religionsloveの日記

室町物語です。

蓬莱物語全編-異郷譚1ー

 室町物語(広義でいう御伽草子)には異郷を扱った物語が多数あります。「中世小説の研究(市古貞次氏)」の分類では、「異郷小説」と呼びます。異郷そのものをテーマとしたものとしは、「蓬莱物語」「不老不死」がありますが、テーマは本地物だったり怪婚談だったりするものの、舞台が異郷に及ぶものは多くあります。

 「稚児物語」のように截然と分類できないジャンルですが、そのうちのいくつかを紹介したいと思います。「梵天国」「御曹子島渡り」「浦島太郎」「浜出」「さざれ石」は御伽草子で現代語訳も多く出ているので、それ以外のものを取り上げたいと思います。
全編

 昔から今に至るまで、すばらしい例として語り伝えますことは数多いのですが、その中でもとりわけ霊験あらたかなものは不老不死の薬です。それは年老いた容貌を引き戻して再び元の若い姿にし、もとから若い者は寿命をのばして容色は常盤木や松の緑のようにいつまでも変わらず、末永く命を保つのです。

 そもそもこの不老不死の薬が出たところを尋ねると、その由来は蓬莱山にあるといいます。しかしながらこの山は大海の中にあって、諸々の仙人が集まり住む所なのです。またこの山を藐姑射(はこや)の山とも名付けられています。中国ではその昔、五帝の第四にあたりなさる唐堯と申す帝が自らこの山に行幸なさって、四人の神仙に会いなさいました。仙人は大いに喜んで不老不死の薬を献上いたしました。

 唐堯は都へ帰る道すがら、帰ったら人に施し与えようと思し召しなさったけれども、この帝堯と申す方は、上代の聖人です。五常仁義礼智信)の道を正しく行い、天然自然の心理を尊んで、人を教化して世を治め、この道をあまねく伝えてなさって後々の世までも絶やすまいと、常に心にかけなさっている方でした。

 もしこの薬を人に与えて、寿命を長く保ち命が尽きなければ、この薬を頼みとして、ほしいままに世を乱し、五常の道を忘れて、天然自然の真理はやぶられてしまうだろう。そうすれば国家も乱れて、世の中が鎮まることもないだろうと考え、かねてから末の世を深く思い、遠く慮っていたので、この不老不死の薬を世に広めなさりませんでした。そして箱の中に隠して驪山という山の中に埋め隠しなさいました。その薬の徳のおかげで山中は大いに潤って、草木は夥しく繁茂しました。またこの薬の箱の上には黄精(鳴子百合)という草が生えました。後の世の仙人は、この草を手に入れて丹薬を練って服用したとかいうことです。これは長生不死の薬草で、今の世でも黄精は体を養生する三百六十種の草木の中の第一と定められています。

 さて、かの蓬莱山と申す山についていうと、ここから(この世から)南海に向かって三万余里の波濤を経ると、その次の大海は冥海と名付けられています。水の色は黒くて深さは限りありません。この故に黒海とも名付けれれています。風が吹くことはないのですが、波は常に高く上がり、漫々として満ち溢れていて、雲や煙のように立ち重なる波はその高さ百余丈、日夜まったく止むことはありません。当然のことながら舟も筏も通うことはできないので、人の世とは長く隔絶されていました。天仙神力の輩(ともがら)だけが思い通りに渡ることができるので、またこの海を天池とも名付けたとかいうことです。この冥海を渡って、また三万里を過ぎて蓬莱山の岸に到ります。

 この山が出現したその昔を推測すると、我が朝がおこる以前、唐土三皇の第一伏羲氏の御代のころ、大海の底に六匹の亀がいました。年劫を積み重ねてその大きさは一万里でした。ある時その六匹の亀が一か所に集まり、海中に漂っていた大きな浮き島を甲にのせて差し上げました。この浮き島は諸々の宝が集まった結晶で、綺麗美妙の名山です。波打ち際の岸より峰の岩間に至るまで、水晶輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉色とりどりの宝玉が光り、まさに光明赫奕(こうみょうかくえき)と輝いていました。

