religionsloveの日記

室町物語です。

幻夢物語⑨-リリジョンズラブ3-

 その3

 仏の方便や神明の利生は今に始まったことではありません。

 しかし、幻夢がひたすら日吉山王根本中堂の薬師如来仏道の悟りを祈ったことによって、二人が菩提心を起こしたことは、実にすばらしいことです。

 あの花松殿は、文殊菩薩の生まれ変わりだと申し伝えられております。衆生済度のために、仮の身をこの世に現じなさったのかと、ありがたく思われます。

 このような昔物語は、狂言綺語の戯れ事とは申しながら、定めなきこの世の有様を、嵐にはかなく消え散る花のような花松殿になぞらえています。またたく灯火が風に消えてしまえば、まことに愚かな人の心は、その後の世の闇の中に立ち迷ってしまうでしょう。花松殿は、幻夢にとって、無知迷妄の雲を払い、真理の月に出会わせるための方便だったのです。

 空しく月日を送り、あっという間の病気にかかって、臨終を迎えんとする時、あたかも、のどが渇いてから、井戸を掘ろうとするようなまねをするのは、無念なことです。若きも老いたるも、まだ時があるからと後回しにしないで、ひたすらただ今に、生死を恐れ、菩提心を起こすべきなのです。

 「金剛経」にも「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是観(この世の現象というものを夢のようであり、幻のようであり、泡のようであり、影のようである。露のようであり、また、電光のようでもある。このように観じなければいけない。)」とあるのです。まことに慎みなさい、恐れなさい。

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原文

 されば、仏の方便・神明の利生、今に始めずと申しながら、幻夢ひとへに日吉山王中道薬師如来へ道心を祈りしによりて、二人の発心誠にありがたきことなり。

 かの花松殿は、*文殊の*再誕と申し伝へたり。衆生済度の御ために、仮に身を現じ給ひけるやとありがたくおぼえ侍り。

 かくの如くの昔物語、*狂言綺語の戯れ事と言ひながら、定めなき世の有様を*嵐に脆き花松殿になぞらへて、げにもあだなる人心、風にまたたく灯火の、消へなば後の世の闇には、*さぞな立ち迷ふべし。*無明の雲を払ひ、*真如の月に逢はしめん方便なり。

 いたづらに月日を送り、病難たちどころに至り、命終はらんとせん時、渇の臨みて井を掘らんは口惜しき事なり。若きも老いたるも、後の月日を期することなく、ひとへに*生死を恐れ、菩提心を発すべし。

 されば、「*金剛経」には「如夢幻泡影、如露亦如電」とぞ。まことに厭うべし、恐るべし。

(注)文殊文殊菩薩智慧をつかさどる菩薩。釈迦如来の脇侍として左に侍し、普賢

    菩薩ととみに釈迦三尊を形成する。本文中には、文殊菩薩を本尊とした寺院

    や、文殊垂迹した神社は登場せず、なぜ文殊かは不明。下その1に引用され

    た「法華経安楽行品」は釈迦と文殊の問答である。

   再誕=生まれ変わること。生まれ変わり。

   狂言綺語=偽り飾った物語のたぐいを卑しめていう言葉。

   嵐に脆き=(群)「ありしに脆き」。(大)(史)によって「嵐」に改めた。

   さぞな=きっと。

   無明の雲=無知迷妄で雲が月を覆うように真理が見えないこと。

   真如の月=明月の光が闇を照らすように、真理が人の迷妄を破ること。

   生死を恐れ=(群)「生花を恐れ」。(大)(史)により改めた。

   金剛経金剛般若波羅蜜経。「一切有為法 如夢幻泡影 如露亦如電 応作如是

    観(一切有為の法、夢・幻・泡・影のごとし 露のごとし亦電のごとし 応

    に如是観を作すべし)」という一節がある。主人公の名前の由来か。