religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について全ー

蹇驢嘶餘とは

 群書類従雑部45巻第490に「蹇驢嘶餘」が収められています。

 「蹇驢」とはロバ、「嘶餘」はいななき。取るに足りない者のつぶやき、という意味でしょうか。室町末期から安土時代ごろの有職所実の随筆です。作者は未詳ですが、文中の言全という人かその周辺の人のようです。

 中古・中世の稚児・童子を明らかにするにはやや時代が下る資料ですが、興味深い記述もありますので取り上げて検討したいと思います。

 本文は二十年以上前に複写した山梨大学国文学教室蔵の群書類従の活字本をテキストとしましたが、改めてパソコンで検索すると、国文学研究資料館の電子資料館の新日本古典籍データベースでは高知城歴博山内文庫の「蹇驢嘶餘」の写本が画像で見られるのですね。すごい時代になりました。影印本が自宅でただで見られるとは。これから先を読んでみたいと思う方は「蹇驢嘶餘 国文学研究資料館」で検索して本文を参照しながら見るといいと思います。活字本をテキストにしましたが、読み比べて山内文庫の方が適当と思われた所は、適宜改めました。

その1

 本文は、一、・・・という形で箇条書きの様々なことが書き留められています。大きい見出し語のような部分と小さな字で大字一行分に二行で割り注のように書かれた部分があります。電子資料館でご覧ください。

 まず白河法皇の住居であった法勝寺住持の法衣について、聖道衣であったのが、後醍醐天皇が円観(本文では慈威和尚、諱恵鎮。でもウィキペディアでは円観が見出し語です。)に再興させた時から律衣となったようです。円観を戒師として後醍醐天皇が授戒して以来「紫衣御免」となったとあります。法勝寺は現在は廃寺ですが1535年(天文4年)には法要が行われていたようで、1590年(天正18年)に勅命によって西教寺に併合されて廃寺になったようなので、もう少しお寺が元気な時の記述なのでしょう。それとも廃寺同然に零落しつつある法勝寺が、人々に忘れ去られつつあるのに対して忘れちゃいけないよ、との意味で書き記したのでしょうか。住持の法衣にこだわっています。ランクは下から聖道衣・律衣・紫衣の順でしょう。紫衣は勅許がなければ着られない法衣(袈裟と言ってはいけないのかな)ですね。法勝寺は権威あるお寺です。

 次に叡山十六谷を、東塔・西塔・横川の順に列挙します。さらに別所として五寺を隠遁地として黒谷(法然上人ゆかり)安楽院(恵心僧都ゆかり)などを挙げてています。その割り注に「律衣」「黒衣」「黒衣ハリ衣」とあるのはそれぞれの住持の法衣のランクでしょうか。

 次は 、(a)出世以下の地位と(b)山門三門の門跡以下の序列を記します。

 (a)では

 一 ①出世。院号。公家。或公家養子。②坊官。坊号妻帯。③侍法師。国名妻帯。④御承仕。持仏堂ヲ司ル。妻帯出家随意。⑤御格勤。御膳ヲ調也。⑥下僧。下法師也。

 となっています。 高い順に列挙しているのでしょう。出世者は公家あるいはその養子で「ナントカ院」と呼ばれたみたいです。坊官は「ナントカ坊」と呼ばれたのですね。妻帯者みたいですね。出世と同位かそのちょっと下なのでしょうが、公然と妻帯していたのです。その下の侍法師も妻帯で「相模法師」とか「伊予法師」とか国名で呼ばれていたのでしょう。「松帆物語」という稚児物語に登場した伊予法師はこの侍法師のランクだったのでしょう。御承仕、御格勤は職掌ですが、承仕は出家僧でも妻帯でもどちらでもいいようです。③④⑤に身分差があるのかはわかりませんが、下僧の上にあるので中僧(中間法師)かと思います。侍法師は上僧かも。ところで妻帯の僧はどこに奥さんを住ませていたのでしょうね。さすがに山には置けないので夜な夜な山を下ったのでしょうか。親鸞聖人は叡山から百夜京都の六角堂に参籠したといいますが、その宗教的情熱に匹敵するくらいの情熱で妻帯したのでしょうか。

 (b)では、

 一 ①山門三門跡。②脇門跡。③院家。④出世清僧。⑤坊官。妻帯。同位或有諍。⑥侍法師。山徒。衆徒。同位也。

 となっています。出世と坊官は同位なのでしょうか。「諍」は活字本では「浄」なのですが、山内文庫の影印では「諍」になっていて、出世と坊官は身分は同じであるが仲が悪いととれます。

 身分の上下と妻帯か清僧かは留意すべき事だったようです。

 次に庁務(門跡家の坊官)、候人(門跡家の侍法師)について述べています。これも身分の違いを明らかにすることが主眼でしょう。上か中かそうでなくても微妙な違いがあったのでしょう。庁務と候人は違うぞ、という感じです。

