嵯峨物語⑦ーリリジョンズラブ5ー
本文 その5
過日の詩席は思い出しても、この上なく心慰められることではありましたが、今は松寿君の事ばかりが心にかかって他には何も考えられません。「自分らしくもない。世を捨てて、世にも捨てられた自分がこのように悶々としていいはずがない。」と悩みを断ち切ろうとするのですが、寝れば夢、覚めれば現に、思いは日増しに募っていくばかりです。かつて楚の懐王が巫山の神女と夢に契りを結び、神女が、「朝は雲となり、夕べは雨となって参りましょう。」と言い残して去ったのを、朝朝暮暮恋い偲んだという故事も思い出されます。
一条郎殿は、その思いを言の葉にして何度も何度も松寿君の元へ書き送ります。しかし返事は一度もございません。
一条は、せめて遠目にでも松寿の姿を見たいと思います。とある冷たい冬の雨が降る日、一条は意を決します。過日の詩会に同席した雲樹院の律師を訪ねます。雲樹院は僧都の院の傍らにあります。律師も一条の事は覚えております。一条が松寿君への思いを打ち明けると、律師殿も不憫に思われて、「法師というものは世間では、すげなく薄情なものと思われていますが、それでもこの仕打ちは私から見ても、どれほどか つらく思われているか心中お察しいたします。歌に言う『最上の川の稲舟』の『いな』ではありませんが、松寿君が『いなぜ(否是)』どちらというかはわかりませんが、とりあえず君の御心を試みにうかがって参りましょう。」と言うので、一条はとても頼もしく思って、涙も溢れんばかりでした。
律師は僧都の院に赴いて、松寿君と対面して、四方山話をした後で、やおら切り出しました。
「それにしても、うかがう所ですと、一条郎殿から頻りに御文を戴いてるとの由。君はどのように考えておいでですか。例えるべきことではないかもしれませんが、吉野山や初瀬川の花や紅葉も見る人がいるからこそ名所となるのです。あなたのようにたった一人でつれなく過ごすのも、なんとも寂しいことで、嘆かわしく存じます。
空に浮かぶ名高き望月(名月)も時を待たずに欠けていくものです。春が更け夏が長け秋が過ぎて、稚けない人も目の当たりに雪のような白髪になるのです。仏の神通力を得たとしても、やがては霊鷲山雲に隠れるようにいなくなり、孔子の奥深い教えを受けても、滔々と流れる泗水に消える飛沫のように散っていくのです。そうでなくとも人として、貴きも賤しきも誰一人この世に留まる者はいません。
これほどはかない世の中に、これほど人を悩ましなさるのも、我執の罪は深く、仏のみ教えにもまことに背きなさることだと思いますよ。『今日は折しも雨が降っていて所在なく、いてもたってもいられずこちらへ参りました。』とおっしゃる一条殿の心映えも好ましいものですよ。」
と縷々と説得するのですが、松寿はとりあえずの形だけの返事さえもしませんので、律師もそれ以上の説得もできず、「岸根に生えるとげの鋭い浜菱さえも、浪にかかることがあるように、心が靡くことがありそうなものなのに。」と恨めし気に出ていくのでした。
一条郎の方は、律師が出ていってから、山風が吹いて来て竹の葉がそよぐ音を聞いても、「あれは応(おう)と吹いているのか、否(いな)吹いているのか。」と心も千々に乱れていました。
やがて律師が戻ってきて、「常盤の山の峰が高いように、松寿君の志も高いようです。新古今の『わが恋は松を時雨の染めかねて真葛が原に風さわぐなり』『時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉は』ではないですが、松は時雨でも紅葉に染めることができないように、松寿君の心は染めることができませんでした。」と申し訳なさそうにおっしゃるのです。それも今更ながらどうしようもなく、その夜は律師の院に泊まって夜もすがら涙の内に臥したのでした。
原文
