religionsloveの日記

室町物語です。

弁の草紙(全編)ーリリジョンズラブ7ー

その1

  前仏釈尊がこの世を去って早や二千余年が過ぎた。その経典の巻巻は残ってはいるが、世は衰えてそれを学ぶ人は少ない。衆生を救うという後仏、弥勒菩薩はまだ世に現れず、種々の魔障がやって来て人々を悩ましている。この世とあの世の間にさまようような悪夢は覚めることなく、更に世は乱世となって、法師は袈裟・衣を着て仏道に打ち込むことを忘れ、俗人には正式な衣・直垂を身につけて正道を行おうという者はいない。僅かばかりいる心ある人は、どうしてこの状態を嘆かないことがあろうか。

 何時の頃であったろうか、常陸の国の行方の郡に、竹原左近尉平正保という者がいた。武芸は人より優れ、武運は並びない人であった。その先祖を尋ねると、桓武天皇より六代の後胤、平将軍貞盛卿である。その末孫が流れ来て、常陸の大丞となった平貞国の次男であった。学問を好んて、夏は閑窓に蛍を集めて、その光で書を読み夜を明かし、秋は板葺きの屋根の隙間から洩れる月の明かりを待って文を書き、四季の移り変わりの折々には、和歌を嗜んでは過ごしていた。

 ある時、どのような機縁であったのだろうか、人の世の盛衰に思いをめぐらして、

 「言い古されたことだけれども、蜉蝣のはかない命も、朝顔が日の出を待って萎れてしまう間の短いひと時も、これらはみんな我々人の有様に異ならない。」

 という思いに達して、出家発心を願う心が募っていった。和歌を嗜む身であるから、古く鳥羽院の御世に佐藤兵衛憲(義)清(どちらでも、のりきよと読む)が、髻(もとどり)を切って剃髪し、墨染めの姿となって、西行上人と名のったのも、羨ましく思われるのだが、父母の御心や北の方の嘆き想像すると、さすがに思い切ることはできず、悶々としながら空しく月日を送っていた。

 正保には三歳になる御子いた。またその秋の頃から、北の方には懐妊の兆しがあり、それは正保にとってこの上なく喜ばしい出来事であった。ある時、北の方に向かって、

 「しばしお聞きなさい。憂き世の無常は定めなきものではあるが、とりわけも弓馬の家(武士の家)に生まれたからには、夕日の落ちるのをさえ待たずに命は果てるかもしれない。この年月願っていた出家の道を果たさないで死んでしまったならば、死後の極楽往生もどうなることにか。」

 と言って、我が子の髪をかき撫でて、

 「この若君は武士の家に生まれたからには、出家は許されまい。もし今度生まれてくる子が男ならば、法師となして私の亡き跡の菩提をも弔わせておくれ。そうすれば御身までも救済されることであろうぞ。」

 と懇々と説くのである。北の方にとっては、たとえそれがとりとめのないような先の事ではあっても、縁起でもない事に思われたのだが。

 このような予言めいた不吉な話が現実に起こってしまって、その冬の頃、国内に兵乱が起こって、竹原正保は討ち死にしてしまった。父母・北の方の嘆きは言うに及ばず、一門一族・他家の人までもみな、その命運を惜しまない者はいなかった。

 さて、年が改まり春となって、北の方は、涙ながらにも出産を迎えた。生まれたのは世になく清らかな玉の男御子であった。主を失った嘆きの中の一筋の喜びとして、この御子は、大切に養い育てられたのであった。 

 御名は、千代若丸と申した。

 

その2

 千代若が七歳の時、まだ稚い年齢ではあったが、母は父正保の遺言であったので下野国日光山の座主の御坊に入門させた。成長した後はどのような美丈夫になるだろうかと思われるようなかわいらしい容貌だったので、座主もなみなみならず愛おしみ、人も皆大切に養育した。座主は千代若を手習い・修学のために、碩学の西谷の円実坊昌誉僧都の元に移して指導にあたらせた。学問は聡く賢く、筆を取っても水茎の跡はうるわしく、五年ほど、円実坊で住み習わすうちに、類なく素晴らしく成長なさったのである。

 しかし、昌誉僧都は、老齢となり、また、持病にも冒されて、もはや余命もいくばくもなくなった。そして、この稚児の有様ををつくづくと見て、

 「ああいとおしいことだ。私がもう少し長生きができるならば、病を押してでも学問を見ようと思ってはいたが、今はもう命も終えようとしている。私の亡き跡も心を込めて御経も読み、手習いも怠ってはいけないぞ。さもあらずば、気がかりで私の往生の妨げともなろうぞ。そうはいっても誰かにぬしを託さなくては。」

 と言って、東谷の教城坊昌長僧都を呼び寄せて、枕近く寄せて、

 「老僧はこのようになりました。気がかりなのはこの稚児です。この稚児をあなたにお預けしますから、是非愛おしみなさって、出家学問を遂げさせて、一山の誇りとなるような法師になして、故父君の御跡、我らが後世をも弔わせられるようにお育てください。」

 と懇々とお願いするので、昌長は昌誉の真摯な懇願を拒むべくもなく、千代若を引き受けたのであった。

 この昌長僧都と申す方は、慈悲深重にして、三衣が破れても気にすることもなく、不退転の覚悟で行業に励み、一鉢の布施(食事)が少なくても不満に思うこともなく、常に一心三観を心にかけ、一念三千に心を澄ましている、実にありがたい方であった。

 このようにしてこの稚児が、十二歳になった年に昌誉僧都は亡くなった。故僧都の亡き跡を慕い悲しむことは、傍にもいたわしいほどであった。人々もとかく慰めて、東谷に移らせた。この千代若丸は、優美で上品な稚児で、法会で論談決択をする時の声は、迦陵頻伽の声とも準(なずら)られるほど美しく、声明の歌声は夜明け方に、鶯が寝床を去らず梢でほのかに囀っているように聞こえた。一山あげての遊興にはまずはこの稚児を先頭に立てて楽しもうと、上下皆心を砕いていた。父の血筋か和歌の道にも心を入れ、深く打ち込んでいるようであった。

 ある折、朝まだきに一声鶯の鳴き声がする。目を覚まして、「誰かを呼んで鳴くのだろうか。」と、

  「梅が香に誘はれけりな鶯のまだしののめに一声は鳴く

  (梅の香りに誘われたのだなあ、まだ東雲なのに鶯が一声だけ鳴くよ。)

 花の色に鳴き声を添ていたのですね。」

 と詠んだので、「いかにも妙を得た詠み方だ。」と人は皆感心した。

 そのような優雅な中でも、書道は並ぶ者がいない程であった。人々は、「まだ手習いを始めたばかりの頃から、見事な趣のある字を書いていたことよ。」と褒め称えていた。折節の会席でも、手習いのすさみ書きでも、命のはかなさを詠む歌を好んで書いていた。父君がいない事などを思って詠むのだろうかと、人々は父君の非業の死などを語って慰めた。しかし、心の中で培った習性なのか、愁いが積もったからか、このような一首を詠んだのである。

  まちここの花も甲斐なく散りゆけば身のはかなさぞ思ひ知らるる

  (待ち焦がれた桜の花も何の甲斐もなく空しく散っていった。それを見るにつけて

  も我が身さえもはかないものだと思い知らされるのだ。)

 このように虚無の歌を詠むので、「これはまるで自らの死を願うようで不吉ではありませんか。」と非難がましく言う人もいた。

 

その3

 さて、日光には中禅寺という東谷よりもさらに山深い霊社があって、この奥殿のある山は、古くから黒髪山と呼ばれていた。昌道僧都はこの中尊寺への三年の参籠を決意していた。

 勝道上人がこの御山に立木の自然木に千手観音を彫り、御堂を弘法大師が建立して「補陀落山」という額を書いたという。そこには「南方無垢の成道(南方無垢世界に成仏できる)」と見える。この山には三年間籠って、勤行した先例があった。昌長僧都はそれを自分も行おうと考えたのである。しかし、千代若には寺中に留まるよう申しつけたが、千代若はどう考えたのか、「師匠と同じ閼伽の水をも汲み、花をも摘んで、共にお勤めを遂げとうございます 。」と言って一緒の中禅寺に籠ったのである。