 次は三綱について、三網とは寺院の雑務を処理する役職で、それは院家ではなくて、その下の出世・坊官などの寺家が多く務めるといいます。でもその下の中僧はなれないのでしょうね。

 「堂衆承仕中方ノナル」と続きます。中方(中僧)は三綱にはなれず、堂衆承仕までなのかな。下法師は役公人だそうです。これらはそれぞれの堂で任命していいようですが、三綱は補任(誰が任命するのでしょうか)だそうです。ちょっとわからない用語が出てきます。

 次いで張衣(はりぎぬ)について。「張衣」はつやのある布で仕立てた衣ですが、「晴れ着」に近いニュアンスでしょうか。門跡は香色(黄色味をおびた赤)の絹を着て、平人は布(絹以外のもの)を着ると書きます。

 更に、東塔西塔は事務長のような役を(多分)執行というが、横川では別当といい、名誉職として老僧が務めるが、実務役は若い衆徒が務めると書きます。衆徒は中僧でしょう。

 「右貫全語之」とあります。最初からここまでか、途中からかはわかりませんが、貫全から聞いたことだとあるのです。貫全さんは後で触れますが、筆者と親しい年長の方だと推察されます。二人の興味は身分やそれに伴う衣装など、今の叡山の衆徒の誤謬だったのではないでしょうか。(読み進めるとこの辺の認識がぶれてきますが。)

 童形についてさくっと読んでみようと思ったのですが、細かいところが気になってきます。思ったより長くなりそうです。

その2

 右貫全話之。

 と書かれた続きを読みます。ここからは筆者自身の知識でしょうか。まず山王七社について言及します。上中下七社で合計二十一社あるのですが、その上七社についてです。

 次にその七座の公人(雑役)として中方(中間僧)では無職の衆徒、法会の時先達をする維那、男(俗人?)の鑰取(かいどり=鍵の管理者)、下法師の出納・庫主・政所・専当(執当の補助役)を列挙します。

 執当が輿の先導をする引きか、次に門跡の輿舁きについて述べます。八瀬童子が十二人の結いを単位として、その人数とか屋根なしの坂輿とか、細かい規定があります。牛車の場合は八瀬童子ではなく牛飼いを使います。輿とは人力の駕籠で、八瀬村の住民がその専門職だったみたいです。童子とはいっても大人ですから皆が常時童形をしていたかはわかりません。牛車を牽く牛飼いは、活字本では「菊童以下」となっていますが、山内文庫影印本では、菊に読めない字です。「ナントカ童」以下で、それは八瀬童子以下の身分だったのでしょう。

 次に地位の序列が書かれています。似たような序列が出てくるのは三回目ですが、貫全さんの言ではなく、筆者のまとめ直しでしょうか。

 一 ①三門跡。②脇門跡。③院家。④清僧出世院号権大僧都法印官位共ニ極ルナリ。御持仏堂ノ法事ヲ勤也。堂上の息。或ハ養子ナリ。妻帯坊官歯黒。坊号公名叙位不任官也。御門主ニ奉公給仕スル也。出世等輩也。不禁四足二足類。以下輩同ジ。児ノ時水干。同(妻帯)侍法師。同(歯黒)国名叙位不任官也。児ノ時長絹。坊号ヲモ付ナリ。⑦御承仕。名乗也。慶信慶光ナド云ナリ。御持仏堂事ヲ司也。荘厳ヲ仕。仏具ノ取沙汰アルナリ。幼時御童子也。国名ヲモ付。又名乗之外。金光。金祐。金党。真宗。真光。真党ト云付ナリ。⑧御格勤。同。⑨下僧。下法師也。浄衣肩絹袴。幼名必有異名。

 貫全の話とそれほど齟齬はなさそうですが、いくつかの情報が追加されています。御承仕は貫全の話だと「妻帯出家随意」となっていますが、この部分では妻帯にくくられています。

 出世は院号権大僧都・法印が官位共に極(きわめ)る、と読めます。そこが昇進の頂点でしょうか。それに対して、坊官は「公名叙位」は「不任官」なようです。よくわかりませんが、権大僧都とか法印(後に述べる地下家伝では江戸時代には法印が極位のようですが。)とかには任ぜられないのでしょう。でも出世と「等輩」なのですね。お歯黒をしていたようです。お歯黒はどのような社会的記号だったのでしょうか。江戸時代には成人女性もしくは既婚の女性を意味する記号であったようですが、それ以前には公家や武士の男性もしていたようです。わざわざ坊官でそれに触れているという事は多分清僧の出世はお歯黒をしていないのでしょう。四足(獣肉)二足(鳥肉)も禁じられていません。これでは俗人とあまり変わらないような気がしますが。侍法師も国号で呼ばれるようですが、坊号も付くようで、坊官に準じたポジションのようです。

