religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について③ー

その3

 次いで梶井門跡について詳しく書かれています。門跡はその1,その2でも比叡山ヒエラルキーの最上位に位置付けられます。この門跡とは皇族・貴族の子弟が出家して、入室している特定の寺家・院家で、山門(比叡山)では、円融(梶井)院(三千院とも)・青蓮院・妙法院がそれに当たります。

 一 梶井殿尭胤親王。東塔南谷円融房。御住山御登山已後。一生不被下山也。坊官五日ノ番オハリテ下山仕ル。次ノ番未登山衆徒ニハ。被居間敷由被仰。御膳不参也。執当貫全ヲ。坂本召ニ人ヲ下ス。夜半ノ時節登山。御膳ヲ進也。

 筆者の執筆時もしくはそのちょっと前の梶井門跡は尭胤親王のようです。東塔の南谷円融房が居所なのでしょうか。梶井殿は生前は院号がないそうで、「円融院」とか「梶井院」とかは言わないようで、入滅あるいは隠居後に院号は贈られるそうです。その尭胤親王ですが、161代天台座主の尭胤法親王1458年(長禄2年)~1520年(永正17年)の事かと思われます。その尭胤法親王のエピソードが記されています。尭胤親王は登山以後一生山を下りなかったようです。という事は没後に書いたのか、それとも現時点での話なのか・・・ある時、陪膳係の坊官が五日間の当番を終えて下山したのに次の当番がまだ上ってこなかった。しかし親王は衆徒に陪膳させて食べようとはしませんでした。衆徒は坊官よりワンランク落ち、侍法師と同等です。門跡の陪膳は坊官の役と決まっていたようです。そこで人をして麓の坂本にいた執当の貫全を呼び寄せ、貫全が夜半に登山してから御膳を召し上がったとか。貫全ってその1であれこれ語った人ですね。執当は三綱(上座・寺主・都維那)が輪番で務めたようです。坊官クラスです。これはどんな意味のお話なのでしょう。尭胤親王が気難しい方だった?そうではなくて、このような作法は厳格に守られるべきだ、との意味でしょうね。たとえ真夜中まで門跡がお預けを食っても。逆に現状そういうことがいい加減になっていたのでしょう。それともこれほどまでに貫全は親王のお気に入りだったよ、という自慢話なのでしょうか。応仁の乱が1467年~1477年。室町時代から戦国時代にかかろうという時です。筆者は仲のいい貫全とこのような事を語り合っていたのでしょうか。

 その次に梶井殿の御膳の食器について記されます。それは省略します・

 次に寺家について。

 一 猪熊ノ寺家。梶井ノ寺家。此一族多シ。ミナ山門ノ執当ニ任ズル家也。猪熊今ハ断絶。梶井寺家イニシヘハ清僧也。貫全マデ八代(貫全マデハ代々:山内文庫本)妻帯也。当門跡ニ随ナリ。但梶井殿家来也。

 この貫全は梶井寺家の者で、猪熊寺家とともに山門の執当に任ぜられる家だったようです。猪熊寺家は廃絶してしまったのですか、もともと清僧だった梶井寺家は貫全の八代前(山内文庫本では単に代々。漢数字の「八」かたかなの「ハ」は分かりづらいらいですね。)から妻帯し梶井門跡の家来だったようです。尭胤親王(当門跡)に随ってはいますが、梶井殿に来る親王がどのような皇族かは決まっていないで、親王の家来というのではなくて、梶井殿(円融院・三千院)に由来する一族なのですね。