 この所の様子を言うなら、後ろには二荒山が峩々と聳え、前には中禅寺湖が湖水を湛えている。源氏物語に「なほかひなしとや塩ならぬ海」と琵琶湖を詠んだのと同様の趣がった。

 連歌師春陽坊専順の歌がある。

  厭ふらむ黒髪山に影映す海の鏡の霜と雪とを

  (黒髪山の姿が中禅寺湖の水面に鏡のように映っている。しかし、霜や雪がかかっ

  ていて白髪交じりみたいで、見る人はがっかりするだろうなあ。)

 飛檐(ひえん=軒)の柱に今に残る、これも連歌師、十住心院心敬の歌には、

  頼もしな三年(みとせ)籠れる法の師をさぞな天照る神もまぼらむ

  (頼もしいことだ。三年間この中尊寺に籠った法師をきっと天岩戸に籠った天照大

  神も見守っているだろう。)

 これは先ほど先例と書いた三年の御籠りを詠んだのだろう。また聖護院道興は、

  雲霧も及ばで高き山の端に沸きて照り添ふ日の光かな

  (雲霧も届かないほど高い二荒山(日光山)の山の端に沸き上がるように照り添え

  る日の光であることよ。)

 さてまた発句には、折しも秋の半ばということで、誰であろうか、

  湖に錦を洗ふ紅葉かな

  (湖に錦の衣を洗うような紅葉であることよ。)

 と詠むと、そばに居る人が脇句を付けて、

   江に影ひたす秋の遠山

  (入り江にその姿を浸して映っている秋の遠山よ。)

 と唱和したとか。その他、故人の名歌があるけれども、みんな散逸してしまった。しかし、新田刑部大輔源尚純卿が、歌の浜という南の岸で詠んだ歌は残っている。

  越の湖にありと言ふなるうたの浜合はせて見ねど負けじとぞ思ふ

  (越の湖にあるという歌の浜、この中禅寺湖の歌の浜とは比べ合わせて見たわけで

  はないが、こっちが劣っていることはないと思うよ。)

 万葉集に採られた名所には、紅葉の浦・やしほの滝・老松・若松・寺が崎・日輪寺・上野島がある。岩古浜・千手の岡なども、その景色は筆にも写し難い。

 さて、十二の歳に昌長僧都に仕えた千代若も、三年の籠りの内に十五歳になった。当然いつまでも稚児でいさせられる訳でもなく、昌長僧都は御髪(みぐし)を剃って出家すべき由を、仰せつけたが、一山の老若は、その美貌が損なわれるのを惜しみ、御髪を削ぐことにとどめて、一応戒律を保ったという体裁にして、弁公昌信とぞ名のった。

 尼削ぎの髪はふさふさして、顔に散りかかって、美しい眉がその隙間から顕るのを、例えて言うならば、これこそ「霞の間より樺桜の匂ひたる」と紫式部が書いた表現そのものと思われる。

  

その4

 山籠もりが長きにわたったので、昌長僧都は稚児・童子を東谷へ下らせた。おのれの厳しい修行にとことん付き合わせては気が詰まると考えたのである。解放された稚児たちは教城坊でのんびりと過ごしていたが、弁公は山を下りても仏道への心の怠る事はなかった。何年も留守にした教城坊は池の汀(みぎは)も荒れ果て、花園山も荒れ果てていたので、倒壊した岸の岩を立て直そうと法師原を召し集めた。その中に、太輔公という者がいた。姿かたちの立派な、人品卑しからざる法師である。

 太輔が作業をしていると、どこからともなく風が吹いて来て、障子を吹き破った隙間から弁公を垣間見た。目の合った弁公はにっこり笑ってうなずいて見せた。その顔ばせは、秋の月が雲間から漏れ出でたと思われるほどである。弁公は太輔に心魅かれたのであろうか、優しく御言葉をかけてきたのである。噂には聞いていたが、これほど美しい弁公に声を掛けられ、天にも昇る気持であった。自分の宿坊に戻っても、その恋のときめきは深まるばかりであった。

 やがて昌長僧都も山籠りも終って、東谷に戻ってきた。その年も暮れ、明くる春の頃、弁公は亡き父の十七回忌を執り行った。

 厳めしい法座をしつらえ、御位牌を立てて、仏前に据えて、花を供え焼香する。人々は、「世間にはこのような例もあるだろうか、十六歳にしてその親の十七回忌を執り行うことなど。」とささやき合い、見ぬ親を慕って涙を瞳一杯受けている姿を見て、貴賤を問わず、「やはり持つべきものは人は子であることよ。」とて胸を詰まらせるのであった。

 さて、太輔の君は、恋心が募ったのであろう、過日見染めた教城坊の門辺りを愁苦辛吟しながら歩いていると、弁公に召し使われていた童子が目ざとく見咎めて、「なぜそのように辛そうにさまよい歩いているのですか。」と事の次第を尋ねると、かつて障子の隙間から弁公を見て思い染めて以来の、この年月の苦しさなどを、細やかに語った。

 「ああ、まことにそんなにも思っていたのですね。しばしお聞きください。弁の君に付け文する方はとても多いのでございますよ。花に付けたり、紅葉に結んだりする手紙は拒まずに受け取っています。そのように人目を忍んで差し込まれる手紙があまりに多くて、煩わしいほどでございます。そうはいっても、あなたの隠し立てのない御物語りには、まことに同情いたします。御手紙くらいなら差し支えありません。お書きなさいませ、必ずどうにかいたしましょう。」

 と言い残して房の内に戻って行った。

 嬉しく思った太輔は自坊へ帰って来て早速文を書く。薄様の鳥の子紙を何枚か重ねて、「嘆きあまり知らせ初めつる言の葉も思ふばかりはいはれざりけり(嘆きのあまり私の恋心を書き送ってみたのですが、それでも思いのたけはとても言い尽くせませんでした。)」という千載集の古歌をも思い出して、長々しくはせず、さりげなく書いて、最後に一首の歌を添えた。

  ほの見つる花の面影身に添ひて消えん命の夕べをぞ待つ

  (ほのかに見た花のようなあなたの面影を心に秘めて私は命が消えてしまう夕べを

  待っているのです。)

 童は、お召しがあった時、人目の隙があったので、御前で手紙を開いて差し出したところ、弁公が「めんどうな手紙は見せないでおくれ。」と言うのを、近寄って事の子細を丁寧に説明すると、「なんとも心打たれることです。そんなことがあったなら、なぜ今まで知らせてくれなかったのでしょう。」と言って、手紙を巻き返して涙を拭った。ある物語に、「戎(えびす)心のむくつけし思ひくづほれてや(東人の粗野で剛直な心も弱っていったか)。」と書いてあった言葉などと思い合わせて、いと太輔の心を思いやり、心から同情するのであった。ややして、御言葉はなく歌のみ、

  風のつて待つ間もあらで移ろはば花の咎とや言ふべかるらむ

  (風の便りを待つ機会もなく知らないで移ろいでいった花なのです。それを花の罪

  と言えましょうか。あなたの事を知らなかったからで、私に罪はないのですよ。)

 この返歌を童が秘かに伝へところ、太輔の嬉しさは限りなかった。

 このようにして、秘かに隙を窺って、とうとう語らう(契る)ことができたのであった。

 

その5

 大輔は氷りついていた胸のつらさも溶ける思いで、夢ばかりの短い春の夜は、千夜分をを一夜に籠めて過ごそうと思っても、その甲斐もなく忽ち過ぎて、別れ去らねばならぬ時刻となった。有明の月は朧に照りもせず、曇りしない。弁の君の乱れてかかる黒髪の隙間から眉がほんのりと見える風情は  その朧月にも似て、どのようの思っているのか、かすかな声で、