 このようにしてできた山は年を経るうちに、草木が多く生えてきました。その草木のありさまはまったく人間世界の種類とは異なります。花が咲き果実の実る粧いは、色といい匂いといい、また味わいの素晴らしさといい想像も表現もできないほどです。上界では梵天国の大果報の徳を受け、下界では変幻自在に存在する竜宮城をもとに出現した山なので、どうしてこの世に類がありましょうか。その後不思議な獣、珍しい鳥が数々に出まれ出ました。角の形毛の色、翼の粧い鳴き囀る声はおのずから天地五行の徳に従うもので、五の調子が乱れないように調和が崩れることはありません。

 我が朝では神代の昔、天照太神が天の岩戸に閉じ籠もりなさって、国中が常時闇夜となってしまいました。その時八百万の神々が岩戸の前で嘆きなさって、「どうにかしてもう一度太神に岩戸からお出でいただきたい。」とさまざまなはかりごとをめぐらしなさいました。その時です、思兼命(おもいかねのみこと)申す御神がいました。深謀遠慮をめぐらして、天の香具山の真榊を根ごと岩戸の前に移し替え、上の枝には鏡を懸けて下の枝には白幣(しらにぎて)青幣を懸けなさり、庭に火を焚いて神楽を演じなさいました。別にはかりごとをくわだてて、常世の国から長鳴き鳥を求め寄せて、岩戸の前で鳴かせなさると、太神の御心はなだめられなさって、ふたたび岩戸からお出になられました。

 そういうことで、わが国で常世の国というのは蓬莱山のことなのです。長鳴き鳥と申すのは鶏のことです。この鳥は世の中に多いものでございますので、人は全く珍しいとは思いませんが、暁ごとに時を間違えず八声(たびたび)鳴くという、その霊験は他の鳥とは比べようもありません。まことに仙境の名鳥なので、神代でもやはり大切に扱われなさり、今に至るまで神社神社で鶏は飼いなさっているのです。

 また、垂仁天皇の御時に、田道間守(たじまもり)という臣下に仰せつけて常世の国の香菓(かくのみ)を求めさせなさいましたが、間守はすぐさま勅命を承って常世の国に出向いて香菓を求め得て帝にこれを奉りました。香菓と申すのは、今我が国に植え続けられて素晴らしいものともてはやされる橘のことです。右近衛の陣の前に橘を植えられなさったのもこの故と聞いています。

 さて、この世より天上には、太清宮・太玄宮・太真宮などというその昔、世界が始まった太古以来の、長生不死の大仙王・天帝の都があります。この内に住みなさっている天仙・飛仙の輩がはるかにこの山を御覧になり、「これは清浄な霊地である。」ということで、あるいは冥海の波を踏むこと陸地を行くがごとく、あるいは蒼々の空を駆けること鳥の飛ぶがごとく、天上より天下ってこの山に住みなさったので、十方諸国の仙人も皆この山に行き通って、楽しみを極めたとかいうことです。

 このようなわけで、天仙・飛仙の神力によって、七宝がちりばめられた宮殿楼閣が幾重にも重なるように、自然と出現したのです。十二の玉楼・九重の玄室があり、左には瑤(美しい玉)の池があり、右には翡翠の泉があります。池の内には五色の亀がいます。その他にさらに方壺・員岱・閬風・玉圃といった宮殿が軒を並べ楼閣は椽(たるき)を軋(きし)ませています。また、冥海の波の内に大蜃の蛤がいて気を吐いています。

 その気に従って蜃気楼となり五色の雲が空にたなびき、雲の上に三つの宮殿が現れます。鳳のような甍が高く聳え、虹(虹は竜の一種と考えられていた)のような梁が長く横たわっています。すべての宮殿楼閣は厳浄にして綺麗で言いようもないほどです。瑪瑙の柱・琥珀の長押・珊瑚の欄干・黄金の垂木、硨磲の簾には真珠の瓔珞を懸け、水晶の戸・玳瑁の垣・瑠璃の瓦が並んでいます。蘭麝・沈水の香の匂いは、永遠に絶えることはありません。

