本文 その4
一条殿は夜が明けたので、下法師の案内で寺々を 見歩いていると、僧都殿が現れて、昨日来のことを法師から聞いて挨拶をします。
「ありがたいことです。よくお訪ねくださいました。わざわざ春に家を出なくても、月の夜には閨の中にいながらでも、風情を思いやることは誰でもできましょう。そうはいっても実際に出かけて、花の下に帰ることを忘れて、月を前にして思いを陳べる貴殿の風流はなかなか捨てがたい素晴らしい心がけです。
このような八重葎の繁るところですが春の通う道はありまして、かぐわしい梅の香をはじめ、桜の色映えなどこの上ない風情です。されどそれを共に慰め興ずる人もなくて、独り愛でては索漠として心持ちになっていたのです。桜の色も梅の香りも、それと知る人に手折って贈りたい。きっと花もなかなか訪れない風流人を待ち果てて、雪の降るように散り急いでいるのでしょう。私も全く残念なことだと寂しく思っていましたが、その甲斐あってあなたのような客人に会うことができました。
おいおい僧たちよ、出てきて客人のお慰めをしなさい。松寿よ、松寿も出てきて詩歌でも詠じてお相手をせぬか。」
などとおっしゃります。松寿君もほどなく立ち現れました。
昨日は遠目にしか見なかったのですが、間近に見ると、緑の黒髪、雪の膚、御目の麗しさ、御言葉の潔さ、じつにこの世に人とも思われない美しさです。
僧都は内典外典いずれにも通じた方で、一条殿も詩に長じている気配であるのを察し、早速漢詩の宴を催したのでした。僧都は「残花」という題をお出しになります。人々が苦吟している中、まずは院主である僧都が披露しました。
洞門深鎖自無為(洞門深く鎖して自ら為す無し)
春到不知経幾時(春到りて知らず幾時をか経ることを)
残花猶看両三枝(残花猶ほ看る両三枝)
「寺の門は深く閉ざして何もしない。春がやってきてどれくらい時がたったのだろ
うか。春風のような遊人が突然現れて、桜の花をことごとく持ち去った。後には花
がニ三枝残るだけである。」
と誦しなさいました。一条郎殿が続けます。
三日出家身未還(三日家を出でて身未だ還らず)
山桜爛漫雨如烟(山桜爛漫雨烟のごとし)
縦然春色渾看了(縦然《たとひ》春色渾《すべ》て看了《をは》るとも)
猶有松花開那辺(猶ほ松花有り那辺に開く)
「家を出て三日、まだ帰らずに彷徨している。山桜は爛漫として春雨は霧に煙るよ
うだ。たとえこの春景色をすべて見終わり、季節が移ろおうとも、千年に一度咲く
という松の花は変わらずそこにあるだろう。同様、松寿君というたぐいまれな方は
いつまでもあり続けるだろう。」
詠ずると同時に懐紙に書き付けて折り畳み、「これを松寿君に。」と差し出します。僧都の心にもかなったようで、「絶唱(優れた詩歌)には唱和できないと昔から言われてきている。これに続く詩はできないだろう。」と改めて「春風」という言葉を出題なさいました。松寿君は詩に歌を添えて披露なさいます。
非熱非寒午睡身(熱きに非ず寒きに非ず午睡の身)
春風座上火炉新(春風座上火炉新たなり)
桜花豈是閑居物(桜花豈に是閑居の物ならんや)
渡水吹香解引人(水を渡り香を吹きて人を引くことを解す)
「午睡にまどろんでいますと熱くも寒くもない。冷ややかな春風が座上を吹くが、
その風が炉に新たに火を起こしたから。桜の花はのんびり咲いているのだろうか、
いやそんなことはない。私はわかっている、桜は川を渡って風に香りを運んで、
人々を引きつけているのだ。」
隠れ家の花なりながら山桜あやなし香をも世に漏らすかな
「隠れ家の花でありながら山桜は筋違いなことをする。香りを漏らして世間に知ら
せようとするのだから。」
詩は李白・杜甫に始まり、歌は山部赤人・柿本人麻呂より伝わるものです。松寿君の詩も歌も、表現は艶やかで、心情は優雅でしたので僧都は満面笑みを浮かべて、さらに僧たちに詩を請いなさると、雲樹院の律師というお方が、
琴薬修来不出山(琴薬修し来りて山を出でず)
禅心日日遠人間(禅心日日人間《じんかん》を遠ざかる)
芳菲只在曲肱上(芳菲は只だ曲肱の上に在り)
吹夢春風白昼閑(夢に吹く春風白昼閑かなり)
「琴や薬(音楽?)を修行して山中を出ようとはしない。禅定に入った心は日々俗
世間から遠ざかっていく。ひじを曲げて枕とし、清貧の内に暮らしていると、芳し
い草花の匂いが漂う。夢の中を春風が吹くようで、のどかな白昼である。」
などと詠じて、皆で大いに興じなさったのでした。
一条殿も、「さてもう家路につくとしましょう。再び訪れましょう。心づもりしてお待ちください。」と言って院を後にしたのでした。
原文
夜明けければ、僧都の寺に至りて、ここかしこ見ありくほどに、僧都の出でて、
