religionsloveの日記

室町物語です。

あしびき(全編)ーリリジョンズラブ2ー

巻一 

第一章

 さほど昔のことではなかったが、二代の帝に仕えた儒林の隠士がいた。

 この隠士は菅原の家風を継承し、 一筋に祖霊天神の霊力を頼みとして、大学寮でも蛍雪の功を積み、刻苦研鑽したので、学才の名声は朋輩の中ではだれにも引けを取らないほどであった。

 しかし、学問の家は押しなべて貧しい。菅原家もさしたる家領もなく、公に出仕して、どうにか生計を立ててはいたが、鬱々として不如意な生活を送っていた。

 隠士は次第に儒学への情熱が失せていき、学問の交わりも途絶えがちになり、それに反比例するかように世を厭い、仏道に傾倒していった。

 菅原某には一人の子がいた。人は侍従の君と呼ぶ。わが身は世捨て人、どうにでもなれとは思うが、この子の行く末は唯一の気がかりであった。侍従は容貌は比類ない美しさで、学才も抜きんでて、親を離れて学者の目から見ても、将来が楽しみな稚児であった。

 初めは、自分は影法師のような日の当たらない一生であろうが、この子こそ一流の学者に仕立て上げて、絶えようとする我が儒の道を継承して、廃れようとする菅原の家を再興させようと思っていた。しかし、自身が九流の学を修めようという気概が薄れ、不遇をかこつようになると、隠士の心も変化していった。

 『法華経 妙荘厳王本事品第二十七』は妙荘厳菩薩が悟りに到達する話である。バラモン教を信奉する王であった妙荘厳王は、夫人と仏道を修めて神通力を得た浄蔵・浄眼の二王子の諫めにより法華経を聞いて、仏法に帰依したというものである。隠士は我が子に、浄蔵を見た。侍従をどこであろうかしかるべき僧房に預けて出家修学させて、徳を備えた僧となって、己の後生菩提を弔ってもらおうとの思いに至ったのである。

 さて、そのような僧房があろうかと探し求めると、比叡山の東塔に某の律師とかいう、戒を保って行を重ね幾年月、日々新たに修錬を怠らない尊い僧がいるという。この律師には弟子・同法は数多くいた。しかし、いずれもやがて法灯を掲げる者になるとは見えなかった。自分の後を継いでくれるような器量を備えた者がいたらなあと、縁を頼って秘かに探し求めていた。

 侍従の傅(めのと)がこの噂を聞きつけた。

 「比叡山東塔の律師が、自分の後継者として法灯を掲げる器量人を探しているようです。殿は侍従の君をどこかの僧房に預けたいとお考えのようですが。」

 と父朝臣に語る。

 「そのような立派な律師がいるとは私も噂に聞いておる。願ったりかなったりである。話を進められないものか。」

 菅原朝臣はその気になった。律師にもその意向が届いた。器量も申し分ない稚児だという事であった。早速、律師は自ら隠士の邸を訪れた。律師が懇ろに申し入れると、隠士も快く承諾して、登山の日程などを約束して、律師は山へ帰っていった。

 

(注)『あしびき』は新日本古典文学大系翻刻されています。室町仲世さんという漫

 画家がウェブ上で絵物語を公開されています。美しい絵です。

   九流=儒家道家陰陽家・法家・名家・墨家縦横家・雑家・農家。外典とい

    われる仏教以外の学問。

   律師=僧綱の一つ。僧正、僧都、律師の順。

   同法=同門の僧。

   傅=養育係。

   朝臣朝臣は菅原氏の姓。もしくは五位以上の人の敬称。

第二章

 律師は侍従を山へ迎え入れ、改めて対面した。容姿が非常に優れているだけではない。心映えも優雅で、全てを心得ているように思われる聡明さも兼ね備えていた。

 律師は、心の内でよき法嗣を得たと、なみなみなく期待をかけた。房中だけでなく、近隣の人々も、この稚児に折につけ、心を配った。

 侍従の君は学問の家に育ったのだから、詩歌の道に秀でていたのは言うまでもない。それだけではなく、管絃の道にも非凡の才能を発揮させていた。まさに天賦の才と、人々は驚嘆の目で侍従を見ていた。

 そのようであるから、周囲に求められては、春の氷が溶ける日には、「こほりゐし志賀の辛崎うちとけてさざ波よする春風ぞ吹く」と詠んだ江都督の往時を偲んで琵琶湖に遊んだり、冬の雪が積もる朝には「香炉峰の雪は簾を撥(かか)げて看る」と和漢朗詠集に吟じられた香炉峰の雪景色を思いやりながら、比良の高嶺を訪ねたりなどと、時に触れ折にしたがって、風流の楽しみのうちに日々を過ごしていった。

 

(注)江都督=大江匡房平安時代後期の学士、歌人、政治家。

第三章

 このようにして、ニ三年が経った。

 実家の父からは頻りに文が届いた。出家の督促であった。隠士はそのつもりで預けたのであった。賞玩のために供したのではない。

 律師としてはもう少し、俗体のままで修学させたい気もしたが、それも親御の本位に背くことだと、薙髪出家させて、法名を玄怡と授けた。人々からは侍従君玄怡と呼ばれることになった。

 律師は、法体となったからには一途に修学に打ち込むべきと強く戒めた。

 玄怡は、止観十乗の窓の中より三諦即是の澄んだ月を眺めるように、瑜珈三密の壇の前で四曼不離の花をもてあそぶように、あらゆる行に努めて、悟りの境地を求めて邁進した。倦むことなく先達を範として刻苦して学の成ること著しかった。同宿と論を交わしても、真理を見極める力量は玄怡に比肩するものはいなかった。

 律師は、「仏は、この天台の教えをとこしえまで伝えようと、この玄怡を私のもとに遣わしてくれたのであろうか。」と、喜ぶこと一入であった。


 

(注)薙髪=剃髪。僧になること。

   止観十乗・・・=「止観十乗」「瑜珈三密」は修行の方法、行為。「三諦即是」

    「四曼不離」は宇宙万物の真理。修行の中に真理を追究することを、月・花に

    たとえて表現したもの。

第四章

 侍従はとある八月、中秋の十日過ぎに縁ある人と会う用事があり、白河の辺りに二三日逗留していた。夜が更けて曇りない名月が天高く浮かんでいた。かつての晋の王子猶が月を愛でて遥か剡中の戴安道を訪ねたという故事も思い浮かばれて気もそぞろに庭に立ち出でて、詩歌を口ずさんでいると折、気品ある撥音(ばちおと)で琵琶を奏でているのが聞こえてきた。どこで弾くのだろうと耳を澄ます。

 どうも近くであるようだと、音色を頼りに尋ねていくと、風情のありそうな邸の内からひそやかに唱和しながら見事に弾きこなしているようだ。秋風楽であった。声の主はどのような人だろうと、家々を垣間見ながら歩く身は、我ながら白楽天が尋陽で琵琶の音に心ひかれた姿にもなぞらえられてしまうのである。

 しばらくして、十三四歳ほどの童が門口へ出てきた。人の気配を感じたのであろうか。人影を見て怪訝そうにしている童に、「この琵琶はどのような方がお弾きになっているのか。」と親し気に語りかけたが、初めは笑っているだけで答えようともしなかった。しかし、侍従が重ねて問うので、「こちらは南都奈良の民部卿得業と申す人が京にお会いする人がいて、この宿所に留まっているのですが、そのご子息が弾いているのでございますよ。」と答えた。

 妙なる調べに興味をかきたてられて、「それではお歳はいくつであるか。どのような方のお弟子であるのか。」などと事細かく尋ねると、どうしてこのように詳しく尋ねるのかと不審には思うが、ついうっかり答えてしまったので、中途半端に言いさすのもどうかと思って、「歳は十四五におなりでしょうか、東南院僧都のお弟子でございますよ。」と、ひどくそっけなく答えた。

 なおも親しく尋ねようとしたが、童は薄気味悪く思われて,「白河の関守は厳しいものです。(この門は入れませんよ。)」と門を閉ざして入ってしまった。

 ぽつんと取り残された侍従は、しばらくその場に立って、あの琵琶の音の主に会うよすがはないかと考えていたが、せん無いこととてその夜は帰っていった。

 

