religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)③ー稚児物語4ー

第三

  巻2から巻10までは花若・玉若の記述は多少の問答はあるようですが、ほとんど見えないようです。(精読したわけではありませんが。)ですから③は巻11冒頭から始めます。

 早物語の盲僧が情感たっぷりに玉若・花若・師匠の情愛を語ったのでしょうか。それが巻2か巻10まで続くと思うとすごいのですが、実際は百科事典みたいに知識の披瀝に終始しているようです。

 それで、巻11の冒頭では突然玉若が病気になってしまいます。巻10に伏線があるわけでもなく急に物語的になってしまいます。ちょっと無理がある感じです。稚児物語的な部分の割愛があったのでしょうか。

 そして、師匠の僧正が玉若の病は恋のなせる業だと恋の典拠を述べるのですが、玉若に否定されます。なんとも感動できないのですが・・・

 

 玉若殿が病に就く事

 さて、玉若殿は体に異常をきたして、ぐったりとした様子で病の床に就きました。それは、昔、漢の李夫人が昭陽殿で病の床に臥した辛さや、唐の楊貴妃が「梨花一枝春雨を帯ぶ」と形容なされた御様子もこのようなものだったのだろうかと思われるほどです。僧正がひどく驚いて、

 「そなたの御様子を拝見いたすと、ひどく常ではない御様子と見て取りました。どなたかを偲んでの忍ぶ草の思いが長く続いて、袖の中に隠しておいても蛍のようにその色は顕れるのですよ。どのような事でもお悩みになっているお心をお語りなさいませ。お相手が天竺・震旦・新羅百済の方ならさておいて、我が日本の事ならばどんなことでもあなたの思いをかなえて差し上げましょう。」

 とおっしゃるので玉若殿はとても驚きなさいました。

 「お師匠はなんとも思いもよらぬ事をおっしゃいますよ。」

 と言って季節外れの紅葉を散らすように顔を赤らめなさいました。僧正殿は重ねて言葉を続けます。

 「昔もそのような例はございます。語るのも畏れ多いのですが、天照太神兜率天にいらっしゃった時に、富士浅間大菩薩に恋をなさって、一首の歌を送りなさいました。

  浪高み荒磯崎の浜松は琴一伽羅の響きなりけり

  (波が高い荒磯崎では浜の松の松風も波の音に消えて、唐琴一台分の音色しか聞こ

  えません。あなたのお声もほとんど聞こえないのです。)

 と御詠なされたので、白衣の仙女が忽ち富士の峰の頂に立ち現れなさいました。仙女は反魂香を焚いて大菩薩の魂を呼び寄せ、天照大神一行は駅鈴を鳴らしながら駿河の国に行き、その面影だけですが御覧になって大日霊(おほひるめ=天照大神)の御心は慰められ、恋に闇路も晴れなさって、富士の煙も絶えたという事です。この浅間大菩薩をまた千眼大菩薩(千手千眼観自在菩薩)と申すのは、愛欲こそ菩提に至るという愛染明王の御垂迹で、三十二相を具えなさっている女体の御神様だからです。

 この富士山は昔は天竺七島のうち、第三(もしくは三つ)の島であったが、本朝天つ神の時代に割れ裂けて飛んできたので飛来峰と名付けたのです。その時波の上に浮いていたのが波で打ち寄せたのです。その後、人の世となって、この国を駿河の国と名付け、それで『駿河の山』となったので、枕詞では『打ち寄する駿河』というのです。また、麓を元の浮嶋に因んで『浮嶋が原』というのです。

  舟よばふ富士の川戸に日は暮れて夜半にや過ぎむ浮嶋が原

  (舟を呼んで富士川の河口の港に日は暮れて出港しても夜半に浮嶋が原を過ぎるだ

  ろうか)

 この山をまた般若山といいます。その形は蓮の花を合わせたようで八弁です。中央に窪みがあります。その底には水が湛えられています。また四八山ともいいます。三十二相を具現した美しい山なのでそういうのです。また浅沼の岳、藤岳ともいいます。この沼の四方から藤が生え上って中で寄り合っています。また鳴沢ともいいます。この峰には大きな沢(崩落地)があります。その沢の水と火が相克して噴煙と水蒸気が交じり合って立ち上り、沸騰した水が沸き返る音が常に絶えません。ですから袖中抄に、このような歌があります。

  さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

  (共に寝る時間は玉の緒のように短い。恋しく思うことは富士の高嶺の鳴沢の

  ように鳴り響いています)

  煙立つおもひや下にこがるらん富士の鳴沢声むせぶなり

  (富士山に煙が立っている。私があなたを思う思いの火がその煙の下で焦げるよう

  にあなたを恋い焦がれているのでしょうか。富士の鳴沢の音は咽ぶように聞こえて

  きます)

 また、この山を富士と名付けたのは、御神体が女神でいらしたので、男の士(もののふ)を富ませようと欲したために人々が言祝いで名付けたともいわれています。また、不尽とも書く理由は、至って高いので眺望が尽きないからとのことです。もしくは四時雪が消え尽きる事がないからです。また不死とも書き、蓬莱ともいいます。これは仙術の方士がやって来て不死の薬を求めた蓬莱山がこの山であると言ったからです。そうして秦の二世皇帝の皇子が方士に従ってこの山の麓にやって来て住んだという事です。秦河勝はこの皇子の十三代の後裔です。また、日本記紀には宣化天皇の御宇に海中から湧き出したともいわれています。また、孝霊天皇の御時に一夜で地中から湧き出して一由繕那(16㎞)にもなったと云々。それで新山といい、見出し山ともいいます。また、三重山、神路山、常盤山、三上山などと申すも説あります。

 また、天武天皇の御宇に、駿河に国に竹作りの翁という者がいたそうです。竹を植えて上手に育てる人であったそうです。その翁がある時竹藪の中で鶯の卵をあるのを見つけました。その中に金色に輝く卵がありました。これを取り上げて自分の家に置くと、七日経って端厳美麗の少女となって光を放ったそうです。そこで翁は自分の子として赫姫(かくやひめ)と名付けました。駿河の国の国司、宰相金樹がこの事を帝に奏聞しました。帝はこの赫姫をお召しになってこの上なく御寵愛なされました。三年を経てこの姫が帝に申し上げました。『私は天上の世界の天人です。君とは宿縁があって仮に下界に下ってきましたが、縁は既に尽きようとしています。』と言って形見の鏡を献上して天へと昇って行きました。また、不死の薬に一首を添えて残し置きます。

  今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる

  (今はもうお別れだと思って天の羽衣を着る時になってあなとのことを恋しく思い

  出されます)

 帝は御返歌に、かの薬を添えて返しなさいます。

  逢ふことの涙に浮かぶ我が身には不死の薬もなににかはせむ

  (逢うことができないで涙に浮かぶ我が身にとっては不死の薬も何になろうという

  のです、何にもなりません)

 その後帝は鏡を抱いたまま床に臥してしまいます。焦がれる胸の思いが鏡に燃えついて全く消えなかったので、公卿たちが僉議を開いて、土の箱を作ってその中に鏡を入れて、元あった所だからと駿河の国に送って置きましたが、猶燃える事は止まないので、国人は大いに懼れて、富士の頂まで上り置いたのですが、この煙はやはり途絶える事はありませんでした。その後朱雀天皇の御宇に、富士の煙の中から声があったといいます。

  山は富士けぶりも富士のけぶりにて知らずはいかにあやし(かなし?)からまし

  (山といえば富士、煙といえば富士の煙です。そんなことを知らないとはなんと不

  思議な⦅悲しい⦆ことでしょう)

原文

 玉若殿違例之事

 ここに玉若殿例ならず、所労の心地にて悩み給ふ。されば昔、漢の*李夫人の昭陽殿の病の床に臥し、唐の楊貴妃の*梨花一枝春雨を帯び給ふ御有様もかくやらん。僧正大いに驚き曰ひけるは、「此の御気色を見たてまつるに、殊なる御風情とのみ見及び申し候ふ。*忍ぶ草の縁を長し、袖の蛍の色顕はれ給ふ。何事にても思し召す事御心を隔てず御物語候ふべし。天竺・震旦・新羅百済の事は先ず置きぬ、吾が朝においては何事にても御意に任すべき。」と宣ひければ、玉若殿大いに驚き給ふ。「さても思ひもよらぬ事を宣ふものかな。」とて、時ならぬ顔に紅葉を散らし給ふ。僧正重ねて曰ひけるは、「昔もさるためしの候ふ。忝くも天照太神兜率天に御座(おまし)て、富士浅間大菩薩を恋ひさせ給ひて、一首の歌を送り給ふ。

  *浪高み荒磯崎の浜松は琴一伽羅の響きなり*けり

 と御詠ありければ、富士峯頭に即ち白衣の仙女顕現し給ふ。*反魂香を焼(た)き、*駅路の鈴を鳴らし、面影ばかり御覧じて*大日霊(おほひるめ)御心を慰み、恋の闇路も晴れ給へば、富士の烟りも絶えにけり。彼の*千眼大菩薩と申すは、*愛染明王の御垂迹、三十二相を具へ給へる女体の御神なり。

(注)李夫人=漢の武帝の夫人(側室)。絶世の美女で寵愛されたが若死にしたとい

    う。

   梨花一枝春雨を帯び=長恨歌の一節。楊貴妃の悲しげな様子。

   忍ぶ草の縁を長し=意味未詳。自分の恋心を抑えていたという事か。

   袖の蛍の色顕はれ=文保百首に「袖につつむ蛍のみかはあきらけき君の光も身に

    ぞあまれる」藤原実重、とあるようである。袖に隠しても蛍に光と君(帝)光

    は明るいのである、という意味か。僧正は玉若の病気を恋に病と解釈したの

    だろう。

   浪高み・・・=一伽羅が何の単位なのか。唐琴一台分か。波が高い荒磯崎なので

    で浜の松の松風も波の音に消えて、唐琴一台分の音色しか聞こえない、との意

    か。典拠未詳。荒磯は歌枕としては越中の海岸だが。

   けり=原文では「梟」だが、文脈上「鳧」でけりと読むのだろう。

   反魂香=焚けば死人の魂を呼び返してその姿を煙の中に現すことができるという

    想像上の薬。

   駅路の鈴=駅鈴。駅使(公用で旅する者)が与えられた鈴。この鈴によって各駅

    で宿泊・食糧を供給された。仙女が駅鈴を鳴らす意味がわからないので、天照

    大神の一行の方が鈴を鳴らして現地(駿河)に赴いたという苦しい解釈をす

    る。

   大日霊=大日孁貴(おほひるめのむち)。天照大神の別称。

   千眼大菩薩=文脈上富士浅間大菩薩指すが、「千眼」は千手千眼観自在菩薩に通

    ずる。浅間大菩薩は本地垂迹による本地仏大日如来らしい。女神天照大神

    大日如来に恋をしたというエピソードは何に拠るのか。祭神としては「木花開

    耶姫」で女神である。

   愛染明王=愛欲を主体とする愛の神。煩悩である愛欲が菩提となる、その象徴。

 此の富士山の昔は*月氏国七島の内、第三の島なりしが、吾が朝天神の時代に破裂(われさ)けて吾朝へ飛び来るゆえ、*飛来峰と名付く。其の時波上に浮きけるを、浪打ち寄せけり。其の後人代に成りて此の国を駿河の国と名付け、然れば駿河の山と成る故に、「*打ち寄する駿河」と云へり。また、麓を*浮島が原と云ふ。

  *舟よばふ富士の川戸に日は暮れて夜半にや過ぎむ浮嶋が原

(注)月氏国七島=月氏はインドの古称であろう。インドの島の一つが飛んできたとい

    う話は出典未詳だが、中国には杭州に須弥山に似ているというので須弥山の

    「飛来峰」だという景勝地があるらしい。

   打ち寄する=駿河の枕詞。一般的には「する」が「駿河」を引き出しているとい

    う解釈だが、ここでは「打ち寄せた島が駿河の富士山を作った」と解釈してい

    るようだ。ちょっと無理がある感じだ。

   浮島が原=富士山麓の湿原。語源は未確認。鎌倉時代の「東関紀行」の中に浮島

    の由来を、「この原昔は海上に浮かび、蓬莱の三つの島のごとくありけるによ

    りて浮嶋と名付けたり」とあるという。

   舟よばふ・・・=出典未詳。

 此の山をまた*般若山とも云ふ。その形合蓮花に似て八葉なり。中央に窪あり。其の底に池水湛へたり。また、四八山とも云ふ。三十二相を具せる山なり。また浅沼の岳、藤岳とも云ふ。此の沼の四方より藤生上り、中にて寄り合ふ。また*鳴沢とも云ふ。此の峰に大なる沢あり。其の水と火と相剋して烟と水気と和して立ち上り火燃水の沸き返る音常に絶えざるなり。されば*袖中抄に、

  *さ寝(ぬ)らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと

  *煙立つおもひや下にこがるらん富士の鳴沢声むせぶなり

(注)般若山=以下に[YamaReco]のHPに出ていた「富士山」の別称・呼称・愛称、呼び

    名を転載します。「日本山岳志」が出典のようです。

    不二山・ふじさん  不自山・ふじさん  不死山・ふじさん

    福慈山・ふじさん  不士山・ふじさん  不時山・ふじさん

    藤嶽山・ふじがやま 塵山・ちりやま   三重山・みえやま

    常磐山・ときわやま 二十山・はたちやま 聚新山・にいやま  

    見出山・みだしやま 三上山・みかみさん 神路山・かみじさん

    羽衣山・はぐろやま 東山・あずまやま  御影山・みかげさん

    竹取山・たけとりやま国深山・くにのふかやま 鳥の子山・とりのこさん

    乙女子山・おとめこやま 芙蓉峰・ふようがみね 八葉嶽・はちようだけ

    和合山・わごうさん 影向山・ようごうさん 仙人山・せんにんさん

    七宝山・しちほうさん  四面山・しめんさん 養老山・ようろうさん

    妙高山みょうこうさん  吹風穴山・ふくかぜあなやま  

    恋中山・こいのなかやま  鳴沢高根・なるさわたかね 高師山・たかしやま 

    時不知山・ときしらずやま  穀聚山・こくじゅうやま

    四季鳴山・しきのなるやま ずいぶんあるんですね。

   鳴沢=富士には大沢崩れという大規模な崩落地がある。山梨県側の麓に鳴沢とい

    う地名がある。

   袖中抄=鎌倉時代の歌学書。

   さ寝らくは・・・=万葉集巻14・3358に見える。「玉の緒」は短いもののたと

    え。「共に寝る時間は玉の緒のように短い。恋しく思うことは富士の高嶺の鳴

    沢のように鳴り響いている。」の意。

   煙立つ・・・=出典未詳。国立国会図書館デジタルコレクションの「袖中抄」で

    は確認できなかった。「おもひ」は「思ひ」と「(おも)火」をかける。煙と

    火と焦がるとむせぶが縁語か。「富士山に煙が立っている。私があなたを思う

    思いの火がその煙の下で焦げるように焦がれているのでしょうか。富士の鳴沢

    の音は咽ぶように聞こえてきます。」の意か。 

 また此の山を富士と名付くる事は、御神女体にておませば、男士に富めしめん事を欲する故に*俗祝ひて名(付く?)と。また不尽とも書く故は、高きに至りて瞻望尽きざるなり。また四時雪尽きざるなり。また不死とも書く、蓬莱とも云ふ。是は方士来たりて不死の薬を求めし蓬莱とは此の山と云へり。然る間、秦二世の皇子方士に伴ひて此の麓に来住す。秦河勝は彼の十三代後裔なり。また*日本記紀宣化天皇の御宇に海中より湧出すと云ふ。また孝霊天皇の御時、一夜に地より湧出で、*一由繕那と云々。然れば新山と云ひ、見出(みいだし)山とも云ふ。また三重山、神路山、常盤山、三上山など申す説あり。

(注)俗祝ひて=人々が讃美したのか。男がいっぱい集まりますよ、と御世辞を言った

    のか。

   方士=秦の始皇帝の命により不老不死の薬を求めて徐福が東海の蓬莱山を求めて

    海上に旅立ったとの記述が「史記」にある。それを承けて日本各地に徐福伝説

    が存する。富士山の麓富士吉田にも徐福伝説がある。「宮下文書」も偽書では

    あろうがそのひとつ。

   日本記紀=「古事記」「日本書紀」には富士山の記述はない。中世の「日本紀

    は必ずしも「日本書紀」を指さず、日本の歴史として多くの人に共有された神

    話という意味合いのようだ。いずれかの史料にあったのだろうか。

   一由繕那=「由繕那」は「踰繕那」か。由旬ともいう。梵語で距離の単位。一由

    繕那が40里(中国)とすると、約16㎞。

 また*天武天皇の御宇、駿河の国作竹(たけつくり)の翁と云ふ者あり。竹を植えて能く生(そだ)つる人なり。或る時竹中に鶯の卵数多あり。其の中に金色の卵あり。之を取りて吾家に置くに、七日を経て端厳美麗の少女と成りて光を放す。乃ち翁が子として赫姫(かくやひめ)名づく。駿河の国国司、宰相金樹此の由奏聞す。帝是を召して寵愛他に異なり。三年を経て彼の姫奏して曰く、「我は上界の天人なり。君と宿縁ありて仮に下界に下る、縁既に尽きぬ。」とて形見に鏡を奉りて上天す。また不死の薬に一首を添へ置く。

  *今はとて天の羽衣着る時ぞ君をあはれと思ひ出でぬる

 と。帝の御反歌に、彼の薬を添へて返し給ふ。

  逢ふことの涙に浮かぶ我が身には不死の薬もなににかはせむ

 と。其の後、帝彼の鏡を抱いて伏し給ふ。胸焦がるる思ひの火と成りて、鏡に付けて総て消えざれば、公卿僉議ありて、土の箱を作り中に入れて、本所なればとて駿河に国へ送り置くに、猶ほ焼け止まらざりければ、国人大いに懼れ、富士の頂に上せ置くに此の烟猶ほ絶えざりけり。其の後朱雀院の御宇、富士の烟の中に声ありて云ふ、

  山は富士けぶりも富士のけぶりにて知らずはいかにあやし(かなし?)からまし

 是によりて富士の烟を恋に読みけるなり。

(注)文武天皇・・・=竹取説話は中世の古今和歌集注釈書や歌論書に多く引用されて

    いる。古今和歌集序聞書三流抄にも、「日本紀云ふ・・・」として本文と同じ

    内容の記述がある。

   今はとて・・・=「時ぞ」、が「折ぞ」と若干異動はあるが竹取物語に同様の和

    歌がある。逢ふことの・・・の和歌も竹取にある。

   山は富士・・・=出典未詳だが、「神道集」巻8に「山も富士煙も富士のけぶり

    にて煙るものとは誰も知らじな」というよく似た歌がある。

 

塵荊鈔(抄)②ー稚児物語4ー

 

第二

比叡山の事

 そもそもこの二人の少年のいらっしゃった天台山と申しますのは、元の名は日枝山でした。これは(京都盆地平安京から見ると)朝日がこの山から出てきて次第にその枝を昇っていくので名付けられたのでした。太陽の出る所にあるという神木の扶桑木になずらえたものです。その後、人皇五十代桓武天皇伝教大師の二人の叡聖が比目同行して開山なさったのです。これによって比叡山と字を改めなさったのでした。この寺を延暦寺と号するのは、同じく柏原天皇桓武)が延暦四年乙丑の七月に大師と心を一つにして創建なさったからです。

(以下暫く「花若・玉若」の記述はありません。古典文庫上P11~P21。省略します。)

 さて、この二人の少年は、比叡山のさる院家でオムツをしていた幼いころから学問をしていなさったのです。花若殿のお里は坂東足利の荘、源氏の末裔で、水尾(清和)天皇の血筋を継ぎなさっているのです。玉若殿のお里は筑紫大宰府の平家の華族で柏原(桓武天皇の血統を受けついでいなさるのでした。師匠の僧正は大織冠中臣鎌足の子孫藤原氏で、三人には出自の優劣はございません。とりわけこの少年たちは、容色は人に抜きんでて、桃の花が露を含んで咲き始めたようなお顔、紅や白粉を施した目元は媚を宿し、美しい顔は露を含むようで、柳のように長い髪が風に吹き乱れては、青い黛が人の心を悩まし、嬋娟として華やかな御姿は春の花にも嫉まれ、窈窕として鮮やかな容貌は秋の月にも妬まれるほどでしょう。三十二相の美しさが備わっていて、八十種好の厳かさが具わっているお体は麗しさそのものです。まったく、妙音大士(弁財天)の化身か、吉祥天女の生まれ変わりかとおもわれるほどです。

