religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について⑤ー

まとめ

 「蹇驢嘶餘」はまだまだ続くのですが、後半部には稚児・童子に関する記述は多くありません。「山内文庫本」で確認できる本文はは活字本よりずいぶん長く、奥書があります。その末尾はこのように書かれています。

 右蹇驢嘶餘一冊者不知誰人作愚按台家僧侶之所作歟天正前後之記也申出滋野井殿御本写之

               享保十五年二月十九日御厨子所領采女正紀宗直

 活字本は後半部分が欠落したものと思われます。精読すれば逆に山内本が増補したとの説も出てきそうですが、それはまたの日に。

 滋野井氏は江戸時代の有職故実家で、公澄ー実全ー公麗の三代は大家として知られたようです。そのどなたかから(公麗は享保十五年には生まれていませんから、公澄か実全でしょう。)借りた紀(高橋)宗直が書写したようです。「紀」と「高橋」は「氏」と「姓」の関係でしょう。信長が「織田信長」なのに氏で書くと「平信長」になるような感じです。高橋宗直も有職故実家で、高橋家は代々御厨子所の預(あづかり=実務を執り行う者)を務めていたようです。

 宗直は、「蹇驢嘶餘」は天正前後の記録ではないかと推定しています。天正元年は1573年です。織田信長比叡山焼き討ちが1571年(元亀2年)です。ちょっとそれ以降とは考えられないと思います。焼き討ちが事実なら、こんな随録を書く余裕はないと思いますし、貫全の体験と、聞き書きにしても間がありすぎますから。普通に考えて、法灯が途絶えるような大災害の後でのんびり随録する雰囲気はないでしょうから。(途絶えた法灯は出羽のお寺に分灯されていて復活したことになっています。ただ、焼き討ちの実態には様々な説があるようなので、よくわかりません。

 稚児に関する記述は少ないと書きましたが、次の部分はちょっと気になりました。

 一 横川ノ別当ハ。衆入ノ一老ガ持也。衆入トテ児立ノ衆徒也。縦児立ナレドモ。行断トテ擯出セラレテ皈レバ。衆入ニテナシ。別当不持ナリ。東塔西塔ノ執行ハ横入。他宗交衆入ル人也。他方来モ事ニヨリ持也。

 「衆入」とは衆徒から昇進したということでしょうか、「児立」は「稚児育ち」でしょうか。横川の別当は自坊で育った稚児の衆入が務めるが、「擯出」といって戒律に反したものは「衆入」の資格なしとなって別当になれないと解釈できます。東塔西塔ほ執行は自前の衆徒ではなく、よそ(他宗)から就任するようです。

まとめ1 稚児と童子について

 1 稚児について。

 門跡、院家、出世は出自は公家もしくはその養子の稚児です。坊官は公家と同等のようですが、妻帯です。侍法師も上方ですので稚児出身でしょう。でも坊官と侍法師は妻帯ですので、その家出身の稚児かもしれません。寺院、俗世に関わらず、殿上(従五位以上)レベルでなければ稚児にはなれなかったようです。

 稚児とはいっても、公家出身と侍出身(これは世襲でいう坊官と侍法師)では、衣装に水干と長絹などの区別があったようです。

 「蹇驢嘶餘」が書かれた当時には、下僧が次の代には、その子が御童子となれば中方となり、その子は稚児になる可能性もあったようですが、まあ無理だろうな、という感じです。子供の時、どのような童形になるのかが、ランクアップの鍵だったようです。

 江戸時代の咄本ですが、安楽庵策伝の「醒酔笑」に次のような小話が載っています。

◎ 山の一院に児三人あり。一人か公家にておはせし。坊主、年に二度物思ふといふ題を出せり。

  「はるは花あきは紅葉のちるをみて年に二度物おもふかな」

 一人の小児は侍にてありし。よるは二度物おもふといふ題なり。

  「宵は待ちあかつき人のかへるさに夜は二度もの思ふかな」

 いま一人の児は中方の子なり。月に二度物思ふといふ題にて、

  「大師講地蔵講にもよばれねば月に二度もの思ふかな」

 公家の稚児は、桜や紅葉の散りゆくのに年に二度「物思い」を感じ、侍の稚児は、宵には恋人を待ち、暁には恋人と別れるのに一夜のうちに二度「物思い」を感じます。季節を感じるのは雅な事です。恋の道も雅な事ですが、法師の夜這いを待つ稚児の心情とすると、それほど優雅とは思えません。それに対して中間(俗人でも法師でも)出身の稚児は、月に二度ある「大師講」や「地蔵講」に呼ばれず御馳走にありつけない事が「物思い」の種だというのです。色気もそっけもない食いしん坊の中方の稚児の和歌がオチとなっているのです。安楽庵策伝(1554~1642)が何を種本としたのかは分かりませんが、戦国時代から江戸初期においては、同じ稚児でも公家・侍・中方の出自によって区別されていた様です。そしてそれぞれには、公家稚児には清く優雅な、侍稚児には衆道の対象としての、中方稚児には無風流なイメージがあったのでしょうか。

 中古・中世のイメージとして「稚児」は比叡山のアイドルとの認識があったのですが、「蹇驢嘶餘」には直接そのような記述はありません。随録の意図がそこにはなかったのでしょう。しかし、稚児や童子を寵愛する雰囲気は端々に窺えます。