「優しうも訪ね入らせ給ふものかな。春は家を立ち去らでも、月の夜は閨ながらも思ひ遣るあはれは、誰人もあるにこそあれど、今更に捨て難きは、花の下に帰らんことを忘れ、月の前に思ひを陳ぶる習ひなるべし。
かかる*八重葎(もぐら)へも春の来る道はありて、梅が香のなつかしきよりして、桜の色ことなるをだに、*荒むべき人もなければ、我のみ*見栄(みはや)さんもあぢきなく、色をも香をも知る人にこそ、折てもやらめ、来ぬ人をば花もやは、さは待ち果つべき。雪とのみ降りなまし。いとど惜しからぬかは。と言ひもて侘ぶる甲斐ありて、かく*まれ人に会ふなることよ。
僧たち出でて慰めよかし。松寿はなどは詩歌をば詠じ給はぬぞや。」
とのたまふほど、松寿君も出で給ひぬ。
緑の髪、雪の膚(はだへ)、御目の麗しさ、御言葉の潔さ、まことにこの世に人とも覚えず、猶*見勝りてぞ侍りける。
さて、題など出して人々造りあへる中に、まづ院主なればとて、僧都、
*洞門深鎖自無為(洞門深く鎖して自ら為す無し)
春到不知経幾時(春到りて知らず幾時をか経ることを)
残花猶看両三枝(残花猶ほ看る両三枝)
となん誦(ず)んじ給ふ。一条、
*三日出家身未還(三日家を出でて身未だ還らず)
山桜爛漫雨如烟(山桜爛漫雨烟のごとし)
縦然春色渾看了(縦然《たとひ》春色渾《すべ》て看了《をは》るとも)
猶有松花開那辺(猶ほ松花有り那辺に開く)
と書き付け押し畳みて、「これは松寿君へ。」など言ふに、僧都もよろしと見給ふ。「*絶唱に和なしと昔より言ひ来にければ、我らはいかがなすべき。」などのたまひて、*題をぞ作り給ひける。松寿君、
*非熱非寒午睡身(熱きに非ず寒きに非ず午睡の身)
春風座上火炉新(春風座上火炉新たなり)
桜花豈是閑居物(桜花豈に是閑居の物ならんや)
渡水吹香解引人(水を渡り香を吹きて人を引くことを解す)
隠れ家の花なりながら山桜あやなし香をも世に漏らすかな
詩は*李杜の林より出で、歌は山柿の門より来たる。詞艶にして心優なりければ、僧都微笑みて、猶ほ僧たちの詩を請ひ給ひけるに、雲樹院の律師、
*琴薬修来不出山(琴薬修し来りて山を出でず)
禅心日日遠人間(禅心日日人間《じんかん》を遠ざかる)
芳菲只在曲肱上(芳菲は只だ曲肱の上に在り)”
吹夢春風白昼閑(夢に吹く春風白昼閑かなり)
となん詠じて、いと興じ給へりける。
一条も、「今は家路に帰り侍りなん。また来んほども頼め置きてよ。」とて出でぬ。
(注)八重葎=やえむぐら、とも。むしろこちらの方が一般的。雑草。
荒む=心のおもむくままに慰みごとをする。慰み興ずる。
見栄さん=見てほめる。
まれ人=客人。まろうど。
見勝り=前日に遠目に見たのよりも、近くで見ると優って見える。
洞門深鎖自無為=七言絶句。巧拙は弁じ難いが、平仄にはかなっているようであ
る。類詩などはないようなので、語り手が自分で創作したのではなかろうか。
「嵯峨物語」の作者には漢詩の創作・鑑賞の整った環境にいる者、五山の僧な
どが想像される。詩の意は、「ひっそりとした家にいると、遊人が急にやって
きて花をすべて持ち去り、ニ三の枝しか残っていない。」という意か。遊人は
春の風の比喩か。「洞門」は寺の門だろうが、「曹洞宗」をも連想させる。
三日出家身未還=「松花」は伝説によると千年に一度咲く松の花。松寿君暗示す
る。詩の意は、「家を出て三日、山桜が爛漫としている。春が尽きてすべてを
見終わっても松花のような類まれな稚児、松寿君はいつまでもここにいるでし
ょう。」との意か。
絶唱=この上なく優れた詩や歌。
題=一条郎の漢詩があまりに優れていて誰も唱和できないので、別に題を出した
ということか。しかし、この後の二首も春がテーマである。あるいは前二首は
「残花」というような題で、後の二首は「春風」という題であったか。
非熱非寒午睡身=起句承句は、「昼寝をしていると厚くも寒くもない。春風は肌
寒いが炉に新たに火を起こしたから」。転句結句は「桜の花はただのんびりし
ているのか、いやそうではない。水を渡って香りを吹き届けて人々を引き付け
ていると理解できる」。と解釈できるが、つながりがよくわからない。
あやなし=筋が通らない。無意味である。
李杜=李白と杜甫。両者とも木にかかわるので林と言い、山柿は、山部赤人(一
琴薬修来不出山=「琴薬」は略本では「琴菓」。いずれにせよ意味不明。あるい
は「琴楽」か。「禅心」は禅定の心。乱れない心。「曲肱」はひじを曲げるこ
と。ひじを曲げて枕にすることから、清貧の内に閑適を楽しむこと。全体の意
味としては、「『琴薬』を山を下らず、悟った心は人の世から遠ざかる。貧し
い住まいには草花のよい匂いが漂う。夢の中を春風が吹くようでのどかな昼で
ある。」ということであろうか。