religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語④ーリリジョンズラブ5ー

本文 その2

  松寿君が弥生三月に門を敲いた庵のある山里は、都からはさして遠いところではなかったのですが、世間からは隔絶した住みぶりで、行き交う人も稀でした。峰々に繁っている松の木の下陰で柴木を取りに来た山賤(やまがつ)が斧を振るう音がコーンコーンと耳近く鳴り響き、いかにも山深く感じられます。また、山すそを一筋の清流が流れています。いつも童部が一人二人連れ立って閼伽の水を汲みに来るのも趣深い一景です。籬に卯の花が咲き乱れる四月にとなっても、卯の花くたしに見えぬ月を恋い、五月に漂う花橘の香りをまとった山杜鵑(やまほととぎす)が、村雨に霞む曙に鳴く一声に風情を覚えます。感じやすい松寿君の心にはその情景が心に染みて、思わず袖を湿らす(涙ぐむ)のです。

  松の戸をおしあけがたのほととぎす一声鳴きていづちゆくらん(山家の松の戸を押

 し開けると明け方のホトトギスは一声鳴いて行ってしまった。今頃どこを飛んでいる

 のであろうか。)

 中唐の詩人竇中行(竇常)は「香山館聴子規」の七絶で「雲埋老樹空山裡 彷彿千声一度飛(雲老樹を埋む空山の裡 千声に彷彿として一度飛ぶ」(人気のない山中は老樹が雲に包まれ、さながら千声のほととぎすが一斉に飛び立つようだ。)と吟じたといいます。松寿君もこのような風情溢れる時には、昔の人々も世間の人々も、どれほどかあわれを感じたことだろうかと思いやりなさって、このように詠じたのだろうと思われました。

 松寿君は御言葉の多い方ではなく、たった一人で脇息に凭れなさって静か見もの思いをしていることが多かったのですが、ある秋の日、思いがけず窓の外でパラパラと物音がしました。「何の音でしょうか。」と師匠の僧都に尋ねますと、師匠は謎をかけて、「『青天黄落雨(青い空に黄色い木の葉や木の実が雨のように落ちる)』と聞こえたぞ。」とおしゃったので、松寿君は即妙に、「それは『白日翠微山(ここは白昼、の山の中腹)』ということでしょうか。」と対句で答えなさったのです。

 このように学才に聡く秀でているのは言うまでもありませんが、まことにもののあわれを深く感じる方で、早朝に起きて夜半に休むにも、終日うたたねすることもなく、様々なことを想いながら、学道に思索にと心を砕いて過ごすのでした。

 秋も深まり、軒端に近い竹林に霰が降って、葉を打つ音が高く枕元に響いても、霰は跳ねるが、君の心は跳ねる(心弾む)気持ちにはなれず、まして、月が冴え霜が凍るなんとも静かな夜の折は、寝ずに軒端で夜を更かして寝所へ入りなさるのです。

 都にいる旧知の友も噂を聞いて、「このように、休みも取らないで過度に刻苦するのもいかがなものか。」と心配したのでしょうか、いつぞやはこのような歌を送ってよこしたのです。

 山里は寝られざりけり冬の夜の木の葉交じりに時雨れ降りつつ(山里は冬の夜は木の

 葉が交じった時雨がしきりに降って寝られないことでしょうね。)

 しかし、松寿君の学道や思索に傾ける思いは倦むことなく、蛍の光毎夜明るさを増やし、窓の雪は日々に高く積み重ねるようにますます励んで、比類なきこの世の神童とまで称せられるようになったのです。

 論語に、「朋遠方より来る有り。」とありますが、心を寄せる友は、遠きを厭わず集い集まるのが世の習いで、神童松寿君の噂を聞いた者は、やがて会いたいと願い、松寿君を見たものは、すぐにも我が名を知られたいと願い、顔見知りとなった者は、懇ろに睦み親しむことを願うのです。荻原を吹く風が風音を立てるのに触れては訪れ(音擦れ)し、萩原に降る露を口実に近寄ろうと、松寿君を訪問する方はまことに多かったのです。

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原文

 さて、この山里の景色、さまで都も遠からねど、まことい浮き世の外に住みなして、行き交ふ人も稀なりけり。峰に繁れる松の陰に妻木採り来る*山賤(やまがつ)の斧の*柯(え)、いと近う響き渡るも、猶山深くなりにけり。また、麓に清き川ある。常は童部の一人二人伴ひ出でて閼伽の水汲むなどいふもあはれなり。