 御承仕・御格勤は、坊官や侍法師とは位が異なるようです。「名乗也」と書かれていますが、「名乗」がよくわかりません。成人名として誰かに付けてもらったのでしょうか。自ら名乗ったのでしょうか。また名乗以外にも別の呼称があったようです。あくまでも印象ですが、名乗の「慶信」「慶光」よりも別名の「金光」「金祐」などの方が「金光丸」「金祐丸」といった呼び名として使えそうな気がします。かしこまった名前と、通称なのでしょうか。

 出自について注目してみましょう。出世は(そしてそれ以上は)清僧ですから世襲はありません。出自は堂上の公家ですね。養子もありというのがひっかかりますが、これぞと見込んだ優秀な子供は、身分が低くてもいったん公家の養子になるという形で出世になれたのかもしれません。坊官・侍法師は世襲が可能な人たちですね。これらの人は幼時は「児(稚児)」であったようです。ところが坊官になる稚児は「水干」を着ていて、侍法師になる稚児は「長絹」を着ている、とあります。同じ稚児姿でも用いる衣装が違ったようです。

 ところが、御承仕・御格勤は幼時は御童子なのです。児(稚児)とは表現されません。児と御童子は区別されます。ただ他の文書に見える「法会の時の童子」は身分というより役割なので事情は違います。また、固定化された身分としての児・童子ではなく本来の意味での「こども」として使われることもありますから、「児・童子」はその場に応じて解釈しないといけませんね。ここでは出自によってランクにはっきり差をつけているようです。さらに下僧となると御童子でもありません。「幼名必有異名」とは子供時代には別の名前で呼ばれていた、ということでしょう。「ナントカ丸」とは呼ばれていても御童子ではないのですね。

 子供だから誰でも「児(稚児)」、誰でも「童子」という訳ではなさそうです。そのような視点から「稚児物語」を読んでみると、別の側面が見えてきそうです。稚児は別格なのです。もう稚児というだけで扱われ方が格段に違います。稚児が僧を慕って寺を抜け出したり、よんどころなく旅をしたりしても、行く先々で懇ろに扱われます。

 次いで、法印・法眼、は大納言以上の子息が順序を経ないで直叙されること、妻帯僧も功績や家柄によって僧正・法印まで栄達する事、三綱・堂衆・公人・山徒法師ならびに中方妻帯衆は、獣肉鳥肉は食べてはいけないが魚は食べていいと書かれています。あれっ?さっき坊官以下の妻帯は肉食OKじゃなかったっけ?次に衆徒は清僧で、権大僧都・法印が極で僧正になることは稀だと、平民も徳によって任じられるそうで、東寺にその例が多いと書かれます。あちこち話が飛びます。随録とはそのようなものでしょう。

 なんとなく比叡山の人的構成がわかってきた気がします。

その3

 次いで梶井門跡について詳しく書かれています。門跡はその1,その2でも比叡山ヒエラルキーの最上位に位置付けられます。この門跡とは皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺家・院家で、山門(比叡山)では、円融(梶井)院(三千院とも)・青蓮院・妙法院がそれに当たります。

 一 梶井殿尭胤親王。東塔南谷円融房。御住山御登山已後。一生不被下山也。坊官五日ノ番オハリテ下山仕ル。次ノ番未登山衆徒ニハ。被居間敷由被仰。御膳不参也。執当貫全ヲ。坂本召ニ人ヲ下ス。夜半ノ時節登山。御膳ヲ進也。

 筆者の執筆時もしくはそのちょっと前の梶井門跡は尭胤親王のようです。東塔の南谷円融房が居所なのでしょうか。梶井殿は生前は院号がないそうで、「円融院」とか「梶井院」とかは言わないようで、入滅あるいは隠居後に院号は贈られるそうです。その尭胤親王ですが、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。その尭胤法親王のエピソードが記されています。尭胤親王は登山以後一生山を下りなかったようです。という事は没後に書いたのか、それとも現時点での話なのか・・・ある時、陪膳係の坊官が五日間の当番を終えて下山したのに次の当番がまだ上ってこなかった。しかし親王は衆徒に陪膳させて食べようとはしませんでした。衆徒は坊官よりワンランク落ち、侍法師と同等です。門跡の陪膳は坊官の役と決まっていたようです。そこで人をして麓の坂本にいた執当の貫全を呼び寄せ、貫全が夜半に登山してから御膳を召し上がったとか。貫全ってその1であれこれ語った人ですね。執当は三綱(上座・寺主・都維那)が輪番で務めたようです。坊官クラスです。これはどんな意味のお話なのでしょう。尭胤親王が気難しい方だった?そうではなくて、このような作法は厳格に守られるべきだ、との意味でしょうね。たとえ真夜中まで門跡がお預けを食っても。逆に現状そういうことがいい加減になっていたのでしょう。それともこれほどまでに貫全は親王のお気に入りだったよ、という自慢話なのでしょうか。応仁の乱が1467年~1477年。室町時代から戦国時代にかかろうという時です。筆者は仲のいい貫全とこのような事を語り合っていたのでしょうか。