  今よりは思ひおこせよ我もまた忘れじ今朝のきぬぎぬの袖

  (今からは私の事を思い起こしてください。私もまた今朝の後朝の別れの悲しさは

  忘れる事はないでしょう。)

 太輔は弁の君の裳裾に取りついて、

  永らへてまた見む花と頼まねば風を待つ間の露ぞ悲しき

  (私は長生きをして再び花のようなあなたを見ようとは期待していません。花を散

  らす風を待っている間の露は、自分の方が先に消えてしまいそうで悲しいもので

  す。)

 と申し上げて、「それならば、このまま別れないでいようか。」と朝の床で再び寝るのもさすがに人目を憚られることで、閨の枕に落ち髪が一筋二筋ってのを形見として、拾って、たとう紙に入れ、自坊に帰ってきた。美しかった弁公の顔ばせと、飽かぬ別れに思い煩い、何が何だか訳もわからなくなり、そのまま起き上がりもせず、七日ほどして、あっけなく死んでしまった。

 弁公はこの事を聞いて、胸を詰まらせる思いで、童を召して、「長いこと煩っていたのですか。」と尋ねると、「ここ何年も思い煩っていたようですが、君とのほんの一夜の御物語(逢瀬)に、感激の思いが強くなっていったのか、五六日の間は誰が介抱しても露さえも口にせず、亡くなってしまいました。」と申しければ、「ああなんとういことだ、いつの世のどんな夕べにこのような悲しい物思いを自分がすると思っただろうか。」と言って、衣を引っ被って、人目をも忍ばぬ様子で、臥し転んで嘆きなさった。

 それでも、「大丈夫ですか。」と人々が心配し、慰めるので、*何事もなかったかのように振る舞うけれども、あれやこれやのの果物をさえも箸をつけることもなくなった。僧都の御坊もうろたえ騒いで、山中の大衆一同、慌てふためいて、物の怪でも憑いたかと様々の修法などを行わせ、療治など加えた。しかし、見苦しく病にのたうち回るという訳ではなかったが、日々に病は重くなっていき、つやつやと輝くように美しかった御姿が、すっかりやつれて哀れなほどである。

 

その6

 ある時、人払いをして例の童を枕近くに呼んで、

 「あこは知らないだろうねえ。千載集に見えるのだが、昔、奈良の都に侍従という童がいたそうです。その身はえも言われず美しく、ある人が親しくして世話をしていたそうだけれど、嫉妬して邪魔する人がいて、その人は嘆きのあまり終に亡くなってしまったというのです。この事を侍従はつらく思って、悲しみに耐えかねて、和泉川に身を投げて、水底の藻屑となったということです。範玄僧都は深い真相までは知らなかったようですが、その死をあわれに思って一首の歌を詠んだそうです。

  何事の深き思ひに和泉川底の玉藻と沈み果てけん

  (どのような深い悩みで侍従という稚児は、和泉川の水底の玉藻となって沈んでし

  まったのだろう。)

 昔の人の悩みに同情することは、このように縁のない人にさえ及んだということですよ。」

 と言うと、童はそれを受けて、

 「これは、なんとも縁起でもないことをおっしゃるのですか。亡き人の後追いをするお話ですか。まだ生まれなさらぬ時にさえ、弁の君に後世の菩提を頼むと遺言された御父の御志、それに、もし君にもしものことがあったら、御母上の御嘆きは、どうなさるというのですか。」

 と申し上げると、

 「いやいや、お話だよ。私の心には何もありませんよ。」

 と言って話は終わったのである。

 しかし弁公は、日々に弱っていき、もはや限りを迎える容体になっていった。僧都の御坊は申すまでもなく、親しく交際していた同じ東谷の法門坊の鋼誉僧都も、病窓を訪ね、病の床を去らずに看護をした。

 ところが、老少不定も世の習い、昔の物語にも、「あはれなり老木若木も山ざくらおくれ先立ち花は残らじ(山桜は老木も若木も無常であることだ。たとえ老木が咲き残り、若木が散り遅れたとしても、終には花は残らず散ってしまう)」との例がある通りで、水無月十四日に、昌長・鋼誉の御手をひっしと握りしめ、眉もけだるそうに御目を開いて、弱弱しい声で、母上への恋しさなどを口にして、程もなく消え入るやうに亡くなってしまった。

  昌長・鋼誉は申すに及ばず、一山の大衆も慌て騒いで理性を失い、さながら五月の暮闇の月も星もない漆黒のように、夢の中を道行く気持ちで物に当たっても避けられないような状態であった。

 御母上に弁公の死を伝えると、そのまま起き上がりもしないで、「この悲しみに比べたら、夫正保と死別したことも、物の数にも入らない程です。」と嘆きなさる。後世を弔ってもらおうと思っていた我が子に先立たれたのだから、その嘆きももっともなことだと、人は皆言い合った。

 さて、そのままにもしておられないので、清滝寺の尊豪法印と申す貴い聖を頼んで、荼毘に付した。なんともはかない事である。様々な法要が、七日七日の供養に限らず執り行われた。

 嘆きの余り昌長僧都は、死者の弁公に伝法灌頂を執り行って秘法を授け、壇上に位牌を立てて、「過去幽霊平昌信 頓証菩提(今は亡き精霊平昌信よ、すみやかに悟って成仏せよ)。」と供養しなさる。その御心に、「まことにその通り。」と袖を濡らさない者はいなかった。

 次の日はまた鋼誉僧都も、灌頂を執行をし、「亡き精霊よ、清浄なる蓮華の台にお上りになって我々終に道行く時には、観音の御手の内の同じ一つの蓮台に上らせて兜率の内院に導きたまえ。」と法を説きなさった御心も、またすばらしく、人は皆感激の思いに浸ったのである。

  召し使われていた童子も、無常を観じて、髻を切り出家して、御骨をもらい受け、首に懸けて、どこへともなく修行に旅立った。その他、召し使われていた人々には、深い悲しみに引き籠る者もあり、悲嘆の余り谷に身を投げ落ちる者もいた。まことに悲しいことである。

 

その7

 ここに、真鏡坊昌澄という者がいた。愚かな法師ではあったが、書にはいささかの技量を持っていた。弁公はこの法師を召して、天台の四教五時の聖教を書いてほしいと依頼していた。

 日光山には数々の峰があった。神護景雲元年に勝道上人は、補陀落山(二荒山、男体山、日光山とも)を開闢しなさったが、本宮と中禅寺両社とを創建し、崇め奉ったが、その後智光行者と密約して、二荒山に分け入り、山頂に葛城山の霊窟を分祀し奥宮を祀ったということである。

 弘法大師空海は、その後、滝尾神社を創建して、多くの仏を彫像したという。

 慈覚大師円仁は、都から下って来て、二荒山の新宮を建立し、千手、弥勒、馬頭の霊像を彫って安置し、満願寺という寺号を付けて、神殿には様々な御宝物を納めた。その傍らに、文珠菩薩を置き、この山において宝祚長久(皇室の長久)を守らせようとしたのであるる。

 そのようなわけで、桓武・平城・嵯峨の三帝の勅願寺(帝の願いを体現する寺)として、正一位准三宮日光山大権現の神位を承り未来永劫まで、人民を守る聖地となったのである。

 そこで多くの法師、修験者、在俗の者がこの山々を廻り、いわゆる男体禅定が盛んに行われた。しかし、夏峰禅定はその中でも過酷を極め、遭難者が続出し暫くは廃絶していた。それをこの夏、復興することとなった。

 昌澄法師は、その夏峰の先達を務める事となった。弁公の四教五時筆写の依頼に対してこう返答した。

 「先達に選ばれたからには修行はお断りできません。出峰が無事終わったなら、すぐにもお書き申しましょう。」

 このように断って、五月半ばに入峰して、山林斗藪の行を行い、樹の下や石の上を寝床とし、身命をなげうって、一心不乱に修行していた。弁公が亡くなったとの噂は耳にしたが、山を下りることもできず、山中で篠懸衣(修験者の衣服)の袖を絞って泣いた。