 庭には金銀の砂を敷き、池には八徳の水を湛えています。池の汀には鳳凰・孔雀・迦陵頻、その他音色も珍らしい諸々の鳥が集まって、羽先を並べて囀る声は、聞くと心が澄みわたります。咲き乱れている花の色や、たわわに実っている果実の匂いは、四方に薫り輝いて、全く比類ないものです。諸々の仙人が花に戯れ水に遊び、音楽を演奏しては舞楽を舞い、四種の肉芝(効能ある獣肉)・五色の更梨・火棗・水瓜などの果実を食し、玉醴・金漿などの天上の濃漿(こんず)の美酒を、玉の杯を傾けて誇らしげに楽しむ有様は例えようもありません。

 また、ひとつの楼台があります。栢(柏)梁台と名付けられています。高さ五丈の幡(はたほこ)の上に白金(銀)の盤があって天に向かって捧げられています。秋の夕べの白露を盤の中に受けとめて、これを練ると飴になります。これを用いて煉丹の君薬とするのです。また、青霜・玄雪といって雪や霜までもこの聖地のゆえでしょうか寿命を延ばす薬となるのです。

 また、一つの宮殿があります。七宝をちりばめて二重に軒を構へています。軒の上には額があり、長生殿と打ちつけられています。御殿の前には門があります。門の額には不老門と書いてあります。御殿の前には白い大椿(だいちん)が植えられています。「荘子・逍遥」に「八千歳を春として、八千歳を秋とする」と記されている長寿の木です。契り深いことの例えにも「八千世を籠めし玉椿変はらぬ色」と詠まれている歌の心もこれでしょう。その長生殿の内には不老不死の薬があります。これは天帝が管理なさっている所です。黄金の台の上の瑠璃の壺にお入れなさって、前には諸々の花を供え、常にうるわしい香を焚きながら、八人の天仙が日夜に番を務めて、門にはまた十六人の鬼神がいて、かたくこれを守るとかいうことです。

 この薬は匂いをあまねく四方に燻らせながら、雲路を指して遡るので、空には五色の雲がたなびき、そこには天人が常に影向(姿を現す)するということです。この薬を服すると容貌(かたち)はいつも若やかに年を取ることもなく、命も全く限りがないのです。ですから、中国の麻姑と云ふ仙女は、その昔継母の讒言によつて、年十五と申す時、父母の家を逃げて山に籠ったり女性ですが、自分で仙術を悟り得て、蓬莱山に到ってこの不老不死の薬をなめそうです。それから三百余年後、張重花という人が山中で行き合って、昔の事を語ってくれたそうですが、その時の顔形は全く昔と違わなかったということです。

 このように素晴らしい薬なので、聞く人聞く人羨んで求めようとするのですが、そのよすがは全くございません。

 中国では秦の始皇帝の時、天下がことごとく定まって、始皇帝は御身の栄華が比類ない事には満足しながらも、つらつら心の内でお考えになる事には、「たとえ天下を掌(たなごころ)のうちに収めたとしても年が重なれば齢は傾き、我が身は老いて最後には、間違いなく死んでしまうだろう。齢が傾かず命の限りない長生不死の仙術を朕に伝えてくれるべく、蓬莱山の不老不死の薬を探し出して献上してくれる人がいてほしいのだが。」と天下の諸国に尋ねなさいましたが、徐福という道士が帝に奏聞いたしました。「私に君のために不死の薬を求めて献上させてください。大海のうちに蓬莱山という神山がありります。不死の薬はこの内にあるといいます。この山に到つて取ってきましょう。ただ、そこに行き着くには風は荒く波が高いのでたやすくはありません。十五歳以前の子供を男女各々五百人を船に乗せていけば、子々孫々がその意思をうけ継いで終には山に到ることができるでしょう。さすればすぐにでも手に入れて献上いたしましょう。」と申し上げると、「それこそ我が願うところである。」と帝は大いに喜びなさって大船を建造させ、千人の子供を乗せて、徐福もこれに乗って大海に船出したのでした。 