 その次に梶井殿の御膳の食器について記されます。それは省略します・

 次に寺家について。

 一 猪熊ノ寺家。梶井ノ寺家。此一族多シ。ミナ山門ノ執当ニ任ズル家也。猪熊今ハ断絶。梶井寺家イニシヘハ清僧也。貫全マデ八代(貫全マデハ代々:山内文庫本)妻帯也。当門跡ニ随ナリ。但梶井殿家来也。

 この貫全は梶井寺家の者で、猪熊寺家とともに山門の執当に任ぜられる家だったようです。猪熊寺家は廃絶してしまったのですか、もともと清僧だった梶井寺家は貫全の八代前(山内文庫本では単に代々。漢数字の「八」かたかなの「ハ」は分かりづらいらいですね。)から妻帯し梶井門跡の家来だったようです。尭胤親王(当門跡)に随ってはいますが、梶井殿に来る親王がどのような皇族かは決まっていないで、親王の家来というのではなくて、梶井殿(円融院・三千院)に由来する一族なのですね。

 固有名詞はやっかいなもので、私はこの「寺家」を「院家」より寺格の落ちる寺を指す一般名詞だと思っていました。ところが、ここでの「寺家」はそうではなくて、「寺家」という姓のようです。「猪熊系の寺家さん、梶井系の寺家さんなど、寺家一族は結構いるよ、猪熊の寺家さんは断絶したけどね。」と解釈できてすっとしました。「地下家伝」という江戸時代後期の天保年間に成立した地下官人諸家の系図をまとめた書物があります。このご時世(コロナ禍)で図書館に行って調べるという事はできないのですが、ウィキペディアによると、「地下家の一覧」の諸門跡坊官等の項に、梶井宮(院ではないところは蹇驢嘶餘の院号を持たない、という記述と合っています。)坊官として、「寺家家」がありました。本姓(藤原氏とか源氏とか)を持たず、初叙は「法橋」で極位は「法印」とあります。確かに梶井門跡の「寺家」家があったのですね。以前出てきた「極」の意味も、その家柄での最高到達点と確認できました。本姓がないのは当然で、何代か前の清僧が妻帯して世襲になったからで、テキストとの齟齬はありません。寺家一族は、国文学研究資料館・電子資料館の地下家伝・芳賀人名辞典データベースで、江戸時代の「寺家養昌」「寺家養気」「寺家養忠」「寺家養仙」「寺家養敬」「寺家養恕」「寺家養正」が確認できます。貫全の子孫ですね、たぶん。

 ただ、姓の「寺家」なのか、格式としての「寺家」なのかはその時に応じて判断しなければなりません。

 本文では尭胤親王のエピソードの前に書かれていますが、門跡の御膳に御相伴することの記述があります。

 一 門跡御相伴。堂上殿上人マデ被罷出也。殿上人ノ膳ヲバ居事ハ。坊官ナリ。アグル事ハ。侍法師也。公卿ハ。アグル事モ坊官ナリ。院家ハ御相伴也。出世。坊官。御相伴ニ古来不出也。但シ可依家ノ流例。衆徒召使童子ヲ御門跡御寵愛アレバ。白衣中帯ノ体ニテ。御次ノ間マデ参。半身ヲ出シテ杯ヲ給。或被召迄也。後ハ臈次被乱也。

 この一節は面白いと思います。門跡が(多分梶井殿でしょうが。)御膳を召し上がる時には、公卿・殿上人は同伴できるのですね。院家は同伴できます。出世、坊官は同伴できないのですね。出世・坊官はクラスとしては殿上人レベルだと思うのですが、給仕はしても同席はできないのですね。ただし、流例(古くからの習慣)によってはOKの場合もあるようです。

 「居事」とはその場にいて陪膳することだと思いますが、坊官の務めです。先の(記述は後ですが)、坊官がいなくなったので貫全が来るまで膳に付かなかった尭胤親王の話と合致します。膳の上げ下げに関しては公卿は坊官がして、殿上人は侍法師がしてもいいような記述です。その方が効率的なのか、決め事なのか。たぶん後者なのでしょう。

 その後です。「衆徒」は中方です。「出世」「坊官」も同伴できない御膳ですが、衆徒の召し使う「童子」でも御門跡の「御寵愛」があれば、「白衣中帯」の姿で、次の間まで参上し、半身を出して杯を受けることができるのです。もしくは中に入ることが(召る)こともあるようです。「後ハ臈次被乱」はちょっとわかりずらい。「臈次」は、「物事の順序」の意味ですが、「後」が「それ以外」はなのか、「時代が下ると」なのかで解釈が違ってきます。まあ、でもその辺があいまいになっているもでしょう。

 衆徒が召し使う中童子でも(杯を受けるのだから幼児ではなく少年しょう。)門跡の御寵愛があれば、杯を受けたり仕候することができたようです。ただし、白衣中帯で。ということは、それ以上の存在(児・稚児)はもっときらびやかな格好で仕候していたのでしょうね。

