religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息⑪ーリリジョンズラブ4ー

消息 その6

  ですから、『華厳経』では、『三界唯一心 心外無別法 心仏及衆生 是三無差別』と説き、天台宗では『煩悩すなわち菩提なれば集として断ずべきもなく、生死やがて涅槃なれば苦として尽くるべきもなし。』と解釈しなさるのです。

 このようなわけで、奈落の猛烈な炎の中にいても仏の身体が備わり、大いなる根本の仏、毘盧遮那仏も我々の心一念と離れたところに存在するものではないのです。ですから、極楽世界の十万億土の仏土を過ぎるというのも、自分の胸裏(心)の中で起きることなのです。渺々として遠く遥かな兜率天を訪ねてみると、それは我々衆生の一念(心の中)にあるのです。ですから、『観寿無量教』には、『極楽世界をば去此不遠(此を去りて遠からず)』と説きなさるのでしょうか。

 三教四時あらゆる時の方便は、衆生を一乗法華に至らせるため。釈尊が仮にこの世に現れたのもまた、この妙法を衆生に演説するためのてだてだったのです。妙法蓮華経は六万九千余字、多いとは言っても要約すれば、ただ自分の一念の心性を説いているのです。この観念を仏も悦んで説き、菩提も尊んで語るのです。天魔は仏界へ追いやられ、煩悩魔はすぐに変じて結果を及ぼさないのです。

 ただ、これまで言ってきた観念に到達できない者もいるでしょう。そのような者は、ひたすら念仏を修めるのです。念仏と言っても事理二つがあります。

 事の念仏と申すのは、日常の中で乱れた心で行う念仏です。世渡りをして、妻子家族を養いながらも、ただ一心に『南無阿弥陀仏』申すのです。この六字の名号に釈尊が一代に説かれた教えが余すことなく込められているのです。『南無』というのは梵語です。これは帰命(仏の教えを信じること)という意味です。『阿弥陀』の三字には『空仮中(くうげちゅう=三諦=仏教の真理)が込められているのです。仏を覚者とも申します。この阿弥陀の三字の中に、阿弥陀仏仏道を志した時から仏果が円満に成就した今に至るまでに備わったところの功徳や法門の正しい教えが込められているのです。阿弥陀仏一身だけではありません。十方三世の諸仏の功徳もこの三字に中に備わっているのです。このようなわけですから、不安定な日常を過ごす散心であっても、不浄の身であると言っても、退転することなく名号を唱えれば、無始の罪障はたちまち滅して往生できるのです。

 理の念仏と申すのは、先に述べた観念の事です。絶対的な真理を観ずる、これを理の念仏と申すのです。

 また、観ずる対象には依法と正法があります。依法を観ずると申すのは、心を八功徳池に耳を澄まして浪が苦空(くくう=この世のすべてのものは苦であり空である)と唱えているのを観じ取り、思いを七重宝珠に懸けて風が常楽(じょうらく=永遠の楽しみ。悟りの境界)と調べをなしているのを観じることです。是非とも観じなさい。このようにおのれを取り巻く諸々の環境が悟りの契機になるのです。

 正法と申すのは、阿弥陀如来の六十万憶那由他由旬の巨大な身には八万四千の相好(体の部分)があります。環境によらず、直接、阿弥陀仏の烏瑟の頂きから足裏のの輻輪に至るまでの実相を明らめんと思惟するべきなのです。

 この観念は広くは様々な経論に書いてある通りです。以前に恵心僧都の著された上中下三巻の『往生要集』に委細に述べられています。繙いて習学しなさい。それよりなにより先ず、名利を厭い得るようになって、往生を願いなさい。往生の敵、仏道の障りとして名利に過ぎたものはありません。ですから天台の教えでは、『若為名聞利養 即累劫不得』と述べなさっているのです。

原文

  されば『華厳経』には、三界は唯一心なり。心の外に別に法なし。心と仏と衆生とこの三つは差▢なしと説き、天台には煩悩すなはち菩提なれば、集として断ずべきもなく、生死やがて涅槃なれば、苦として尽くべきもなしとは尺し給ふなり。

