中 その3
幻夢は夢ともうつつともわかりかね、
「もしかしたら天魔などが、私を悩まそうとしているのであろうか。それにこのまま房の中にいて、誰かに見られたらどんな目にあうだろう。急いでどこかへ逃げよう。」
と思案して、間もなく夜が明けるのでそれを待って出ようとは思うのですが、たかぶった気持ちがすっかり冷え切って、ただぼんやりと笛と懐紙を持ったなり、動くこともためらわれていたのでした。
するとそこに、この房の主と見えます齢八十ばかりの老僧が入ってきました。眉は霜がかかったように白く垂れ下がり、額の皺は波打つように幾筋にも湛えています。濃い墨染めの衣に香色の袈裟を掛けて、実に沈痛な面持ちで現れるのでした。
幻夢を見て不審げに、
「あなたはどこの方でいらっしゃるのじゃ。」
とおっしゃる。
「わたしは、都大原の者です。」
「だからどうして大原の人がここにおるのか。合点がゆかぬ。」
「いや、実に不思議なことがござったのです。その一部始終をお話いたそう。お聞きくだされ。」
「何事だというのじゃ。とくとくお語りなされ。」
「そもそもこのぼうは竹林房と申す所でございますか。」
「まちがいござらぬ。」
「去年の十一月八日に授戒の為に、花松殿と申す少年を連れて、帥の公・
侍従の公、を連れて比叡山に登りましたか。]
「そういうことはござった。」
とおっしゃるので幻夢は、四王院に立ち寄って言い捨ての連歌をして以来、この暁に花松が消え去るようにいなくなったまでの不思議をつぶさに語って、笛と懐紙を差し出しましたので、老僧は涙にむせんでしばし言の葉もございませんでした。
しばらくして、
「帥の公・侍従の公おいでなさい。」
と言うと、二人の法師がすぐに出てきました。
「本当にこの客僧とお会い申したのか。」
とおっしゃると、
「そうでございます。花松殿のご授戒の時に、偶然に対面しました。」
と言ってこの二人も、袂を顔に押し当てて泣くばかりです。
そうして老僧が言うには、
「客僧よ、お聞きください。
この若君と申すは、この国の御家人、大胡左近将監家詮(だいごさこんのしょうげんいえあき)と申す人の子でござる。七歳の時、家詮は同国の住人小野寺右兵衛尉親任(おのでらうひょうえのじょうちかただ)と申す者と闘諍があって、討たれてしまったのです。
それ以降、花松丸は常に、
『ああ、大人となって親の仇を打ち取って無念を晴らして、追善供養をしたいものだ。』
絶えず願っているようなので、
『仏門に入って私の弟子になったからには、仏の定めに従って、決して仇討ちなどは思ってはいかん。出家得道して、ひたすら亡き父の精霊の菩提を弔うこそ正しい道じゃ。』
といつも教え諭しておりまして、花松も、『どうであれ師匠の命には従いましょう。』と承知して仏道に打ち込んで年月を過ごしていたと思っていたのですが、今月の十日、それは桜の花盛りで、花松は、古里に帰って一族にも会い、また、知人も多くいるので、連歌などを催して遊びたく、暇を欲しいと切に申し入れるので、これまでずいぶんと長く山にとどまっていたので、それならたまには慰みごとをするのもよかろうと、
『楽しみが果てたらすぐに山に上って参られよ。決して日頃思っているあのことはしてはならぬぞ。釈氏の門に入ったからには、明け暮れ、ひたすら仏法を思って、父母の後世を弔うことこそ、本当の孝子であるぞ。』
と教え諭したのじゃが、悲しいことに無駄となってしもうた。
こうして花松は暇乞いをして、『すぐに帰って参ります。』と出かけて行ったのじゃが、翌日の辰の刻ほどに、花松が召し使っていた中童子が、ひどく慌てて走ってきたので、『何事じゃ。』と尋ねると、涙をはらはら落として、
『花松殿は、昨夜親の仇小野寺殿の館へ忍び入りなさって、やすやすと仇を討ち取って、館をも焼き払いましたが、ご自身も討ち死になされました。』
と言ってその場につっぷして嘆いておるのじゃ。
夢とも現実とも思われぬ。前日暇乞いして出て行った時の面影が目を離れぬ。そのような思いであったのなら、名残惜しんで心から止めたであろうに。神ならぬ身の悲しさ、これが永遠の別れとは、どうして知れようか。」