 という事は、門跡クラスが稚児を寵愛していたのは自明のこととして、中方の御童子にもちょっかいを出していたと読めるのですが、深読みでしょうか。

 戦国時代であれば、大名たちが男色に何の罪悪感も持たないことに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが愕然としたという話が思い出されます。かなり昔に読んでの出どの文献に載っていたのでしょうかそれは思い出せません。

 思いがけず、梶井寺家について、その形がわかってきました。また、稚児や童子についても理解の手掛かりが見えてきました。

 その4では稚児と童子の違い、貫全とは誰だったのか、について読み進めます。

その4

 一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

 公家の子弟は、白い水干を着るそうです。貫全は坊官ですが、坊官は公家相当ですけれども、妻帯の世襲ですから正式に公家といえるのでしょうか。それに対して武家の子弟は、侍法師相当の稚児ですが、長絹を着るようです。水干は首の辺りが横に輪っかのようになっているのに対して、長絹は輪っかがないので左右から重ねた三角状になっているのでしょうね。一目でわかります。ここはこだわりどころでしょう。見る人が見ればわかるのです。

 貫全が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉に与かったようです。その時は「空色(白色にこだわらず。か?)」で菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)を結花(普通は黒だが、)黒い糸ではなくその時に応じた色とりどりの糸でくくった鮮やかな衣装で、法師(中方以下の僧と思います)の肩に乗って行列に参加したようです。自分で歩く時は金剛草履だったようです。法師の肩に乗るとは、その年齢では歩くのもたどたどしいほどの幼児だったのでしょうか。

 なんとも派手な格好で供奉に加わった貫全さん。稚児の頃から御門跡のお気に入りだったようですね。陪膳がいなければ坂本(近江の坂本と京の坂本がありますが)まで呼び寄せたのもこのような関係からでしょうか。

 筆者と貫全はどのような関係でしょうか。筆者が貫全とごく親しい存在なのはわかりますが。貫全は梶井寺家の世襲になってから八代目(山内文庫本では代々)でしたね。その息子でしょうか。父の語ったことを書き留めたとも考えられます。しかし供奉の時法師に肩に乗った、などというリアルな描写は目撃しなければ書かない気がします。すると父とか兄なのかも。そうでなければ、かなり長い間付き合いのあった親しい人でしょう。あるいは本人かも。

 白水干の稚児ではないが、長絹を着ている侍法師の稚児とは扱いが違うよ、ちょっと上だよ、とのニュアンスが感じられます。

 その文脈の続きで、稚児の眉と御童子の眉の違いを述べます。眉毛を毛抜きで抜いてのっぺりさせてその上に眉を書く黛は、化粧の一つだったのでしょうが、階級を示す記号でもあったようです。

 児眉。上ニシンヲ立。末ニホフ。

 御童子眉。三日月ナリニ脇ニシンヲ立。両方ニホヒアリ

 「芯を立てる」とはどのような行為でしょうか。「匂い」というのは黛で眉を描いてぼかした部分のようです。眉毛を抜いて黛を引く習慣はどの階層の人までがしていたのでしょうか。中方の御童子も眉は作っているのですが、差をつけているのです。

 その次に堂衆について書かれます。根本中堂の長講は清僧で、

 「中方ナレドモ此職准上方弟子児ヲ持也。」

 とあります。この記述は二つの意味を含みます。先ず、中方は稚児を持たない事です。稚児を持つのは上方なのです。上方は稚児を訓育する立場です。その稚児がやがて上僧となって次の稚児を訓育します。それに対して中方は雑役として童子を使うのみです。稚児は持てません。次に、稚児・童子を持つのは清僧なのですね。堂衆は中方であっても重要な役割であって、清僧だから稚児を持てたのです。妻帯はそれを必要としません。上僧は清僧であるから血統の後継を待ちません。その代わり弟子として稚児を取り、その稚児が後継となっていきます。その過程で稚児が崇高な愛情の対象ともなっていったようです。(稚児灌頂などという秘事があるようですが、ここでは触れません。)

 次は執当について。貫全が務めていた職掌ですね。根本中堂では清僧が務めるようです。あれっ、貫全は妻帯ですね。

 本文では、

 一 執当。根本ハ清僧也。中古ヨリ以来妻帯ノユエニ。寒中三十三日暁垢離一ヲトリ。従正月朔至十五日修正。毎暁彼堂至内陳出仕也。此外妻帯不入内陳。言全ハ不修此行。貫全ハ。一生修此行也。

 とあります。中世以来、根本中堂の執当は清僧が務めることになっていたようで寺家家は寒中の早暁に、三十三日間水垢離をして身を清めてから、正月一日から十五日までの修正(修正会?正月の法会か?)の毎暁に中堂の内陣に出仕したと記述されます。このようにお清めをした執当以外の妻帯は内陣に入ることはできなかったようです。「言全」はこの行を修めなかったようです。当然中堂には入れなかったのでしょうね。貫全は(活字本では「貫マツタクは」と書かれています。「全」を「マツタク」とカタカナで書いたのは「貫全」を固有名詞と思わずに書写か翻刻したのでしょう。)ずっとこの厳しい寒垢離をしながら出仕していたのでしょう。ところで、この水垢離を放棄したヘタレな言全って誰?ヘタレは言い過ぎか。貫全が立派だったのでしょう。「全」という字がつくのだから貫全の一族っぽい感じです。この人が筆者かな?「言」のつく僧侶の名前ってあまり聞きません。

