religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息⑧ーリリジョンズラブ4ー

消息 その3

 この稚児が得心げに言った。 

 「やっぱり、どこかしら天台宗にお馴染みのある方だと思っていました。それにしてもあなたが仰った歌の心は、素晴らしいとは思いますが、人にだけ言わせて、自分の方が言わないのも畏れ多いことです。私も見聞きし、自分で思ったこともございます。とりとめのないことですが、それを申し上げましょう。

 仏の道を尋ねようとするならば、まずはこの世のはかないことを一番に遠ざけさせるべきです。

 春の鶯が花に遊び戯れても、花が散ってしまえば再びどこかへ帰ってしまいます。秋の露は葉を潤します。葉が落ちてしまえば、露もまた乾いてしまいます。また、ホトトギスが花橘の小枝で鳴いても、水無月になってしまうと語らう声は消え失せます。紅葉の錦が四方の山にあったとしても、峰の嵐が風を誘えば梢はまばらになってしまいます。また、冬の雪は屋敷ををすっぽり隠します。春の日が差し込めば、ただ庭の苔を潤すばかりです。松柏は久しいといいます。千年を経ての後はどうなりましょうか。亀や鶴は長い命といっても、どちらもいつまでもそのままでおられましょうか。

 およそ、道心のある人はこのように思い続けて、真の心を発(おこ)すべきなのです。ですから、縁覚とか辟支仏(びゃくしぶつ)とか申す聖人は、花が散り、葉が落ちるのを見ておのずから悟りを開いたという事です。一方、世間の人は春の花、秋の月を見ては妹(恋人)の薫物の香り、君の顔ばせに思いを寄せるけれども、憂き世の常として、花は風に誘われて散り、月は山に隠れてしまうのです。このように世は無常であることに気づかないで日々を明かし暮らしています。そして、憂えの山の峰に傷みの雲がたなびき、悲しみの海の岸に嘆きの浪が寄せてくるのです。ですから、なにはの事(万事)においても思いに違いながら一生を空しく過ごすのです。

 あるいは朝に生まれて日暮れに死に、宵に遊ぶ者は暁には隠れます(死ぬ)。あるいは親は子を失い、若い者が老いた者に先立つことを悲しみ、子は親を滅ぼして、我が身と代えられない別れを恨みます。あるいは生きて別れる者もいます。昔の王昭君です。漢の元帝が思いを富士の高嶺に通わせても、届くことなく涙がただ袖を潤すだけです。あるいは死んで別れる者もいます。古(いにしえ)の楊貴妃です。唐の玄宗の心は蓬莱の浪に隠れて、わずかに方士の持ち帰った簪を見るだけです。

 哀れなることです、一度別れてしまえば再び逢えないのは。悲しいことです、身分の高い者も賤しい者も生死の苦海に沈んで迷い続けるのは。このように、鏡の中に二人仲良く並んで影を映せるのは、その容貌が衰えない時の内で、鴛鴦(おしどり)のような二人がが衾の下で戯れるのも、おのずから命の消えない間だけなのです。命は長いといっても、老境に至ればどれほど素晴らしいことがありましょうか。顔には皺の波を寄せ、頭には霜のような白髪を戴きます。血管は浮き出て腰はかがまってしまい、人に近づくことも憚られることが多く、立ち居振る舞いでも、若者に気後れするのです。しわがれた声で語らえば、愛想も失い容貌も衰えて、他を妬む心が起こり、ますます厭わしい存在となってしまうのです。春の日に花を見て、花より先に自分の顔ばせがしぼんでいることを嘆き、秋の夜に月を眺めても、月が傾くより先に自分の年齢が傾いていることを恥ずかしく思ってしまいます。

原文

 この児の言ふやう、

 「さればこそ、いかにもあれ天台宗に*ふれはいたる人とは見参らせつれ。さて、仰せられつる歌の心、▢▢たくなむ心得ておはすれども、人に言はせ参らせて、また、わらはが申さざらむも畏れあり。聞きたる事の▢る、*おろおろ申さむよ。