 *籬に咲ける卯の花は、晴れぬ雨夜の月を*見し、花橘の香をとめて、山郭公(ほととぎす)の一声も、曙霞む村雨に、御袖の覚えずしほれければ、

 *松の戸を押し*あけ方のほととぎす一声鳴きていづち行くらん

 「雲埋老樹空山裡 彷彿千声一度飛(雲老樹を埋む空山の裡 千声に彷彿として一度飛ぶ」といへるは*竇中行が古(いにしへ)、香山館のなるべし。かかる時にぞ世のためしも人の心も、いかばかりか思ひ知らせ給ひけんと*覚えしか。

 *つやつや御言葉も多からねば、一人のみ*おしまづきに寄り居させ給ひて、御心を澄ましおはしけるに、思ほえず窓の外に物ありてはらはらとなる音すめり。いかにぞやと問はせ給へば、主の僧都、*「青天黄落雨」とこそ聞きしかとのたまひければ、「白日翠微山」にもやとぞおほせける。

 かく敏(と)きなる御才などは言わずもあれ、いたうあはれをしろしめししかば、早朝(つとめて)起き夜半に寝(い)ねても、まどろむ事無う、よろづに詠(なが)めがちにぞおはしける。軒端に近き竹の葉に降りゆく霰の音も御枕に高くて、これさへ*ひとり跳ぬべき御心地もおはさぬに、まして月冴え霜凍り、もの静けき折節は、端居に更かして入り給ふ。

 都の友もやは、かくはいかがなど思し出でて、いつの事にや、

 山里は寝られざりけり冬の夜の木の葉交じりに時雨れ降りつつ

 かくて*蛍の光は夜々に増し、雪の色は日々に積もりて、この世の神童なりける。

 *その朋遠きより来る習ひなれば、聞く者は見(まみ)えんと願ひ、見る者は知られんと願ひ、知れる者は睦ばん事を願ひしかば、荻吹く風のおとづれに触れ、萩置く霜の*かごとに寄せて、問ひ来る方も多かりけり。

(注)山賤=山で生活する人。猟師、木こりなど。

   柯=柄。

   閼伽=仏前に供える水を入れる器。

   籬に咲ける・・・=このくだりは七五調。

   見し、=あるいは「見じ。」か。

   松の戸=松の板で作った扉。山中の住家を連想させる。

   あけ方=「押し開け」と「明け方」を掛けるか。

   竇中行=竇常(749〜825)。中唐の詩人。中行は字。「雲埋・・・」は「三体詩」

    所収の「香山館聴子規」の転句・結句。人気のない山中は老樹が雲に包まれ、

    さながら千声のほととぎすが一斉に飛び立つようだ、との意。

   覚えしか=「語り手がそう思った。」と解釈したが、係助詞「こそ」がない。

    「覚えしが、」とも取れるが、「つやつや」から場面が転換していて不自然。

   つやつや=(下に打消しの語を伴って)まったく(~でない)。

   おしまづき=①脇息、ひじ掛け。②机。

   「青天・・・=この応酬には典拠があるのだろうか。僧都の「とこそ聞きしか」

    というのは、そのような詩句を聞いたことがあるというのか、「あれは晴れて

    いるのに木の実か落ち葉がパラパラと雨のように降っているのだよ。」と答え

    ているのかどちらだろうか。それに松寿君は対句で答えている。当意即妙な唱

    和であるとすれば、即興のやり取りと考えた方が面白い。ただ、日本国語大辞

    典」によると、「本朝無題詩・六・別墅秋望(釈蓮禅)」に「木葉声声黄落雨

    峡煙処処翠微山」の句があるようだ。翠微には「薄緑の山」と「山の中腹」の

    意味がある。

   ひとり跳ぬべき=霰は跳ねるが、自分の心は跳ねる(心弾む)ことなく、の意

    か。

   蛍の光・・・=「蛍雪の功」の故事による。日々修学に励んで神童と呼ばれるよ

    うになった、の意。

   その朋=「論語・学而」朋自遠方来、不亦楽乎。を踏まえる。

   かごと=口実。託言。