最後まで語り切れずに、袖を絞らんばかりに泣きますので、幻夢も涙を添える他に術はありません。
「花松は童に託して薄様に書かれた二通の手紙を遺しました。一通は私宛です。
『それにしても生前は、師匠と頼み、弟子となりました。前世からの宿縁は忘れられないことです。命ながらえずっとお仕えしたいとも思うのですが、大人となって親の仇を討ち取り無念を晴らし、追善菩提に供えたいと連々と抱いていた思いは身を離れず、このようなこととなりました。
それに、「生者必滅 会者定離」はこの世の習いでございますから、決してお嘆きなさることなく、ただ一度の回向でも給われば幸いです。』
と書き留めてありました。その水茎(みずぐき)が実に涙を誘うのでござる。
さて一方の老母への手紙には、書き綴った言葉の最後に一首の歌が添えてありました。
思ひやるさぞや袂の時雨るらんまたと言ふべき別れならねば
(思いやります。きっと袂が時雨れるように濡れていることでしょう。また会いまし
ょうというようなな別れではありませんので。)
老母殿はこの手紙を見て、天を仰ぎ地に伏して悶え焦がれ、
『どうして親の私を残して死んでしまったの。』
とのお嘆き、御推察くだされ。
このままという訳にもいかぬので、泣く泣く供養いたしました。今日は初七日でござる。
亡き稚児が好きであったので、この笛を棺に入れたのじゃが、あなたのお心ざしの深さゆえに、あなたにも亡きあとを弔ってほしいと、笛を持ってこの世の名残りに、参ったのであろうか。
連歌も花松が執心した道なので、初七日の追善にと、懐紙に硯を添えて昨日より霊前に供えておりました。生前に好んでいたことなので、貴僧が来たと知って、精霊となった現れて連歌を楽しんだのでござろう。発句に無常を詠んだのも、この世にいない人だからじゃろう。」
と語り続けて、声も惜しまず泣くので、幻夢も涙の玉の緒の絶えることなく、互いに泣きあう様は、たとえようもないほどでした。
原文
幻夢、夢うつつともわきかねて、
「もし天魔などの、我を悩ましけるにや。かくて房中にあらば、いかなる目にも合ひぬべし。急ぎ何方へも逃げばや。」
と案じ居けるに、ほどなく夜も明けぬれば、立ち出でんと思ひながら、あまりに興醒めて、笛と懐紙を手に持ちて、茫然としていたりける所に、当房の主と思しくて、齢八十ばかりの老僧の、眉には霜を垂れ、額に波を*たたへたるが、濃き墨染めの衣に*香色の袈裟を掛け、まことに物思へる姿にて出で給ひけるが、幻夢を怪しみて、
「御身はいづくの人にましませば、ここにお渡りあるぞ。」
とのたまへば、
「これは大原の者にて候ふ。」
と申しける。
「されば*こそ大原の人は何とてここに御座候ふぞ。」
とのたまへば、
「ここに不思議のこと侍りける。始め終はりの事を語りて聞かせん。」
と答へければ、
「何事にか。とくとく語り候へ。」
とありければ、幻夢、
「そもそも当房を竹林房と申し候や。」
と問ひければ、老僧、
「*子細なし。」
とのたまふ。幻夢また申しけるは、
「去年十一月八日、授戒のためと、花松殿と申す少人ご同道候ひて、帥の公・侍従の公と申す人、比叡の山にお上り候ふか。」
と尋ぬ。
「さることの候ふ。」
とのたまひければ、幻夢また申しけるは、四王院に立ち寄りて言ひ捨てしより、この暁別れける不思議まで詳しく語り、笛と懐紙を差し出だしければ、老僧涙にむせびて、とかく言の葉もなかりける。
(注)たたへ=(大)(史)「たたみ」。
香色=薄赤くて黄色味を帯びた色。見栄えの市内色として、喪中や僧にかかわる
ものに使われることが多い。
こそ=係助詞だが結びが流れている。
子細なし=異論がない。間違いない。
ややあって、
「帥の公・侍従の公出でられ候へ。」
とありければ、二人の同宿すなわち来たれり。
「まことに同宿は、*兼日(けんじつ)見参候ふや。」
とのたまへば、「さることの候ふ。花松殿ご授戒の時、あからさまに対面申し侍り。」
とて、これも袂を顔に押し当てて涙せき敢へず。
さても老僧ののたまひけるは、
「客僧、聞こしめ候へ。この少人と申すは、当国の*御家人大胡左近将監家詮と申す人の子にて候ふ。七歳の時、家詮は同じ国の住人、*小野寺の右兵衛尉親任と申す者に*罵(の)り合ひ*咎めをして討たれ侍りぬ。
