religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)⑨ー稚児物語4ー

第九

 その後、比叡山全山で衆議があって、彼の葬送の地に一囲のお堂を建立し、玉若殿の肖像を据えて、三千人の大衆が千部の法華経を頓写(一日で書き写す事)して菩提を弔いなされました。

 ある時、花若殿が御影堂に参拝し御覧になると、いつしか人気のない庭の草は雨に滴り、一本の松は風に鳴っています。さびしげな堂舎を開いてご覧になると、大覚世尊釈迦牟尼仏、左右には文殊普賢の二菩薩がましまし、天井には四種の蓮華が降り、天人が姿を現し、天の鼓が自然と鳴っている風情が描かれ、四面の壁には四季の絵画が描かれています。東には春を描き、花明上苑 軽軒馳九陌塵 猿叫空山 斜月磨千岩砂(花上苑に明らかなり 軽軒九陌の塵に馳す 猿空山に叫ぶ 斜月千岩の砂を磨く)の風情です。南には夏を描き、苔生石面軽衣短 荷出池心小蓋疎(苔石面に生じて軽衣短し 荷池心より出でて小蓋疎なり)の風情、西には秋を描き、三五夜中新月色 二千里外故人情(三五夜中新月の色 二千里の外故人の情)の趣、北には冬を描き、暁入梁王苑雪満群山 夜登庾公楼月明千里(暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり 夜庾公の楼に登れば月千里に明らかなり)、といった趣を表しています。正面の左には一脚の卓子あります。綾の法被、錦せん(金偏に泉)、水引、金襴の打敷、宣旨、爾銅の三具足、紫銅双飾(もろかざり)、鍮鉐(ちゅうじゃく)、香匙、銀の火匙があり、また紅花緑葉の香合に、沈香を盛ります。夜に入ったので、青絹の行灯に一穂の灯をともします。花若殿は「香火一炉灯一盞 白頭夜礼仏名経(香火一炉灯一盞 白頭にして夜礼仏名経を礼す)」という詩句の心を思い出されたのでした。

 余りに名残りが尽きないので、その夜は玉若殿の仏前に向かって、一炉の香を焚きなさいます。すると昔の漢の李夫人が反魂香の煙に姿を現しなさったのを悲しみなさった武帝の思い、あるいは巫山の神女が夢で、「私は雲となり、雨となって立ち現れましょう。」と言ったのを、覚めた後でその面影を慕ひなさったという楚の襄王(懐王)の御涙も、今の我が身のの上のようだと思いなさるのでした。

 「『*漢皓避秦朝 望礙孤峰月 陶朱辞越暮 眼混五湖烟(漢皓秦を避けし朝、望み孤峰の月を礙⦅ささ⦆ふ。陶朱越を辞し暮、眼五湖の烟を混ず。)』と朗詠集にもある。

こうなったらこれをきっかけに、つらいこの世を遁れるにこしたことはないようだ。五帝の昔には、許由・巣父は、尭帝の寵を遁れて隠遁し、周の伯夷・叔斉は武王に仕えるのを拒否して首陽山で蕨しか食べずに命を絶った。漢朝の綺里季・夏黄公・東園公・甪里(ろくり)先生は高祖に仕えず商山の雲に下に隠れ住んだ。人はこれをを称して四皓と言った。顔駟は漢の文帝・景帝・武帝の三代の寵を得られなかったのを恨み(実際は武帝には重用された)、晋の阮籍阮咸・劉伶・向秀・稽康・山涛・王戎等は竹林に籠居して自ら七賢と名乗った。安石(謝安)は会稽山に起居し、商の伊尹は有莘野に逃れ、太公望は渭陽に釣糸を垂れ、諸葛孔明は隴畝(いなか)で耕作をし、魯仲連は海上へと去り、屈宋(屈原)は汨羅に身を沈め、甫里先生(陸亀蒙)は俗人の交わりを嫌い、五柳先生(陶淵明)は「帰去来の賦(辞)」を作り、姜肱は江海に浮かび、范蠡は湖水に掉さし、いずれも俗塵を遁れた。このような人々のようになりたいならば、山林に斗藪(仏道修行)してに閉じ籠もり、樹の下石の上に住みたいものだ。」

 とお思いになって、その夜はこの御堂で通夜して、ことさらに菩提を弔いなさるのでした。

原文

 其の後、満山衆議あり、彼の葬送の地に一囲の精舎を建立し、玉若殿の御影を居(す)ゑ、三千の大衆千部の法華妙典を頓写して、御菩提を弔ひ申され、(る。か)或る時、花若殿彼の御影堂に参り御覧ずれば、いつしか*寒庭の草は雨に滴り、一株の松は風に吟ず。ものあはれなる堂舎を開き御覧ずれば、大覚世尊、左右は普賢文珠の二菩薩、天井に*四種の花を雨(ふ)らし、天人影向し、*天鼓自然鳴の風情を書き、四方にはまた四季の画を書したり。東を春に司り、*花明上苑 軽軒馳九陌塵 猿叫空山 斜月磨千岩砂(花上苑に明らかなり 軽軒九陌の塵に馳す 猿空山に叫ぶ 斜月千岩の砂を磨く)、南を夏に司り、*苔生石面軽衣短 荷出池心小蓋疎(苔石面に生じて軽衣短し 荷池心より出でて小蓋疎なり)、西を秋に司り、*三五夜中新月色 二千里外故人情(三五夜中新月の色 二千里の外故人の情)、北を冬に司り、*暁入梁王苑雪満群山 夜登庾公楼月明千里(暁梁王の苑に入れば雪群山に満てり 夜庾公の楼に登れば月千里に明らかなり)、と云ふ心を書きたり。正面の左には一脚の卓子あり。*綾の法被、錦せん(金偏に泉)、水引、金襴の打敷、宣旨、爾銅の三具足、紫銅双飾(もろかざり)、鍮鉐(ちゅうじゃく)、香匙、銀の火匙、また紅花緑葉の香合に、沈香を盛り、夜に入りければ、青絹の行灯に*一拄の灯あり。「*香火一炉灯一盞 白頭夜礼仏名経(香火一炉灯一盞 白頭にして夜礼仏名経を礼す)」と云ふ心を思し出だされたり。

 余りに名残りの尽きぬ儘に、其の夜は彼の仏前に迎(向か)ひ、一炉の香を焼き給へば、昔の漢の李夫人が反魂香の烟に形を現じけるを悲しみ給ふ漢の武帝の御思ひ、あるいは巫山の神女が雲となり、雨となりて夢の後に立ちし面影を慕ひ給ひし楚の襄王(懐王か)の御泪、今吾が身の上と思し出でたり。

 「『*漢皓避秦朝 望礙孤峰月 陶朱辞越暮 眼混五湖烟(漢皓秦を避けし朝、望み孤峰の月を礙⦅ささ⦆ふ。陶朱越を辞し暮、眼五湖の烟を混ず。)』とあり。所詮此の次に憂き事を遁れんにはしかざれば、五帝の昔、*許由・巣父、尭帝の寵を遁れ、周の伯夷・叔斉は命を首陽の蕨に絶つ。漢朝の綺里季・夏黄公・東園公・甪里(ろくり)先生は身を商山の雲に伴ふ。人是を称して四皓と云へり。顔駟は三代の寵を恨み、晋の阮籍阮咸・劉伶・向秀・稽康・山涛・王戎等竹林に籠居して自ら七賢と号せり。安石は会稽山に臥し、伊尹は有莘野に逃れ、公望は渭陽に釣し、孔明が隴畝に耕し、仲連海上に去り、屈宋汨羅に沈み、甫里先生俗人の交はりを嫌ひ、五柳先生帰去来の賦を作り、姜肱が江海に浮かび、范蠡が湖水に掉さす輩の如きは、山林斗藪に閉ぢ籠もり、樹下石上に住まばや。」