 かかりければ、奈落の猛き炎も*仏果の*依身に具はり、*毘盧遮那の身の大も我らが一念を隔てざりけるに、極楽世界の十万億の仏土を過ぐる。思へば我が胸の間なり。都変天(*兜率天?)の雲地渺々たる訪ぬれば衆生の一念にあり。さればにや『観無量寿経』には極楽世界をば、*去此不遠(此を去りて遠からず)とは説き給ふにや。

 三教四時の方便は、一乗法華のため、釈尊の出世もまたこの妙法を演説せむ料なり。妙法蓮華経の六万九千余の文字多しといへども、要を取れば、ただ我が一念の心性を説くなり。この観念をぞ仏も悦び菩薩もたとむ(尊む?)なり。*天子魔は仏界に空せられ、煩悩魔は変じやすく▢▢れて果を観ぜす。

 ただし、この観念に耐へざらむ人は、ただ念仏を修すべし。念仏▢ついて*事理(じり)あり。

 事(じ)の念仏と申すはこれ*散心なり。世路を走(わし)り妻子を具しながらただ一心に南無阿弥陀仏と申すなり。この六字名号に*一代正教の残ることなし。南無とと申すは梵語なり。これは帰命のことなり。阿弥陀の三字は空仮中なり。仏を覚者と申す。この三字の中に弥陀の初発心の時より仏果円満の今に至るまで具足するところの功徳法門のもて三字に摂入し給ふなり。弥陀の一身のみにあらず。十方三世の諸仏の功徳もこの三字の中に備へたり。ここをもて散心なりといふとも不浄なりと▢ふとも、退転なく名号を唱ふれば、無始の罪障たちまちに滅して往生することを得るなり。

 理(り)の念仏と申すは上(かみ)に申しつる観念なり。*一実真如の理を観ずるを理の念仏と申す▢り。

 また、*依法・正法あり。依法を観ずと申すは、心を*八功徳池に澄まして浪の苦空と唱ふるを観じ、思ひを七重宝樹にかけ▢、風の常楽と調ぶるを偲べ。正法と申すは、阿弥陀如来の六十万憶那由他由旬の身に八万四千の相好あり、*烏瑟の頂きより蹠(あなうら)の輻輪に至るまで明らかに思へ。

 この観念、広くは経論のごとし。かねては三巻の要集に委細なり。巻をひ▢きて習学すべきなり。何よりはまづ名利を厭ひ得て、往生をば願ふべきなり。往生の敵、仏道の障り、名利に過ぎたるものなし。されば、天台には『若為名聞利養 即累劫不得(若し名聞利養の為にせば、即ち劫累ぬとも得じ)』とは述べ給ふなり。

(注)仏果=悟りの位、仏の境界。

   依身=身体。

   毘盧遮那=毘盧遮那仏。宇宙の根元の仏。

   兜率天弥勒菩薩の住む浄土。

   去此不遠=極楽浄土は西方十万億土のかなたにあるが、法味観念の上から見れ

    ば、この娑婆世界からは遠くないの意。

   妙法蓮華経=一部八巻二十八品 六万九千三百八十四文字といわれる。

   天子魔・煩悩魔=四魔(五蘊魔・煩悩魔・死魔・天魔)の二つ。人心を迷わせ死

    に至らせるもの。

   事理=現象と本体。

   散心=乱れて安住しない心。平常の心。

   一代正教=一代聖教。釈迦が悟りを開いてから生涯の間に説いた教え。

   空仮中=三諦。天台宗で説く三種の真理。

   一実真如=唯一絶対にして真実なる理法。

   依法・正法=環境によって観ずる方法・事故の身体によって観ずる方法、と解釈

    しておく。

   八功徳池=極楽浄土にあるといわれる八功徳の水をたたえた七宝より成る池。

   六十万憶那由他由旬=由旬は距離の単位。非常に大きい身体、もしくは非常に遠

    いところにある身体。

   相好=仏の体の部分。

   烏瑟=烏瑟膩沙(うしちにしゃ)。仏の頭頂部に突出しているもの。肉髻。

   輻輪=仏の足の裏にある輻(や)が輪状になった模様。