religionsloveの日記

室町物語です。

松帆物語⑧ーリリジョンズラブ8ー

その8

 しばらくして伊予法師が言った。

 「今まではつつみ隠していましたが、かの人亡くなってしまった上は憚ることもないでしょう。この方こそ宰相殿が恋しく思って泣いたという殿上人です。このように卑しい山賎(やまがつ)の身なりをしているのも、道中の人目を忍んだからです。それにしても、このように看取りくださって、後の業まで執り行ってくださったご厚意は、いくら感謝申し上げても言い足りない程です。」

 などと言う。老僧は、

 「あの方は、今わの際に目を閉じながら、『ありがたい御志です。』おっしゃって、小さな法華経や念珠なをくださいました。」

 と言って取り出して見せた。都にいた時から平生手慣れて使っていたもので、見覚えもあり、侍従は目の前が真っ暗になる思いである。

 また、細かに文字がしたためられて巻き固められ、表に「四条殿へ」と青侍への宛名が書かれた手紙があった。

 「これも今わの際に、『いい伝手があったならば、これこれの所を訪ねさせてください 。』とおっしゃっていただいたものです。」と言う。「この手紙は、宛先を憚られて青侍にしたのでしょうが、きっとこの侍従の御方へのものでしょう。」と伊予法師が言うので、「ああ嬉しいことです、それならば確かに差し上げましたよ。」と言うので、開けて見ると、確かに岩倉の宰相が藤の侍従へ宛てたものであった。都を出てからこの島に暮らした様子、もう死がそこまで迫った来ていることなどが書きまとめられている。命が果てようとした際の朦朧とした中で書いたのだろうか、たどたどしい文字は鳥の足跡のように見える。

  悔しきはやがて消ゆべき憂き身とも知らぬ別れの道芝の露

  (すぐにも消えていくべきつらい身の上とも知らないであなたと別れた道芝の露の

  ような私の命が悔しいことです。)

 などと書かれていた。ありし夜にかの須磨で見た夢が今、思い合わせられて、とても悲しみが胸に迫る。

 翌朝この僧にを導かれて松帆の浦に行き、先ずは、ここに来て以来住んでいた庵の様を見ると、惨めなほど倒れ傾いて、松の柱や竹の垣根もみな壊れかかっている。どのような思いでここで日々を過ごしたのかと思うとまた悲しい。

 さて少し隔たって、松が一群れある所に簡素な墓があった。墓標の松が一本植えてあるのを、「これがお墓でございます。」と言うと、伊予法師も近寄って転び臥して泣き濡れた。かの晋の王褒が父の死に柏の樹の下で泣いてその涙の塩分で木を枯らしたとの故事ではないが、ここでも涙に枯れはしないかと思われる。

 侍従はためらいがちにこの墓標の木に、歌を書き付けた。

  遅れじの心も知らでほど遠く苔の下にや我を待つらむ

  (あなたに死に遅れまいという私の心も知らないで遥か遠くの苔の下で私を待って

  いるというのですか。)

 そして、そのままこの海に身を投げようとするのを、伊予法師取り押さえて言った。

 「宰相の事は、今は言っても甲斐ありません。もしお気持ちがあるならば、亡き跡を弔いなさいませ。あなた自身が亡くなったならば、後世へ罪障を負うことになりますよ。それにきっとお母上も深く御嘆きなさるでしょう。」

 などと様々に説得するので、やむをえず身を投げる事はあきらめた。

 「それならばせめて出家をしよう。」

 と言い出す。これにも「御身をお大事にしないませ。」と制したけれど、制止を振り切って海に身を投じてしまいそうな様子であった。

 今年十六になったばかり、花なら蕾、月なら山の端に出たばかりの可憐な容貌であったのに、泣く泣く御髪(みぐし)を剃り落として、墨染めの衣に身をやつしたのであった。まさに夢のような話である。

 この世というものはなんと恨めしいものかと思われる。

 伊予法師も墨の袖を、いっそう深い色にして侍従に伴って高野山の方へ行ったとかいう。その後の行方は誰も知らない。

   