 と思し召しける間、其の夜は彼の御堂に通夜ありて、弥よ御菩提を吊(とぶら=弔の俗字)ひ給ふ。

(注)寒庭の草は・・・=「泣露千般草 吟風一葉松(寒山詩)」に拠るか。

   四種の花=四華。法華経が説かれた時、空から降ったという四種の蓮の花。

   天鼓自然鳴=天鼓(雷)が自然に鳴る事。鼓の音とともに天人が来迎する図。

   花明上苑・・・=「和漢朗詠集・花」が典拠か。晩唐の張読の詩句。

   苔生石面・・・=「和漢朗詠集・首夏」が典拠か。物部安興の詩句。

   三五夜中・・・=「和漢朗詠集・八月十五夜」が典拠か。白居易の詩句。

   暁入梁王・・・=「和漢朗詠集・雪」が典拠か。謝観の詩句。

   綾の法被=以下仏具・調度の類の描写。法被は椅子(卓子)にかける布。錦せん

    (金偏に泉)は不明、錦の毛氈か、水引は幕、打敷は敷物、宣旨は不明。仏像

    を安置する台座に宣字座があるが、それか。経巻か。爾銅はどのような銅かは

    不明だが三具足は華瓶・燭台・香炉、「古銅の三具足」「唐銅の三具足」など

    の用例がある。紫銅は青銅、双飾は左右対になる燭台と花瓶か、三具足とかぶ

    るが。鍮鉐は真鍮製の仏具であろう、花瓶か。香匙は香をすくい取る匙、火匙

    は香を香炉につぐ木製の柄のある匙。香合は蓋つきの香箱。

   一拄の灯=「一拄」という単位は未詳。「一柱」か。

   香火一炉・・・=「和漢朗詠集・仏名」が典拠か。白居易の詩句。

   漢皓避秦朝・・・=「和漢朗詠集・雲」が典拠か。大江以言の詩句。

   許由・・・=以下晩年または一時期隠棲した人物。顔駟は「蒙求和歌」に拠る

    か。安石は謝安の字、伊尹の話は「孟子・萬章章句上」に見える。公望は太公

    望呂尚、隴畝はうねとあぜ、田舎。仲連は魯仲連。屈宋は屈原と宋玉、楚の詩

    人。汨羅に沈んだのは屈原の方。甫里先生は陸亀蒙。五柳先生は陶淵明。姜肱

    は後漢の隠者。

塵荊鈔(抄)⑧ー稚児物語4ー

第八

 以下玉若の遺書

 「それにしてもまあ、竹馬で遊んだ春のころから、同じ桜の花簪を挿したその桜の木の本で、師匠と花若殿と三世の契りを交わした言葉も、今となっては空しくなってしまいました。今、十五の秋の末となって、別れが近づこうとしていますが、別れを見つめる月の前に輝く牽牛織女の二星の契りも妬ましく思われます。その言葉は花の露のように有為転変の風に散って、雲居の雁が鳴く声も故郷から届く手紙のようで、懐かしく思われます。死出の田長と呼ばれるホトトギスの一声も、誰かが黄泉路へと誘っているのでしょうか。花も紅葉も散り果てしまえば、取り残された人の心はどれほどかは思いしらないのですが、その白雪ではありませんが、たやすく人の心から消え去ってしまう我が身だと思うと、つらいこの浮き世です。歌枕の末の松山ではありませんが、野末の松の一本も私を憐れに思って霞んでいるでしょうか。野寺に響く入相の鐘ではありませんが、ずっと思いかねるのは切ない事です。浅香山ではありませんが、この世の契りは浅からず、月影さえ曇る有明の入り江に繋留される棄て小舟のように、空しく朽ち果ててしまいます。かつて胡蝶の夢のように戯れ遊び、傍らに生き残った人々は名残惜しく、そのおしではないが、鴛鴦が浮き沈んでいても、水面下ではせわしなく水かきを動かすように心穏やかでなく思っています。露もかすかである苔の下(草葉の陰=死んだ後)にあわれげに集まって鳴く虫の音を聞いたならば、私だとお思い下さい。そうは申しても、私の書くのもまた、はかない事とは知りながら書き集めた手紙です。藻塩草を搔き集める海士の仕業ではありませんが、藻塩草を焼くように、焼いて煙としてください。ただ一つ悲しい事としては、名残惜しさを表す言葉が浜の真砂のように尽きなくて次から次へ思い浮かぶことです。」

 師匠へと一首添えてあります。

  馴れ馴れし君が衾の下に吾が玉は絶えずも添ひ寝すと知れ

  (ずっと馴れ親しんだあなたのふすまの下で私(玉若)の魂はずっと添い寝してい

  るとわかってください)

 僧正はこの歌を御覧になって詠みます。

  添ひ寝せし衾の下は空しくて涙のみこそ玉と散りぬれ

  (添い寝した衾の下には誰もいません。涙だけが玉のように散ってしまいます)

 また花若殿へと一首、

  ながめこし我は別れとなる跡に花もひとりな(や?)久しからまし

  (一緒に物思いをしながら過ごしてきた私とは別れとなるのですが、その後も花若

  殿はずっと生きていってほしいのです)

 花若殿は泣く泣く一首詠みます。

  限りあれば花は空しく散りぬとも君が詞の玉は朽ちせじ

  (限りがある事なので花が散るように花若《私》が空しく亡くなっても、あなた

  《玉若殿》の玉のようなお言葉は朽ちる事はないでしょう)

 このような文を御覧になるにつけ、ますます目もくらみ、今目の前にある遺書も、白楽天が詠じたという「只以老年泪 一洒故人文(只老年の泪を以つて一たび故人の文に洒⦅そそ⦆ぐ」という章句のように感じられます。また、延喜の帝(醍醐天皇)の崩御の後、黄泉からホトトギスが言伝したという歌に、

  たまさかに問ふ人あらば死出の山啼く啼く独り行くと答へよ

  (ホトトギスよ、もし稀に尋ねる人があったなら、私は泣く泣く死出の山に独り行

  くのだと答えておくれ)

 とあったという事なども思い出されて悲しみを募らせるのでした。

原文

 「さてもさても、竹馬の春の比よりも、同じ簪の花の本、*三世を兼ねた言の葉も、今は空しくなりにけり。十五の今の秋の末、別れに近き月の前、*二星の契り猜(そね)みつる、詞の花の露もまた、有為転変の風に散り、雲居の雁も音信も、古郷をこそ忍ぶらめ。*死出の田長の一声も、誰が黄泉路をか誘ふらん。花も紅葉も散り果てば、跡に残らん人心、さこそと思ひ*白雪の、やすく消えなん身にだにも、心苦しき浮世かな。末野の松の一本も、我憐れにや烟るらん、野寺に*闇(ひび)く入相の、*かねて思ふも物憂さよ。この世は契り*浅香山、影さへ曇る有明の、入り江に懸る棄て小舟、徒にこそ朽ち果てめ。小蝶の夢の戯れし、かたへに残る人々の、名残り*鴛鴦浮き沈み、*下安からん思ひ草、露かすかなる苔の下に、憐れに多集(すだ)く虫の音を、聞かば我ぞと思し召せ、念仏申したび給へ。かくは申せど我もまた、はかなき事と知りながら、かき集めたる*藻塩草、海士の仕業にあらねども、烟となしてたび給へ。只一筋の悲しきは、名残りの惜しき言の葉ぞ、浜の真砂の類なるかな。

 師匠へとて一首、

  馴れ馴れし君が衾の下に吾が玉は絶えずも添ひ寝すと知れ」

 僧正此の歌を御覧じて、

  添ひ寝せし衾の下は空しくて涙のみこそ玉と散りぬれ

 また花若殿へとて一首、

  詠めこし我は別れとなる跡に花もひとりな久しからまし

 花若殿啼く啼く一首、

  限りあれば花は空しく散りぬとも君が詞の玉は朽ちせじ

 かやうの事を御覧ずるにつけ、弥(いよい)よ目も暮れ、心も弱り「*只以老年泪 一洒故人文(只老年の泪を以つて一たび故人の文に洒⦅そそ⦆ぐ」と白楽天が詠ぜしも、今の遺文の如し。また、延喜の帝崩御の後、黄泉より杜宇(ほととぎす)に御言伝ありし歌に、

  *邂逅(たまさかに:左注に「ワクラワニ」)問ふ人あらば死出の山啼く啼く独り

  行くと答へよ

 とありし事ども思ひ出でて憐れなり。

(注)三世を兼ねた言の葉=師匠と三世の契りを交わした言葉の意か?君臣は三世の契

    りとよくいわれるが、師弟は三世の契りともいう。

   二星=牽牛星織女星

   死出の田長=(死出の山から来て鳴くからともいう)ホトトギスの異称。

   闇く=原文に従って「ひびく」と読んだが、「響」の草書の書き誤りか。

   白雪・かねて・浅香山=「白雪」と「知ら(ない)」を、「入相の鐘」と「かね

    て」を、「浅香山」と「浅か(らぬ)」をそれぞれ掛ける。

   下安からん=「下安からぬ」か。「水鳥のしたやすからぬ思ひにはあたりの水も

    氷らざりけり(拾遺集)」優雅に泳ぐ水鳥も水面下では、せわしなく足を動か

    すように心穏やかでない。

   只以老年・・・=何が出典なのか確認できなかった。探索中。

   たまさかに・・・=「神道集」景行天皇の歌として、「わくらばに問ふ人あらば

    死出の山泣き泣き独り行くと答へよ」とある。また、「真名本曾我物語」には

    「わくらばに問ふ人あらば死出の山泣く泣く独り越ゆと答へよ」とある。景行

    天皇のこの辞世の歌を読んだ妃の衣通姫和歌の浦に投身したという。延喜帝

    (醍醐天皇)のエピソードはどこから採ったのか。探索中。

    本文は「行く」となっているので「神道集」に拠るか。

    

塵荊鈔(抄)⑦ー稚児物語4ー

第七

 さて、霊魂となった玉若殿は、偕老同穴を深く語り合った花若殿、また鴛鴦の袂を重ね合うように睦んだ僧正、「芝蘭断金」といった深い契りを結んだ同宿朋友らを振り捨ててたった一人、黄泉中有の旅に赴いて、生死の長い闇の路にお迷いなさっているのは憐れの限りです。玉若殿にお供申し上げる者は七魄を現世に残した三魂と無常の獄鬼と呼ばれる無常鳥や抜目鳥だけです。

 そもそも、冥途を黄泉という事は、春秋左氏伝の注にいうには、「天は黒く、地は黄色で、その中の泉にあるから、あの世は『黄泉』という。」と。また次のようにも云います。中国天台山の西に葱茨山という山があります。かの国の五三昧所(火葬場)です。その麓に三つの河があります。是を三泉といいます。水の色が黄色なので黄泉と名付けられました。この川はおのおのが三つに分かれて流れて九つの川があります。これを九川といいます。高きも賤しきも亡き精霊が集まってこの水を飲みます。この天台山法華経の教えに慕い集まる地、諸仏が影向(示現)する境界で、精霊らが受苦の隙を窺って、群がり、円頓(悟り)の風に涼み、実相(真実の姿)の光に乗ろうとして、争うように上る様子は、まさに春霞が立ち昇るようです。それで「登霞に聖霊?」といわれているのです。また人が死ぬ時、精神をつかさどる三魂は去り、肉体をつかさどる七魄は留まるといいます。その三魂があの世で苦しみを受ける時、七魄は現世に戻って忌み嫌われ、三魂があの世で楽を受ける時、七魄は礼を持って扱われるといいます。七魄は二つの目、二つの鼻、口の穴などです。ですから古い言葉に、「魂気往于天殂 体魄降于地に落つ(気の魂は死んで天に行き、体の魄は降って地に落ちる」というとのことです。

 さて、このままにしてもいられないので、離山の麓で栴檀を薪として積んで遺骸をその中に入れ、一時の煙と成し申し上げ、衆徒たちは泣く泣く山へ上りましたが、花若殿は帰ることができず、人目も憚らず天を仰ぎ地に伏して涙を流して玉若殿を慕い焦がれなさっているのを、僧正殿は諫め申し上げました。