 2 童子について。

 「中童子」という表現は本文には一度も出てきません。でも文脈上、「御童子」は「大童子」のように大人になった、むくつけき(宇治拾遺物語に出てくるような)童形ではなく稚児と年齢を同じくする童形と思われますのでこの文章では「御童子=中童子」と解釈しました。この御童子は「御承仕」「御格勤」という中方の家の出自か、それに対応する俗世の身分から奉公に出た者でしょう。梶井門跡が寵愛ある時は杯を賜ったように、美童は可愛がられたようです。筆者は何気なく書いたのでしょうが、ああこの御門跡は中童子を寵愛したのだなあと、推察されます。その寵愛は宴席の場で杯を与えてジエンドではないでしょう。セカンドとしてその寵童はお召しがあるのだろうな、と推察します。

 多分、このように童形を寵愛することは比叡山の中では一般的だったと思われます。

まとめ2 貫全について

 貫全という人の足跡を追っていきましょう。この人は「蹇驢嘶餘」の多くを語っている人であり、筆者とごく親しい人か、筆者本人とも思われる人です。(言全という人が誰なのかわかったら新たな解釈もあるのでしょうが。)

 「寺家」家、という一族が多くありました。「猪熊寺家」は途絶したですが、「梶井寺家」は今(「蹇驢嘶餘」が書かれた時点)に続いています。かつては清僧が継いでいたようですが、ある機会に世襲になったようです。「寺家」家の誕生です。新しい家ですので、当然「源平藤橘」などの氏を持ちません。江戸時代の「地下家伝」では「寺家」家の本姓は空欄になっています。

 梶井門跡の東塔南谷の円融院の「寺家」に貫全は生まれました。貫全は御目も麗しく門跡のお気に入りだったようです。中堂供養の時には、まだ幼かった貫全は、法師の肩に乗り派手な格好で行列に参加したようです。

 そんな貫全ですが、根本中堂の執当の時は、寒中三十三日間水垢離をして修正会に内陣に参列したようです。普通は清僧でなければ入ることのできない内陣です。

 ある時、門跡は陪禅の坊官が当番を終えて下山したのに、次の当番が来なかった時には、わざわざ坂本まで人を遣って、貫全を召して夜半に御膳を召し上がったということです。ずいぶんお気に入りだったのでしょう。

 この門跡は、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。とすればこの思い出を語られた聞き手の筆者は時代的に、その次の世代かと思われます。

 それほど多くの情報があるわけではありませんが、一つのストーリーができそうです。

まとめ3 稚児物語をどう読むか

 稚児物語を読むのに「蹇驢嘶餘」が参考になるかと読み進めたのですが、ふと気づきました。稚児物語には比叡山の稚児は登場しない!僧侶も三人だけだ!

 代表作の「秋夜長物語」「あしびき」の印象が強くて、比叡山がほとんどの舞台だと思い込んでいたのですが、僧で登場するのは「秋夜長物語」の桂海律師と、「あしびき」の侍従君玄怡だけです。稚児は「秋夜長物語」が三井寺の梅若(花園左大臣家息)、「あしびき」は南都(興福寺または東大寺)の民部得業というおそらく坊官の出自です。

 他の物語も確認しましょう。「幻夢物語」は、大原の僧幻夢と日光山の稚児花松が主人公です。最初の舞台は比叡山ですが。「上野君消息」は、僧は源平の争乱で三井寺から比叡山に難を逃れた上野君、剃髪して円厳。稚児は嵯峨野法輪寺の稚児(名前は出てきません。)です。この物語は恋愛にまでは発展しません。「嵯峨物語」は、男は嵯峨野に閑居する一条郎です。閑居はしていても出家はしていないようです。稚児はとある山里の某の僧都に弟子入りする松寿君。「鳥辺山物語」は武蔵の国のとある寺の民部卿、稚児は四条坊門辺りの中納言の子、藤の弁です。比叡山は関係ありません。「弁の草紙」は、僧東谷の大輔も稚児格の(実際は剃髪している)弁公昌信も日光山です。松帆物語」は、僧は宰相、岩倉在住です。稚児格は四条辺りの中納言の次男藤の侍従です。横川の叔父禅師房に弟子入りしていたのですが、元服して籐の侍従を名乗っています。横川で比叡山がちょっとかすっていますが、あまり関係ありません。

 さまざまなバリエーションがあるのです。稚児物語というでけで一緒くたには出来なさそうです。

 

登場する人物について

 「蹇驢嘶餘」には何人か歴史上の人物が記述されています。紹介しましょう。

 恵林院=足利義稙。(1466年《文正元年》~1527年⦅大永7年》)

 大館左衛門大夫=大館尚氏(1454年~1546年以降)。左衛門佐。有職故実家。かその

  子の大館晴光(?~1565年)。左衛門佐。か。

 半井閑嘯軒=半井明英(生没年不詳:弟瑞策は(1522年⦅大永2年》~1596年文禄5

  年)医師。

 細川京兆と観世太夫=細川家の誰かと、観世太夫の何代目か。

 田村精観=不祥。

 どう見積もっても、このような人々について書かれているので、16世紀中盤以降の記述であることは確かなようです。彼らは今でも、パソコンや電子辞書で確認できる人なのですのですから、当時のおそらく京都周辺では著名な人だったのでしょう。その見聞の実態についても検証する必要はありそうですが、それはまた後の稿に譲るとしましょう。(後の稿はないかもしれませんが。)

 

 「有職故実」家の人が伝承した書物であれば、「蹇驢嘶餘」には今は廃れてしまった情報が織り込まれたものでしょう。その中に稚児に関する記述が多いのは面白いことです。男色に直接触れる記事はありませんが、美しい稚児を愛でる雰囲気は十分うかがえる文章です。

 

 このブログもだいぶ間をおいてしまいました。また物語に戻って「稚児今参り」と「花みつ」にとりかかろうと思います。「海人の藻屑」と「右記」も読み直すつもりです。