 固有名詞はやっかいなもので、私はこの「寺家」を「院家」より寺格の落ちる寺を指す一般名詞だと思っていました。ところが、ここでの「寺家」はそうではなくて、「寺家」という姓のようです。「猪熊系の寺家さん、梶井系の寺家さんなど、寺家一族は結構いるよ、猪熊の寺家さんは断絶したけどね。」と解釈できてすっとしました。「地下家伝」という江戸時代後期の天保年間に成立した地下官人諸家の系図をまとめた書物があります。このご時世(コロナ禍)で図書館に行って調べるという事はできないのですが、ウィキペディアによると、「地下家の一覧」の諸門跡坊官等の項に、梶井宮(院ではないところは蹇驢嘶餘の院号を持たない、という記述と合っています。)坊官として、「寺家家」がありました。本姓(藤原氏とか源氏とか)を持たず、初叙は「法橋」で極位は「法印」とあります。確かに梶井門跡の「寺家」家があったのですね。以前出てきた「極」の意味も、その家柄での最高到達点と確認できました。本姓がないのは当然で、何代か前の清僧が妻帯して世襲になったからで、テキストとの齟齬はありません。寺家一族は、国文学研究資料館・電子資料館の地下家伝・芳賀人名辞典データベースで、江戸時代の「寺家養昌」「寺家養気」「寺家養忠」「寺家養仙」「寺家養敬」「寺家養恕」「寺家養正」が確認できます。貫全の子孫ですね、たぶん。

 ただ、姓の「寺家」なのか、格式としての「寺家」なのかはその時に応じて判断しなければなりません。

 本文では尭胤親王のエピソードの前に書かれていますが、門跡の御膳に御相伴することの記述があります。

 一 門跡御相伴。堂上殿上人マデ被罷出也。殿上人ノ膳ヲバ居事ハ。坊官ナリ。アグル事ハ。侍法師也。公卿ハ。アグル事モ坊官ナリ。院家ハ御相伴也。出世。坊官。御相伴ニ古来不出也。但シ可依家ノ流例。衆徒召使童子ヲ御門跡御寵愛アレバ。白衣中帯ノ体ニテ。御次ノ間マデ参。半身ヲ出シテ杯ヲ給。或被召迄也。後ハ臈次被乱也。

 この一節は面白いと思います。門跡が(多分梶井殿でしょうが。)御膳を召し上がる時には、公卿・殿上人は同伴できるのですね。院家は同伴できます。出世、坊官は同伴できないのですね。出世・坊官はクラスとしては殿上人レベルだと思うのですが、給仕はしても同席はできないのですね。ただし、流例(古くからの習慣)によってはOKの場合もあるようです。

 「居事」とはその場にいて陪膳することだと思いますが、坊官の務めです。先の(記述は後ですが)、坊官がいなくなったので貫全が来るまで膳に付かなかった尭胤親王の話と合致します。膳の上げ下げに関しては公卿は坊官がして、殿上人は侍法師がしてもいいような記述です。その方が効率的なのか、決め事なのか。たぶん後者なのでしょう。

 その後です。「衆徒」は中方です。「出世」「坊官」も同伴できない御膳ですが、衆徒の召し使う「童子」でも御門跡の「御寵愛」があれば、「白衣中帯」の姿で、次の間まで参上し、半身を出して杯を受けることができるのです。もしくは中に入ることが(召る)こともあるようです。「後ハ臈次被乱」はちょっとわかりずらい。「臈次」は、「物事の順序」の意味ですが、「後」が「それ以外」はなのか、「時代が下ると」なのかで解釈が違ってきます。まあ、でもその辺があいまいになっているもでしょう。

 衆徒が召し使う中童子でも(杯を受けるのだから幼児ではなく少年しょう。)門跡の御寵愛があれば、杯を受けたり仕候することができたようです。ただし、白衣中帯で。ということは、それ以上の存在(児・稚児)はもっときらびやかな格好で仕候していたのでしょうね。

 という事は、門跡クラスが稚児を寵愛していたのは自明のこととして、中方の御童子にもちょっかいを出していたと読めるのですが、深読みでしょうか。

 戦国時代であれば、大名たちが男色に何の罪悪感も持たないことに、イエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルが愕然としたという話が思い出されます。かなり昔に読んでの出どの文献に載っていたのでしょうかそれは思い出せません。

 思いがけず、梶井寺家について、その形がわかってきました。また、稚児や童子についても理解の手掛かりが見えてきました。

 その4では稚児と童子の違い、貫全とは誰だったのか、について読み進めます。