 「これこれ、お心を静めてお聞きなさい。死の縁というものは玉若殿に限ったことではございません。また、別れの悲しみはあなたに限ったことではございますまい。生あるものは必ず滅します。あの釈尊でさえ栴檀の煙に葬られることは免れ得ませんでした。楽しみを尽くした後に悲しみはやってきます。天人でもなお命尽きようとするときには五衰の日がやってきます。胡蝶の三千年の夢に楽しく遊んだとしてもそれは暫時の夢です。北州の楽土で千年生きたとしてもついには終わりを迎えます。人の六十年は稲光や朝露のようなものです。春の朝に花を愛でる者が、夕方には北邙(北の墓場)の風に芒のように散り、秋の宵に月を眺めていた輩が、暁の東岱(泰山)の雲の隠れてしまいます。須達長者の十徳でも、阿育王の七宝でも寿命を買う事はできません。盛者も衰え、この世に留まる者も永久ではありません。一生の栄華は一睡の夢でございます。」

 これを聞きまして花若殿も、「もっともなことです。」と泣く泣く院家に帰ります。帰って、ともに起居した学問所を見ると、玉若殿は玉の露と散って、その窓に残る形見の水茎の跡の文(遺書か)はかえって恨めしく思えます。昔、漢の都の届いたのは空の彼方で蘇武が雁の脚に結んだ手紙、厳島の潮路の波に打ち寄せたのは、鬼界が島で平康頼が卒塔婆に書いた和歌だとか。泣く泣くその文を見なさると何とも悲しい文章です。

原文

 さても*幽霊玉若殿は、さしも偕老の語らひをなし給ひし花若殿、また鴛鴦の袂を重ねし師匠、*芝蘭断金の契り浅からざりし同宿朋友等を振り捨てて只独り黄泉中有の旅に趣き、生死長夜の明けがたき闇路に迷はせ給ふ御事の憐れさよ。伴ひ奉る者とては三魂と無常の獄鬼等が鳥ばかりなり。

 抑も冥途を黄泉と云ふ事は、左伝の注に云はく、「天玄(くろ)く地黄にして泉地中に在る故に云ふ」と。また云はく、震旦天台山の西に葱茨山と云ふ山あり。彼の国の五三昧なり。此の麓に三つの河あり。是を三泉と云ふ。水色黄なる故に黄泉と名付く。此川各々三つに分け流れて、九つの川あり。是を九川と云ふ。貴賤聖霊集ひて此の水を呑む。此の天台山は法華純熟の地、諸仏*影向の砌にて聖霊等受苦の隙を得、簇(むらが)り上り、円頓の風に冷(すず)み、実相の光に乗らんとて、争ひ登る気色、偏に春の霞の登るが如し。故に*登霞に聖霊と云ふ事あり。また人死す時、三魂は去り、七魂(魄か)留まる。其の三魂苦を受くれば、来たりて七魄を禁(い)み、三魂楽を受くれおもえばば、来たりて七魄を礼すと云へり。七魄は二目二鼻口穴等なり。されば古詞に云ふ、「魂気往于天殂 体魄降于地に落つ」と云々。

 かくて惜しむ(措く、か)べきならねば、*離山の麓にて*栴檀の薪に積み籠め申し、只一時の烟と成し奉り、衆徒たち啼く啼く登山せられけるに、花若殿は帰り得ず。人目をも裹(つつ)みかね、天に仰ぎ地に伏して、流涕焦がれ給ひけるを、僧正諫め申されけるは、

 「如何に御心を静め聞こし召せ。死の縁玉若殿に候はず。また別れの思ひ御身に限り候ふまじ。生あるものはかならず滅す。釈尊未だ栴檀の烟を免れ給はず。楽しみ尽くして悲しみ来たる。天人尚*五衰の日に逢へり。胡蝶三千年の勝遊も是を思へば暫時の夢、*北州の千年聿に終わりあり。人間六十年電光朝露の如し。春の朝に花を玩ぶ人、夕べには*北芒の風に散り、秋宵月を詠めし輩、暁*東岱の雲に隠れぬ。*須達が十徳、阿育の七宝も寿命を買う事なし。盛者も衰へ、留まる者も久しからず。一生の栄花は一睡の夢に候ふ。」

 と曰ひければ、花若殿、「勝にも。」とて啼く啼く院家に立ち帰り、共に栖居(すまい)し学文所、玉は散り行く露の窓、形見に残る水茎(の)、文はなかなか恨みなり。昔漢の残りしは、雲居の雁に付けし文、*塩地の波に寄せけるは、是は*康頼が歌とかや。啼く啼く文を見給へばものあはれなる文章かな。

(注)幽霊=霊魂となった。

   影向=神仏がこの世に現れる事。

   登霞に聖霊=未詳。「登霞」は崩御する事だが、聖霊と結びついた熟語は未見。

   芝蘭断金=「芝蘭の交わり」は優れた人同士の交わり。「断金の交わり」は固い

    友情。

   三魂=道教で人にある三つの霊魂をいう。また三魂七魄という形で仏教にも用い

    られる。

   無常の獄鬼=「無常の殺鬼」は死を指す。冥土には「無常鳥」が住むという。十

    王経では、閻魔大王に遣わされた鬼が死者の三魂を地獄の門に連れていくとい

    う。門前の荊の樹には、無常鳥・抜目鳥が巣くっているという。この類を踏ま

    えた記述か。

   影向=神仏が来臨すること。

   登霞に聖霊=「登霞聖霊」という熟語があったか。精霊が天に上るの意か。

   離山の麓=火葬場のようである。未詳。

   栴檀=香木。釈迦入滅の時、栴檀を焚いて荼毘に付したという。

   五衰=欲界に住む天人が死ぬ前に現れるという五種の衰相。

   北州=北俱盧洲。仏教の須弥山説に説かれる四大州のひとつ。寿命千年の楽土と

    いう。

   北芒=北邙か。墓場。あるいは「花」の対句としてあえて「芒」を使ったか。

   東岱=泰山。

   須達=須達長者。釈迦の弟子。祇園精舎を建てた。

   阿育=阿育王。アショカ王。仏教を保護した。

   塩地=植物の名だが、ここは「潮路」の事だろう。

   康頼=平康頼。鹿ケ谷の陰謀の発覚で鬼界が島に流された康頼が望郷の和歌を書

    いた卒塔婆が安芸の厳島に流れ着き、それを知った清盛に赦免されたという。

   

   

塵荊鈔(抄)⑥ー稚児物語4ー

第六

 日数を経ていくと弥(いや)増しに心の月を掩っていき、胸につきまとうのは雲と霧で、心が晴れわたることはありません。玉若殿は、「むなしくはかない露のような我が身を、宿す草葉のような所に風が吹き添って露を飛ばすように死んでいくことは、嫌だと思っても詮無いこの浮き世ほさだめです。」と言って、万事に無常を観じて、和漢朗詠集の章句を思い出されて、口ずさみなさったのです。

  観身岸額離根草 論命江頭不繋舟

  (身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江頭に繋がざる舟=我が身

  を見れば岸辺から根が離れて浮かんでいる草のようなもの、命をたとえていうと川

  のほとりに繋留していない舟のようなもの)

  手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかのよにもすむかな

  (手にすくった水に澄んで宿っている月の姿があるのかないのか分からないような

  夜です。同じように私は生きているか死んでいるのか分からないような世に住んで

  いるのです。)

 無理を押して皆の御慰みにと詠みなさる御姿は、ただもう蓮の花が風に委み、女郎花が露重げにもたれている風情よりも、いっそういたわしい御様子です。師匠の僧正を始め、三塔の衆徒までも、この上なく真心を込めて、大法秘法を修しなさる有様は、昔の、「恵亮脳を砕きしかば二帝位につき給ふ、尊意智慧を振りしかば、菅相霊ををさめ給ふ止む(恵亮が頭を砕いて脳髄で護摩を焚いたら二帝⦅清和天皇⦆が位に即いた、尊恵が剣を振りなさって、菅原道真の悪霊を止めた)」といわれる修法と異なることのないほどです。医家は薬の数を尽くし、陰陽家は録命術を究めます。

 しかし、玉若殿が言う事には、

 「師匠の懇ろな御祈祷、山中の皆様の厚い志はありがとうございます。そうではありますが、無常の暴風には神も仙人もかないませんし、命を奪う猛鬼には貴きも賤しきもからめとられてしまいます。たとえ四部の医書をよく読んで百の治療に長じていても、どうして有待の依身である我が身を救うことが出来ましょうか。また、五経医書の節々を詳しく読んで衆生の病を医すといっても、どうして前世からの業病を治すことが出来ましょう。わたしはただ一筋に後生善処(来世で極楽浄土に生まれ変わること)だけを願うのでございます。」

 師匠を始め皆の者はわけもなく袖を湿らすのでした。そうはいっても、「定業亦能転 求長寿得長寿(その報いを受ける時期が定まっている行為でさえも、仏の教えを十分に受ける力があればよく転じて報いを免れるでき、長寿を求めれば長寿は得られる)」という誓願もあるのだと思い、根本中堂・医王善逝(薬師如来)・十二神将・日吉山王・八大王子・二十一社護法善神を始めとして、難行苦行をして病平癒の宿願を立てそれぞれに祈祷なされました。その外の諸社においても神馬を引き、幣帛を捧げて、「西王母の桃を食べた東方朔の八千年の寿命を与え給え」と祈ったけれども、定業には限りがあるので、護持の法力も叶わず。名医耆婆・扁鵲を頼む典薬の医療も、安倍晴明芦屋道満の子孫である陰陽師の秘術も尽くし切ってしまいました。美妙であった花のようなお顔も無常の風にしぼみ、鮮やかであった月のような姿も、有為の雲に隠れなさろうとしています。それでもさすがに常日頃嗜みなさっていることとて、今わの際にも筆を染めて、

