religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について④ー

内容4

 一 児公家息ハ。白水干着ル也。武家ノ息ハ。長絹ヲ着スル也。クビカミノ有ヲ水干ト云。無ヲ長絹ト云フナリ。イヅレモ菊トヂハ黒シ。中堂供養ノトキ。御門跡ノ御供奉。貫全童形ニテ仕ル也。其トキハ。空色ノ水干其時節ニ似合タル結花ヲ。菊トヂニシテ法師ノ肩ニノル也。歩時ウラナシノ藺金剛也。

 公家の子弟は、白い水干を着るそうです。貫全は坊官ですが、坊官は公家相当ですけれども、妻帯の世襲ですから正式に公家といえるのでしょうか。それに対して武家の子弟は、侍法師相当の稚児ですが、長絹を着るようです。水干は首の辺りが横に輪っかのようになっているのに対して、長絹は輪っかがないので左右から重ねた三角状になっているのでしょうね。一目でわかります。ここはこだわりどころでしょう。見る人が見ればわかるのです。

 貫全が稚児の時、梶井門跡の中堂供養の供奉に与かったようです。その時は「空色(白色にこだわらず。か?)」で菊綴(綴じ目を菊飾りにしたもの)を結花(普通は黒だが、)黒い糸ではなくその時に応じた色とりどりの糸でくくった鮮やかな衣装で、法師(中方以下の僧と思います)の肩に乗って行列に参加したようです。自分で歩く時は金剛草履だったようです。法師の肩に乗るとは、その年齢では歩くのもたどたどしいほどの幼児だったのでしょうか。

 なんとも派手な格好で供奉に加わった貫全さん。稚児の頃から御門跡のお気に入りだったようですね。陪膳がいなければ坂本(近江の坂本と京の坂本がありますが)まで呼び寄せたのもこのような関係からでしょうか。

 筆者と貫全はどのような関係でしょうか。筆者が貫全とごく親しい存在なのはわかりますが。貫全は梶井寺家の世襲になってから八代目(山内文庫本では代々)でしたね。その息子でしょうか。父の語ったことを書き留めたとも考えられます。しかし供奉の時法師に肩に乗った、などというリアルな描写は目撃しなければ書かない気がします。すると父とか兄なのかも。そうでなければ、かなり長い間付き合いのあった親しい人でしょう。あるいは本人かも。

 白水干の稚児ではないが、長絹を着ている侍法師の稚児とは扱いが違うよ、ちょっと上だよ、とのニュアンスが感じられます。

 その文脈の続きで、稚児の眉と御童子の眉の違いを述べます。眉毛を毛抜きで抜いてのっぺりさせてその上に眉を書く黛は、化粧の一つだったのでしょうが、階級を示す記号でもあったようです。

 児眉。上ニシンヲ立。末ニホフ。

 御童子眉。三日月ナリニ脇ニシンヲ立。両方ニホヒアリ

 「芯を立てる」とはどのような行為でしょうか。「匂い」というのは黛で眉を描いてぼかした部分のようです。眉毛を抜いて黛を引く習慣はどの階層の人までがしていたのでしょうか。中方の御童子も眉は作っているのですが、差をつけているのです。

 その次に堂衆について書かれます。根本中堂の長講は清僧で、

 「中方ナレドモ此職准上方弟子児ヲ持也。」

 とあります。この記述は二つの意味を含みます。先ず、中方は稚児を持たない事です。稚児を持つのは上方なのです。上方は稚児を訓育する立場です。その稚児がやがて上僧となって次の稚児を訓育します。それに対して中方は雑役として童子を使うのみです。稚児は持てません。次に、稚児・童子を持つのは清僧なのですね。堂衆は中方であっても重要な役割であって、清僧だから稚児を持てたのです。妻帯はそれを必要としません。上僧は清僧であるから血統の後継を待ちません。その代わり弟子として稚児を取り、その稚児が後継となっていきます。その過程で稚児が崇高な愛情の対象ともなっていったようです。(稚児灌頂などという秘事があるようですが、ここでは触れません。)

 次は執当について。貫全が務めていた職掌ですね。根本中堂では清僧が務めるようです。あれっ、貫全は妻帯ですね。

 本文では、

 一 執当。根本ハ清僧也。中古ヨリ以来妻帯ノユエニ。寒中三十三日暁垢離一ヲトリ。従正月朔至十五日修正。毎暁彼堂至内陳出仕也。此外妻帯不入内陳。言全ハ不修此行。貫全ハ。一生修此行也。

