religionsloveの日記

室町物語です。

弁の草紙④ーリリジョンズラブ7ー

その4

 山籠もりが長きにわたったので、昌長僧都は稚児・童子を東谷へ下らせた。おのれの厳しい修行にとことん付き合わせては気が詰まると考えたのである。解放された稚児たちは教城坊でのんびりと過ごしていた。弁公は山を下りても仏道への心の怠る事はなかった。何年も留守にした教城坊は池の汀(みぎは)も荒れ果て、花園山も荒れ果てていたので、倒壊した岸の岩を立て直そうと法師原召し集めた。その中に、太輔公という者がいた。姿かたちの立派な、人品卑しからざる法師である。

 太輔が作業をしていると、どこからともなく風が吹いて来て、障子を吹き破った隙間から弁公を垣間見た。目の合った弁公はにっこり笑ってうなずいて見せた。その顔ばせは、秋の月が雲間から漏れ出でたと思われるほどである。弁公は太輔に心魅かれたのであろうか、優しく御言葉をかけたきたのである。噂には聞いていたが、これほど美しい弁公に声を掛けられ、天にも昇る気持であった。自分の宿坊に戻っても、その恋のときめきは深まるばかりであった。

 やがて昌長僧都も山籠りも終って、東谷に戻ってきた。その年も暮れ、明くる春の頃、弁公は亡き父の十七回忌を執り行った。

 厳めしい法座をしつらえ、御位牌を立てて、仏前に据えて、花を供え焼香する。人々は、「世間にはこのような例もるだろうか、十六歳にしてその親の十七回忌を執り行うことなど。」とささやき合い、見ぬ親を慕って涙を瞳一杯受けている姿を見て、貴賤を問わず、「やはり持つべきものは人は子であることよ。」とて胸を詰まらせるのであった。

 さて、太輔の君は、恋心が募ったのであろう、過日見染めた教城坊の門辺りを愁苦辛吟しながら歩いていると、弁公に召し使われていた童子が目ざとく見咎めて、「なぜそのように辛そうにさまよい歩いているのですか。」と事の次第を尋ねると、かつて障子の隙間から弁公を見て思い染めて以来の、この年月の苦しさなどを、細やかに語ったところ、

 「ああ、まことにそんなにも思っていたのですね。しばしお聞きください。弁の君に付け文する方はとても多いのでございますよ。花に付けたり、紅葉に結んだりする手紙は拒まずに受け取っています。そのように人目を忍んで差し込まれる手紙があまりに多くて、煩わしいほどでございます。そうはいっても、あなたの隠し立てのない御物語りには、まことに同情いたします。御手紙くらいなら差し支えありません。必ずお書きなさいませ、どうにかいたしましょう。」

 と言い残して房の内に戻って行った。

 嬉しく思った太輔は自坊へ帰って来て早速文を書く。薄様の鳥の子紙を何枚か重ねて、「嘆きあまり知らせ初めつる言の葉も思ふばかりはいはれざりけり(嘆きのあまり私の恋心を始めて書き送ったのですが、それでも思いのたけはとてみ言い尽くせませんでした。)」という千載集の古歌をも思い出して、長々しくはせず、さりげなく書いて、最後に一首の歌を添えた。

  ほの見つる花の面影身に添ひて消えん命の夕べをぞ待つ

  (ほのかに見た花のようなあなたの面影を心に秘めて私の命が消えてしまう夕べを

  待っているのです。)

 童は、お召しがあった時、人目の隙があったので、御前で手紙を開いて差し出したところ、「めんどうな手紙は見せないでおくれ。」と言うのを、近寄って事の子細を丁寧に説明すると、「なんとも心打たれることです。そんなことがあったなら、なぜ今まで知らせてくれなかったのでしょう。」と言って、手紙を巻き返して涙を拭った。ある物語に、「戎(えびす)心のむくつけし思ひくづほれてや(東人の粗野で剛直な心も弱っていったか)。」と書いてあった言葉などと思い合わせて、いと太輔の心を思いやり、心から同情するのであった。ややして、御言葉はなく歌のみ、

  風のつて待つ間もあらで移ろはば花の咎とや言ふべかるらむ

  (風の便りを待つ機会もなく知らないで移ろいでいった花なのです。それを花の罪

  と言えましょうか。あなたの事を知らなかったからで、私に罪はないのですよ。)

 この返歌を童が秘かに伝へところ、太輔の嬉しさは限りなかった。

 このようにして、秘かに隙を窺って、とうとう語らう(契る)ことができたのであった。

  

原文

 かくて山籠もりの久しかりし御慰みのためにとて、東谷に下らせ給ひける児・童子、睦まじく語らはせ給ひける。*御心いよいよしなし、ある時*池の汀(みぎは)も荒れ果て、花園山も荒れ果てければ、岸の岩をも立て直し、*法師原召し集め給ふ中に、太輔公と言ふ人あり。様よろしく、卑しからぬ法師なり。