 それでも、日限はあり、文月十四日には成就して山を下り、御墓に参った。しかしいくら臥し嘆いてもなんの甲斐もなく、その翌日から約束していた聖教を書いて、御墓に納めた。そして拙いながら一首の七言絶句を作り仏前に供えた。

  翰墨約君君別離(翰墨君と約し君は別離す)

  無親疎似有親疎(親疎無きは親疎有るに似たり)

  莫嫌紙上班班色(嫌う莫れ紙上班班の色)

  進孝野僧滴涙書(進孝の野僧書に滴涙す)

  「筆と墨で写経することを君と約束し君と別れた。親しくすることはできなかった

  が、心の中では親しく感じていたのだ。書き上げた文はまばらにしみができている

  がそれを嫌だと思わないでおくれ。野卑な僧だが心を込めて書いて、その涙が書に

  滴り落ちたのだ。」

 その夕べに真鏡坊に帰り、嘆きながらまどろんでいると、夢に弁公が現れ、書写した聖教を開きなさって、嬉しそうな表情で、一首お詠みになった。

  筆の跡見るとは知らじ夢の内も交はす言葉の例なければ

  (あなたの書いた聖教を私が読んでいるとは気づかないでしょう。夢の中で生きて

  いる人と死んでいる人が言葉を交わすなどという先例はなかったのですから。)

 いくばくもなく空が明けてゆくように思われ、もしや現の事かと目を見開き、辺りを窺い見たが、そのような形跡はなく、やはり夢であったのだ。

 昌澄法師は、このような印象的な体験をして、我が身の徳の未だしきことを悔やんで、往生院という坊の蓮台に、弘法大師阿弥陀の霊像を作って安置し、弘法大師の真蹟という妙覚門の額を掲げた。この扁額は今に残っている。

 ある外典を見ると、「一日安閑は値万金」とある。また「大隠は朝市に隠れ、小隠は岩藪に隠るる」と書かれているのが見える。昌澄はいたずらに遁世するのではなく、多くの僧房の中で一日一日を心静かに仏道に励もうとした。しかし弁公への思いは忘れられず、法華経安楽行品の「在於閑処 修摂其心(閑かな所で心を修めよ)」という経文にを悟りを得て、教城坊の傍らに方丈の庵室を結び、朝夕に弁公の御菩提を弔って、二六時中法華経典を読誦していたという。庵室から漏れてくる「寂莫無人声 読誦此経典(辺りは森として声なくこの経典を読誦する)」という章句を人々はありがたく聞いたのである。

 弁公はある人の夢で、「私は鹿島のみかくれ明神が、仮にこの世に出現し、あまたの人を発心させようとしたのだ。確かに皆に告げよ。」と言ったともいう。

 またある人が夢で、一首の歌を示されたという。

  恋しくは上りても見よ弁の石我は権社の神とこそなれ

  (恋しいならば黒髪山に上って弁の石を見よ。私は二荒山権現の神となったのだか

  ら。)

 黒髪山の頂に、弁の岩という霊石がある。富士山の望夫石の古い言い伝えを思うと、似通っている部分もあり、新たな言い伝えになるのだろうか。

 かような不思議な物語があったのである。人は皆、あるいは語り、あるいは嘆いた。このような時、人の唱うべきは、弥陀の名号、願うべきは、極楽浄土であろう。人は一向に阿弥陀仏を二度三度と唱えて、目を閉じ塞ぎ、袖を濡らじて極楽浄土を願わぬものはいなかったったということである。(了)

 

原文

 夫れ、*前仏は早や去りて二千余歳の春秋に過ぎたり、経巻は残ると言へども、世衰へて学ぶ人少なし。后仏(後仏)は未だ世に出でずして種々の*まほう来たりて人を悩ます。*中有(ちゅうう)の闇に惑ひ、夢覚め難く、剰(あまつさ)へ乱世となりて、法師は袈裟・衣を忘れ、俗は*しゃうゑ・直垂と言ふことなし。わづかに心ある人、誰かこれを嘆かざらむ。  

 ここに、何の頃、常陸の国*行方の郡とかや、竹原左近尉平正保と言ふ人あり。武芸人に優れ、武運並びなき人なりけり。その先祖を尋ぬるに、桓武天皇より六代の後胤、平将軍貞盛卿末孫流れ来たりて、常陸の*大丞、平の貞国卿の次男にてぞおはしける。学問を好みて、夏は*閑窓に蛍を集めて夜を明かし、秋は*まきの屋の隙洩る月の影を待ち、四季転変の折々には、*敷島の道を嗜み給ひける。

 ある時、いかなる御心やおはしけむ、人間の盛衰を案じ出だして、

 「*言旧りたる例へなれども、蜉蝣の仇なる命も、朝顔の出でる日を待つ間も、みなこれ我らが様なり。」

 と思ひ得て、発心の志深くなりて、古(いにしへ)*鳥羽院の御世に佐藤兵衛憲清、髻(もとどり)を切りて、剃髪墨染めの姿となりて、西行上人と名のりしも、羨ましく思へども、父母の御心・北の方のお嘆きを、さすがに思ひ煩ひつつ空しく月日を送りける。

 御子あり。三歳にならせ給ふ。またその秋の頃より、北の御方*ただならず、いとど思ひの催しなり。ある時北の御方に向かひ参らせ給ひて、

 「且(しばら)く聞き給へ。憂き世の無常は定めなきものなれど、中にも弓馬の家に生まれては、夕日の落つるをも*跡さべからず。この年月願ふ道に後れ侍らば、後生いかがはせん。」

 とて、幼き人の髪をかき撫でて、

 「この若は武士の家に生まれ侍り聞こゆる間は、人許さじ。若し生まれ来たらんが男ならば、法師になりて我が後の跡をも訪はせ、御身も助かり給へ。」

 と懇ろにのたまひし、まことに*忌まはしきなどなりけり。

 かやうのはかなし事の積もりにや、その冬の頃、国に兵乱起こりて討ち死にし給ひけり。父母の御嘆き、北の御方は言ふに及ばず、一門一族・他家の人までもみな惜しまぬはなかりけり。

 さて、*あらたまの春にもなりて、北の御方、お産も泣く泣くし給ひけり。世に清らなる玉の男にてぞおはしましける。嘆きの中の喜びにて、*生立(おほした)てかしづき給ひけり。

 

(注)前仏=末法の後に現れる弥勒菩薩(后仏)に対して釈迦仏を言う。

   まほう=末法か。魔法か。「種々の」の形容は魔法にかなうが、仏教での用例は

    見られない。「来る」のだから、とりあえず魔障と解した。

   中有=人が死んで次の生を受けるまでの期間。中陰。

   しゃうゑ=上衣・正衣・浄衣?文脈からすると、正式なきちんとした装束の意で

    あろう。

   行方の郡=茨城県南東部の郡名。

   大丞=原文は「大烝」。「大弁(官職の一つ)」の唐名

   閑窓=人里離れた静かな窓。「翰窓(書斎)」かもしれない。

   まきの屋=檜などの板で葺いた家。

   敷島の道=和歌の道。

   言旧りたる=言い古された。

   ただならず=懐妊している。

   跡さべからず=語義未詳。「室町物語大系」では、「憑へからずカ」と傍注があ

    る。武門に生まれたからには夕日が落ちるのも待たずに死んでしまうかもしれ

    ない、との意か。

   忌まはしき=自分の死を前提とするような発言が、不吉な予言となった、という

    事。

   生立てかしづき=「生立(おほした)つ」「かしづく」共に、養い育てるの意。

 

 七つにならせ給ひけるほどに、未だいたはしながら、遺言なれば下野国日光山の座主の御坊へ上(のぼ)せ参らせ給ひける。生ひ先見えて容貌(かたち)いと美しくものし給ひければ、座主の御坊疎かならずらうたくし給ひ、人皆かしづき奉る。御手習ひ、物習はしのためとて、*西谷の円実坊、昌誉僧都の元へ移し奉らせ給ひける。学問の聡く賢く、筆取る事たどたどしからず、五年ばかりの、坊に住み慣れ給ひて、ありがたきまで*大人びおはしましけり。

