本文 その6
夜が明けて、せめて遠目にだけでもと、一条郎は松寿君のいる院に行って物陰から窺いますと、折悪しく不在のようだったので、立て切ってあった障子の端の方に詩歌を書き付けました。
標格清新早玉成(標格清新早く玉成す)
問斯風雨豈無情(問ふ斯の風雨豈に情無からん)
怨魂一夜同床夢(怨魂一夜同床の夢)
落月疎鐘却易驚(落月疎鐘却つて驚き易し)
「標格は清新で若くして立派な玉となったあなた、昨夜来の風雨に情を催さないの
か。私は恨めしく思いながら一夜同床の夢を見ても熟睡はできず、月が西に落ちる
明け方に鐘が間遠に鳴るのにはっと目が覚めるのです」
それと言はば百夜が千夜も通はめど絶えて音せぬ人いかにせん
「はいと言ってくれたなら百夜でも千夜でも通いましょうが全く返事を下さらない
人をどうしたらいいのでしょうか」
それ以来、余りに愚かしい我が身を情けなく思い、「後世に障りがあるわけでもない世捨て人の自分が、今更恋の虜になったことだなあ。」と思うと、涙も枯れ果てて、露を払うように涙を払った寝覚めも、今となってはかえって昔の事になったのです。
律師も一条郎の余りの嘆きぶりにいたたまれず、再び松寿君の元に行き、あれこれ言い含めて、とにかく返事を取り付けて、一条の元に送りました。一条が驚いて文を開いて見ると、律師の筆跡と思われます。
「須磨の海人の綱手引く網が弛(たゆ)いようにあなたもたゆく(元気がなく)、網にかかる海松布(みるめ)ではありませんが、傍から見る目にもいたわしくて、やっとのことであれこれ言い繕って松寿君の御返事を取り付けて。」
などと細々と書いてあります。
「ああ、この律師殿の情けほど類ないことよ。」とうれしく思い、松寿君の御返事を見ると、漢詩と和歌が一首づつ書かれてありました。
錦字慇懃織得成(錦字慇懃に織成るを得)
無情未料又多情(無情未だ料らず又多情)
君恩元是如朝露(君恩元是れ朝露のごとし)
薄命一時何足驚(薄命一時何ぞ驚くに足らん)
「錦に思いの詩を縫い付けて織物とした。それが妻から夫への愛の便りだ。それは
無常と言えようか、かえって多情かもしれませんよ。あなたの思いは朝露のように
はかなく過ぎていく。運の悪さも一時の事、気にすることではありません。(いず
れ情は通じましょう。)」
それと言はぬまをこそ我は通はめれとはで音する人のなければ
「はいともいいえとも言わぬ間を行ったり来たりしています。問いかけずに訪ねて
くるような人はいないので。(形式にこだわらず訪ねてくればいいのに)」
「これはきっと、氷っていたいた松寿君の心も溶けたという意味であろう。」と一条は気もそぞろに、地に足もつかず、律師の元に一目散に駆けつけ、ここ数日の厚情に感謝したのでした。
律師も格別に喜んで、「松寿殿にお会いしますか。君に気に入られるなど妬ましいことです。」と軽口をたたいておりました。
そんな折、僧都の院には松寿君の母君から御使いが来ていたのです。
原文
夜明けて、松寿君のおはしける所へなん到りて、ものの隙より窺ひけれども、時しもおはしまさざりければ、立てる障子の端にかくぞ書き付けける。
*標格清新早玉成(標格清新早く玉成す)
問斯風雨豈無情(問ふ斯の風雨豈に情無からん)
怨魂一夜同床夢(怨魂一夜同床の夢)
落月疎鐘却易驚(落月疎鐘却つて驚き易し)
*それと言はば百夜が千夜も通はめど絶えて音せぬ人いかにせん
それよりして、ただ*数ならぬ身をのみ恨みて、後世に障りなき身の今更に*恋の奴となれることよと思ふに、涙さへ尽きて、露払ふべき寝覚めも今はなかなか昔なりける。
律師も猶憐れなることに思ひしかば、とかく言ひ含めて松寿君の御返事をなん取りて遣はしける。一条驚きて見るに、律師のと思しくて、「須磨の海人の綱手も弛く引く網の*余所にみるめもいたはしくて、やうやう言ひしつらひて、松寿君の御返事を取りて。」など細やかに書きたり。
あはれこの人の情けばかり世に類ひもあらじとうれしくて、松寿君の御返事を見るに、一首の詩歌ありけり。
*錦字慇懃織得成(錦字慇懃に織成るを得)
無情未料又多情(無情未だ料らず又多情)
君恩元是如朝露(君恩元是れ朝露のごとし)
薄命一時何足驚(薄命一時何ぞ驚くに足らん)
*それと言はぬまをこそ我は通はめれとはで音する人のなければ
となん書き給へり。
さては御心の解けさせ給ひけるにやと、一条、心空にのみなりて、踏む足さへ留まるべくもあらざりければ、律師のがり行きて、このほどの情けありし事ども、懇ろに語らふ。律師もやんごとなくて、「松寿君に見え給はんや。いと妬(ねた)ふ。」など言ひ戯れけるに、松寿君の母君のお使ひなりとて参れりけり。
(注)標格清新早玉成=「標格」は優れて高い品格。「玉成」は宝石のように立派にな
る事。「疎鐘」は時折り鳴る鐘。詩の意は、「若くて立派なあなたはこの風雨
に情を催さないのですか。一夜同床の夢を見て恨めしく思っている私は熟睡も
できず、西に月が落ちて明け方の鐘が間遠に鳴るのにはっと目が覚めるので
す。」か。
それと言はば・・・=イエスと言ったら幾夜でも通うのに、の意。漢詩を要約し
ている形。
数ならぬ身=取るに足りない身。
恋の奴=恋の奴隷。
余所にみるめ=「傍から見る目」の意だが、海松布(みるめ)を掛けて「海人」
や「綱手」の縁語としている。
錦字慇懃織得成=律師の漢詩に韻字を合わせて唱和している。「錦字」は、錦に
織り込んだ文字。妻が夫を慕って送る手紙。前秦の竇滔の妻が遠い任地の夫を
慕って錦に長詩を織り出して送った故事による。「君恩」は主君の恩。それが
朝露の様だったというのは判じ難い。「君恩」を「あなたの思い」と解釈する
のか?詩の意は、「あなたから丁寧なラブレターを戴きました。無常と言いま
すが多情かもしれませんよ。あなたの思いは朝露のようにはかない。運の悪さ
も一時の事、気にすることではありません。」一条が喜んだのだから、松寿君
の方でも心を許す内容なのだろうが、よくわからない。
それと言はぬ・・・=各句の初めが、「それと言は・も(ま)・かよはめ・た
(と)・人」と同じであったり、近い音であったりと、漢詩の唱和に近い趣向
である。「まを」が未詳。「間を」か。「かよはめれ」は「かよふめれ」とあ
るべきところ。音を合わせるために無理をしたのか分かりづらい。歌の意は、
「はいとも言わずに私は行ったり来たりしているようだ。訪ねてくる人もいな
いので。」か。