(注)王子猶=王子猶は王徽之。書聖王羲之の子。戴安道は戴逵。書画、彫刻、琴の名

    手。

   秋風楽=雅楽の曲。

第五章

 次の日も侍従は隣家に立ち寄って、昨夜の邸を窺った。すると御簾の内から十四五ほどの稚児が縁側に立ち現れた。「これがあの琵琶の音の主なのだろう。」と見た。

 用紙、人品、立ち居振る舞い髪の筋が垂れ下がっている様子も、並一通りでなく透きとおるような美しさで、まばゆいものを見るように見惚れていた。

 どのように言葉をかけようとも、手掛かりも思い浮かばなかったが、ただもう心を奪われて、葦垣の隙間を見計らってすっと入り込むと、気づいた稚児はとてもきまり悪く、驚きうろたえた様子で顔を赤らめて、簾の中へ隠れたが、それでも侍従の様が風情ある雰囲気に思われたのか、こちらを振り返っているようだ。その姿を簾を透かして見た侍従は、

 玉だれのみず知らずとや思ふらむはやくもかけし心なりけり

 (玉で作った御簾の中にいる君よ、私があなたを見ず知らずのものと思っているので

  すか。私は以前からあなたに心をかけていたものですよ。)

 と口ずさむと、若君は恥ずかしくてよくも聞いていない様子で、

 おぼつかないかなる隙にも玉だれの誰か心をかけもそむべき

 (疑わしいことですよ。だれがどんな隙間から、御簾の中にいる私に心を懸け初める

  ことができるというのですか。)

 と言って、とぼけながらもなお簾の傍らに立っているので、侍従は縁の際まで近寄って、気の利いた言葉で言い寄ろうとしたが、稚児の態度が冷たくそっけなく感じられたので、なんとなくためらわれて、それ以上どうすることもなく立ち帰った。

 

(注)葦垣=葦を組んで作った垣根。

   玉だれの=御簾の枕詞。みすは御簾と見ずの掛詞。御簾と懸けは縁語。

第六章

 侍従は、父の実家にいる日々も重なったので、そういつまでもこうしているわけにもいかない、山に帰り上らねばと思ったが、人には語れない稚児への思いが思いが日々強くなっていった。なぜに縁もゆかりもない人と出会って心を悩ませるのだろうと、どうにもつらく思われてあれこれ思い乱れていた。

 十八日は居待ちの月が山の端に立ち現れる亥の刻頃、こらえきれなくなって、大方の人も寝静まったろうと例の宿所へふらふらと出かけて行った。

 すると、先日話しかけた童が門の辺りに佇んでいるのに出会った。「これはちょうどよい。」と、「若君はどこにいらっしゃるのか。」と問いかけると扉の隠れに人影がある。近寄ってみるとほかでもない、若君であった。うれしいと形容するのも気が引けるような喜びようで、侍従はさっと袖を引き寄せて語りかけた。稚児も拒まず返事などをして、「このように恥ずかしげもなく言い寄るあなたは、どこのお人ですか。」と言うので、「『あしびきの』とだけ申しておきましょう。袖を引く(誘惑する)のではなくて、足引きですよ。」と返すのに、「大方、山の名は、はっきりどことも判断できますが、きっと私共南都と仲の良くない人のようですね。恐ろしいことでございますよ。」と、なんとも可愛らしく応ずるが、夜もずいぶん更けて起きている人もおるまいと、「月は簾を掲げてみるものですよ。」と、侍従の手を引いて内に入った。

 侍従は、夢とも現ともわからない程混乱していたが、手を引かれるまま奥に入った後は、互いに深く契りを交わした。

 その後は、日暮れとともに招き入れて管絃の遊びなどに興ずる。若君が琵琶の名手であれば、侍従もまた管絃の骨を得た者であった。

 若君の父、民部卿得業、これには気づかぬはずはなく、「素性もわからぬ人が、なんとも無遠慮でなれなれしい。」などと言ったが、不確かながら侍従が人となりや、評判を聞いて、「本当にそのような人ならば、差し支えあるまい。」と黙認したので、その後は憚ることなく行き通っていた。

 しかし、なかなか帰山しない侍従に、律師から「特に相談したいことがある。急いで登山せよ。」との使いが来た。若君と会えなくなることはつらくはあるが、用件が済み次第戻ると言い残して、侍従は山に戻った。

 

(注)あしびきの=「あしびきの」は山の枕詞。山と言えば比叡山を指す。

   骨=今は「コツ」とカタカナで書く方が多い。芸道の奥義、勘所。

第七章

 侍従は山に登っても、白河のことばかりが気にかかって物思いに沈んでばかりいた。律師も侍従が尋常ではないことに気づきあれこれ訪ねて不審を募らせる。そんなわけで、用件が済んだからとさっさと山を下りるわけにもいかず、どうにも仕方なく四五日を過ごしていた。

 勤行も寺務も、しなければならないことは多く、身動き取れない侍従ではあったが、平生を保とうにも、心のいら立ちが日々募るばかりで、とうとう抑えきれずに、全てを振り払って白河へと下った。

 真っ先に例の宿所を訪ねていき、この数日の気分のふさぎようをも、若君に話したいと思ったが、着くとがらんとして人はいない。宿主と思われる者に詳しく尋ねると、「ここのところご逗留なさっていたお方は、今朝方早く奈良へおくだりになりましたよ。」と答えた。侍従は釣り舟を流してしまった海人のような心地で言いようもないぐらい落胆してしまった。「それではいつ再び上京されるのか。」と問い返すと、「私が知ったことではございません。この度だってさしたる要件があってお泊りになったわけではないようですから。」と答えるだけで取り付く島もない。

 侍従が、藤袴や女郎花が露を重たげに載せながら咲いている前栽に立ち寄って、ほのかに漂う花の香に、若君を思い出しながら沈み込んでいる様子に、宿主は不憫だと思ったのだろうか、帰ろうとする侍従を呼び返して、「若君にお仕えしている中童子が、『ああ、山のお方のご宿所はどこでしょう。若君が書いたお手紙をお渡ししたいのですが。』と何度も訪ねてきたのですが、私共もどこのどなたか知らぬゆえ、童も力を落として帰っていきましたよ。ひょっとして山の人とは、あなたのことでございましたか。どうして、昨日一昨日に来なかったのですか。」というので侍従は目の前が真っ暗になる思いであった。

 二日ほど京に留まって、奈良の若君を知るつてもあろうかとあれこれ訪ねたが、聞き出す情報もなかったので、こうもしていられない。

 有明の月は、暁には空にとどまっているものなのに、その暁を待たずに消えてしまった若君を恨めしく思いながら、山へと戻る侍従であった。

巻二 

第一章

 若君は奈良に下り着いても、侍従の面影が忘れがたく、まだ見ぬ比叡の白雲が気にかかって、慣れ親しんだあの夜の月影を思い浮かべて、子細を知っている童を呼んでは、白河の出来事を語っては心を慰めていた。

 そんな具合であるので、得業は若君を呼び寄せて、「いつまでもそんな状態でいるのか、早く僧都のもとに行きなさい。あの方は『京に行っていた時でさえ、待ち遠しく思われていたののに、もう奈良に戻っていたのだから。』と言い寄こしているのですから。」と言い諭すので、あまり気が進まなかったのだが、父の諫めには抗うこともできず、東南院へと赴いた。

第二章

 傍らに付き従う童を見るにつけても、白河の逢瀬ばかりが思い出されてふさぐ様は、以前の稚児とは別人のようで、僧都も、「私のように中途半端に年を取ると、ひがみっぽくなって。」などと、他の人に心奪われている若君に、あれこれと恨み言をいったのである。

 若君は、何事もなかったように振る舞っていたつもりであったが、やはり色に出たしまったのだなあと、自分ながら恥ずかしく思われ、平兼盛の名歌、「忍れど色に出でにかりわが恋はものや思ふと人のとふまで」が思い出された。

 このようにして、九月十日余りの夜、庭に出てあれこれ思いを巡らせていた。折しも空には後の名月がくまなく輝いていた。

 その明るさに促されるように決意する。

 「都へ行こう。あの方を訪ねよう。」

 童にさえ告げず、若君は月の光を頼りに旅立った。夜通し歩いて明け方には宇治の辺りに辿り着いた。

 

(注)後の名月=陰暦九月十三日の月。栗名月。

第三章

 若君は人家を見て門を敲いて、宿を貸してほしいと申し出た。宿の主は不審に思って、「この里人はそうでなくても見知らぬ人を泊めませんよ。まして旅の宿は日が暮れて借りるものなのに、月が西に傾いて通常なら出立を急ぐはずの暁に泊めてほしいとは、非常識にもほどがあるよ。」とひどくなじって言うが、答えに窮してただ涙ながらに、「特に人目を忍ぶことがあって夜通し歩いたのでございます。」と訴えると、主の方も、どうもいわくがありそうだが高貴な方のようだと、おもむろに戸を開けてみると、年頃の非常に美しい稚児が夜露にぐっしょり濡れて立っていた。

