religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について①ー

蹇驢嘶餘とは

 群書類従雑部45巻第490に「蹇驢嘶餘」という書籍が収められています。書中にある人名から室町末葉から戦国時代に入る頃の随録と推定されています。蹇驢とは足の萎えたロバ、嘶餘とは余計な嘶きとの事でしょう。「取るに足りない者のつぶやき」というへりくだった書名のようです。内容は僧職・服装・織物糸等について書かれ、個人的な備忘というより正しい知識を読む人に伝えようとしたもののようです。「愚かな私が書き残すこととですが、僧職やそれに応じた服装など誤りなきようお心得ください。」といったメッセージが込められているのかもしれません。作者は不祥ですが、比叡山関係者で上記の知識に造詣の深い方なのでしょう。梶井門跡と関係が深い方のようです。

 誤りを正す意図があったとすれば、当時にも従来のルールに反する服装や作法をしている者がいたということでしょう。特に身分序列を弁えずに不相応な振る舞いをする事への抵抗感が執筆動機の根底にあったのでしょうか。

 「稚児物語」に登場する稚児やそれに従う童子はある一定のイメージの元に描かれています。もちろん個々の物語で独自のキャラクターは発揮しますが、稚児で言えば眉目秀麗、仏法はもちろん詩歌管弦にも秀で、多くの者の羨望と時には権力者の嫉妬を受けます。意志の強さを見せる場合もありますが、基本はかなきか弱き存在です。扈従するのは中童子でしょうが、主君と乳母子のような関係です。このような物語中の関係性は現実社会を投影しているのだろうな、と思いながらある時、群書類従を繰っていると「蹇驢嘶餘」に稚児(児)眉のと御童子眉の違いを記す部分がありました。八の字眉の絵だから目立ったのですが。稚児について詳しく述べているのかなあと思って、丁寧に読んでみようと思いました。

 私は寺院制度や寺院文化の研究者ではありませんので、読んでいても今ひとつわからない所が多いのですが、どうも身分関係はかなり厳格で、その厳格さは童形(稚児・童子)についても同様らしいのです。もちろん厳格に守られていないから嘶いているのでしょうが。

 読んでみても、だから何?という事になるのかもしれませんが、とにかく読みます。

 本文は二十年以上前に複写した山梨大学国文学教室蔵の群書類従の活字本をテキストとしましたが、改めてパソコンで検索すると、国文学研究資料館の電子資料館の新日本古典籍データベースでは高知城歴博山内文庫の「蹇驢嘶餘」の写本が画像で見られるのですね。すごい時代になりました。影印本が自宅でただで見られるとは。これから先を読んでみたいと思う方は「蹇驢嘶餘 国文学研究資料館」で検索して本文を参照しながら見るといいと思います。活字本をテキストにしましたが、読み比べて山内文庫の方が適当と思われた所は、適宜改めました。

内容1

 本文は、一、・・・という形で箇条書きの様々なことが書き留められています。大きい見出し語のような部分と小さな字で大字一行分に二行で割り注のように書かれた部分があります。電子資料館でご覧ください。

 まず白河法皇の住居であった法勝寺住持の法衣について、聖道衣であったのが、後醍醐天皇が円観(本文では慈威和尚、諱恵鎮。でもウィキペディアでは円観が見出し語です。)に再興させた時から律衣となったようです。円観を戒師として後醍醐天皇が授戒して以来「紫衣御免」となったとあります。法勝寺は現在は廃寺ですが1535年(天文4年)には法要が行われていたようで、1590年(天正18年)に勅命によって西教寺に併合されて廃寺になったようなので、もう少しお寺が元気な時の記述なのでしょう。それとも廃寺同然に零落しつつある法勝寺が、人々に忘れ去られつつあるのに対して忘れちゃいけないよ、との意味で書き記したのでしょうか。住持の法衣にこだわっています。ランクは下から聖道衣・律衣・紫衣の順でしょう。紫衣は勅許がなければ着られない法衣(袈裟と言ってはいけないのかな)ですね。法勝寺は権威あるお寺です。

