本文 その11
年も改まり、毎年の事ですが、新鮮な気持ちで、日の光ものどやかで、すがすがしい空の様子に、人の心も喜ばしくなります。慶賀の歌を奏上する人も多く、仙洞御所で歌会が催されました。中将も参内して、「立春の心を」という事で次のように詠まれました。
ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ
「新しい一年のやって来る曙の空に早くも霞が春に先立ってやってきた。」
これにとどまらず、詩歌に心を傾け、風月の方面(詩歌)にも熱心に取り組んで、季節の移り変わりの折にももののあわれをお詠みになられました。
秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは
「秋に来て春には帰る雁は、秋の月と雁の取り合わせが愛でられるが、春の帰雁と
花の取り合わせも劣らない。」
晩春には、
青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば
「青柳の糸のような枝はとてもはかなく見えることだ。糸とはいっても春をつなぎ
とめるわけにもいかないので。(夏はすぐ来る。)」
芳しい春草は夢の中でまだ残っているのに、秋の気配は枕元に忍び寄ってくる。かように季節の移り変わりは早く、卯月(四月=夏の初め)一日となりました。
今日は衣更えという事で、山里の僧都の元にいた頃、故中納言殿が夏の装束を仕立てて送ってくださったことなどを思い出して、
夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな
「夏衣に花橘の香りが染みている。夏装束を送ったくれた父の思い出も今となって
は昔の事になってしまったなあ。」
同月の十三日は父君の忌日で、中将殿は仏事を執り行いなさいました。法事も果てて夕方となり、中将は中納言殿がかつて住んでいた西の京へ出かけて行きました。旧宅に着き、昔を恋しく思い出されますと、ますます感慨がが募ります。
まことに移り行くこの世の習いは言うまでもないことではあるけれども、もののあわれを深く解する中将殿には、ひとしお悲しく思われます。とても立派な邸宅として住みなしていた跡も、今は猪の寝床となって雑草が生い茂って、侘しい限りでございます。
そもそもこの場所は、故中納言殿が長年にわたって住まれた所で、玉の(ような磨き上げた)礎や黄金色に輝く砂(いさご)を敷き詰めて、美麗の限りを尽くしなさったものでした。特に帝もお気に入りなさって、行幸もたびたびありました。春は花見に絶景だと庭園を作り、桜の木々を並べ、秋は名月を鑑賞するのに好都合だと、池を掘って水を湛えました。
様々に興趣溢れる所であったのに、いつの間にか荒れ果てて、草深い伏見の里ともたいして違わず、鶉の鳴く磐余(いわれ)の野辺も今目の前にあるようで、その光景を目の当たりにするや否や、とめどもなく涙が流れ、袖を湿らせます。そうはいっても思い出多い場所なので、知らず知らず夜更けまで時を過ごしてお帰りになりました。
原文
あらたまの年も来りて常なれど、今めづらしく*日影ものどやかに、うるはしき空の気色、人の心も喜ばしくなりて、歌など奉る人多かりければ、*仙洞にて御会の御事あり。中将も参れりけるに、立春の心をとて、
ひととせの行き交ふ空の曙に霞や早き春や先立つ
これにしもあらず、詩歌に御心をやりて、*風月の方をこととせられしかば、折節の移り変はるにつけても、あはれをのみぞ述べられける。帰る雁を詠める。
秋に来て春には帰る雁がねの月にや花の劣るものかは
春の暮れに、
*青柳のいとはかなくも見ゆるかなさりとて春を繋ぎとめねば
*芳草夢なほ残りて、秋声枕に来らんとす。春もまた暮れて、卯月一日になんなりにける。
今日は衣更へとて山里におはしける時、故中納言殿、装束など仕立て給はせけることども思し出でて、
*夏衣花橘の香をしめば今日も昔になりぬべきかな
同じき十三日は父の忌日なりとて、御仏事などとり行はせ給ふ。
夕べになんかかりて、中納言殿住み来し給ひける西の京へ到りて、昔恋しう思し出づるに、いとどあはれぞまさりける。
げに移り行く世の例、言はんもさらなれど、心ある際は、今一入(ひとしほ)悲しかりぬべし。いともかしこう住みなしたる所も、*臥す猪の床となりもて行くぞわびしきや。
さればこの所は故中納言殿、居渡り給ひしかば、玉の礎、黄金の砂(いさご)を敷きて、美麗をなん尽くし給ひける。ことさら帝の覚えも盛んにして行幸度々なりければ、春は花を見るによろしとて、園生作りて木を並べ、秋は月を得るに便りとて、池を掘りて水を湛ゆ。様々興あることなりしに、いつの間にかは荒れ果てけん、*草深き伏見の里も遠からず、*鶉鳴く磐余の野辺も今目の前に見るより早き御袖の涙も詮方なければ、さすがに名残り多くて、知らず夜更かし帰り給ふ。
(注)日影=日の光。
仙洞=仙洞御所。上皇の御所。
風月の方=自然に親しんで作る詩歌。
こととせられ=専念する。熱中する。
青柳の・・・=「いと」が、いと(とても)と糸の掛詞。「いと」と「繋ぐ」は
縁語。
芳草・・・=特に典拠のある表現ではなさそう。春だと思っていたらあっという
間に秋が来る、という意味だろうが、晩春と初夏をつなぐ表現としてはどう
か?
夏衣・・・=「五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする」(古今集・伊
勢物語)を踏まえる。
臥す猪の床=草を折り敷いた猪の寝床。
草深き=草深い伏見の里と近い(似たような)状態。距離的な遠さではなく。