religionsloveの日記

室町物語です。

弁の草紙⑥ーリリジョンズラブ7ー

その6

 ある時、人払いをして例の童を枕近くに呼んで、

 「あこは知らないだろうねえ。千載集に見えるのだが、昔、奈良の都に侍従という童がいたそうです。その身はえも言われず美しく、ある人が親しくして世話をしていたそうだけれど、嫉妬して邪魔する人がいて、その人は嘆きのあまり終に亡くなってしまったというのです。この事を侍従はつらく思って、悲しみに耐えかねて、和泉川に身を投げて、水底の藻屑となったということです。範玄僧都は深い真相までは知らなかったようですが、その死をあわれに思って一首の歌を詠んだそうです。

  何事の深き思ひに和泉川底の玉藻と沈み果てけん

  (どのような深い悩みで侍従という稚児は、和泉川の水底の玉藻となって沈んでし

  まったのだろう。)

 昔は人の悩みに同情することは、このように縁のない人にさえ及んだことですよ。」

 と言うと、童はそれを受けて、

 「これは、なんとも縁起でもないことをおっしゃるのですか。亡き人の後追いをするお話ですか。まだ生まれなさらぬ時にさえ、弁の君に後世の菩提を頼むと遺言された御父の御志、それに、もし君がもしものことがあったら、御母上の御嘆きは、どうなさるというのですか。」

 と申し上げると、

 「いやいや、お話だよ。私の心には何もありませんよ。」

 とと言って話は終わったのである。

 しかし弁公は、日々に弱っていき、もはや限りを迎える容体になっていった。僧都の御坊は申すまでもなく、親しく交際していた同じ東谷の法門坊の鋼誉僧都も、病窓を訪ね、病の床を去らずに看護をした。

 ところが、老少不定も世の習い、昔の物語にも、「あはれなり老木若木も山ざくらおくれ先立ち花は残らじ(山桜は老木も若木も無常であることだ。たとえ老木が咲き残り、若木が散り遅れたとしても、終には花は残らず散ってしまう)」との例がある通りで、水無月十四日に、昌長・鋼誉の御手をひっしと握りしめり、眉もけだるそうに御目を開いて、弱弱しい声で、母上への恋しさなどを口にして、程もなく消え入るやうに亡くなってしまった。

  昌長・鋼誉は申すに及ばず、一山の大衆も慌て騒ぎ、さながら五月の暮闇の月も星もない漆黒のように、夢の中を道行く気持ちで物に当たっても避けられないような状態であった。

 御母上に弁公の死を伝えると、そのまま起き上がりもしないで、「この悲しみに比べたら、夫正保と死別したことも、物の数にも入らない程です。」と嘆きなさる。後世を弔ってもらおうと思っていた我が子に先立たれたのだから、その嘆きももっともなことだと、人は皆言い合った。

 さて、そのままにもしておられないので、清滝寺の尊豪法印と申す貴い聖を頼んで、荼毘に付した。なんともはかない事である。様々な法要が、七日七日の供養に限らず執り行った。

 嘆きの余り昌長僧都は、死者の弁公に伝法灌頂を執り行って秘法を授け、壇上に位牌を立てて、「過去幽霊平昌信 頓証菩提(今は亡き精霊平昌信よ、すみやかに悟って成仏せよ)。」と供養しなさるお心に、「まことにその通り。」と袖を濡らさない者はいなかった。

 次の日はまた鋼誉僧都も、灌頂を執行をし、「亡き精霊よ、清浄なる蓮華の台にお上りになって我々終に道行く時には、観音の御手の内の同じ一つの蓮台に上らせて兜率の内院に導きたまえ。」と法を説きなさった御心も、またすばらしく、人は皆感激の思いに浸ったのである。

  召し使われていた童子も、無常を観じて、髻を切り出家して、御骨をもらい受け、首に懸けて、どこへともなく修行に旅立った。その他、召し使われていた人々には、深い悲しみに引き籠る者もあり、悲嘆の余り谷に身を投げ落ちる者もいた。まことに悲しいことである。

  

原文

 ある時、人を避(よ)きてかの童を御枕近く候はせて、

 「あこは知らじ。古、奈良の都に*侍従と言ふ童あれど、その身*えらなりけるにや、ある人*語らひかしづき侍りしを、障はらする人ありて、その人嘆き終にむなしくなりにけり。この事を侍従あはれに思ひて、悲しみに耐へかねけるにや、和泉川に身を投げて、*底の水屑となりにけり。*僧都範玄はその心も知らず、あはれに思し召して一首の歌あり。