  露結ぶ草の葉末に風添ひて散る玉若と人やいはまし

  (露が結んだ草の葉末にも風が吹き添えて玉と散っていきます。そのようにはかな

  く生きて死んでいった玉若と人は言うだろうか)

 と詠じて、とうとう亡くなりなさったのです。

 古詩にいうといいます、

  平生顔色病中変 (平生の顔色は病中変じ=いつもの顔色は病で変わり)

  芳体如眠新死姿 (芳体眠るが如き新死の姿=芳ばしい体は眠るような死んだばか  

          りの姿)

  恩愛昔朋留尚有 (恩愛の昔の朋は留めて尚有り=恩愛を受けた朋はまだ留まって

          いるのに)

  飛揚夕魂去何之 (飛揚の夕べの魂は去りて何くにか之く=魂は飛び去ってこの夕

          べに何処に行くのか)

  管花忽尽春三月 (管花忽ちに尽きぬ春三月=管花未詳 菅の花は春三月には落ち

          てしまった)

  命葉易零秋一時 (命葉零ち易し秋一時=命ある葉は秋の一瞬に散ってしまう)

  老少元来無定境 (老いも若きも元来定まった境は無い)

  後前難遁速兼遅 (死の後前は早いも遅いも逃れる事はできない)

 又、

  花も散り春も過ぎ行く木の下に寿(いのち)は尽きぬ入相の鐘

  (花も散って春も過ぎていく木の下に命は尽きていきます。夕暮れの鐘が鳴りま

  す。)

 とありますのも(出典は不祥ですが)このような事を作ったのでしょうか。

 師匠・後見・花若殿は、枕元や足元に取り付いて、声も惜しまず泣き悲しんだのですが、花が枝から落ちて再びその枝に開くことなく、沈む月が西に傾いて再び中天に帰ることがないようで、雪かと見えた真っ白な肌も冷えてしまって、乱れて残る黛の色や、こぼれかかる緑の黒髪や、いいようもない御容貌は変わらないけれども、ひとたび微笑めば百の媚態のあった双つの眼も塞がって、顔色は変わりはてたのです。花若殿はそれでも手を取って泣き沈みなさるのです。じつに竹馬の頃からも、同じ寝所で生育し、「長恨歌玄宗楊貴妃ではないのですが、比翼連理と語らいなさった友ですので、帰らぬ旅の別れ路を歎きなさるのももっともなことです。唐の玄宗が紫茵香嚢の離別(楊貴妃との別れをいうか)を悲しみ、秦の穆公のが味愁紛粧(典拠未詳)の有様を歎きなさったのと同様です。その死を見る人は声をつまらせ、その死を聞く者は断腸の思いです。天神神祇も激しく悲しみ、悲しみの余り日月星宿もその明るさを失うほどです。鬼畜は涙を浮かべ、草木は刈れて色を変ずるその有様は、昔、尼連禅河の畔で、釈尊御入滅の二月の十五日に、鷲峰山の日の光が、泥恒の水に沈んで、伽耶城の月の影が、栴檀の烟に隠れて、十大御弟子・五百羅漢のみならず五十二類の者までも別れの道の悲しみに沈んだものと変わりありません。所謂沙羅双樹が枯れて白い鶴のような姿となったという様子が今目の当りに顕れているようです。

原文 

 日数を経ぬれば弥(いや)増しに心の月を掩へるは、胸に立ち添ふ雲と霧、晴れ遣る方ぞなかりける。「あだにはかなき露の身を、宿す草葉に風添ひて、厭ふ甲斐なき浮世かな。」とて、万無常を観じ、口談(くちずさ)み給ふ。

  *観身岸額離根草 論命江頭不繋舟

  (身を観ずれば岸の額に根を離れたる草 命を論ずれば江頭に繋がざる舟)

  *手に結ぶ水に宿れる月影のあるかなきかのよにもすむかな

 と云ふ朗詠を思し召し出だし、せめても御慰みに詠み給ふ御気色、偏に芙蓉の風に委(しほ)れ、女郎花の露重げなる風情よりも、猶いたはしき御様なり。

 師匠の僧正を始め奉り、三塔の衆徒迄も、無二の丹誠を抽(ぬき)んで、大法秘法を修め給ふ有様、昔、*恵亮いただき(「寧」偏に「頁」でいただきとのルビ)を推せば二帝位に即き、*尊恵剣を振り給へば、菅相霊を止むと云ひしに異ならず。医家の薬を尽くし、陰陽*録命術を究む。

 玉若殿曰ひけるは、

 「師匠の御懇祈、満山の芳志有難く候ふ。さりながら無常の暴風は神仙を論ぜず、奪精の猛鬼は貴賤を纏縛す。縦ひ*四部の書を鑑じて百療に長ずとも、何ぞ*有待の依身を救はんや。また*五経の節を詳して衆病を医すとも、豈に先世の業病を治むかな。只一筋に後生善処をのみ願ひ候ふ。」

 と曰ひければ、師匠を始め坐ろに袖を湿らしけり。しかれども、「*定業亦能転 求長寿得長寿」の誓願在りとて、*根本中堂・医王善逝・十二神将・日吉山王・八大王子・二十一社護法善神を始め、難行苦行を致し宿願区(まちまち)なり。其の外諸社に神馬を引き、幣帛を捧げ、*王母も方朔が寿命と祈りけれども、定業限りありければ、護持の法力も叶はず。*耆婆・扁鵲と憑(たの)みし典薬が医療も、*晴明・道満が子孫なる陰陽等が秘術も尽くし了んぬ。妙なりし花顔も無常の風に凋み、鮮やかなりし月姿、有為の雲に隠れ給ふ。流草(さすが)平生御*窘(たしなみ)の事なれば、今はの御時筆を染め、

  露結ぶ草の葉末に風添ひて散る玉若と人やいはまし

 と詠じ、聿(つひ)にはかなくなり給ふ。

 *古詩に云はく、

  平生顔色病中変 (平生の顔色は病中変じ)

  芳体如眠新死姿 (芳体眠るが如き新死の姿)

  恩愛昔朋留尚有 (恩愛の昔の朋は留めて尚有り)

  飛揚夕魂去何之 (飛揚の夕べの魂は去りて何くにか之く)

  管花忽尽春三月 (管花忽ちに尽きぬ春三月)

  命葉易零秋一時 (命葉零ち易し秋一時)

  老少元来無定境 (老少元来定境無し)

  後前難遁速兼遅 (後前遁る難し速きと遅とを)

 又、

  花も散り春も過ぎ行く木の下に寿(いのち)は尽きぬ入相の鐘

 と候ふもかやうの事をや作り候ふ。

 師匠・後見・花若殿、*跡枕に取り付き、声も惜しまず泣き悲しめども、落花枝を辞して再び開く習ひなく、残月西に傾いて又中天に帰らざることなれば、雪かと見ゆる肌も冷え了って、乱れて残る黛の色、飜(こぼ)れて懸る緑の髪、わりなかりつる御貌は易(かは)らねど、一度咲(ゑ)めば百の媚在りし双つの眼も塞がりて、顔色変はり了(は)てければ、花若殿猶も手を取り組み泣き沈み給ふ。勝にも竹馬の比よりも、一つ衾(ふすま)に馴生成(なれそだて)、比翼連理と語らひ給ひし友なれば、帰らぬ旅の別れ路を歎き給ふも理なり。唐の玄宗の*紫茵香嚢の離別を悲しみ、秦の穆公の*味愁紛粧の有様を歎き給ひしに異ならず。見る人声を呑み、聞く者腸を断つ。天神神祇も感激を垂れ、日月星宿も其の明を失ふ。鬼畜涙を含み、草木色を変ずる有様、昔*泥連河の測(ほとり、側か)にて、釈尊御入滅の二月の中五日には、*鷲峰山の日の光、*泥恒の水に沈み、*伽耶城の月の影、栴檀の烟に隠れつつ、*十大御弟子・五百羅漢・五十二類の者迄も別れの道の悲しみ在り。所謂*沙羅林枯れて白鶴と成りし有様も親(まのあたり)顕れたり。

(注)手に結ぶ・・・=五句目が「世にこそありけれ」で、「拾遺和歌集 1322・紀貫

    之」に見える。本文と同じ「世にもすむかな」の形でその前の漢詩句とともに

    「和漢朗詠集・無常」に見える。「すむ」が月影もしくは水が「澄む」のとよ

    に「住む」を掛ける。「よ」は夜と世を掛ける。貫之辞世の歌。

   恵亮=平安前期の天台僧。惟仁親王清和天皇)が惟喬親王立太子を争った際

    に護持し大威徳法を修したという。春宮位を争う相撲で惟仁方の善男が惟喬方

    の名虎に負けそうになった時、独鈷で頭を割り、脳を芥子に混ぜて護摩を焚い

    て善男を勝たせたという。平家物語、曾我物語、保元物語などに見えるエピソ

    -ドで、「恵亮脳を砕きしかば二帝位につき給ふ、尊意智慧を振りしかば、菅

    相霊ををさめ給ふ止む」と叡山では何かにつけていわれていたらしい。尊恵は

    尊意の誤り。(百二十九本平家物語《新潮古典集成72句宇佐詣で⦆、覚一本

    《小学館新古典全集巻8名虎⦆)