 異国に於いては、趙飛燕(実際は妹趙合徳)の新興髻や遠山眉の粧い、孫寿の堕馬髫・折腰歩の姿、褒姒の幽王を傾倒させた艶で姿、妲己の紂王を誑かした容顔、西施の捧心皺眉の振る舞い、奼女(美少女)の紅顔緑髪、王昭君の胡地へ征く鞍上の愁容、班婕妤の棄捐秋扇の憂色、卓文君が翠黛の色、虢国夫人が紅粉の粧いもこの二人には及ばず、美女毛嬙でも面と向き合うのを恥ずかしく思い、女神青琴でも鏡を布で掩って見えないように隠したことでしょう。

 また、本朝の玉依姫豊玉姫衣通姫、松浦小夜姫、玉藻の前、紫式部小野小町、常盤御膳、玉虫の前等の容色も、この少年たちと比較すればものの数ではございません。

 両人は生国は遥々東西に隔たった御身ではありましたが襁褓(むつき)の頃から、僧正の同衾の下でお育ちなさったのです。片時として離れなさらない御様子は、独狐信・韋叙裕が連璧の友と呼ばれ、夏侯湛・藩安仁が同じ輿で語らったこと、韓愈・孟郊が雲竜の盟(ちぎ)りを結んだこと、陳重・雷義が膠漆の約を交わしたことにもたとえられましょう。総じて同じ木陰に宿を取り、同じ川の流れを汲むことも曠劫(永劫)続く多生の縁となると伺っております。この少年たちのお語らいはただ一世の縁ではございませんでしょう。ですから、「和漢朗詠集」などに、「『意合則胡越 為兄弟 由余子臧是矣 不合則骨肉為讎敵 朱象管蔡是矣(漢書・鄒陽伝)志が通じれば北方の胡人も南方の越人も兄弟となる。由余・子臧がこの例です。通じない時は肉親でさえ仇敵となります。堯の子丹朱、舜の弟象、周公丹の弟管叔鮮・蔡叔度がこの例です。』とあり、また『君とわれいかなることを契りけん昔の世こそ知らまほしけれ』」とございますのも、このようなことを申しているのでしょうか。

 学問の稽古を怠りなさらず、車胤が蛍の光で古典を習い、孫康が旧跡を思って雪を窓に積んで書写したといいますが、机に肱を砕くように、止観の窓に臨んで、権教実教の奥義を談じ、玄門の床に上っては理事即一の宗旨を究めたのです(仏道の学究に専心したのです)。ですから、天台の釈に「好色の遊女明鏡を離れず、好道の沙門聖教を離れず(色好みの遊女が鏡を見続けるように、仏道を求める沙門は仏道を離れない。」というのです。文学も思想も具現なされたお二方でございます。容貌といい法器といい、師匠の寵愛は他に及ぶものはなく、一寺の賞玩を集めたものでした。

 その師匠の僧正がある時言うには、「おのれら両人は御童形の御身として、外には五常を守り礼儀を正し、剛柔進退にして雲の風に任せているようだ。内には六度を行って慈悲を専らにし、心操は調和にして水の器に随うようだ。内典外典の学問薫修の功積もり、二明に鏡を懸けなさっている(明鏡をそれぞれが懸けているように才を誇っている?)。さすればお互いに問答して正邪を議論しなさい。私がお聞きしましょう。」というので、玉若殿が尋ねて言いました。

 「ただいま師匠が言いました『五常六度濫觴(はじまり)はどのようでございますか。」と。

 花若殿はこのように答えました。「其の五常は・・・以下五常六度の説明。」

 すると玉若殿が言いました。「内典に学する処の・・・以下仏教史を述べて巻1終了。」

原文

比叡山の事

 抑も彼の二人の少人の御座(おは)します天台山と申し侍るは、旧の名は日枝山なり。是は朝日此の山より出でて漸く其の枝に昇る故に名付けたり。*扶桑樹に准(よ)るものなり。其の後、人皇五十代桓武天王伝教大師*叡聖比目す。之に依りて比叡山と改む。彼の寺を延暦寺と号する事は同じく*柏原天皇山部延暦四年乙丑(きのとうし)の七月に、大師と心を一つにして草創し給ふ。

(以下暫く「花若・玉若」の記述はありません。古典文庫上P11~P21。省略します。)

 さても、彼の二人の少人、叡山さる院家に襁褓(むつき)の比より学文して御座しけり。花若殿御里、坂東足利の庄源家の苗裔にて*水尾天皇の*帝猷を紹(つ)ぎ給ふ。玉若殿御里、筑紫大宰府平氏華族にて柏原天皇の聖緒を受け給ふ。師匠の僧正、*大織冠の末孫藤原氏にて、三人何れも勝劣御座候はじ。殊に彼の少人、容色人に勝れて*桃顔露を綻(ふく)んで、*紅粉眼に媚をなす。柳髪風に梳(けづつ)て青黛情を悩まし、嬋娟と華やかなる御姿、春の花にも嫉まれ窈窕と鮮やかなる御容(かた)ち、秋の月さへ妬むらん。*三十二相其の身に具はり、八十種好其の体麗はし。凡そ*妙音大士の化身か、吉祥天女の再誕か。

 異国に於いては*飛燕が新興髻・遠山眉の粧ひ、*孫寿が堕馬髫・折腰歩の姿、*褒姒が幽王を傾けし艶色、*妲己が紂王を誑かす容顔、*西施が捧心皺眉、*奼女が紅顔緑髪、*昭君が胡地征鞍の愁容、*婕妤が棄捐秋扇の憂色、*卓文君が翠黛の色、*虢国夫人が紅粉の粧ひ、*毛嬙面を恥づ、*青琴鏡を掩ふ。

 又、吾朝の*玉依、豊玉、衣通妃、松浦小夜妃、玉藻前紫式部小野小町、常盤、玉虫等の容色も、彼の少人に喩ふれば、屑(もののかず)にて候はじ。

(注)扶桑樹=扶桑木。太陽の出る所にあるという神木。

   叡聖比目=「叡聖」は徳があり賢明である事。天子を称えて言う。「比目同行」

    という熟語は二人が親密で離れないことのたとえ。桓武天皇伝教大師(最

    澄)という賢明な二人が相親しんで(心を一つにして)開山したという事か。

    それにちなんで比(比目)叡(叡聖)山の字を当てたという意味であろう。

   柏原天皇桓武天皇の別称。山部は諱(いみな)。平家の祖。

   水尾天皇清和天皇。源氏の祖。

   帝猷=天子の道。ここでは天皇の血筋の意味か。

   大織冠=大化3年から天武天皇14年まで日本で用いられた冠位。大織を授けられたこ

    とが記録に見えるのは、藤原鎌足だけだそうある。鎌足を指すのだろう。

   桃顔・・・=桃顔・紅粉・柳髪・青黛・嬋娟と・窈窕となどは美女の形容の常套

    表現。「この北方と申すは故中御門新大納言成親卿の御娘孤子にておはせしか

    ども、桃顔露に綻び紅粉眼に媚を成し柳髪風に乱るる粧また人あるべしとは見

    え給はず。」(平家物語・巻7・維盛都落)は先行する類似表現。

   三十二相=仏がそなえているという三十二の優れた外見的な身体的特徴。

   八十種好=仏の身にそなわるそれとはっきり見る事の出来ない微細な八十の特

    徴。

   妙音大士=弁材天。

   飛燕が新興髻・遠山眉=飛燕は趙飛燕。前漢成帝の皇后。「趙飛燕外伝」には、

    飛燕の妹、趙合徳(昭儀)の描写で「為巻髪 号新髻 為薄眉 号遠山黛」と

    いう粧いをしたとある。これを指すか。以下に出てくるのはいずれも美女。

   孫寿が堕馬髫・折腰歩=後漢の政治家梁冀の妻。彼女が考案したファッションは 

    「齲歯笑」(虫歯の痛みに耐えながらの笑み)、「愁眉」(愁いを込めた書き

     眉)、「啼粧」(泣きはらした様な目元)、「堕馬髻」(左右非対称の髪型)、

    「折腰歩」(腰を折ったような歩き)などと呼ばれた。⦅ウィキペディアによる)

   褒姒・妲己=いずれも悪女として有名。

   西施が捧心皺眉=西施が病で胸を押さえ眉を顰めた、その美しさを村の醜女が真

    似たという。「顰に倣う」の語源。

   奼女が紅顔緑髪=奼女には、1少女、美女。2道教の薬。の意味があるようだ。

    固有名詞ではないようだ。「緑髪紅顔」は美少年・美女の形容。

   昭君が胡地征鞍=昭君は王昭君。中国四大美女の一人。匈奴に嫁した。

   婕妤が棄捐秋扇=「棄捐秋扇」は秋になり、不用となった扇。また、男の愛を失

    った女のたとえ。前漢の成帝の宮女班婕妤(はんしょうよ)が、君寵の衰えた

    わが身を秋の扇にたとえて詩を作った「文選‐怨歌行」の故事による。班女が

    扇。

   卓文君が翠黛=卓文君は漢代の女性。司馬相如の妻。翠黛は美女のたとえだが、

    出典は何であるかは未確認。

   虢国夫人が紅粉=虢国夫人は唐玄宗皇帝の妃楊貴妃の姉。美貌に自信があり化粧

    をしなかったというが・・・

   毛嬙=春秋時代の越の美女。

   青琴=伝説上の神女。もしくは広く美しい歌姫舞女を指す。

   玉依、豊玉、衣通妃、松浦小夜妃、玉藻前紫式部小野小町、常盤、玉虫=い

    ずれも日本の美女とされる。「玉虫の前」は日本国語大辞典にも載っていず、

    やや知名度は低いが、「源平盛衰記」では那須与一が射た扇の的を持っていた

    美女である。

 両人生国遥々東西隔たる御身なれども襁褓(むつき)の比より、僧正の同衾の下に馴長(なれそだ)てなり給ふ。*造次にも顛沛にも離れ給はざる御有様、*独狐信・韋叙裕が連璧の友、*夏侯湛・藩安仁が同輿の語らひ、*韓愈・孟郊が雲竜の盟(ちぎ)り、*陳重・雷義が膠漆の約とも申すべし。凡そ一樹の陰に宿り、一河の流れを汲む事も多生曠劫の縁と承る。彼の少人の御語らひ、只一世の縁には候はじ。されば*朗詠に「『志合する*則(とき)んば、*胡越も昆弟と為る、*由余・子臧是れなり。合せざる則んば骨肉も讐敵と為る、*朱象管蔡是れなり。』又、『君と我如何なる事を契りけん昔の世こそ知らまほしけれ。』」と候ふも、加様の事をや申し候ふ。学文稽古怠り給はず、*車胤が古を慕ふ、蛍を拾ひて文を読み、*孫康が昔を思ひ雪を積みて手を習ひ、几案に肱を砕きつつ、*止観の窓に臨みては、*権教実教の奥義を談じ、*玄門の床に上りては*理事即一の宗旨を究む。されば天台の釈に「*好色の遊女明鏡を離れず、好道の沙門聖教を離れず」と云へり。*文思合はせられたり。容貌と云ひ法器と云ひ、師匠寵愛諸(かたへ)に超へ、一寺の賞玩他に異なり。

 或時僧正曰はけるは、「両人御童形の御身として、外には*五常を守り礼儀を正し、剛柔進退にして雲の風に任せたるに似たり。内には*六度を行ひて慈悲を専らにし、心操の調和にして水の器に随ふがごとし。内典外典の学文薫修功積もり、*二明に鏡を懸け給ふ。哀れ互ひ*決択候へかし、聴聞申すべき。」とありければ、玉若殿問ひて云はく、「只今師匠の曰ふなる五常六度濫觴、如何が候や。」と。花若殿答へ給ふ。「其の五常は・・・以下五常六度の説明。」又玉若殿曰く、「内典に学する処の・・・以下仏教史を述べて巻1終了。」

(注)造次にも顛沛にも=「造次」「顛沛」ともにわずかの間。「造次顛沛」という熟

    語もある。

   独狐信・韋叙裕=独狐信(502~557)は中国西魏の軍人。容姿が美しかった。韋

    叙裕(韋孝寛)(509~580)は北魏末から北周にかけての軍人。独狐信と友情

    を結び荊州の連璧並び立つ美貌の持ち主と称せられたという。

   夏侯湛・藩安仁=藩安仁(藩岳)は西晋時代の文人。友人夏侯湛とともにこちら

    も連璧と称せられた美貌の持ち主であった。嵯峨物語にも引用されている。

   韓愈・孟郊=韓愈は唐代の文人。孟郊(孟東野)は友人。韓愈には「酔留東野」

    という詩がある。雲竜の契りはこの詩に拠る。この二人も「嵯峨物語」に引用

    されている。

   陳重・雷義=後漢の人。固い友情は「陳雷膠漆」の熟語となる。

   則んば=漢文訓読の読み方。

   朗詠に=「和漢朗詠集」に載っていたのだろうか。「君とわれいかなることをち    

    ぎりけんむかしの世こそしらまほしけれ」があるが、漢詩の部分は未詳。

   胡越も・・・=「意合則胡越 為兄弟 由余子臧是矣 不合則骨肉為讎敵 朱象

    管蔡是矣」(漢書・鄒陽伝)による。こころざしが合えば、胡の者もの越の者

    と兄弟のようになれるの意から、志が合えば他人同士でも兄弟のように親しく

    なれる。

   由余・子臧=由余は春秋時代晋の人。子臧も同時代の人。異民族でも兄弟のよう

    に親しくなる例。

   朱象管蔡=朱(堯の子丹朱)、象(舜の弟)管(周公丹の弟管叔鮮)、蔡叔度、

    いずれも身内でありながら誅せられた例。

   車胤・孫康=蛍の光窓の雪で有名な学問の徒。

   止観の窓=天台宗における学問の場。(稚児観音縁起のブログに注がありま

    す。)

   止観の窓・権教実教・玄門の床・理事即一=仏門で学問に励んだこと。

   好色の遊女明鏡を離れず、好道の沙門聖教を離れず=典拠未詳。 

   文思=文徳と思慮。文学的魅力と思想的崇高さを表現したものか。「容貌」「法

    器」に対応する。

   二明に鏡を懸け=語義未詳。文脈では学問に励んだ結果の状態のようである。

   決択=疑いを晴らし法を弁別する事。師匠の前で議論をせよ。優劣を判断しよう

    という意味か。

 

塵荊鈔(抄)①ー稚児物語4ー

 「塵荊鈔」は室町時代成立の「類書(百科事典)」といっていいのでしょうか。問答体で書かれていて、仏教・文字・和歌・連歌・物語・歴史・武具や遊芸、音楽など広範の事象について解説された書物です。これ一冊あれば、僧侶や武士としての教養が網羅できるもののようです。国立国会図書館蔵の一本が現存するだけの孤本で、市古貞治先生編で昭和59年に古典文庫から翻刻出版されました。平成14年に松原一義先生の「『塵荊鈔』の研究」という大著が上梓されています。

 怠け者で蒙昧と過度に謙遜する作者(語り手)が、作者の元に宿を借りた小座頭の語る早物語が心に残ったので、それを筆録したとの体裁を取っています。内容は比叡山の稚児、玉若と花若が老師匠の前で問答をするというものです。全体は11巻からなりますが、小座頭が早物語をして作者が感動したと思われるような物語的な展開は巻一と巻十一だけで巻二から巻十までは玉若、花若がちょっと顔を出すようですが、ほぼ事項の解説だけのようです。ですから、小座頭が語った、老僧から寵愛された玉若が死んでいく悲しい物語に、作者が百科事典的な内容を問答の形で差し込んで大部な一本十一巻に仕立てたという事でしょう。その巻一と巻十一が「稚児物語」的という事で、その部分を私なりに解釈してみたいと思いました。

 本文は変体漢文で書かれていて、漢語・仏語が難解で、作者の教養の高さと私の無知さが思い知らされましたが、現在の人が読んでもまあわかるかな?ぐらいに訳してみます。固有名詞に気づかなかったり、思い込みでとんでもない訳になっているところがあるかもしれません。古典文庫「塵荊鈔」は非売品ですが、古書店には出回っているので、正確に読みたい方は、ご入手されるか図書館で手に取るといいと思います。

第一

 観喜苑の春の花は、盛者必衰の道理を示すものの、無常の風に萎んでしまい、広寒宮の秋の月は、会者定離の実相を顕しますが、有為(無常と同義)の雲に隠れてしまいます。それなのに我々芭蕉泡沫の空しい身で、どうして電光朝露のはかないこの世で心を動かさないことがありましょう。どうしてもこの世に惑わされてしまいます。その心地は、観寿無量経には、「受け難き人身、値ひ難きは仏教(この世に人として生を受けるのは稀有な事だし、仏教に出会えるのはさらに稀な事だ)」と書いてあります。悲しいことに、私はたまたま人界に生を受けましたが、その智慧が劣っていて、蛍雪鑽仰といった学問への取り組みも怠惰で、金の烏の宿る太陽が空しく飛ぶように時がたって、既に釈門(仏門)に入りながらも、その性が信心深くなく、修善行法を怠り、銀の兎が住むという月が移りゆくようにいたずらに時が流れてしまいました。そればかりか、粗野な煩悩に繋がれて、ただはかない夢の中の名声利益に執着して、四重五逆の罪に当たることも恐れずに、悪の道に帰せんとしたことは、たとえていえば、生死流転の迷いの海に漂いながら悟りの境に至らず、輪廻する様子は、春に蚕が繭を作っても有無二見の妄執の糸を身に纏っているようなもので、秋に蛾が灯火に吸い込まれるように、ものを貪り求める羽を、生死の炎に打ちつけて焦がれるようなものです。なんとも疎かな所行であったことでしょうか。

 私は「人は本来仏性を持っていて、学が成れば徳は顕れるのだ。」と思っています。古人は言います、「崑崙竹はまだ切られていない。だから笙は出来上がらず鳳凰の音色のような笛の音は聞こえない。同様に精誠が練られていないから、神のような明晰さは発揮できないのだ。」と。過去の荘厳劫、現在の賢劫、未来の星宿劫のすべての世に三千仏は世に出現しなさって、我らに仏の法を施しなさったのです。如来の大いなる徳は、この一身に備わっているはずです。仏の導きに喜んで従う事は難しい事でありましょうか。もしそれができないとしたらそれは、ひとえに塵巷で人と交わる所以でしょう。「一心三観」の経文にも、「海辺に居て、寄せ来る波に心を洗ひ、谷深きに隠れて、峯の松風に思ひを澄ます。(海辺で寄せ来る波に心を洗って、深い谷に隠棲して峰の松風に心を澄まして、俗世間を離れて悟りを目指すべきである)」と書かれています。法華経序品にも、「入於深山 思惟仏道」と説きなされています。みすぼらしくとも俗衣は奥山に捨てて、心の色も墨染に変えて、水源の清らかな滝つ瀬に煩悩の塵を洗い棄てて、菩薩(悟りの境地)に辿り着きたいものです。

 殊更、最近は無常の色質が視界を遮り、遷滅(生死が遷りゆくこと)の音声が耳に満ちて、空しい思いにとらわれていました。そのような折節、とある琵琶法師の小座頭が、学問のために奥州から上洛する道すがら一宿を所望されました。長い行旅であり、日もすでに暮れかかっていたので、垂木三本の粗末な庵に招き入れ、粗茶淡飯の粗末な食事を供しました。夜に及んで、小座頭はおのずと早物語り語ってくれました。苔の筵のような粗末な寝床で旅寝の枕を押しのけて、夜を徹して語った中で、とりわけ天台山比叡山)のさる院家にいらっしゃった花若殿・玉若殿という学匠の稚児、二人の思いもよらない顛末は心に残りました。肘の枕を傾けて、五濁のこの世の眠りを覚ましながら、玄妙奇特な話に感銘し、哀傷悲歎の語りに驚嘆したのです。その感激に堪えず、聞いたことを、筆(水茎の)跡を以って、水茎の浮く難波ではないけれど、難波の葭や葦ではないが良し悪し書き集めました。搔き集めた藻塩草ではないが、もし見る人がいたならば、眼の裏の塵のように、もし聞く人がいれば耳の中の荊のように視覚・聴覚を妨げるものとなるかもしれません。それでこの書を「塵荊鈔」と名付けました。

