは身を離れず、このようなこととなりました。

 それに、生者必滅 会者定離はこの世の習いでございますから、決してお嘆きなさることなく、ただ一度の回向でも給われば幸いです。』

 と書き留めてありました。その水茎(みずぐき)が実に涙を誘うのでござる。

 さて一方の老母への手紙には、書き綴った言葉の最後に一首の歌が添えてありました。

 思ひやるさぞや袂の時雨るらんまたと言ふべき別れならねば

 (思いやります。きっと袂が時雨れるように濡れていることでしょう。また会いまし

  ょうというようなな別れではありませんので。)

 老母殿はこの手紙を見て、天を仰ぎ地に伏して悶え焦がれ、

 『どうして親の私を残して死んでしまったの。』

 とのお嘆き、御推察くだされ。

 このままという訳にもいかぬので、泣く泣く供養いたしました。今日は初七日でござる。

 亡き稚児が好きであったので、この笛を棺に入れたのじゃが、あなたのお心ざしの深さゆえに、あなたにも亡きあとを弔ってほしいと、笛を持ってこの世の名残りに、参ったのであろうか。

 連歌も花松が執心した道なので、初七日の追善にと、懐紙に硯を添えて昨日より霊前に供えておりました。生前に好んでいたことなので、貴僧が来たと知って、精霊となった現れて連歌を楽しんだのでござろう。発句に無常を詠んだのも、この世にいない人だからじゃろう。」

 と語り続けて、声も惜しまず泣くので、幻夢も涙の玉の緒の絶えることなく、互いに泣きあう様は、たとえようもないほどでした。

 幻夢は思いました。

 「きっと愛着恋慕の思いによって、死んだ人に会って夢うつつともわからない物語をしたのだ。なんとはかないことよ。 

 考えてみれば、人が死ぬのは必定のこと。だから、折に触れて比叡山王根本中堂の薬師如来に後世の一大事をお祈り申し上げていたのに、花松殿を見染めて以来、愚かな自分に戻ってしまった。なんと残念なことか。

 それに稚児を愛することは、『法華経安楽行品第十四』にも近づけてはならないことと禁止され、恵心僧都の『往生要集』では、『正法念経』を引用して、衆合地獄に堕ちる行為だと書いてある。これこそ迷界を果てしなく廻り続ける生死流転の根元ではないか。

 しかし、このようなつらい目にあうのは、すべて明神仏陀の方便ではなかろうか。仏になるためのきっかけは所縁から起こるという。」

 と、一方では悦び、一方では悲しんだのですが、即座に決意して、大原の庵をたたみ、高野山へと上り、奥の院の傍らに隠棲しました。

 心静かに諸々の聖典を看経しますと、どれも阿弥陀仏を讃え、西方浄土を優れた地としています。すべての経論が説くところ、念仏を勧めているのです。

 「きっとこれは、法・報・応の三身も、空・仮・中の三諦も、阿弥陀の三尊に象徴されているのだ。だから、弥陀の名号、『南無阿弥陀仏』を敬い、九品浄土への往生を願おう。

 浄土三部経にもそのことは書かれている。この穢れた末世にふさわしい教えである。

 かつて法然上人は、称名念仏者となって、ひたすら西方浄土に向かって弥陀の本願を信じて念仏したというではないか。」

 と思い、ひたすら念仏三昧に打ち込みました。

 次の年の三月十日、その日は花松殿が亡くなった日なので、幻夢は奥の院に参詣して、御影堂の前で一心に念仏し、「花岳聖霊ないし自他法界 平等利生(花覚の霊位及び法界すべての衆生を等しく利益し給え)」と供養していますと、粗末な身なりの二十歳ほどの墨染めの衣をまとった法師が、同じように参詣してきまして、後生一大事を祈っています。

 「ああ、立派なことだ。まだ年若く見えるのに、これほどにまで後生を恐れて祈るとは素晴らしいことだなあ。」

 と感心していましたが、辺りに人がいないと思ったのでしょうか、ひとりごちておりました。

 「この世は無情であることよ。去年の今夜、親を討たれてその場で仇を討ち返したのも、夢のように思われる。それにしても、仇とは言いながら、あの稚児の面影は忘れられない。ああ、不憫なことよ。」

 と言って、涙を流しながら念仏を唱え続けているのです。

 幻夢はこれを聞いて不思議に思い、

 「そこにいらっしゃる御僧よ、あなたはどのような因縁で出家し、本国はどこの人なのですか。発心のいわれを窺いたく思います。

 畏れ多くも厚かましくもごさいますが、世を厭って出家したからには、何事をも残らず懺悔するのがよろしいかと存じます。」

 と言いますと、

 「愚僧は下野の住人、小野寺右衛門尉親任と申す者の子、小太郎親親次と申す者でございます。十九歳になりました。

 実は去年の今夜、同じ国の住人、大胡左近将監の息子、花松丸と申す稚児に、親任は、親の仇として討たれてしまったのです。私はその折、他所におりましたが、このことを聞いて急ぎ走り行き、仇は遥か遠く落ち延びて居たのですが、追いかけて討ち取ったのでございます。

 その時は、ひどく喜んだのですが、次の日死骸を見ると、年は十六歳ほどの、実に美しい稚児であり、余りに痛ましかったのでした。

 私は思ったのです、

 『悲しいことだ。もし武士の家に生まれなければ、このようなことにはならなかったのに。この世は電光朝露の如く、実に夢のようなものです。この憂き世を厭って捨てねばなるまい。きっとこの花松丸は仏道に導いてくれる善知識に違いない。されば、親の供養と稚児の菩提、両方の弔いをしよう。』

 このようなわけで、私は、その夜の内に故郷を捨ててこの山に上り、元結を切って、ひたすら念仏をして、西方浄土を心がけておりました。」

 今夜はその人らの討ち死にした夜で、ここで妄念を断ち切って、悟りの境界に入るよう祈っている旨を詳しく語るので、幻夢もすっかり涙にくれるのでした。

 少僧は言います、

 「このつらい世には、悲しいことは多いとは申しながら、類ない話ですので、涙を流すことはもっとものことです。それにしても、このように深く嘆くのは不思議に存じます。何かご事情があるのでしょうか、気にかかります。

 私はあなたの仰せに従って、懺悔は滅罪であると思い、ありのままに申し上げました。あなたも発心の所以をお語りなさってはいかがですか。」

 と言いますと、

 「申すも恥ずかしいことですが、『普賢観経』には、『懺悔をすれば六根が清浄される。』と書かれています。懺悔といっても様々あるでしょうが、この私の懺悔こそ、有相(うそう)の懺悔ともいうべきものでしょう。世にも珍しい懺悔でしょうか。ありのままに申し上げましょう。」

 と言って、一昨年の冬に花松殿を見染めて以来、暁の別れ、発心して修行する今に至るまでの事を、語り続けます。

 二人の僧は向き合って、互いに涙にむせんでいるのでありました。

 ある書物に、「念が起こるのを病とし、その念に執着しないのを薬とする。」とあります。二人は、遥か昔から流転し続ける中で生得した己らの業因を懺悔して再出発したのです。

 それ以後は、互いが互いの師範となって、称名念仏し、西方浄土へ赴く(入寂する)時も同じく上品の蓮台に乗り、一緒に七重宝樹の木の本に行こうと語り合いました。

 多生曠劫の宿縁でありましょうか、大原の幻夢は七十七歳、下野の入道は六十歳の時、端座合掌して、十遍称名念仏すると、虚空から花が降り、雲間から音楽が聞こえ、阿弥陀三尊が来迎し、光明があまねく十方世界を照らして、かねてからの願いであった往生を速やかに遂げたという事です。

