religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語⑩ーリリジョンズラブ5ー

本文 その8

 松寿君が都へ帰りなさると、母君は待ち受けなさっていて、

 「それにしても長いこと会っていなかったので、どのようになっているのかと思いも募っていましたが、こんなにもすばらしく成長しなさって。自ら志した学問の道なので場所は選ばないとは言っても、山里は侘しいことこの上ないと聞きますので、心慰められることもなかったでしょう。子を思う親の心ほどやるせないものですよ。それにしても立派になられました。 聞くところでは学問もたいそう上達なさったとのこと、父中納言殿もどれほどかうれしく思われていることでしょう。これで父君のご病気が快方に向かえば、決して悲しいことにはならないでしょう(喜ばしいことこの上ありません)。」

 と言って袖の涙を絞るのです。松寿は父君の枕元に寄り添います。

 「父上、どうしてこのようにお弱りになったのですか。松寿もここにおりますよ。」

 と声をかけますと、中納言殿は、少し首をもたげて、一言、

 「わしの亡き後は帝にしっかりお仕えするのだぞ。」

 と言ったなりでした。

 禰宜や法師が、祈祷やほぎまじない(祝ぎ呪い)を試みましたが、無常の世の中、生者必滅のはかない有待(うだい)の身であり、、ついにははかなく、お亡くなりになりました。

 悲しみに暮れてばかりはいられませんので、鳥辺山の夕べの煙と、火葬いたしました。親しい身内の嘆きは言うまでもありませんが、上は帝をはじめとして、下は賤しい仕丁(よほろ)までも、この人のために悲しんだのです。昔、唐の魏徴が薨去した時、皇帝太宗は、「この一臣を失うことは、鏡を失うようなものだ。」と嘆き、心暖かく「温公」と慕われた宋の司馬光の喪には、百姓が自分の衣服を売ってさえ香奠を供えた、という故事もこのようなものかと思い浮かべられるのでした。

 やがて死後の弔いも済ませて、松寿君は父の遺言通り、内裏へ出仕することとなりました。

 

原文

  松寿都へ帰り給ひければ、母君待ち取り給ひて、

 「さてもや久しく見もし見えねば、いかにいかにと思ふのみかは。生ひ立ちもいかばかりにかならせつらめ。自ら好ける道には所をしも言はねど、山里はものの侘しき事のありと聞けば、さこそはつれなく、慰む方なう侍らせ給ふらめと、人の親の子を思ふばかりやるかたもなかりしに、いとうつくしく生ふし立つる。学びもまた卑しからぬなど言へば、*いかにうれしく覚え給へるぞや。猶、父中納言殿の御いたはりのみよくならせ給はんには、よにまた悲しき事やはあらん。」

 とて御袖を絞り給ひける。

 松寿、父の御枕に寄りて、「なでうかう弱らせ給ひけるぞや。松寿もこれにありけるものを。」とのたまひければ、少し*御髪(みぐし)をもたげさせ給ひて、「我が身なからむ後、君によく仕へてよ。」となんのたまひて、その後は御言葉もなかりけり。

 宮寺の御祈り・*ほきましなひしかども、無常の世の中、*有待(うだい)の身の上なれば終にはかなくならせ給ふ。

 さてもやはあるべき事ならねば、*鳥部野の夕べの煙となし奉る。親しきうちのお嘆きはさらなり。上は君をはじめたてまつり、下は賤しき*丁(よほろ)までも、この人のためにぞ悲しみ侍りける。

 昔、唐の*魏徴が薨ぜし一臣、鏡を失ふことを嘆き、宋の*温公の喪に、百姓(はくせい)衣を鬻(ひさ)いで祀るためしもかくやと思ひなん出でられける。

(注)いかにうれしく=尊敬語が使われているのでうれしく思うのは、父中納言であろ

    う。

   御髪=頭。首。

   ほきましなひ=「祝(ほ)ぎ呪(まじな)ひ」か。辞書にはない言葉。

   有待の身=生滅無常の世に生きるはかない身。

   鳥部野=鳥辺山。化野と並ぶ京都の火葬場。

   丁=国家のために徴発されて使役された人民。

   魏徴=初唐の政治家。諫臣として知られ、その死に際して皇帝太宗は「この一臣

    を失うことは鏡を失うようなものだ。」と嘆いたという。

   温公=北宋の政治家、司馬光。没後「温国公」に封ぜられた。死に際しては、

    「宋史」(維基文庫)によると、人々は「鬻衣以致奠」(自分の着物を売って

    まで供物を供えた。)とある。温和な性格で百姓から慕われたという。