religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息⑩ーリリジョンズラブ4ー

消息 その5

 諸仏の説教は浅いところから始まり、深いところに至ります。まずは俗世間の事を例にとり、出世間の法を教えるのです。 私が申し上げる万事は無益な下らないことに似ているようですが、五教の初め、小乗教では空観の心に当たるものです。もう少し学が進んで賢い人はさらに深い観念をするべきです。円頓の教法が蔵に満ち箱に充ちてはいても、学ぶ者はいません。三世の諸仏は空にいらっしゃり、国々においでになるけれども、それを観じようとする者はいません。ですから、身に聖人になろうとの修行を願い立てても菩提(悟り)を取ることは難しく、心に仏道の因縁を観ずる兆しはあるけれども正覚(正しい悟り)は成就できないのです。

 およそ、本当の聖人(ひじり)と申す人はこのように思うのです。『津の国の難波の事(万事)は皆、御法(仏法の教え)につながるだ。童子が戯れに砂で仏塔を作っても、その功徳によって仏道は達成されるのだ。何気なく折り取った一房の花が未来に花王(けおう)と呼ばれる仏の悟りを得られる契機となるのだ。なべて世間の営みの中にも仏道成就の基はあるのだ。』と。

 およそ、真実の菩提を得ようと思う人は、円観念を凝らすべきです。円観念と申すとは、自分の心性を観ずる事です。

 自分の心には、実体というものはあるのでしょうか、ないのでしょうか。あると言おうとすると、目を閉じて心を想起しても実体はなく、心には色も形もありません。しかし、実体がないと言おうとしても、自分の心に向き合う時には、色や形といってもいいような確かな存在感があるなあと感じてしまいます。心性は有でもなく無でもなく、中正の奥深い真理なのです。三世の諸仏は因縁を借りて、十方の大士は譬喩をもってこの自我を成就しなさるのです。

 およそ、自分の思う心の働きによってあらゆるものは生まれるのです。太古以来、心を離れて、仏とか衆生とかいうものは存在しないのです。それでいて、我心は空なのです。空観の心の内には悪もなく、善もありません。では悪業はどうして心の内に住むのでしょうか。空中を吹く風がよりどころがないのと同じです。心が存在すると思えば罪もまた存在して、悪趣を感じるので、心が存在しないとすれば罪も存在しなくなり、誰も報いを受けることはないのです。自分の心にもし悪を発(おこ)せば無相の中道に安住していた者も、五道の生死を流転するのです。心がもし悪に赴くことを留めれば、煩悩も悪業も亡失するのです。

 たとえて言うなら、一つの珠があります。日の光に当てれば火のように熱さを発し、月の明かりに曝されれば水のように冷ややかさを宿します。この珠は熱を発したり冷ややかさを湛えたりしますが、珠の実相は異なるものではありません。法相という真珠が転変するのもこのようなものなのです。

原文

 諸仏の説教は浅きより深きに到り、世間の事をもて出世の法を教ふ。我が申す事は徒事(いたづらごと)に似たりと言へども、*三蔵教の折、*空観の心に当たれり。今少し賢からむ人は深く観念をなすべきなり。円頼(頓か)の教法蔵に満ち、箱に充ちたれども学する者なし。三世の諸仏は空にいまし、国にいませども、見奉る者なし。されば、身には聖人の行を立つれども、菩提も取り難く、心には仏道の因縁を萌(きざ)せども正覚も成じ難し。

 凡そ、実の聖人と申すは、*津の国の難波のこ▢▢▢これ御法なり。*童子の戯れに砂(いさご)を集むる▢▢▢▢の道を作るなり。なほざりに折る一房の花、*当来花王(けおう)仏果を萌すなりと思ふなり。凡そ、まめやかの菩提を取らむと思はむ人は、円観念を凝らすべし。円観念と申すは、我が*心性を観ずるなり。

 我が心はそれ、*体性ありとやせむ、なしとやせん。ありと言はんとすれば目を閉じてこれを思ふに体性もなく、色質(いろかた)もなし。また、なしと言はんとすれば、*対縁にする時はこれ色なり、これ形なりと思ふ。心性はこれ*非有非無(うひむひ=有に非ず無に非ず)にして、中道第一義の甚深の理なり。三世の諸仏は因縁を借り、*十方の大士は譬喩をもて、この*我を成じ給へり。

 凡そ、我が一念の心性より万法は出生す。心を離れて別に、昔より仏といひ衆生といふ者なし。我が心は空なり。空観の胸の内には悪もなく善もなし。悪業何によてか住せむ。かの空中の風の*依止(えじ)す▢▢なきがごとし。心有りと思へば罪も空になりて誰か果報を得む。我が心もし悪を発せば、*無相の中道たちまちに五道の生死を出生す。心もし悪を留むれば、煩悩悪業ともに亡失す。例えば一の珠▢もて日光に臨むれば火を取り、月光にの▢むれば水を取る。この珠火を取り水を取るといへども珠の姿は異ならず。*法性の真珠の転変することもかくのごとし。

(注)三蔵教=天台宗で小乗教の別称。初唐の華厳宗の僧、法蔵は全仏教を五教(小乗

    経・大乗始教・大乗終教・頓教・円教)に分類したが、その第一。いわゆる小

    乗の人に対し説いた四諦、十二因縁などを中心とする『阿含経』などの教え。

    円頓教はその上位に位置する。

   空観=三観(空観・仮観・中観)の一つ。一切のものは永遠不滅の自我や実体と

    いったものはなく、すべては空であると観じること。

   津の国の難波=「津の国の」は「難波」の枕詞的表現。「難波の事」は「何はの

    事」にかけて、万事の意。「後拾遺集」に「津の国のなにはの事か法ならぬ遊

    び戯れまでとこそ聞け」(遊女宮木)とある。遊女宮木が書写上人性空に読み

    かけた歌とあるが、この性空は、和泉式部が「暗きより・・・」の歌を詠みか

    けた相手とされる。

   童子の戯れに砂を集むる=法華経方便品「乃至童子戯 聚沙為仏塔 如是諸人

    等 皆已成仏道」とある。子供が砂遊びで仏塔を作ったとしても、それによっ

    て仏道は達成できる、の意か。梁塵秘抄に、「古(いにしへ)童子の戯れに 

    砂(いさご)を塔となしけるも 仏になると説く経を 皆人持ちて縁結べ」と

    ある。

   当来花王=「当来」は未来。「花王」は仏または仏土。

   心性=不変な心の本体。

   体性=生まれつき身に備わっている性質。その本質をなすもの。実体。実性。体

    質。

   対縁=意味未詳。縁に対する、の意か。自分の心と向き合う時、確かに実体とし

    ての心を感じる、と解釈しておく。

   十方の大士=十方世界の菩薩。

   我を成じ=自己の心性を悟りの境地に到達させる、の意か。

   依止=よりどころ。

   無相の中道=超然とした、いずれにも偏らない中正の道。絶対真実の道理。

   法性=一切の存在、現象の真の本性、万有の本体。