 私は幼いころから万年山相国寺の金の扁額の下にお仕えし、清浄なる聖僧に交わっていました。ある時は姑射鳳闕(皇居宮城)に参内して、帝の錦帳玉座の傍らに伺候し、嬪嬙(中宮女御)のお言葉を取次ぎ、縉紳(公卿殿上人)と座を交えました。ある時は柳営幕下(室町将軍)に謁見し、八俊の士や七貴の族といった武士たちを、見下してないがしろにする事もございました。そうして九夏三伏の夏の暑い日盛りには、宮中の玉簾の内で燕の昭王の持っていたという招涼の珠を弄ぶように、もしくは班婕妤が「怨歌行」に詠んだように団雪の扇で涼み、玄冬素月の寒い夜は、錦の茵(しとね・敷物、座布団)の上で、寵臣羊琇が唐帝の自ら傾けた盃を受け、獣炭の囲炉裏を囲んだように時を得てほしいままにしていたのです。

 さて、私は壮年の頃にとある理由で相国寺の寺籍を離れて、東にさすらい西にとどまり、とうとう未開ともいうべき僻遠の地に身を潜め、幾星霜を積みました。その間は文籍を閲する業も絶え、硯や筆にも塵が積もって姓名さえ書く事が出来なくなりました。異国(唐)の事は、門に入っても(誰かに招かれても、の意か)古詩を話題とすることもできません。敷島の道(和歌)については道を行き人に会っても、和歌の才能の余りが残っていたので、たまたま遺遊(貴遊?)末席に加わって文章学問を聞いても、おのずと耳がしいえるようで聴いても理解できません。まさにのどの乾いた驥(駿馬)が泉を通り過ぎるようなものです。稀に雅名宴の下座に侍して文字を見ても、おのずと目がくらんで見る事が出来ません。蟄竜(地に潜む竜)が陽光に背を向けているようなものです。(不遇で才能が衰えてしまった譬えか。謙遜。)そのような私ですから、書いたものは、仮名文字の読み方も、漢字の意味、事の筋道は錯乱し、時の前後は相違し、者之乎の助字は誤り、烏焉馬の書き間違いはあろうと思います。後にこれを見る緇素(僧俗の方々)は、恩愛・慈悲を下さり、添削を加えてこの「塵荊鈔」の誤りを正し、私を「一盲衆盲を引く(誤った者が皆を過ちに導く)」ような業果からお救い下さい。

 古人は言います。「遊宴舞曲も第一義(最高の道理)に帰し、風声水音もこの世の実相を離れない。世間の浅はかな行為も法性の深義を顕すのは如来方便の教えである。」とか。山は笊で土をかぶせる。その積み重ねで成るのです。大河は盃からこぼれる一杯の水から起こるのです。「塵荊鈔」は狂言綺語の戯れのようなものですが、仏乗を讃える因となり、法輪を転ずる縁と成す為に(仏道を広く知らしめるために)、忸怩慚汗、恥ずかしい思いをも 顧みず、強いて小座頭の物語に聞く事を筆録して、永く童蒙の嘲けりとなるようなこの書を残すのです。 

原文

第一

 *観喜苑の春の花、盛者必衰の理を示すに、無常の風に萎(しぼ)み、*広寒宮の秋の月、会者定離の相を顕はして、有為の雲に隠る。然るに我ら*芭蕉泡沫の身を以つて何ぞ *電光朝露の世に心を驚かさざらん心地、*観経に云はく、「受け難き人身、値(あ)ひ難きは仏教」と。悲しいかな、偶々人界に生を受くと云へどもその智*下機にして蛍雪鑽仰の学に懶(ものう)く、*金烏空しく飛びて、已に釈門に肩を入れながら、その性不信にして修善行法の業に怠り、*銀兎徒に走る。剰(あまつさ)へ*麁強の見思に繋がれ、ただ夢中の名利に貪着して四重五逆の過(とが)をも恐れず再び三たび悪の旧里に皈(かへ)らん事、譬(たと)へば*生死海中に出没し境上に遷らず、輪廻する有様、春に蚕の繭を作り、*二見(にけん)の糸を以つて形質を纏ひ、秋に蛾の灯に趣き、貪愛の翅を以つて生死の火輪を撲するがごとし。

(注)歓喜苑=歓喜園。釈迦の生誕したインドのルンビニの異称。または忉利天の帝釈

    の居城にある園。

   広寒宮=月の都にあるという宮殿。

   芭蕉泡沫=「芭蕉」はバショウ科の植物。果実の皮を剝いても果肉ばかりで種が

    ないことから空しいもののたとえ。バナナに種がないという事。

   電光朝露=はかないものの形容。

   観経=観無量寿経。大乗経典の一つ。引用文がどこにあるかは未確認。ただ、高

    野本「平家物語」、日蓮守護国家論」、道元「修証義」などに用例が見える

    事から、「受け難き人身、値ひ難きは仏教」という句はよく知られた表現であ

     ったのだろう。

   下機=下根。教えを受けるものとしての資質に劣った者。

   金烏=太陽に住んでいる烏。太陽の異称。

   銀兎=月にいるという兎。月の異称。

   麁強の見思=「麁強」は荒々しい事。「見思」は見惑と思惑、煩悩の事。

   生死海=生死の海。生死流転の迷いの境界を海にたとえていう語。

   二見=有無の二見。有と無の対立するいずれかの一方を極端に固執する誤った考

    え方。

 蓋し、「*人の性は霊を含む、学の成るを待つて徳を顕はす。」と。古人云はく、「*崑竹未だ剪らず、鳳音彰れず、精誠未だ練らず、神明発せず。」と。*過去の荘厳劫、現在の賢劫、未来の星宿劫に三千仏出世し給ふ、如来の万徳、尚ほ一身に備はれり。*随宜の一門、豈に難きを得るや。是も只聚落交衆の故ぞかし。*心観の文にも、「海辺に居て、寄せ来る波に心を洗ひ、谷深きに隠れて、峯の松風に思ひを澄ます。」と。*法華にも、「入於深山 思惟仏道」と説き給ふ。哀しげに身を奥山に衣を棄て、心の色を染め替へて、源清き滝津瀬に煩悩の塵を濯(あら)ひ棄て、菩薩の岸に到らばや。

(注)人の性は・・・=勝海舟の揮毫に「人性含霊」というのがあるらしい。禅語か。

    人は霊妙な心識を持っているという事か。

   崑竹未だ剪らず、鳳音彰れず=日本国語大辞典「鳳管」の「(中国で、黄帝から

    楽律を作るように命ぜられた伶倫が、嶰谷(かいこく)という谷の竹で笙を作

    り崑崙山の下で鳳凰の鳴き声をきいて十ニ律を定めたという伝説から笙の異

    称。」とある。物事の未だならざるの譬えか。

   過去の荘厳劫、現在の賢劫、未来の星宿劫=三劫。

   随宜=衆生の仏法を受け入れる素質能力に従う事。その時の事情に応じて取り計

    らう事。

   心観の文=天台宗で説く「一心三観」の経文か。続く引用は出典未詳。

   法華=法華経。序品第一の偈に「入於深山 思惟仏道」とある。

 殊更傾(このごろ)は*無常の色質眼を遮り、*遷滅の音声耳に満つる折節、一人の*小座頭学文の為に奥州より上洛とて、一宿を望む。長途の行旅なり、日已に暮(ゆふべ)に薄(せま)る間、*三椽(さんてん)の弊廬に請じ、*麁(粗)茶淡飲(飯?)を与ふる所に、自づから苔席に草の枕を押しのけ、終宵*早物語をし侍る中に、天台山去る院家に御座す花若殿、玉若殿と云ふ学匠の児、二人の始末の不思議を語るを聞きて、*曲肱の枕を欹(そばだ)て*五濁の眠りを覚ましつつ、玄妙奇特肝に命じ、哀傷悲歎魂を消す。為方(せんかた)無さの余り、聞く事をのみ*水茎の跡も難波のよしあしと掻き集めたる藻塩草、若し是を見る人有らば*眼の裏の塵、若し又聞く人有らば耳の中の荊(おどろ)ともならん。故に是を名付けて「塵荊鈔」と云ふ。

(注)無常、遷滅=対をなす言葉のようである。いずれもマイナスのイメージ。

   小座頭=年若い座頭。若い僧体の芸人。

   三椽=椽(たるき)。棟から軒へ斜めに渡す材。それが三本しかないので、狭い

    粗末な庵であろう。

   麁茶淡飲=「粗茶淡飯」と言う熟語はあり、粗末な食事。

   早物語=盲人による語り芸能の一つ。面白い物語や口上などを即興的に早口でス

    ラスラ語るもの。

   曲肱の枕=貧しくて肘を枕にする事。

   五濁の眠り=濁ったこの世の眠り。

   水茎の・・・=以下、水茎(筆跡)、難波のよしあし(葭葦)、藻塩草(若し)

    と縁語で結ぶ。

   眼の裏の塵・耳の中の荊=視覚・聴覚を妨げるもの。

 *吾儕(わなみ)丱童(くわんどう)より名を*万年の金牓に隷し、交はりを*清浄海衆に取れり。或る時は*姑射鳳闕に趨(はし)つて、錦帳玉座の傍らに侍り、嬪嬙の語るを伝へ、縉紳と座を交ふ。或る時は*柳営(りゆうえい)幕下に謁し*八俊の士を見下し、*七貴の族(ともがら)を蔑如(ないがしろ)にす。去るは*九夏三伏の炎日は玉簾の内に*燕王の招涼の珠を弄び、*婕妤が団雪の扇を握り、玄冬素月の寒き夜は、錦の茵(しとね)上に*唐帝の自ら暖め盃を傾け、*羊琇が獣炭の爐を囲みき。

(注)吾儕=一人称。私は。

   万年の金牓に隷し=「万年」は万年山相国寺足利義満が創建した。京都五山

    一つ。「金牓」は金の扁額で「隷し」は所属する、仕えるか。

   清浄海衆=清浄で海のように広大な浄土の聖者たち。

   姑射鳳闕=皇居宮城。

   柳営=幕府。

   八俊・七貴=「三君八俊」「五侯七貴」はともに中国の王朝の序列。二番

   手にあたる武士階級か。

   燕王の招涼の珠=燕の昭王の持っていたと言われる、夏の暑い時でも自

    然と涼しさをまねき寄せる珠。

    婕妤=班婕妤。前漢成帝の女官。詩人。「団雪の扇」は帝の寵愛を失った女の譬

    え。「怨歌行」 詩に拠る。

   羊琇が獣炭の爐=羊琇は晋の武帝の寵臣。晋書羊琇伝に「琇性豪侈、費用無複齊

    限、而屑炭和作獣形以温酒」とある。贅沢を好んだ。婕妤の例とともに時流に

    乗って栄えた例であろうが、相国寺の稚児か若い僧侶がどうやって禁中や幕府

    に出入りし、帝の寵愛を受けたのであろうか。出自はどのような名家であった

    のだろうか。

 爰(ここ)に壮年の比(ころ)故を以つて相国の籍を辞して、東に漂へ西に泊まる。聿(つひ)に*断髪文身の地に潜(かく)す。星霜既に積もれり。然る間文籍の業絶え、硯筆塵積もりて姓名をさへ記す事叶はず。異域の事跡、門に入りても、古詩の*話欛(わは)を執らず、敷島の道行き、人に値(あ)ひても、和歌の余財を捨てざれば、偶(たまたま)遺遊の末席に陪して文章を聆(き)く時は、性自ら聾(みみし)ひて聴く事を得ず。只*渇驥の泉を過ぐるに似たり。稀に雅宴座下に待ちて、文字を睹(み)る時は心自ら盲(めしひ)て見る事を得ず。偏に蟄竜の陽に背くがごとし。和字の訓、漢字の釈、事理の錯乱、前後の相違、*者之乎言の端の失、*烏焉馬字体の誤り、後見の*緇素、恩慈を垂れ、筆削を加へて、*一盲衆盲を引く業果を救ひ給へ。

(注)断髪文身=未開の風習。中国では呉越の風俗とされるが、田舎の意か。古典文庫

    では傍注に「越」とあるが、「呉越」の「越」で「越の国」ではないだろう。

   話欛=話柄。話題。正直、もっと普通の漢字使えよ。衒学的過ぎ。

   渇驥の泉を過ぐる=「渇驥奔泉」という熟語は勢いが非常に激しい事の譬え。

   者之乎=中国の成語に「者也之乎」「之乎者也」がある。宋の趙匡胤の逸話によ

    るようである。者・之・乎は中国語の虚字とか助字とか呼ばれるもの。

   烏焉馬=字形が似ていて誤りやすい字。

   緇素=僧俗。

   一盲衆盲を引く=一人の盲者が多くの盲者の先に立って誤った方向へ導く事。誤

    った指導者が無知の学人を誤った方向へ導く事。

 *古人の曰く、「遊宴舞曲も*第一義に皈し、風声水音も実相を離れず、世間の浅名を以つて法性の深義を顕すは如来方便の教へ」と云々。山は*覆簣より成り、江は*濫觴より起こるなれば、加(斯)様(かやう)の狂言綺語の戯れを以つて、*讃仏乗の因、*転法輪の縁と成さん為に、*忸怩慚汗を 顧みず、強いて此の物語に聞く事を録して、永く童蒙の嘲きを残すものなり。

(注)第一義=最高の道理。究極の真理。勝義。

   覆簣=簣(こも)を覆うとは、コモで土を一つ乗せる事。それが重なって山がで

    きる。論語子罕第九の「譬如爲山。未成一簣。止吾止也。譬如平地。雖

    覆一簣。進吾往也。」を踏まえる。

   濫觴=物事の始まり。觴(杯)を濫(うか)べるほどの細流。

   讃仏乗=仏の教えを讃える事。「狂言綺語の理と云ひながら、つひに讃仏乗の因

    となるこそあはれなれ」(平家物語巻九・敦盛最期)

   転法輪=仏の説法。

   忸怩慚汗=ひどく恥じ入って汗をかく事。

 

花みつ全編ー稚児物語3ー

 「花みつ」は「室町物語大成」には、10巻に「花みつ」「花みつ月みつ」が、補遺2巻に「月みつ花みつ」が所収されています。あらすじはほぼ同じですが、表現には多くの違いがあります。このブログでは「花みつ」を基本として、「花みつ月みつ」(以下「花月」と省略)「月みつ花みつ」(以下「月花」と省略)と比較しながら読んでいきたいと思います。原文は適宜ひらがなを漢字に改め、標準的な歴史的仮名遣いに改めました。

 

上巻

 昔、播磨の国赤松(妙善律師則祐)殿の御家中に、岡部の某という者がいた。

 古くからの功臣というわけではなかったが、器量才覚が抜きんでていて、播磨の国の半国の守護代を任せられて、その家は非常に富貴だった。庶人からも尊敬を集めていた。しかし、そのような素晴らしい境遇でも、心にかなわぬことがあるのは世の習い、一人の子もお持ちにならなかった。これだけがこの夫婦の悩みの種であった。

 岡部は心中、「我が身が盛んな時は立派な暮らしを送ることもできよう。しかし、残念なことだが他家の子を養子としても、現世の跡継ぎはともかく、後世の頼りとはなり難い。やはり実子。昔から神仏に祈願すればかなうと承っている。大願成就を祈願して御子を申し受けたいものだ。」とお思いになり、我が身は潔斎し、女房は領地の氏神(法華堂)に七日間参籠し、岡部は書写山に参籠して、ひたすらこの事を一心に祈りなさった。

 岡部の女房は七日の満願の夜に、蕾の花を(仏に)頂く夢を見た。「きっと所願成就の兆しであろう。それにしてもすぐに青葉になってたちまちに散るのを見るとは、成人まではともに暮らすことができない事の予兆なのか。」と不安に思いながらも、喜んで戻って行った。

 岡部の殿様の御夢には、満開の花を(仏に)頂くと見るや否や、風に誘われ散るのを見て、その後はどうなる事にかと気にかかりながらも、お戻りになった。

 そうすると、ほどなく女房は懐妊なさり、さしてお障りもなく男子を出産しなさった。岡部も女房もこの上なく喜んだ。二人の夢にちなんで名を「花みつ」殿と名付け、乳母・傅を多くあてがわせ大切に育てなさる。主君の赤松殿始め多くの朋輩たちは、各々言葉の限り、「おいのかほう(老いの果報、か。老いの家宝、か。別解か。)とはこのような事でしょう。」と面々にお祝いなさった。

 翌年、花みつ二歳の春、赤松は岡部を呼び出した。そして言うには、「今年私は大番役に当たった。お前も知っているように私は病を患っておる。はるばる都へ上ることは無理だと思う。岡部よ、私の赤松の名字を名乗って、三年の都の警護を務めよ。」とおっしゃるので、名字を名乗る時の名誉は身にあまるほどで、早速京へと上洛なさった。

 そうしていると、ある人が、「そうはいっても都にいるうち、一人暮らしでいなさるのもお寂しいでしょう。」と言って御目容貌のたおやかなるをお差し向けなさった。岡部もまんざら朴念仁ではなかったので、この女房と深く契っということである。これも前世の契りであろうか、まもなく懐胎して玉のような男子を産んだ。岡部は内心、「書写山へ参拝して夢を見て帰ったのは、きっとこの子の方であるに違いない。」と有難く思った。おりしも九月十三日の夜の事だったので、その夜の月にちなんで、「月みつ」と名付けたのである。

 岡部は、大番役も果たしたので、月みつを母も伴って播磨へと下り、女房の手前、とある所へ隠して住ませ、この事を御台所(女房)に申すと、聞いた御台所は、「それはうれしいことです。花みつ一人では万事頼りなく思ていましたが、弟ができたとなればうれしいことです。他の所で育てるのも心配です。」と言って、月みつも呼び寄せて、自分の子の花みつよりもさらに可愛がって、花よ月よと育てなさる。一方、月みつの母親は、庶子の母であるという世間の誹りを憚って、ほんの時々岡部殿から便りがあるだけで、ひっそり暮らしていたのであった。

 このようにして年月は過ぎ、花みつ十歳、月みつ九歳の年、岡部殿がお思いになったのは、「この兄弟を無為に可愛がって手元に置くことも無益な事だ。書写山へ上らせ学問をさせよう。」と。とりあえず花みつだけを連れて書写山へ登山なさった。

 書写山別当は、岡部殿ということで直接会って、様々な趣向を凝らしもてなしなさった。酒宴は三献にも及び、岡部がさらに別当に杯を差し出す。別当がなみなみと受けなさると、岡部殿が仰る。「ただ今の御酒杯、酒肴としてお望みの事がございますならば、どのような事でもおかなえ致しましょう。」と言うので、別当は、「老いの身である拙僧には何の望みもございません。ただ、この花みつ殿を私にお預けください。この方の後見人となりたく思います。」とおっしゃるので、岡部ももとより願っていた事なので、「問題ございません。」と了承して、お互いにこの上なく喜んだのであった。

 次第に日が暮れていくので、岡部と別当は互いに暇乞いして、岡部は花みつに向かって言った。「今日からおまえはここに預け置こうと思う。別当の御心に背くことなく、よく学問に励み、父の名誉ともなって、自身も徳を身に付けなさい。月みつもいずれ上らせようぞ。」と言い置いてお帰りになった。

 月みつはこの事を聞いて、「ああ羨ましいことだ。兄上は山に上りなさったというのに、父上はどうして私を上らせてくださらないのだろうか。」と不満を口にしたのを岡部はお聞きになって、「殊勝な物言いであることよ。まだ幼いこととて寂しい山住まいはいかがと思って、とりあえず花みつだけを上らせたが、大人びて学問をしたいと言うとはうれしいことだ。」と言って月みつをも連れて山へお上りになった。別当はますます恐縮して、心を込めて住まわせなさった。

 人々は、「ああ別当は果報者であるなあ。守護代の公達を兄弟そろって預かりなさるとは。羨ましいことだ。」と言い合った。そう思わぬ人はいなかったのである。

 そうしているうちに、この稚児たちは年頃になりなさって、容顔は美麗にして、霞の中を漂う花の香を届ける春風が青柳を乱れ揺らすようなお姿は、観音菩薩勢至菩薩の化身かと思われ、智慧・才覚も非常に優れ、一を聞いて十を悟るほどで、特にもののあわれを深く理解し、そのこころざしは優雅で、書写山三百坊の衆徒の数は千余人といわれたが、一目でも見た人は言うに及ばず、伝え聞いた人でさえ、この稚児たちに心魅かれない者はなく、「どうにかして近づき睦んで、御経の一偈をも伝えたいものだ。」と思わない者はいなかった。

