religionsloveの日記

室町物語です。

弁の草紙⑤ーリリジョンズラブ7ー

その5

 大輔は氷りついていた胸のつらさも溶ける思いで、夢ばかりの短い春の夜は、千夜分をを一夜に籠めて過ごそうと思っても、その甲斐もなく忽ち過ぎて、別れ去らねばならぬ時刻となった。有明の月は朧に照りもせず、曇りしない。弁の君の乱れてかかる黒髪の隙間から眉がほんのりと見える風情は  その朧月にも似て、どのようの思っているのか、かすかな声で、

  今よりは思ひおこせよ我もまた忘れじ今朝のきぬぎぬの袖

  (今からは私の事を思い起こしてください。私もまた今朝の後朝の別れの悲しさは

  忘れる事はないでしょう。)

 太輔は弁の君の御裳裾に取りついて、

  永らへてまた見む花と頼まねば風を待つ間の露ぞ悲しき

  (私は長生きをして再び花のようなあなたを見ようとは期待していません。花を散

  らす風を待っている間の露は、自分の方が先に消えてしまいそうで悲しいもので

  す。)

 と申し上げて、「それならば、このまま別れないでいようか。」と朝の床で再び寝るのもさすがに人目を憚られることで、閨の枕に落ち髪が一筋二筋ってのを形見として、拾って、たとう紙に入れ、自坊に帰ってきて、美しかった弁公の顔ばせと、飽かぬ別れに思い煩い、何が何だか訳もわからなくなり、そのまま起き上がりもせず、七日ほどして、あっけなく死んでしまった。

 弁公はこの事を聞いて、胸を詰まらせる思いで、童を召して、「長いこと煩っていたのですか。」と尋ねると、「ここ何年も思い煩っていたようですが、君とのほんの一夜の御物語(逢瀬)に、感激の思いが強くなっていったのか、五六日の間は誰が介抱しても露さえも口にせず、亡くなってしまいました。」と申しければ、「ああなんとういことだ、いつの世のどんな夕べにこのような悲しい物思いをすると思っただろうか。」と言って、衣を引っ被って、人目をも忍ばぬ様子で、臥し転んで嘆きなさった。

 それでも、「大丈夫ですか。」と人々が心配し、慰めるので、*何事もなかったかのように振る舞うけれども、あれやこれやのの果物をさえも箸をつけることもなく、僧都の御坊もうろたえ騒いで、山中の大衆一同、慌てふためきて、物の怪でも憑いたかと様々の修法などを行わせ、療治など加えた。しかし、見苦しく病にのたうち回るという訳ではなかったが、日々に病は重くなっていった。つやつやと輝くように美しかった御姿が、すっかりやつれて哀れなほどである。

  

原文

 氷居し胸のつらさも打ち解けて、夢ばかりなる春の夜の、*千夜を一夜に思ひしも、甲斐なく立ち別れなんとせし時、有明の月は朧に照りもせず、曇りもやらず、乱れてかかる黒髪の、隙より眉のいとほのかなる御様にて、いかが思し召しけん、かすかに、

  今よりは思ひおこせよ我もまた忘れじ今朝のきぬぎぬの袖

 御裳裾に取りつき奉りて、

  永らへてまた見む花と頼まねば*風を待つ間の露ぞ悲しき

 と聞こえて、「よしさらば、別れじ。」と朝の床の上の*枕ぞ形見、またやうち寝んもさすがに人目を忍ぶ習ひなれば、閨の落ち髪の一筋二筋ありけるを、拾ひてたとう紙に入れ、我が宿に帰り来たりて、美しかりし御顔ばせと、飽かぬ別れの物思ひ、何れを何れとも分きかねて、そのまま起きも上がらず、七日と言ふに、終にむなしくなりにけり。

 この事聞こし召されて、あはれにや思しけむ、童を召して、「煩ふことやありしか。」と問はせ給ひければ、「この年月の物思ひの、かすかなりける*御物語に、いと思ひの勝るにや、五六日は露をだにも口に、*何しか扱ふ人もなきにや、はかなくなり候ふ。」と申しければ、「あはれの*さや、いつの世の何の夕べにかこの*あわれをもはん。」とのたまうて、衣引き被きて、人目をも忍び給はぬ様にや、臥し転(まろ)ばせ給ひける。

 されども、いかにと慰め申しければ、さらぬていにし給ひけれども、なにくれの果物をだに*触れさせ給ひこそもなかりければ、僧都の御坊慌て騒ぎ、一山の大衆、*足を空にして、物の怪にやとて様々の修法などせさせ給ひ、療治など加へ奉る。おどろおどろしくはなけれども、日々に重り給ひけり。匂ひやかに美しき御姿の、いと面痩せてあはれなり。

  

(注)千夜を一夜に=「秋の夜の千夜を一夜になぞらへて八千夜し寝ばや飽く時のあら

    む(伊勢物語・22段)」を踏まえる。

   風=原文「よせ」。体系の校注者によって「風」としたが、露が待つのは風だろ

    うか。

   枕ぞ形見=わかりづらいが、形見は落ち髪にかかるか。

   御物語=「物語」は男女の語らい、契りを言う。太輔と弁公の逢瀬。

   何しか扱ふ人もなきにや=わかりづらい。誰も口に露を含ませることができなか

    ったのか。介護を拒否して、自ら絶食してか。それとも自然衰弱か。

   さや=語義未詳。

   あわれをもはん=あはれ思はん、か。

   さらぬてい=何でもない様子。

   足を空に=地に足がつかないで、慌てふためき。