 仏の方便や神明の利生は今に始まったことではありません。

 しかし、幻夢がひたすら日吉山王根本中堂の薬師如来仏道の悟りを祈ったことによって、二人が菩提心を起こしたことは、実にすばらしいことです。

 あの花松殿は、文殊菩薩の生まれ変わりだと申し伝えられております。衆生済度のために、仮の身をこの世に現じなさったのかと、ありがたく思われます。

 このような昔物語は、狂言綺語の戯れ事とは申しながら、定めなきこの世の有様を、嵐にはかなく消え散る花のような花松殿になぞらえています。またたく灯火が風に消えてしまえば、まことに愚かな人の心は、その後の世の闇の中に立ち迷ってしまうでしょう。花松殿は、幻夢にとって、無知迷妄の雲を払い、闇の中から導き出して、真理の月に出会わせるための方便だったのです。

 空しく月日を送り、あっという間の病気にかかって、臨終を迎えんとする時、あたかも、のどが渇いてから、井戸を掘ろうとするようなまねをするのは、無念なことです。若きも老いたるも、まだ時があるからと後回しにしないで、ひたすらただ今に、生死を恐れ、菩提心を起こすべきなのです。

 「金剛経」にも「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観(この世の現象というものを夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようである。露のようであり、また、電光のようでもある。このように観じなければいけない。)」とあるのです。まことに慎みなさい、恐れなさい。

 

 以下に「幻夢物語」の原文と注を掲載します。本文は、続群書類従本に拠りました。読みやすいようひらがなを漢字に改め(自分の解釈による改変なので、異論があるかもしれません。)、送り仮名を補い、句読点を施しました。漢字は新字体を用いました。仮名遣いが歴史的仮名遣いと異なっている場合は、歴史的仮名遣いに改めました。ただしすべてではありません。係り結びの結びが流れていたり、二段活用が一段化しているところは改めていません。

 室町物語大成本(内閣文庫本)、続史籍集覧本を参照して、主な異同を注に記しました。その際、続群書類従本は(群)、室町物語大成本は(大)、続史籍集覧本は(史)と省略して書きました。

原文

 夫れ*世尊*四八の月のかほばせは、*三五の夜の雲に隠れ、*釈王*十善の花のかたちは*九重の嵐に散り、生あるものは必ず滅し、盛りあるものは必ず衰ふる習ひなり。

 しかれども、花鳥をもてあそんで、いたづらに春夏を送り、月雪を愛して、むなしく秋冬を過ごし来ぬ、これ、*愛着の*縁たり。世俗なほ戒しむべし。況や仏子においてをや。

 ここに中頃、都大原の奥に、*一心三観の*旧流をうかがひ、*四教五時の*配立を学びし沙門一人あり。その名を幻夢と号す。

(注)世尊=仏を敬って言う語。

   四八=四八の相。三十二相。仏の備えている三十二の優れた相。

   三五の夜=十五夜

   釈王=釈迦のこと。世尊←→釈王の対句は、(大)では世間←→珍(宝?)光、

    (史)では世間←→現光となっている。珍光、現光は未詳。

   十善=十悪(殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見)

    を犯さない善行。

   九重=①宮中。②都。

   愛して=(群)では、「あひして」とあるが、文脈により改めた。

   愛着=あいじゃく。愛情に執着すること。人や物にとらわれること。

   縁たり=(大)(史)因縁なり。

   一心三観=「一心」は世界を表し出すものとしての心。唯心。「三観」は三種の

    観法(真理を観察し、明らかにする方法)。

   旧流=未詳。古い流派、昔からの教えの意か。(大)(史)「ことはり」。

   四教五時=「四教」は釈迦一代の教説を四種に整理したもの。「五時」は釈迦一

    代の教説を五つの時期的展開に分類したもの。

   配立=(大)(史)は「はいりう」。配当、配置。「廃立」なら、仏語で棄てる

    ことと立てること。

   沙門=僧侶。法師。

 ある時、草の庵の内幽かにして、梅の雨の音静かなる折節に、*無始曠劫より*未来永永までの事を案ずるに、

 「たまたままれに会ひ難き*曇華の仏法に会へり。今生いたづらに送りなば、後悔*何に及ばんや。人間の*無常は身の上の事ぞと思ひながら、*なほいたづらに年月を送り、*生死の根元をさらに切るべき便りなし。

(注)無始曠劫=始めを知ることができない過ぎ去った遠い昔。

   未来永永=未来永久にわたること。

   曇華=優曇華。仏に会い難いことや極めてまれなことのたとえ。優曇華は三千年

    に一度花が咲き、咲くときには転輪聖王が出現するという。

   何に及ばんや=反語。この後悔は何に及ぶであろうか、いや何にも及ばない。

    (限りない後悔となるであろう)。  

   なほ=(群)「なを」

   無常=万物が常に変転すること。生命のはかないこと。人が死ぬこと。

   生死の根元=生死を繰り返す流転輪廻の迷いの元。

 つらつらいにしへを案ずるに、*恵心僧都は、『貧は菩提の種。』と御言葉を残し、 *高野上人は、『貧窮は閑居の友。』とのたまふ。

 然るに、某(それがし)*戒・定・慧の三学欠けたれども、貧賤孤独の身なり。仏法を求むるに*便りあり。但し道心なくては*生死を離れ難かるべし。妄想の雲しばらく覆ふといへども、*自性の*心月は胸の内に朗らかなり。

(注)恵心僧都源信。平安中期の天台宗の学僧。「往生要集」を著し、浄土教成立の

    基盤を築いた。

   高野上人=空海のことか。(大)(史)「空也上人」。

   戒・定・慧の三学=仏道修行の三つの要目。「戒」は善を修め悪を防ぐこと。

    「定」は心身の乱れを静めること。「慧」は真理を証得すること。

   以下の部分、(大)(史)「戒・定・慧の三学欠けざれども(史)は『受けざ

    れども』、貧賤、俗の身なり。仏法を求むるに便りあり。」

   便り=都合。好都合。

   生死を=(大)(史)「生死の根源を」。

   自性=本来の性質。本性。(大)(史)「生死」。

   心月=月のように澄んだ心。

 されば、*智者大師の御釈に、『*阿鼻の依正は全く*極聖の自心に処し、*毘盧の身土は*凡下の一念を*越えず。』とのたまへり。

 またある人の歌に、

 *雲晴れて後の光と思ふなよもとより空にありあけの月

 その他、諸経の論談分明なり。

(注)智者大師=天台大師。智顗。中国隋代の僧。天台宗の開祖。

   阿鼻の依正=「阿鼻」は阿鼻地獄。「依正」は依報と正報。環境とそこにいる

    人。

   極聖=極めて聖なるもの。仏。

   毘盧=毘盧遮那仏。宇宙の根源の仏。大日如来

   凡下=凡夫。

   越えず=(群)「越」(大)(史)により「越えず」に改めた。

   「梁塵秘抄214 (新日本古典文学全集)」に「毘盧の身土のいみじきを 凡下の一

    念越えずとか 阿鼻の依正の卑しきも聖の心に任せたり」とある。「沙石集」

    に典拠があるようである。

   雲晴れて・・・=「国歌大観」によるとこの歌は、「仏国禅師集」所収。仏国禅

    師、高峰顕日(1241~1316)は後嵯峨天皇の皇子、禅僧。

 *高祖大師の御釈に、『*四重五逆にも過ぎたる罪あり。得難き人身を得て、仏法を*学びざる、是なり。』とのたまへり。

 このたび*無明の*塵労を払ひ、*本有の心鏡磨かざらむは、拙き中の拙きなり。但し、道心、昔より今に至るまで仏陀に祈り、神明に申して発得す。

 *利生まちまちなれども、就中、*日吉山王は仏法擁護の神として、大乗修行の人を勧め給ふと承る。さるによりて、かの*和光を*仰がん。」

 と存じて、常に詣でて*生死一大事をぞ祈り申しける。

(注)高祖大師=最澄か。高祖は宗門の開祖のこと。(大)(史)「高野大師」

   四重五逆=四重罪(殺生・偸盗・邪淫・妄語)と五逆罪(父を殺すこと・母を殺

    すこと・阿羅漢を殺すこと・僧の和合を破ること・仏身を傷つけること)