 しかるに、僧都、老いの波の寄せきたる積もり、また、病の冒せる報ひにや、限りのさまにならせ給ひける。この児の御様をつくづくと見参らせて、

 「いとほし、我永らへ侍らばさりともと思ひ侍りしが、今は早やむなしくなり侍りなん。亡き跡も心に入れて御経読ませ給ひて、御手習ひ怠るべからず。まことに*後世のほだしにてこそ侍れ。さりながらも。」

 とて、東谷(東山谷)の教城坊昌長僧都を語らひ寄せ参らせて、枕近く寄せ奉り、

 「老僧はかくなり侍りぬ。この児*らうたくし給ひて、出家学問遂げさせ給ひて、*一山の飾り、父の御跡、我らが後世をも訪はせ給はり候へ。」

 とかき口説きのたまひければ、まことにあはれにこそ否み難くて、受け取り参らせ給ひけり。

 この昌長僧都と申すは、慈悲深重にして、*三衣の破るるを悲しまず、*行業不退にしては、*一鉢のむなしき事を憂へず、*一心三観に思ひをかけ、*一念三千の心を澄まし、よにありがたき人なりけり。

 かくてこの児、十二にならせ給ひ、故昌誉僧都の御跡慕ひ参らせ給ふ事、いとあはれなる程なりけり。とかく慰め参らせて、東谷に移ろはし奉りて、御名を千代若丸とぞ申しける。優にやさしくぞおはしける。*論談決択し給ふ声は、*頻伽声とも準(なずら)へ、*ひかにそう歌の御声はまたしののめに、鶯の寝床を去らぬ梢にて、ほのかに音信(おとづ)れたるとや聞くべからむ。一山の玩びにも先づこの児を先立て参らせばやと、上下心を惑はしけり。和歌の道にも心を入れ、思ひ深くぞおはしける。

 ある折しも、明け方深く一声音信(おとず)れければ、「*人こそ鳴くや誰とか」と目を覚まし給ひて、

  「梅が香に誘はれけりな鶯のまたしののめに一声は鳴く

 花の色に聞き添へてこそ。」

 と仰せられければ、「さもありぬべき事。」と皆人感じ奉りける。

 中にも勝れて筆取る事並びなし。人々申しけるは、「まだ*難波津のはかばかしからぬ時よりも、*あくまでゆゑはあるかし。」と疎かならずほめ奉りける。折節ごとの会席にも、御手習ひのすさみ書きにも、はかなき歌(の)を好ませ給ひければ、御父の忌まわしかりし事ども、人々申し出だし慰め申しけれども、御心の習はし、また、いかなる愁ひの積み(罪)にや、一首はかくこそ詠ませ給ひけり。

  *まちここの花も甲斐なく散りゆけば身のはかなさぞ思ひ知らるる

 とあそばしければ、「これはあまりなる御心の忌まはし。」とて謗らはしげに申す人もありけり。

 

(注)西谷=日光山輪王寺は中世500に及ぶ僧房が立ち並び隆盛を誇ったという。仏

    岩・東山・南・西・善如寺の五つの谷があったらしい。円実坊以下、具体的な

    実名が多い。日光山の僧侶が実録的に書いたのではないかという印象がある。

    「日光その歴史と宗教⦅春秋社)」によるよると、「弁の草紙」は天正十年 

    (1582)~同十八年の間に事実譚をもとに、真鏡坊昌證が筆録したと平泉澄

    は比定しているという。論文は未確認。

   大人び=成長する。

   三衣=僧の着る三種の袈裟。

   行業不退=仏道修行が前進して退転しない事。

   後世のほだし=自分が往生するのに後世の手かせ足かせ(障害)となるという

    こと。千代若が気がかりで往生できないとのこと。

   らうたく=労たく。世話をしたい気持ち。愛おしむ。

   一山のかさり=一山の飾り?日光山の象徴として、か。あるいは、一山の限り

    (この山こぞって)か。

   一鉢=托鉢で受ける布施か。

   一心三観=一心に三つの観念(真理)を観じ取る事。天台宗で説く観法。

   一念三千=全宇宙の事象が心の内にあるという天台宗の教義。それを心を澄まし

    て観じ取る事。

   論談決択=問者が問いを立て、講師が回答し、証義が判定するという、ディベー

    トのようなものか。宮中の最勝講などがある。「沙石集(5-10)」には

    「論談決択ノ道ユ(許)リタリケル」の用例がある。証義の判定には読み上げ

    方の流儀があったのか、その道で認められることもあったのであろう。

   頻伽声=迦陵頻伽の美しい鳴き声。

   ひかにそう歌=語義未詳。「頻伽に添ふ」か。それだとくどい。声明の類か。

   人こそ鳴くや=古歌を踏まえるか。

   難波津=手習い。「なにはつにさくや・・・」の歌を習字の第一歩として書いた

    ことによる。

   あくまで=十分に。

   まちここの=語義未詳。「待ち」「子(稚児)」を連想させる。「待ち焦がる」

    か。

 

 さて、僧都の御坊、*中禅寺とてなほ山深き霊社おはします、この御岳をこそ世に言旧りたる*黒髪山とぞ聞こえける。

 *勝道上人かの御山に*千年の霊像を刻み立て、御堂をば*弘法大師建立し給ひて「補陀落山」と額を書き給ふ。ここに「*南方無垢の成道」と見えにける。かの山にありて三年籠り居て、*勤行せらるる例(ためし)ありけり。千代若殿は寺中におはしますべき由、のたまひけれども、いかなりける御心やおはしけん、「同じ*閼伽の水をも汲み、花をも摘まん。」とのたまひて籠らせ給ひけるとかや。

 この所の様を言へば、*腰は高山峩々として前に湖水を湛えたり。源氏物語に「*なほかひなしとや塩ならぬ海」と詠みしもこの所の様なるべし。

 *春陽坊専順の歌に、

  厭ふらむ黒髪山に影映す海の鏡の霜と雪とを

 *ひゑんの柱に今にあり。*十住心院心敬の歌には、

  頼もしな三年(みとせ)籠れる法の師をさぞな*天照る神もまぼらむ

 三年の御籠りを詠ませ給ひけるにや、また*雲護院道興は、

  雲霧も及ばで高き山の端に沸きて照り添ふ日の光かな

 さてまた*発句に、折しも秋の半ばなれば、

  湖に錦を洗ふ紅葉かな

 そこなる人の脇にて、

   江に影ひたす秋の遠山

 と申されけるとかや。その外、故人の歌あれども、*みな漏らしてけり。されども、*新田刑部大輔源尚純卿、歌の浜と言ふ南の岸にて、

  *越の湖にありと言ふなる*うたの浜合はせて見ねど負けじとぞ思ふ

 万葉集に入れられし名所には、紅葉の浦・やしほの滝・老松・若松・寺が崎・日輪寺・*上野島あり。岩古(いはふる)浜・千手の岡、その景筆にも写し難し。

 さて、ありありて千代若殿十五にならせ給ひけり。御髪(みぐし)剃らせ給ふべき由仰せられしを、一山の老若惜しみ参らせて、御髪を削ぎ奉りて*戒保たせ参らせて、弁公昌信とぞ申しける。

 *尼削ぎの髪のふさやかに、御顔に散りかかりて、美しき御眉の顕れしを、例へて言はば、これや「*霞の間より*樺桜の匂ひたる」と紫式部が書きたりし言の葉やさながらと見えたり。

 