 見るからにいたわしげで、たとえどんな鬼神だとしてもこれは放ってはおかないだろうと、「それならば中へおはいりなさい。」と言って邸内に入れながら、「どんな理由でどこへ行こうとしているのですか。馬にも乗らずこんな身なりではだしで歩くとは・・・」などと質問するが、稚児は子細は語らず、ただ「白河の辺りに秘かに訪ねたい人がいて、にわかに出立したのですが、これから先の道がわかりません。でも、どうしても行きたいのです。」と言った。

 その様がいかにもつらそうなので、主はかわいそうに思って、あれこれと気を使い世話をして、「今日くらいはここで足をおやすめなさい。」親切に引き留めたが、「急いでいるからこんな身なりで出かけたのですから。」と、疲れが取れ、道さえ分かれば飛び出しそうな気配である。主は、その切羽詰まって態度に心動かされ、馬・鞍・下人に至るまで取り計らって若君につけて、白河の宿へと送った。

 その好意には、申し訳なくも有り難く、白河に着くと、「どこまでも自分の足で行くべきだったところを、宇治のお宿を頼って、かくも情けをかけていただいたことは、感謝してもし足りないくらいです。」と何度も何度もお礼を申し上げて、人馬を宇治に帰した。

 

(注)はだし=原文では「かちはだし」となっているが、「芦引絵」では草履らしきも

    のを履いている。

第四章

 得業が逗留した白河の宿所に着くと、主は喜んで迎え入れた。

 「そういえば、奈良へ下向いたしました日の夕べに、山の人とか申す者が若君に行方を訪ねて参りましたぞ。もはや奈良へ下りましたと告げたところ、ひどくがっかりして、『普段から奈良より便りはあるのですか。』と尋ねられたのですが、どうにも連絡取りようもなかったのですが・・・やっと若君にお伝えすることができました。」などと話した。

 やはり、侍従の方でも私のことを気にかけていたのだと、しみじみうれしく思って、「その人のいるところは伺っておいでですか。」と聞いたが、「どうして知りましょうか。」と答えるばかりなので、その日はとりあえず白河に一泊した。

 山の人を話題に出した上は、あれこれ詮索もされ、噂にされるのも面倒なことと、ぐずぐずしていても仕方ないと、しののめの空が白んで茜雲の横たわる頃、ちょっと庭先に出るような素振りで白河を出て、大比叡の麓を巡るように西坂本を辿って行った。

  一方宿所では若君がいないと探し回るが、まさかか弱いあの若君が単身比叡山に登ろうとは思いもよらず騒ぎあっているばかりであった。

 赤山禅院の前を過ぎて、大原の方にさしかかった所で出会った法師に、「比叡山はこちらを上るのですか。」と問うと、「こちらではありません。」と、鷺ノ森の方を指して教えられ、あちこち辿るうちに酉の刻の初めごろには不動堂に着いた。日のあるうちは人目もあって、草の陰に隠れて日暮れを待っていた。

第五章

 九月中旬の頃なので、高嶺の強風が雲を払って月もほのかに見え隠れして、夕べに奥深い谷川の岩たたく水音ももの寂しい。鹿や虫の哀しみを誘う鳴き音を聞くにも、大江千里の「月見れば千々にものこそ悲しけれわが身一つの秋にはあらねど」が思い出され、自分だけの秋ではないのだなあとしみじみと感じられた。道芝の露も流れる涙も溢れるほどで、牡鹿の爪が山川ではなく、その露や涙でも濡れてしまいそうだと驚きあきれるほどであった。

 と、十四五ほどの童が先を歩いているのが見えた。若君が呼び止めて、「私は山へ上ろうとしているのですが、もしあなたもそうならば、同道しませんか。」と語りかけると、童も嬉しそうに、「私は東塔へ上ります。あなたはどちらへいらっしゃるのですか。」と聞くのだが、若君は侍従がどこにいるのかは知らない。どこに何があるかもわからないので、「私も東塔です。」と答えた。とかく難儀をしながらもやっと西谷へ入った。

 童は、「これは弥勒堂、あれは千手院。」と事細かく教えてくれた。童の与えてくれた閼伽井の水は月心を映してきらめき、飲めば心に優しくしみて、弥勒堂から聞こえてくる三会の読経の声は、弥勒が我を救うがごとく頼もしく思われた。二人はしばらくやすんでいたが、童は、「私は南谷へ行きます。」と立ち去った。

 さて、若君はどこの房とも知らないので、誰にも尋ねようもなく、思い悩みながら道にしたがって歩いて行った。

 一方、侍従は長年諸寺を往来し、典籍を繙き、経文を広げては巻いて読誦し、先学の教えを深く学び、蛍を窓に掲げるほどであったが、それに引き比べると今は、修学も廃れ、山にいることさえも物憂く思われ、生きながらえる心地もしないほどで、若君を恋思う心ばかりがとめどなく溢れ、修行に出るとでもかこつけて、奈良をも訪ねようと思うようになっていった。

 しかし、長年住み慣れた山を離れることも心残りで、もう一度根本中堂にも参詣して、いとまごいの法施を奉って、読経し、法文を唱えようと、心を静めて堂に入っていると、とある森の下陰からかすかな声で、

 あをによしならひなき身の旅衣きても山路はまよひぬるかな

 (《青丹よしの奈良ではないが》慣れない旅衣身に着てやって来たが、やはり比叡山

  への道は迷うことだなあ)

 誰の声ともわからず聞いて、その名が示す奈良のことが慕わしく思い浮かんで、声のする方に近寄り、声の主の袖を引いて、誰だと問うと、侍従の声を覚えていたのであろうか、手にしたがって誘われるようである。はっと見ると、若君ではないか。

 とても現実とは思えない。あまりに思いが募ったゆえの夢ではないか。これはどうしたことか。と、事態が理解できないでいたが、若君は、「あなたゆえに迷ったのですよ。」と恨み言をいう。

 その姿があまりにいじらしく見え、侍従は、自分の気持ちをあれこれ説明しようとするが、涙でひどく声が詰まって何も言われなかった。稚児もしみじみ悲しく思って、袖に顔を押し当ててお互い泣くよりほかなかった。

 

(注)牡鹿の爪=拾遺集「さおじか(=小牡鹿)の爪だにひちぬ(=濡れてしまった)

    山川のあさましきまでとはぬ君かな」を踏まえる。牡鹿は妻(=女鹿)を慕っ

    て泣くというが、その涙が山川となって爪を濡らすほど私の求めに応じないあ

    なたであることよと、相手のつれなさをかこつ歌。

   月心=こころの月。悟りを開いた月のように澄んだ心。ここでは柄杓などに酌ん

    だ水に映る月影をいったものか。

   三会=釈迦入滅56億7千万年後の弥勒菩薩が人間界に下って衆生救済のために

    行う法会。ここではそれにちなんで弥勒堂で行う読経であるか。

   あをによし・・・=「あをによし」は奈良の枕詞。「ならひ」は奈良と慣らいを

    掛ける。「きて」は着てと来てを掛ける。

   あなたゆえに・・・=前出の和歌を踏まえて、山道に迷っただけでなく、あなた

    のせいで私の心が迷ったのだと言った。

第六章

 そのまま夜を明かすわけにもいかないので、侍従は若君の手を引き、自分の僧房へと誘った。若君は侍従の部屋に旅の具足があつらえられていて、すぐにでも修行の旅に出ようとしていた様子が見て取れたので、きっと侍従の方でも、つらい気持ちでその心を晴らすように旅に出ようと思っていたのだなあと推察されて、侍従を恨む気持ちも多少は緩んだ。二人は日ごろの切なかった気持などを夜通し語って、泣いたり笑ったりしているうちに、秋の夜長は明けてしまった。

 早朝、侍従は律師に呼び出された。「侍従よ、この頃おぬしはどういうことか、以前と違って、つらそうな様子だと見ておったが、気にかかってはいたがよい折もないので声もかけないでおった。年寄りは眠りが浅いでのう。おぬしが毎夜苦吟しているのも、うつらうつらであるが承知しておった。ところが昨夜、耳を傾けておると、どういうわけかいつもと打って変わって、気持ちよさそうに語らいなどしておるので、それはそれ、うれしいこととは思ったが、詳しいことがわからぬゆえ・・・」と言うので、これは最後まで隠し通すことはできないと、一部始終をありのままに語った。