   無明=無知蒙昧。

   塵労=煩悩。

   本有の心鏡=生まれながら備わっている鏡のように澄んだ心。

   利生=利益衆生衆生を利益すること。

   日吉山王=大津坂本にある神社。天台宗延暦寺の守護神。

   和光=和光垂迹。仏菩薩が本地の威徳の光を隠し、仮の姿をとった神として俗世

    に現れること。神となった仏を参拝しようとの意。

   仰がん。」と存じて=(群)「仰ぎ、常に」。心情語の結びの部分なので。

    (大)(史)により改めた。

   生死一大事=生死の迷いを脱して悟りを開くきっかけ。

 ある時、*大宮権現の御前に念誦して、

 「誠に、この神は釈迦如来の*応化として*衆生済度の御請願、余の神に優れましますなり。願はくは幻夢の願ふ所円満成就。」

 と祈誓するところに、社壇動揺して、*宝殿の内より、

 「自性の心月を明らめんと思はば根本中堂の*薬師如来に祈り申すべし。」

 と*うつつに御示現ありければ、悦びの思ひをなしそれよりひたすら根本中堂に参り、薬師の十二大願を仰ぎ、祈念怠ることなし。

(注)大宮権現=日吉山王二十一社の上七社のうち最も上位の社。

   応化=仏・菩薩が世の人を救うために神や人に姿を変えて現れること。垂迹

    (大)(史)「化身」

   衆生済度=衆生を迷いの道から救って、悟りの境地へ導くこと。

   宝殿=本殿。

    薬師如来=東方浄瑠璃世界の教主。十二の大願を発して衆生を病気などから救

    い、悟りに至らせようと誓った仏。

   うつつに=(大)(史)「夢うつつともなく」。

 さる程に、十一月七日、明日は薬師のご*縁日*といひ、または*円頓授戒の折節なれば、夜中に大原の草の庵を立ち出でて、中堂に参りぬ。

 「忝くも、この如来は*伝教大師の御作にして、*桓武天皇御建立の後、今に至るまで、年月久しく*灯を掲ぐる輩*絶えず。無双の霊像なり。願はくは、弟子が所願成就せしめ給へ。」

 と懇ろに*祈念し、*大床に侍りける。

(注)縁日=神仏がこの世に縁のある日。月の八日は根本中堂では薬師如来の縁日。そ

    の日に参詣すると普段に勝るご利益が得られるとされる。現在でも八日に行く

    と特別な御朱印がもらえる。

   といひ=であり。

   円頓授戒=円頓戒は天台宗の奉じる大乗戒。その戒を受けること。受戒して正式

    な僧となる。

   伝教大師最澄。根本中堂の薬師如来像は最澄作とされ、現在は秘仏として厨子

    の中に安置されているという。

   桓武天皇=第五十代天皇平城京から長岡京平安京へと遷都し、南都の旧仏教

    を排除し、最澄空海を起用し、新仏教を興させた。根本中堂建立にかかわっ

    ているかは未詳。

   灯を掲ぐる=根本中堂の法灯は創建以来消えたことがなかったという。後年の信

    長の比叡山焼き討ちの際には、出羽の立石寺に分灯された法灯を再分灯したと

    いう。

   大床=神社の縁側。

 その後、戒壇院へ参りて、受戒の事終わりて、下向せんと思ふところに、諸国の道俗貴賤幾千万と知らず群集するを見侍る折節、雪かき暮れ降りければ、*四王院に立ち寄りぬ。

 ここに、年の程十四五ばかりなる児一人、法師二人連れたるが、遠国の人と*おぼえて、これも雪を晴らさんとて立ち寄りぬ。この児を見れば、よに優れ、*尋常にて、旅の疲れにや、もの思はしき姿ながら、*嬋娟たる粧ひ華やかに*見えし。

(注)四王院=四天王を安置した寺院。現存しない。

   おぼえて=(群)「おぼゑて」。

   尋常=すぐれていること。しとやかな様をいうか。見目の良いさまをいうか。

   嬋娟=容姿が艶やかで美しいこと。美女を形容する常套句。

   見えし=(群)「見へし」。

 かくて時移りけれど、雪*なほやまず。かの児連れの法師に向かひてのたまひけるは、

 「東は*志賀の浦、*南に見ゆる山は忠度の、『昔ながらの』と詠ぜし跡にや。雪の梢を山桜かと興を催し侍りぬ。あはれ、*発句し給へ。*言ひ捨てして遊ばん。」

 とありければ、法師、

 「我らが発句は、その*詮無し。少人あそばし候へ。」

 と申しければ、とりあへずのけしきにて、

(注)なほ=(群)「なを」。

   志賀の浦=琵琶湖西岸。

   南に見ゆる山=千載和歌集に読み人知らずとして入集した、「さざ波や志賀の都

    は荒れにしを昔ながらの山桜かな』は平忠度の歌とされる。「平家物語 忠度

    都落」に詳しい。 

   発句=連歌の最初の五七五。これに別の人が脇句(七七)を付け、また別の人が

    第三(五七五)を付け、最後の人が揚げ句(七七)で結ぶ言語遊戯を連歌とい

    う。

   言ひ捨て=句を懐紙に記録しないで詠み捨てること。座興としての連歌

   詮無し=意味がない。無益である。(大)(史)「曲もなし(おもしろみがな

    い?)」

 雪ぞ咲く冬*ながら山の花ざかり

 とし給へば、連れの法師、幻夢が方を見て、

 「少人の発句にて候ふ。我らはいつも承りて候へば、御僧*賞玩候へかし。」

 といひければ、幻夢、

 「それがしもその望みにて候へども、さすが無骨の至りにて候ふ間、*斟酌申すところに、かやうに承り*候へば、お笑ひ草となりなんも顧みず。」

 とて、

 *震へを隠す霜の*さくら木

 と付けたれば、おのおの感じ、興に入りぬ

(注)ながら山の=(大)(史)「ながら山」この方が字数は合う。「冬ながら(冬な

    のに」と「長等山(地名)」を掛ける。

   賞玩=良さを味わうこと。文脈からすると、味わって脇句を付けることか。

   無骨=不才。

   斟酌=遠慮。ためらい。

   候へば=(群)「候得ば」

   震へ=(群)「震え」原文はア行、ヤ行、ワ行の仮名遣いがかなりあやふや。

   さくら木=「霜(の花)が咲く」と「桜木」を掛ける。

  既に雪も晴れ、日も暮れ方になりければ、この児は*東坂本に下るべきよしのたまへば、幻夢、法師に向かひ、

 「そもそもいづくよりお上りの人にて御座候ふぞ。」

 と尋ねければ、

 「旅の体、憚り入り候へども、*あからさまにもかく*申し承り候へば、何をか隠し申すべき。*下野国日光山の住僧にて候ふ。この少人授戒のために登山候ふ間、同道申し候ふ。*明日は本国へ下り侍るべし。」

(注)東坂本=坂本。近江から比叡山に登る登山口。京都からの登り口は西坂本とい

    う。

   あからさまに=かりそめに。ついちょっと。

   申し承り=おつきあいする。

   下野国日光山=栃木県日光市にある日光山輪王寺天台宗門跡寺院延暦寺

    次ぐ隆盛を誇ったという。

   明日は=(大)(史)「やがて(すぐにの意)」。

 など語りければ、幻夢、

 「仰せのごとく、『*一樹の陰に宿り一河の流れを酌むも多生の縁浅からず』とこそ聞き侍れ。今日、参り会ひ、お物語申す事、*しかしながら先世の縁とおぼえ侍り。

 あまりに御名残惜しく候へば、明日ばかりは御滞留候ひて、御足を休め給はり候へかしと存じ候ふ。某も同道申したく候へども、毎日の勤め怠ることなく候ふ間、大原とて*不思議な草の庵の候ふに罷り帰り候ふ。

