religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語⑤ーリリジョンズラブ5ー

本文 その3

 あまたこの僧房を訪れた人々の中でも殊に風雅を覚えたのは、 一条郎と申す方でしょう。

 一条郎殿は、志深く高潔な方で、今の世は人が人としての信義節操を果たさず、放恣に流れているのを嘆き、

 「世の人は賢げな物言いばかりするが、心のこもらないことしか言わない。この浮き世を渡らおうと思っているうちは、かような人々をも前向きにとらえて、私が人を人として正しく教導すればいいとも、月々日々思っていたが、そのような機会にも恵まれないでいる。それならそれでいいだろう。人を正そうとするより己の信条を守り、他者の誉れを得ようとするより自己の内に煩いをなくし、我が身を貴いと為すよりは我が心を賤しくしない事こそ、望むべき道だろう。この世に仕えても苦しいばかりだ。無理にとどまって胸が裂けそうなつらさを感じても何にもならない。」

 真摯な方です。一条殿は心に決めて、浮き世の縁を断ち切って嵯峨野の奥つ方に閑居なさっていたのでした。みすぼらしい柴の扉の庵ですが明け暮れ風流に住みなしている方ですから、折に触れて情趣にあふれた暮らしとなります。花の下、緑の陰、月の夜、雪の朝、すべてが心のまま思う存分にあわれを感じるよすがとなるのです。粗末な房屋で松に当たる雨音を聞いていると、薫物の燃えかすが炉辺に香り、荒れた書院で竹にそよぐ風の嘯(うそぶ)きを聞くと、灯した燭光が四方の壁に寒々しく揺れているといった風情です。

 元々何の係累もない身なので、勝手気ままに野山などをさまよい歩き、帰る家路も忘れ、野宿することもたびたびありました。

 とある春の暮れ方の事でした。さほど深くはない山でしたが、その奥つかたを訪ね入る事がありました。野中の寺の鐘の音が幽かに聞こえて、夕陽が西に傾いていきます。「ままよ、今宵は花の木の下陰にでも宿を取ろう。宿主の桜が一本もないなんてことはなかろうから。」とあちらこちらに立ち寄りながら時に佇んだりしていますと、風は止んでいるのに、花びらがはらはらはらはらと落ち、春の鳥が日暮れの山にもの寂しく鳴き渡っています。それがかえって夕霞の静けさを際立たせて、「風定花猶落 鳥鳴山更幽」という詩情が思い出されて、しみじみと感じ入ります。

 一条郎殿は、遠くの松陰に一人の稚児を見かけました。秋の山の紅葉のような赤い水干に、まだ紅葉していない若葉のような緑の刺繍が施された装束。清艶で優美な稚児です。一条は目を凝らします。ごく若い法師をあまた連れています。花を折ろうとその美しい手で枝を撓めているようですが、知らず知らず雪のごとく舞降る花びらがお顔に散りかかっています。「拾遺集の古歌、『桜花道見えぬまで散りにけりいかがはすべき志賀の山越え(橘成元)』ではありませんが、ここでも志賀の山越えに劣らず花の吹雪は振り払うことができない程の舞ようですね。」などと言いながら幾度となくにっこり微笑む様子は言いようも例えようもないほどと一条殿は見ます。

 「なぜこのような奥山にこのような方がいるのだろうか。」と、この後の成り行きを知りたく思って、わき目もせずに凝視していますと、頑強な仕丁が現れて輿を舁き据えると、さっと乗り入ります。稚児の輿は山の麓の大きな御堂の内に入っていくのでした。

 なおも興味は尽きず、追いかけていって一人の法師を呼びとめて、垣間見た始終を語って問うと、「ご存じないのですか。この方こそ名高い雲の上の人、松寿君ですよ。あなたはこのような山里で行き暮れなさったのですか。この寺は古びてはいますが、僧都がしっかり管理なされて、名のある僧房もございます。今夜は私の房にお泊りになってはいかがですか。」などと言ってくれますので、「うまいこと、いいきっかけができたようだな。」と、密かに松寿君と近づけるかとの期待をかけて、寺に入りその夜を過ごしました。

 