 さて、悲しさを一身に負ったのは花みつ殿の母上である。ほんのかりそめの風邪心地とおっしゃって、病の床におつきなさったのである。岡部は嘆き心配して、様々な薬を与え、神に訴え仏に祈り手当なさったが、命を散らす無常の風には防ぐ手立てもなく、次第次第に弱りなさっていった。

 今は祈りもかなわずと見えた時に、岡部は妻の枕元に寄り添って、「おぬしの容態を見ると恨めしくて仕方がない。どうしてそんなに弱りなさってしまったのか。あの幼い子たちの生い先を見届けたいとは思いなさらないのか。もし心の中に思っていることがあったら包み隠さずおっしゃいなさい。」と言うと、御台所は枕を傾けて、「私が死んでしまったならば花みつが嘆くであろうことが悲しゅうございます。月みつも同じ兄弟のように思いますので、明日からは月みつの母を招き入れて私と同様に正妻として二人を育てさせなさってください。他の女性と親しくなることは決したなさらないでください。これ以外に言い残すことはございません。」と言って眠るようにお亡くなりになった。花みつ月みつ兄弟も山を下りて嘆きなさった。とりわけ花みつの心中はたとえようもないほどだった。

 さて、そのままでいるわけにもいかないので、泣く泣く葬儀を執り行い、もはや初七日も過ぎたので、御台所の御遺言の通りに、月みつ殿の母を館に招き入れて、新しい御台所と定めなさった。月みつの母は、かつてのひっそりとした住まいと打って変わって、今まさに栄華の身となりなさった。「盛者必衰、栄枯地を変える(栄枯の立場が逆転する)」とはこのような事を言うのであろうか。

 このような状況でその頃、京都に騒乱があって赤松殿が都へ上りなさる事となり、岡部もお供に加わり、国元が気がかりながらも京にとどまっていた。その後、新たな御台所はまことの母ではない恨めしさ、月みつばかりにのみ衣や小袖をあつらえて送り、朝夕も頻繁に見舞いを遣わしたが、花みつ殿には全く訪ねることはなかった。

 岡部は都にいてつくづくと思案を巡らし、「傷ましいことだ。花みつは母に先立たれて心細い上に、私までも長いこと京都にいて、きっと万事にわたって不自由であろう。」と思って、正月の晴れ着にと年に暮れに小袖をあつらえて、「これを花みつの所へ送りなさい。」と播磨に届けると、女房はこの手紙を見て、「我が子月みつには何の便りもお寄こしなさらないで、花みつの事ばかり細々とお書きなさる。恨めしいことよ。」と言って、すぐさま手紙を書き直して、「月みつへの小袖です。」という事にして寺へ送りなさる。

 花みつはひどくつらく悲しくて、母親の事ばかり嘆き、学問も全く身につかず、悲嘆に沈んでいるのであった。

 別当を始め人々は、「かわいそうに、花みつ殿は母に先立たれて、いつの間にか父さえ心変わりして、疎(おろそか)かに扱うように見えるにつけても、先ずは月みつ殿をいとし子と思っているのだろう。」と思って待遇し(月みつの方を大切に扱う)なさるのも道理である。

 ようやく京の争乱も鎮まって、岡部は播磨に下向し、「花みつは成人したか。月みつはどうか。」と問うと、継母は、「兄弟そろって大人っぽくなりましたが、花みつは最近学問を怠って、野山に宿って別当の坊にも全く一夜も寝ないで、若い同宿たちと連れ立っているので、別当が御勘当なさったと承っております。私としても疎略に扱っていたつもりはありませんが、このような事を聞くと恨めしく思います。」と言って涙を流すので、岡部はお聞きになりながら、「そうであったか、しかしまことの親ではないからか何の弁護もしないで、父の私にまでもこのように花みつの讒言を聞かせるのだ。」と残念に思いながらも、「もしかしたら、この女房の嘘ではなく、本当にそのような事があるかもしれない。」と思って、花みつを強引に呼び下らすのも、別当の機嫌を損なうことになろうと、月みつを呼んで事の事情を糺そうとお思いになって、手紙を遣わした。手紙には、「月みつだけ山を下りなさい。花みつは改めてこれから迎えを上り遣わせよう。」と書いてあった。

 花みつは心中、「さては父上もきっと心変わりなされたに違いない。私は兄なのでまずは私を先に呼び寄せて下らせるはずであるのに、月みつだけを呼びなさるとは、思いもかけない事だ。」と涙ぐみなさるのを、月みつはご覧になって、「私共が父上の元へ参って、兄上の事もよきように申して、今日のうちにでもお迎えを上らすようにいたしましょう。」と言って出て行きなさるので、「羨ましいことよ。月みつは弟であるのに、母親がいらっしゃるので、父上の取り扱いも丁寧で、里へ下がることだなあ。父の御前ではよきように頼むぞ。」と言って以前からいた部屋に閉じこもって、涙を袖に包みなさってうつ伏していらっしゃった。

 月みつも名残惜しげにしばらくは輿にも乗らず、同宿を近づけて、「花みつ殿をお慰め下さい。私が父上にお目にかかったならば、よいように申し上げて、どのような御不興でも、我が身に代えて御機嫌をお直し申し上げましょう。」と無邪気におっしゃる月みつ殿のお気持ちこそありがたいことである。

 月みつが急いで里へ下りなさると、岡部殿はお会いになって、「もう下ってきたのか。この数年会わない間に美しく成人したのはうれしいことだ。さすがに山育ちという事で、色は白く上品で物言い人当たりに至るまで、我が子とも思われない。花みつも幼い頃から一際美しかったので、いよいよ立派に成人しているだろうな。」と涙を抑え、「どうして別当は勘当なさったのか。すぐにでも参上し、別当の御前に伺うことも許してもらって、面会したいものだ。」と思って、再び月みつを連れて書写山へ上りなさった。

 別当は出てきてお会いなさり、様々にもてなしなさるが、あたりを見るに、同じような稚児は並び居るが、花みつは見えなかった。岡部が心中思うに、「きっと別当の勘当は深いのだろう。私がごくまれに伺ったことであるから、大概の勘当は許して面会させてくださるだろうに、部屋に押し込めておきなさるとは恨めしいことよ。」そうはいっても、師匠が諫めていなさるのを、不躾にお許しになって会わせてくださいとは言いづらく、こぼれる涙を押しとどめて世間話ばかりをするのであった。別当もまた岡部殿が不機嫌そうで、花みつの事を一言もおっしゃらないので、言い出すこともできないで、花みつの部屋へ立ち寄って、「花みつよ御身は本当に父上の不興を買っているようだ。しかしながら今すぐにでも、事情を説明して誤解をお解きなさい。不安にお思いにならないで。」と慰めの言葉をかけて座敷に戻りなさる。

 花みつ殿は何もおっしゃらず、ただ、「よろしいように(なさいませ)。」とだけ言って障子の陰に隠れていて、遠くから父上を御覧になって、恨めしくも懐かしくもあり、とめどなく涙をお流しになるのであった。

 岡部は思いに堪えかね、「今は申しましょう。ここに急いで上ったのは、花みつに会いたくて参ったのです。法師の役目としてせめて一言でも別当殿、ご説明ください。それについてはどのようなお怒りがございましても、お許しを請い申し上げるのに。何もおっしゃらないとは、どれほど重大な咎を花みつは犯したのでしょうか。」と言おうかと考え込んで、顔色も普段とは違って、心浮かない様子なので、別当はその態度を見て、「いやいや、岡部殿は機嫌が悪そうである。不躾に言い出してもまずいことになりそうだ。」とお互いに心を隔てて、その日を空しく送りなさった。それが長い別れの初めだとは、後になって思い当たる事だった。

 岡部は心中、「ここで言い出すよりは、とりあえずは帰って改めて手紙で申し上げてみよう。」と思ってお帰りになる。花みつ殿は、さすがに父が恋しく、妻戸の陰に寄り添うように立って、父が帰るのを見て涙を流しなさっていると、岡部も気付いて花みつに会おうと立ち戻って見る。互いに目と目を見合わせて、「おうい花みつ。」と呼びかけようと思うが、「そうはいっても師匠の勘気に当たった者をこの岡部が呼び出すとしたら人は怪(け)しからぬことだと思うだろう。」と思い直して何もなかったようにお帰りになった。(これが今生の別れになるとは・・・)

 花みつは心の中で、「私は生きていても甲斐のない身であるなあ。愛してくださった母には先立たれ、一人存命である父には憎まれ、師匠にも嫌われ、誰にも好意を持たれずただ生きていて、人に爪弾きにされるのも口惜しいことだなあ。」としばらくは沈みながらうつ伏していなさったが、どのようにお思いになったのだろうか、召し使っていた松王という童を呼んで、「お前は大夫殿と侍従殿の坊に行って、ちょっと申し上げたいことがあるので、今すぐにお出でいただけませんかと伝えよ。」と申しなさると、松王は二人の坊へ参って、この事をかくと伝えた。

 二人の僧は承知して、何事だろうと長絹の衣に大口袴を着て、なぎなたを携えて急いでやって来ると、花みつ殿は、「お聞きになって早くもお出でなさるとは嬉しいことです。今宵の美しい月を一人で眺めるのは残念です。三人で御堂の縁で一晩中眺めていたいと思うのですがいかがですか。」とおっしゃると、二人の法師は、「それはまことに風情ある事でございます。」と言って三人連れだって出かけなさった。

 夜が更けて人も寝静まった後で、花みつは涙を流しながら月を見る。袖は涙の露に濡れて月が映る程である。二人の法師は、「これはこれは、どうしてそのように涙にくれる姿を見させるのですか。心の中にお思いになていることがありますならば、包み隠さずお語りなされ。」と申し入れると、花みつは涙を抑えて、「生きるがつらいのはこの世の習い、私だけが不幸を嘆くべきではないのでしょうが、よくよく考えて見ると私ほど悲しい身の上はないと思います。父ぬは不興を買い、師匠にも憎まれ、生きていても仕方ない辛い身の上で、人々と語り明かすのも今宵限りと思ったので、涙も止むひまもないほどなのです。私が亡くなってしまっても死後の弔いをお願いいたします。」と言うので、二人の法師は、「これは不吉な事です。たとえ父上が不興をお示しになったとはいっても、それは一時の戒めであって、どうしていつまでもお許しにならないことがありましょう。また、別当がどうしてあなたの事をお憎みなさっているでしょう。そもそも学問の修養では、優れているものに対してはより厳しく諫めるのが世の常です。『ひたすら学問にはげんで立派な学匠になってほしい。』という御心で、父上はわざと不満そうな態度を取っているのでしょう。自分だけがつらいと世を恨みなさるのは愚かな事ですよ。」と様々になだめるので、花みつ殿はうれしそうにして、「それはそうと御身たちにお願い申したい事があります。かなえていただけますか。」とおっしゃると、「たとえ『我々の命がほしい』という仰せであっても、どうして拒みましょうぞ。包み隠さずお話しください。」と言うと、「決して人のお語りなさるな。この事がもし漏れ聞こえてしまったならば、草葉の陰でお恨み申し上げますぞ。」とよくよく口止めしなさった。

下巻

 しばらくして花みつ殿は、「言い出すにつけても、それぞれのお思いになる事を考えると、恥ずかしくは思いますが、私が今父上に憎まれていることをつくづくと思うと、父の寵愛が月みつに変わった事は無念です。私にとって月みつは仇のようなものです。どうか月みつを討ってはくださいませぬか。私にとってこれこそ何よりもうれしい事です。」とおっしゃるので、二人の法師は茫然として、どうにも返事ができず、困惑に赤面していたのだった。

 その時花みつ殿は、「そうでしょう。初めから御承諾なさらないだろうと思っていましたが、命であっても差し上げましょうと言われたので、大事の事を語り出したのですが、無念のことです。きっと人にも漏らすでしょう。そうすれば山中に噂が広がり、弟を討とう企てした者よと指弾され、父にもまた漏れ聞こえたならば、どのような責めに遭うでしょう。このように打ち明けたならば、とても命を永らえられそうもありません。どこかの川淵へ身を沈めましょう。」と恨み言をいうので、二人は、「まことに我々が引き受けなければどんな事態になるだろうか。こうなったら引き受けるしかあるまい。」と思い、目と目を見合わせ、「こうなったのはまことに月みつ殿がいらっしゃったせいですので、私たちがやすやすと討ち取ったならばその後は、御身も心穏やかで、父君も花みつ殿を大切に思いなさるだしょう。よくぞ御決心なさいました。」と励ますので、花みつは嬉しそうに、「ということは御承諾なされたのですね。きっと思慮のない無茶な事だとお思いになっているだろうと、御心の内を推察しますと恥ずかしい事です。賢才の弟を討って、自分はこの世に生きようとはあさましい心だとは思います。さりながら、恨むべきものを恨まないのは後世の障りとなる、とも申しますので、討ち取った後は亡き跡を弔ってやりましょう。」とおっしゃるので、二人の人は、「それではどのようにしてその人を討つのですか。」と申し上げると、「無慙な事に私はこのように悪心を抱いているが、月みつは弟ではあるが健気で、私が母上と死に別れた後は、ことに睦まじく常に私の部屋にやった来て、様々に慰めてくれました。きっと今宵もやって来るでしょう。その時に私は隠れていて逢わずに帰しましょう。その時に討ちなされば何の問題もございません。」とおっしゃるので、二人の法師は、「まことにもっともな計略です。」と言って、十分に示し合わせて、夜も明けたので面々帰っていった。

 その日が暮れるのはあっという間で、次第に約束の時分になっていったので、二人の法師は打ち刀を脇に隠し持って、花みつ殿の部屋の前にある木陰に立ち隠れて、今や今やと待っていた。

 十六日の事であったので、暮れなずむ夕闇に、月がほのぼのと射して出るころに、十四五歳ほどの稚児が紅の袴をはいて、薄絹を髪にかけて、月を背後にして歩んでいなさる。二人はこれを見て、「ああ、法師の身として人と睦まじくなる事は筋の通らないことだ。花みつ殿に頼まれなければ、これほどに艶やかな稚児を討とうと思うだろうか。そうはいっても花に変えて月を見るように、花みつ殿に変えて月みつ殿をまたも見ては未練が残る。」と思い切って来るのを待っていたが、今や今やと思ううちに、しばし時は過ぎて行った。

 侍従は、「時が過ぎると悲しさも余計募るので、私が走りかかって抱き止めた所を、大夫よ、ただ一太刀に刺し殺しなされ。」と言ってまさに駆け出そうとしたが、余りのつらさにとどまって、その後ろ姿を見ていると、「ひどく露に濡れそぼっている月みつが西の山の端に消えていくのに、その月の光を妨げるように浮雲がかかるごとく討手があろうとは知らないで、死出の道に入りなさりことだ。」といたわしく思える。まことに兄弟であって花みつ殿によく似なさっている事が気の毒で、殺そうとしていたことも忘れて、ただ涙に暮れていた。

 稚児はこのような状況は知らず、しずしずと縁に上がり、蔀に寄り添って、優雅な声で、「もしもし、花みつ殿。」とニ三度呼びなさったが、中からは答える者はいない。稚児は暫く佇んでいなさって、「どこへ行かれたのか。」と独り言ちて帰りなさろうとした所を、大夫が走り寄ってむんずと抱いて押し伏せた。侍従も思い切って、腰の刀をするりと抜いて、肘の関節のあたりを二太刀激しく刺して突き捨て、急いで逃げ帰り、「ああ辛いことだなあ。法師の身で稚児を殺すことなど、先にも後にもこれが初めだろう。」と深く嘆息している所に、暫くして、「これはどうしたことだ。月みつ殿が殺されなさった。」と騒ぎが起こって人々が集まっているのを聞き、「我ら二人の仕業であるのに。」とひどく切なく思い聞いている所に、また騒然として言っているのは、「いやこれは花みつ殿ではないか。いかなる者の仕業であろう。」と大声で叫んでいる。大夫・侍従はこれを聞いて、「我々は月みつ殿を討ったというのに、この明るい月夜に見分けることもできないとは愚かな事だ。」としばらく部屋にいたが、「どれほどか大夫・侍従は嘆くであろう。この者たちは影のように身に添っていたのに、今宵に限ってどこへ行ってしまったのだろう。」と口々に言うので、胸騒ぎがして走り出て、「どうしたのですか。」と尋ねると、「いや、花みつ殿を何者だろうか、たった今ここで刺し殺したのだが、別当の御坊へご遺骸を引き取りなさったのだ。」と申したので、余りに不思議で行って見ると、狭い部屋で別当は花みつの頭を膝に載せて、「ああ、十歳の、春の頃から岡部殿からお受けいただいて十六の今に至るまで、三日として里に帰らせずに、慈しみ申し上げていて、母御前が亡くなっていなさっていたので、法師にしてこの寺を譲り、菩提をも弔わせようと思っていたのだが、どの人の仕業で、この花みつを殺したのか。老い衰えている我を残して先立ちなさるは恨めしいことだよ。」と声も惜しまず泣きなさる。

 月みつ殿も、死んだ兄に取りついて、「どうして花みつ殿、私を一人この世に留め置き、どうなれとどこへお行きなさるのか。今日先立たれて、この先いつの世にか会いましょうぞ。」と悶え恋しがりなさると、大夫も侍従も呆然として何も言うこともできず、死骸の側に寄り添って嘆くばかりであった。

 大夫・侍従はそ知らぬふりをして傍らでこっそりと、「ああ花みつ殿が幼かった時から愛おしく思っていたので、無道な事も承知したせいで、思いもよらずこの人にたばかられて、我々が自ら手を掛けたとは無念。こうして悩んでいても苦しいばかりだ。さあ急いで後追いして、死出の山・三途の川のお供をいたそう。」と相談し、二人とも決意して、別当の御前に参って申すには、「お嘆きになるのをやめて暫くお聞きください。過ぎにし夜に、花みつ殿が我ら二人を誘って如意輪堂へ月を眺めに行かれたのですが、夜が更けて我ら二人に、『お願いする事があります。』と言われたのです。法師の身でどうして稚児殿に、『承知できません。』とは申せましょうか。『あなたのためなら命さえも差し上げましょう。』と申し上げると、『それならば弟を討ってほしい。』とおっしゃったのを、『これはなんとも、もっての外の事です。』と申し上げると、『それならば私は死んでしまいます。』とおっしゃったので、それ以上は説得することもできず了承いたしました。まさかご自身が身代わりになって殺されようと望んでいたとは。このような驚くべきことになろうとは無念です。いまや命を惜しむこともございません。私どももお供申し上げよう。」と言い捨てて、大庭に躍り出て、「近寄れ大夫。」「侍従。」と呼び合って脇差をするりと抜いて刺し違えようとするのを、月みつが続いて走り下りて、二人の中に分け行って、「おのおのが御自害なさるのならば、それは私のせいです。私とても死を免れることはできません。またとない兄弟に先立たれて、どうして命が惜しい事でしょう。しかし、自ら命を絶たずにこれほどのはかりごとをめぐらして、人々の手にかかろうとなさったのも、あなた方にひたすら後生の弔いをお願いしたかったからではないでしょうか。あなた方が御自害なさったならば、花みつ殿が今現在、修羅道で苦しんでいるのを誰が救うというのですか。後生を弔うためにも御自害は思いとどめてください。」と制止するのもけなげである。

 こうしているうちに人々も集まって、ようやく自害をやめさせた。

 別当は、「この人は、前世の報いが逃れ難くてこのようになりなさったが、それに付き従って二人めいめい命を失うのは愚かである。二人の事を花みつ殿の忘れ形見と思いますから気をお静めなさい。」とおっしゃって抜いた刀に取りつきなさると、「このように生きながらえて、ありあまるほど世間の噂になるのは恥ずかしいのですが、亡き跡を供養するために残しておく命でしょうか。」と思って自害を思いとどまった二人の心中はやるせないものであった。

 このままにしてはおけないので、まず死骸を埋葬しようと、最期の衣を着せ変えなさると、肌身離さず持っているお守りのような手紙がいくつかあった。

 まず、「別当殿へ」と書いてあるのを見ると、

   「幼少の時より今に至るまで、御恩でないことは一つもありませんでした。もっ

  ともっとこの世に残り留まって、師匠の後生を弔い申し上げる事こそ、弟子として

  の本意でございましょう。この世のつらさに負けて先立ち申し上げ、礼儀に背く事

  は、永劫の患いですが、致し方ございません。」

 とあって、末尾に、

  ははちりて梢寂しき春過ぎて花恨めしき心地こそすれ

  (青葉のうちに葉々が散って梢が寂しい春が過ぎて桜の花は恨めしい気持ちがしま

  す。母が死んで花みつも恨めしく思っています。)