(注)中禅寺=二荒山神社の神宮寺。神仏習合で寺と神社はあまり分離できない。立木

    観音(千手観音)がある。ここからは、故事来歴や名所のガイドブック的記述

    である。

   黒髪山男体山の事。山号としては「日光山」と呼ばれる。

   勝道上人=奈良末期、平安初期の僧。補陀落山(二荒山=「ふたら」を「にこ

    う」と読み、後の「日光山」になったとの説あり。)を開き、中禅寺を創建。

   千年の霊像=立木観音か。千年は千手か。

   弘法大師空海。日光山輪王寺内に諸堂を建立したと伝えられるが、来山したか

    は疑問。能書家でもある。

   南方無垢の成道=補陀落山は南方の海にあるという。成道は、悟りを開き成

    仏すること。法華経提婆達多品に、竜女が「即往南方 無垢世界(南方無垢

    世界に行って)」成仏したある。

   勤行=原文「こん経」。

   閼伽=仏に供える水や花。

   腰=腰は山の裾。山容ぐらいの意か。

   春陽坊専順=室町中期から後期の連歌師。宗祇の師。

   なほかひなしとや=「わくらばに行き逢ふ道を頼みしもなほかひなしや潮ならぬ

    海(源氏物語・関屋)」。「逢ふ道」が「近江路」を掛けるので本当は琵琶湖

    の事。「かひなし」は「甲斐なし」と「貝なし」を掛ける。

   ひゑんの柱=「飛檐」の柱か。飛檐は垂木。高く反りあがった軒。

   十住心院心敬=室町中期の歌人連歌師

   天照る神=天照大神。自身も天岩戸に籠った。心敬の歌にあったからには三年籠

    った先例があったのであろう。

   雲護院道興=室町時代の僧侶。聖護院門跡なので、雲護院は誤りか。東国を巡遊

    し「廻国雑記」を著した。東国巡遊が1486~1487年だから、乱世は応仁の乱

    指すのかもしれない。

   発句=連歌の最初の五七五。続く七七が脇句。誰の発句か。

   みな漏らしてけり=草子地というには直截的過ぎて、物語の一部とは言い難い。

    日光山の諸記録をもっと沢山書くべきなのだろうが、ごめんなさいという感

    じ。散逸したのだろうか。

   新田刑部大輔源尚純=岩松尚純。室町後期の武将。新田氏の後裔。連歌をよくし

    た。

   越の湖=富山県にあった潟湖。

   歌の浜=現在の立木観音のある場所。立木観音は根の生えた立木に掘ったはずな

    のに、地滑りで湖に流出し浮かんでいたのを、歌が浜に安置されたという。そ

    の他の地名はわかり難い。万葉集にあるとは、同じ地名がどこかに載っている

    ということか。

   上野島=勝道上人を祀った人工島。時代的に万葉集にはあるはずがない。

   戒保たせ=持戒。仏教の戒律を固く守る事。ここでは剃髪せずに髪を削ぐことで

    一応戒律は守ったということか。

   霞の間より=「春の曙の霞の間より、おもしろき樺桜の咲き乱れたるを見る心地

    す。(源氏物語・野分)」を指す。

   樺桜=樹皮が樺に似た桜。遅咲きか。

   御心いよいよしなし=判じ難い。

 

 かくて山籠もりの久しかりし御慰みのためにとて、東谷に下らせ給ひける児・童子、睦まじく語らはせ給ひける。*御心いよいよしなし。

ある時*池の汀(みぎは)も荒れ果て、花園山も荒れ果てければ、岸の岩をも立て直し、*法師原召し集め給ふ中に、太輔公と言ふ人あり。様よろしく、卑しからぬ法師なり。

 そことも知らぬ風の吹き来て、障子を吹き破りける隙より見奉るに、御目を見合はせほのかに笑はせ給ひて、御顔ばせは秋の月の雲間より漏れ出でたる様にやと見奉るに、いかなりける御心の寄せやありけん、御言葉をかけさせ給ひし嬉しさは、例へん方もなかりけり。我が宿に帰り来て思ひ染め奉る心のほどこそ*あはれなり。

 かくて、僧都の御坊、もの籠りこと終りて、東谷に下らせ給ふ。その年も暮れ、明くる春の頃、弁公御父の十七回を弔はせ給ひける。

 厳めしき法座を飾り、御位牌を立て、仏前に参らせ給うて、花奉り焼香して、「世にはこの例もありけるや、十六にして十七回を訪ふこと。」と、見ぬ親を慕ひ参らせ御涙を*一目受けさせ給ふに、御様を見参らせて、貴きも賤しきも、「*人は子なりけり。」とて皆人嘆きけり。

 さて、太輔の君、思ひの催しけるにや、*かの御門(みかど)の辺りを愁苦辛吟しけるを、弁公召使はるる童、目ざとく見とがむるゆゑありて、事の次第を尋ぬるに、ありし障子の隙より思ひ染め奉る、この年月の苦しさども、細やかに語りければ、

 「あはれ、実(まこと)さもこそと思はすらめ。しばらく聞き給へ。花に付け、紅葉に結びたる消息は取り入るも苦しからず。人目を忍びて巻き入らるる消息、あまた侍りし、*身の病にまかりなる事も侍りき。さりながら、御身の*白地(あからさま)に御物語り、誠にあはれに思ひ参らせ奉る。御文ばかりは苦しからじ。たしかにしたため給はり候へ。」

 と言ひ捨てて帰りけり。

 嬉しく思ひ我が宿へ帰り来て、*薄様引き重ねて、「*嘆きあまり知らせ初めつる言の葉も思ふばかりは」と言ふ古き歌をも思ひに出でて、ほのかにしたためて、奥に一首の歌あり。

  ほの見つる花の面影身に添ひて消えん命の夕べをぞ待つ

 召しありし時、人目も隙もありければ、御前に開きて参らせければ、「むつかしの文な見せそ。」と仰せられけるを、差し寄りて事の子細を懇ろに申しければ、「あはれの事や。さることのあらば、今まで知らせざりしこと。」とのたまひて、巻き返し涙ぐみ*給ひけり。ある物語に、「*戎(えびす)心のむくつけし思ひくづほれてや。」と書きたりし言の葉ども思し召し合はせ給ひて、いとあはれにぞし給ひける。暫しありて、御言葉はなくて、

  *風のつて待つ間もあらで移ろはば花の咎とや言ふべかるらむ

 この御返し秘かに伝へければ、嬉しさ限りもなかりけり。

 かくて、忍び忍びに隙を窺ひ、終に語らひ奉る。

 

(注)御心いよいよしなし=判じ難い。心映えがよくなったということか。

   池の汀・・・=留守にして荒れ果てた僧坊の庭を、僧都が籠りを終えて帰るのに

    合わせて補修しようということか。

   一目=あるいは瞳か。

   法師原=法師たち。やや軽蔑した言い方。

   あはれなり=あはれなれ、とあるべきところ。

   人は子なりけり=ことわざ・慣用句か。人の情けはやっぱり子供だなあ、という

    感懐か。

   かの御門=弁公を見染めた屋敷。

   身の病=患うほど(煩わしいほど)付け文がきた、ということか。

   白地=ありのままに。本来は「ついちょっと」の意味で、「ありのまま、露骨

    に」の意味は新しい。「弁の草紙」が近世に近い作だからか。

   薄様=雁皮で薄く漉いた鳥の子紙。

   嘆きあまり=「嘆きあまり知らせそめつる言の葉も思ふばかりはいはれざりけり  

    (千載集・恋歌一・660)」。くどくど書いても思いは言い尽くせない。

   給ひけり=原文「たたひけり」。

   戎心=田舎の人の荒々しい心。もののあわれを解さない心。伊勢物語15段に、

    「女、限りなくめでたしと思へど、さるさがなきえびす心を見てはいかがはせ

    むは。(女は男を限りなく素晴らしいと思うが、男はそのようなねじれた野卑

    な女の心を見せられたらどうしようもない。)」とある。字句は正確に対応し

    ないが、野卑な心にがっかりした、という意味では共通する。ただ、太輔の行

    動や和歌と伊勢物語がどのようにリンク(思し召し合はせ)するのかが、わか

    らない。太輔が法師原で粗野であろうが、「あはれ」を解しているということ

    か。

   風のつて=風の便り。風の便りも届かないうちに色が変わるのは花の罪だと言え

    ましょうか。あなたの好意を私は知らなかったのですよ、という意か。    

 