 律師はこれを聞いて、「このようなことがあったとは、まったく思いもよらなかった。まことに珍しいことである。それほどの美童であるなら、醜き老法師であるし、おぬしもかくおいぼれを師匠として引き合わせるのは恥ずかしいと思うかもしれないが、すぐにでも見参させなさい。」と、熱心に言うので、稚児にこれこれと言ったところ、「このようにやつれた姿をお見せすることは、憚り多いことですが、あれこれ言い訳してお伺いしないのもかえってよくないことでしょう。どのようにもお取り計らいなさいませ。仰せに従いましょう。」とさわやかに言った。逢瀬を果たして若君は晴れ晴れとしている。侍従は涙にぬれて寝乱れた若君の髪をかき撫でて、身づくろいさせて律師のもとに連れて行った。

 慣れぬ遠路の旅で、顔はやせて黒ずんではいるが、やはり並の人とは違って、気高さは格別で、誰の目にも魅力的で美しく見える。

 律師がさまざまにもてなすのを、近隣の人々も次第に漏れ聞いて訪れては、「全く優雅な方だなあ。」と心慰められる思いで稚児を見た。ある時は詩歌・管絃など情趣ある遊びを、ある時は乱舞・延年の興趣ある技の限りを尽くして、誰もがたいそう感動して楽しむうちに、十余日が過ぎていった。

 

(注)乱舞=酒宴などで楽器に合わせて踊り乱れること。ラップともいう。

   延年=延年舞。寺院で盛んにおこなわれた歌舞。

巻三

第一章

 東南院では若君の行方が分からないので、急いで得業の邸を訪ねたが、「こちらにもいません。」と言うので、驚きあきれるばかりであった。これはただ事でないと捜させた。得業はあれこれと心当たりをたどったが思い当たるところはなかった。

 ところが、若君に仕える中童子が、「白河の宿所でお遊びになった山の人のことを常に話題にして、その方の行方をお訪ねしたいと言っておりました。もしやそのようなところ(比叡山)へでも行かれたのでしょうか。」と言った。若君のめのとで永承坊の上座の覚然というものが、「それならば私が山へ上って、谷谷を訪ねましょう。」と比叡山に向かって出立した。

 覚然は西坂本で会った人に、「このようなことをもしかしたら聞き及びあるか。」と問うと、「某の僧房に、たいそう評判になっていることがあるそうですよ。」と言うのをさらに詳しく尋ねて、律師の僧房へと行った。

 覚然と対面する侍従に、房を取り囲む若い山法師たちは、「もし稚児を奈良に帰すようなことがあったとしたら、我々衆徒は蜂起してこの房を咎めようぞ。」と何度もいい送った寄こした。そうはいっても覚然が、父得業がつらく嘆いていることを侍従に、繰り返し説き伏せて、「この度いったん下山しても、すぐにでも再び登山いたしましょう。」と言うのを、律師も聞いて、「得業殿の心に背いてはかえって後後うまくいかないこともあろう。お互いの思う心は深いのだから、かりそめに下ったとしても、急いで帰り上れば、どちらもうまくおさまるだろう。では侍従の君よ、奈良まで若君に同道して行け。得業殿にお目にかかって、このことを申せば、まさか異議もござらぬであろう。」などと教え諭すと、若君も侍従も同じ考えで、居合わせた大衆たちにも納得させた。

 律師としても相手は奈良、粗相なきよう準備万端整えて、侍従を供として若君を送り出した。

 

(注)めのと=男の場合は養育係、女の場合は乳母を指す。

第二章

 奈良に行きつくと、得業はことのほか喜び、「ちょっと人の相談することがあって、白河に行った折に、たまたま幼い人とお会いになったと伺って、よいついでもなかったのでそのままにしておりました。この子がなんの分別もなく、山まで訪ねたのはあなたへの思いが深かったからでしょう。これほどの思いと知っておりましたならば、子を思う心の闇のように暗く深いのにつけてもどうにかして私の方から参上すればよかったのですが・・・」などと言った。

 侍従は、若君に志浅くないことは罪深いことだと思われたが、さすがにそれをいうのは気が引けて黙っていた。

 「房主の律師様も、『必ずずっと山にいられるように取り計らうので、きっと仏のみ心にもかなうでしょう。と、よくよく申し上げよ。』と申しておりました。」などと語ったところ、得業は、「そのことはどうするにせよ、幼き人の心に任せましょう。」と言うので、若君は障子の内に立ち聞きをして、秘かに喜んでいた。そこで得業は内に入って、「どうしたものだろう。」と若君に問うと、それが最もふさわしいことで、自分も住山したい旨を、大人びた態度で言うので、「それならば、そのように計らおう。」という事になった。

 得業は、ニ三日侍従を引き留めて、人柄や心映えをさりげなく観察すると、何事につけ風流のたしなみのある様子で、ますます好感が持たれ、我が子が想いを寄せるのもむべなるかなと思われた。それに、山側も、若君の住山を確約してくれるとの趣なので、得業はかえすがえすもうれしく、山からお迎えに来る日などを約束して、侍従は帰っていった。

 

(注)罪深いことだ・・・=不明。得業が若君を溺愛するのが罪深いのか、若君のとっ

    て侍従を愛することが罪深いのか、侍従が若君を愛することが罪深いのか、解

    しかねる。あるいは別解があるのか。

 

 第三章

 東南院では、若君が発見されたことを聞いて、急いで出仕させようとしたが、すぐにでも山へ上る準備もあり、あいにく流行り病気にかかっていると称して、僧都の求めには応じなかった。山に付き従う中童子、送っていく者たちの装束とあれやこれやと調達して、今や迎え来るだろうと待っていた。

 この若君の母親は、何年も前にみまかっていて、得業は身近に世話をさせていた青女房を引き上げて妻としていたが、若君が華々しく準備をして、登山しようとしているのを、わけもなく妬ましく癪に触って、夜半にこっそりと寝所に忍び入って、元結の辺りから若君の翠の黒髪をぷっつりと切ってしまった。

 翌朝になって、見るも無残な姿になった若君を見て、得業をはじめとして面々は、誰がどうしたのかもわからず、いまさらどうしようもなかった。

 こうなっては山へ上ることもできないので、かえって迎えのものに事情をいうのももどかしく、自分の惨めな様を見せるのもつらくて、日暮れには奈良を出て、どこへ行くともなく、さまよい出た。と、熊野に参詣する山伏たちに行き会って、そのまま熊野で山伏の修行を受けることになった。しかし、常に昔を思い出して、

 黒髪のいふかひもなく成りにしは世をおもひきるはじめなりけり

 (黒髪がバッサリ切られたしまったのは、世を(世間を、または、男女の仲を)思い

  切れというきっかけだったのだろうか)

 

(注)青女房=若い女。または身分の低い(六位相当)の女。六位と五位には大きな隔

    たりがある。

   翌朝になって・・・=普通、得業までことが知れれば、詮索して事態が明らかに

    なるのだろうが、記述があいまい。誰かを使って切らせたのか。髪を切られた

    若君が人知れず疾走する方が自然だと思うのだが。

 

第四章

 比叡山では、このような不慮があるとは知るようもないので、約束の日も待ち遠しく思って、法師や童を遣わすと、得業は侍従の手紙を見るや否や、とめどなく涙を流すので、使者も不審に思って、内内、身内の者に訪ねると、若君は何日か前に、得業様の奥方が、秘かに髪を切りなさったので、院中狼狽してどうしようかと、切なく思っているうえに、若君が失踪しなさって、嘆き果てているのですよ。と答えるので、迎えに来た者どもも、かわいそうで言葉にも表しようもなく、茫然として立ち帰った。その折、「しからば確たることををご返事に戴きたいと思います。」と言うので、得業は涙を抑えながら、事の次第を子細に書いて託した。

 侍従は使いが帰ってきたので、稚児がもう上った来たのかと、返ってきた面々に尋ねるが、黙って出された手紙を開いてみると、若君失踪の何とも言いようのない顛末が書かれてあったので、「何という事だ。」と言うよりほかなく、ふとんを被って泣き寝をしていると、律師も驚いて、「どうした、どうした。」と訊くので、起き上がって涙ながらに得業の手紙を見せるのであった。

第五章

  得業は、この稚児以外頼りとする子供もいないので、ただ嘆くばかりで、世間のことにも関わらないで、引き籠っていた。

 それを利用して、この妻は、全て自分の思うに任せて、し得たりと、誰が父ともわからぬ自分の一人娘を、お姫様に仕立て上げて、寺内にいる悪党の鬼駿河来鑒という僧を婿にとって、「得業様が何かの時は、私の娘とともに、婿の来鑒に管理させましょう。」と内々に知らせた。