  類ひなく月をぞ人の眺むらん花は仇なるものと思へば

  (人々は月を類なく素晴らしいものだと眺めるでしょう。永遠に光る月とは違って

  花はすぐ散る仇なものだと思えば。死んでいく花みつよりも、月みつの方を素晴ら

  しいと人々は思うでしょう。)

  久方の天霧(あまぎ)る雪に名をとめて散る花みつと誰か言はまし

  (空一面に舞い散る雪に名前を留めて、その雪を「散る花が満ちている」と誰か言

  うだろうか。誰かが記憶にとどめていて「散った花みつ」とでも言うだろうか。)

 とあった。また、「太夫・侍従殿」と書いてある手紙には、

   「お二人の御手にかかって安くも命を捨てる事が出来たのは、返す返す、冥土黄

  泉へ行く闇路も晴れる心地がして、今はの際の思い出となったと思います。私の事

  を軽蔑なさらず、なお不憫だとお思いになるならば、亡き跡を弔っていただきたく

  思います。」

 とあって、

  二つがな一つは命残し置き君が情けを思ひ知らせん

  (二つあったらなあ。一つの命は残しておいてあなた方の情けを皆に思い知らせよ

  うに。)

 また、「月みつ方に」とある手紙には、

   「このようになってしまうと、二人といない兄弟の事ゆえ、きっと寂しく思って

  いらっしゃるだろうと、そればかりが気がかりです。そうはいっても、「逢うは別

  れの道」「生は死の基」と言います。仕方ない事です。どのような宿縁で兄弟とし

  て生まれ、その甲斐もなく死に急ぐ我が身の事をどのようにお思いになるでしょ

  う。後世でも二人に契りが朽ちないならば、きっと尋ね逢いましょう。お名残り惜

  しゅうございます。」

 とあって、

   花の雲風に散りなば月ひとり残らん後ぞ思ひ置かるる

   (雲のように覆う花が散ったならば月が一人残るでしょう。そうなった後が気が

   かりです。花みつが死んだ後の月みつが気がかりです。)

 さて、里への手紙と書かれたものには、

   母上に死に別れてこの方、羽のない鳥のような心地がして、日々を過ごしていま

  したが、別当の御心に背くのみならず、頼みと思っていた父にも不興を買い、誰を

  頼りに月日を送り申し上げましょうか。専ら、「憂き世に生きていてもどうしよう 

  もない。」と思って、身を亡き者にしようとする事は、きっと恨めしく思うでしょ

  う。師匠に不平を言い、父を恨み申し上げる心中は、どれほどか罪深い事でしょ

  う。私の事を思い出されるならば、その時々は後生を弔いなさってください。

 と書き留め、

  惜しまれぬ深山の奥の桜花散るとも誰かあはれとは見ん

  (惜しいことだと思う。深山の奥の桜の花はたとえ散っても誰があわれと見るだろ

  うか。私、花みつが死んでも誰も悲しまないでしょう。)

 と書かれていた。

 「きっと里への恨み、別当への恨みが抑えきれなくてこのように亡くなったのだなあと思われます。」と人々はひどく悲しみを催した。そうして、この手紙をこしの坊に持たせて、急いで里へ下向させた。

 岡部殿にこの事を申し上げると、意外な事と、さあどうしたものかと茫然としていなさったるばかりであった。暫くして涙を抑えて、「情けないことだ、私は凡夫のあさましい身であることよ。このようにさえ思っているとは夢にも気付かず、昨日を過ごした(花みつに会わずに帰った)とは愚かな事よ。神仏にお願い申し上げて儲けた子を、どうして勘当しようか。たとえ勘当しても、もし花みつの母がこの世に生きているならば、ここまで嘆くことはなかろうに。母はきっと草葉の陰でも私を恨めしく思っているだろう。」と今までや過去を嘆くほどは、見聞きする人で哀れだと思わぬ人はいなかった。

 さて、こしの坊が暇乞いをして立とうとすると岡部は、「私も山へ参って変わり果てた姿をもう一度見申し上げよう。」と言って馬にも乗らず徒歩で寺に上り、花みつの死骸に取りついて、顔を押し当てて引き起こし、「何と恨めしい我が子よ。まだ幼い者であるので、学問に身が入っていなくて、別当のお気に召さなかったのかと気がかりであったのだ。それで京から下って、説得して行いを改めさせようと思ったのだ。しかし、師匠をさしおいて親の身で悪しき子をよき様になそうと説得するのも、人聞きがどうかと思うにつけ、呼び出しもしなかった。ところがそれを勘気が強いと思ったのだろう。恨みが募ってこのような事になってしまったのか。このような心であったとは全く知らず、昨日会わなかったのは後悔が残る事だ。年月が流れてもお前の母上を忘れる事がなかったのは、お前がこの世に生きていたからであったのだ。年老いた父をどうなれと思ってどこへ行こうというのだ、花みつよ。父も一緒にというならば、どうして命を惜しもうか。私もあの世に連れて行けよ。」と言って嘆きなさるのももっともな事である。このありさまを見聞く人は、貴賤を問わず袖を濡らさぬものはいなかった。

 しかし、このままにしてもいられないので、野辺送りをして火葬しなさった。月みつ殿は兄の白骨を拾い収めて、大夫・侍従を連れてどこへともなく行方をくらましなさった。別当も、この浮き世に暮らすのも詮無いことだと思って、さらに山深い所に篭居なさった。

 そうしているうちに、岡部殿も、花みつとは死別し、月みつとは生き別れ、それぞれに思いを重ねて、栄華を振り捨てて、元結を切って遁世し、子供たちの行く末を念じて、別当の住みなさる庵室で心を澄まして修行し、峰に上っては薪を拾い、谷に下りては閼伽水を汲み、朝夕、仏前の香に身を染めて、来し方行く末を静かに思うのであった。

 というわけで、この岡部某は武勇の達人として肩を並べる人もなく、天下に名を知られた人であって、政治の道に忙しく、仏道への信心は薄かったが、一心に正直に努め、神仏に祈りなさったことにより、仏が仏道に導く方便として、仮に花みつを授けなさったのだ。その思いもよらぬつらい別れや嘆きによって、武家の棟梁であった人が、このように善人になりなさった事は、まことにありがたい次第である。

 一方、大夫・侍従・月みつ殿の三人は、高野山へ上って花みつ殿の後世を弔った。ありがたいことである。それにしても、月みつ殿は幼い時から大勢の衆徒たちに付き添われ、余計な風にも当てさせまいと大切にされ、ぜいたくに暮らしなさっていたが、いまや狐や狼、野干を友として、峰の花を摘んで、谷の閼伽水を汲んで仏前に供え、亡き人を思い出す暁は、墨染めの衣が涙で乾くことなく、三人で語り合って心を慰め、心を澄まして学問に取り組み、大学匠の名声を博して、庶人を導き、六十三歳で大往生を遂げなさった。じつにたぐいまれな善知識で、その死を惜しまぬ人はいなかったということである。

 この物語を見聞きする人は、よくよく悪心を払いつつ、後生を願いなさりなさい。

  世の中は咲き乱れたる花なれや散り残るべき一枝もなし

  (世の中は咲き乱れた花であろうか。散り残るような花は一枝もない。すべてのも

  のは花と散ってしまうのである。)

原文

上巻

 昔、播磨の国*赤松殿の御内に、岡部の某といふ人あり。

 さして*旧功の人にてはなかりしかども、器量才覚世に優れたるによつて、*播磨の国半国の守護代を預かり、その家富貴(ふつき)なり。庶人の敬ふこと限りなし。されば心にかなはぬを憂世の習ひ、かかるめでたき中にも一人の子を持ち給はず。これのみ夫婦の思ひとなれり。

 岡部心に嘆き給ふは、「我が身盛りなる時こそいみじく暮らすとも、年老いぬかん身の果て、いかになりなん。あさましや。他人の子を養ふ事も後の世までの頼りとはなり難し。昔よりも神仏に申せばかなひけると承る。大願を立てて*申し子をせばや。」と思し召し、我が身を清め、女房は所の*内神に七日籠り、岡部は*書写山に参りて、ただこの事を一心に祈り給ふ。

 女房、七日に満ずる夜の*夢に、蕾める花を賜ると見て、さては所願成就の思ひをなし給ふ。されどもされども、*青葉にて散るを夢に見れば、成人まで我が身に添ひけん事あるまじきかと、心細く思ひながら、喜び*還向(げかふ)し給ふ。

 岡部殿の御夢想には、盛りなる花を賜ると見るに、これもやがて風に誘ふと見えければ、後いかがと心にかかり、還向し給ひけり。

 さて、ほどなく女房懐妊し給ひ、月日のいたはりもなく、男子を儲け給ふ。岡部も女房も喜び給ふ事限りなし。御夢想によそへて御名をば「花みつ」殿と名付け、あまたの*めのとをいつきかしづき育て給ふ。赤松殿を始め奉り多き朋輩たちにいたるまで、「*おいの果報とはかかる事なるらん。」と面々に祝ひ給ふ事限りなし。

(注)赤松殿=「花月』「月花」では「赤松の妙善律師」。妙善律師は赤松則祐、南北

    朝時代の武将。

   旧功の人=長年にわたって仕えている人。「花月」では「新参(しんざ)とは申

    しながら」。

   播磨の国半国の守護代=「花月」では「播磨の国西八郡の守護代」、「月花」で

    は「播磨の国の守護」。

   申し子=神仏に祈願して授かった子。

   内神=屋敷内に祀る神。「花月」では「法華堂」。「月花」では「法華寺」。

   書写山=播磨の国にある山。天台宗円教寺があり、西の比叡山と呼ばれる。

   夢=「花月」では夢の内容が夫婦逆。「月花」では、「蕾が若葉となって風に散

    る」までをまとめて、夫婦同じ夢を見たとする。

   青葉にて散る=後後の和歌の伏線。

   還向=寺社の参拝から帰ること。下向。

   めのと=女性の乳母や、男性の養育係の傅。

   おいの果報=「老いの果報」か。または「老いの家宝」か。

 その年も過ぎ、やうやう花みつ*二歳の春の頃、赤松殿岡部を召して仰せけるは、「今年は*大番の役に当たれり。御身の知るごとく少し所労の身なれば、はるばる上る事、いかがと思ふなり。某(それがし)が名字を名乗り三年の御番を務めよ。」のたまへば、岡部、*時の面目身に余り、忝しとて急ぎ都へ上り給ふ。

 しかるにある人申されけるは、「中々の在京の内、一人暮らし給はんも徒然(つれづれ)なるべし。」とて御目容貌(みめかたち)優なる女房を参らせけり。岡部も*岩木の身ならねば、語らひそめし睦言は、浅からずこそ聞こえけれ。これも先世の契りにや、ほどなく懐胎して玉のやうなる男子産めり。岡部心に思ふやう、「書写へ参りて御夢想を得て帰りしは、この子の事なるべし。」とありがたくも思ひ給ふ。おりしも九月十三日夜のことなれば、その夜の月になずらへて、「月みつ」とこそつけ給ふ。

 大番も過ぎければ、月みつの母をも具して下り、とある所に隠し置き、この由御台所にのたまひければ、御台聞し召し、「あらうれしや。花みつ一人にてよろづ頼りなく候ひしに、弟の出できけるこそうれしけれ。よそにて育てんもおぼつかなし。」とて月みつをも呼び取りて、我が子よりもなほいとほしみて、花よ月よと育て給ふ。月みつの母は、世の誹りの慎ましさに、かすかなる住まゐにて、ただ折々のおとづれのみにてぞ暮らしける。

 かくて月日重なり、花みつ十歳、月みつ九つの年、岡部思し召しけるは、「かれら*きやうをかく徒(いたづら)に置くことも由なし。書写の山へ上せ、学問をさせん。」と思ひ、まづ花みつばかりをして書写へ*上り給ふ。

 *別当出で会い給ひ、色々様々にもてなし給ふ。酒三献過ぎて岡部殿の杯を別当に差し給ふ。別当杯たうたうと御受けあれば岡部*たまふ。「ただ今の御肴には何にても御所望の事侍らば、かなへ参らせん。」とありければ、別当仰しけるは、「老僧の身に何の所望も候らはず。この花みつ殿を某に預け*給ふ。後見申したく候ふ。」とのたまへば、もとより岡部もその心のことなれば、「いとやすき事なり。」と了承し、互ひの喜びこれに過ぎたる事はなし。

(注)二歳=数え年であるから生後数か月。

   大番の役=大番役は平安・鎌倉時代の内裏と院御所の警護役。南北朝時代にはま

    だ存在していたが、後廃れてようである。制度として3年は長い感じ。別の賦

    役を大番といったのか。

   時の面目=その時の名誉。「花月」では主君の名字「赤松」を名乗ることができ

    るのを面目であるとする。

   岩木の身=岩石や木のような感情を持たない身。

   きやう=兄弟か。

   上り=「上らせ」であるところ。

   別当=一山の寺務を総裁する僧官。また、これ以後の描写は「花月」「月花」と

    もに「花みつ」よりかなり詳しい。

   たまふ=「賜ふ」または「のたまふ」か。

   給ふ=「給へ」か。

 やうやう日も暮れければ、互ひに暇乞ひして花みつにのたまふ。「今日より汝はこれに留め置くなり。別当の御心に違はず、よきに学問して父が名をも上げ、その身の徳をも心に入れよ。月みつをもやがて上すべき。」とて帰らせ給ふ。

 *月みつこの由を聞きて、「うらやましな。兄御前は山へ上り給ふに、何とて我をも上せ給はぬ。」とかこちければ、岡部聞き給ひ、「優しくも言ひけるものかな。未だ幼ければ寂しき山住みもいかがと思ひ、まづ花みつばかり上せけるに、*おとなしくも学問せんと言ふこそうれしけれ。」とて、これも連れて上られける。別当いよいよ忝しとて、心を添へて置き給ふ。

 人々申しけるは、「あはれ別当は果報の人かな。守護代の公達を兄弟まで預かり給ふ。うらやましや。」と思はぬ者こそ*なかりけり。

 さる間、この児たち盛りになり給へば、容顔美麗にし、*霞匂ふ花の香の風に乱る*あをやのいとたをやかなる御姿、まことに*観音・勢至の化身かと、智慧・才覚は世に優れ一を聞きて十を悟り、ことに情けの色深くこころざしの優れければ、書写三百坊に衆徒(しゆと)の数はおよそ千余人と聞こえしが、一目見る人は言ふに及ばず、聞き伝ふる人ごとに、この児たちに心を懸けぬ人もなく、「いかにもして睦び近づきて*御経の一偈をも伝へん。」と思はぬ者もなし。

 ことに別当の御心浅からず、学びの窓に向かひ給ふ。

(注)月みつ・・・=「花みつ」では月みつの申し出で書写山に上らせたとあるが、

    「花月」では岡部が月みつの母の心情を思いやって月みつをも上らせた、とあ

    り、「月花」では月みつを思いやって上らせたとある。

   おとなしくも=おとなびて。一人前のように。

   なかりけり=「なかりけれ」とあるべきところ。

   霞匂ふ・・・=美女の形容で「花顔柳腰」という四字熟語がある。二人の美しさ

    を美女の形容で描いている。

   あをや=「青柳」か。青柳なら縁語として「いと」(糸・いとの掛詞)にかか

    る。

   観音・勢至=阿弥陀仏の脇侍である菩薩。

   御経の一偈=天台宗の主要経典「法華経」の偈文の一節、という意味であろう。

    お経を捧げることが親愛の情を伝えることになるのか?「法華経譬喩品」に

    「乃至不受 余経一偈(大乗経典以外の経典は一偈も受け入れてはいけな

    い)」とある。

 ここにものの*あはれを止めしは、花みつ殿の母上、ただかりそめの風邪の心地とのたまひて、仮の枕に臥し給ふ。岡部嘆き給ひ色々薬を与えへ、神をかこち仏を祈り養生し給へども、*無常の風は防ぐに頼りなく、次第次第に弱り給ふ。

 今はかなはじと見えし時、枕元に寄り添ひて、「うらめしの人の有様や、何とてさやうに弱り給ふぞや。あの幼(いとけな)き子供の先途をも見届けんとは思しめさすや。思しめすことあらす、包まずのたまへ。」とありければ、御台枕をそばだてて、「我はかなくなるならば、花みつが嘆かん事こそ悲しけれ。月みつとても同じ兄弟がごとく思ひければ、明日より月みつが母を呼び入りて、我がごとくに供へ、二人の者を育てさせてたび給へ。余の人に*なれ給ふ事、ゆめゆめあるまじ。これより言い置く事もなきぞ。」とて、眠るがごとく失せ給ふ。兄弟の人々も山より下り、嘆き給ふ。その中にも花みつの御心たとへんかたもなかり。

 さて、あるべきならねば泣く泣く御後を弔ひ、やうやう七日も過ぎにければ、御台所の御遺言に任せて、月みつ殿の母を館に呼び入りたてまつり、御台所と定め給ふ。いつしかかすかなる住まゐを引き替へて、いまさら栄華と栄へ給ふ。「盛者必衰、*栄枯地を変ゆる」とは、かやうの事をや申すべき。

 かかる所にその頃、京都の*騒がしき事ありて、赤松殿都へ上り給へば、岡部も御供に参り、*中々在京し給ひける。その後にまことならぬ親の恨めしさは、月みつにのみ衣(きぬ)・小袖を調(ととの)へて朝夕の見舞ひも繁かりしが、花みつ殿をば仮に訪ひ給ふ事もなし。

 岡部は都にありながら、つくづくと心をめぐらし、「無慙や、花みつは母に遅れて頼りなき上、我さへ久しく京都にゐて、さこそよろづ*事足らはじ。」と思ひ、*年の暮の小袖を調へて、「これを花みつが方につかはせ。」とありければ、女房この文を見て、「我が子には何とも*訪れもし給はで、花みつが事ばかり細々と書き給ふ、うらめしさよ。」とて、やがて文を書き直し、月みつ方への小袖なりとて寺へ送り給ふ。

 花みつはいとど物憂く悲しさに、母の事をのみ嘆き、学問もさらに身に添はで、嘆き暮らし給ふなり。

(注)あはれを止めし=悲しみや不幸を一心に受けた。

   無常の風=風が花を散らすことから、人の命を奪うこの世の無常を風にたとえて

    いったもの。

   栄枯地を変ゆる=栄枯の状況が以前と逆転する事。

   中々=「中途半端に、どっちつかずに」の意。「国元に未練を残して」というニ

    ュアンスか。

   騒がしきこと=争乱。

   事足らはじ=不自由であろう。

   年の暮の小袖=正月の晴れ着用の小袖。

   訪れ=手紙。

 別当を始め人々思ひけるは、「いたはしや。花みつ殿は母に遅れ給へば、いつしか父さへ心変はりて疎(おろ)かに見え給ふ上は、まづ月みつ殿こそ思ひ子なれ。」とてもてなし給ふも理なり。

 やうやう京都鎮まりて、岡部下り給ひ、「花みつは成人しけるかや。月みつはいかに。」と問ひ給へば、継母のたまふ。「兄弟ながらおとなしくなりけるが、花みつはこのほど、学問を怠り野山を家として別当の坊にも一夜とさらに寝ず、*若同宿を伴ふ故、別当御勘当の由を承る。我とても疎かには思はぬに、かかる事を聞くも恨めしく候。」とて、涙を流し給へば、岡部聞き給ひ、「さればこそ、まことならぬ親なれば、我にだにかかる事を聞かするよ。」と恨めしく思ひながら、「もしまた然様の事もやありなん。」と思ひ、*押して呼び下さんも別当の心を破るなれば、月みつを呼びて事の由を問はんと思し召し、御文を遣はされけるに、「月みつばかり下るべし。花みつはまたこれより迎ひを上すべき。」あり。

 花みつ心に思し召しけるは、「さては父も御心の変はりける事の疑ひなし。我は兄なれば先づ呼び下し給ふべきに、月みつばかり呼び給ふ事の不思議さよ。」と涙ぐみ給へば、月みつこの由を見給ひて、「我々参り御身の事をもよきやうに申し、今日のうちに御迎へを上せ申すべき。」とて出で給へば、「うらやましやな。月みつは弟なれども、母のましませば、父の御もてなしもいみじく、里へ下り給ふかや。*御前をよきやうに頼むぞや。」とて、ありし部屋に立ち籠りて、涙を袖に包み給ひて、うち臥してこそおはしけれ。