(注)一樹の・・・=知らぬ者同士が雨を避けて同じ木陰に身を寄せ合うのも、あるい

    は同じ川の流れを酌んで飲み合うのも、前世からの因縁だろう、ということ。

   不思議な=粗末な。

明日は必ず早朝に参り、御連歌をも今一度聴き申して、生前の思ひ出にしたく。」

 など、*あながちに言ひければ、連れの法師、

 「御志のほど、あまり懇ろに承り候へば、明日ばかりはとどまり申すべし。*あひかまへて*お入りあるべく候ふ。宿所は*生源寺の*辻にて、日光山の授戒者の宿とお尋ねあるべし。」

 と言ひて互いにここより別れけり。

(注)あながちに=強引に。ひたすら。

   あひかまへて=きっと。

   お入り=おいで。(大)(史)「お出で」。

   生源寺=坂本にある最澄開基の寺。最澄生誕の地であるという。

   辻=(大)(史)「築地」。

 幻夢はいつしか心浮かれ、踏む足も覚えず、我が宿房を指して帰りけるが、道すがら思ふやうは、「たとへ日の*所作は欠くとも、この人にうち連れて東坂本に下るべきものを。」とも思へども、さすがに立ち帰るには及ばずして、ひたすら見し人の面影にのみ*心はあとにとどまりながら、大原に行き着き侍りぬ。

(注)所作=神仏に対する日々の日課

   心はあとにとどまり=「心とどむ」は心が引かれる、の意。

 *持仏堂に入り、*閼伽を酌み、花を供へて壇上に向かひ、*観念を凝らせども、唯、恋しき人のことのみぞ、*身には添ふ心地して、さらぬだに嵐激しき冬の夜を明かしかね、涙の凍る墨衣、「もしもとがむる人あらば、*何とかは争ひ果てん憂き身ぞ。」と思ひ詫びつつ、起きもせず、寝もせで寒き夜を明かし、別れを告ぐる鐘の音も、逢はぬ夜なればつらからで、涙とともに草の庵を浮かれ出で、今一足もと急ぎつつ、山上に登り、また、東坂本に下り着き、約束のごとく生源寺の辻にて、

 「日光山の授戒者の宿は、この辺りにや。」

 と尋ぬれば、ある家より、

 「いづくよりお尋ねぞ。」

 といひければ、

 「大原より。」

 と答ふ。

 「さることの候ふ。日光山の授戒者とて、これにお泊り候が、『大原よりとてお尋ねあらば、これを*参らせよ。』とて御文あり。」

 とて出しければ、*心も心ならず、夢うつつともわきまへず、泣く泣く文を開き見れば、

 「昨日の*見参、誠に『一樹の陰』の例も浅からずおぼえて、今日ばかりはとどまりぬべきにて候へども、浮き世の人の習ひとて、心に任せぬ急ぐことありて、*旅衣思ひ立ちぬ。お名残り惜しさも、おしはからせ給へ。

 もしも、あづまに思し召し立つ便りも侍らば、日光山の竹林房にて、*帥の侍従とお尋ね候へかし。」

 などと書きて、奥に一首歌あり。

(注)持仏堂=仏や先祖の位牌を安置した堂。仏壇・仏間の原型。

   閼伽=仏に供える清水、香水など。閼伽棚には水以外に花を供えたり、花を水に

    浮かべたりした。

   観念=心静かに一切を観察すること。仏道を深く考えること。

   身に添ひ=身に寄り添って離れなくなること。 

   何とかは=反語。どうして最後まで言い争うことができようか(いやできな

    い)。咎められたら反論できない。僧侶として稚児に恋することを破戒ととら

    えている。そうだとすると、「秋夜長物語」「あしびき」とはニュアンスの違

    う稚児物語と言える。

   参らせよ=差し上げよ。

   心も心ならず=落ち着き失ってそわそわすること。

   見参=目上の者と対面すること。

   旅衣=旅支度をして旅立つこと。

   帥の侍従=本名ではなく通称。「帥」も「侍従」も官職名。二人の法師「帥の

    君」「侍従の公」をまとめて言ったと思われる。

 夜もすがら旅寝の枕*覚め侘びて結ばぬ夢に面影もなし  花松

 と書かれたり。

 「これやかの少人の筆のすさびか。」といとど思ひは*ます鏡、なほ面影の身に添ひて、やるかたもなき恋心、何となりぬる憂き身ぞと、忍びもあへぬ涙の雨に、墨染めの袖も絞るばかりになりにけり。かの*志賀寺の上人のいにしへも、今身の上に知られけり。

(注)覚め侘びて=(大)「さへ侘びて」(史)「冴え侘びて」。

   ます鏡=面影にかかる枕詞。思いを「増す」と「ます鏡」を掛ける。このあたり

    歌語を交えた七五調が目立つ。謡曲の影響かとの指摘がある。

   志賀寺の上人=名は明らかでないが、いくつかの説話や歌論に登場する人物。

    「太平記」の巻三十七によると、かつて志賀寺の上人という行学兼備の聖僧が

    いたが、志賀の花園で宇多天皇の妃、京極の御息所を見染め、僧には許されぬ

    恋ながら、忘れることができず御所を訪ねると、御息所はうちやると迷いの道

    に堕ちると思い、上人を御簾の近くに招き入れ、上人に手を握らせて歌を詠み

    交わしたという。

 かくてあるべきにもあれざれば、泣く泣く大原の房に帰り、それより道心うち覚めて、「*いつしかこの人を今一度見せ給へ。」と仏神にも祈り、唯、明け暮れはこの文を繰り返し読みて、念誦読経をば*さし置きぬ。

 ほどなく月日も過ぎ行き、*あらたまの春にもなりぬれば、軒端に近き梅が枝に、うちはぶきぬる鶯の初音もめづらかに、桜のかつ咲くを見るにつけても、ただ去年の冬の雪の梢を花と眺めし人のことをのみ、*思ひの煙(けぶる)雲となり、雨となり、*愛執の*心の鬼ともなりぬべし。

(注)いつしか=早く。

   さし置き=放っておき。

   あらたまの=春の枕詞。

   はぶきぬる=「はぶく(羽振く)」は鳥や虫が羽ばたく。

   思ひの煙=「ひ」が「思ひ」と「火」を掛け、「火」が「煙」となりと続く。

   愛執=愛欲に執着すること。

   心の鬼=恋慕・愛着の妄念。煩悩にとらわれる心。

 かくて月日を送るも甲斐なければ、「下野とかやに下り、いかにもして尋ね合ひ、今一度少人を見参らせばや。」と思ひ立ち、*麻の衣に菅の笠、*憂き節繁き竹の杖、*つきぬ思ひを標(しるべ)にて、遥かに遠き東路に、浮かれて出でぬるわが心、我ながらよしなやと思へども、なほ憂き人の面影去らぬ*鏡山、涙も曇る時の間も、忘れえぬ身をいかにせん、かくて夜に日を継いで行くほどに三月十五日酉の刻に日光山に着きにけり。

 さて、竹林房を尋ねけれども、かの山既に六、七百房に及ぶ所なれば、さうなく尋ね得ず。日も暮れぬれば、宿るべきたよりもなし。

 本堂の前にたたずみ居たる所に、法師一人行き会ひぬ。

 「当山にて竹林房はいづくの程やらん。」

 と問ひければ、

 「その房は存じて候へども、ここよりは程遠く侍る。殊更夜陰に旅人などのお尋ね候はんに、よも門を開け候はじ。その上この山は*制法かたき所にて、かく夜中に御ありき候はば、さだめて人のとがめ候ふべし。今夜はいづ方にもお泊り、明けてお尋ね候へかし。」