 とあります。中世以来、根本中堂の執当は清僧が務めることになっていたようで寺家家は寒中の早暁に、三十三日間水垢離をして身を清めてから、正月一日から十五日までの修正(修正会?正月の法会か?)の毎暁に中堂の内陣に出仕したと記述されます。このようにお清めをした執当以外の妻帯は内陣に入ることはできなかったようです。「言全」はこの行を修めなかったようです。当然中堂には入れなかったのでしょうね。貫全は(活字本では「貫マツタクは」と書かれています。「全」を「マツタク」とカタカナで書いたのは「貫全」を固有名詞と思わずに書写か翻刻したのでしょう。)ずっとこの厳しい寒垢離をしながら出仕していたのでしょう。ところで、この水垢離を放棄したヘタレな言全って誰?ヘタレは言い過ぎか。貫全が立派だったのでしょう。「全」という字がつくのだから貫全の一族っぽい感じです。この人が筆者かな?「言」のつく僧侶の名前ってあまり聞きません。

 一 下僧。下法師也。後ニ公人ニ成ル。公人ノ息モ。御童子ニナレバ。中方ト成ル。中方ノ息モ。児ニナレバ上方ト成ル。下法師モ三代目ニハ。上方ニ成ルトハ申セドモ。中方ニハ成レドモ。上方ニ成ル事ハ稀也。

 ここまで「蹇驢嘶餘」を漫然と読んできた感じですが、この部分を読んで「ああそうか。」と思った二十数年前が思い出されます。

 土谷恵氏は「中絵寺院の童と児」(史学雑誌101-12)という論文で稚児と童の関係について考察されました。そこでは、従来論じられてきた寺院児童に関する言説が持つ曖昧さ、不正確さの原因に貴族・房官・侍などの児童の帰属する階層性が明確に示されていない点を指摘して、それを明らかにしました。

 土谷氏は中世寺院の童たちの代表は、児・中童子・大童子であるとし、その房内での序列は児ー中童子ー大童子、法会などの行列の中では上童ー中童子ー大童子であることを論証します。さらに児にも貴族・房官・侍などの出自によって身分差・階層差があり主に房内の雑事を務めていた存在と見ています。

 中童子は法会の行列や持幡童など児と共通する役を務めることも多のですが、児とは出身階級を異にし、明確な身分差があったとします。

 大童子は御童子とも呼ばれ、中童子との違いは従来言われてきたような年齢による区別ではなく身分差であるとします。この下層にある大童子には出家の道は閉ざされ、生涯童形で過ごすこととなり、寺院での役務も多様であったと述べます。氏はこの大童子が中世寺院の童姿の代表であったとしています。

 「蹇驢嘶餘」は成立が室町末から戦国時代にかけてですので、中世寺院から多少制度が変わってきているかもしれませんが、土谷氏の指摘にかなっている記述です。氏も参照されているでしょうから当然かもしれませんが。

 ただ、ここでは下僧も三代後には上方になれる可能性がある、と書かれています。稀にはですが。いろいろな僧職・いろいろな童形が寺院にはいたようですが、おおざっぱに上・中・下に別けられていたようですね。

 土谷氏のいう、大童子という出家できない寺院関係者がいるのは、そうかとも思いますが、どちらかというと下僧にはなれても、童形のままの方が仕事がもらえるので童形にとどまったと考えた方がいいように思われます。

 今は「寺院における童形の研究」ってどうなっているのでしょうか。「文学」も「国文学」も「解釈と鑑賞」も、更には「言語」も「受験の国語」もなくなった今。

 そうそう、その二十年ほど前の頃、 

 「竉 南都ニ童子ヲ松コソ千代コソト云殿ノ字ヲ不云トコソト云也」(運歩色葉集) 

 「雑仕美女モシハ僧坊ノ中童子ヲナニコソトヨヘリ」         (名語記)

 なんて記述を見つけていました。稚児は「○○殿」と呼ばれていたのですね。それに対して、童子(南都の)・中童子は「○○こそ」と呼ばれていたみたいですね。「~こそ」は子供や女性を呼ぶ時の呼称です。性愛の対象だから女性を呼ぶように呼んだのかなあ、と思った記憶があります。

 その4はここまでにしましょう。 

 「蹇驢嘶餘」は まだまだ続くのですが、童形に関する記述はこの辺までです。その5で、貫全という人物や童形について考えてまとめとしたいと思います。