religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息⑦ーリリジョンズラブ4ー

消息 その2

 私は、これは実にうれしいことだと思って、

 「どんなお尋ねでも結構ですよ。私にお任せください。」

 と言うと、それでこそ情けの人よと稚児は徐に尋ねた。

 「和泉式部が詠んだという歌があります。

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月

 この歌の真意を人にも尋ね、自分でも理解しようといたしましたが、はっきりと説明してくれる人もなく、私自身も十分に理解できたとは思われません。この歌の心を教えていただけたなら、あなたの思い通りに私の身を任せましょう。」

 と言うのである。挑発的な物言いである。私を値踏みしようというのか。それでも、稚児の心が私になびいたのがうれしくはあり、私に従いましょうとの言葉に、前後を忘れるほど胸が高鳴って、うまく筋道を立てて説明できるようには思われなかったが、とりあえず、

 「これは、他なることではございません。法華経の巻三、化城喩品第七の『従冥入於冥』の偈文の心を和歌として詠んだのですよ。」

 と説明すると、

 「それでは、その文をどのように説明してくださるのですか。」

 と重ねて尋ねてきた。幼き人に法華経を説くのは、ちと骨の折れることよ、なまじいの法論よりは手間がかかる。そうはいっても無下にあしらったり、取り合わないでいるのもまた大人げない。さらば、懇ろに説いて進ぜようかと思って、次のように説いた。

 「何億何万劫の長い間で、諸仏がこの世にお現れになることは本当に有難い事で、あの優曇華の花が三千年に一度咲くようなものです。それに、たまたまその仏がこの世に現れたとしても、我々がその仏にお会いできるのはこれもまた難しいことなのです。

 昔、仏陀は舎衛国の祇園精舎に二十五年いらっしゃっいました。それでも、九億の諸仏の内、三億の仏にはお会いすることはできませんでした。それに、そのようにわずかにしか見られないことは、一眼の亀が百年に一度海面に上がって漂う木のたった一つの穴に首がすっぽり、入るのに似て稀有であるという事に気づかれませんでした。

 仏がこの世に出現するのに遭遇することのない衆生は、勝手気ままに振る舞っては罪を作ります。破戒無慚な恥知らずで、煩悩がさらに煩悩を発し、業がさらに業を生じ、悪業を作ることは、牛毛よりも数が多く、正しい善法をなす者は、兎の角よりもまれなのです。

 順境で思い通りになる時は心の中で惑(煩悩)に執着し、思いに違う境遇にあれば、瞋(いか)りに任せて害を及ぼします。日を追って、月に増して悪い方に進むので、煩悩の雲に覆われるばかりで、知慧の光は射し込まないのです。

 ですから、この世の中を生死の長夜(生死流転を繰り返す迷いの長き夜)と仏はお説きなさるのです。「唯識論」と申す経典の中で、『永く真の覚(さとり)を得、常に夢中に処す。故(かるがゆへ)に仏説きて、生死の長夜と為し給ふ。』と解き明かされています。仏に出会わない我らは、このような惑いの闇の憂き世から、さらにつらい地獄・餓鬼・畜生の三悪道へと堕ちていくのです。このことを和泉式部は、『冥(くら)きより冥き道にぞ入りぬべき』と詠んだのではないでしょうか。

 また、仏は月に喩えられて和歌にも詠まれ、漢詩文にも書かれています。『仏様よ、遥か遠くからはっきりと御覧になって私をお助けください。』と思って、『遥かに照らせ山の端の月』と詠んだのだろうと承知しておりました。」

 いささか長口上になってしまった。稚児はじっと私から視線を外さず聞いていた。稚児の表情からは、人を見定めるような視線の険しさが消えていた。穏やかな口調で、

 「素晴らしいご説でございます。このようにお説きなされるとは、さぞやご立派な方でございましょう。いずれにしろ取るに足りない山寺などにいらっしゃる方ではございますまい。しかるべき本寺、本山の人であろうと思われます。是非とも、あなたのご境遇をお教えいただけませんか。私もこの歌には思うところがございます。そのこともお話いたしましょう。」

 と言う。さして語り合ったわけではないが、何か私の心中にも稚児の態度にもお互いに心を許す気分が生じたのであろうか、もはや体裁を繕って隠し立てする気も消え失せて、私は私の過去をこの少年に語ったのである。

