消息 その7
和泉式部の歌では、『このような理に気づかないで衆生は日々を明かし暮らしているので、今生の悪業によってさらに悪道に堕ちてしまうのだ。』これを、『暗きより暗き道にぞ入りにけり』と詠んだのです。
次の七七は御房が仰ったとおりでしょう。ご造詣は深いと察します。
御房は拝見したところ、衣の色も薄いようです。また、名利を厭うているようには思われません。私に手を取り戯れをしようとするなど、不浄観もお習いになっていないのではないでしょうか。ですからあなたは我が友とするには値しません。さっさと帰って、名利を厭い、教法を習って、修学しなさい。教法が流布しているこの世に生まれなさったのは、前世の宿習ではありませんか。どうして純金を泥中に沈めて失うような愚かなことをしましょうか、決してしてはならないのです。
私の申す事は皆、三世の諸仏の説くところです。私が自分勝手に申していることではありません。そうはいっても、他人に言いふらすようなことではありませんから、どこぞでご披露などなさりませぬよう。」
稚児の長い話はここで切れた。私は何とも言葉が継げなかった。
「なんだか眠たくなりました。しばらく休んで、夜明けにでもも少し物語などいたしましょうか。」
このように言うと稚児は私にしなだれかかるとすやすやと寝息を立て始めた。その寝顔の気高き美しさ、美しさゆえに凛然として手を触れることも憚られる姿態に、ただ見つめるしかないのであった。稚児の釈教が脳裏を駆け巡り、ただその言葉が諄々とわが思いに染みこみ、浅薄な自分を苛んでいくのである。
私はそっと、稚児を抱き込むように、諸魔から守るように身を覆いながら眠りについたのである。
翌朝、目覚めると傍らに稚児はいない。ちょっとどこかに出かけたのかと思ったが、二度と現れなかった。
何という事だ、夢か現実か判別しがたい。このような夢であるか現実であるかわからないこと。昔の聖徳太子が再生して、私を教化しなさったのか。または、釈尊や虚空蔵が童子に変化して一席の演説をなさったのか。そう思った。
そうするると、自然と随喜の涙が流れ、随喜の心で肝が裂けるように感が極まってきたのだ。
その時です。前世の宿習によって、たちまちに悟りが開けて、名利を厭い、ひたすら念仏を自分の業とできるようになったのです。
あなかしこ、あなかしこ。皆様、後生の御勤めに励みなさいませ。
この世は夢の世でございます。人界は六界の上二位です。そのような人界に生を受けながら、旧世の地獄・餓鬼・畜生界に行くことのないように。悪縁を離れて、名利を捨てなさいませ。
皆様にいただいた長年の情けや御恩は忘れません。私が浄土に参った時には、きっと皆様を導いてお連れしましょう。
決してお疑いなされるな。
あなかしこ、あなかしこ。
私は生年二十二歳に離山しました。誰かわからないかと注記しました。
六月十二日 僧円厳
横川般若谷大輔の君の御房
本文では奥書の跡に和歌が添えられている。一首は、
「行く末の忘れ形見となりやせむ難波の浦の葦手なりとも」(私が書写したこの物語は未来永劫までの忘れ形見となるであろうか。難波の道を論じているのであるが、その難波の葦ではないが、葦手(葦のような飾り文字=悪筆)のようなひどい文字でも。 信
「信」は執筆した「永信」であろう。物語を賛美している。
もう一つは、この本文、先の歌はは漢字カタカナ文で書かれているのだが、ひらがなで、もう一つ末尾に歌が添えられている。
「極楽のうちにもこしをかくべきにそとはなにかはくるしかるべき」
とある。これはかなり微妙な歌ではなかろうか。「輿をかく」は、極楽に輦輿によっていくのであろうが、それがいいなら、外で「こしをかく」のが何で悪いのか、という意味であろう。「こしをかく」は意味未詳だが、掛詞としては、「腰」「掻く」を連想させる。性交・自慰・肛門性交を連想させる言葉である。最後に書写した者、もしくは見たものが、この物語を揶揄したのであろうか。どなたかに教えていただきたいところである。
原文
かやうの理を知らずして明かし暮らすほどに、今生の悪業のちか▢▢▢▢、悪道に堕つ▢、『暗きより暗き道にぞ入りぬべき』とは詠めり。
次の七ゝの句は、御房の仰せられるがごとし。
御房を見奉るに*衣の色も薄し。また、名利をも厭はせ給はずと覚ゆ。手をと▢▢、戯れなむどし給へば、*不浄観をも習はせ給▢▢と覚ゆ。されば、我が友には能はず。とくとく帰り▢▢、名利を厭ひ教法を習ひて習学せさせ給へ。教法流布の▢に生まれておはするは、宿習にはあらずや。何ぞ*真金を▢て、泥にし▢めて失はむや。
我が申す事は皆これ、三世の諸仏の所説なり。わたくしの言葉にあらず。さりながらも、披露あるべからず。」
と言ひて、
「眠たくなりて候ふに、しばらくまどろみて暁に物語申さむ。」
とて寄り臥しぬ。
こはいかに、あさましやと思ひながら、我ともにうち臥しまどろみて、うち驚きてそばを見れどもなし。また、あからさまに出でにけるかと思へども、見えざりけり。
あさましや、夢か現か分き難く、夢にもあらず、現にもあらず、か▢▢事になむ会ひて侍りしかば、昔の聖徳太子の再び生まれて我を教化し給ひつるか、また若しは、釈尊、虚空蔵の童子に変化して一座の説法をし給ひつるかと思ひて、随喜の涙を流し、随喜の肝を裂く。
その時、前生の宿習たちまちに開発して、名利を厭ひ得て偏に念仏を業として候ふなり。あなかしこ、あなかしこ。後生の御勤めせさせ給へ。
夢の世にて候ふに、受け難き人界の生を受けながら、旧里へおはしますなよ。悪縁を離れて名利をば捨てさせ給へよ。
年来の情け・御恩をば、浄土に参りて必ず導き参らせ候ふべし。ゆめゆめ御疑ひ候ふべからず。あなかしこ、あなかしこ。
離山は生年二十二歳、為御不審注之。
六月十二日 僧円厳
横川の般若谷の大輔の君の御房
行く末の忘れ形見となりやせむ難波の浦の葦手なりとも
極楽の内にもこしをかくべきに外はなにかは苦しかるべき
(注)衣の色=色の濃淡は信仰心の濃淡を象徴するのであろう。
不浄観=修行者が執着心を除くために、肉体の死んで亡びゆくさまを観察し、そ
の不浄を悟ること。
真金=「金を泥に捨て玉を淵に沈む」は日本国語大辞典によると、無用の宝に心
がとらわれるのを防ぐ処置をいう。私欲を離れる、とあるが、文脈は逆の意味
にとれる。
令和二年内にアップできました。来年は「嵯峨物語」から。