 月みつも名残惜しけ゚に、しばし輿にも乗らずして、同宿を近づけて、「花みつ殿を慰めてたび給へ。父の御目にかかりなば、よきに申していかなる御不興なりとも、わが身に代へて申し直し候はん。」と何心もなくのたまふ月みつ殿のこころざしこそありがたけれ。

(注)若同宿=若い同僚の僧。後で出てくる太夫・侍従であろう。

   押して=無理に。

   御前=貴人の事か、対称の代名詞。婦人に多く使われるので継母かとも、話し相

    手の月みつともとらえられるが、ここでは「父御前によきように申し上げてく

    れ」の意だろうか。

 急ぎ里へ下り給へば、岡部殿御覧じて、「早くも下りけるぞや。この年月見ざるその暇に美しく成人しけるこそうれしけれ。さすが山育ちとて色白く、*尋常にて物言ひ*さし合ひに至るまで我が子とも思はれず。花みつも*幼立ちも一際美しくありつれば、いよいよ成人してやあるらん。」と涙を抑へ、「何とて別当は勘当し給ふぞや。早く参りて、別当の御前をも許し、相見ばや。」と思ひ、また月みつを連れて書写の山へぞ上り給ふ。

 別当、出で会ひ給ひ、様々にもてなし給ふが、あたりを見れども同じやうなる児は並び居けれども、花みつは見えざりけり。岡部心に思し召しけるは、「さては、別当の深き勘当と覚えたり。我たまたま参りたる事なれば、大方の勘当をば許し給はんに、押し込めて置き給ふ事の恨めしさよ。」さればとて、師匠の諫め給ふ事を、卒爾に許し給へと言ひ難ければ、こぼるる涙を止め、浮き世の事をのみ語り給ふ。別当もまた、岡部殿の不興なれば、一言ものたまはねば、言ひ出だす言葉もなくして、花みつの部屋へ立ち寄り、「御身まことに父の不興と見えたり。さりながらただ今のほどに、言ひ直して参らすべし。心安く思し召せ。」と慰め置きて座敷に出で給ふ。

 花みつ殿はとかくの事ものたまはず。ただ、「よきやうに。」とばかりのたまひて、障子の陰に隠れ居て、余所ながら父を見給ひて、恨めしくも懐かしくも、いとど涙を催し給ふ。

 岡部、思ひに堪えかね、「今は申すべきや。これへ急ぎ上る事も、花みつが見たさにこそ参りつれ。*法師の役にはせめて一語なりとも別当ののたまへかし。それにつきていかなる不興なりとも、申し許すべきに、何とも仰せられぬこそ、いかばかりの咎をかしつらん。」案じ給へば、顔の色も違ひ心も浮かぬ風情なれば、別当見給ひて、「いやいや、岡部殿の気色悪しく見えければ、卒爾に申し出だして悪しかりなん。」と、互ひの心の隔てにて、その日を空しく送り給ふ事、長き別れの初めとは後にぞ思ひ知られたり。

(注)尋常=目立たなくてなんとなく品がよいこと。

   さし合ひ=人当たり。

   幼立ち=幼い頃の成長の様。

   法師の役=原文「ほうしのやく」。とりあえず漢字を当てて解釈したが、「法師

    の役」という用例は未見。

   ※ 花みつは父が自分を嫌いになったと誤解し、岡部は別当が花みつを疎んじて

    いるのだと誤解し、別当は岡部が、自分にも不興で、花みつに対しても何か思

    う所があるのだろうと誤解している。この心の綾が事態を悪い方へと進める。

 岡部心に思しけるは、「ここにて申し出ださんより、まづこのたびは、文して申し見ばや。」と思ひ、帰らせ給ふ。花みつ殿、さすがに父の恋しさに妻戸の陰に立ち添ひて帰り給ふを見て、涙を流し給へば、岡部もこの者を見るとて、立ち戻り見給へば、互ひに目と目を見合はせて、「いかに花みつ。」と言はんと思へども、「さすがに岡部が師匠の気に違ひたる者を呼び出ださんも、人の怪しめん。」と思ひて、さらぬ体にて帰り給ふ。

 花みつ心の中に、「ありて甲斐なき我が身かな。愛ほしみ給ひし母には遅れ、一人ある父にも憎まれ、師匠にも悪しく思はれ、何のよしみありてか永らへ、人に指を指されんもも、口惜しさよ。」しばしば臥し沈み給ふが、いかが思し召しけん、召し使ひける松王といへる童を近づけて、「汝は*大夫殿と侍従殿に行きて、ちと申したき事ある間、ただ今の程にお出であれ。」と申し給へば、松王二人の坊へ参り、この由かくと申す。

 二人の僧承り、何事やらんと*長絹の衣・*大口着て、なになた(なぎなた?)横たへ急ぎ来たりければ、花みつ殿、「聞こし召し早く来たり給ふうれしさよ。今宵の月一人眺めんも名残りあり。御御堂の縁にて夜もすがら月を見ばやと思ふはいかが。」とのたまへば、二人の法師、「それこそまことにおもしろく候はん。」とて、三人連れて出で給ふ。

 夜更け人静まりて後、花みつ涙を流し、袖の露に月の宿るばかりなり。二人の法師、「これは何故かやうに見えさせ給ふぞや。御心に思し召す事あらば、包まず語り給へ。」と諫めければ、花みつ涙を抑へ、「憂き世の習ひ、我のみ嘆くべきにはあれねども、よくよく物を案ずるに、それがしほどものの悲しき身はあらじ。父には不興せられ、師匠にも憎まれ、ありて甲斐なき憂き身なれば、人々と語らん事も今宵ばかりと思ふ故、涙の隙もなきぞとよ。なからん後をばよきに頼み奉る。」とありければ、二人の法師、「こは忌々し。たとひ父の不興し給ふとも、一旦の戒めなれば、などか許し給はざらん。又別当の何とて憎み給ふべき。それ学問の習ひには*さかしきは、なほ諫むる習ひなれば、『ただよく学問をして学匠ともなり給へかし。』との御事にて、父の不興し給ふなるべし。憂き身と世を恨み給ふこそ愚かなれ。」と様々になだめければ、花みつ殿うれしげにて、「さても御身たちに申したき事あり。かなへて給はらんか。」とのたまへば、「たとひ*命の御ようにも、いかが逃れ侍るべき。包まず語らせ給へ。」と言ひければ、「かまへて人に語らせ給ふな。この事漏れ聞こえなば、*草の陰にても恨み申さん。」とよくよく口をぞ固め給ふ。

(注)ありて甲斐なき=生き残っても甲斐がない。「とまる身はありて甲斐なき別れ路

    になど先立たぬ命なりけん(玉葉2340)」。

   大夫殿と侍従殿=花みつと親しい僧侶であろうが、なぎなたを持って参上するの

    はやや武に誇る存在だからであろうか。「月花」では「侍従」は「二条」であ

    る。

   長絹=長尺に織り出した絹布。

   大口=大口袴。長絹・大口とも若年の衣装のようである。

   さかしき=賢い。賢い者にはさらに𠮟責し、成長させようとする意図であろう。

    「さかしき」を「生意気だ」と取ることもできないではないが、それでは慰め

    にならない。

   命の御用=命が必要。「死んでくれ」という命令であっても。

   草の陰=草葉の陰。あの世。

下巻

 しばらくありて花みつ殿、「申し出だすにつけて、面々の御心の内恥づかしく侍れども、我今父に憎まるる事をつくづくと思ふに、月みつに思ひ変へられけると思へば無念なり。我がために仇なれば、月みつを討ってたび給へ。これこそ何よりもってうれしく侍らん。」とのたまへば、二人の法師あきれ果て、とかくの御返事も申さず、赤面してこそ居たりけれ。

 その時花みつ殿、「されば初めより頼まれ給はじとは思ひつれども、命なりとも給はらんと聞こえしにより、大事の事を語り出だして口惜しさよ。定めて人にも漏らし給ふべし。さあらば一山のうちにも聞こえ、弟を討たんと企みたる者よと指を指され、父にもまた漏れ聞こえなば、いかなる責めにか遭ふべき。かく申す上は、とても命を永らへんとも思はず。いかなる淵川へも身を沈めん。」と恨み給へば、二人思ふやう、「げにも頼まれずはいかなる事か出来なん。所詮頼まれ申さではかなはじ。」と思ひ、二人目と目を見合はせ、「これはまことに月みつ殿のおはします故なれば、やすやすと討ちて後は御身も心安く、父も大切に思ひ給ふべし。よくも思ひ立ち給ふかな。」と*勇めければ、花みつうれしげにて、「さては頼まれ給ふべきや。さこそ不得心なるものと思し召し候はんと、御心の内の*恥づかしさよ。*けんさいの弟を討ちて、我が世にあらんと思ふ心のあさましさよ。さりながら、恨むべきものを*恨みねば、後の世の障りとなると申し候へば、討ち取って後は、跡をば訪ふてとらすべし。」とのたまへば、二人の人、「さていかにしてかの人を討つべき。」と申しければ、「無慙やな。我こそかかる悪心を差しはさめ、月みつは弟なれども頼もしく、我が母上に別れし後は、ことさら睦まじく、常に我が部屋へ訪ね来たり、色々慰め申すなり。さだめて今宵も来たるべし。その時我は隠れ居て会はで返へさん所を討ち給はば、何の子細のあるべき。」とのたまへば、二人の法師、「げにもっともの謀(はかりごと)なり。」とて、よくよく示し合せ、夜も明けければ面々に帰りけり。

 その日の暮るるは*刹那のほどにて、やうやう約束の時分にもなりしかば、二人の法師用意しける*打ち刀脇に*かいこうて、花みつ殿の部屋の前なる木陰に立ち隠れ、今や今やと待ち居たり。

 十六日のことなれば、たそがれ惑ふ夕闇に、月は山の端よりほのぼのと射し出でけるに、十四五ばかりの児の紅の袴を着て、*薄絹髪にかけ、月を後ろにして歩み給ふ。二人これを見て、「あはれ、法師の身として人に睦ましきはあやなき事ぞかし。花みつ殿に頼まれずば、かくまで艶やかなる児を討たんと思ふべきや。されども、花には代えし月の影、またも見るこそ名残りなれ」と、思ひ切ってぞ待ちけるが、今や今やと思ふうちに、暫く時をぞ移しける。

(注)勇め=励ます。元気づける。「諫める」とひらがなで書くと同じなので混乱す

    る。

   恥ずかしさ=立派さ。感心である。

   けんさい=「現在」もしくは「健在」「賢才」か。

   恨みねば=恨まないならば。「恨む」は下二段活用で、「恨み」は未然形。「恨

    まない」は「恨まず」ではなくて「恨みず」となり、現在の五段活用とは違う

    ので戸惑う。

   刹那の程=あっという間。

   打ち刀=相手に内当てて切ることを目的とした刀。刺すことを目的とした腰刀よ

    りも刃渡りが長い。鍔刀。

   かいこうて=「掻き籠うて」か。包み隠しもって。

   たそがれ惑ふ=「暮れなずむ」の意か。用例が見つからない。

   薄絹・・・=ヴェールをかけて月光を背にするのは、自身が花みつと悟られない

    ための演出。「花月」「月花」では顔がはっきりとわかり、花みつかと思う

    が、稚児が花みつの部屋を叩き、留守だと思って帰るという演技をしたので、

    「これは花みつではなく、花みつを訪れたつきみつだろう。」と判断した、と

    いう設定である。「花みつ」の方が、月を背後にヴェールをかけている効果が

    表れているように思う。

 侍従言ひけるは、「時の移るも悲しければ、某走りかかり抱き止めん所を、ただ一刀に刺し殺し給へ。」とて、すでに走りかかりけるが、あまりに情けなさに、御後ろ影を見るに、「いとど露けき月みつの、消えゆく西の山端の、思はぬ方に*浮雲のかかるべしとは知らざるに、*無常の道に入り給ふ。」といたはしく見るよりも、げにも兄弟とて、花みつ殿の後ろ影によく似給へる事のいとほしさに、殺さん事をうち忘れ、ただ涙に暮れてぞ居たりける。

 児はかくとも知らず、しずしずと縁に上がり、蔀(しとみ)に立ち添ひて*優しき声にて、「なふ花みつ殿。」と二つ三つと呼び給へども、内より応ふる者もなし。しばし佇み給ひ、「いづかたへか行かせ給ふ。」と独り言して、帰り給はんとし給ふ所を、*大夫走り寄りむずと抱いて押し伏せたり。侍従も思ひ切りたりとて、腰の刀をするりと抜き、*肘の懸りを二刀刺して、かつぱと突き捨て急ぎ走り帰り、「あはれ、物憂きことどもかな。法師の身にて児を殺す例(ためし)昔も今もこれや初めならん。」と大息をつきて居たる所に、しばしありて、「こはいかに、月みつ殿の殺され給ふ。」と騒ぎ立って、人々集まりけるを聞き、「我ら二人が業なるものを。」といとどあはれに聞きける所に、また騒ぎ立つと言ひけるは、「いやこれは、花みつ殿にてありけるにや。いかなる者の仕業なるらん。」と呼ばはりければ、大夫・侍従これを聞き、「我らは月みつ殿をこそ討ちたるに、この月の夜に見定めぬ人々こそ愚かなれ。」と暫く部屋にありけるが、「いかに大夫・侍従が嘆かんずらん。この者どもは影身に添ふてありきしに、今宵しもいづくへか行きぬらん。」と口々に言ひければ、胸うち騒ぎ走り出で、「さていかに。」と問ひければ、「いや花みつ殿を何者やらん、ただ今ここにて刺し殺しぬるを、別当の御坊へ御死骸をとり給ひし。」と申しければ、あまり不思議さに行き見れば、一間所にて別当の膝に載せ、「さても十歳の春の頃より、岡部殿に請ひ受け十六の今に至るまで、三日とも里に置かずして、愛ほしみ奉りしも、母御前のなき人なれば、法師になしてこの寺を譲り、亡き跡をも弔れんと思ひしに、いかなる人の仕業とて、この花みつを殺しけるぞや。老い衰へたる我を残し先立ち給ふ。恨めしや。」と声も惜しまず泣き給ふ。

 月みつ殿も死したる*おに(兄)に取りつきて、「いかに花みつ殿、我を一人留め置き、何となれとていづくへか、行かせ給ふぞや。今日遅れ初め、またいつの世にかは会ふべき。」と悶へ焦がれ給へば、大夫も侍従もあきれ果て、とかくの事も言はずして、御死骸の側に寄り、嘆くより他の事ぞなき。

(注)浮雲のかかるべし=月の光を妨げるように妨害するもの。月みつを殺そうとする

    者の比喩か。

   無常の道=死出の道。

   優しき声=花みつの月みつになりすました演技。

   大夫・・・=打合せでは侍従が抱き止めて大夫が刺すことになっていたはずで、

    侍従が逡巡していたから、大夫が先に走り出したのか。両者を書くのに大夫が

    先になっているので、大夫の方が年長か。

   肘の懸り=肘の関節。

   おに=兄か。それとも「鬼」で死者を指すのか。

 大夫、侍従はさらぬ体にて傍らに忍び、「さても幼(いとけな)き時より愛ほしく思ひ奉りしにより、わりなき事をも了承しつるに、思はざるにこの人に謀(たばか)られ、我らが手にかけ殺したる事の無念さよ。かくて思ふも苦しければ、いざや急ぎ追つつき、死出の山・三途の川のお供申さん。」と二人とも思ひ切り、別当の御前に参りて申すやう、「嘆きを止めて暫くものを聞き給へ。過ぎし夜、花みつ殿我ら二人を誘ひて*によいもんたうへ月を眺めに行き給ふが、夜更けて我二人に、『しかじか頼まん。』とありしかば、法師の身にて児に、『頼まれ申さじ。』とはいかで申すべき。『御ためならば命なりとも参らせん。』申せし時、『さらば弟を討ってくれよ。』とのたまひしを、『こはいかに。*もつたいない事。』と申しければ、『身をなきものとなさん。』仰せられし上は、力及ばず了承申して候へば、かかるあさましき事を見るこそ口惜しけれ。今は何に命の惜しむべき。お供申さん。」言ひ捨てて、大庭に躍り出でて、*「寄れや大夫。」「侍従。」とて、脇差をするりと抜き、刺し違へんとしたりけるを、月みつ続いて走り下り、二人が中へ分け入り、「面々御自害候はば、我々とて逃るまじ。またもなき兄弟を先に立てて、何に命の惜しかるべき。これほどのはかりごとをめぐらして、人々の御手にかかり給ふも、一向に後生を頼み申すべきためにてこそ候へ。御自害候はば、花みつ殿のただ今の修羅の苦しみをば、誰か助け候べき。ただ思し召しとどまり給へ。」ととどめ給ふぞあはれなれ。

 かくするほどに人々多く集まりて、暫く自害をとどめけり。

(注)によいもんたう=「花月」は「によいりんたう(如意輪堂)」。「月花」では

    「ねういんもんたう」。書写山円教寺は西国33観音霊場の27番札所で、如

    意輪観音を安置した「摩尼殿」があり、如意輪堂とも呼ばれる。

   もつたいなき=もってのほか。畏れ多い。

   「寄れや大夫」=大夫の方が年長なら、呼びかけは逆の方が自然であるが、あま

    り深く考えていないのかもしれない。

 別当のたまひけるは、「この人こそ、先の世の報ひ逃れ難くしてかやうになり給ふとも、それにつきて面々二人命を失はんも愚かなり。花みつ殿の忘れ形見とも二人を見侍らんに、静まり給へ。」とて抜きたる刀にとりつき給へば、「かくて永らへんも、*人口(ひとぐち)に余らん事も恥づかしく侍れども、御跡*孝養(けうやう)のために残し置く命なれ。」とて自害をとどめける二人が心の内、やるかたなき思ひなり。

 かくてあるべきならねば、先づ御死骸を*隠さんとて、*さいこくの衣(きぬ)を着せ替へ給ふに、肌の守りに御文どもあり。

 まづ別当殿へとあるを見れば、

   「幼少より今に至るまで、御恩ならずと言ふことなし。

  もっとも残りとどまり後生をも訪ひ奉らんこそ、師弟の本意にて候へども、世の憂

  きに従ひ、先立ち申し礼儀を背く事、*生生世世の虞れにて候へども、力なき事に

  て候。」

 とて、奥にかくなん。

  *ははちりて梢寂しき春過ぎて花恨めしき心地こそすれ 

  *類ひなく月をそ人の眺むらん花は仇なるものと思へば 

  *久方の天霧(あまぎ)る雪に名をとめて散る花みつと誰か言はまし 

 また、大夫・侍従殿とある文には、

   *一向とても捨つる身の御手にかかり候事、返す返すも冥土黄泉の闇路も晴るる

  心地して、最期の思ひ出でと思ふなり。なほあはれと思し召さば、跡を弔ひて給は

  れ。

 とて、

  *二つがな一つは命残し置き君が情けを思ひ知らせん

 また、月みつ方へとある文には、

   かやうになり候へば、またもなき兄弟にて、さこそ寂しくおはしまさんずらん

  と、それのみ心に懸るなり。さりながら*会ふは別れの道、生(しやう)は死の基

  (もとゐ)、力及ばぬ事どもなり。いかなる宿縁にて兄弟と生まれ、その甲斐もな

  く世を急ぐ我が身の程、いかばかりとか思し召す。必ず後の世にても契り朽ちせず 

  ば、訪ね会ふべきなり。御名残り惜しくこそ候へ。

 とて、

  *花の雲風に散りなば月ひとり残らん後ぞ思ひ置かるる

(注)人口に余らん=ありあまるほど世間の噂になる。

   孝養=供養。 

   隠さん=葬る。埋葬する。

   さいこく=「月花」では「最期」。「最期」か「先刻」か。

   生生世世=永劫。

   ははちりて・・・=「葉々が散って」と「母が散って(死んで)」を掛ける。

    「花」は「桜の花」と「花みつ」。葉が散って春が過ぎるのは不自然だが、誕

    生を祈願した七日の夢(「花みつ」では岡部の妻、「月花」では岡部も妻も) 