こよなう慰むことなりながら、松寿のことのみ心にかかりて、*わくかたもなかりければ、「我ならずの心もこそあれ、世をも捨て世に捨てらるる身の程の、かくあるべきものにもなしに。」と思ひ捨て侍りけれども、猶いやましにのみして、寝ぬれば夢、覚むれば現、*雨となり雲となる朝な夕なの物思ひなりければ、はや書き遣る言の葉もあまたたびなりける。
されど一たびの答(いら)へもおはしまさず。せめて余所ながらの姿もやと、*律師の院に至りてければ、律師もあはれに覚えて、
「法師ばかりよにすげなう思はるる*ものから、猶これらやうのことは我が身にならばこそなれども、いかに物憂く思しめすらん。御心をば推し量らるるものを。*最上の川の稲舟の、いなせの程は知らねども、松寿君の御心をば*引き見侍らん。」
と言へば、いと頼もしくうれしきにもいとど涙ぞこぼれける。
律師、松寿君に至りて、いにしへ今の物語などして、
「さてもこのほどの事どもいかに思すにか侍らん。これは例ふべきにはあらねど、吉野、初瀬の花紅葉も見る人故の名なるべし。さのみに一人のみつれなく過ぐさせ給はんも、いとさうざうしくうたてぞ見ゆる。空に名高き望月も隠るに程やはある。春更け、夏長け、秋過ぎて、稚けなかりし人も、見るうちに雪の頭(かしら)とぞなんめる。仏の*通を得しも*鷲峰の雲に隠れ、孔子(くし)の*ゆほびかなるも*泗水の沫(あわ)と消えぬ。その外貴き賎しき、一人としてとどまるべき身にしあらず。
かほどあだなる仮の世に、さのみに人を悩まし給はんも、*人我(にんが)の罪深く、仏の御教へにもさこそは違はせ給ひけんとぞ覚ゆる。
今日は折しも雨の内にて、つれづれいと耐へ難ければ、こなたへなど言はせ給はんには、いとつきづきしからん。」
など細々に語らひけれども、とかうの御返事もおはしまさねば、律師も諫めかねて、「*岸根に生ふる浜菱もなみかかることはあるなるものを。」とかこち顔にて出でぬ。
一条郎はまた、律師の出でしより*吹く山風の*おとづれに竹の葉そよぐ音までも、応(おう)とやは言ふ否(いな)とやは言ふと心を千々に動かしけるに、律師のまうで来たりて、「*常盤の山の山高み松を時雨の染めかねつ。」とのたまふにぞ、いまさら栓方なかりける。その夜は律師にとどまりて、夜すがら涙に臥しにけり。
(注)わくかたもなかり=「わくかたなし」は心を散らすことがない。他の事が考えら
れない。
雨となり雲となる=「巫山の雲雨」を踏まえる。楚の懐王が夢で神女と契りを結
び、別れ際に神女が、「私は朝には雲となり、暮れには雨となりましょう。」
と言ったという。恋い慕うことの形容。
律師=前章に出てきた雲樹院の律師であろう。僧都の院の近くにいたのだろう。
ものから=逆接の接続助詞。~けれども。
最上の川の稲舟の=最上川で使われた耕作舟。いなせ(否是)を引き出す序詞的
表現。
引き見=引き出してみる、試す。
通=神通力。
鷲峰=霊鷲山。釈迦がしばしば説法をした山。理想世界を象徴するものとされ
る。
ゆほびか=原文「いおひか」。ゆったりとしている。深遠で奥深い。
泗水=孔子の生地、曲阜を流れる川。「泗水の学」は儒学、「泗水の流れを酌
む」は儒学の教えを引き継ぐ、の意。
岸根に・・・=「岸根」は水際。「浜菱」は植物。菱とは違うようであるが実に
鋭いとげを持つ。そのようなとげとげしい浜菱にも水際であれば浪がかかると
いうのであるが、「なみかかる」が意味が分からない。悲しみの涙を流すこと
がある、の意か。浪が打ち寄せるように心を寄せる、の意か。「浪」と「靡
く」を掛けているのか。
吹く山風=前の場面で「今日は折しも雨の内」と律師が言っているのに雨音では
なくて風の音で例えるのはちぐはぐな感がある。
常盤の山・・・=「時雨の雨染めかねてけり山城の常盤の杜の真木の下葉は(新
古今・巻六冬・577)」。