religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語⑪ーリリジョンズラブ5ー

本文 その9

 やがて死後の弔いも済ませて、松寿君は父の遺言通り、内裏へ出仕することとなりました。帝も故中納言殿の生前の功労の偉大さを思い出しなさって、出仕したその日にも松寿を元服させ、中将に任じました。

 これよりは、紀中将康則と名のりなさいます。

 出仕するや、中将の容貌品格のすべては忽ち帝の叡慮にかない、常に側近く親しく付き従わせて、退出するのも名残惜しいと思いなさいます。そこで、故中納言殿が暮らしていたのは内裏から離れた西の京だったのですが、いつでも参内できた方がよかろうと、一条室町に御殿を造営して、中将を移り住ませなさったのでした。

 このように帝の寵愛は、人目もはばからない様子でしたので、左右の大臣、公達方は羨ましく妬ましく思いなさるのでした。しかし、中将は決して寵愛によって取り入ろうとは思いなさらず、帝に向かってさえ、

 「私は古人が主君に仕えた先例を模範として、そのように行動できたならば真実の忠孝の身と言えると考えております。どうして移ろいやすい色香をもって、かりそめの帝の御心を貪ろうとしましょうか。それは主君を正し、亡き父の遺徳を顕彰する道ではありません。

 帝もご承知の事とは思います。漢の哀帝が董賢を寵愛したのを、諫臣鄭崇は不可としました。衛の弥子瑕が、霊公の寵愛が衰えると罰せられた、『余桃の罪』故事もあります。これらをもって後世の参考にせよと史書にも書いてあります。」

 と申し上げて、人一倍慎んで行動なさったので、帝も己の軽率な思いを恥じ、人臣も中将の人徳を慕って敬い申し上げたのでした。

 

原文

 やがて後々の業も程なく終りければ、松寿、内裏(うち)へ参上(まうのぼ)り給ふ。君も故中納言、*世にいたはり 多き事など思し出でて、その日松寿に*初冠(うひかうぶり)させて、中将康頼とぞ申しける。

 一たび君王に見え給ひしより、すべて叡慮にかなひしかば、常に御座(おまし)近く*なれまつはし給ひて、*あかぬ名残りを思しめし給ふ*故、中納言おはしける所は、*西の京なりけるを、内裏近き所なんよろしく侍らんとて、*一条室町に殿造りして移らせ給ひける。

 かく君のいとほしみ、片方(かたへ)に人なきばかりなれば、左右の大臣の公達もうらやましきことになん思ひ給へりける。

 中将は*枉(ま)げてそれとも思ひ給はず、

 「我、いにしへの人の仕へし道をもて、かくあるものにあらば、まことに忠孝の身とも言ひつべし。何せんは、移ろひやすき色をもて、仮の叡慮を貪らんは、君を正し、父を顕はす道にあらず。

 君見ずや、漢の*董賢が幸せられし、*鄭崇諫めて不可とす。衛の*弥子瑕(びしか)が行ひをもて、後の世を見つべし、とまのあたり、史の文にも見えぬるものを。」

 といやましに慎み給ひければ、君もその心ざしを恥ぢ、人もその徳になつきて、仰ぎ奉り侍り。

 

(注)世にいたはり=人々への慈愛。

   初冠=「最初の爵位として五位に任ぜられ、仕官すること。」(精選版日本国語

    大辞典)とあるが、「中将」は、従四位下相当官。亡父の遺徳によっての抜擢

    か。

   なれまつはし=親しく傍にいさせる。

   あかぬ名残り=中将が退出した後の空漠たる感情か。

   故、中納言=大成本では、「故中納言」としているが、続群書類従本、続史籍集

    覧本に従って、接続助詞「ゆへ」と取った。

   西の京=平安京の西の部分。都市として発展せず荒廃していた。有力貴族はこぞ

    って左京(東の京)の内裏近くに住んだ。

   一条室町=時代によって内裏の場所が異なるが、いずれにしても内裏から至近距 

    離であったろう。

   枉げて=「無理にでも」の意だが、下に打消しの語があるので、「決して~な

    い」の意か。

   董賢=漢の哀帝の寵愛を受けた官人。

   鄭崇=哀帝に仕え、董賢を寵愛するのを諫めた。

   弥子瑕=「序文 その2」、「桃余の罪」のところで触れた。寵愛の厚さに驕慢

    になっていると寵愛が衰えた時には罪を被ったという例。