    に花はすぐ散り、青葉もすぐ散ったとある。それが伏線となっているのだろ

    う。「花月」では青葉は散るとまで書かれてはいない。

   類ひなく・・・=はかない花(みつ)よりいつまでもある月(みつ)を頼もしく

    人びとは思うであろう。

   久方の・・・=「久方の」は「天」の枕詞。「梅の花それとも見えずひさかたの

    あまぎる雪のなべて降れれば)古今集・冬334)」。「天霧る」は空が霞み

    渡る。空一面にどんよりと曇る。

   一向とても=「ひたすらどうしても」か。わかりずらい。

   二つがな・・・=命が二つあったなら残した方の命であなたの情けを皆に知らせ

    よう。「がな」は願望の終助詞。

   会ふは・・・=「会うは別れの始め」「生は死の始め」という諺。

 さて、里への文とありしには、

   母上に別れしよりこの方、羽なき鳥の心地して、明かし暮らししに、別当の御心

  に違ひ参らせ候ふのみならず、頼み奉る父にさへ不興せられ、誰を頼りに月日を送

  り参らせん。憂き世にありても何かせんと思ふ心を先として、身を亡き者となさし

  事、さこそ恨めしくや思すらん。師匠をかこち父を恨み奉る心の中、いかに罪深か

  らん。思し出さん折々は跡弔ひてたび給へ。

 と書き留め、

  惜しまれぬ深山の奥の桜花散るとも誰かあはれとは見ん

 と書かれたり。

 「さてこそ里への恨み、別当への恨み、せんかたなきままに、かやうにはかなくなりける。と覚えたり。」といとどあはれを催しけり。さてこの文を、*こしの坊に持たせ、急ぎ里へ下しける。

 岡部殿にこの由申しければ、あまりの事にや、さていかにやいかにやとばかりにてあきれはてて居給ひけり。ややありて涙を留め、「うたての事や。凡夫の身のあさましや。かくまで思ふとは夢にも知らずして昨日を過ぎし事の愚かさよ。神仏に申して儲けし子を、何しに勘当すべきぞや。ただこれとても花みつが母、憂き世にあるならば、かくまで憂き嘆きはあるまじきものを。さこそ草の陰にても、我を恨めしく思ふらん。」と来し方行く末の嘆きのほど、見聞く人ごとに、あはれと訪はぬ人ぞなき。

(注)こしの坊=未詳。

 さて、こしの坊いとま申さんとて、立たんとすれば、「それがしも参りて変われる姿を今一目見参らせん。」とて、*徒跣(かちはだし)にて寺の上り、花みつが死骸に取りつきて顔さし当てて引き起こし、「恨めしの我が子や、未だ幼き者なれば、学問をも心に入れざるにより、別当の心に違ひぬるかとおぼつかなさに、京より下り、申し直さんと思ひしに、親の身として悪しき子をよき様に言ひ直さんも、人聞きいかが思ふにつき、呼び出ださざることを恨みて、かやうになりけるかや。かかる心のあらんとつゆほども知らずして、昨日見ざりし事の悔しさよ。母が事をこそ年月の過ぎ行くに従ひて忘るるひまもなき事も、御身憂き世にあるゆゑぞや。年老いつる父を、いかになれとていづくへ行くぞ。花みつ、父もろともにと言ふならば、などか命を惜しむべき。我をも連れて行けや。」とて嘆き給ふも理なり。このありさまを見聞く人、貴きも賤しきも袖を濡らさぬはなかりけり。

 かくてもあるべきならねば、野辺に送り煙となし奉りけり。月みつ殿も兄の白骨を取り、大夫・侍従連れて、行き方知らずになり給ふ。別当も憂き世の住まゐ詮無しとて、なほ山深く閉ぢ籠もり給ふ。

 さるほどに、岡部殿も栄華を振り捨て、花みつに死して別れ、月みつに生きて離れ、方々思ひを重ね、元結切り遁世し、子供が行方の*すてかたなさに、別当の住み給ふ庵室に*行ひ澄まし、峰に上りて薪(たきぎ)を拾ひ、谷に下り閼伽の水を掬ひ、朝夕香の煙に身を染めて、来し方行く末の有様を観じ給ひけり。さればこの岡部の某は武勇(ぶやう)の達者、肩を並ぶる人もなく、天下に名を著はせし人なれば、世の政道に暇もなく、仏道に心の薄かりしかども、一心に*しやうしきを守り、神仏に祈り給ふにより、仏の方便にて仏道に導かんそのために、仮に花みつを授け、思はざるに憂き別れ、その嘆きを*したいて武家の棟梁なりし人の、かやうに*善人となり給ふ事、まことにありがたき次第なり。

(注)徒跣=裸足で往来する事。

   すてかたなさに=見捨てることができないで、と言う意味か。「花月」は「やる

    かたなさに」。

   行ひ澄まし=仏道の戒めを守り心を清くして修行に励む。

   しやうしき=正直か。

   したいて=慕ひて、か。

   善人=因果の道理を信じて善い行いをする人。あるいは「仙人」で、山中で修行

    をする人か。

 さるほどに、大夫・侍従・月みつ殿三人は高野山へ上り、花みつ殿の御跡をぞ弔い給ふぞありがたき。さても月みつ殿は幼き時よりあまたの衆徒たちに*介錯せられ、あらぬ風にも当てじと栄華に栄へ給ふに、今は狐狼*野干を友として、峰の花を摘み、谷の閼伽水を取りて手向けとし、亡き人の事を思ひ出づる暁は、墨の衣干しかね、三人共に語り慰み、学問の窓に心を澄まし、大学匠の名を取り、庶人を導き、つひに六十三にして大往生を遂げ給ふ。まことに例少なき善知識、惜しまぬ人もなかりけり。

 これを見聞かん人々は、よくよく悪心を払ひつつ後生を願ひ給ふべきなり。

  世の中は咲き乱れたる花なれや散り残るべき一枝もなし g

(注)介錯=付き添って世話をする事。

   野干=狐に似た伝説上の悪獣。または狐の異名。

 

花みつ⑦ー稚児物語3ー

下巻

その5

 さて、里への手紙と書かれたものには、

   母上に死に別れてこの方、羽のない鳥のような心地がして、日々を過ごしていま

  したが、別当の御心に背くのみならず、頼みと思っていた父にも不興を買い、誰を

  頼りに月日を送り申し上げましょうか。専ら、「憂き世に生きていてもどうしよう 

  もない。」と思って、身を亡き者にしようとする事は、きっと恨めしく思うでしょ

  う。師匠に不平を言い、父を恨み申し上げる心中は、どれほどか罪深い事でしょ

  う。私の事を思い出されるならば、その時々は後生を弔いなさってください。

 と書き留め、

  惜しまれぬ深山の奥の桜花散るとも誰かあはれとは見ん

  (惜しいことだと思う。深山の奥の桜の花はたとえ散っても誰があわれと見るだろ

  うか。私、花みつが死んでも誰も悲しまないでしょう。)

 と書かれていた。

 「きっと里への恨み、別当への恨みが抑えきれなくてこのように亡くなったのだなあと思われます。」と人々はひどく悲しみを催した。そうして、この手紙をこしの坊に持たせて、急いで里へ下向させた。

 岡部殿にこの事を申し上げると、意外な事と、さあどうしたものかと茫然としていなさったるばかりであった。暫くして涙を抑えて、「情けないことだ、私は凡夫のあさましい身であることよ。このようにさえ思っているとは夢にも気付かず、昨日までを過ごしたとは愚かな事よ。神仏にお願い申し上げて儲けた子を、どうして勘当しようか。たとえ勘当しても、もし花みつの母がこの世に生きているならば、ここまで嘆くことはなかろうに。母はきっと草葉の陰でも私を恨めしく思っているだろう。」と今までや過去を嘆くほどは、見聞きする人で哀れだと思わぬ人はいなかった。

その6

 さて、こしの坊が暇乞いをして立とうとすると岡部は、「私も山へ参って変わり果てた姿をもう一度見申し上げよう。」と言って馬にも乗らず徒歩で寺に上り、花みつの死骸に取りついて、顔を押し当てて引き起こし、「何と恨めしい我が子よ。まだ幼い者であるので、学問に身が入っていなくて、別当のお気に召さなかったのかと気がかりであったのだ。それで京から下って、説得して行いを改めさせようと思ったのだ。しかし、師匠をさしおいて親の身で悪しき子をよき様になそうと説得するのも、人聞きがどうかと思うにつけ、呼び出しをしなかった。ところがそれを勘気が強いと思ったのだろう。恨みが募ってこのような事になってしまったのか。このような心であったとは全く知らず、昨日まで会わなかったのは後悔が残る事だ。年月が流れてもお前の母上を忘れる事がなかったのは、お前がこの世に生きていたからであったのだ。年老いた父をどうなれと思ってどこへ行こうというのだ、花みつよ。父も一緒にというならば、どうして命を惜しもうか。私もあの世に連れて行けよ。」と言って嘆きなさるのももっともな事である。このありさまを見聞く人は、貴賤を問わず袖を濡らさぬものはいなかった。

 このままにしてもいられないので、野辺送りをして火葬しなさった。月みつ殿は兄の白骨を拾い収めて、大夫・侍従を連れてどこへともなく行きなさった。別当も、この浮き世に暮らすのも詮無いことだと思って、さらに山深い所に篭居なさった。

 そうしているうちに、岡部殿も、花みつとは死別し、月みつとは生き別れ、それぞれに思いを重ねて、栄華を振り捨てて、元結を切って遁世し、子供たちの行く末を念じて、別当の住みなさる庵室で心を澄まして修行し、峰に上っては薪を拾い、谷に下りては閼伽水を汲み、朝夕、仏前の香に身を染めて、来し方行く末を静かに思うのであった。

 というわけで、この岡部某は武勇の達人として肩を並べる人もなく、天下に名を知られた人であって、政治の道に忙しく、仏道への信心は薄かったが、一心に正直に努め、神仏に祈りなさったことにより、仏が仏道に導く方便として、仮に花みつを授けなさったのだ。その思いもよらぬつらい別れや嘆きによって、武家の棟梁であった人が、このように善人になりなさった事は、まことにありがたい次第である。

その7

 一方、大夫・侍従・月みつ殿の三人は、高野山へ上って花みつ殿の後世を弔った。ありがたいことである。それにしても、月みつ殿は幼い時から大勢の衆徒たちに付き添われ、余計な風にも当てさせまいと大切にされ、ぜいたくに暮らしなさっていたが、いまや狐や狼、野干を友として、峰の花を摘んで、谷の閼伽水を汲んで仏前に供え、亡き人を思い出す暁は、墨染めの衣が涙で乾くことなく、三人で語り合って心を慰め、心を澄まして学問に取り組み、大学匠の名声を博して、庶人を導き、六十三歳で大往生を遂げなさった。じつにたぐいまれな善知識で、その死を惜しまぬ人はいなかったということである。

 この物語を見聞きする人は、よくよく悪心を払いつつ、後生を願いなさりなさい。

  世の中は咲き乱れたる花なれや散り残るべき一枝もなし

  (世の中は咲き乱れた花であろうか。散り残るような花は一枝もない。すべてのも

  のは花と散ってしまうのである。)

原文

その5

 さて、里への文とありしには、

   母上に別れしよりこの方、羽なき鳥の心地して、明かし暮らししに、別当の御心

  に違ひ参らせ候ふのみならず、頼み奉る父にさへ不興せられ、誰を頼りに月日を送

  り参らせん。憂き世にありても何かせんと思ふ心を先として、身を亡き者となさし

  事、さこそ恨めしくや思すらん。師匠をかこち父を恨み奉る心の中、いかに罪深か

  らん。思し出さん折々は跡弔ひてたび給へ。

 と書き留め、

  惜しまれぬ深山の奥の桜花散るとも誰かあはれとは見ん

 と書かれたり。

 「さてこそ里への恨み、別当への恨み、せんかたなきままに、かやうにはかなくなりける。と覚えたり。」といとどあはれを催しけり。さてこの文を、*こしの坊に持たせ、急ぎ里へ下しける。

 岡部殿にこの由申しければ、あまりの事にや、さていかにやいかにやとばかりにてあきれはてて居給ひけり。ややありて涙を留め、「うたての事や。凡夫の身のあさましや。かくまで思ふとは夢にも知らずして昨日を過ぎし事の愚かさよ。神仏に申して儲けし子を、何しに勘当すべきぞや。ただこれとても花みつが母、憂き世にあるならば、かくまで憂き嘆きはあるまじきものを。さこそ草の陰にても、我を恨めしく思ふらん。」と来し方行く末の嘆きのほど、見聞く人ごとに、あはれと訪はぬ人ぞなき。

(注)こしの坊=未詳。

その6

 さて、こしの坊いとま申さんとて、立たんとすれば、「それがしも参りて変われる姿を今一目見参らせん。」とて、*徒跣(かちはだし)にて寺の上り、花みつが死骸に取りつきて顔さし当てて引き起こし、「恨めしの我が子や、未だ幼き者なれば、学問をも心に入れざるにより、別当の心に違ひぬるかとおぼつかなさに、京より下り、申し直さんと思ひしに、親の身として悪しき子をよき様に言ひ直さんも、人聞きいかが思ふにつき、呼び出ださざることを恨みて、かやうになりけるかや。かかる心のあらんとつゆほども知らずして、昨日見ざりし事の悔しさよ。母が事をこそ年月の過ぎ行くに従ひて忘るるひまもなき事も、御身憂き世にあるゆゑぞや。年老いつる父を、いかになれとていづくへ行くぞ。花みつ、父もろともにと言ふならば、などか命を惜しむべき。我をも連れて行けや。」とて嘆き給ふも理なり。このありさまを見聞く人、貴きも賤しきも袖を濡らさぬはなかりけり。

 かくてもあるべきならねば、野辺に送り煙となし奉りけり。月みつ殿も兄の白骨を取り、大夫・侍従連れて、行き方知らずになり給ふ。別当も憂き世の住まゐ詮無しとて、なほ山深く閉ぢ籠もり給ふ。

 さるほどに、岡部殿も栄華を振り捨て、花みつに死して別れ、月みつに生きて離れ、方々思ひを重ね、元結切り遁世し、子供が行方の*すてかたなさに、別当の住み給ふ庵室に*行ひ澄まし、峰に上りて薪(たきぎ)を拾ひ、谷に下り閼伽の水を掬ひ、朝夕香の煙に身を染めて、来し方行く末の有様を観じ給ひけり。さればこの岡部の某は武勇(ぶやう)の達者、肩を並ぶる人もなく、天下に名を著はせし人なれば、世の政道に暇もなく、仏道に心の薄かりしかども、一心に*しやうしきを守り、神仏に祈り給ふにより、仏の方便にて仏道に導かんそのために、仮に花みつを授け、思はざるに憂き別れ、その嘆きを*したいて武家の棟梁なりし人の、かやうに*善人となり給ふ事、まことにありがたき次第なり。

(注)徒跣=裸足で往来する事。

   すてかたなさに=見捨てることができないで、と言う意味か。「花月」は「やる

    かたなさに」。

   行ひ澄まし=仏道の戒めを守り心を清くして修行に励む。

   しやうしき=正直か。

   したいて=慕ひて、か。

   善人=因果の道理を信じて善い行いをする人。あるいは「仙人」で、山中で修行

    をする人か。

その7

 さるほどに、大夫・侍従・月みつ殿三人は高野山へ上り、花みつ殿の御跡をぞ弔い給ふぞありがたき。さても月みつ殿は幼き時よりあまたの衆徒たちに*介錯せられ、あらぬ風にも当てじと栄華に栄へ給ふに、今は狐狼*野干を友として、峰の花を摘み、谷の閼伽水を取りて手向けとし、亡き人の事を思ひ出づる暁は、墨の衣干しかね、三人共に語り慰み、学問の窓に心を澄まし、大学匠の名を取り、庶人を導き、つひに六十三にして大往生を遂げ給ふ。まことに例少なき善知識、惜しまぬ人もなかりけり。

 これを見聞かん人々は、よくよく悪心を払ひつつ後生を願ひ給ふべきなり。

  世の中は咲き乱れたる花なれや散り残るべき一枝もなし g

(注)介錯=付き添って世話をする事。

   野干=狐に似た伝説上の悪獣。または狐の異名。

 

花みつ⑥ー稚児物語3ー

下巻

その3

 大夫・侍従はそ知らぬふりをして傍らでこっそりと、「ああ花みつ殿が幼かった時から愛おしく思っていたので、無道な事も承知したせいで、思いもよらずこの人にたばかられて、我々が自ら手を掛けたとは無念。こうして悩んでいても苦しいばかりだ。さあ急いで後追いして、死出の山・三途の川のお供をいたそう。」と相談し、二人とも決意して、別当の御前に参って申すには、「お嘆きになるのをやめて暫くお聞きください。過ぎにし夜に、花みつ殿が我ら二人を誘って如意輪堂へ月を眺めに行かれたのですが、夜が更けて我ら二人に、『お願いする事があります。』と言われたのです。法師の身でどうして稚児殿に、『承知できません。』とは申せましょうか。『あなたのためなら命さえも差し上げましょう。』と申し上げると、『それならば弟を討ってほしい。』とおっしゃったのを、『これはなんとも、もっての外の事です。』と申し上げると、『それならば私は死んでしまいます。』とおっしゃったので、それ以上は説得することもできず了承いたしました。このような驚くべきことになろうとは無念です。いまや命を惜しむこともございません。お供申し上げよう。」と言い捨てて、大庭に躍り出て、「近寄れ大夫。」「侍従。」と呼び合って脇差をするりと抜いて刺し違えようとするのを、月みつが続いて走り下りて、二人の中に分け行って、「おのおのが御自害なさるのならば、それは私のせいです。私とても死を免れることはできません。またとない兄弟に先立たれて、どうして命が惜しい事でしょう。しかし、自ら命を絶たずにこれほどのはかりごとをめぐらして、人々の手にかかろうとなさったのも、ひたすら後生の弔いをお願いしたかったからではないでしょうか。あなた方が御自害なさったならば、花みつ殿が今現在、修羅道で苦しんでいるのを誰が救うというのですか。後生を弔うためにも御自害は思いとどめてください。」と制止するのもけなげである。

 こうしているうちに人々も集まって、ようやく自害をやめさせた。

その4

 別当は、「この人は、前世の報いが逃れ難くてこのようになりなさったが、それに付き従って二人めいめい命を失うのは愚かである。二人の事を花みつ殿の忘れ形見と思いますから気をお静めなさい。」とおっしゃって抜いた刀に取りつきなさると、「このように生きながらえて、ありあまるほど世間の噂になるのは恥ずかしいのですが、亡き跡を供養するために残しておく命でしょうか。」と思って自害を思いとどまった二人の心中はやるせないものであった。

 このままにしてはおけないので、まず死骸を埋葬しようと、最期の衣を着せ変えなさると、肌身離さず持っているお守りのような手紙がいくつかあった。

 まず、「別当殿へ」と書いてあるのを見ると、

   「幼少の時より今に至るまで、御恩でないことは一つもありませんでした。もっ

  ともっとこの世に残り留まって、師匠の後生を弔い申し上げる事こそ、師弟として

  の本意でございましょう。この世のつらさに負けて先立ち申し上げ、礼儀に背く事

  は、永劫の患いですが、致し方ございません。」

 とあって、末尾に、

  ははちりて梢寂しき春過ぎて花恨めしき心地こそすれ

  (葉々が青葉のうちに散って梢が寂しい春が過ぎて桜の花は恨めしい気持ちがしま

  す。母が死んで花みつも恨めしく思っています。)

  類ひなく月をぞ人の眺むらん花は仇なるものと思へば

  (人々は月を類なく素晴らしいものだと眺めるでしょう。永遠に光る月とは違って

  花はすぐ散る仇なものだと思えば。死んでいく花みつよりも、月みつの方を素晴ら

  しいと人々は思うでしょう。)

  久方の天霧(あまぎ)る雪に名をとめて散る花みつと誰か言はまし

  (空一面に舞い散る雪に名前を留めて、その雪を「散る花が満ちている」と誰か言

  うだろうか。誰かが記憶にとどめていて「散った花みつ」とでも言うだろうか。)

 とあった。また、「太夫・侍従殿」と書いてある手紙には、

   「お二人の御手にかかって安くも命を捨てる事が出来たのは、返す返す、冥土黄

  泉へ行く闇路も晴れる心地がして、今はの際の思い出となったと思います。私の事

  を軽蔑なさらず、なお不憫だとお思いになるならば、亡き跡を弔っていただきたく

  思います。」

 とあって、

  二つがな一つは命残し置き君が情けを思ひ知らせん

  (二つあったらなあ。一つの命は残しておいてあなた方の情けを皆に思い知らせよ

  うに。)