 一 下僧。下法師也。後ニ公人ニ成ル。公人ノ息モ。御童子ニナレバ。中方ト成ル。中方ノ息モ。児ニナレバ上方ト成ル。下法師モ三代目ニハ。上方ニ成ルトハ申セドモ。中方ニハ成レドモ。上方ニ成ル事ハ稀也。

 ここまで「蹇驢嘶餘」を漫然と読んできた感じですが、この部分を読んで「ああそうか。」と思った二十数年前が思い出されます。

 土谷恵氏は「中絵寺院の童と児」(史学雑誌101-12)という論文で稚児と童の関係について考察されました。そこでは、従来論じられてきた寺院児童に関する言説が持つ曖昧さ、不正確さの原因に貴族・房官・侍などの児童の帰属する階層性が明確に示されていない点を指摘して、それを明らかにしました。

 土谷氏は中世寺院の童たちの代表は、児・中童子・大童子であるとし、その房内での序列は児ー中童子ー大童子、法会などの行列の中では上童ー中童子ー大童子であることを論証します。さらに児にも貴族・房官・侍などの出自によって身分差・階層差があり主に房内の雑事を務めていた存在と見ています。

 中童子は法会の行列や持幡童など児と共通する役を務めることも多のですが、児とは出身階級を異にし、明確な身分差があったとします。

 大童子は御童子とも呼ばれ、中童子との違いは従来言われてきたような年齢による区別ではなく身分差であるとします。この下層にある大童子には出家の道は閉ざされ、生涯童形で過ごすこととなり、寺院での役務も多様であったと述べます。氏はこの大童子が中世寺院の童姿の代表であったとしています。

 「蹇驢嘶餘」は成立が室町末から戦国時代にかけてですので、中世寺院から多少制度が変わってきているかもしれませんが、土谷氏の指摘にかなっている記述です。氏も参照されているでしょうから当然かもしれませんが。

 ただ、ここでは下僧も三代後には上方になれる可能性がある、と書かれています。稀にはですが。いろいろな僧職・いろいろな童形が寺院にはいたようですが、おおざっぱに上・中・下に別けられていたようですね。

 土谷氏のいう、大童子という出家できない寺院関係者がいるのは、そうかとも思いますが、どちらかというと下僧にはなれても、童形のままの方が仕事がもらえるので童形にとどまったと考えた方がいいように思われます。

 今は「寺院における童形の研究」ってどうなっているのでしょうか。「文学」も「国文学」も「解釈と鑑賞」も、更には「言語」も「受験の国語」もなくなった今。

 そうそう、その二十年ほど前の頃、 

 「竉 南都ニ童子ヲ松コソ千代コソト云殿ノ字ヲ不云トコソト云也」(運歩色葉集) 

 「雑仕美女モシハ僧坊ノ中童子ヲナニコソトヨヘリ」         (名語記)

 なんて記述を見つけていました。稚児は「○○殿」と呼ばれていたのですね。それに対して、童子(南都の)・中童子は「○○こそ」と呼ばれていたみたいですね。「~こそ」は子供や女性を呼ぶ時の呼称です。性愛の対象だから女性を呼ぶように呼んだのかなあ、と思った記憶があります。

 その4はここまでにしましょう。 

 「蹇驢嘶餘」は まだまだ続くのですが、童形に関する記述はこの辺までです。その5で、貫全という人物や童形について考えてまとめとしたいと思います。

その5 まとめ

 「蹇驢嘶餘」はまだまだ続くのですが、後半部には稚児・童子に関する記述は多くありません。「山内文庫本」で確認できる本文はは活字本よりずいぶん長く、奥書があります。その末尾はこのように書かれています。

 右蹇驢嘶餘一冊者不知誰人作愚按台家僧侶之所作歟天正前後之記也申出滋野井殿御本写之

               享保十五年二月十九日御厨子所領采女正紀宗直

 活字本は後半部分が欠落したものと思われます。精読すれば逆に山内本が増補したとの説も出てきそうですが、それはまたの日に。

 滋野井氏は江戸時代の有職故実家で、公澄ー実全ー公麗の三代は大家として知られたようです。そのどなたかから(公麗は享保十五年には生まれていませんから、公澄か実全でしょう。)借りた紀(高橋)宗直が書写したようです。「紀」と「高橋」は「氏」と「姓」の関係でしょう。信長が「織田信長」なのに氏で書くと「平信長」になるような感じです。高橋宗直も有職故実家で、高橋家は代々御厨子所の預(あづかり=実務を執り行う者)を務めていたようです。

