第十二章
霧が深い。
桂寿は梅若が初めて聖護院に来た日を思い出す。
鳰の湖に濃い狭霧が立ち込め、三井の寺も一間先さえ見定めることができない中、突如現れた一行。霧の底から湧き出でるように。雲の上から降臨するかのように。
わたしも寺に入って間もないころだった。
うちつけな来訪に門主様は驚かれたが、人品卑しからぬ公達が威儀を正して言う。
「わたくしの主家である、花園の左府よりご依頼がござった。大臣がわたくしものとご寵愛なさっている御曹子、梅若殿と申すのですが、しばらくどこぞしかるべき院にて、学問をも詩歌管絃をも深く学ばせんとのこと。この院家、お噂聞き申しております。どうか若君のご教導願えませんでしょうか。」
持参した数々の金銀財宝、いやそれよりも目前にいる稚児のあどけなさ、かわいらしさに門主は否むべくもない。
年の近いわたしは若君に仕えた。
名も告げず、折々に贈り物が届けられる。告げずとも、左大臣殿が若君にことよせているのだろうと、大衆は合点して疑わない。
今思うと、里からの文はなく、客人も絶えて来なかったのであるが。
いや、誰も詮索しないのだ。梅若は何の係累もなく、唯一の梅若という存在だったのだ。
霧が晴れる。
あの時と違うのは、若君が輿に乗っていず、徒歩であることだ。
どれほど歩いたろうか。若君は、三台九棘の家の生まれで、香車宝馬に乗らずに泥にまみれて土を歩むことなどないお方である。足取り重く、心もくずおれて全く歩むこともできない。
手を引く童も疲労困憊、疲れ果てている。
「誰でもいい。我らを救い給え。天狗・妖怪でも構わない。我らを比叡の山へ連れて上ってほしい。我らを救い給え。」
とつぶやいて湖に浮かぶ月に心を悩ませる。唐崎の松の木陰で休んでいる。
と、四方輿が目の前に置かれる。簾の内から異様に年老いた山伏が顔を出す。
「お二人はどこへ行かれようとしているのか。」
桂寿はつい、すべてを正直に話してしまう。
山伏は輿からおりて、
「これは奇縁、拙者はあなた方のお尋ねする勧学院の隣の房へ上ろうとしたのでござる。お二人ともひどくお疲れのように拝見いたしました。拙者は歩いていきましょう。お二人はこの輿にお乗りなされ。」
皺んだ老山伏の表情は判然としない。
疲れ果てている二人は言われるがままに従う。梅若と桂寿を載せた輿は、力者十二人、飛ぶがごとく疾駆する。
茫々と広がる湖水を乗り越え、冥々と暗い雲霧をかき分けあっという間についたのは、比叡の山ではなく、大和大峯山の釈迦ヶ嶽。
力者たちは有無を言わさず、盤石を敷き詰めた石の牢へ押し込める。
漆黒の闇。昼夜もわからず、月日の光も見えない。苔の雫に濡れている。松風のような不気味な声がこだまする。
二人は事態が呑み込めない。ただならぬことになったのは確かなようだ。ただ涙を流すばかりである。
黒々とした石室にすすり泣く声が聞こえる。それも一通りの数ではなさそうだ。松籟ではなかった。男もいる。女もいる。念ずる声も混ざっている。僧侶もいるようだ。
(注)鳰の湖=琵琶湖。
三台九棘=公卿以上の高貴な貴族。
四方輿=公卿、僧綱などが遠出するときに用いた四方に簾を垂らした輿。