 と言ひければ、

 「いづ方にか宿を貸し候はん。」

 と問ひければ、

 「夜更け、人静まりぬれば、宿貸す人も候はじ。これより*五町ばかり峰に行きて堂の候ふ。かれにて夜を明かし候へ。あれに灯し火の影の見ゆる所にて候ふ。

 あはれ我が心のままならば、一夜の御宿申すべきものを。」

 と言ひ捨てて、本堂の方へと行きにけり。

(注)麻の衣に菅の笠=粗末な旅の身なり。

   憂き節繁き=辛いことが多い。「節」が縁語として竹にかかる。

   つきぬ思ひ=杖を「つく」と「つきぬ思ひ」を掛ける。

   憂き人=恋しい人。

   鏡山=滋賀県にある山。歌枕。鏡が縁語として「曇る」にかかる。

   制法=規律。(大)(史)「成敗」(処置、処罰)。

   五町=一町は六十間。約百九メートル。

 幻夢いよいよ心細くて、涙とともに知らぬ山路に分け入り、灯し火をしるべにて行きけるに、五町ばかりと教へけれども、二十町のほど歩み、*かの本堂へ行き着きぬ。

 見れば*星霜久しく住むとも見えず。されども*香華・灯明などは寺中より供ふるともおぼしくて、灯し火幽かに見ゆる。

 正面に参りて本尊を見奉るに、*阿弥陀の三尊なり。曇り果てぬ*月影は*白毫の光を添へ、梢の嵐に散る花は、*四智円明の相を飾り奉る。

 まことにありがたくおもしろきにつけても、いとど憂き人のことのみ恋しく、旅寝の枕物憂さも詮方なき折節、麓の方に吹く笛の音は、あやしくめづらかに聞こゆ。天人も*影向(ようごう)し給ふらん、とおぼえて、しばらく聞き居たるほどに、次第にこの山近く聞こえけり。

 「この道は常に人の行き通ふとも見えず。また辺りに栖(すみか)ありとも覚えぬに、あな不思議や。」

 と思ふ所に、この堂の前に来りてしばらく笛を吹き居たり。

(注)かの本堂へ=(大)(史)「かの堂へ」。

   星霜=年月。

   香華=仏前に供える香と花。

   阿弥陀の三尊=阿弥陀仏を中心に観音・勢至の二菩薩を脇侍とする三体。

   月影=(大)(史)「春の夜の朧月」。

   白毫=仏の眉間にある白い巻き毛。右旋して光を放ち、無量の国を照らすとい

    う。

   四智円明=「四智」は仏果を極めた時の四つの智。悟り。「円明」は人に本来備

    わっている悟り。

   影向=神仏が来臨すること。

 聞くも*えならずおもしろきに、立ち出でて姿を見ばやと思へども、かつは恐ろしく*すさまじくて、*心を澄まし、いかなることにか、と*いぶせくて居たる所に、足音静かに歩み寄りて、*妻戸を押し開き、*礼堂に上がりたるを見れば、年*二八ばかりなる児の*練絹の*縫物したる*小袖に*精好の*大口着て、*萌黄縅の*胴丸、*草摺長に着なし、上には*白練り引き被き、*金作りの太刀佩きて立たれたり。

 「されば、天魔・鬼神の我を悩まさんとて来るにや。よしよしそれも憂き人故に、*身を空しくなすならば力及ばず、と思ひ、よくよく見れば、心を尽くしたる花松殿にてぞ候ひける。

(注)えならず=いうに言われない。

   すさまじく=ぞっとする。

   心を澄まし=心を落ち着かせ。

   いぶせく=気にかかる。

   妻戸=両開きの戸。

   礼堂=礼拝するお堂。

   二八=十六。

   練絹=生織物を精錬して、柔軟性と光沢を持たせた絹布。(以下、稚児武者の描

    写であるが、しゃれた着こなしだと思われる。)

   縫物=刺繡があしらわれている。

   小袖=肩から垂らして二の腕を守る具足、小ぶりなものか。もしくは肌着。

   精好=せいごう。精好織。絹織物の一種。地質が緻密で精美。

   大口=大口袴。下袴の一種。種々の大口があるが、童形装束にも用いる。

   萌黄縅=萌黄色(やや黄色がかった緑色)の糸で威す(鎧をつなぎ合わせる)こ

    と。

   胴丸=鎧の胴体の部分。

   草摺長=草摺(鎧の垂の部分)を長く着こなすこと。

   白練り=白い練絹。

   金作り=太刀の金具の部分を金銅づくりにしたもの。

   身を空しくなす=(群)「身を空なす」(大)(史)により改めた。

 不思議やと思ふより、心も身に添はずしてありけるに、この児のたまふやうは、

 「いかに*客僧、大方見申し候ふやうに見えども、結びも敢へぬ*春の夜の夢の浮橋、定かならず。いづくの人にてましませば、*遠近(をちこち)のたづきも知らぬ山中に、*呼子鳥のしるべもなくて、これにはお入り候ふぞ。」

 とありければ、

 「都のほとり大原と申す所の者にて候ふ。身を*うき草の根を絶へて、*誘ふ水に任せつつ浮かれ歩き侍り。当山に知る人ありて尋ぬれども、逢ふことかたき*岩がねの、旅寝の枕貸す人もなければ、この堂に一夜明かさんとてとどまり侍り。」

 と答へければ、

 「そもそもこの山には、いかなる人をお尋ね候ふやらん。」

 と仰せければ、

 「竹林房の帥の公・侍従の公と申す人を尋ね申し候ふ。」

 と言ひければ、

 「さては過ぎにし冬、比叡山にて雪を晴らさんとて、四王院に立ち寄りて、言い捨て申したりし大原の幻夢にて御渡り候ふか。」

 とありければ、

 「さればとよ。御身故にこれまで尋ね下り候ふに、前世の奇縁尽きずして、会ひ奉ることのうれしさよ。」

 とて、去年の文をも取り出だし、泣くより他のことはなし。

(注)客僧=旅の僧。

   春の夜の夢の浮橋=はかないもの。はかない上に夢はまだ見ていないので更には

    かない、の意か。

   遠近のたづき=場所場所を知る手段。

   呼子鳥=郭公(カッコウ)または杜鵑(ホトトギス)。呼ぶ標(呼んでくれる導

    き)を掛ける。

   うき草=「憂き」と「浮草」を掛ける。 

   誘ふ水=(大)(史)「誘ふ嵐」。「水」の方が「浮く」と縁語っぽい。

   岩がね=岩根。大きな岩。「岩根枕」は、旅寝すること。野宿すること。「逢ふ

    こと難(かた)き」と「堅(かた)き岩」を掛ける。

 さて、この児のたまふは、

 「*我らも夕べの空の眺めさへ、*秋ならねども悲しきに、折節春の習ひとて、*有明の月の影かすめる、花の光をも涙のとがとかこち果てて、憂き節繁き呉竹の笛を吹きて、心を澄まし侍る所に、都より竹林房をお尋ねある客僧のまします由、ある人語りけるに、もしも*それの事にやと、人目もさらに*しら露の*山分け衣袖濡れて、これまで参りて侍るに、会ひ奉ることのうれしさよ。*いざさせ給へや。我が房に行かん。」

 とて袖を引き給へば、

 「旅のやつれ、はばかり入り候ふ。お目にかかるまでの事。これより都へ帰るべき。」

 と申しければ、重ねてのたまふやう、

 「旅のならひ、何か苦しかるべき。これまでお尋ね候ふほどの御心ざしにて侍るに、申す旨をお背き候はんには、何事も皆、偽りや。」

 と恨み顔にて誘ひ給へば、

 「ともかくも仰せにこそ従ひ候らはめ。」

 とて、このほどの憂かりしも忘れ果てて、児の後につきて歩みけり。

 夜すでに更けけれども、まだ閨にも入らで人声あまたする所あり。

 「これこそ竹林房にて候へ。お待ち候ふべし。」

 とて、児は内にぞ入り給ひける。しばらく待つほどに、児内より出で給ひて、「こなたへ。」とのたまふ。幻夢心の内に思ひけるは、

 「これほどいかめしき所なれば、童・同宿などもあるべきに、児の自ら*ものし給ふ事の不思議さよ。ただ人目をつつみ給ふにや。」

 と思ひ内に入りければ、*六間なる所を*ことに引きつくろひ、*紫檀の卓に、「*没故花覚聖霊位」と書きたる位牌を立て、前には硯と懐紙を取り添へて、よに尋常なる座敷へ請ぜらる。内には人音すれども、ここには児より他に人はなし。