 宗直は、「蹇驢嘶餘」は天正前後の記録ではないかと推定しています。天正元年は1573年です。織田信長比叡山焼き討ちが1571年(元亀2年)です。ちょっとそれ以降とは考えられないと思います。焼き討ちが事実なら、こんな随録を書く余裕はないと思いますし、貫全の体験と、聞き書きにしても間がありすぎますから。普通に考えて、法灯が途絶えるような大災害の後でのんびり随録する雰囲気はないでしょうから。(途絶えた法灯は出羽のお寺に分灯されていて復活したことになっています。ただ、焼き討ちの実態には様々な説があるようなので、よくわかりません。

 稚児に関する記述は少ないと書きましたが、次の部分はちょっと気になりました。

 一 横川ノ別当ハ。衆入ノ一老ガ持也。衆入トテ児立ノ衆徒也。縦児立ナレドモ。行断トテ擯出セラレテ皈レバ。衆入ニテナシ。別当不持ナリ。東塔西塔ノ執行ハ横入。他宗交衆入ル人也。他方来モ事ニヨリ持也。

 「衆入」とは衆徒から昇進したということでしょうか、「児立」は「稚児育ち」でしょうか。横川の別当は自坊で育った稚児の衆入が務めるが、「擯出」といって戒律に反したものは「衆入」の資格なしとなって別当になれないと解釈できます。東塔西塔ほ執行は自前の衆徒ではなく、よそ(他宗)から就任するようです。

まとめ1 稚児と童子について

 1 稚児について。

 門跡、院家、出世は出自は公家もしくはその養子の稚児です。坊官は公家と同等のようですが、妻帯です。侍法師も上方ですので稚児出身でしょう。でも坊官と侍法師は妻帯ですので、その家出身の稚児かもしれません。寺院、俗世に関わらず、殿上(従五位以上)レベルでなければ稚児にはなれなかったようです。

 稚児とはいっても、公家出身と侍出身(これは世襲でいう坊官と侍法師)では、衣装に水干と長絹などの区別があったようです。

 「蹇驢嘶餘」が書かれた当時には、下僧が次の代には、その子が御童子となれば中方となり、その子は稚児になる可能性もあったようですが、まあ無理だろうな、という感じです。子供の時、どのような童形になるのかが、ランクアップの鍵だったようです。

 江戸時代の咄本ですが、安楽庵策伝の「醒酔笑」に次のような小話が載っています。

◎ 山の一院に児三人あり。一人か公家にておはせし。坊主、年に二度物思ふといふ題を出せり。

  「はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな」

 一人の小児は侍にてありし。よるは二度物おもふといふ題なり。

  「宵は待ちあかつき人のかへるさに夜は二度もの思ふかな」

 いま一人の児は中方の子なり。月に二度物思ふといふ題にて、

  「大師講地蔵講にもよばれねば月に二度もの思ふかな」

 公家の稚児は、桜や紅葉の散りゆくのに年に二度「物思い」を感じ、侍の稚児は、宵には恋人を待ち、暁には恋人と別れるのに一夜のうちに二度「物思い」を感じます。季節を感じるのは雅な事です。恋の道も雅な事ですが、法師の夜這いを待つ稚児の心情とすると、それほど優雅とは思えません。それに対して中間(俗人でも法師でも)出身の稚児は、月に二度ある「大師講」や「地蔵講」に呼ばれず御馳走にありつけない事が「物思い」の種だというのです。色気もそっけもない食いしん坊の中方の稚児の和歌がオチとなっているのです。安楽庵策伝(1554~1642)が何を種本としたのかは分かりませんが、戦国時代から江戸初期においては、同じ稚児でも公家・侍・中方の出自によって区別されていた様です。そしてそれぞれには、公家稚児には清く優雅な、侍稚児には衆道の対象としての、中方稚児には無風流なイメージがあったのでしょうか。

 中古・中世のイメージとして「稚児」は比叡山のアイドルとの認識があったのですが、「蹇驢嘶餘」には直接そのような記述はありません。随録の意図がそこにはなかったのでしょう。しかし、稚児や童子を寵愛する雰囲気は端々に窺えます。

 2 童子について。

 「中童子」という表現は本文には一度も出てきません。でも文脈上、「御童子」は「大童子」のように大人になった、むくつけき(宇治拾遺物語に出てくるような)童形ではなく稚児と年齢を同じくする童形と思われますのでこの文章では「御童子=中童子」と解釈しました。この御童子は「御承仕」「御格勤」という中方の家の出自か、それに対応する俗世の身分から奉公に出た者でしょう。梶井門跡が寵愛ある時は杯を賜ったように、美童は可愛がられたようです。筆者は何気なく書いたのでしょうが、ああこの御門跡は中童子を寵愛したのだなあと、推察されます。その寵愛は宴席の場で杯を与えてジエンドではないでしょう。セカンドとしてその寵童はお召しがあるのだろうな、と推察します。

