religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語③ーリリジョンズラブ5ー

本文 その1

 近来の人の書きなさった文章を見ると、 男色があることは、西域・中華・本朝どの人々も漏れなくいっています。その文章にあるように、この道はこの道は世々を経て絶えることはないので、人が知らない思い草のような思いの種も、葉の末に結ぶ露のように、言葉の端々にかこつけて皆が物語にすることももっともなことでしょう。

 という訳で、最近ある人のおっしゃった事で、この道のあわれだなあと思われたことを、筆に任せて走り書きに書きつけることにしました。

 紀中将康則は中納言康直の御子でした。伝え聞きますと、ごく幼いころよりこの上なく眉目も容貌も秀麗であり、他の人にとってはそのような外見は本望だと思うのでしょうが、この方は、学才は非常に高く、学道への志は深くて、日本・中国の故実にを親しみ、古今の事情に関心を寄せて学問に励んでいたので、世間一般の軽佻浮薄な風潮には全く心を向けませんでした。そのようなわけで人々は、この君の行く末は並々ではなかろうと噂し合ったのでした。

 童名は松寿君と申しました。人の見聞も世間の評判も一方ならぬもので、父母もこの子の生い先を、月や星を見るように頼もしく思って暮らしていたのでした。

 十三歳になった年です。

 春浅いある夜、何ということなく夜が更けに人々が紀邸に参り集まったことがありました。折から吹く風が、どこからともなく梅の香を運んで人々の袖の辺りに馥郁たる香りが漂ってきました。松寿君は、「これは何とも趣深い事であろう。春がこのように過ぎていくのにも気づかないで、ぼんやり暮らしていく人がいるかもしれない。」と思って、御自ら御簾を掲げて、庭の景色を人々に見せなさったのでした。春の朧月は風情ある様に浮かび、夜目にも季節の花が色とりどりに咲き乱れています。そうでなくても人集まれば眠ることも忘れる短夜に、心奪われる春の庭の景色、松寿君の御心には詩興が沸々と湧き出てきます。そして、

 「漢詩

 と優雅に格調高く吟じたのでした。傍らにいた兵部卿有助もそれに唱和して即妙に和歌を詠んだのでございます。

  誰が袖と問ふまであらじ宿の梅触れし匂ひぞ色に知らるる(誰の袖の香りかと尋ね

 るまでもありません、我が宿の梅さん。あなたがふれまわった匂いでその趣は自然と

 わかってしまいますよ。)

 有助の素早い唱和はさすがで、その歌の体も悪くはないので、松寿君はいたく気に入って何度も酒杯を回し、月が入るまで宴を楽しんだ、そんなこともございました。

 そうしているうちに月日は昼夜を措かず水のように流れていきまして、時間に関所があるわけもなくあっという間に弥生となりました。松寿君は、空しく月日が流れるのをやるせなく思いなさって、中国の陶侃という人が、自分が閑暇に甘えて怠惰に陥るのを厭い、毎日百枚もの敷き瓦を運んで心身を錬磨したという故事を素晴らしいことだとお感じになって、

 「どこでもいいのだが、しかるべき素晴らしい方がいるところで、仏道を明らめることができたらなあ。」

 と心の内で絶えず思い続けていたのですが、本源の侍従という方、この方は旧知の間柄だったのですが、紀邸をお訪ねになって、そのような話題に及んで、

 「とある山里に、なにがしという寺がございまして、心を澄まして戒律を守り修行に励んでいるとても尊い僧都殿がいるそうです。この方に入門なさってはいかがでしょうか。この方は仏道に精通しているだけではなく、漢詩漢文にも長じ、老荘の道にも人より秀でているのですが、ご自身は憂き世を厭って隠棲しているのですがね。」

 と申したところ、松寿君は深く心魅かれたようで、

 「そのような人がいるんですね。素晴らしいことを教えてくださいました。私が願っていた未来が開けるのかなと思うとうれしいことです。」

 と言って、すぐにも弟子入りしたいと気がせくようで、早速準備にかかるのでした。

 そのような所に入門するのに、調度の類は多くは持っていけないし、読んでしまった巻巻も、読みたいと思っていた書籍も、必要なもの以外は不用として、絵などの類もなにも携えません。好んで嗜む音楽でも、数ある楽器の中で手慣れた笛だけをつれづれの慰めものとして送っただけでした。

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原文

 *この頃人の作り給へる文を見るに、男の色ある、西域・中華・本朝の人々大方漏れ侍らず。その文にいへるごとく、この道世々を経て終に絶ゆる事なければ、人知らぬ*思ひ草の葉末に結ぶ露の*かごともなどかなからん。

