消息 その4
ですから、命の長い人だといって、それが素晴らしいわけではないのです。
特に、哀れに無常であるのは男女の仲です。思慕し合う者同士は、一夜でも離れると、知らない間に枕に塵が積もってしまったと恨み言を言い、しばらくの間添い寝ができないと衣を裏返して着て寝て、夢で恋人に会おうと俗信にすがります。嵐が寒い冬の夜も、枕を交わして寒さを忘れ、渇きに水を掬んで飲む夏の夜も、膝を並べて熱さを忍ぶ。このように片時も一緒にいないことが耐えられない心の病が身を冒して、床の上に病身をさらすこととなり、病状は尋常ではなくなって命は絶えてしまいます。しかし、どうでしょうか。永遠の別れは悲しく嘆きはしますが、その死体を愛することはありません。 また、二度と会えないことは悲しみはしますが、遺骸は急いで野辺に送ります。
ですから、心を尽くして愛した人でも最期まで我が身の添い遂げることはできないのです。錦で飾った褥(しとね)も意味はありません。最後は野の蓬の上に臥すのですから、無用なものは花のようなきらびやかな友、無益なものは玉のような豪華な楼台です。ましてや、死んでしまえば、色とりどりにあつらえた着物は一重も身に着けることはできなく、箱一杯に貯えた財宝も空しく他人の宝となってしまいます。
息絶えてから身に纏わりつくものは、牛頭馬頭といった地獄の獄卒などの疎ましい者ばかりです。彼らは頭には三熱の激しい炎を燃やし、手には鉄杖を捧げ持っているのです。その、未だかつて見たこともないような姿を見る時の心地はどのようなものでしょうか。そして彼らは、罪の軽重に従って地獄・餓鬼・畜生といった悪趣に連れ去っていくのです。その際、姿が美しいからといって情けをかけることはありません。身分が高貴だといって哀れを与えることもありません。猛烈な炎の中に放り込まれて、その後は無量劫経っても抜け出すことは望めません。
『伽をしよう。』
そうおっしゃいました。なんと笑止なことでしょう。悪趣に堕ちても最後まで伴っていただけるのなら、それこそ真実の伽ともいうべきでしょう。
ただこの世だけが存在するのであれば、どうあってもいいでしょう。このようなはかない憂き世とも悟らないで、いつまでもあるだろうと思って、男は栄耀栄華を春の花の本に開かんと願い、女は容顔美麗を秋の月の下で示さんと請います。財宝を蔵に貯え箱に納め、妻子を田舎に儲け、都に据えます。
その中でも特に愚かなことは、我が身についてです。生命とは父母の二渧を受けて、魂がその中に入ってくるのです。三十八の七日、二百六十余日の間、七日ごとにその形を転変して、人の姿が次第に形作られます。月日が満ちて母胎を出る時は、牛を生剝ぎにして生垣や壁に擦りつけるような苦痛を伴うといいます。母の腹の中にいる間は、諸々の不浄や悪穢を食物として生まれ出たので、出産直後は血の中に臥して、穢れで手を触れることもできません。
人となって後、死んだときの有様はどうでしょう。生臭い死骸は、一人ぽつんと曠野に捨て置かれ、風に吹かれて雨に晒されます。白かった肌の色も黒ずみ、すんなりした姿もむくみ膨れて、手足は変形して風を含んだ袋のようになります。黒かった髪筋も、犬が群がって噛むので草の根元にまとわりつき、しなやかでなまめかしかった目も、烏が抉(えぐ)って木の節をくり抜いたようです。身体は破れ裂け、形も色も変わり果てるので、身分の高い者も賤しい者もその痕跡はありません。膿汁が湧き出して周囲の土の色も斑となって、青くしみるところもあり、赤くしみるところもあります。足も手もばらばらとなって、あの木の本この草の本と散り散りにあります。その気色は野辺の草を汚し、悪臭は人の鼻腔に入り、目で正視することもできない程です。ましてやその死骸に近寄って愛欲をいたそうとしましょうか。
死んだ時に初めてこのように穢れた者になるのではありません。生まれた時も不浄であるのですが、白い皮膚を上に一重まとってはいますが、その下には諸々の悪穢を内包しているのです。賢い人は喩えて、美しい瑠璃の甕(かめ)に糞穢を入れているようなものだと見ます。愚かな者は愛欲に皮を目の上に貼って、男女の身が不浄であることを直視しないことは、犬が砂場で何も考えずにじゃれているようなものです。このような真理を理解しないで、男女の仲を素晴らしいことだと思って、思い通りにいかないと恨めしく思い、心にかなうと悦ぶのです。
女人の身を見る時には、皆その内には諸々の不浄を内蔵していると思いなさい。もしくは大きな毒蛇を孕んでいると思いなさい。また、女身に近づけば、正しい心は失われ、その女身を愛すれば、煩悩のない無漏の境地という聖い財産は失われると肝に銘じなさい。
このような観方を、『十二因縁を観ず』とも言い、『不浄の観念』とも申すのです。
原文
されば、命長からむ人とてもいみじかるべきにあらず。