(注)我ら=自分。単数にも用いる。

   秋ならねども=秋の夕暮れは悲しさ、寂しさを象徴する。三夕の歌が有名。

   有明の月の・・・=桜が散る中の有明の朧月を涙で曇った目のせいだとかこって

    いる。

   それの=あなたの。

   しら露の=「人目も知らず(気にしない)」と「白露」を掛ける。

   山分け衣=修行僧・山伏などが山道を分け行くとき着る衣。

   いざさせ給へ=人を誘う時の言葉。さあいらっしゃい。

   ものし給ふ=「ものす」は代動詞。

   六間=一間は1.82メートル。六間四方だと72畳間。かなり広い。

   ことにひきつくろひ=「ひきつくろふ」はきちんと整える。(大)(史)「結構

    に飾っ(史:り)て」。

   紫檀の卓=(群)「此壇の卓」。(大)(史)により改めた。「紫檀」は黒紫色

    の硬い高級木材。「卓(しょく)」は仏前に置き、香・花・灯・燭などを供え

    る机。

   没故花覚聖霊位=(大)(史)「物故花覚精霊(しょうりゃう)」。「花覚」が

    が{花松」を連想させ、ネタバラシ感がある。

 花松殿のたまひけるは、

 「師にて候ふ人、今夜対面申すべき事にて侍れども、*さりがたき事の候ふ上は、明日見参に入るべきよし申し侍り。

 不思議の宿縁と申し侍りながら、叡山にてかりそめに見え申せし後、申せば*恥ぢ入り候へども、御身のこと忘るる暇なく、風の便りも聞かまほしく、候ひつるに、かやうにこれまでお下り候ひて、今夜は思ひ寄らざる参会も互ひに心ざし浅からぬ故とおぼえ侍り。

 御数寄の事にて候へば、連歌*一折興行申さん。」

 とてありける硯と懐紙を取り出だし、

 「*執筆申すべし。ご発句あそばし候へ。」

 とのたまふ。再往辞退して、

 「少人のご発句こそ本望に候へ。」

 と申せば、さらばとて、

 夜嵐に明日見ぬ花の別れかな

 とありければ、幻夢、

 「かやうに申すは*恐れ入り候へども、いつしか御心安く思ひ奉り候ふ間、申し入れ候ふ。ご発句はおもしろく候へども、あまりに*禁句にて候へば、お直しあるべきか。」

 と言ひければ、花松殿仰すは、

 「そのいはれ侍れども、人間の無常は今に始めぬ事ながら、今日あればとて明日までとどめ難きは花ぞかし。されば*文選には、『時無重到 花不再陽(時重ねて到らず 花再び*陽(ひら)けず』と侍るにや。*花も紅葉も常なる。人間もまたかくのごとし。『松樹千年の緑も終に朽ちぬる世の習ひに候ふほどに、松に咲き添ふ春の花、夜中の嵐誘ひなば、明日見ぬ別れとなりぬべし。』と思ひ侍ればかやうに*続け侍る。」

 と答へ給へば、まことにやさしき御心ばへ、優にぞおぼえ侍り。かくて連歌ほどなく終わりぬれば、花松殿腰より笛を取り出だし、今の懐紙に引き巻きて、幻夢に*たび給ひ、お名残り惜しやとばかりにて、太刀を取り、立ち給ふかと見れば、行方知らずなりにけり。

(注)さりがたきこと=避けられない要件。(大)(史)では、老師は老齢故、都に従

    った帥と侍従は時間のかかる用事がある故今夜は会えないとある。

   恥ぢ入り=(大)(史)「はばかり」。「はばかり」の方が男色を禁忌ととらえ

    る意味合いが強い。

   一折=正式な連歌は、百韻・五十韻・三十六韻(歌仙)を懐紙4~2枚裏表に書く

    のだが、その初折の裏表に二十二句もしくは十八句を書く簡略化した連歌

   執筆=しゅひつ。連歌俳諧の席で句を懐紙に書いて披露する係。

   恐れ入り候へども=(大)(史)「推参(さしでがましい)なる申し事にて候へ

    ども。

   禁句=和歌・俳諧などで使ってはならない句。

   文選=梁の昭明太子が編集した詩文集。

   陽けず=「花が咲く」意味の「ひらく」は下二段活用。

   花も紅葉も・・・=この文は疑問詞が欠落しているか。

   続け=発句だから続けるというのは変である。

   たび=与え。

 幻夢、夢うつつともわきかねて、

 「もし天魔などの、我を悩ましけるにや。かくて房中にあらば、いかなる目にも合ひぬべし。急ぎ何方へも逃げばや。」

 と案じ居けるに、ほどなく夜も明けぬれば、立ち出でんと思ひながら、あまりに興醒めて、笛と懐紙を手に持ちて、茫然としていたりける所に、当房の主と思しくて、齢八十ばかりの老僧の、眉には霜を垂れ、額に波を*たたへたるが、濃き墨染めの衣に*香色の袈裟を掛け、まことに物思へる姿にて出で給ひけるが、幻夢を怪しげに見て、

 「御身はいづくの人にましませば、ここにお渡りあるぞ。」

 とのたまへば、

 「これは大原の者にて候ふ。」

 と申しける。

 「されば*こそ大原の人は何とてここには御座候ふぞ。心得侍らず。」

 とのたまへば、

 「ここに不思議のこと侍りける。始め終はりの事を語りて聞かせ申さん。」

 と答へければ、

 「何事にか。とくとく御語り候へ。」

 とありければ、幻夢、

 「そもそも当房を竹林房と申し候や。」

 と問ひければ、老僧、

 「*子細なし。」

 とのたまふ。幻夢また申しけるは、

 「去年十一月八日、授戒のためとて、花松殿と申す少人ご同道候ひて、帥の公・侍従の公と申す人、比叡の山にお上り候ふか。」

 と尋ぬ。

 「さることの候ふ。」

 とのたまひければ、幻夢また申しけるは、四王院に立ち寄りて言ひ捨てせし日より、この暁別れける不思議まで詳しく語り、笛と懐紙を差し出だしければ、老僧涙にむせびて、とかく言の葉もなかりける。

(注)たたへ=(大)(史)「たたみ」。

   香色=薄赤くて黄色味を帯びた色。見栄えの市内色として、喪中や僧にかかわる

    ものに使われることが多い。

   こそ=係助詞だが結びが流れている。

   子細なし=異論がない。間違いない。

 ややあって、

 「帥の公・侍従の公出でられ候へ。」

 とありければ、二人の同宿すなわち来たれり。

 「まことにこの客僧は、*兼日(けんじつ)見参候ふや。」

 とのたまへば、「さることの候ふ。花松殿ご授戒の時、あからさまに対面申し侍り。」

 とて、これも袂を顔に押し当て涙せき敢へず。

 さて、老僧ののたまひけるは、

 「客僧、聞こしめし候へ。この少人と申すは、当国の*御家人大胡の左近の将監家詮と申す人の子にて候ふ。七歳の時、家詮は同じ国の住人、*小野寺の右兵衛尉親任と申す者に*罵(の)り合ひ*咎めをして討たれ侍りぬ。

(注)兼日=かねての日。(大)(史)「かねて」。

   御家人=将軍と主従関係を結んだ武士の敬称。

   大胡の左近の将監家詮=(大)(史)「大胡さったもりの将監家明」。

   小野寺の右兵衛尉親任=(大)(史)「小野の太郎兵衛親忠」。

   罵り合ひ=悪口を言い合う。口論する。

   咎め=そしること。罰すること。ここでは武力行使か。

 それより後、花若常に申しけるは、

 『あはれ、*おとなしくなりて、親の仇を討ち取り、無念をも散じ、追善に供へばや。』

 と*連々(れんれん)*あらまし候ふほどに、

 『*型のごとく仏家に入り、我らが弟子と侍らば、左様のことつゆばかりも思ふべからず。出家得道をして、ひとへに聖霊の菩提を弔はんこそしかるべく候へ。』

 と教訓常に侍りしが、『ともかくも師の命に従ひ申さん。』とて年月を送り候ふ所に、今月十日、花の盛りにて候へば、里へ行きて一族にも会ひ、他家にも知る人侍れば、連歌など興行してしばらく遊び候はん。暇給はるべきよし、懇ろに申す間、このほど永く在山し給ひ候ひしかば、さらば慰みのためと思ひ、

