religionsloveの日記

室町物語です。

嵯峨物語⑫ーリリジョンズラブ5ー

本文 その10

 一方、一条郎は松寿君都へ戻って中将となってからは、文を伝える術もなく、かといって思いを断ち切ることもできないでいました。鬱々たる思いで、京師にさまよい出でてゆかりある古御所を訪ねて、様々なことを語り合って、鬱屈した心を晴らそうとしました。 この屋敷の主は本源の侍従と申します。かつて故中納言殿の邸宅に出入りしていて、松寿君僧都に紹介した男でありました。ゆかりあるとはいっても、一条郎の事は名前を聞いているだけの、初対面だったのでその素性までやよく存じません。話題が最近の中将殿の活躍ぶりに及び、並々ならぬ人徳などを語ったついでに、

 「先日中将殿にお会いしたら、嵯峨野の奥に某とかいう世捨て人がいて、中将殿も想いをかけていたそうですが、今でも慕わしく思われているなどとおっしゃっていましたなあ。」

 などと語ったので、一条郎は、今も自分の事を思っていてくれているのだと、心ときめく思いで今までの経緯を語り、すぐさま自分の思いを手紙に綴り、本源の侍従に託します。侍従は快く承知し、一条の文を中将へと取り次ぎました。

 中将は、「思いがけない手紙であることよ。きっと私の事を恨めしくご覧になっていることだろう。」と冗談交じりに文を開いてみると、平素に受け取る文とは異なり優雅に書かれていて、末尾に一首の漢詩が書かれてありました。

  一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  「私の真心はことごとく成就しなかった。鯉や雁に託した手紙は届かず、思いは伝

  わらない。あおぎりは雨に打たれて私の命の灯は消えそうで、寝ても覚めてもあな

  たを想い暗闇の中でおののいているばかりだ。」

  いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

  「どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあなたに預けてしまっ

  て私は私の心をなくしているのだから。」

 中将は、かつてのやり取りを思い出し、同じ韻字で唱和した詩にいたく感じ入り、慕わしく思われたのですが、政事が多忙を極めていて、徒言(ただごと=詩歌を添えない散文)だけの返事をするだけで月日は過ぎていきました。一条には侍従しか伝手はなく、侍従頼みで送ったのですが、その甲斐もなかったのでした。

 年も暮れて、今年も今日ばかりという大晦日、一条は再び文を書き送りました。今度は、旅先の夫を思う妻の心情を詠んだ「文選」の古詩を引用して、

  思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  「あなたを思うと私はすっかり老いてしまいます。歳月はあっという間に過ぎてい

  きます。」

  年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

  「私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなくな

  るだろう。」

 このように詠じて送りました。

 

 

原文

 さて一条は、中将都へおはしけるより言ひ入るべき術もなく、また思ひ絶えん心にもあらねば、あまりの事に京の方に出でて、ある*古御所様(やう)の*しるべあるに到りて、よろづの事など語り合ふて心遣ることなりけるに、*本源の侍従一条が名をのみ聞きて、その人は未だ見給はざりければ、この頃中将殿の振る舞ひの大方ならぬ事など言ひ出だして、

 「嵯峨野の奥に、なにの世捨て人とかや、思ひ懸けてありしが、今もあはれに思しける由、一日もおほせられしか。」

 など語りけるに、一条胸躍りて、やがて「かく」と頼みければ、侍従、安き事にして、文をなん伝へ侍り。中将、

 「思ほえずの御文なりけり。*うらめづらしく見給はん。」

 など*戯れて 開き給へば、いつもよりやさしくて、奥に一首のからうたを書けり。

  *一片忱誠尽不成(一片の忱誠尽くせども成らず)

  鯉沈雁断叵伝情(鯉沈み雁断えて情伝へ叵《がた》し)

  梧桐雨渡風灯底(梧桐雨渡る風灯の底)

  寤寐思君暗地驚(寤寐君を思ひて暗地に驚く)

  *いかにして身をも恨みん心をば君にとどめて我ならなくに

 いとあはれに思しけれども、朝(てう)に暇なかりければ、*徒言(ただごと)にてうち過ぎぬ。一条は侍従のみして、*言はせけれどもその甲斐もなかりけり。

  年も暮れて、今日のみ名残りなりける日、また文を書きてやる。古き詩を引きて、

  *思君令人老(君を思へば人をして老いしむ)

  歳月忽已晩(歳月忽ち已に晩るる)

  *年の尾も人のつらさも今日のみとなさばやものを思はざらまし

 となん詠じて遣はしける。

(注)古御所=古い邸宅。

   しるべ=ゆかり。知人。どのようなゆかりかはわからない。

   本源の侍従=かつて松寿を僧都に紹介した者。一条郎とは初対面。名前だけは知

    っていたが、それが松寿君を慕う男と結びつかなく、世間話として話題とした

    ようであるが、シチュエーションや情景が想像しづらい。

   うらめづらしく=続史籍集覧本「うらめしく」。こちらの方が意が通じる。

   戯れて=なぜ「戯れ」なのか。「どうせ憎まれているのだろうな。」といった自

    嘲的な感情だろうか。

   一片忱誠尽不成=かつての漢詩のやり取りと同じ韻字。「忱誠」はまごころ。

    「鯉」や「雁」は手紙を象徴する。「風灯」は風前の灯火、はかないもののた

    とえ。あるいは消えそうな灯火の実景か。「寤寐」は寝ても覚めても。詩の意

    は「私の真心を込めた手紙の思いは伝えられず、あおぎりは雨に打たれて命の

    灯は消えそうで寝ても覚めてもあなたを想い暗闇の中でおののいているばかり

    だ。」か。

   いかにして・・・=どのようにして我が身を恨もうか、恨みようもない。心をあ

    なたに預けてしまって私は私でなくなっているから。

   徒言=和歌や漢詩を用いない日常的な言葉。

   言はせけれども=何度も書き送ったか一度だけなのかはわからない。

   思君令人老=「行行重行行」(文選・五言古詩十九首其一)の十三・十四句。遠

    い旅に出ている夫を想い妻が詠んだもの。

   年の尾も・・・=「年の尾」は年末。「年の緒」なら年月。歌の意は、「年末も

    私のつらさも今日を限りとすれば、年が改まった明日からは何も悩み事がなく

    なるだろう。」。