 房内の者でも心ある者はなんという世の中だと、不安を募らせていた。

第六章

 侍従は得業の手紙を見て後は、悲しみに沈んで寝込んでしまったので、人々はしばらくはそうもなるであろうと思っていたが、次第に体も衰えて、ひどく気弱にばかりなっていくので、律師も、「これはただ事ではあるまい。このような物思いがきっかけで、病気になってしまったのか。」ととても心配する。

 山では適切な治療もできないし、侍従の父朝臣からも、「重病の由、どうにかして下山させて医者にも見せたい。」と言ってよこしたので、京に下り、陰陽師の家を訪ねさせ、医師にはその術の限りを尽くさせたが、これと言って病因を言い当てることも、病状を改善して治癒することもできず、日に日に弱っていくように見えたので、母や乳母などが嘆きあうことは、一方ではなかった。

 侍従は心の内では、何の病であろうか、行方不明の若君への一筋の思いが積もったからであることは自覚していたが、そのような理由だとはとても言い出せなくて、違う理由などを取り繕っていた。「物の怪にでも取り付かれたのかもしれない。息子はきっと座主を継いで、比叡山の法灯を掲げる者になるであろうといわれていたので、魔王が妬んで妨げようとしているのであろうか。」と、父母も困り果てて、「護身加持でもさせてみようか。」と言うので、侍従は、「どうしてそんなことができましょうぞ。山の法師が験者を頼むなど恥ずかしいことです。確かにこのような状態ではそうお考えになるのももっともですが、今となってはどうとなっても(死んでしまっても)仕方ないことです。」などと言うので、「浄行の身であるからそう思うのでしょうが、尊い僧が験者を用いることは昔も今も例は多いことです。だから、『空也上人の肘が折れなさったのを智弁僧正が祈祷してお治しになったり、玄昭律師に物の怪が憑いた時は、浄蔵貴所が験を施した。』と言い伝えられているのですよ。決して忌むことではありません。とりわけ最近世間では評判の、刃の験者と言う人がちょうど京にいるらしいのです。この人は大峯山の大先達で、『なか床の一和尚』で、那智の石窟に何年も参籠し、諸国霊験の地の行脚を積み重ね、飛ぶ鳥も祈り落とすという尊い人との噂です。」と言うので、父がこれほどに言うのをかたくなに拒むこともできず、この山伏と会見してその様子を見ると、髭・髪は白髪が混じって、長年の修錬の行で、功徳も積んでいるだろうと思われる。昔の役行者もかくあるかと思われて、物の怪も悪魔も寄り付きそうもないさまである。

 その脇に、年まだ二十歳に足らずと見えるしとやかに魅力的で、髪や眉の辺りはふさふさとして、衣の裾をゆったりと着こなしている稚児が従っていた。近寄ってみると、山伏の弟子と見えたのは、実は数年来慕い続けていた奈良の若君であった。

 侍従の君もこの若山伏も、お互いに気づいて、「ああ、これはどうしたことか。」と言って、袖で顔を覆って、何も言わず泣き続けた。験者も父朝臣も、どういうことかと驚きあきれて、ただ眼を見合わすだけであった。

 ややして、侍従は刃の験者に向かって、事の次第を詳しく語った。白河に宿所で若君を見染めたこと。若君が単身山に訪ねてきたこと。再度山に上る約束で奈良に帰ったこと。迎えに行く直前に若君が失踪したこと。それがきっかけで病に伏したこと・・・験者は「何とも不思議で感動的なことだよ。私は、思いがけず熊野へ行く道でこの人に行き会って、心持も器量もすべて望ましいので、片時も離すことはありませんでした。少将の君を、大峯・葛城の難行にも同行させ、帝や女院の加持祈祷でもこの人を助修として、このように伴っているのでございます。」と語った。若君は、山伏には少将の君と呼ばれていたのであった。

 これを境に侍従の病はみるみる快方に向かった。父母は、「侍従の心中を察せず、筋違いな心配をしていた。」と省み、験者は、「もはや護身加持の必要はないでしょう。先達はお暇いたしましょう。」と言うので、父朝臣は、それはそれとして、あらん限りに饗応した。

 先達が帰ろうとすると、少将は、自分の気持ちを伝えて暇乞いをした。先達は、「長いこと共に暮らしてきたことゆえ、別れるとあれば名残多くて、どうとでも勝手にせよとは思わないが、事の次第を聞いてしまった上は、融通もせず邪魔立てしたら、情け知らずとも思われよう。少将は侍従の君に従っていくがよいだろう。おぬしがどこにいようとも忘れることはあるまい。このように京に来たときはきっと連絡を取って会おうではないか。」と言うので少将も、「それは申すに及びません。こちらの様子は絶えずお手紙でお知らせしましょう。」などと約束して別れた。

 少将は、髪を切られて登山できなくなって以来の苦しい心中を語った。「迎えのものが来ると決まったのに、髪を切られてしまい、行けなくなって、やむにやまれず姿を消したのでございます。難行苦行をしていた間も、『お召しになろうとしていた律師様はどれほどありえないことだと思っているだろうか。また、侍従の君の心中はいかばかりだろうか。』などとあれこれ思い悩みました。でも一方では、『あの人(侍従)はどう思っているだろう。たいして思い入れもないのに、自分だけがこんなに悩んでいるのかも。』と自分を責めたりしましたが、あなたも、私の失踪が原因でこのように苦しんでいたのだなあと、誠実なお心も思い知られ、感じ入っています。こうなったからには、かねてからの願いに背くようなことは決していたしません。あなたと共に山へ上りたいと思います。どのようにかお取り計らいください。」と言うと侍従は、「私の方もただこのことだけを山王大師に祈願していたのだよ。たとえ末法の世とはいっても、神仏の見えない加護は失われていないのだなあと、心強く思われることだ。おぬしが住山の決意を変えていないのは喜ばしい限りだよ。」と言って、少将を連れて山に上った。

 律師はすでに齢七十にも及んで余命いくばくもないほどであった。後のことは侍従に託そうと思っていたが、当の侍従が何年も患って、いつ死ぬかもわからない様だったので、心づもりと大いに違ってしまったと深く嘆いていたが、病気が平癒して帰山するばかりか、少将の君までも連れて上ってきたので、しかるべき諸天善神のお計らいかなと大いに喜んだ。

 

(注)なか床の一和尚=不明。文脈上、高位の修験者であるらしい。

   末法=釈迦入滅後1500年経った、仏の教えの廃れた時代。

 

巻四

第一章

 このようにしてニ三年が過ぎて、ある時少将が、「かりそめに奈良を出て、何年も音信不通になっている。父得業はどれほど嘆いているだろう。親不孝の非難は免れません。父の今の様子も聞きたいことです。私を連れて行ってくださいませんか。」と誘うので侍従も、「あの折は、ありがたくも住山のことをお許しになったのに、思いがけず途絶してしまった。今このようになっているのをお知りになったら、私たちのことを、なんとも不義理な人でなしと思うだろう。すぐにでも同道して、ご説明申し上げよう。」ということで、小法師たちや大童子たちを少々、道中の用心のために武装させて、奈良へと下った。

 その日は光明山に泊まって、次に日に得業の房に行きつく予定であったが、あまりに長い間連絡を絶っていたので、何の前触れもなくいくのもさすがに憚られたので、東大寺の天害門の辺りにある、少将の君のめのと、覚然上座の宿所、永承房にひとまず落ち着いて、それからうかがう旨を得業のもとに言い送った。

 得業はちょうどその時外出していて、留守居が、「それではお帰りの際には、そう申しましょう。」と言うので、使いは帰って行った。

 

(注)光明山=京都山城にあった真言寺院があった山。

   天害門=手掻門・天蓋門とも。天平時代建立、鎌倉時代修繕。現存する。

第二章

 さて、得業の妻は若君が失踪して以来、大につけ小につけ、自分の思う通り誰憚ることもなく振る舞っていたが、回りまわって若君が帰ってきたと聞いて、ひどく狼狽した。婿の来鑒をこっそり呼んで、「得業殿の子は、落ち着かない方で、この五六年、どこともなく放浪していたので、全てが皆娘の思い通りになっていたのに、まことであろうか、今頃になって山法師と共謀して、私や娘を追い出して、婿殿や家人たちにも恥をかかせようとたくらんでいるようです。武装した法師原と上座の宿所に着いたとの知らせがありました。得業殿は出かけていてこのことはご存じありません。えい、何とかして今夜のうちに始末してしまいなさい。その方が、あなたにとっても私にとっても後々憂いを残さないでしょう。」と言うのを、来鑒、聴きも終わらず、「たやすいことでござる。ゆめゆめ他言は無用。今日に限って得業殿が外出なさっているのは好都合。」と返答してほくそえんで帰って行った。