 多分、このように童形を寵愛することは比叡山の中では一般的だったと思われます。

まとめ2 貫全について

 貫全という人の足跡を追っていきましょう。この人は「蹇驢嘶餘」の多くを語っている人であり、筆者とごく親しい人か、筆者本人とも思われる人です。(言全という人が誰なのかわかったら新たな解釈もあるのでしょうが。)

 「寺家」家、という一族が多くありました。「猪熊寺家」は途絶したですが、「梶井寺家」は今(「蹇驢嘶餘」が書かれた時点)に続いています。かつては清僧が継いでいたようですが、ある機会に世襲になったようです。「寺家」家の誕生です。新しい家ですので、当然「源平藤橘」などの氏を持ちません。江戸時代の「地下家伝」では「寺家」家の本姓は空欄になっています。

 梶井門跡の東塔南谷の円融院の「寺家」に貫全は生まれました。貫全は御目も麗しく門跡のお気に入りだったようです。中堂供養の時には、まだ幼かった貫全は、法師の肩に乗り派手な格好で行列に参加したようです。

 そんな貫全ですが、根本中堂の執当の時は、寒中三十三日間水垢離をして修正会に内陣に参列したようです。普通は清僧でなければ入ることのできない内陣です。

 ある時、門跡は陪禅の坊官が当番を終えて下山したのに、次の当番が来なかった時には、わざわざ坂本まで人を遣って、貫全を召して夜半に御膳を召し上がったということです。ずいぶんお気に入りだったのでしょう。

 この門跡は、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。とすればこの思い出を語られた聞き手の筆者は時代的に、その次の世代かと思われます。

 それほど多くの情報があるわけではありませんが、一つのストーリーができそうです。

まとめ3 稚児物語をどう読むか

 稚児物語を読むのに「蹇驢嘶餘」が参考になるかと読み進めたのですが、ふと気づきました。稚児物語には比叡山の稚児は登場しない!僧侶も三人だけだ!

 代表作の「秋夜長物語」「あしびき」の印象が強くて、比叡山がほとんどの舞台だと思い込んでいたのですが、僧で登場するのは「秋夜長物語」の桂海律師と、「あしびき」の侍従君玄怡だけです。稚児は「秋夜長物語」が三井寺の梅若(花園左大臣家息)、「あしびき」は南都(興福寺または東大寺)の民部得業というおそらく坊官の出自です。

 他の物語も確認しましょう。「幻夢物語」は、大原の僧幻夢と日光山の稚児花松が主人公です。最初の舞台は比叡山ですが。「上野君消息」は、僧は源平の争乱で三井寺から比叡山に難を逃れた上野君、剃髪して円厳。稚児は嵯峨野法輪寺の稚児(名前は出てきません。)です。この物語は恋愛にまでは発展しません。「嵯峨物語」は、男は嵯峨野に閑居する一条郎です。閑居はしていても出家はしていないようです。稚児はとある山里の某の僧都に弟子入りする松寿君。「鳥辺山物語」は武蔵の国のとある寺の民部卿、稚児は四条坊門辺りの中納言の子、藤の弁です。比叡山は関係ありません。「弁の草紙」は、僧東谷の大輔も稚児格の(実際は剃髪している)弁公昌信も日光山です。松帆物語」は、僧は宰相、岩倉在住です。稚児格は四条辺りの中納言の次男藤の侍従です。横川の叔父禅師房に弟子入りしていたのですが、元服して籐の侍従を名乗っています。横川で比叡山がちょっとかすっていますが、あまり関係ありません。

 さまざまなバリエーションがあるのです。稚児物語というでけで一緒くたには出来なさそうです。

 

登場する人物について

 「蹇驢嘶餘」には何人か歴史上の人物が記述されています。紹介しましょう。

 恵林院=足利義稙。(1466年《文正元年》~1527年⦅大永7年》)

 大館左衛門大夫=大館尚氏(1454年~1546年以降)。左衛門佐。有職故実家。かその

  子の大館晴光(?~1565年)。左衛門佐。か。

 半井閑嘯軒=半井明英(生没年不詳:弟瑞策は(1522年⦅大永2年》~1596年文禄5

  年)医師。

 細川京兆と観世太夫=細川家の誰かと、観世太夫の何代目か。

 田村精観=不祥。

 どう見積もっても、このような人々について書かれているので、16世紀中盤以降の記述であることは確かなようです。彼らは今でも、パソコンや電子辞書で確認できる人なのですのですから、当時のおそらく京都周辺では著名な人だったのでしょう。その見聞の実態についても検証する必要はありそうですが、それはまた後の稿に譲るとしましょう。(後の稿はないかもしれませんが。)

 

 「有職故実」家の人が伝承した書物であれば、「蹇驢嘶餘」には今は廃れてしまった情報が織り込まれたものでしょう。その中に稚児に関する記述が多いのは面白いことです。男色に直接触れる記事はありませんが、美しい稚児を愛でる雰囲気は十分うかがえる文章です。