 まず、仏の道を尋ねむには、この世の中のはかなき事より初めて厭はしむべきなり。

 春の鶯花に遊ぶも、花散りぬれば、鳥また帰りぬ。秋の露の葉を潤す。葉落ちぬれば露また乾きぬ。また、郭公(ほととぎす)花橘に鳴けども、音(こえ)水無月になりぬれば、語ら▢音もせず。紅葉の錦四方の山辺にはあれども、峰の嵐誘へば梢まばらになりぬ。また、冬の雪*宿を隠す。春の日差し出でぬれば、ただ庭の苔をのみ潤す。松柏の久しといふ。千世を経て後は、なにかせむ。亀鶴の長き寿(いのち)いづれかさてしもある。

 凡そ、心あらむ人はかやうに思ひ続けて真(まこと)の心を発すべきなり。されば、*縁覚と申す聖人(ひじり)は花の散り、葉落つるを見て、悟りをば開くにこそ。世の中の人は、春の花、秋の月を見ては、*妹が在り香、君がかほばせに思ひ▢そうれども、憂き世の習ひにて、花は風に誘はれ、月は山に隠る。かやうに常なきことを知らずして明かし暮らすほどに、憂への山の峰に傷みの雲たなびき、悲しみに海の岸に嘆きの浪寄せつれば、*難波の事も思ひに違ひて、一生は空しく暮らしつ。

 或(ある、またはあるい)は、朝に生じて暮(ゆうべ)に死し、宵に遊▢者は暁に隠る。或は、親は子を失ひて若きが老いに先立つことを悲しみ、子は親を滅ぼしてわが身に代えぬ別れを恨む。或は、生きて別るる者もあり。昔の*王昭君なり。思ひを富士の高嶺に通わせども、涙はただ袖をのみ潤す。或は、死にて別るる者あり。古の*楊貴妃なり。志を蓬莱の浪に隠れども、僅かにその簪ばかりを見る。

 哀れなるかな、一度(ひとたび)別れぬれば再び会わざる事。悲しきかな、高き賎しきも、生死の苦界に沈まむことは。かくのごとく鏡の内に影を並ぶる事は、形のやつれざるほど、鴛鴦(ゑんあう)の衾の下に戯むるるとも、自ずから命の消えざる間なり。命長しと言ふも老いに至りぬれば何のいみじきことかあらむ。面には波を寄せ、頭には霜を戴く。筋あらはれ腰かがまりぬれば、人に近づくに憚りを▢く。立居に付けて若きを恥づ。音(こえ)幽かにして、語らひをなすに、愛を失ひ形衰へて妬みをいたすに厭はしさ増す。春の日花を見ては、我がかほばせの花より先にしぼみたる事を嘆き、秋の夜、月を眺めても、齢の月よりも傾きけることを恥づ。

 

(注)ふれはい=意味未詳。触れる、関わり合う、の意か。

   おろおろ=原文「をろをろ」。とりとめもなく。

   宿=家の敷地。庭先。前庭。

   縁覚=固有名詞ではなく、仏の教えによらず、自ら道を悟った聖者。辟支仏。

   妹が在り香=(女の)恋人の着物に染みこんでいる薫物(たきもの)のよい匂

    い。

   難波の事=消息には「難波」が三回出てくる。「難波津の道」が歌道の事とすれ

    ば、和歌における仏道の解釈という事になるが、「難波の事」で和歌に直結す

    る用例は探索中である。ここでは「万事」の意に解しておく。

   王昭君=漢の元帝の官女。画工に賄賂を贈らなかったため̪醜女に描かれ、匈奴

    単于に嫁がされたという。出立の時、元帝は美しさに気づき惜しんだという。

    帝の王昭君への思い(あるいは逆か)は富士の高嶺に達するほど、というやや

    苦しい比喩。

   楊貴妃=唐の玄宗皇帝の寵姫。安史の乱で死んだ楊貴妃を想い玄宗は方士に霊魂

    を捜させたが、海上の仙山で合った楊貴妃からは形見の簪を託されたのみであ

    った。蓬莱は渤海に浮かぶ仙境の島。