  何事の深き思ひに和泉川底の玉藻と沈み果てけん

 とあそばしけるとかや、千載集に入れられたり。昔は人の思ひをあはれむこと、かやうにありし事なり。」

 と仰せられければ、童承りて、

 「こは、あさましき事を仰せらるるものかな。未だ生まれ給はぬ先だにも、後世の頼むと仰せおかれし御父の御志、また、御母上の御嘆き、いかがはせさせ給はん。」

 と申しければ、

 「*いさとよ、思ひ立つ事はなし。」

 と仰せられ止みたりけり。

 されども、日々に弱りもて来て、限りの様にならせ給ひける。僧都の御坊は申すに足らず、同じ谷に法門坊鋼誉僧都、そのよしみおはしまして、病窓、かの床にも去らずいたはり給ひける。

 されども、*老少不定の習ひ、*旧る言にも、「後れ先立つ花は残らじ」との例にや、水無月十四日、昌長・鋼誉の御手をひしひしと取り、御眉のいとたゆげなる御目を開き、いとなよなよとして、御母上の恋しさなど仰せられて、程もなく消え入るやうにうせ給ひける。

  昌長・鋼誉は申すに及ばず、一山の大衆慌て騒ぎ、さながら五月の暮闇のごとくにして、夢に道行く心にや物に皆当たりける。

 御母上に伝へ申しければ、そのまま起きも上がり給はず、「正保の離れ参らせしは、またことの数にもあらざりしを。」と嘆かせ給ひける。ことわりにぞ人皆申しける。

 さて、あるべきにあらねば、清滝寺尊豪法印と申す貴き聖を頼み奉りて、一時の烟となし奉る。はかなかりける事どもなり。様々の御とぶらひ、*七日七日に限らずし給ひける。

 御嘆きのあまりにや、昌長僧都、*伝法灌頂執り行ひ、壇上に御位牌を立て、「*過去幽霊平昌信 頓証菩提」と*廻向し給ひける御志、「ことはりにも」と袖を濡らさぬはなかりけり。

 次の日また鋼誉僧都も、灌頂執行し、「過去幽霊一つ蓮華に上らせ給ひて、我らが終の行く道には、観音の御手の内の蓮台に取り上(のぼ)せ*兜率の内院に引き取り給へ。」と*布施し給ひし御志、また優れて、人皆あはれに思ひ奉る。

  召し使はれし童も、髻切り出家して、*御骨を首に懸けて、行方も知らず出でにけり。その他、召し使はれし人々、深き思ひに引き籠るもあり、谷に転(まろ)び落つるもあり。あはれなりし事どもなり。

 

(注)侍従=「ならに侍従と申しけるわらはの、いつみ川にみをなけて侍りけれはよめ

    る  なにことのふかき思ひにいつみ川そこの玉もとしつみはてけん(千載

    集・巻九・596)」。この詞書からは本文のようなエピソードは読み取れな

    い。

   えらなり=区切り方が微妙。「童あり。とその身えらなりける」「童あれど、そ

    の身えらなりける」の区切り方が考えられる。いずれにしても「えらなり」は

    語義未詳。「えならずなり」ととりあえず解釈しておく。文脈からすると、三

    角関係、身分上、宗門上の障害があったのか。

   語らひかしづく=交際して(契って)面倒を見る。

   底の水屑となりにけり=溺死した。

   僧都範玄=平安末期から鎌倉初期の真言宗の僧侶。

   いさとよ=はぐらかしてする返事。さあねえ。

   老少不定=老人が早く死に、若者が遅く死ぬとは限らない事。人の寿命はわから

    ない事。

   旧る言=「あはれなり老木若木も山ざくらおくれ先立ち花は残らじ(平家物語

    経正都落)」に拠る。

   七日七日=死後七日ごとに行う法要。初七日~七七日(四十九日)。

   伝法灌頂=密教で弟子に秘法を授ける儀式。ここでは供養の儀式か。

   過去幽霊=過去精霊。この世を去った者の霊魂。

   頓証菩提=速やかに悟る事。すみやかに成仏せよ、との祈り。

   廻向=供養すること。

   兜率の内院=兜率天(菩薩が住む天)の内院(弥勒菩薩が住むとされる)。

   布施=施しをする、の意味ではなく、説法する、という意味。

   御骨=分骨したのであろう。その一部。