 また、「月みつ方に」とある手紙には、

   「このようになってしまうと、二人といない兄弟の事ゆえ、きっと寂しく思って

  いらっしゃるだろうと、そればかりが気がかりです。そうはいっても、「逢うは別

  れの道」「生は死の基」と言います。仕方ない事です。どのような宿縁で兄弟とし

  て生まれ、その甲斐もなく死に急ぐ我が身の事をどのようにお思いになるでしょ

  う。後世でも二人に契りが朽ちないならば、きっと尋ね逢いましょう。お名残り惜

  しゅうございます。」

 とあって、

   花の雲風に散りなば月ひとり残らん後ぞ思ひ置かるる

   (雲のように覆う花が散ったならば月が一人残るでしょう。そうなった後が気が

   かりです。花みつが死んだ後の月みつが気がかりです。)

原文

その3

 大夫、侍従はさらぬ体にて傍らに忍び、「さても幼(いとけな)き時より愛ほしく思ひ奉りしにより、わりなき事をも了承しつるに、思はざるにこの人に謀(たばか)られ、我らが手にかけ殺したる事の無念さよ。かくて思ふも苦しければ、いざや急ぎ追つつき、死出の山・三途の川のお供申さん。」と二人とも思ひ切り、別当の御前に参りて申すやう、「嘆きを止めて暫くものを聞き給へ。過ぎし夜、花みつ殿我ら二人を誘ひて*によいもんたうへ月を眺めに行き給ふが、夜更けて我二人に、『しかじか頼まん。』とありしかば、法師の身にて児に、『頼まれ申さじ。』とはいかで申すべき。『御ためならば命なりとも参らせん。』申せし時、『さらば弟を討ってくれよ。』とのたまひしを、『こはいかに。*もつたいない事。』と申しければ、『身をなきものとなさん。』仰せられし上は、力及ばず了承申して候へば、かかるあさましき事を見るこそ口惜しけれ。今は何に命の惜しむべき。お供申さん。」言ひ捨てて、大庭に躍り出でて、*「寄れや大夫。」「侍従。」とて、脇差をするりと抜き、刺し違へんとしたりけるを、月みつ続いて走り下り、二人が中へ分け入り、「面々御自害候はば、我々とて逃るまじ。またもなき兄弟を先に立てて、何に命の惜しかるべき。これほどのはかりごとをめぐらして、人々の御手にかかり給ふも、一向に後生を頼み申すべきためにてこそ候へ。御自害候はば、花みつ殿のただ今の修羅の苦しみをば、誰か助け候べき。ただ思し召しとどまり給へ。」ととどめ給ふぞあはれなれ。

 かくするほどに人々多く集まりて、暫く自害をとどめけり。

(注)によいもんたう=「花月」は「によいりんたう(如意輪堂)」。「月花」では

    「ねういんもんたう」。書写山円教寺は西国33観音霊場の27番札所で、如

    意輪観音を安置した「摩尼殿」があり、如意輪堂とも呼ばれる。

   もつたいなき=もってのほか。畏れ多い。

   「寄れや大夫」=大夫の方が年長なら、呼びかけは逆の方が自然であるが、あま

    り深く考えていないのかもしれない。

その4

 別当のたまひけるは、「この人こそ、先の世の報ひ逃れ難くしてかやうになり給ふとも、それにつきて面々二人命を失はんも愚かなり。花みつ殿の忘れ形見とも二人を見侍らんに、静まり給へ。」とて抜きたる刀にとりつき給へば、「かくて永らへんも、*人口(ひとぐち)に余らん事も恥づかしく侍れども、御跡*孝養(けうやう)のために残し置く命なれ。」とて自害をとどめける二人が心の内、やるかたなき思ひなり。

 かくてあるべきならねば、先づ御死骸を*隠さんとて、*さいこくの衣(きぬ)を着せ替へ給ふに、肌の守りに御文どもあり。

 まづ別当殿へとあるを見れば、

   「幼少より今に至るまで、御恩ならずと言ふことなし。

  もっとも残りとどまり後生をも訪ひ奉らんこそ、師弟の本意にて候へども、世の憂

  きに従ひ、先立ち申し礼儀を背く事、*生生世世の虞れにて候へども、力なき事に

  て候。」

 とて、奥にかくなん。

  *ははちりて梢寂しき春過ぎて花恨めしき心地こそすれ 

  *類ひなく月をそ人の眺むらん花は仇なるものと思へば 

  *久方の天霧(あまぎ)る雪に名をとめて散る花みつと誰か言はまし 

 また、大夫・侍従殿とある文には、

   *一向とても捨つる身の御手にかかり候事、返す返すも冥土黄泉の闇路も晴るる

  心地して、最期の思ひ出でと思ふなり。なほあはれと思し召さば、跡を弔ひて給は

  れ。

 とて、

  *二つがな一つは命残し置き君が情けを思ひ知らせん 

 また、月みつ方へとある文には、

   かやうになり候へば、またもなき兄弟にて、さこそ寂しくおはしまさんずらん

  と、それのみ心に懸るなり。さりながら*会ふは別れの道、生(しやう)は死の基

  (もとゐ)、力及ばぬ事どもなり。いかなる宿縁にて兄弟と生まれ、その甲斐もな

  く世を急ぐ我が身の程、いかばかりとか思し召す。必ず後の世にても契り朽ちせず 

  ば、訪ね会ふべきなり。御名残り惜しくこそ候へ。

 とて、

  *花の雲風に散りなば月ひとり残らん後ぞ思ひ置かるる 

(注)人口に余らん=ありあまるほど世間の噂になる。

   孝養=供養。 

   隠さん=葬る。埋葬する。

   さいこく=「月花」では「最期」。「最期」か「先刻」か。

   生生世世=永劫。

   ははちりて・・・=「葉々が散って」と「母が散って(死んで)」を掛ける。

    「花」は「桜の花」と「花みつ」。葉が散って春が過ぎるのは不自然だが、誕

    生を祈願した七日の夢(「花みつ」では岡部の妻、「月花」では岡部も妻も) 

     に花はすぐ散り、青葉もすぐ散ったとある。それが伏線となっているのだろ

    う。「花月」では青葉は散るとまで書かれてはいない。

   類ひなく・・・=はかない花(みつ)よりいつまでもある月(みつ)を頼もしく

    人びとは思うであろう。

   久方の・・・=「久方の」は「天」の枕詞。「梅の花それとも見えずひさかたの

    あまぎる雪のなべて降れれば)古今集・冬334)」。「天霧る」は空が霞み

    渡る。空一面にどんよりと曇る。

   一向とても=「ひたすらどうしても」か。わかりずらい。

   二つかな・・・=命が二つあったなら残した方の命であなたの情けを皆に知らせ

    よう。

   会ふは・・・=「会うは別れの始め」「生は死の始め」という諺。

 

花みつ⑤ー稚児物語3ー

下巻

その1

 しばらくして花みつ殿は、「言い出すにつけても、それぞれのお思いになる事を考えると、恥ずかしくは思いますが、私が今父上に憎まれていることをつくづくと思うと、父の寵愛が月みつに変わった事は無念です。私にとって月みつは仇のようなものです。どうか月みつを討ってはくださいませぬか。私にとってこれこそ何よりもうれしい事です。」とおっしゃるので、二人の法師は茫然として、どうにも返事ができず、困惑に赤面していたのだった。

 その時花みつ殿は、「そうでしょう。初めから御承諾なさらないだろうと思っていましたが、命であっても差し上げましょうと言われたので、大事の事を語り出したのですが、無念のことです。きっと人にも漏らすでしょう。そうすれば山中に噂が広がり、弟を討とう企てした者よと指弾され、父にもまた漏れ聞こえたならば、どのような責めに遭うでしょう。このように打ち明けたならば、とても命を永らえられそうもありません。どこかの川淵へ身を沈めましょう。」と恨み言をいうので、二人は、「まことに我々が引き受けなければどんな事態になるだろうか。こうなったら引き受けるしかあるまい。」と思い、二人は目と目を見合わせ、「こうなったのはまことに月みつ殿がいらっしゃったせいですので、私たちがやすやすと討ち取ったならばその後は、御身も心穏やかで、父君も花みつ殿を大切に思いなさるだしょう。よくぞ御決心なさいました。」と励ますので、花みつは嬉しそうに、「ということは御承諾なされたのですね。きっと思慮のない無茶な事だとお思いになっているだろうと、御心の内を推察しますと恥ずかしい事です。賢才の弟を討って、自分はこの世に生きようとはあさましい心だとは思います。さりながら、恨むべきものを恨まないのは後世の障りとなる、とも申しますので、討ち取った後は亡き跡を弔ってやりましょう。」とおっしゃるので、二人の人は、「それではどのようにしてその人を討つのですか。」と申し上げると、「無慙な事に私はこのように悪心を抱いているが、月みつは弟ではあるが健気で、私が母上と死に別れた後は、ことに睦まじく常に私の部屋にやった来て、様々に慰めてくれました。きっと今宵もやって来るでしょう。その時に私は隠れていて逢わずに帰しましょう。その時に討ちなされば何の問題もございません。」とおっしゃるので、二人の法師は、「まことにもっともな計略です。」と言って、十分に示し合わせて、夜も明けたので面々帰っていった。

 その日が暮れるのはあっという間で、次第に約束の時分になっていったので、二人の法師は打ち刀を脇に隠し持って、花みつ殿の部屋の前にある木陰に立ち隠れて、今や今やと待っていた。

 十六日の事であったので、暮れなずむ夕闇に、月がほのぼのと射して出るころに、十四五歳ほどの稚児が紅の袴をはいて、薄絹を髪にかけて、月を背後にして歩んでいなさる。二人はこれを見て、「ああ、法師の身として人と睦まじくなる事は筋の通らないことだ。花みつ殿に頼まれなければ、これほどに艶やかな稚児を討とうと思うだろうか。そうはいっても花に変えて月を見るように、花みつ殿に変えて月みつ殿をまたも見ては未練が残る。」と思い切って来るのを待っていたが、今や今やと思ううちに、しばし時は過ぎて行った。

その2

 侍従は、「時が過ぎると悲しさも余計募るので、私が走りかかって抱き止めた所を、大夫よ、ただ一太刀に刺し殺しなされ。」と言ってまさに駆け出そうとしたが、余りのつらさにとどまって、その後ろ姿を見ていると、「ひどく露に濡れそぼっている月みつが西の山の端に消えていくのに、その月の光を妨げるように浮雲がかかるごとく討手があろうとは知らないで、死出の道に入りなさりことだ。」といたわしく思える。まことに兄弟であって花みつ殿によく似なさっている事が気の毒で、殺そうとしていたことも忘れて、ただ涙に暮れていた。

 稚児はこのような状況は知らず、しずしずと縁に上がり、蔀に寄り添って、優雅な声で、「もしもし、花みつ殿。」とニ三度呼びなさったが、中からは答える者はいない。稚児は暫く佇んでいなさって、「どこへ行かれたのか。」と独り言ちて帰りなさろうとした所を、大夫が走り寄ってむんずと抱いて押し伏せた。侍従も思い切って、腰の刀をするりと抜いて、肘の関節のあたりを二刀刺して激しく突き捨て、急いで逃げ帰り、「ああ辛いことだなあ。法師の身で稚児を殺すことなど、先にも後にもこれが初めだろう。」と深く嘆息している所に、暫くして、「これはどうしたことだ。月みつ殿が殺されなさった。」と騒ぎが起こって人々が集まっているのを聞き、「我ら二人の仕業であるのに。」とひどく切なく思い聞いている所に、また騒然として言っているのは、「いやこれは花みつ殿ではないか。いかなる者の仕業であろう。」と大声で叫んでいる。大夫・侍従はこれを聞いて、「我々は月みつ殿を討ったというのに、この明るい月夜に見分けることもできないとは愚かな事だ。」としばらく部屋にいたが、「どれほどか大夫・侍従は嘆くであろう。この者たちは影のように身に添っていたのに、今宵に限ってどこへ行ってしまったのだろう。」と口々に言うので、胸騒ぎがして走り出て、「どうしたのですか。」と尋ねると、「いや、花みつ殿を何者だろうか、たった今ここで刺し殺したのだが、別当の御坊へご遺骸を引き取りなさったのだ。」と申したので、余りに不思議で行って見ると、狭い部屋で別当は花みつの頭を膝に載せて、「さあ、十歳の、春の頃から岡部殿からお受けいただいて十六の今に至るまで、三日として里に帰らせずに、慈しみなさっていて、母御前が亡くなっていなさっていたので、法師にしてこの寺を譲り、菩提をも弔わせようと思っていたのだが、どの人の仕業で、この花みつを殺したのか。老い衰えている我を残して先立ちなさるは恨めしいことだよ。」と声も惜しまず泣きなさる。

 月みつ殿も、死んだ兄に取りついて、「どうして花みつ殿、私を一人この世に留め置き、どうなれとどこへお行きなさるのか。今日先立たれて、この先いつの世にか会いましょうぞ。」と悶え恋しがりなさると、大夫も侍従も呆然として何も言うこともできず、死骸の側に寄り添って嘆くばかりであった。

原文

その1

 しばらくありて花みつ殿、「申し出だすにつけて、面々の御心の内恥づかしく侍れども、我今父に憎まるる事をつくづくと思ふに、月みつに思ひ変へられけると思へば無念なり。我がために仇なれば、月みつを討ってたび給へ。これこそ何よりもってうれしく侍らん。」とのたまへば、二人の法師あきれ果て、とかくの御返事も申さず、赤面してこそ居たりけれ。

 その時花みつ殿、「されば初めより頼まれ給はじとは思ひつれども、命なりとも給はらんと聞こえしにより、大事の事を語り出だして口惜しさよ。定めて人にも漏らし給ふべし。さあらば一山のうちにも聞こえ、弟を討たんと企みたる者よと指を指され、父にもまた漏れ聞こえなば、いかなる責めにか遭ふべき。かく申す上は、とても命を永らへんとも思はず。いかなる淵川身を沈めん。」と恨み給へば、二人思ふやう、「げにも頼まれずはいかなる事か出来なん。所詮頼まれ申さではかなはじ。」と思ひ、二人目と目を見合はせ、「これはまことに月みつ殿のおはします故なれば、やすやすと討ちて後は御身も心安く、父も大切に思ひ給ふべし。よくも思ひ立ち給ふかな。」と*勇めければ、花みつうれしげにて、「さては頼まれ給ふべきや。さこそ不得心なるものと思し召し候はんと、御心の内の*恥づかしさよ。*けんさいの弟を討ちて、我が世にあらんと思ふ心のあさましさよ。さりながら、恨むべきものを*恨みねば、後の世の障りとなると申し候へば、討ち取って後は、跡をば訪ふてとらすべし。」とのたまへば、二人の人、「さていかにしてかの人を討つべき。」と申しければ、「無慙やな。我こそかかる悪心を差しはさめ、月みつは弟なれども頼もしく、我が母上に別れし後は、ことさら睦まじく、常に我が部屋へ訪ね来たり、色々慰め申すなり。さだめて今宵も来たるべし。その時我は隠れ居て会はで返へさん所を討ち給はば、何の子細のあるべき。」とのたまへば、二人の法師、「げにもっともの謀(はかりごと)なり。」とて、よくよく示し合せ、夜も明けければ面々に帰りけり。

 その日の暮るるは*刹那のほどにて、やうやう約束の時分にもなりしかば、二人の法師用意しける*打ち刀脇に*かいこうて、花みつ殿の部屋の前なる木陰に立ち隠れ、今や今やと待ち居たり。

 十六日のことなれば、たそがれ惑ふ夕闇に、月は山の端よりほのぼのと射し出でけるに、十四五ばかりの児の紅の袴を着て、*薄絹髪にかけ、月を後ろにして歩み給ふ。二人これを見て、「あはれ、法師の身として人に睦ましきはあやなき事ぞかし。花みつ殿に頼まれずば、かくまで艶やかなる児を討たんと思ふべきや。されども、花には代えし月の影、またも見るこそ名残りなれ」と、思ひ切ってぞ待ちけるが、今や今やと思ふうちに、暫く時をぞ移しける。

(注)勇め=励ます。元気づける。「諫める」とひらがなで書くと同じなので混乱す

    る。

   恥ずかしさ=立派さ。感心である。

   けんさい=「現在」もしくは「健在」「賢才」か。

   恨みねば=恨まないならば。「恨む」は下二段活用で、「恨み」は未然形。

   刹那の程=あっという間。

   打ち刀=相手に内当てて切ることを目的とした刀。刺すことを目的とした腰刀よ

    りも刃渡りが長い。鍔刀。

   かいこうて=「掻き籠うて」か。包み隠しもって。

   たそがれ惑ふ=「暮れなずむ」の意か。用例が見つからない。

   薄絹・・・=ヴェールをかけて月光を背にするのは、自身が花みつと悟られない

    ための演出。「花月」「月花」では顔がはっきりとわかり、花みつかと思う

    が、稚児が花みつの部屋を叩き、留守だと思って帰るという演技をしたので、

    「これは花みつではなく、花みつを訪れたつきみつだろう。」と判断した、と

    いう設定である。「花みつ」の方が、月を背後にヴェールをかけている効果が

    表れているように思う。

その2

 侍従言ひけるは、「時の移るも悲しければ、某走りかかり抱き止めん所を、ただ一刀に刺し殺し給へ。」とて、すでに走りかかりけるが、あまりに情けなさに、御後ろ影を見るに、「いとど露けき月みつの、消えゆく西の山端の、思はぬ方に*浮雲のかかるべしとは知らざるに、*無常の道に入り給ふ。」といたはしく見るよりも、げにも兄弟とて、花みつ殿の後ろ影によく似給へる事のいとほしさに、殺さん事をうち忘れ、ただ涙に暮れてぞ居たりける。

 児はかくとも知らず、しずしずと縁に上がり、蔀(しとみ)に立ち添ひて優しき声にて、「なふ花みつ殿。」と二つ三つと呼び給へども、内より応ふる者もなし。しばし佇み給ひ、「いづかたへか行かせ給ふ。」と独り言して、帰り給はんとし給ふ所を、*大夫走り寄りむずと抱いて押し伏せたり。侍従も思ひ切りたりとて、腰の刀をするりと抜き、*肘の懸りを二刀刺して、かつぱと突き捨て急ぎ走り帰り、「あはれ、物憂きことどもかな。法師の身にて児を殺す例(ためし)昔も今もこれや初めならん。」と大息をつきて居たる所に、しばしありて、「こはいかに、月みつ殿の殺され給ふ。」と騒ぎ立って、人々集まりけるを聞き、「我ら二人が業なるものを。」といとどあはれに聞きける所に、また騒ぎ立つと言ひけるは、「いやこれは、花みつ殿にてありけるにや。いかなる者の仕業なるらん。」と呼ばはりければ、大夫・侍従これを聞き、「我らは月みつ殿をこそ討ちたるに、この月の夜に見定めぬ人々こそ愚かなれ。」と暫く部屋にありけるが、「いかに大夫・侍従が嘆かんずらん。この者どもは影身に添ふてありきしに、今宵しもいづくへか行きぬらん。」と口々に言ひければ、胸うち騒ぎ走り出で、「さていかに。」と問ひければ、「いや花みつ殿を何者やらん、ただ今ここにて刺し殺しぬるを、別当の御坊へ御死骸をとり給ひし。」と申しければ、あまり不思議さに行き見れば、一間所にて別当の膝に載せ、「さても十歳の春の頃より、岡部殿に請ひ受け十六の今に至るまで、三日とも里に置かずして、愛ほしみ奉りしも、母御前のなき人なれば、法師になしてこの寺を譲り、亡き跡をも弔れんと思ひしに、いかなる人の仕業とて、この花みつを殺しけるぞや。老い衰へたる我を残し先立ち給ふ。恨めしや。」と声も惜しまず泣き給ふ。

 月みつ殿も死したるおに(兄)に取りつきて、「いかに花みつ殿、我を一人留め置き、何となれとていづくへか、行かせ給ふぞや。今日遅れ初め、またいつの世にかは会ふべき。」と悶へ焦がれ給へば、大夫も侍従もあきれ果て、とかくの事も言はずして、御死骸の側に寄り、嘆くより他の事ぞなき。

(注)浮雲のかかるべし=月の光を妨げるように妨害するもの。月みつを殺そうとする

    者の比喩か。

   無常の道=死出の道。

   大夫・・・=打合せでは侍従が抱き止めて大夫が刺すことになっていたはずで、

    侍従が逡巡していたから、大夫が先に走り出したのか。両者を書くのに大夫が

    先になっているので、大夫の方が年長か。

   肘の懸り=肘の関節。