 風は荒く波が高く蓬莱山は目にはそれと見えるのですが岸に寄るべき手立てはありません。波が船を持ち上げる時は天上の雲にも達するようで、波から舟が落ちる時は竜宮の底にも到りそうでした。しかも蛟竜という恐ろしいものがその船に取り付いて船は全く動きません。徐福はそこでこれを服従させようとして舷(ふなばた)に五百の強弩(強いいしゆみ)をしつらえて蛟竜が浮かび上がるのを待ち構えました。ある時蛟竜が水の上に浮かび出ました。首は獅子頭に似て角があり髪は乱れてまなこは鏡面に朱をさしたようです。鱗はさかさまにに重なり六つの足は爪が長く、横たわった長さはは百余丈です。徐福はこれを見てかねてから待ちうけていたことなので、五百の連弩の石弓を一斉に放ったので、蛟竜はこれに打たれて、頭が砕けて腹は破れてたちまちに死んでしまいました。大海の水はこのために血の色に変じて見えたということです。しかしそれでも徐福はやはり山には行き着かないで船に乗せた童男丱女は空しく老い迎え、船は風に吹き放されて行方知らずとなったそうです。

 また、唐土漢の武帝は、これも不老不死の薬を求めて、西王母という仙人を招き請じて仙術を学びなさいました。王母はそこで勅命に応じて禁中に参内して七菓の一つの桃を献上し、丹砂・雲母・玉璞などの宝石を練って、紫芝黄精の仙薬を調合し、蓬莱の不死の薬を奉ったのでした。

 その後唐の世となって玄宗皇帝の御時には、死んだ楊貴妃の魂の行方を訪たく思いなさって、方士にお命じになって探させなさると、方士は勅命を受けて、十洲三島あらゆる仙境を訪ね巡てかの蓬莱の山の内の太真宮を訪ねて逢うことができました。「七月七日星合の夜、比翼連理の語らひ懇ろなる私語(ささめごと)おはしけり」と長恨歌に描かれたのはこの時のことと思われます。楊貴妃と申す方は実は蓬莱宮の神仙で、仮に人間世界に現れて玄宗皇帝に近づき、花清宮の御遊宴にも仙家の曲を舞いなさったということです。この「霓裳羽衣の曲」とは、天上の神仙より伝えられた舞楽です。かの武帝の例といいこの玄宗皇帝の例といい実に素晴らしい事です。

 さて、紀伊の国名草の郡に、安曇の安彦といって釣を生業とする海士がいましたが、春ののどかでうららかな波に小舟を浮かべて、沖つ方に漕ぎ出して漁をしていたところに、にわかに北風が吹きおろして、波が高く上がって雪の山のようになります。安彦は心が混乱して、舟を渚に寄せようとしますが、風はいよいよ激しく吹き、波はますます荒く打ち寄せたので、やむをえず風に任せ波に引かれて南を指して舟を走らせます。まるで空を飛ぶように一日二日と馳せると、どこともわからない一つの島に吹き寄せられました。

 安彦は多少は落ち着きを取り戻し、舟から上がってその山の様子を冷静に見渡すと、金・銀・水晶が岸を飾り、草木の花もじつに珍しく、聞き慣れない鳥の声がするなど、何につけてもまったく人間のすむ境界とは思われません。