原文  

 ややありて伊予法師申しける。

 「今まではつつみ侍れども、かの人失せたまひぬる上は、世にはばかりもなし。これこそ恋ひ泣き給ひしとのたまふ殿上人よ。かくあやしき山賎になし奉るも、道のほどの人目を忍ぶ故なり。さるにても、しか扱ひ給ひて後の事などまでしたため給ひける、御志、言の葉足るまじ。」

 など言ふ。老僧言ひけるは、

 「かの人、今はの閉じ目に、『志のほどありがたし。』とのたまひて、小さき法華経・念珠など賜はせける。」

 とて取り出でて見す。平生手慣れ給ひし物どもなれば、いよいよ目もくるるばかるなり。

 また、巻き固めて細かにしたためたる文の上に四条殿へとて、*青侍の名書きたるあり。

 「これも今はの際に、『よき便りあらばしかじか訪ねて奉れ 。』とのたまひし。」と言ふ。「この文こそこの御方へなれ。」と言へば、「あな嬉し、さらば確かに奉り侍り。」と言ふ時、開きて見るに、岩倉の人の侍従の方へなるべし。都を出でしよりこの島に住みし有様、今はの際近き様など書き集めたる、*鳥の跡のやうに見ゆ。

  悔しきはやがて消ゆべき憂き身とも知らぬ別れの道芝の露

 などやうにぞ侍るける。ありし夜かの*須磨にての夢も今ぞ思ひ合わせられていとどあはれなり。

 翌朝(つとめて)この僧を導(しるべ)にて松帆の浦へ行きて、まづ、このほど住み給ひし庵の様を見れば、あさましげに*よろほひ傾きて、松の柱・竹の垣も皆朽ちゆく様なり。いかでここに月日を過ぐし給ひけんと思ふも悲し。

 さて少し隔たりて、松の一群あるところにおろそかなる塚あり。しるしの松一本植えたるを、「これにぞ侍る。」と申せば、立ち寄り転(まろ)び臥してぞ、伊予法師も泣きける。かの*王褒の柏樹ならねども、これも涙に枯れやしなましとぞ覚えける。

 ややためらひてこのしるしの木に、若君書き付け給ひける。

  遅れじの心も知らでほど遠く苔の下にや我を待つらむ

 とて、やがてこの海に身を投げ給はんとするを、伊予法師取り留め奉りて、申しけるは、

 「宰相の事、今は言ふ甲斐なし。御志侍らば、跡を訪はせ給へ。御身を失はせ給はば、罪をこそ負はせ給はめ。また、御母上の御嘆き浅かるべしや。」

 など様々申しければ、力なくて本意も遂げ給はず。

 「さらば*様をだに変へん。」

 とのたまふ。それも「惜(あた)ら御身なり。」と制しけれど、強いて身も投げつべき様のし給へば、今年十六になり給ふ、容貌は蕾める花、山の端出づる月の様し給へる御髪(みぐし)を泣く泣く剃り落として、墨の衣にやつしたるも夢のやうなり。

 恨めしきものは*この世なりけりとぞ覚ゆる。

 伊予法師も墨の袖、いとど*色深くなしつつ伴ひ奉りて高野山の方へや行きけむ、後は知らずかし。

 

(注)青侍=若い使用人。直接侍従に宛てたのでは届かないと思ったのであろう。四条

    殿は、侍従や中将の邸。

   鳥の跡=筆跡がたどたどしい様子。

   よろほひ=倒れかかる。

   王褒=「蒙求和歌第11ー8」によると、晋の王褒は父の死に涙し、墓に植えて

    あった松柏が枯れたという。

   様をだに変へん=出家しよう。

   この世=悲劇が、現世の業に収斂されるのは、筆者の価値観なのか、当時の共通

    認識なのか。左大将はさほど糾弾されず、仏教・儒教の倫理的判断もない。

    「世」を恋愛と捉えるとすっきりするが、「この世」を男女の仲とする用例は

    あるだろうか。

   色深く=信心の度合いを墨染めの濃さで表す。いっそう信心を深くして。