 覚然上座も得業のお供をして出かけていて、永承房は留守である。わずかに若い冠者たちがいるだけであった。

第三章

 来鑒鑒は自房へ帰ってすぐにところどころの悪党を呼び集めて、「今夜、いささかやらねばならぬことができてしまったのだが、助勢していただけないかな。」と言うと、みな承知して、丑の刻ほどに天害の門の辺りに集合しようと約束した。

 その後、上座の留守を守る冠者たちを呼び出して、「あれこれ考えることがあって、上座の宿所に泊まっていると聞く者どもを今夜秘かに打とうと思っている。このことは誰にも言うではないぞ。もし房内に不都合があったら、急いで我らに知らせよ。よいか、もし裏切ったらただでは置かないぞ。」ときつく言い含めた。

 

(注)悪党=反権力的な武装集団。

第四章

 少将の君がこの房で覚然に薫陶を受けていた時は、禅師の君と呼ばれていた。冠者たちにとっては覚然同様に主君なのである。冠者たちは来鑒の前では承知しましたと言って出てきたが、永承房に帰ると、「禅師殿といえば、我々には代々続く主君筋の方である。この方がいない間は乱暴者で下卑た来鑒や青女房の命令にも従ってきたが、こうして本来の主君がお戻りになった上はたとえ我らが殺されることになろうとも、事の次第を禅師の君にお知らせしないでいられようか。みすみす目の前で主君を討たれることなどあってはなるまい。」と考え、禅師のところへ行き、「これこれというとんでもない企てがございます。得業御房も全くご存じないことでございましょう。この上は夜陰に乗じてとくとくお逃げください。後は我らがどうとでも。」と告げた。

 侍従はこれを聞いて、「山の上では我らはひたすら修学に励むもので、腰刀を提げて武を誇る者ではなかったが、奈良法師が襲ってくると見聞きして、背中を見せて逃げ去ったとあれば、これほど山門の名を傷つけることはあるまい。もし逃げて命があったとしても、そんな卑怯な命には何の価値もないことよ。御忠告はありがたいが、私共のことは放っておいてくだされ。小法師たちに応戦させて、もしやという時には、私が自ら一撃くらわしてやりましょうぞ。」と言い放った。

 山から連れ立ってきた法師・童には「ひたしかりの積刀法師」「後ろ見せずの旄陳法師」「法定なしの武王丸」「かへり宣旨の金剛丸」以下、剛勇のものが五六人いた。これらを近く召し寄せて、「まことであろうか、命知らずの馬鹿者が、今宵ここに攻め入るとの夢のような知らせがあった。おのれらも心していよ。」と言うと、面々も、「興あることではござらんか。愉快なことになりそうだ。」と言って、兜の緒を締め、太刀長刀を身にまとい、今や今やと待ち構えた。

 留守居の冠者たちも、実は屈強の強者であったが、この様子を見て、「ああ、山の公達は、実に皆勇猛であることよ。」と感じ入り、上座が塵一つつけず秘蔵していた鎧二領、弓・胡簶(やなぐい)などを取り出して、「我らも最後までお供いたしましょう。敵がたとえ討ち入っても、すぐには切り合わず、まずは我らが弓の威力をご覧あれ。」と声高らかに言った。

 侍従も武具を身にまとう。籠手脛当てを隙間なく着て、太刀を脇に挟んで、皆の前に立ち、「日頃は隠していた、鋼の強さを見せるのは、今この時ぞ。」と言って、手ぐすね引いてゆっくり歩きまわる。その威容・振る舞いは、あの樊噲の武勇、張良の智略に比べても劣ることなく、頼もしげに見えたのであった。

 

(注)樊噲・張良=漢の高祖の功臣。

第五章

 五月上旬の頃だったので、五月闇で何も見えない。約束の刻限となったので、来鑒は黒皮縅の鎧兜に、目結いの鎧直垂を着て、三尺余りの太刀を佩いて現れて、召し抱えていた屈強の古強盗、二十余人とともに完全武装で天害の門に行った。約束していた大和・河内・吉野・十津川の悪党どもが、こちらの隅あちらの端から寄り集まって、二百人もの軍勢となった。

 一か所に集まって議して、「邸内には多少の山法師がいると聞く。明け方になればきっと名誉あるいくさをしようとするはずだ。いったんは攻め入って、相手の勇ましさに恐れるふりして退却し、おびき出したところを包囲して、首も武器も根こそぎぶんどってしまおう。」とたくらんだ。

 かくて寅の刻になったので、討手は先を争って宿所に押し寄せた。内でも予期していたことなので、面々は打って出ようとしたが、侍従はそれを制して、「我々は小勢である。勢いに任せて攻めてはいけない。まずは敵を邸内に入れるだけ入れて混乱させ、我々は『八大王子』と合言葉をいうのだ。言わないものは誰彼構わず打ち伏せよ。」と命令した。

 門の扉を開け外して来鑒の軍勢がなだれ込むと、まずは冠者たちが矢継ぎ早に弓を射ると、面食らった来鑒勢は二の足を踏んで、進んでこない。それを見た侍従は、「我こそはと思うものは打って出よ。」と言うと、積刀・旄陳二人の法師が勇んで歩み出た。多勢に中にわり行って、積刀法師は多くの敵を打ち取ったが、太股を切られ倒れてしまう。旄陳法師も屈強の者三四人をたちどころに切り伏せて雄叫びを上げたが、兜の鉢を強く打たれて退いた。代わって打って出たのは武王丸・金剛丸の二人の童子、あまたの悪党を門の外へと押し返す。法師・童皆遅れまいと打ちまわるので、敵も容易には近づけず、時間はいたずらに過ぎていったが、相手は多勢、新手が次々に攻めてくる。こちらはわずか六七人での防戦、さすがに疲れてじりじり後退する。

 来鑒はついに縁の上まで立ち入って、寺内の若武者たちに、「鬼駿河来鑒というもの参上。恥ある者は一人もいないのか。いるならお目にかかろう。」と声高に言った。その言葉の終わらないうちに侍従は、「叡山本院の住僧侍従房玄怡ありとは知るや知らずや。」と言って、太刀を抜いて跳びかかる。「来鑒よ。」と太刀で応じて切り結ぶ。双方ともスキがあるようには見えない。火花が飛び散るほどに打ち合って、戦いは互角と見えたが、侍従は太刀をふっと下段に下げ、そこから閃光鋭く切り上げた。虚を突かれた来鑒の膝頭を侍従の太刀がとらえ、のけぞるところを二の太刀で、兜の内側に切り込むと、刃はあやまたず来鑒の首を跳ね上げた。

 「愚か者の張本人をこのように成敗したぞ。」と侍従が叫んで攻め出ると、法師原・童部も後に続けと声を上げて攻めていく。敵方も多少は応戦するものもいたが、大将を討たれた上にもともと寄せ集めの悪党で、大方は我先にと蜘蛛の子を散らすように逃げ惑った。ある者は射倒され、ある者は切り伏せられ、無傷で帰ることができたものはいなかったという。

巻五

第一章

 かくて夜が明けると、奈良中が大騒ぎになった。「来鑒が山法師に討たれたらしい。」となると奈良の大衆も黙ってはいないだろう。一斉蜂起となれば大事、侍従ももう一段覚悟を決めねばと思っていたが、覚然上座の召使の冠者たちが、迅速に得業たちの滞在先に行って、事の次第を知らせると、得業もまた急いで人を遣わし、侍従たちを保護したので何事もなく済んだのであった。

 得業は、ずっと行方の分からなかった禅師が帰ってきたうれしさばかりでなく、侍従が戦で全く手傷を負わないでこの上ない武勲を立てたことにも深く感じ入っていた。「それにしても合戦のきっかけは何だったのか。」と尋ねると、上座の召人が来鑒との問答をつぶさに語り、すべてが妻の方のたくらみだという事が露見した。

 得業は激怒して、今後そのようなことがないように、すぐにでもあらん限りの罰を与えようとも思ったが、そうはいっても込み入った事情もあるかもしれないと、妻の方の家事を取り仕切っている尾張という女を呼び出して、「きっと詳しい事情を知っているだろう。ありのままにもうせ。」と言うと、不愉快そうに薄ら笑いを浮かべて、「伺ったような事実は全くございません。」と白々しく言うので、「しらを切るというのなら、中間法師を呼び寄せて、手足を縛りあげ、つさにかけて、問い詰めようか。」と威嚇すると、おびえわなないて、若君の髪を切った企てから、来鑒と共謀して夜討ちにしようとしたことまで、余すことなく白状した。

