religionsloveの日記

室町物語です。

稚児物語とその周辺—蹇驢嘶餘について②ー

内容2

 右貫全話之。

 と書かれた続きを読みます。ここからは筆者自身の知識でしょうか。まず山王七社について言及します。上中下七社で合計二十一社あるのですが、その上七社についてです。

 次にその七座の公人(雑役)として中方(中間僧)では無職の衆徒、法会の時先達をする維那、男(俗人?)の鑰取(かいどり=鍵の管理者)、下法師の出納・庫主・政所・専当(執当の補助役)を列挙します。

 執当が輿の先導をする引きか、次に門跡の輿舁きについて述べます。八瀬童子が十二人の結いを単位として、その人数とか屋根なしの坂輿とか、細かい規定があります。牛車の場合は八瀬童子ではなく牛飼いを使います。輿とは人力の駕籠で、八瀬村の住民がその専門職だったみたいです。童子とはいっても大人ですから皆が常時童形をしていたかはわかりません。牛車を牽く牛飼いは、活字本では「菊童以下」となっていますが、山内文庫影印本では、菊に読めない字です。「ナントカ童」以下で、それは八瀬童子以下の身分だったのでしょう。

 次に地位の序列が書かれています。似たような序列が出てくるのは三回目ですが、貫全さんの言ではなく、筆者のまとめ直しでしょうか。

 一 ①三門跡。②脇門跡。③院家。④清僧出世院号権大僧都法印官位共ニ極ルナリ。御持仏堂ノ法事ヲ勤也。堂上の息。或ハ養子ナリ。妻帯坊官歯黒。坊号公名叙位不任官也。御門主ニ奉公給仕スル也。出世等輩也。不禁四足二足類。以下輩同ジ。児ノ時水干。同(妻帯)侍法師。同(歯黒)国名叙位不任官也。児ノ時長絹。坊号ヲモ付ナリ。⑦御承仕。名乗也。慶信慶光ナド云ナリ。御持仏堂事ヲ司也。荘厳ヲ仕。仏具ノ取沙汰アルナリ。幼時御童子也。国名ヲモ付。又名乗之外。金光。金祐。金党。真宗。真光。真党ト云付ナリ。⑧御格勤。同。⑨下僧。下法師也。浄衣肩絹袴。幼名必有異名。

 貫全の話とそれほど齟齬はなさそうですが、いくつかの情報が追加されています。御承仕は貫全の話だと「妻帯出家随意」となっていますが、この部分では妻帯にくくられています。

 出世は院号権大僧都・法印が官位共に極(きわめ)る、と読めます。そこが昇進の頂点でしょうか。それに対して、坊官は「公名叙位」は「不任官」なようです。よくわかりませんが、権大僧都とか法印(後に述べる地下家伝では江戸時代には法印が極位のようですが。)とかには任ぜられないのでしょう。でも出世と「等輩」なのですね。お歯黒をしていたようです。お歯黒はどのような社会的記号だったのでしょうか。江戸時代には成人女性もしくは既婚の女性を意味する記号であったようですが、それ以前には公家や武士の男性もしていたようです。わざわざ坊官でそれに触れているという事は多分清僧の出世はお歯黒をしていないのでしょう。四足(獣肉)二足(鳥肉)も禁じられていません。これでは俗人とあまり変わらないような気がしますが。侍法師も国号で呼ばれるようですが、坊号も付くようで、坊官に準じたポジションのようです。

 御承仕・御格勤は、坊官や侍法師とは位が異なるようです。「名乗也」と書かれていますが、「名乗」がよくわかりません。成人名として誰かに付けてもらったのでしょうか。自ら名乗ったのでしょうか。また名乗以外にも別の呼称があったようです。あくまでも印象ですが、名乗の「慶信」「慶光」よりも別名の「金光」「金祐」などの方が「金光丸」「金祐丸」といった呼び名として使えそうな気がします。かしこまった名前と、通称なのでしょうか。

 出自について注目してみましょう。出世は(そしてそれ以上は)清僧ですから世襲はありません。出自は堂上の公家ですね。養子もありというのがひっかかりますが、これぞと見込んだ優秀な子供は、身分が低くてもいったん公家の養子になるという形で出世になれたのかもしれません。坊官・侍法師は世襲が可能な人たちですね。これらの人は幼時は「児(稚児)」であったようです。ところが坊官になる稚児は「水干」を着ていて、侍法師になる稚児は「長絹」を着ている、とあります。同じ稚児姿でも用いる衣装が違ったようです。

 ところが、御承仕・御格勤は幼時は御童子なのです。児(稚児)とは表現されません。児と御童子は区別されます。ただ他の文書に見える「法会の時の童子」は身分というより役割なので事情は違います。また、固定化された身分としての児・童子ではなく本来の意味での「こども」として使われることもありますから、「児・童子」はその場に応じて解釈しないといけませんね。ここでは出自によってランクにはっきり差をつけているようです。さらに下僧となると御童子でもありません。「幼名必有異名」とは子供時代には別の名前で呼ばれていた、ということでしょう。「ナントカ丸」とは呼ばれていても御童子ではないのですね。

 子供だから誰でも「児(稚児)」、誰でも「童子」という訳ではなさそうです。そのような視点から「稚児物語」を読んでみると、別の側面が見えてきそうです。稚児は別格なのです。もう稚児というだけで扱われ方が格段に違います。稚児が僧を慕って寺を抜け出したり、よんどころなく旅をしたりしても、行く先々で懇ろに扱われます。

 次いで、法印・法眼、は大納言以上の子息が順序を経ないで直叙されること、妻帯僧も功績や家柄によって僧正・法印まで栄達する事、三綱・堂衆・公人・山徒法師ならびに中方妻帯衆は、獣肉鳥肉は食べてはいけないが魚は食べていいと書かれています。あれっ?さっき坊官以下の妻帯は肉食OKじゃなかったっけ?次に衆徒は清僧で、権大僧都・法印が極で僧正になることは稀だと、平民も徳によって任じられるそうで、東寺にその例が多いと書かれます。あちこち話が飛びます。随録とはそのようなものでしょう。

 その2はこの辺にしておきましょう。なんとなく比叡山の人的構成がわかってきた気がします。