 そことも知らぬ風の吹き来て、障子を吹き破りける隙より見奉るに、御目を見合はせほのかに笑はせ給ひて、御顔ばせは秋の月の雲間より漏れ出でたる様にやと見奉るに、いかなりける御心の寄せやありけん、御言葉をかけさせ給ひし嬉しさは、例へん方もなかりけり。我が宿に帰り来て思ひ染め奉る心のほどこそ*あはれなり。

 かくて、僧都の御坊、もの籠りこと終はりて、東谷に下らせ給ふ。その年も暮れ、明くる春の頃、弁公御父の十七回を弔はせ給ひける。

 厳めしき法座を飾り、御位牌を立て、仏前に参らせ給うて、花奉り焼香して、「世にはこの例もありけるや、十六にして十七回を訪ふこと。」と、見ぬ親を慕ひ参らせ御涙を*一目受けさせ給ふに、御様を見参らせて、貴きも賤しきも、「*人は子なりけり。」とて皆人嘆きけり。

 さて、太輔の君、思ひの催しけるにや、*かの御門(みかど)の辺りを愁苦辛吟しけるを、弁公召使はるる童、目ざとく見とがむるゆゑありて、事の次第を尋ぬるに、ありし障子の隙より思ひ染め奉る、この年月の苦しさども、細やかに語りければ、

 「あはれ、実(まこと)さもこそと思はすらめ。しばらく聞き給へ。花に付け、紅葉に結びたる消息は取り入るも苦しからず。人目を忍びて巻き入らるる消息、あまた侍りし、*身の病にまかりなる事も侍りき。さりながら、御身の*白地(あからさま)に御物語り、誠に思ひ参らせ奉る。御文ばかりは苦しからじ。たしかにしたため給はり候へ。」

 と言ひ捨て帰りけり。

 嬉しく思ひ我が宿へ帰り来て、*薄様引き重ねて、「*嘆きあまり知らせ初めつる言の葉も思ふばかりは」と言ふ古き歌をも思ひに出でて、ほのかにしたためて、奥に一首の歌あり。

  ほの見つる花の面影身に添ひて消えん命の夕べをぞ待つ

 召しありし時、人目も隙もありければ、御前に開きて参らせければ、「むつかしの文な見せそ。」と仰せられけるを、差し寄りて事の子細を懇ろに申しければ、「あはれの事や。さることのあらば、今まで知らせざりしこと。」とのたまひて、巻き返し涙ぐみ*給ひけり。ある物語に、「*戎(えびす)心のむくつけし思ひくづほれてや。」と書きたりし言の葉ども思し召し合はせ給ひて、いとあはれにぞし給ひける。暫しありて、御言葉はなくて、

  *風のつて待つ間もあらで移ろはば花の咎とや言ふべかるらむ

 この御返し秘かに伝へければ、嬉しさ限りもなかりけり。

 かくて、忍び忍びに隙を窺ひ、終に語らひ奉る。

 

(注)御心いよいよしなし=判じ難い。心映えがよくなったということか。

   池の汀・・・=留守にして荒れ果てた僧坊の庭を、僧都が籠りを終えて帰るのに

    合わせて補修しようということか。

   一目=あるいは瞳か。

   法師原=法師たち。やや軽蔑した言い方。

   あはれなり=あはれなれ、とあるべきところ。

   人は子なりけり=ことわざ・慣用句か。人の情けはやっぱり子供だなあ、という

    感懐か。

   かの御門=弁公を見染めた屋敷。

   身の病=患うほど(煩わしいほど)付け文がきた、ということか。

   白地=ありのままに。本来は「ついちょっと」の意味で、「ありのまま、露骨

    に」の意味は新しい。「弁の草紙」が近世に近い作だからか。

   薄様=雁皮で薄く漉いた鳥の子紙。

   嘆きあまり=「嘆きあまり知らせそめつる言の葉も思ふばかりはいはれざりけり  

    (千載集・恋歌一・660)」。くどくど書いても思いは言い尽くせない。

   給ひけり=原文「たたひけり」。

   戎心=田舎の人の荒々しい心。もののあわれを解さない心。伊勢物語15段に、

    「女、限りなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見てはいかがはせ

    むは。(女は男を限りなく素晴らしいと思うが、男はそのようなねじれた野卑

    な女の心を見せられたらどうしようもない。)」とある。字句は正確に対応し

    ないが、野卑な心にがっかりした、という意味では共通する。ただ、太輔の行

    動や和歌と伊勢物語がどのようにリンク(思し召し合はせ)するのかが、わか

    らない。太輔が法師原で粗野であろうが、「あはれ」を解しているということ

    か。

   風のつて=風の便り。風の便りも届かないうちに色が変わるのは花の罪だと言え

    ましょうか。あなたの好意を私は知らなかったのですよ、という意か。