 「かくなる上は、妻のお方を大垣の刑に処して、簀巻きにして水に放り込め。」と命令したが、侍従があわれに思ってあれこれとりなして制止したので、得業は、「侍従殿のとりなしとあれば斟酌しないわけにもいかないであろう。それに強引に処刑したら、かえって処刑した方に悪いうわさが経ってしまうかもしれない。」と考え、「それならばせめてもの情け、人知れずこっそりと追い出してやろう。」と、一人娘の姫君、後見の尾張を伴わせて追放した。

 ところが妻の方は、悄然とするでも計らいに感謝するでもなく、「誰かの讒言を真に受けて、無実の罪で長年連れ添った私を追い出そうとするその薄情さ、悔しくて悔しくてなりません。」と顔色一つ変えず言い立てて出ていくので、房中の上下諸人は言うに及ばず、聞き及んだ道俗男女は、門前に人だかりして見物していたが、皆々指を鳴らして、憎み謗らないものはいなかった。

 

(注)つさにかけて=不明。拷問の一種か。

   大垣の刑=大垣を引き回して行う公開処刑

   指を鳴らす=原文「爪弾き」。いわゆる指パッチンだが、相手を非難・軽蔑する

    ときのしぐさ。

第二章

 侍従は手負った者の傷を繕わせ、十四五日ほど奈良に逗留していたが、比叡山でも噂を聞き及んで、若僧・童子たちが数多く迎えに来たので、山へ帰らざるを得なくなった。

 そこで、得業と二人きりで対面した。「長い間病に苦しんでおりまして、快癒を待つうちに、音信もぷっつりと絶えてしまいました。思いがけず再びお目にかかってお言葉を頂戴しようとは。」などと挨拶すると、得業の方も、世にも珍しい宿縁だと繰り返し言って、「手前の小僧(禅師)のことは今はあなたのお望みの通りにいたしていただきとう思います。ただ私は年もずいぶん取って、余命いくばくもありません。それに、先祖伝来の所領も少々ございますし、あのこのほかには受け継ぐ者はおりません。是非にも、この度はあのこをならにとめおいてはくれませぬか。どこにいようともお二人はきっと兄弟のようにお心がつながっておいででしょう。」などと言うので、侍従も「もっともなお言葉でございます。」と承知して、「たとえ異なる宗門での隠遁の身になっても、露の命の絶えないうちは、一つの心であるでしょう。」と言った。お互いに別れたくないのは当然ではあるが、二人は別れの涙を抑えて、禅師の君は奈良にとどまり、侍従は比叡山へと帰って行った。

 

第三章

 奈良にとどまった禅師は、東南院を訪ねた。僧都は年老いて病に沈んでいたが、跡目のことなどを遺言できる僧侶も俗人もいなかったが、「様々なところを巡り巡って戻っておいでになったか。返す返すもうれしいことよ。」と言って、準備して迎え入れ、再び東南院で修学することとなった。やがて僧都が身まかって後は、東南院の跡を継いで、三会の講匠を務め、ほどなく権律師に昇進した。

 一方侍従は以前のように熱心に修学し、学才の誉れはますます高まり、叡山のため、門跡のためには、どちらにとってもなくてはならない存在となった。門跡領も数多く拝領して、位階・俸禄も全く不満なく過ごした。やがて師匠の律師が僧都に転任して、探題の位にまで栄達したが、ほどなく亡くなったので、本尊・経典をはじめとして大切なものはみなこの人が引き継いだ。

 こうしているうちに、父朝臣が病気であるとの知らせが来たので急いで下ってみると、もはや回復しない病と見えた。枕元で仏の教えを説き、念仏を勧めると、病者が頭をもたげて言うには、「儒教の中に『鳥の将に死なむとする時はその声哀しく、人の将に死なんとするその言や善し死なむとする時はその言葉善し』とある。私の言うことをよくよく聞きなさい。」と。

 さらに、「お前が幼かった時から、器量も優れて見え、いずれは一門の業である学問を継がせ、朝廷へも出仕させたいと思っていたが、やがてこの夢幻のようなはかない現世で栄達を願うより、仏門に入って一筋に修学して悟りを開き、私の菩提をも弔ってほしいと思うようになったのだ。お前は期待通りに修学の誉れありとの評判も聞いて、願っていた通りだと喜んでもいた。しかしだ、それが名聞利益のための勤行だとしたら、まことの出離の要にかなう行いだとは思われないのだ。確かに人並みには顕密兼備の修行をしてはいるが、今一層心を入れて修行するのであれば、私も安心して冥土に行けよう。」と言って、これを末期の一言として持仏の阿弥陀像に向かって、念仏を二三十遍高らかに唱えて、やがて眠るように死んでいった。

 

(注)三会の講匠=奈良で行われる三大法会の講師。説教をする人。

   鳥の将に・・・=「鳥之将死 其鳴也哀 人之将死 其言也善」(論語・泰伯)

    死に際の時は哀しげに鳴き、臨終の人は正しいことをいう、の意。

   顕密兼備=顕教密教を兼ね備えた天台宗の教え。

   出離の要=生死の迷いを離れ、悟りを開くための肝要な点。

第四章

 侍従は中陰の法事などを終えて山に帰り上った。そして父の残した遺言をしみじみとかみしめた。すると、世間を出て仏門に入いったのに、なおもはかない栄華を求めているおのれの生涯がひどくつまらないものに思われてきた。「『人としてこの世に生を受けることは稀有なことで、またその身が仏の教えに会うこともまた困難なことだ。』とは、実に我々が朝夕口にすることではないか。それを、私は俗界のつまらぬ交わりを逃れて、大師結界の洞、比叡山に住むことができた。そればかりではなく、前世の善根もあったのか、畏れ多いほどの天台真言の教えを授けられ、誰もが受けられる訳ではない口決相承をも受けられる器ともなった。それなのに、自分は比丘の姿となっても、比丘の行をせず。円実の教えに会いながら、円実を悟ろうとも努力しなかった。ただただ驕りたかぶって、名声や利欲を求めるばかりであった。これではことわざの、『宝の山に入りながら手を空しくして帰る』そのものではないか。それだけではない、それを父上とはいえ俗人に、あからさまに非難されるとは全く恥ずかしいことだ。」との思いが頭を離れず、ひどく辺鄙な山の中にでも分け入って、柴の庵を結んで、五八十具足の戒行をすべて守るのは困難でも、五相十乗を観ずる智慧を堅持して、己の修行に励み、亡父の菩提を弔おうと思った。しかし、一周忌まではただそう思うだけで、あわただしく日々は過ぎていった。

 一周忌の法事がすべて終わり、侍従はすぐに日吉大社に参詣して、宮々を巡っていると、神仏が機縁をお与えになったのであろうか、ふつふつと信心が沸き起こる感じがして、十禅師の拝殿で通夜して一晩中観法につとめて読経を行った。すると、社壇の雰囲気も常にも増して神々しく感じられ、随喜の涙がひとりでに溢れてきた。

 小比叡の峰を渡る風は、まるで菩提へ誘うようで、芝田楽の庭で鳴る鼓の音は、衆生を救済する誓いの音に聞こえた。これは仏が権現に垂迹して済度する方便であろうと、侍従には頼もしく思われた。このようにして周囲を見回すと、猿の叫び声、庭火の影、どれをとっても発心修行の手立てとならないものはないように思われた。

 暁方になって懺法が終わったので、他の大衆は各々急いで、山に帰ったが、侍従は心に決めていたことなので、山には戻らず大原の奥来迎院の傍らに、長年聞き及んでいた尊い止観聖を訪ねて、寂而房と名のって墨染めの姿になった。

 

(注)この章以降、仏語が頻出し、文意が取りづらい。

   比丘=僧。

   円実=天台宗の教理。   

   五八十具足の戒行=五戒・八戒十戒具足戒(あらゆるすべての戒行)。

   五相十乗=仏道の真理を感じる方法。か?