   録命術=禄命術か。陰陽五行における運命を打開する呪法か。

   四部・五経=ともに中国の医学書。素問経・大素経・難経・明堂経(四部)。素

    問・霊枢・難経・金櫃要略・甲乙経(五経)。

   有待の依身=生滅無常の世に生きるはかない身。人の身。

   定業亦能転 求長寿得長寿=その報いを受ける時期が定まっている行為でさえ

    も、仏の教えを十分に受ける力があればよく転じて報いを免れるできるという

    こと。菩薩の願いとされる。「故に定業亦能転、求長寿得長寿の礼拝、袖をつ

    らね、幣帛礼奠を捧ること暇なし。(平家物語巻2康頼祝言)」

   根本中堂・・・=以下は比叡山の寺社。医王善逝は薬師如来

   王母も方朔が寿命=西王母という仙女が漢の武帝に長寿の仙桃を与えたという。

    東方朔はその桃を盗み食いして長生きしたという。

   耆婆・扁鵲=インド・中国の伝説的名医。
   晴明・道満=平安時代陰陽師安倍晴明芦屋道満
   窘=「窘」は苦しみ。ここでは「嗜み」の意味か。
   古詩=未詳。そのあとの歌も未詳。
   跡枕=後枕。足枕。足元枕元。
   紫茵香嚢=出典未詳。
   味愁紛粧=出典未詳。
   鷲峰山=霊鷲山。尼連禅河の畔にあり、釈迦が「感無量寿経」や「法華経」を説
    いたとされる山。
   泥連河=尼連禅河か。釈迦が大悟したというガンジス川の支流のネーランジャナ
    ー川。
   泥恒=「泥」は尼連禅河、「恒」は恒河(ガンジス川)か。
 
   伽耶城=ブッダガヤ。尼連禅河に臨む仏教の聖地。この地の菩提樹の下で釈迦が
    悟りを開いたという。
   十大御弟子・五百羅漢・五十二類=釈迦の入滅に立ち会った、仏弟子以下・
    人々・五十二類の生き物。
   沙羅林=釈迦の入滅した沙羅の林。入滅の際に白く枯れ、白い鶴のようであった
    いう。
 

塵荊鈔(抄)⑤ー稚児物語4ー

第五

 「あなたとても岩や木でできている身の上ではごさいますまい。心の底に秘めている恋心をお語りなさい。」

 と僧正が責めておっしゃると、玉若殿はこれを聞いて、

 「まことにおっしゃることは道理です。さほど遠くない昔の事でしょうか、俊恵法師といった者は、この世に並ぶ者のない数寄者のお方でした。ですから春には雲や鳥の跡を見て、花の下で名残惜しくて家に帰ることを忘れ、秋には十五夜の月を夜もすがら詠めて、二千里の外の友人に心を馳せました。そうはいっても花が散り蝶がその羽色が衰える季節を見ると、有為転変の理が涙となって視界を遮り、葉が落ち秋の虫が悲し気に鳴く様を見ては、老少不定の嘆きが胸に満ちます。この道理に諸事を忘れたのです。それなのに、二月中旬釈迦入滅の頃、余寒がまだ残って籬の山の花ざかりの時を待ちながら過ごしている際に、『取るに足りない私の命も花の咲くのを待っていると惜しく感じられるよ。』と上の空になっている様子を、妻女はこれを不審に思って、『どのような誰に心を奪われて、花の咲いていない木陰を吟じて、心を悩ませているのだろう。』と嫉妬したので、その時俊恵法師は、そうだとも違うとも返事はしないで、一首を詠じたのです。

  あぢきなや花待ちかぬる思ひゆへ恋すと妹にうたがはれぬる

  (情けないことだ。花の咲くのを待ちかねてつらい思いをしているのに、妻には誰

  かを恋していると疑われてしまったよ。)

 この歌を聞いて妻は嫉妬の疑いを解いたという事です。昔にもこのように疑われた例はございますから、今の師匠のお考えも見当外れだとは思いません。ただ、私のお国は筑紫の大宰府です。路程百里の険難の道を通って、遥かに遠い国境を越えて、幼少の頃に叡山に上ってからは、まだ故郷へは帰ったことはございません。ですから二親や兄弟の面影が身に寄り添って離れず、涙が袖に溢れて包み隠すこともできません。人目にもわかるように穂に出て、穂に出た糸薄ではありませんが、乱れた心で錦を織ったという蘇恵の夫を恋しく思うその衣、それに朱買臣が故郷会稽に錦を飾った故事は、真守迄も羨ましく(?)、望郷の内に没したという東平王の古墳の松は故郷の方へ傾いているといいます。讃岐で薨去なさった崇徳院の火葬の煙は都の方へ靡いたといいます。これらは皆生まれ故郷や家族をを恋しく思う気持ちです。吾身に重ね合わせられるのでございます。」

 と言いますので、僧正は是を聞きなさり、

 「まことに禽獣の類さえ、『胡馬北風に嘶(いば)う、越鳥南枝に巣くう』といいます。寒い国の雁は暖かい国で啄んでいても、春を待ってその寒い北国へ帰るそうで、華胥国の燕は、南国に巣を作っても、本国を忘れないという例もあります。ましてや人間においては故郷を偲ぶのは当然の事です。玉若殿の御様子は雁が列を乱して北嶺(比叡山)の峰の雲で腸をこすって断ち切れたように悲しみに満ちて、籠の鳥が友を偲んで大宰府で月を見ては恋焦がれなさって、このように心を乱していると見えます。少々狂気じみてはいますが至極もっともな理、二親兄弟、古里の親類上下に至るまで、恋しいと思い申し上げている、そのような思いが積もっていったのでしょう。延喜の帝醍醐天皇の御狂気は天満天神菅原道真の無罪遠流の御祟り、冷泉院の狂気(もももけ)は民部卿藤原元方の悪霊とか。小野小町のなれの果ては、深草の四位の少将が恨みです。物思いが祟りを成すこともありましょう。一方、魚籃馬郎婦観音は恋に狂い自分に求婚する若者にお経を暗誦させることで、一切衆生を利益して、自身も解脱なさったという事です。このような例も多いのですから、玉若殿の御悩みもまことに素晴らしいことです。」

 と言って、僧正は涙を流したのでした。

原文 

 「御身とても岩木を 結ばぬ御事なり。心の底を語り給へ。」

 と。僧正強ちに曰ひければ、玉若殿聞き給ひ、

 「勝(げ)にも仰すは御理、中古の比かや、*俊恵法師と云ひし者、天下無双の物数寄の仁たり。されば春は雲鳥の跡を花の底に惜しみて帰らん事を忘れ、秋は三五の月を終夜に詠みて、*二千里の外に心を遣はす。然れども花飛び蝶衰色の節を見ては、有為転変の理の涙眼に遮り、葉落ち虫愁ふる有様を見ては、老少不定の嘆き胸に満つ。此の理へは諸事を忘れけり。然るに*二月中旬の比、余寒未だ残りて*籬の山の花時を過ぐす間、『数ならぬ命も花を待たば惜しきかな』と、上の空になる色を、妻女是を怪しみ、『如何なる誰に心を移して、花なき陰を吟じ、心を悩ますらん』と、妬みければ其の時俊恵法師は是非の返事に及ばず、一首詠じけり。

  あぢきなや花待ちかぬる思ひゆへ恋すと妹にうたがはれぬる

 此の歌を聞きて妻女嫉妬の怪しみを止めけるとかや。昔もかやうに疑はれし事の候へば、今更御*僻事(ひがごと)とも思ひ侍らず。但自(みづから)が郷国、筑紫大宰府なり。路数百里の険難を経、遼遠の境を隔て、幼少にて登山の後、未だ故郷へ帰り候はず。されば二親幷に兄弟の面影、*見に添ひければ、袖に余れる吾が涙、裹(つつ)みかねたる有様の、*穂に出でけるが糸薄、乱れ心に錦織る、*蘇恵も人を恋衣、さて会稽の*朱買臣、錦の袂を廻(かへ)せしは、*真守迄も羨ましく、*東平王の墳の松、故郷の方へ傾きぬ。*崇徳葬処の御烟、都の方に靡きけり。皆是生土を恋ふる思ひなり。吾が身の上と思ひ合はせて候ふ。」

 と曰ひければ、僧正此の旨聞き給ふ。

 「勝に禽獣の類さへ*胡馬北風に嘶(いば)ふ、越鳥南枝に巣くふなる。寒国の雁は暖国に啄むと。(めど、か?)春を待ち得て帰るなる、*華胥国の燕、南国に巣を作るとも、本国を忘れぬ様(ためし)あり。況や人倫に於いてをや。玉若殿の御有様、*辺雁行を乱して、腸(はらわた)を北嶺の雲に断つ。籠鳥友を忍びて思ひを宰府の月に焦がれ給ひ、かやうの御乱心にや。少し*狂気におましますも十分の御理、二親兄弟、古里の親類上下に至る迄、恋しと思し奉る、左様の積もりも候ふべし。

 其れ延喜の帝の御狂気は*天満天神無罪遠流の御祟り、冷泉院の狂気(もももけ)は*元方の民部卿の悪霊か。小野小町がなれる了(はてと読むか?)、深草の四位の少将が恨みなり。さて*魚籃馬郎婦は狂人の学をして、一切衆生を利益し、自身も得脱し給へリ。かやうの様(ためし)多ければ、玉若殿の御事も勝に憐れなる御事。」