 されば間近う人の仰せられし事の、あはれに覚えしかば、筆に任せて*かたばかり書きつくることになんありける。

 紀中将康則は中納言康直の御子なりける。 最も稚けなうわたらせ給ひし古を、聞き伝ふるぞ、やんごとなき、すべて眉目、貌の優れたらんを、人には本意なることなるを、才(ざえ)いみじく御志深うして、大和・唐の古き後を慕ひ、古今の有様に御心寄せられければ、なみなみならん業にはつゆおもむかせ給はず。されば行方ただならじなど人申しけり。

 その頃、御年十三にならせ給ひて、松寿君となん申しける。父母も人の見聞き、世の覚え一方ならねば、ただこの人の生ひ立たんをぞ、*月星のやうに待ち明かし暮らしける。

 ある夜、夜いと更けてわざとならず、参り集まれる人多かりけるに、折しもあれ、空吹く風の便りにつれて*何地(いづち)ともなく梅が香の御袖にとどまりければ、「これなんいかにぞや、春の行方も知らで暮らせる人*もこそあれ。」とて、自ら御簾を掲げ*させ給ひければ、朧の月も心ありげに、花もいろいろ咲き乱れたり。さらでだに眠ることも得ぬ短夜に、人を悩ます春の庭にて、詩興御心に動きしかば、

 (脱文、漢詩を吟詠したか。)

 と気高う言い出し給ひければ、*兵部卿有助もかくぞありし。

  誰が袖ととふまであらじ宿の梅ふれし匂ひぞ色に知らるる

 さすがに*口疾くて、その様悪しからねば、*御かはらけもたびたびにめぐるにつけて、月さへ入りぬ。

 まことに過ぎゆく月日は水のやうにて、とどむる関路もなければ、ほどなく弥生になりにけり。さるにつけても、*空の名残りのみ惜しみ給ひて、唐(もろこし)*陶侃と言ひつる人の身のいとま、あたらしくて百の甓(もたひ)を取りて運びなんけることも、ゆゆしう思ひ取らせ給ひしかば、

 「いづくにもあれ、さる人ありて、道明らむりしもがなや。」

 と心の*いとなくおはしけるに、本源の侍従、もとよりしろしめす御方にて、

 「訪ひものしけるに、さる山里の某寺とかや、いと尊く*行ひ澄ませる僧都ありけり。これぞもの学びに入らせ給はんにや。その人仏に疎からぬのみにあらず。詩書の文にも長じ、老荘の道も人には異なる。その身、世に物憂くて世にも出で侍らず。」

 と申しければ、倩(つらつ)ら御心を傾けさせ給ひて、

 「さる人あんなり。賢う人ののたまふものかな。思ふ事の末あらんほど、うれしきは。」

 などやがて急がせ給ふ。調度などの多からんは、かかる所へはいと難しきものぞ。見てんほどの巻々、きかまほしき文など、その余は不要なりとて、絵も携え給はず。好いたる御ものの音なども、数ある中に笛ぞ手慣れし慰めにて、つれづれ送らせ給ひける。

(注)この頃=序文を指すか。室町期か。素直に読むと、序文をよんだ語り手が本文を

    書いたと取れる。

   思ひ草=思いの種。草で葉末、露を縁語とする。*

   かごと=言い訳。恨み言。

   かたばかり=形ばかり。ほんの少し。

   月星のやうに=「月とも星とも」は非常に頼りにすることのたとえ。「月よ星よ

    と」はこの上なく寵愛し賞美することのたとえ。両義をかねるか。

   何地=不定の方角。どこから。

   もこそあれ=「もこそ」は将来を推し量る気持ちや、気がかりに思う意をあらわ

    す。好ましくない事態を危ぶむ場合が多いが、将来を期待する場合もある。

   させ給ひ=二重敬語。使役ではない。

   兵部卿有助=不明。「参り集まれる人」の一人か。

   口疾く=返答、返歌が素早い。

   御かはらけ=酒杯。

   空の名残り=不明。時に移り行くのを名残惜しむの意か。千載集恋3・838

    「かへりつる名残りの空をながむればなぐさめがたき有明の月」。

   陶侃=中国東晋の武将。詩人陶淵明の曽祖父。「資治通鑑」に陶侃は平時におい

    ても朝に百の甓(敷き瓦)を外に運び、日暮れに中に入れるという労苦を自ら

    に課し、安逸に流されないようにして大事に備えたという。ふりがなの「もた

    ひ」は酒甕の事。

   いとなく=いとまなく。絶え間なく。

   行ひ澄ませる=仏道の戒めを守り、心を清くして修行に励んでいる。