原文

  さはある中にも、またなくあはれに覚えしは一条郎と聞こえし人なめり。

 この人は無下に志大にして、今の世の人、人にあらぬを恨みて、

 「ただ賢げにものうち言ひたる、*まこと少なきをのみやは言ふ。世に住むべく思はんほどは、世のうしろめたからで、人をも人になさばやと、日に月に思はれしかども、会ふに会ふ時なくて止みぬ由。さはさらばあれ、人を正さんより己を守らんこそ、他に誉あらんより内に煩ひなからんこそ、身の尊からんより心の卑しからぬこそ。仕へ苦しき世にしあれば、裂きけん胸も何ならず。」

 とまめやかに思ひ定めて嵯峨野の奥に閑居してぞありける。

 あやしの柴の扉(とぼそ)なれども住む人からの明け暮れなれば、折に触れたるあはれ、などかなからん。花の下、緑の陰、月の夜、雪の朝、心のままのよすがなりける。*松房に雨を聴きて眠れば香燼一炉に残り、竹院に風に嘯いて、挿せば燭光*四壁に寒し。

 もとより思ふほだしもなければ、野山などさまよひありきて、帰る家路を忘るる事なりける。

 春の暮れつ方、さらぬ深山の奥までも訪ね入る事侍りしに、野寺の鐘かすかに聞こえて、夕陽西に傾けり。「よしや今宵は花の陰にも宿らまし。主はなどかなからん。」と立ち寄りつつやすらひゐたるに、「*風静まりて花猶落つ。鳥鳴いて山更に幽かなり」と詩の心もあはれに思ほえけるに、あなたの松の陰に艶に優しき児の、*秋山の紅葉まだ若葉がちなる縫物したる装束なるが、いと若き法師あまた連れて花を折らんとしていつくしき手して、前なる枝を撓め給ひけるに、降るとも知らぬ花の雪の、御顔に散りかかりければ、*志賀の山越えならねど、これも花の吹雪は払ひもあへずと立ち返り、うち笑みたるけはひ、言ふばかりなく物にも似ぬ。「これらはかやうの人の居たるべき所にもあらぬに。」と行く先知らまほしくて、あからめもせずまもりゐたるに、健やかなる仕丁の出で来て、輿舁き据ゑければ、やがてうち乗りて、*山の腰に大きなる御堂のある内にぞ入り給ひける。

 猶、訝しくて追ひつつ行きて、初めよりのことども問ふに、下法師のとどまりて、「これぞ名高き雲の上の松寿君なりける。僧都のこれにおはしましける寺などもの古りにたれど、名所(なところ)多し。行き暮れ給へるにや。今夜はこれに。」など言ふに、「*いしうもたより悪しからず。」と差し入り居たり。

(注)まこと少なきをのみやは言ふ=逐語訳すると、「誠実さの少ないことばかりいう

    のか(いやいわない)」となり、文脈に会わない。小賢しくて誠実さがない、

    と解釈しておく。

   松房=竹院と対をなして、「庭に松が生える房」「庭に竹が群がる院」。

   四壁=四方が壁だけの粗末な家。

   風静まりて花猶落つ。鳥鳴いて山更に幽かなり=「風定花猶落 鳥鳴山更幽」は

    異なる詩句を取り合わせて対句としたもの。集句というそうである。「風定花

    猶落」は陳の謝貞、「鳥鳴山更幽」は梁の王籍の詩の一句。宋の王安石が集句

    したという。禅語として茶席に掛け軸として掛けられるという(茶席の禅語大辞

    典時代等)。時代は下るが、良寛の集句詩に「風定花猶落 鳥鳴山更幽 観音

    妙智慧 千古空悠々」がある。

   秋山の紅葉まだ若葉がちなる縫物=秋の山の紅葉は今は春なので青葉勝ちである

    がその青葉のような青葉色の、または青葉模様の刺繍、というなんともまどろ

    っこしい形容。

   志賀の山越え=近江国大津から京都北白川に出る峠道。後拾遺集・春下・137

    「桜花道見えぬまで散りにけりいかがはすべき志賀の山越え(橘成元)」

   山の腰=山の麓近く。

   いしうも=「美(い)しくも」で、うまいことの意か。