religionsloveの日記

室町物語です。

不老不死⑤-異郷譚2ー

下 その二

 また秦の始皇帝は徐福という仙人にお命じになって、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせなさいましたが、海は漫々として雲の波煙の波が立ちこめて影さえ見えませんでした.。風に任せ舟に任せて行きますと、南の海の中にひとつの山を見つけたのですが、蛟竜に舟は取り付かれて、思い通りに行くことはできませんでした。始皇帝はこのことを怒って連弩の石弓で蛟竜を撃ち殺しなさいました。しかし徐福はさらにその先に行くことはできず、日本の紀伊の国熊野の浦に逃げ来たと語り伝えられています。

 その後また漢の武帝と申した帝は、道士の五利文成という者に会って、不老不死の薬を求めなさいましたが、五利文世が申すには、「これより西にある大きな山(崑崙山)の内に仙人がおります。西王母といいます。この仙人はよく長生不老の方術をもって薬を服用し、容貌は衰えず年齢は傾きません。寿命は長く保って終わりが尽きて死ぬことはありません。この仙人を召して伝授してもらって学ばれたらいかがですか。」と。「それならどのようにして呼びよせたらよいのだろうか。」と武帝はおっしゃいます。五利文成は、「新しく御殿を建てて室内に錦の褥を敷いて、七宝の机に百味の食を供えて、帝は御身を慎み物忌みなさってお待ちなさいませ。それがしが行って帝の宣旨を申し入れてお迎え申し上げましょう。」と申します。武帝は早速五利文世の言葉の通りに、御殿を建てて供え物を用意してお待ちなさいました。こうして物忌みの七日目の午の刻に、虚空の間に五色の雲がたなびいて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類が雲に従って翔けてきました。雲の内には音楽が聞こえ、よい香が薫り西王母が天から下って来臨なさいました。仙女十余人がお供を手に手に捧げているもののうちから、自分の園から採れた桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に献上しました。帝は、「このような大きな素晴らしい桃は私の園では名前も聞いたことがない。この桃を植えさせてもらいましょう。」とおっしゃいました。西王母は、「この桃は人間の食すべき物ではございません。なぜなら、地に植えて後三千年で芽を出し、その後三千年で花を開き、更に三千年で実を結ぶのです。ですから九千年を経過しないとこの桃はならないのですから、人は食べたいといっても叶うことはできません。でもこの桃は私の住む所の園にはございます。桃をひとつを食せば三千年のを寿命を保ちます。それとは別に長生不死の薬を帝にお教えいたしましょう。」と答えなさって、自ら秘かに伝授いたしまして、三日三晩宴を催されて後、西王母は雲に乗って自分の住む山に帰りなさいました。武帝の臣下に東方朔という者がいましたが、こっそりこの事を立ち聞きして、その西王母の園の桃を盗み取って、三つまで食べてしまいました。残る四つの桃もどこへ持ち去ったのでしょうか、行方知らずとなりました。このようなわけで桃を三つ食べた東方朔は九千年まで命を保ったということです。武帝は不死の薬を嘗めて、常に仙人と交わりながら、天下を治めなさったのですが、御子の宣帝に御代を譲りなさって、五柞宮という御殿で天上にお上りになったということです。

原文

 *また秦の始皇は徐福といふ仙人に仰せて、蓬莱山の不老不死の薬を求めさせ給ひしに、海漫々として雲の波煙の波立ち迷ふて*ほとりもなかりしを、風に任せ舟に任せて行きけるに、南の海の中にひとつの山を見つけたりけれども、鮫竜(蛟竜)といふものに舟を領せられて、心のままに行くことのなかりければ、*始皇このことを怒りて連弩の石弓にて鮫竜を撃ち殺し給ひけり。しかれども徐福は猶行き着くことのかなはずして、日本紀伊の国熊野の浦に逃げ来たり侍るとかや云ひ伝へし。

(注)また・・・=徐福の話は「蓬莱物語」に比べてさっぱりとしている。「不老不

    死」が「蓬莱物語」を参照して、話題がかぶらないようにしたのかもしれな

    い。重複する部分は少ない。

   ほとり=端の影という意味か。

   始皇=怒ったのは始皇帝ではなくて徐福だと思うのだが。

 その後また漢の武帝と申せし帝は、道士に*五利文成と云ふ者に会ふて、不老不死の薬を求め給ひしに、五利文世申すやう、「これより西にあたつて太山の内に仙人あり。*西王母と名づく。この仙人はよく長生不老の方術をもつて薬を服し、容貌衰へず齢傾かず。命長く保ちて終はり尽くることなし。願はくはこの仙人を召して伝へ学び給へかし。」と申す。「さらばいかにして呼び近づくべきや。」とのたまふ。五利文成申すやう、「新しく御殿を建てて内に錦の褥を敷き、七宝の机に百味の食を供へ、帝の御身を慎み物忌みし給ひて待ち給ふべし。それがし行きて帝の宣旨を申し入れて迎へ奉らん。」と申す。帝すなはち五利文世の言葉のごとく、御殿を建て供へ物を調へて相待ち給ふ。かくて御物忌み七日と申す午の刻に、虚空の間に五色の雲たなびきて鸞鳥・孔雀その外山鳥の類雲に従ひて飛び翔ける。雲の内には音楽聞こえ、異香(いきやう)薫じて西王母天下り来たり給ふ。*仙子十余人御伴して手に手に捧ぐるその中に、園の桃七つを瑠璃の鉢に積み上げて、これを帝に捧げたり。帝のたまひけるやうは、「かかる大なるめでたき桃は我が園には名をも聞かず。この桃を植え侍らん。」とのたまふ。西王母答へて申すやう、「この桃は人間の食すべき物にあらず。その故は、地に植えて後三千年に生ひ出で、三千年にして花を開き、三千年にして実を結ぶなり。されば九千年を経ざればこの桃なること侍らねば、人さらに食すること叶ひ難し。さてこの桃は我が住む所の園にあり。桃ひとつを食すれば三千年を保つなり。また長生不死の薬をば帝に教へ奉るべし。」とて、自ら秘かに伝へ奉り、三日三夜の御遊ありて西王母は雲に乗りて我が住む山に帰り給ふ。武帝の臣下に*東方朔と云ふ者秘かにこの事を立ち聞きつつ、かの西王母が園の桃を盗み取りて、その数三つまで喰らひけり。残る四つの桃もいづちにか取り去りぬらん、行く方なし。この故に桃を三つまで喰らひければ、東方朔は九千年まで命を保ち侍りけり。武帝は不死の薬をなべて(嘗めて)常に仙人に交はりつつ、天下を治め給ひけるが、御子の宣帝に御代を譲り給ひて、*五柞宮といふ御殿より天上に上らせ給ひけり。

(注)五利文世=五利将軍は欒大とい道士。文世将軍は少翁という道士。ともに漢の武

    帝に用いられた。本文では一人の人物として扱っている。「史記」「漢書

    「資治通鑑」などに見える。

   西王母=仙女。西方の崑崙山に住むという。「太山(泰山)」は別の山だが大き

    な山という一般名詞として使っているのか。

   仙子=仙人。仙女。

   東方朔=武帝時代の政治家。仙格化されている。

   五柞宮=武帝離宮武帝はここで没した。死んだことも行きて天上に上ったと

    いえば不死ということになる。詭弁に思えるが。