 氷居し胸のつらさも打ち解けて、夢ばかりなる春の夜の、*千夜を一夜に思ひしも、甲斐なく立ち別れなんとせし時、有明の月は朧に照りもせず、曇りもやらず、乱れてかかる黒髪の、隙より眉のいとほのかなる御様にて、いかが思し召しけん、かすかに、

  今よりは思ひおこせよ我もまた忘れじ今朝のきぬぎぬの袖

 御裳裾に取りつき奉りて、

  永らへてまた見む花と頼まねば*風を待つ間の露ぞ悲しき

 と聞こえて、「よしさらば、別れじ。」と朝の床の上の*枕ぞ形見、またやうち寝んもさすがに人目を忍ぶ習ひなれば、閨の落ち髪の一筋二筋ありけるを、拾ひてたとう紙に入れ、我が宿に帰り来たりて、美しかりし御顔ばせと、飽かぬ別れの物思ひ、何れを何れとも分きかねて、そのまま起きも上がらず、七日と言ふに、終にむなしくなりにけり。

 この事聞こし召されて、あはれにや思しけむ、童を召して、「煩ふことやありしか。」と問はせ給ひければ、「この年月の物思ひ、かすかなりける*御物語に、いと思ひの勝るにや、五六日は露をだにも口に、*何しか扱ふ人もなきにや、はかなくなり候ふ。」と申しければ、「あはれの*さや、いつの世の何の夕べにかこの*あわれをもはん。」とのたまうて、衣引き被きて、人目をも忍び給はぬ様にや、臥し転(まろ)ばせ給ひける。

 されども、いかにと慰め申しければ、さらぬていにし給ひけれども、なにくれの果物をだに*触れさせ給ひこそもなかりければ、僧都の御坊慌て騒ぎ、一山の大衆、*足を空にして、物の怪にやとて様々の修法などせさせ給ひ、療治など加へ奉る。おどろおどろしくはなけれども、日々に重り給ひけり。匂ひやかに美しき御姿の、いと面痩せてあはれなり。

  

(注)千夜を一夜に=「秋の夜の千夜を一夜になぞらへて八千夜し寝ばや飽く時のあら

    む(伊勢物語・22段)」を踏まえる。

   風=原文「よせ」。体系の校注者によって「風」としたが、露が待つのは風だろ

    うか。

   枕ぞ形見=わかりづらいが、形見は落ち髪にかかるか。

   御物語=「物語」は男女の語らい、契りを言う。太輔と弁公の逢瀬。

   何しか扱ふ人もなきにや=わかりづらい。誰も口に露を含ませることができなか

    ったのか。介護を拒否して、自ら絶食してか。それとも自然衰弱か。

   さや=語義未詳。

   あわれをもはん=あはれ思はん、か。

   さらぬてい=何でもない様子。

   足を空に=地に足がつかないで、慌てふためき。

  

 ある時、人を避(よ)きてかの童を御枕近く候はせて、

 「あこは知らじ。古、奈良の都に*侍従と言ふ童あれど、その身*えらなりけるにや、ある人*語らひかしづき侍りしを、障はらする人ありて、その人嘆き、終にむなしくなりにけり。この事を侍従あはれに思ひて、悲しみに耐へかねけるにや、和泉川に身を投げて、*底の水屑となりにけり。*僧都範玄はその心も知らず、あはれに思し召して一首の歌あり。

  何事の深き思ひに和泉川底の玉藻と沈み果てけん

 とあそばしけるとかや、千載集に入れられたり。昔は人の思ひをあはれむこと、かやうにありし事なり。」

 と仰せければ、童承りて、

 「こは、あさましき事を仰せらるるものかな。未だ生まれ給はぬ先だにも、後世を頼むと仰せおかれし御父の御志、また、御母上の御嘆き、いかがはせさせ給はん。」

 と申しければ、

 「*いさとよ、思ひ立つ事はなし。」

 と仰せられ止みたりけり。

 されども、日々に弱りもて来て、限りの様にならせ給ひける。僧都の御坊は申すに足らず、同じ谷に法門坊鋼誉僧都、そのよしみおはしまして、病窓、かの床にも去らずいたはり給ひける。

 されども、*老少不定の習ひ、*旧る言にも、「後れ先立つ花は残らじ」との例にや、水無月十四日、昌長・鋼誉の御手をひしひしと取り、御眉のいとたゆげなる御目を開き、いとなよなよとして、御母上の恋しさなど仰せられて、程もなく消え入るやうにうせ給ひける。

  昌長・鋼誉は申すに及ばず、一山の大衆慌て騒ぎ、さながら五月の暮闇のごとくにして、夢に道行く心にや物に皆当たりける。

 御母上に伝へ申しければ、そのまま起きも上がり給はず、「正保の離れ参らせしは、またことの数にもあらざりしを。」と嘆かせ給ひける。ことはりにぞ人皆申しける。

 さて、あるべきにあらねば、清滝寺尊豪法印と申す貴き聖を頼み奉りて、一時の烟となし奉る。はかなかりける事どもなり。様々の御とぶらひ、*七日七日に限らずし給ひける。

 御嘆きのあまりにや、昌長僧都、*伝法灌頂を執り行ひ、壇上に御位牌を立て、「*過去幽霊平昌信 頓証菩提」と*廻向し給ひける御志、「ことはりにも」と袖を濡らさぬはなかりけり。

 次の日また鋼誉僧都も、灌頂執行し、「過去幽霊一つ蓮華に上らせ給ひて、我らが終の行く道には、観音の御手の内の蓮台に取り上(のぼ)せ*兜率の内院に引き取り給へ。」と*法施し給ひし御志、また優れて、人皆あはれに思ひ奉る。

  召し使はれし童も、髻切り出家して、*御骨を首に懸けて、行方も知らず出でにけり。その他、召し使はれし人々、深き思ひに引き籠るもあり、谷に転(まろ)び落つるもあり。あはれなりし事どもなり。

 

(注)侍従=「ならに侍従と申しけるわらはの、いつみ川にみをなけて侍りけれはよめ

    る  なにことのふかき思ひにいつみ川そこの玉もとしつみはてけん(千載

    集・巻九・596)」。この詞書からは本文のようなエピソードは読み取れな

    い。

   えらなり=区切り方が微妙。「童あり。とその身えらなりける」「童あれど、そ

    の身えらなりける」の区切り方が考えられる。いずれにしても「えらなり」は

    語義未詳。「えならずなり」ととりあえず解釈しておく。文脈からすると、三

    角関係、身分上、宗門上の障害があったのか。

   語らひかしづく=交際して(契って)面倒を見る。

   底の水屑となりにけり=溺死した。

   僧都範玄=平安末期から鎌倉初期の真言宗の僧侶。

   いさとよ=はぐらかしてする返事。さあねえ。

   老少不定=老人が早く死に、若者が遅く死ぬとは限らない事。人の寿命はわから

    ない事。

   旧る言=「あはれなり老木若木も山ざくらおくれ先立ち花は残らじ(平家物語

    経正都落)」に拠る。

   七日七日=死後七日ごとに行う法要。初七日~七七日(四十九日)。

   伝法灌頂=密教で弟子に秘法を授ける儀式。ここでは供養の儀式か。

   過去幽霊=過去精霊。この世を去った者の霊魂。

   頓証菩提=速やかに悟る事。すみやかに成仏せよ、との祈り。

   廻向=供養すること。

   兜率の内院=兜率天(菩薩が住む天)の内院(弥勒菩薩が住むとされる)。

   法施=説法。

   御骨=分骨したのであろう。その一部。

 

 またここに、*真鏡坊昌澄と言ふ人あり。愚かなれども、筆取る技を得たり。弁公かの法師を召して、天台の*四教五時の名目を書くべき由のたまひけり。

 その夏の頃、この山に峯あり。*神護景雲元年に勝道上人、この山を開闢し給ふに、*本宮と中禅寺両社を崇めおき給ひて後、*智光行者に*密約し給ひ、葛城の霊窟を移し踏み分け給ひけるとかや。