とりわき哀れに侍ることは男女の仲にあり。*志ある輩は一夜も*狎(な)れぬれば、いつしか枕に塵積もりぬと恨み、しばらくも添はねば、*衣を返して夢を頼む。嵐寒き冬の夜も、枕を交はして寒さを忘れ、水を掬(むす)ぶ夏の夜も、膝を並べて暑さを忍ぶ。かやうに片時も添はぬを恨むる心▢病、身を悩まして、床の上をさらし、心地例に違ひて命を失ひつれば、別れの悲しみをば嘆けども、その死にたる身をば愛せず。また、会はざることをば悲しめども、急いで曠野へ送る。
されば、志あらむ人とても*ほしからす。終に我が身に添うべきにあらねば、*錦の褥もよしなし。蓬が上に臥すなれば、あぢきなきものは花の友、よしなきものは玉の台(うてな)なり。況や色を整へし着物一重もわが身につかず、箱に貯えし宝も空しく他の宝となりぬ。
息絶えしよりして、我が身につきたる物とては、*牛頭馬頭の疎ましきばかりなり。頭(かうべ)三熱の炎を燃やし、手には鉄(くろがね)の笞(しもと)を捧げたり。未だ昔にも見ざりし姿どもを今更に見る心いかばかりかはあるべき。さて、罪の重き軽きに従ひて*悪趣に将(ゐ)て去る。姿の美しきにも情けをかけず。品の*わりなきにも哀れを置かず。猛き炎の中に入りつれば、その後は無量劫にも出づることも知らず。
されば、伽せむとかや仰せられつるがをかしさよ。それまで伴ひ果てさせ給はばこそ、真の伽にては侍らめ。
ただ、この世ばかりならば、とてもかくても侍りなむ。かかる憂き世とも知らずして、常にあるべしと思ひて、男は栄耀を春の花に開き、女は美麗を秋の月に施す。宝をば蔵に貯え箱に収め、妻子をば田舎に儲け、都に据ゑたり。その中に愚かに侍ることは、父母の*赤白二渧(しゃくびゃくにたい)を受け、魂その中に入り居る。*三十八の七日、二百六十余日の間、七日ごとにその形転変して、人相漸く具す。月日既に満ちて初めて母胎を出づる時は、「*生剥(いけはぎ)の牛を墻(かき)に触(さ)うるがごとし」と言へり。腹に居たる間は諸々の不浄、悪穢を食物として生まれ出でたれば血の中に臥してふ*手ふるべきやうもなし。
人となりて死したる有様、腥(なまぐさ)き骸(かばね)一人曠野に留ま(っ)て風に吹かれ▢に晒さる。白かりし色も*黧(つし)み、*すはやかなりし姿もおおきに太りて手足不定にして、*足の袋に風を包めるがごとし。黒かりし髪筋を*▢群がりて草の本にまとはれ、*そびやかなりし目見(まみ)烏抉(くじ)りて木の節を打ち抜きたるがごとし。身体破裂して形色(ぎゃうしき)あらたまりぬれば、高きも賤しきもそのしるしなし。膿汁涌き出でぬれば土の色斑なり。中半(なかへ)は青く中半は赤し。足も手もあの木の本、この草の本に散り散りにあり。気色は野辺の草を汚し、臭き香は人の鼻に入り、目をもてすら見るべからず。況や近づき*愛念せむをや。
死したる時初めてかかるにはあらず。生きたる時も不浄なれども、白き皮辺(かはべ)上に一重▢▢▢、下には諸々の悪穢を包めり。賢き人はこれを▢▢▢▢、瑠璃の甕に糞穢を入れたるがごとしと見る。愚かなる者は愛欲の皮眼(まなこ)の上に貼りて、男女の身不浄なるを見ること、*犬の砂屑(さくず)の馴れたるがごとし。
かくのごとくのことを知らずして、いみじきものになむして、心に違へば恨みをなし、心に叶へば悦ぶ。
女人の身を見てば皆内には諸々の不浄を包めり。また、大毒蛇を孕めり。まや、近づけては正念を失ひ、愛すれば*無漏の聖財を奪はると思へ。
かくのごとくの観を▢、*十二因縁を観ずとも言ひ不浄の観念とも申す。
(注)志=恋情。
狎れぬれば=原文「なれぬれば」で一夜でも馴れ親しむと、の意であろうが、
「離れぬれば」(一夜でも離れ離れになると)の方が意味は通る。
衣を返して=わざと衣服を裏返しに着て寝ると恋しい人を夢に見るという俗信が
あったという。
ほしからす=意味未詳。「欲しがらず」か。また「惜しからず」か。
錦の褥=四方を錦で縁取った寝具。帝や大臣が使用した。
牛頭馬頭=体は人で牛や馬の頭の地獄の獄卒。地獄では亡者は裸体、もしくはわ
ずかな着衣だけであるから、牛頭馬頭だけがまとわりつくだけ、の意か。
赤白二渧=渧は滴。母の赤い血液と父の白い精液。
三十八の七日=38×7=266日。胎児が母胎にいる日数。
いけはき・・・=生きたまま皮を剥いだ牛を墻壁にこすりつける。苦痛の形容。
「大苦痛を受くること、牛を生剝ぎて墻壁に触れしむるが如し。」(『往
生要集』(巻上大文第一 第五 人道)。
手ふる=出血を伴う出産で手を触れられないのか。
黧(つし)み=肌に黒っぽい斑点が出る。
すはやかなり=細くて丈が高いさま。すんなりしているさま。
足の袋=もしくは悪しの袋、葦の袋か。風を含んだ袋のように膨らんでいるの
か。
▢群がりて=烏との対句であるから、犬、狗などが入るか。
そびやか=しなやかでなまめかしい。
愛念=愛欲。「愛念せむ」とは情交することか。
犬の砂屑の馴れたる=犬が砂場でじゃれていることか。真実を見ないことがなぜ
この比喩になるのか未詳。
無漏=煩悩のない境地。
十二因縁=人や生物を成り立たせる十二の要件は因果の関係にあるという考え。
十二とは、無明・行・識・名色・六処・触・受・愛・取・有・生・老死。