 「私は京の都の北のほど、賀茂のほとりに生まれ育った者です。されど九歳という年の弥生の初めに両親に先立たれまして、やがてその年の卯月の末に園城寺に入山いたしまして、三井寺の学流を学び、稚児として日々を送っていたのですよ。

 ところが、稚児殿はご存じであろうか、高倉の宮以仁王平氏を討伐しようと諸国に令旨を下されたことを。あれは治承4(1180)年の事でした。その謀議が漏洩して以仁王園城寺に逃げ込んだのですが、大衆は王を奉じて平氏と闘い、その堂宇をことごとく消失してしまったのです。また数多くの経典もすべて灰燼に帰したのです。十にも足らぬ私には、なんともつらく、世の中が厭わしく、悲しく、この憂き身を寄せる場所もなくなって、どうしたらいいのか途方に暮れていたのです。こんな私が思いがけず比叡山に上る事ができまして、剃髪出家したのです。

 それから幾年月、幼き頃の無常の思いは忘れ難く、世の人々が名利に走るのは厭わしいとは思っていたのですが、それはまだ分別も定まらぬ頃なので、かくありたいと思うともなく、また、思わぬともなくぼんやりと過ごしておりました。

 同宿、同朋と親しく交わるうちに、世の中のはかなさを思い知り、俗世間を断ち切ろうとの思いも薄れていったのですが、やっと今日の朝、思いかなって師匠の許しも得、山を下りてこちらに参ったのですよ。」

原文

 僧、よにうれしと思ひて、

 「いかにもあれ、身をば任せ参らせむ。」

 と申せば、さては、しかるべきにこそとて、児の言ふやう、

 「*和泉式部が詠みたるとかやらむ、

  暗きより暗き道にぞ入りぬべき遥かに照らせ山の端の月

 と言ふ歌の心を人にも問ひ、我も心得むとし侍るに、はかばかしく申す人もなく、我もよく心得たりとも思ひ侍らず。これをだにもをほ▢られたらば、いかにも我が身をば、御心に任せ参らせむ。」

 と言ふ。僧うれしながら、この歌の心、いかにも申すべしとも覚えねども、この児の、「いかにも我に従はむ。」と言ふがうれしさに、よろづをば忘れて、申すやう、

 「これは、別(べち)の事にやは侍るべき。*法華経化城喩品の『従冥入於冥』の文の心を詠み侍るにこそ。」

 と言へば、

 「されば、この文をば、いかに説きて侍るぞ。」

 と重ねて問ふ。*あさましと思ひながら、言うはざらむもまた、さすがなりと思ひて、申すやう、

 「億々万劫の間、諸仏の世に出で給ふ事、実にありがたく、かの*優曇華の三千年に一たび現ずらむが如し。たまたま世に出で給ひた▢とも、我らが会い奉ること、また難し。

 昔、仏*舎衛国にましますこと二十五年、されども*九億の中の三億は見奉らず。また、知らざりき、纔かに見奉ることは、*一眼の亀の浮木の穴に会へるに似たり。仏の出世に、会ひ奉らざる衆生は、心に任せて罪を作る、*無慙破戒にして、煩悩より煩悩を発(おこ)し、業より業を生じて、悪業を作ることは、牛の毛よりも繁く、善法をなす者は、兎の角よりもまれなり。

 順の境に会へば心に*惑着▢なし。違の境に会へば甚だ*瞋害をなす。日に添へ、月にま▢て、悪(わろ)くのみなれば、煩悩の雲に覆はれて、知慧の▢▢りもなし。されば、この世の中をば、生死の長夜となむ、仏は説き給ひ、『*唯識論』と申す文には、

 『永く真の覚(さとり)を得、常に夢中に処す、故(かるがゆへ)に仏説きて、生死の長夜と為し給ふ。』

 と*尺し給へば、かかる暗惑の憂き世より、三悪道と言ふこれよりもあさましき処へまからむずれば、『冥(くら)きより冥き道に▢入りぬべき』とは詠めるにや。

 さて、仏をば常に月に例へて歌にも詠み、文にも書けり。遥かに*かがみ御覧じて、助け給へと思しくて、『遥かに照らせ山の端の月』とは詠み侍るなむめりとこそ心得て過ぎ侍れ。」