 次に叡山十六谷を、東塔・西塔・横川の順に列挙します。さらに別所として五寺を隠遁地として黒谷(法然上人ゆかり)安楽院(恵心僧都ゆかり)などを挙げてています。その割り注に「律衣」「黒衣」「黒衣ハリ衣」とあるのはそれぞれの住持の法衣のランクでしょうか。

 次は 、(a)出世以下の地位と(b)山門三門の門跡以下の序列を記します。

 (a)では

 一 ①出世。院号。公家。或公家養子。②坊官。坊号妻帯。③侍法師。国名妻帯。④御承仕。持仏堂ヲ司ル。妻帯出家随意。⑤御格勤。御膳ヲ調也。⑥下僧。下法師也。

 となっています。 高い順に列挙しているのでしょう。出世者は公家あるいはその養子で「ナントカ院」と呼ばれたみたいです。坊官は「ナントカ坊」と呼ばれたのですね。妻帯者みたいですね。出世と同位かそのちょっと下なのでしょうが、公然と妻帯していたのです。その下の侍法師も妻帯で「相模法師」とか「伊予法師」とか国名で呼ばれていたのでしょう。「松帆物語」という稚児物語に登場した伊予法師はこの侍法師のランクだったのでしょう。御承仕、御格勤は職掌ですが、承仕は出家僧でも妻帯でもどちらでもいいようです。③④⑤に身分差があるのかはわかりませんが、下僧の上にあるので中僧(中間法師)かと思います。侍法師は上僧かも。ところで妻帯の僧はどこに奥さんを住ませていたのでしょうね。さすがに山には置けないので夜な夜な山を下ったのでしょうか。親鸞聖人は叡山から百夜京都の六角堂に参籠したといいますが、その宗教的情熱に匹敵するくらいの情熱で妻帯したのでしょうか。

 (b)では、

 一 ①山門三門跡。②脇門跡。③院家。④出世清僧。⑤坊官。妻帯。同位或有諍。⑥侍法師。山徒。衆徒。同位也。

 となっています。出世と坊官は同位なのでしょうか。「諍」は活字本では「浄」なのですが、山内文庫の影印では「諍」になっていて、出世と坊官は身分は同じであるが仲が悪いととれます。

 身分の上下と妻帯か清僧かは留意すべき事だったようです。

 次に庁務(門跡家の坊官)、候人(門跡家の侍法師)について述べています。これも身分の違いを明らかにすることが主眼でしょう。上か中かそうでなくても微妙な違いがあったのでしょう。庁務と候人は違うぞ、という感じです。

 次は三綱について、三網とは寺院の雑務を処理する役職で、それは院家ではなくて、その下の出世・坊官などの寺家が多く務めるといいます。でもその下の中僧はなれないのでしょうね。

 「堂衆承仕中方ノナル」と続きます。中方(中僧)は三綱にはなれず、堂衆承仕までなのかな。下法師は役公人だそうです。これらはそれぞれの堂で任命していいようですが、三綱は補任(誰が任命するのでしょうか)だそうです。ちょっとわからない用語が出てきます。

 次いで張衣(はりぎぬ)について。「張衣」はつやのある布で仕立てた衣ですが、「晴れ着」に近いニュアンスでしょうか。門跡は香色(黄色味をおびた赤)の絹を着て、平人は布(絹以外のもの)を着ると書きます。

 更に、東塔西塔は事務長のような役を(多分)執行というが、横川では別当といい、名誉職として老僧が務めるが、実務役は若い衆徒が務めると書きます。衆徒は中僧でしょう。

 「右貫全語之」とあります。最初からここまでか、途中からかはわかりませんが、貫全から聞いたことだとあるのです。貫全さんは後で触れますが、筆者と親しい年長の方だと推察されます。二人の興味は身分やそれに伴う衣装など、今の叡山の衆徒の誤謬だったのではないでしょうか。(読み進めるとこの辺の認識がぶれてきますが。)

 童形についてさくっと読んでみようと思ったのですが、細かいところが気になってきます。思ったより長くなりそうです。何回かに分けて報告します。