 とて、僧正涙を流しけり。

(注)俊恵法師=平安時代歌人鴨長明の歌論書「無名抄」に見える。このエピソー

    ドの出典は未詳。出家以前の話か。

   二千里の外に心を遣はす=白氏文集に拠る。友人を思う心。

   二月中旬=二月十五日は釈迦入滅の日。

   籬の山=未詳。解釈が難しい。

   僻事=間違い。心得違い。

   身に添ひ・・・=このあたり七五調。謡曲っぽい。

   穂に出でける=人目につくようになる。表面に出る。「穂」が縁語となって「糸

    薄」に続き、「糸」が「乱れ」へと続く。

   蘇恵=五胡十六国時代前秦の女性詩人。夫が赴任の際に帯同していかなかった

    のを悲しんで840字の回文の詩を錦に織り込んで贈ったという。「錦字(恋

    文」の語源。

   朱買臣=前漢武帝時代の官僚。若いころは貧しく妻は愛想をつかし離縁したが、

    後出世して故郷に錦を飾った朱買臣を見て元妻は恥じて自殺してという。

   真守=原文「真」にサネのルビあり。「さねもり」と読むか。未詳。平安時代

    期の刀工に真守という人がいたらしいが。

   東平王=中世の紀行文、今井宗久の「都のつと」に東平王の塚の記述がある。宮

    城県岩沼市に東平王墓古墳という前方後円墳が現存する。唐人(帰化人)の東

    平王が故郷を恋いながらこの地で亡くなったとある。また「本朝文粋」巻3

    に、「東平王之思旧里也、墳上之風靡西、天門山之伝新名也、峡中之煙掃

    地。」とある。望郷の異国人として知られたようである。東平王が誰かは諸説

    あるらしい(百済王敬福大野東人)。中国で東平王と呼ばれた人物には、後

    漢の光武帝の子劉蒼、三国時代呉の孫権の孫、孫明皓の子(名字不明)などが

    いる。

   崇徳=崇徳院保元の乱で敗れ、讃岐に配流され没す。

   胡馬北風・・・=「文選」の古詩「胡馬は北風に依り、越鳥は南枝に巣くう」に

    拠る。故郷は忘れ難いこと。

   華胥国=老子が夢に見たという理想郷。

   辺雁行を乱して=意味が取りづらい。漢詩に典拠があるのか。「雁行の乱れ」は

    後三年の役の時に八幡太郎義家が雁行が乱れたことで伏兵に気づいたという故

    事。あまり関係がない。菅原道真の詩に「秋思詩編独断腸」という句がある

    が、関係があるか?「北嶺」「断腸」「籠鳥」「宰府の月」などから大体の感

    じはつかめるが。

   狂気=玉若は僧正を「僻事」とまではいわないが見当外れだと言い、僧正は玉若

    を「狂気」だと言う。麗しい師弟関係とは思えないのだが。

   天満天神=菅原道真

   元方の民部卿藤原元方。娘祐姫の子広平親王が皇太子になれなかったことで、

    失望し悶死したといわれる。その後怨霊となって冷泉天皇を祟ったと噂され

    た。

   小野小町平安時代歌人深草の少将は小野小町の元に九十九夜通ったが恋は

    成就しなかった。後年落魄し野ざらしになったという伝説がある。

   魚籃馬郎婦=魚籃観音。また馬郎婦観音ともいう。中国唐の時代、魚を扱う美女

    がおり、観音経・金剛経法華経を暗誦する者を探し、めでたくこの3つの経典を暗

    誦する者と結婚したがまもなく没してしまった。この女性は、法華経を広めるため

    に現れた観音とされ、以後、馬郎婦観音魚籃観音)として信仰されるようになっ

    たという。(ウィキペディア)恋に狂った若者たちに結婚の条件としてお経を暗誦

    させ導いたらしい。醍醐天皇以下の例が狂気が祟りとなったものであるのに対し

    て、魚籃観音の例は美貌で若者をかどわかすように見えて、実は衆生を救済する方

    便だったという話で、狂気を肯定し、玉若の聖性を示すのものであろう。

 

塵荊鈔(抄)④ー稚児物語4ー

第四

 また、ほどほど昔の頃か、嵯峨開山(嵯峨山大覚寺開祖恒寂上人?)がまだ若年で石侍者と申していた頃、仏法修行をして、諸国諸寺を遍参して、当山(比叡山)にお上りになりました。頃は二月半ばの事で、さる院家の庭の梢は、まるで大庚嶺の梅が風に匂い、金谷園の花が盛りを待つ風情です。『遥かに人家を見、花有れば則ち入り、貴賤と親疎とを論ぜず』という白居易の詩の心に引き寄せられ、立ち寄りなさると、少年が一人います。その少年が何となく谷より喬木へと遷る鶯の初音とともに木々の梢に心を奪われているような折に、梅の花が雪のように散り、桜の花が雲のように群がり咲くのに戯れなさっているような御様子です。含章殿の軒下で落梅の花片が寿陽公主の額に貼りついたという、その時の美しい面影、また玄宗皇帝が千葉の蓮の花が咲いている大液池のほとりで愛しい楊貴妃を指して、この蓮たちも私の解語花(人語を解せる花=美人)にはおよばないだろうと戯れなさった容貌も、この少年のようであったでしょう。天竺の尊陀羅女、月に住んでいる桂男もこの少年と比べればものの数ではございません。道念堅固の石侍者も煩悩を離れて悟りを求める心もすっかり失ってただ茫然となさるのでした。ああ無情にも松風が花にもつれなく吹いて、妻戸をきりきりと鳴らすので、少年は誰か戸の方から見ているのであろうかとお思いになり、顔を赤らめしずしずと御簾の内に入りなさる御様子に、石侍者は宝石を見慣れた崑崙山の鳥が宝石を投げつけられても驚かないように、花に戯れている蝶が花を恐れないように大胆になって、やるせない気持ちを一首りりあえず、

  願はくは霞の幕を吹き上げて内なる花を見せよ春風

  (お願いだ。霞の幕を吹き上げて中にいる花のようなあなたを見せておくれ、春風 

  よ)

 と申し上げると、少年は憐れと思い立ち止まりなさって、御簾をわずかに引き上げなさって、

  深く立つ霞の中を想像(おもひや)れ只尋常の桜なりけり

  (霞の濃く立ち籠める中を想像してみてください。そこにあるのは尋常の桜です

  よ)

 とおっしゃったので、石侍者は一旦は妄執に侵されなさったけれども、真如の月は曇らず、迷いの雲は晴れ除かれて、いよいよ修錬苦行して、仏法の大棟梁となって帝や将軍の師範ともなりなさったのです。神々の世でも、また諸宗派の先徳でも、若年で未学の時には一時の妄念がないことはないのです。ましてや末世の凡生きの我々はなおさらのことです。恋に悩むのはもっともな事ですよ。

原文 

 *また中昔の事かや、*嵯峨開山未だ若年にして*石侍者と申せし時、仏法修行して、諸国遍参し当山に登り給ふ。比(ころ)は二月半ばの事なれば、さる院家の庭の梢偏に*大庚嶺の梅風に匂ひ、金谷園の花盛りを待つ風情なり。『*遥かに人家を見、花有れば則ち入り、貴賤と親疎とを論ぜず』と云ふ詩の意誘引せられ、立ち寄り給へば、少人一人何となう御心を谷より出る鶯の*遷喬の初音と共に、木々の梢に移し給ふ折境(をりふし)、梅の雪の散り懸り、桜の雲の簇(むらがり)なるに戯れ給ふ御有様、含章檐下の落梅の*寿陽公主の御額に点ぜし面影、また玄宗皇帝千葉の蓮花を大液池の畔に愛し、楊貴妃を指して、争(いかで)か吾*解語花にはしかじと戯れ給ふ御気色も此くやらん。天竺の*尊陀羅女、月に宿せる*桂男も屑(もののかず)にて候はず。道念堅固の石侍者も*厭離の心失せ了(は)てて只忙然と成り給ふ。*あら心無きかな松風の花にも強面(つれなき)折柄、妻戸をきりきりと吹き鳴らせば、見る人ありと思し召し、顔うち赤らめ徐徐(やうやう)と御簾の内に入り給ふ御有様、*玉に馴れたる鳥、驚く心なく、花に戯る蝶、恐るる処なきがごとし。石侍者せん方なさの余りにや、一首とりあへず、

  願はくは霞の幕を吹き上げて内なる花を見せよ春風

 と申されければ、少人憐れと思し召し立ち留まり、翠簾(みす)を若若(ほのぼの)と引き上げ給ひて、

  深く立つ霞の中を想像(おもひや)れ只*尋常の桜なりけり

 と仰せければ、石侍者一旦の妄執に侵され給へども、*真如の月の陰(くも)らねば迷雲は晴れ除きて、弥よ修錬苦行して、仏法の大棟梁と成り、*六朝帝王の師範と成り給ふ。神代また諸宗の先徳とても、若年未学の御時は一端の妄念無きにても候はず。*況や末代の凡生をや。

(注)また・・・=ここで富士山から話題が転換する。ただ、恋の話というテーマは継

    続する。

   嵯峨開山=嵯峨山大覚寺は開山は恒寂入道親王であるが、この人を指すのであろ

    うか。

   石侍者=固有名詞ではなさそうである。石のように堅固なもしくは融通の利かな

    い仏菩薩に仕える者という意味か。

   大庚嶺・金谷園=漢詩の歌枕というか、よく詠まれる場所。「大庾嶺之梅早落    

    誰問粉粧 匡廬山之杏未開 豈趁紅艶(和漢朗詠集 紀長谷雄大江音人)」

    「金谷酔花之地 花毎春匂而主不帰 南楼玩月之人 月与秋期而身何去(和漢朗詠

    集 右大臣報恩願文 菅原文時)」日本人も題材にしている。

   遥かに・・・=「遥見人家花便入 不論貴賤与親疎(尋春題諸家園林 白居

    易)」和漢朗詠集にあり。漢詩の引用は和漢朗詠集経由が多いか。

   遷喬=鶯が谷から高い喬木に遷ること。転じて高い地位に昇進したり、よい方向

    に転じたりすること。

   寿陽公主=南朝宋の武帝の娘寿陽公主が人日に含章殿の梅の木の下で眠っていた

    ら梅花が散り、その一片が彼女の額について離れなくなった。これを梅花粧と

    して宮人皆梅の花びらをかたどった化粧を施してこれに倣ったという故事があ

    る。

   解語花=言葉の分かる花。美人を指す。唐の玄宗皇帝が蓮の花を指して、「この

    花も解語花(楊貴妃)には及ばないよ。」と言ったという。

   尊陀羅女=未詳。釈迦の弟子、孫陀羅難陀に美人の妻がいたというがそれか。

   桂男=月の世界に住んでいるという伝説上の男。または美男子。

   厭離=あらゆる煩悩のきずなから解放された悟りの境地。

   あら心無きかな・・・=「心なき風の扉をきりきりと吹き鳴らしたるに見る人あ

    りとあやしげに見やりて・・・(秋夜長物語第3)」と類似した表現。「秋夜

    長物語」はおそらく叡山の僧の手による稚児物語で、影響を受けているか。

   玉になれたる・・・=「崑崙山には石も無し、玉してこそは鳥も抵て、玉に馴れ

    たる鳥なれば、驚くけしきぞ更になき。(梁塵秘抄・229)」とある。ここは

    少年の様子ではなく、それを見た石侍者がとった行動についていったものか。

   尋常=平凡な・優れた、の両義がある。ここは平凡なの意であろう。

   真如の月=真如によって煩悩の闇が晴れる事。

   六朝帝王=六朝は中国魏晋南北朝時代。仏教が盛んであった。もしかしたら六朝

    時代に後、嵯峨開山と呼ばれる石侍者と呼ばれる修行者がいたという話かもし

    れないが、諸国を遍参し当山(比叡山)に来たというのは変であるし、嵯峨は

    和名っぽい。「帝や将軍」のぐらいの意味か。

   況や・・・=凡俗であるあなたが恋に迷うのは当然である、の意だが、次章で玉

    若自身に否定される。それほど感動的な展開ではないと思うが。

塵荊鈔(抄)③ー稚児物語4ー

第三

  巻2から巻10までは花若・玉若の記述は多少の問答はあるようですが、ほとんど見えないようです。(精読したわけではありませんが。)ですから③は巻11冒頭から始めます。