(注)兼日=かねての日。(大)(史)「かねて」。
御家人=将軍と主従関係を結んだ武士の敬称。
大胡左近将監家詮=(大)(史)「大胡さったもりの将監家明」。
小野寺の右兵衛尉親任=(大)(史)「小野の太郎兵衛親忠」。
罵り合ひ=悪口を言い合う。口論する。
それより後、花若常に申しけるは、
『あはれ、*おとなしくなりて、親の敵を討ち取り、無念を散じ、追善に供へばや。』
と*連々(れんれん)*あらまし候ふほどに、
『*型のごとく仏家に入り、我らが弟子と侍らば、左様のことつゆばかりも思ふべからず。出家得道をして、ひとへに聖霊の菩提を弔はんこそしかるべく候へ。』
と教訓常に侍りしが、『ともかくも師の命に従ひ申さん。』とて年月を送り候ふ所に、今月十日、花の盛りにて候へば、里へ行きて一族にも会ひ、他家にも知る人侍れば、連歌など興行してしばらく遊び候はん。暇給はるべきよし、懇ろに申す間、このほど永く在山し給ひ候ひしかば、さらば慰みのためと思ひ、
『やがて登山あるべし。相構へて日頃のあらまし努々心にかけ給ふべからず。釈氏の門に入り給ふ上は、ただ明け暮れ仏法を心にかけ、父母の後世を弔はんこそまことの孝子にて侍れ。』
など教訓し侍りけるも、いたづら事になり侍るこそ悲しけれ。
かくて暇乞ひして、『やがて帰り参り侍るべし。』とて立ち出で侍る。
翌日の辰の時ばかり、花松丸が*童、よに慌ただしく走り来て侍るほどに、『何事にか。』と尋ねければ、涙をはらはらとこぼし申しけるは、
『花松殿、*昨夜御仇、小野寺殿の館に忍び入り給ひ、たやすく敵討ち取り、館をも*焼き払ひ、御身も討ち死にし給ひて候ふ。』
と伏しまろび嘆きぬ。
夢ともうつつともおぼえず、昨日暇乞ひして出でける面影忘れ難し。*さこそ名残惜しく心も止めつらむ。神ならぬ身の悲しさは、これを終の別れとは、いかで知り侍るべし。」
など語りも敢へず墨染めの袖を絞り給へば、幻夢も泣くより他のことはなし。
(注)おとなしくなり=おとなになって。
連々=引き続き、絶えることのないこと。
あらまし=予定する。将来を約束する。
型のごとく=形式通り。定められたとおりに。
童=花松に仕える中童子。(大)(史)「中間」。
昨夜=(大)(史)「今夜」。
焼き払ひ=(大)(史)「遁れ候ひしが」。
さこそ=そうであるなら、の意か。
「*さて、*薄様に書かれたる文二つあり。一つは老僧が方へなり。
『さて、この世にありしほどぞ、師匠と頼み奉り、弟子となり侍る事、前世の宿縁のほど忘れ難し。命ながらへてとぞ思へども、おとなしくなり、親の仇討ち取り、無念をも散じ、追善に供へばやと、連々のあらましのその思ひ身を離れず、かやうのなり侍りき。
また、「生者必滅 会者定離」習ひにて候へば、相構へてお嘆きなく、ただ一遍の*回向こそあらまほしく侍る。』
と書きとどめたる筆の跡、まことにあはれにて侍りける。
さてまた老母へのかたへの文には、かき続けたる言の葉の奥に、一首の歌あり。
思ひやるさぞや袂の時雨るらんまたと言ふべき別れならねば
老母、この文を見て天に仰ぎ地に伏して悶え焦がれ、
『何と我をば後に残し置き、かやうになり侍るやらん。』
とお嘆き思ひやり給ふべし。
かくあるべきにもあらざれば、泣く泣く*教養し侍り。今日*一七日になりぬ。
亡者の好き侍りし事なれば、この笛を棺に入れ侍りけるが、お心ざしの切なるによりて、亡きあとを弔ひあれかしと、形見に参らせけるにや。
また、懐紙も執心せられし道なれば、初七日の追善に、この寄り硯に取り添へて、霊前に供へ侍り。存生の時好みし事にて、今夜も参会申して、連歌をつかまつりたる事こそ。また、発句の無常も、この世になき人にて侍ればにや。」
と語り続けて、声も惜しまず泣きければ、幻夢は涙の露の玉の緒も今や絶へぬと互ひに嘆く有様、たとへていはんかたもなし。
(注)さて・・・=(大)(史)には手紙の件りがない。
薄様=雁皮で薄く漉いた鳥の子紙。
回向=供養。たむけ。
教養=死者を弔うこと。孝養。(大)(史)「供養」。
一七日=初七日。