 『やがて登山あるべし。相構へて日頃のあらまし努々心にかけ給ふべからず。釈氏の門に入り給ふ上は、ただ明け暮れ仏法を心にかけ、父母の後世を弔はんこそまことの孝子にて侍れ。』

 など教訓し侍りけるも、いたづら事になり侍るこそ悲しけれ。

 かくて暇乞ひして、『やがて帰り参り侍るべし。』とて立ち出で侍る。

 翌日の辰の時ばかり、花松丸が*童、よに慌ただしく走り来て侍るほどに、『何事にか。』と尋ねければ、涙をはらはらとこぼし申しけるは、

 『花松殿、*昨夜御仇、小野寺殿の館に忍び入り給ひ、たやすく敵討ち取り、館をも*焼き払ひ、御身も討ち死にし給ひて候ふ。』

 と伏しまろび嘆きぬ。

 夢ともうつつともおぼえず、昨日暇乞ひして出でける面影忘れ難し。*さこそ名残惜しく心も止めつらむ。神ならぬ身の悲しさは、これを終の別れとは、いかで知り侍るべき。」

 など語りも敢へず墨染めの袖を絞り給へば、幻夢も泣くより他のことはなし。

(注)おとなしくなり=おとなになって。

   連々=引き続き、絶えることのないこと。

   あらまし=予定する。将来を約束する。

   型のごとく=形式通り。定められたとおりに。

   童=花松に仕える中童子。(大)(史)「中間」。

   昨夜=(大)(史)「今夜」。

   焼き払ひ=(大)(史)「遁れ候ひしが」。

   さこそ=そうであるなら、の意か。

 「*さて、*薄様に書きたる文二つあり。一つは老僧が方へなり。

 『さても、この世にありしほどぞ、師匠と頼み奉り、弟子となり侍る事、前世の宿縁のほども忘れ難し。命もながらへてとぞ思へども、おとなしくなり、親の仇を討ち取り、無念をも散じ、追善に供へばやと、連々のあらましのその思ひ身を離れず、かやうになり侍りき。

 また、生者必滅 会者定離」の習ひにて候へば、相構へてお嘆きなく、ただ一遍の*御回向こそあらまほしく侍る。』

 と書きとどめたる筆の跡、まことにあはれにて侍りける。

 さてまた老母へのかたへの文には、書き続けたる言の葉の奥に、一首の歌あり。

 思ひやるさぞや袂の時雨るらんまたと言ふべき別れならねば

 老母、この文を見て天に仰ぎ地に伏して悶え焦がれ、

 『何と我をば後に残し置き、かやうになり侍るやらん。』

 とお嘆き思ひやり給ふべし。

 かくあるべきにもあらざれば、泣く泣く*教養し侍り。今日*一七日になりぬ。

 亡者の好き侍りし事なれば、この笛を棺に入れ侍りけるが、お心ざしの切なるによりて、亡きあとをも御弔ひあれかしと、形見に参らせけるにや。

 また、懐紙も執心せし道なれば、初七日の追善に、昨日より硯に取り添へて、霊前に供へ侍り。存生の時好みし事にて、今夜も参会申して、連歌をつかまつりたる事こそ。また、発句の無常も、この世になき人にて侍ればにや。」

 と語り続けて、声も惜しまず泣きければ、幻夢は涙の露の玉の緒も今や絶へぬと互ひに嘆く有様、たとへていはんかたもなし。

(注)さて・・・=(大)(史)には手紙の件りがない。

   薄様=雁皮で薄く漉いた鳥の子紙。

   回向=供養。たむけ。

   教養=死者を弔うこと。孝養。(大)(史)「供養」。

   一七日=初七日。

 幻夢思ひけるは、

 「さては愛着(あいじゃく)恋慕の思ひによりて、死にたる人に会ひ、*小蝶の夢の物語をしけるはかなさよ。

 つらつらこれを案ずるに、*この世の無常は眼前のことなり。*よりより日吉山王根本中堂の薬師如来に道心を祈り、後生一大事をこそ申し侍りしに、花松殿を見染しより、*愚癡(ぐち)にかへりし事こそ口惜しけれ。

 その上、小児を愛すること、『*法華経安楽行品』に不親近と嫌はれ、恵心の僧都は、『往生要集』に『*正法念経』を引き給ひ、*衆合の地獄のことはざと見えたり。あに*生死流転の根元にあらずや。

(注)小蝶の夢=胡蝶の夢。夢か現か定かでないことのたとえ。「荘子」による。

   この世の無常=(大)(史)「人間のすいろう(衰老?)」。

   よりより=時々。折々。

   愚癡=愚痴。愚かで者の道理がわからないこと。

   法華経安楽行品=法華経安楽行品第十四。文殊の質問に如来仏陀)が答える、

    という形で教えを説く。その不親近(近づけてはいけないこと)の一つに、

    「不楽畜年小弟子沙弥小児(楽《ねが》って年小の弟子、沙弥、小児を畜《た

    くわ》えされ)とある。美童を持つことを禁止しているのであるが、逆に法華

    経が成立した時のインドでも少年愛があったといえる。

   正法念経=(大)(史)「正法念殊経」。「正法念処経」。四五世紀ごろ成立の

    経典。地獄を説く。(web版浄土宗大辞典より)「往生要集」の衆合地獄の説

    明には、正法念経の略抄として「謂く、一処あり。悪見処と名づく。他の児子

    を取り、強ひて邪行を逼り、号び哭かしめたる者、ここに堕ちて苦を受く。」

    とある。

   衆合の地獄=八大地獄の第三。殺生・偸盗・邪淫を犯した者の落ちるところ。

 かかる憂き目に逢ふこと、これしかしながら明神・仏陀の*方便なり。仏種は縁より起こる。」

 と、かつは悦びかつは嘆き、即ち暇を乞ひて、これよりすぐに高野山に上り、奥の院の傍らに住して、静かに諸の聖教をうかがひ見るに、弥陀を誉め、西方を優れたりとす。惣じて、諸経論の説、念仏を勧む。

 「これ、*法・報・応の三身も、*空・仮・中の三諦も、阿弥陀の三尊なり。かるが故に、仰ぐべきは*弥陀の名号、期すべきは*九品の往生なり。*浄土の三部経にもそれ旨明らかなり。末世の穢れに*相応せり。中頃、法然上人、称名念仏者となり給ひ、偏に西方を臨み、*弥陀の本願を仰ぎ給ひしぞかし。」

 と思ひ続け、偏に念仏して居たりける。

(注)方便=(大)(史)「御利生」。

   法・報・応の三身=仏身の三種。法身・報身・応身。

   空・仮・中の三諦=「あらゆるものは空である。」「あらゆるものは仮であ

    る。」「あらゆるものは有でも無でもない。」という、三つの真理。

   弥陀の名号=南無阿弥陀仏

   九品の往生=九品浄土に往生すること。往生の仕方は能力や性質によって九段階

    ある。

   浄土の三部経=浄土宗・浄土真宗などで尊重される三部の経典。「無量寿経

    「観無量寿経」「阿弥陀経」。九品往生は「観無量寿経」に詳しい。

   相応せり=ふさわしい。

   弥陀の本願を=阿弥陀仏を信じて、一遍でも念仏を唱える者はすべて浄土に迎え

    るという誓い。

 かくて次の年の三月十日、今は花松殿はかなくなり給ひし日なれば、幻夢、奥の院に参り、*御影堂の前にして、一心に称名し、「*花岳聖霊 乃至 自他法界 平等利生」と回向して居たる所に、年の程二十ばかりの法師の、墨染めの衣のあさましく姿にて、誠に後生一大事を思ひ入りたるけしきなるが、同じく参りたり。