 と申せば、

(注)和泉式部=平安中期の女流歌人。情熱的な歌を詠んだ。「和泉式部日記」があ

    る。「暗きより・・・」は、「拾遺和歌集」所収。

   法華経化城喩品=「法華経」は仏教の根本経典の一つ。全二十八品から成る。化

    城喩品はその七品目。

   あさまし=しつこいなあ、子供が聞いてもわからないことなのに。の感じか。

   優曇華=経典で三千年に一度咲くと伝えられる花。瑞兆。

   舎衛国=舎衛城。北インド憍薩羅(コーサラ)国の都。城の南に釈迦の教化活動

    の拠点、祇園精舎があった。

   九億の中の三億=何が九億なのか?文脈からすると諸仏なのだが、あのお釈迦様

    でさえ九億いる仏の内たった三億しか、の意か。

   一眼の亀=「盲亀の浮木」。百年に一度しか浮かび上がってこない一眼(盲目)

    の亀が海面に浮かび上がって浮木の一つしかない穴にちょうど首が入る、とい

    う経典の話から、会うことの極めて難しいことのたとえ。

   無慙破戒=破戒無慙。戒律を破りながら心に恥じないこと。、

   かがみ=「鑑む」か。神仏などが明らかに見る。

 この児の言ふやうには、

 「あはれに侍る事なり。さは、かかる人にておはしましけるにこそやむごとなく覚ゆれ。いかにもあれ、言う甲斐なき山寺なむどにおはするにはあらじ。本寺・本山の人にてぞおはすらむと思うぞ。御有様詳しく仰せられよ。我が思ふ事の侍る。また、申さむ。」

 と言ふ。まことに、これほどの事になりぬれば、何かは隠すべきと思ひて、打ち解け申すやうは、

 「*王城の北のほど、賀茂のほとりの所生にて侍りしかども、歳九と▢し弥生の初めに*たらちめははかなくなりぬ。やがて、その年の卯月の末に園城寺に罷り入りて、*三井の流れを結び、*龍華の花房をもてあそびてありしほどに、*高倉の宮の闘事(ひしめきごと)に漏らされて罷り出でたりしほどに、やがて寺中を焼失し、*正教も竜宮の塵に収まりしかば、思ひ煩ひて侍りしほどに、いよいよ世の中の厭はしく、あはれにて、憂き身をだにも隠すべき所もなくなりて、煩ひしほどに、思はざるに比叡山へなむ上りて髪を下ろしなむどして、年月を経るほどに、事に触れて、名利の厭はしく覚えしかども、無下に稚けなきほどにて、思ふともなし、また思はぬともなくて、明かし暮らすほどに、やうやう、交衆なむど*したちにしかば、はかなき世の中をば知るとて、いと世を思ひ捨つることもなくて過ぎしが、実(まこと)は今日、山より参りて侍るなり。」

 と申せば、

(注)王城=都。

   たらちめは=「垂乳根(たらちね)」は母の枕詞。母を指す言葉だが、ここは両

    親を指すか。

   三井の流れを結び=三井寺園城寺)の流派を学ぶ。境内に井戸があったことか

    ら御井(三井=三代の天皇が産湯を浸かった井戸)に流れを結ぶ、と縁語的に

    表現している。

   龍華の花房をもてあそび=「龍華」は龍華樹。龍華樹は百宝の花が咲き、その 

    木の下で釈迦が未来に説法を行うとされる。仏道に親しみ、の意か。または龍

    華越え(京都市左京区大原から大津市龍華に至る峠道)か龍華という地名を指

    したものか。三井寺よりかなり北ではある。

   高倉の宮の闘事=高倉の宮は後白河天皇の第二皇子以仁王源頼政の勧めで平家

    追討の決意をしたが、事前に発覚し、園城寺に逃れた。園城寺大衆は以仁王

    奉じて抵抗したが、平氏によって堂宇の多くが焼失したという。「平家物語

    に詳しい。

   正教=経典。経典が灰燼に帰した。龍華の縁で竜宮の塵としたか。

   したちにしかば=意味未詳。比叡山の大衆と親しく交わったとの意か。