 *弘法大師、その後、滝尾の霊社作り立て、品品の仏像を刻みおき給ふ。

 *慈覚大師、下り給ひて新宮を建立し給ひ、千手、弥勒、馬頭の霊像を刻み立て、満願寺といふ寺号をなしおき、神殿には程程の御宝物を納め給ふ。傍らにまた、文珠の霊像を作り立て、当山の*宝祚を守らしめ給ひける。

 されば、桓武・平城・嵯峨の三帝の*勅願寺として、*正一位准三宮日光山大権現と御神官参らせ給ひて未来永劫まで、人民の守らせ給へとなり。

 さて、昌澄法師、*夏峰の先達に当たりて、弁公へ返答しけるは、「修行否み難し。出峰の事終わりて、書き奉らん。」と申し乞ひて五月半ばに入峰して、*山林斗藪の行を立て、樹下石上を宿とし、不惜身命に身をなして、一心不乱に修行しけるに、弁公うせ給ひぬと聞こえければ、*篠懸(すずかけ)の袖を絞りける。

 されども、日限りあれば、文月十四日に成就して、御墓に参り臥し嘆けども甲斐なく、翌日よりかの聖教を書き奉り、御墓に納め参らせ、愚かなれども一絶を仏前に供へける。

  翰墨約君君別離 無親疎似有親疎

  莫嫌紙上班班色 進孝野僧滴涙書

 その夕べ我が宿に帰り、嘆き明かしてまどろみたりける夢に、弁公、この聖教を開き給ひて、御嬉しげなりける御顔ばせにて、一首詠ませ給ひける。

  筆の跡見るとは知らじ夢の内も交はす言葉の例なければ

 と詠ませ給ひ、その夢に暫しもなくて明けゆく空に覚えけり。もしやと目を開き、辺りを窺ひけれども、跡形もなくなりにけり。

 昌澄法師、かやうのあはれどもに、*いささかなる身を恨みて、往生院と言ふ蓮台に、弘法大師阿弥陀の霊像を作り立てて、*妙覚門と額をあそばしける。今に絶えざる事どもなり。

 ある外典を見るに、「*一日安閑は値万金」とあり。また「*大隠は朝市に隠れ、小隠は岩藪に隠るる」と言へり。

 しかしただ、*かの傍らに住ままほしく、「*在於閑処 修摂其心」と言ふ経文を悟り得て、方丈なる庵室を結び、朝夕にかの御菩提を弔ひ参らせて、二六時中には法華経典を読み奉る。されば、「*寂莫無人声 読誦此経典」と読み上げけるを聞く人疎かにはせざりけり。

 弁公ある人の夢に、「*鹿島のみかくれ明神の、仮に現じ給ひ、あまたの人を発心させ給ふと確かに告げ。」ともありけり。

 またある人の夢に、一首の歌あり。

  恋しくは上りても見よ弁の石我は権社の神とこそなれ

 黒髪山の頂に、弁の岩と言ふ霊石あり。富士の岳の*望夫石の古語を思へば、こと合ひたる心地して、新たなりける事どもなり。

 かかる不思議どもに、人皆*なみいて、あるは語り、あるは嘆き、よしさらば、人の唱ふべきものは、弥陀の名号、願ふべき業は、*安養の浄刹なるべしと*一慶に不惜の阿弥陀仏を両三遍申して、目を閉じ塞ぎ、袖を濡らさぬはなかりけり。

 

(注)真鏡坊昌澄=「天正十壬午歳五月晦日 二十四年中絶ノ夏峯為再興東山真鏡坊昌

    證先達入峯 五十二歳云其以後入峯記ニ不見(補陀落夏峯之次第・奥書)」 

    (日光その歴史と宗教・春秋社による)とあり、澄と證の違いはあるが、実在

    の人物と思われる。「弁の草紙」も実話に取材したのか。平泉澄氏は撰者に比

    定している。確かに昌澄には僧階や敬語が用いられていず、「愚か」「いささ

    かなる身」と卑下した表現で描かれている。さんずいとごんべんは崩すと似て

    いる。

   四教五時の名目=釈迦の教説を四種に整理したものと、五つの時期に分類したも

    の。その経典の筆写を依頼したのか。名目が判じ難い。後出する聖教を指すよ

    うだ。

   本宮と中禅寺両社=二荒山神社には、本社(東照宮西)、中宮中禅寺湖

    岸)、奥宮(男体山山頂)がある。本社と中宮か。

   神護景雲元年=西暦767年。

   智光行者=奈良時代の僧。このエピソードは未確認。勝道は苦難の末、二荒山を

    踏破し、奥宮を建立した。これが、「智光行者に密約し給ひて後、葛城の霊窟

    を移し踏み分け」たことになるのか。智光に関わる葛城修験道に関わる霊窟、

    霊廟を分祀したのだろうか。

   弘法大師空海。820年に日光を訪れて、滝尾神社、若子神社を建立したと伝え

    られる。

   慈覚大師=円仁。延暦寺第三代座主。848年日光を訪れて、本堂・薬師堂を建

    立したという。

   宝祚=位。地位。「天下泰平宝祚長久万民安穏」などと天皇の長久を祈る文脈で

    用いられる。

   勅願寺=勅命によって建立された寺。ここでは勅願(天皇の願い)を具現させる

    ための祈祷の寺、という意味か。

   正一位准三宮=神社に朝廷より与えられた神位(神官)。

   夏峰=夏に男体山に上る山伏の行。男体禅定というらしい。かなりの苦行で、遭

    難者が続出し、永禄元(1558)年~天正10(1582)年の間中断していたと前

    出の真鏡坊の記述にある通り。先達は先導役。

   山林斗藪=山野に寝て修行すること。

   篠懸=修験者が着る服。

   翰墨約君・・・=七言絶句。承句が2ー2-3に区切れず、3-1-3となって

    おり、結句の四字目が孤平である。韻は上平六魚韻だが、起句は支韻で通韻す

    るのだろうか。翰墨は筆と墨。親疎は交際の意味か。進孝はよくわからない。

    聖教を書く約束をしたのに、それを果たさない間に君と別離した。親しく付き

    合うことはなかったが、心では親しみを感じてはいたのだ。紙がまだら模様に

    なっているがいやだと思わないでおくれ。あなたを思う野僧の涙が紙に滴り落

    ちたのだ、との意か。

   いささかなる身=自分の功徳の足りなさを言ったものか。それを恨んでどうした

    のかは行の飛んだ「しかし只」以後の記述か。往生院に籠ったのか。

   妙覚門=日光浄光寺には、弘法大師真蹟の「妙覚門」という扁額があるという。

    浄光寺は往生院と浄光坊が併合する形でできた寺らしい。

   一日安閑は値万金=「一日の命万金よりも重し(徒然草・九十三段)」とある。

    漢籍の典拠があるのか。

   大隠は朝市に隠れ=未熟で十分に悟り得ない隠者は境遇に煩わされることを恐れ

    て山林にのがれ隠れ、大悟徹底した隠者は山林に隠れないで、かえって市中な

    どにかくれ住んでいる。(精選版日本国語大辞典)「小隠隠陵藪 大隠隠朝

    市 伯夷竄首陽 老聃伏柱史(王康琚・反招隠詩)」が典拠。往生院はさほ

    ど山中ではない。

   かの傍ら=弁公が住んだ近く。往生院は教城坊と同じく東谷にあったのか。

   在於閑処 修摂其心=法華経・安楽行品の一節。

   寂莫無人声 読誦此経典=法華経・法師品の一節。

   鹿島のみかくれ明神=鹿島神宮常陸の国一の宮

   望夫石=妻が出征する夫を見送り、そのまま化したと伝えられる石。望夫石伝説

    は広く東アジアに分布するようである。日本では、唐津の鏡山に松浦の佐用

    が大伴狭手比古との別離を悲しんで岩になったとの伝説がある。富士山におけ

    る望夫石伝説は未見。

   なみいて=そろって。または、「涙出で」か。

   安養の浄刹=極楽浄土。

   一慶=一向か。