 早物語の盲僧が情感たっぷりに玉若・花若・師匠の情愛を語ったのでしょうか。それが巻2か巻10まで続くと思うとすごいのですが、実際は百科事典みたいに知識の披瀝に終始しているようです。

 それで、巻11の冒頭では突然玉若が病気になってしまいます。巻10に伏線があるわけでもなく急に物語的になってしまいます。ちょっと無理がある感じです。稚児物語的な部分の割愛があったのでしょうか。

 そして、師匠の僧正が玉若の病は恋のなせる業だと恋の典拠を述べるのですが、玉若に否定されます。なんとも感動できないのですが・・・

 

 玉若殿が病に就く事

 さて、玉若殿は体に異常をきたして、ぐったりとした様子で病の床に就きました。それは、昔、漢の李夫人が昭陽殿で病の床に臥した辛さや、唐の楊貴妃が「梨花一枝春雨を帯ぶ」と形容なされた御様子もこのようなものだったのだろうかと思われるほどです。僧正がひどく驚いて、

 「そなたの御様子を拝見いたすと、ひどく常ではない御様子と見て取りました。どなたかを偲んでの忍ぶ草の思いが長く続いて、袖の中に隠しておいても蛍のようにその色は顕れるのですよ。どのような事でもお悩みになっているお心をお語りなさいませ。お相手が天竺・震旦・新羅百済の方ならさておいて、我が日本の事ならばどんなことでもあなたの思いをかなえて差し上げましょう。」

 とおっしゃるので玉若殿はとても驚きなさいました。

 「お師匠はなんとも思いもよらぬ事をおっしゃいますよ。」

 と言って季節外れの紅葉を散らすように顔を赤らめなさいました。僧正殿は重ねて言葉を続けます。

 「昔もそのような例はございます。語るのも畏れ多いのですが、天照太神兜率天にいらっしゃった時に、富士浅間大菩薩に恋をなさって、一首の歌を送りなさいました。

  浪高み荒磯崎の浜松は琴一伽羅の響きなりけり

  (波が高い荒磯崎では浜の松の松風も波の音に消えて、唐琴一台分の音色しか聞こ

  えません。あなたのお声もほとんど聞こえないのです。)

 と御詠なされたので、白衣の仙女が忽ち富士の峰の頂に立ち現れなさいました。仙女は反魂香を焚いて大菩薩の魂を呼び寄せ、天照大神一行は駅鈴を鳴らしながら駿河の国に行き、その面影だけですが御覧になって大日霊(おほひるめ=天照大神)の御心は慰められ、恋に闇路も晴れなさって、富士の煙も絶えたという事です。この浅間大菩薩をまた千眼大菩薩(千手千眼観自在菩薩)と申すのは、愛欲こそ菩提に至るという愛染明王の御垂迹で、三十二相を具えなさっている女体の御神様だからです。

 この富士山は昔は天竺七島のうち、第三(もしくは三つ)の島であったが、本朝天つ神の時代に割れ裂けて飛んできたので飛来峰と名付けたのです。その時波の上に浮いていたのが波で打ち寄せたのです。その後、人の世となって、この国を駿河の国と名付け、それで『駿河の山』となったので、枕詞では『打ち寄する駿河』というのです。また、麓を元の浮嶋に因んで『浮嶋が原』というのです。

  舟よばふ富士の川戸に日は暮れて夜半にや過ぎむ浮嶋が原

  (舟を呼んで富士川の河口の港に日は暮れて出港しても夜半に浮嶋が原を過ぎるだ

  ろうか)

 この山をまた般若山といいます。その形は蓮の花を合わせたようで八弁です。中央に窪みがあります。その底には水が湛えられています。また四八山ともいいます。三十二相を具現した美しい山なのでそういうのです。また浅沼の岳、藤岳ともいいます。この沼の四方から藤が生え上って中で寄り合っています。また鳴沢ともいいます。この峰には大きな沢(崩落地)があります。その沢の水と火が相克して噴煙と水蒸気が交じり合って立ち上り、沸騰した水が沸き返る音が常に絶えません。ですから袖中抄に、このような歌があります。

  さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

  (共に寝る時間は玉の緒のように短い。恋しく思うことは富士の高嶺の鳴沢の

  ように鳴り響いています)

  煙立つおもひや下にこがるらん富士の鳴沢声むせぶなり

  (富士山に煙が立っている。私があなたを思う思いの火がその煙の下で焦げるよう

  にあなたを恋い焦がれているのでしょうか。富士の鳴沢の音は咽ぶように聞こえて

  きます)

 また、この山を富士と名付けたのは、御神体が女神でいらしたので、男の士(もののふ)を富ませようと欲したために人々が言祝いで名付けたともいわれています。また、不尽とも書く理由は、至って高いので眺望が尽きないからとのことです。もしくは四時雪が消え尽きる事がないからです。また不死とも書き、蓬莱ともいいます。これは仙術の方士がやって来て不死の薬を求めた蓬莱山がこの山であると言ったからです。そうして秦の二世皇帝の皇子が方士に従ってこの山の麓にやって来て住んだという事です。秦河勝はこの皇子の十三代の後裔です。また、日本記紀には宣化天皇の御宇に海中から湧き出したともいわれています。また、孝霊天皇の御時に一夜で地中から湧き出して一由繕那(16㎞)にもなったと云々。それで新山といい、見出し山ともいいます。また、三重山、神路山、常盤山、三上山などと申すも説あります。

 また、天武天皇の御宇に、駿河に国に竹作りの翁という者がいたそうです。竹を植えて上手に育てる人であったそうです。その翁がある時竹藪の中で鶯の卵をあるのを見つけました。その中に金色に輝く卵がありました。これを取り上げて自分の家に置くと、七日経って端厳美麗の少女となって光を放ったそうです。そこで翁は自分の子として赫姫(かくやひめ)と名付けました。駿河の国の国司、宰相金樹がこの事を帝に奏聞しました。帝はこの赫姫をお召しになってこの上なく御寵愛なされました。三年を経てこの姫が帝に申し上げました。『私は天上の世界の天人です。君とは宿縁があって仮に下界に下ってきましたが、縁は既に尽きようとしています。』と言って形見の鏡を献上して天へと昇って行きました。また、不死の薬に一首を添えて残し置きます。

  今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる

  (今はもうお別れだと思って天の羽衣を着る時になってあなとのことを恋しく思い

  出されます)

 帝は御返歌に、かの薬を添えて返しなさいます。

  逢ふことの涙に浮かぶ我が身には不死の薬もなににかはせむ

  (逢うことができないで涙に浮かぶ我が身にとっては不死の薬も何になろうという

  のです、何にもなりません)

 その後帝は鏡を抱いたまま床に臥してしまいます。焦がれる胸の思いが鏡に燃えついて全く消えなかったので、公卿たちが僉議を開いて、土の箱を作ってその中に鏡を入れて、元あった所だからと駿河の国に送って置きましたが、猶燃える事は止まないので、国人は大いに懼れて、富士の頂まで上り置いたのですが、この煙はやはり途絶える事はありませんでした。その後朱雀天皇の御宇に、富士の煙の中から声があったといいます。

  山は富士けぶりも富士のけぶりにて知らずはいかにあやし(かなし?)からまし

  (山といえば富士、煙といえば富士の煙です。そんなことを知らないとはなんと不

  思議な⦅悲しい⦆ことでしょう)

原文

 玉若殿違例之事

 ここに玉若殿例ならず、所労の心地にて悩み給ふ。されば昔、漢の*李夫人の昭陽殿の病の床に臥し、唐の楊貴妃の*梨花一枝春雨を帯び給ふ御有様もかくやらん。僧正大いに驚き曰ひけるは、「此の御気色を見たてまつるに、殊なる御風情とのみ見及び申し候ふ。*忍ぶ草の縁を長し、袖の蛍の色顕はれ給ふ。何事にても思し召す事御心を隔てず御物語候ふべし。天竺・震旦・新羅百済の事は先ず置きぬ、吾が朝においては何事にても御意に任すべき。」と宣ひければ、玉若殿大いに驚き給ふ。「さても思ひもよらぬ事を宣ふものかな。」とて、時ならぬ顔に紅葉を散らし給ふ。僧正重ねて曰ひけるは、「昔もさるためしの候ふ。忝くも天照太神兜率天に御座(おまし)て、富士浅間大菩薩を恋ひさせ給ひて、一首の歌を送り給ふ。