   日吉大社延暦寺の守護神。中に、上七社・中七社・下七社の二十一社がある。

    十禅師は上七社のひとつ。

   芝田楽=神社の前庭で演ずる田楽。

   懺法=経文を唱えて罪科を懺悔する儀式。

   墨染めの姿=黒い僧衣。僧となることだが、寺院がすでに俗化していて、権力や

    富を争う俗世間と変わらない場所に堕していたので、そのような寺院内での地

    位や財産を捨てて遁世することを言ったと思われる。

  

第五章

 一方、少将律師は公の法会を何度も務めて、少僧都の地位を望んだが、下位の者に先を越され、学道に対しての意欲も衰え、隠遁したいとの気持ちが強まり、暇乞いをしようと春日大社を参拝した。

 五重唯識を象徴する緑の簾には、二空真如の露が滴り、百法明門の朱の斎垣には、八識頼耶の影が映って、心からありがたく感じ、感激の涙も目に満ちた。一晩中瑜伽唯識の経典を紐解いて、依他円成も法要を行った。そして心の底から、

 神もなを(ほ)うきを捨てずは春日山かひある法を道しるべせよ

 (春日明神もまだ見捨てないならば頼みがいのある仏の道にこの悩み苦しんでいる私

  を導いておくれ。)

 と祈った。

 このようにして暁が近づいて、夢現(ゆめうつつ)かわからない頃に、気品ある白髪の老翁が束帯姿で現れた。老翁は律師の前に進み出て、「自受法楽の南都を出て忍苦捍労の境遇で光をやわらげ穏やかに暮らすことは、大小権実の仏教の妙味を味わうことと同じである。出離生死の迷いを脱しようと思う事こそ、全ての障碍を超えて、真実仏の恩に報いようとすることになるのだ。四所権現の社の内は名残惜しいかもしれないが、あえてその未練を断ち切って、仏果菩提の道を尋ねれば、八相成道の蓮台の上で三明の悟りを期待できるであろう。(奈良を捨て、侍従への思いを断ち切って遁世すれば、悟りが得られるであろう、との意か?)」と言って、かき消すようにいなくなった。

 元々望んでいた遁世だが、この権現の示現に一層心を強くして、東南院に戻り、親しい人に経典や寺務を託した。比叡山の侍従にも今一度言葉を交わしたいと思ったが、かく決意したからには、かえって無意味なことだと思い、高野山奥の院に入ってひたすら修行に打ち込んだ。

 

(注)春日大社=なぜ暇乞いに春日大社に参拝するのか不明。以後、妙に対句を多用し

    た文体に変化する。しっくりする現代語への訳は難しい。

   五重唯識法相宗の根本教義。

   二空真如=あるがままの真理。

   百法明門=何かの真理か?

   斎垣=神社の垣根。

   瑜伽唯識=真理の一つ?

   依他円成=これも真理?

   自受法楽=法悦の境地にひたり味わう事。ここでは、安穏に暮らすこと。

   忍苦捍労=辛さに耐えることか?

   大小権実=大なるもの小なるもの、仮のもの実体のあるもの。つまりすべてのも

    の。

   四所権現の社の内=山王七社の内の四社。比喩的に延暦寺の侍従を指すか。

   仏果菩提の道を尋ねることは=仏道修行の結果悟りを開くこと。

   八相成道=釈迦が衆生を救う八つのあり方。

   三明=仏の備えている三つの智慧

第六章

 寂而上人(侍従)の大原の庵は、比叡山からさほど遠くなく、顔見知りの同朋らが仏法の不審な点などをしきりに尋ねに来て、念仏にも支障をきたすほどであった。大原の住まいは愛着もあり、良忍上人ゆかりの来迎院を離れるのには未練もあったが、止観聖に暇乞いをして、より閑静な高野山を目指して旅立った。

 本寺や伝法院を参拝し、庵を結ぶにふさわしい地を捜し歩くと、人跡も絶えた谷底の岩の狭間に方丈の庵があるのを見つけた。

 朝な夕なの梵鐘の音が耳の底に響き、竹やぶや松の林に立ち込める霧や靄の色は心に染みた。庵の内ではひどく年老いた声で仏法を談じている。これは尊いことだと思い、立ち寄って耳を傾けると、対面して激しく問答をしている人の声が、少将禅師に似ているように思われた。とうに思いを捨てた人ではあったが、妙に気にかかって、明かり障子をとんとん叩くと、「どなたがどこから訪ねてきたのですか。」と言いながら出てきた人を見ると、かつて慣れ親しんだ少将の君であった。ひどく痩せて顔入りも黒ずんで萎えくたびれた濃い墨染めの衣を着ている。侍従は数珠を手にしながら、「これはどうしたことです。現実のこととも思われません。」と言うと、少将も、「本当に思いがけないことです。」と答えた。二人はお互いに発心遁世のいきさつを語り合って、墨染めの衣が濡れて色が変わるほど涙を流した。

 侍従はそのまま庵室に入り、少将と心ひとつに事理の修行に励んだ。房主の老僧は高齢であったが、病気になって余命いくばくもなく見えた。二人は枕元、足元に寄り添って、老知識の看病をしたので、臨終にも取り乱すことなく、入我我入の境地に入り、手には印を結び、口には真言を唱えて、瞑想するようにして穏やかに息絶えた。

 一二年ほど後、寂而上人はニ三日患っていたが、「今となっては少しでも早く安養上品の蓮台に移って、すみやかに無生を悟れば、誓いの通り阿弥陀仏が極楽浄土へ導いてくださるであろう。」と言って、縄床に結跏趺坐して、浄土に願いをかけ、妄念にとらわれず、観法を成就して命を終えた。

 これを見聞きした遠近の人々は、天台大師の入滅の有様と寸分違わぬと随喜したという。

 

(注)入我我入=修行者が仏陀や菩薩と一体になる境地。

   安養上品の蓮台=浄土にある居場所。

   縄床=縄を巡らせて作った円座風の敷物。

   観法=真理を観察して明らかにする方法。

 

第七章

 今は奈良上人と呼ばれるようになった少将の君は、寂而上人の墓を離れることができず、依然としてたった一人高野の庵室にとどまって修行していたが、後々は霊験あるところどころを修行して歩き、やがて東山の麓の長楽寺の奥に庵を結んだ。済度衆生の心は日々深まり、法華読誦の行は年々積もり、終焉の夕べには天上の楽が空に鳴り響き、沈香栴檀の香りが部屋に満ちて、目の前に三尊が来迎したという。素晴らしい最期であった。

 

 およそ人は常として、はかない夢のような生の内に楽しみに耽溺し、幻のような人生の中に情愛を求めることをひたすら大事なことと思う。儚いこの世を厭い、煩悩のない世界を求める者を、つまらない張り合いのない者だと軽んじる。これほど愚かしいことがあろうか。豪傑や賢者にも余さず取り付く無常(死)という名の殺鬼は朝に寄り添い夕べに近づく。富豪も貴人も嫌わず取り付く有為(はかなさ)という名の怨賊は昼に窺い夜に競って狙う。たとえ僧正・法務の高位を得て、銅陵・金谷の富を得たとしても、輪廻悪趣の妄執ばかりが募って、まったく厭離穢土のすばらしいきっかけとはならないのである。だから、天台大師は、「智解が胸に満ち精進が火を消したとしても、無常を悟らなければ、容貌がいくら美しくても、媚(色気)のないようなものである。」とおっしゃった。浄明居士の言葉に、「この身は幻のごとし。悪道の内に現れる。この身は夢のごとし。虚偽の中にあるのだ。」と述べている。白楽天の逍遥の詩には、「この身はどうして惜しむに足ろう、この身は虚空の塵が集まったものにすぎないのだ。」という。

 このように先人はこの世の無常を説いている。それなのに、我も人も名利の道を求めて苦しみ、求めればかなえられるであろう出離遁世をしようとはしない。そのような中で、寂而上人・奈良上人は、南都・北嶺の住みかを出て、大原・高野に庵を結んで遁世したことは、賢明なことだ。と思われる。

 また、人を思慕し、愛を傾けることは、この世一世の契りではない。卑近なことわざにも、「同じ一樹の木陰に宿をとるのも、同じ一河の流れを酌んで飲むのも、皆前世の契り。」とか申すのですよ。それなのに近頃の世の中は、心映えなど二の次にして、位や身分で人を選び、人情を差し置いて名利を優先させることがあまりに多い。物の数にも入らないとるに足りない私ではあるが、この風潮には、切なさに網の目に余るほど涙が溢れ、つらさに耐えきれない思いの火が灰の下で埋火がこがれるようにじりじりしている。

 こんなわけで、純粋な愛を貫き、権威や名利を捨てて、遁世に生きた二人の昔物語を書き顕して、後の世の参考にしてもらおうと思ったのです。

 

(注)銅陵・金谷=どちらも中国の県名だが、銅・金を語呂よく言ったもの。

   厭離穢土=穢れたこの世を嫌い離れて、浄土へ向かう事。

   天台大師=天台宗の開祖。

   智解=智慧によって悟ること。

   精進が火を消す=不明。対句から判断して精進がプラスをもたらす意か?

   浄明居士=維摩詰。釈迦の弟子。