 「あな、あはれなり。未だ年の程も若く見ゆるに、かほどまで後生を恐るる事、ありがたき事かな。」

 と思ふ所に、辺りに人なしとや思ひけん、独り言に言ふやう、

 「憂き世の習ひ、定めなきことかな。去年(こぞ)の今夜、親を*討たせて、当座に仇を討ちしも夢ぞかし。仇とは言ひながら、児の面影忘れ難し。あな無残や。」

 とて、涙を流し、念仏を申して居たりける。

(注)御影堂=開山、開基の像を安置した堂。開山堂、祖師堂とも。

   花岳聖霊=竹林房の位牌には{花覚聖霊位」と書かれていた。

   討たせて=討たれて。この「せ」は使役ではなく、「軍記物語」に見える受身。

 幻夢、これを聞きて不思議に思ひ、

 「それにお渡り候ふ御僧は、いかなる因縁にて出家し、本国はいづくの人、発心のいはれを承りたく候ふ。*憚り入りて候へども、世を厭(いど)ふ上は、何事も残さず懺悔し給ふべし。」

 と言ひければ、

 「愚僧は、下野国の住人、小野寺右兵衛尉親任と申す者の子、小太郎親次と申す者にて候ふ。生年十九歳になり候ふ。

 去年の今夜、同じ国の住人、大胡の左近の将監が子息、花松丸と申す児のために、父親任は親の仇にて候ふゆへ、終に討たれぬ。それがし折節他所にありしかども、このことを聞き、急ぎ走り向かひ、仇遥かに落ち延びたりしを追ひかけ、討ち取り候ふ。

 その折節は大いに喜びしが、次の日死骸を見れば、年二八ばかりなる児、よに美しき顔ばせ、余りに痛ましき有様なり。

 『あはれなるかな。*弓馬の家に生(む)まれずば、かかる憂きことを見まじきものを。今生は*電光朝露、誠に夢の間なり。何ぞ憂き世に厭(いど)はざらむや。これ*善知識なるべし。

 かつは親の教養、かつは児の後世を弔はばや。』

 と存じて、ただ一筋に思ひ切り、夜の間に故郷を立ち出で、この山に上り、元結切り、一心に弥陀を念じ、西方を心にかけ侍り。」

 今夜はかの人々の討ち死にの夜にあたり候ふ間、ここにて*断魂の仏果を祈る由、詳しく語りければ、幻夢も惜しまず泣き居たり。

(注)憚り入りて・・・=(大)(史)はこの前に、「と言ひければ、小僧聞きて」と

    入り、以下を少年僧が言ったこととしている。その方が自然な感じがする。た

    だ、「上」でも、翌日連歌をしたいから一泊逗留を伸ばせというなど、やや厚

    かましい人物として幻夢は造形されているのかもしれない。

   弓馬の家=武士の家。

   電光朝露=はかなく消えやすいことをたとえて言う語。

   善知識=教えを説いて仏道に導いてくれる人。

   断魂の仏果=「断魂」は断腸の意味だが、ここでは、この世への思い、未練を断

    ち切る、の意か。「仏果」は菩薩の究極の成道の地位。悟りの境界。仏地。全

    体として、精霊がこの世への未練を断ち成仏することを祈る、の意か。

 かの僧言ふやう、

 「憂き世のことはあはれ多しと申すながら、たぐひなき物語なれば、涙を流し給ふは理なり。さりながら、かやうに深く嘆き給ふこと不思議に侍り。いかなる御事ぞや。*おぼつかなく侍り。我らは仰せに従ひ、懺悔滅罪と存じ、ありのままに申し侍りぬ。御身も発心のゆゑをとく語り給へ。」

 と言ひければ、

 「*かたはらいたき申し事にて候へども、『*普賢観経』には『懺悔六根浄』と述べ給へり。その外懺悔においては様々ありと言へども、今この懺悔は*有相(うそう)の懺悔と言ふべし。これありがたき懺悔ならむ。ありのままに申さん。」

 とて、をととしの冬、花松殿を見染めしより、その暁別れし発心修行、今に至るまでの事ども、語り続ければ、二人の僧向かひ居て、互ひに涙にむせぶ有様、たとへて言はん方もなし。

 されば、*ある書に、「念起こるを病とし、継がざるを薬とす。」と。*過去遠々の生死の業因をば懺悔しぬ。

 今より後は互ひに師範となりて称名念仏し、西方往生の時も*上品(じょうぼん)の*蓮(はちす)の台(うてな)に契りを結び、同じ*七宝樹の本に至り申さんとて語らひける。

 *多生曠劫の宿縁にや、大原の幻夢は七十七、下野の入道は六十歳にて、端座合掌し、*十念成就して、虚空より花降り、音楽雲に聞こえ、弥陀三尊来迎し給ひ、光明あまねく十方世界を照らして、速やかに往生の素懐を遂げけるとぞ。

(注)おぼつかなく=気がかりで。

   かたはらいたき=恐縮である。気が引ける。

   普賢観経=仏説観普賢菩薩行法経。観普賢経。法華三部経無量義経、妙法蓮華

    経、観普賢)の結経とされる。普賢菩薩を観ずる方法と、六根の罪を懺悔する

    法、及びその功徳が中心内容。

   有相=有為。無常のこの世、の意か。

   ある書=未詳。禅家の言葉に、「念起こる、これ病なり。継がざる、これ薬な

    り。」とあるという。

   過去遠々=はるか昔。現世を超えた昔。

   上品=人の往生を上中下に分けた最上位の往生の仕方。(大)(史)「上品上

    生」。上品上生は往生を九品に分けた最上位。

   蓮の台=極楽往生したものが座る蓮台。

   七宝樹=(大)(史)「七重宝樹」。極楽浄土にあるという七宝で飾られている

    木。

   多生曠劫=多くの生死を繰り返して久遠の時間を経ること。

   十念成就=①十種の思念を行う修行法を完成させ。そうすれば安らかに死を迎え

    られる。②十遍念仏を唱えて。

 

 されば、仏の方便・神明の利生、今に始めずと申しながら、幻夢ひとへに日吉山王中道薬師如来へ道心を祈りしによりて、二人の発心誠にありがたきことなり。

 かの花松殿は、*文殊の*再誕と申し伝へたり。衆生済度の御ために、仮に身を現じ給ひけるやとありがたくおぼえ侍り。

 かくの如くの昔物語、*狂言綺語の戯れ事と言ひながら、定めなき世の有様を*嵐に脆き花松殿になぞらへて、げにもあだなる人心、風にまたたく灯し火の、消へなば後の世の闇には、*さぞな立ち迷ふべし。*無明の雲を払ひ、*真如の月に逢はしめん方便たり。

 いたづらに月日を送り、病難たちどころに至り、命終はらんとせん時、渇の臨みて井を掘らんは口惜しき事なり。若きも老いたるも、後の月日を期することなく、ひとへに*生死を恐れ、菩提心を発すべし。

 されば、「*金剛経」には「如夢幻泡影、如露亦如電」とぞ。まことに厭うべし、恐るべし。

(注)文殊文殊菩薩智慧をつかさどる菩薩。釈迦如来の脇侍として左に侍し、普賢

    菩薩とともに釈迦三尊を形成する。本文中には、文殊菩薩を本尊とした寺院

    や、文殊垂迹した神社は登場せず、なぜ文殊かは不明。下その1に引用され

    た「法華経安楽行品」は釈迦と文殊の問答である。

   再誕=生まれ変わること。生まれ変わり。

   狂言綺語=偽り飾った物語のたぐいを卑しめていう言葉。

   嵐に脆き=(群)「ありしに脆き」。(大)(史)によって「嵐」に改めた。

   さぞな=きっと。

   無明の雲=無知迷妄で雲が月を覆うように真理が見えないこと。

   真如の月=明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること。

   生死を恐れ=(群)「生花を恐れ」。(大)(史)により改めた。

   金剛経金剛般若波羅蜜経。「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是

    観(一切有為の法、夢・幻・泡・影のごとし 露のごとし亦電のごとし 応

    に如是観を作すべし)」という一節がある。主人公の名前の由来か。

〇次は「上野君消息」の予定です。