  *浪高み荒磯崎の浜松は琴一伽羅の響きなり*けり

 と御詠ありければ、富士峯頭に即ち白衣の仙女顕現し給ふ。*反魂香を焼(た)き、*駅路の鈴を鳴らし、面影ばかり御覧じて*大日霊(おほひるめ)御心を慰み、恋の闇路も晴れ給へば、富士の烟りも絶えにけり。彼の*千眼大菩薩と申すは、*愛染明王の御垂迹、三十二相を具へ給へる女体の御神なり。

(注)李夫人=漢の武帝の夫人(側室)。絶世の美女で寵愛されたが若死にしたとい

    う。

   梨花一枝春雨を帯び=長恨歌の一節。楊貴妃の悲しげな様子。

   忍ぶ草の縁を長し=意味未詳。自分の恋心を抑えていたという事か。

   袖の蛍の色顕はれ=文保百首に「袖につつむ蛍のみかはあきらけき君の光も身に

    ぞあまれる」藤原実重、とあるようである。袖に隠しても蛍に光と君(帝)光

    は明るいのである、という意味か。僧正は玉若の病気を恋に病と解釈したの

    だろう。

   浪高み・・・=一伽羅が何の単位なのか。唐琴一台分か。波が高い荒磯崎なので

    で浜の松の松風も波の音に消えて、唐琴一台分の音色しか聞こえない、との意

    か。典拠未詳。荒磯は歌枕としては越中の海岸だが。

   けり=原文では「梟」だが、文脈上「鳧」でけりと読むのだろう。

   反魂香=焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現すことができるという

    想像上の薬。

   駅路の鈴=駅鈴。駅使(公用で旅する者)が与えられた鈴。この鈴によって各駅

    で宿泊・食糧を供給された。仙女が駅鈴を鳴らす意味がわからないので、天照

    大神の一行の方が鈴を鳴らして現地(駿河)に赴いたという苦しい解釈をす

    る。

   大日霊=大日孁貴(おほひるめのむち)。天照大神の別称。

   千眼大菩薩=文脈上富士浅間大菩薩指すが、「千眼」は千手千眼観自在菩薩に通

    ずる。浅間大菩薩は本地垂迹による本地仏大日如来らしい。女神天照大神

    大日如来に恋をしたというエピソードは何に拠るのか。祭神としては「木花開

    耶姫」で女神である。

   愛染明王=愛欲を主体とする愛の神。煩悩である愛欲が菩提となる、その象徴。

 此の富士山の昔は*月氏国七島の内、第三の島なりしが、吾が朝天神の時代に破裂(われさ)けて吾朝へ飛び来るゆえ、*飛来峰と名付く。其の時波上に浮きけるを、浪打ち寄せけり。其の後人代に成りて此の国を駿河の国と名付け、然れば駿河の山と成る故に、「*打ち寄する駿河」と云へり。また、麓を*浮島が原と云ふ。

  *舟よばふ富士の川戸に日は暮れて夜半にや過ぎむ浮嶋が原

(注)月氏国七島=月氏はインドの古称であろう。インドの島の一つが飛んできたとい

    う話は出典未詳だが、中国には杭州に須弥山に似ているというので須弥山の

    「飛来峰」だという景勝地があるらしい。

   打ち寄する=駿河の枕詞。一般的には「する」が「駿河」を引き出しているとい

    う解釈だが、ここでは「打ち寄せた島が駿河の富士山を作った」と解釈してい

    るようだ。ちょっと無理がある感じだ。

   浮島が原=富士山麓の湿原。語源は未確認。鎌倉時代の「東関紀行」の中に浮島

    の由来を、「この原昔は海上に浮かび、蓬莱の三つの島のごとくありけるによ

    りて浮嶋と名付けたり」とあるという。

   舟よばふ・・・=出典未詳。

 此の山をまた*般若山とも云ふ。その形合蓮花に似て八葉なり。中央に窪あり。其の底に池水湛へたり。また、四八山とも云ふ。三十二相を具せる山なり。また浅沼の岳、藤岳とも云ふ。此の沼の四方より藤生上り、中にて寄り合ふ。また*鳴沢とも云ふ。此の峰に大なる沢あり。其の水と火と相剋して烟と水気と和して立ち上り火燃水の沸き返る音常に絶えざるなり。されば*袖中抄に、

  *さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

  *煙立つおもひや下にこがるらん富士の鳴沢声むせぶなり

(注)般若山=以下に[YamaReco]のHPに出ていた「富士山」の別称・呼称・愛称、呼び

    名を転載します。「日本山岳志」が出典のようです。

    不二山・ふじさん  不自山・ふじさん  不死山・ふじさん

    福慈山・ふじさん  不士山・ふじさん  不時山・ふじさん

    藤嶽山・ふじがやま 塵山・ちりやま   三重山・みえやま

    常磐山・ときわやま 二十山・はたちやま 聚新山・にいやま  

    見出山・みだしやま 三上山・みかみさん 神路山・かみじさん

    羽衣山・はぐろやま 東山・あずまやま  御影山・みかげさん

    竹取山・たけとりやま国深山・くにのふかやま 鳥の子山・とりのこさん

    乙女子山・おとめこやま 芙蓉峰・ふようがみね 八葉嶽・はちようだけ

    和合山・わごうさん 影向山・ようごうさん 仙人山・せんにんさん

    七宝山・しちほうさん  四面山・しめんさん 養老山・ようろうさん

    妙高山みょうこうさん  吹風穴山・ふくかぜあなやま  

    恋中山・こいのなかやま  鳴沢高根・なるさわたかね 高師山・たかしやま 

    時不知山・ときしらずやま  穀聚山・こくじゅうやま

    四季鳴山・しきのなるやま ずいぶんあるんですね。

   鳴沢=富士には大沢崩れという大規模な崩落地がある。山梨県側の麓に鳴沢とい

    う地名がある。

   袖中抄=鎌倉時代の歌学書。

   さ寝らくは・・・=万葉集巻14・3358に見える。「玉の緒」は短いもののたと

    え。「共に寝る時間は玉の緒のように短い。恋しく思うことは富士の高嶺の鳴

    沢のように鳴り響いている。」の意。

   煙立つ・・・=出典未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの「袖中抄」で

    は確認できなかった。「おもひ」は「思ひ」と「(おも)火」をかける。煙と

    火と焦がるとむせぶが縁語か。「富士山に煙が立っている。私があなたを思う

    思いの火がその煙の下で焦げるように焦がれているのでしょうか。富士の鳴沢

    の音は咽ぶように聞こえてきます。」の意か。 

 また此の山を富士と名付くる事は、御神女体にておませば、男士に富めしめん事を欲する故に*俗祝ひて名(付く?)と。また不尽とも書く故は、高きに至りて瞻望尽きざるなり。また四時雪尽きざるなり。また不死とも書く、蓬莱とも云ふ。是は方士来たりて不死の薬を求めし蓬莱とは此の山と云へり。然る間、秦二世の皇子方士に伴ひて此の麓に来住す。秦河勝は彼の十三代後裔なり。また*日本記紀宣化天皇の御宇に海中より湧出すと云ふ。また孝霊天皇の御時、一夜に地より湧出で、*一由繕那と云々。然れば新山と云ひ、見出(みいだし)山とも云ふ。また三重山、神路山、常盤山、三上山など申す説あり。

(注)俗祝ひて=人々が讃美したのか。男がいっぱい集まりますよ、と御世辞を言った

    のか。

   方士=秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて徐福が東海の蓬莱山を求めて

    海上に旅立ったとの記述が「史記」にある。それを承けて日本各地に徐福伝説

    が存する。富士山の麓富士吉田にも徐福伝説がある。「宮下文書」も偽書では

    あろうがそのひとつ。

   日本記紀=「古事記」「日本書紀」には富士山の記述はない。中世の「日本紀

    は必ずしも「日本書紀」を指さず、日本の歴史として多くの人に共有された神

    話という意味合いのようだ。いずれかの史料にあったのだろうか。

   一由繕那=「由繕那」は「踰繕那」か。由旬ともいう。梵語で距離の単位。一由

    繕那が40里(中国)とすると、約16㎞。

 また*天武天皇の御宇、駿河の国作竹(たけつくり)の翁と云ふ者あり。竹を植えて能く生(そだ)つる人なり。或る時竹中に鶯の卵数多あり。其の中に金色の卵あり。之を取りて吾家に置くに、七日を経て端厳美麗の少女と成りて光を放す。乃ち翁が子として赫姫(かくやひめ)名づく。駿河の国国司、宰相金樹此の由奏聞す。帝是を召して寵愛他に異なり。三年を経て彼の姫奏して曰く、「我は上界の天人なり。君と宿縁ありて仮に下界に下る、縁既に尽きぬ。」とて形見に鏡を奉りて上天す。また不死の薬に一首を添へ置く。

  *今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる

 と。帝の御反歌に、彼の薬を添へて返し給ふ。

  逢ふことの涙に浮かぶ我が身には不死の薬もなににかはせむ

 と。其の後、帝彼の鏡を抱いて伏し給ふ。胸焦がるる思ひの火と成りて、鏡に付けて総て消えざれば、公卿僉議ありて、土の箱を作り中に入れて、本所なればとて駿河に国へ送り置くに、猶ほ焼け止まらざりければ、国人大いに懼れ、富士の頂に上せ置くに此の烟猶ほ絶えざりけり。其の後朱雀院の御宇、富士の烟の中に声ありて云ふ、

  山は富士けぶりも富士のけぶりにて知らずはいかにあやし(かなし?)からまし

 是によりて富士の烟を恋に読みけるなり。

(注)文武天皇・・・=竹取説話は中世の古今和歌集注釈書や歌論書に多く引用されて

    いる。古今和歌集序聞書三流抄にも、「日本紀云ふ・・・」として本文と同じ

    内容の記述がある。

   今はとて・・・=「時ぞ」、が「折ぞ」と若干異動はあるが竹取物語に同様の和

    歌がある。逢ふことの・・・の和歌も竹取にある。

   山は富士・・・=出典未詳だが、「神道集」巻8に「山も富士煙も富士のけぶり

    にて煙るものとは誰も知らじな」というよく似た歌がある。