 「ここはきっと九野八極の世界から隔絶された乾坤(天地)の外なのだろう。」と不思議に思いながら佇みとどまっていますと、年の頃二十ばかりの女房たちが七八人、渚に沿って岩の間を伝い歩いて来ます。その様子は、雲の鬢(びんづら)・霞の眉・翡翠の簪・珠の瓔珞・花を飾りった粧いは、なんとも言い表しようもなく、可憐で美しく見えます。安彦をごらんになって大いに驚いておっしゃるには、「そもそもここは蓬莱山といって、遥かに人界から隔てられた清浄の仙境なので、たやすく人が通えるところではありません。なんじはいかなる者で、どうしてここまで来たのでしょうか。」とおっしゃいます。安彦はそのお言葉を受け頭を地につけ手を合わせて申します。「それがしはこれよりかなたの大日本紀伊の国の名草の郡にすまいして、浦辺で舟に掉さして、玉藻を拾い磯菜を取り、また釣竿を携えて魚を取って世を渡る賎しい海士の類です。しかるに私は一葉の舟に掉さして沖に出て魚を取ろうとしたところ、俄かに大風が吹きおろして、波に送られ風に馳せられて、心ならずもこの地に来たのです。お願いですお情けをかけてくださってお助けください。」と申し上げます。女房たちは、「私たちはみんな世の常の人間ではございません。等しく仙家の者です。ですからなんじらと言葉を交わすべき身分ではありませんが、なんじが思いがけずこの地に来たのもまた理由があるのでしょう。きっと生まれてよりこの方心に怒りを覚えることもなく、欲少なく正直で、ものを憐れみ慈悲は深く、その誠実さが天理にかなったので無事にこの場所に来ることができたのです。そういうことならば仙境の様子を見せましょう。先ず冥海の水で沐浴して身を清めなさい。」とおっしゃいます。安彦が沐浴すると、やつれ黒ずんだ肌は、たちまち色白くきめ細やかに若やぎます。また一粒の薬を与えて飲ませなさると、安彦の愚かな迷いの心は、たちまち霧が晴れてさやかな月に向かうようでおのずから悟りの境地に達するようです。

 こうして安彦は七人の仙女に伴われて蓬莱宮の間を巡ってこれを見ると、まことに美妙で綺麗なのです。このような所は生まれてこの方、目に見ることはいうまでもなく、耳に聞いた経験もありません。見ればみるほどますます珍らしく、飽きることは全くありません。また傍らから一人の仙人が立ち現れて、心も言葉も及ばぬほどの美しい衣装が与えられ、天の濃漿(こんず)・玄圃の梨・崑崙の棗などなんとも珍しいものを与えられたので、いよいよ心も爽やかに飛び立つばかりに思われるのでした。

 それから不老門の内長、生殿に連れて行かれ、この仙人が語ったことには、「いやこれはなんじもきっと聞き及んでいることだろう、この宮中に不老不死の薬が秘蔵されていて、たやすく人には施し与えることはないのだけれども、なんじの心が慈悲深く正直で、親孝行であるそのこころざしに感ずる故に、これをなんじに与えよう。」。こういうわけで、この薬を取り出して、瑠璃に壺の内から七宝の器に移し入れて安彦に賜ったのです。安彦はこれをいただいて、「今はいとまを申してふたたび故郷に帰りたく思います。」と申し上げます。「そう思うならば、思いの通りするがいい。」ということですぐに舟に乗せて送り出すと、七人の仙女も岸まで立ち出なさって、東門の瓜・南花の桃・玄雪の煉丹を安彦にお与えになりました。かくて艫綱(ともづな)を解いて冥海に浮かんだところ、南の風がそよそよと吹いて日本の岸に着きました。

 昨日今日出来事だと思っていましたが、帰ってみると故郷は山川は所を変えたかのようで、見知った人はまったくいません。晋の王質が仙境から帰った事、水の江の浦島子が竜宮から帰った昔の例に全く同じです。安彦はやっとのことで七世後の孫に尋ね逢ました。今は安彦も齢三百余年を過ぎていたのです。

 帝はこのことをお聞き及びになり、勅使を立てお召しになりました。安彦は勅命に従って急いで参内いたし、蓬莱山の有様をつぶさに奏聞しつつ、不老不死の薬を帝に献上しました。帝の叡感は深く、安彦すぐさま一度に三位の宰相を下賜なされ、自らは薬を嘗めなさったので、帝の御齢は若く盛りに立ち戻り、長生不死の御寿命を保ちなさいました。

 安彦は七世の孫と一緒に通力自在の仙人となり、今はこの人界も我が住む所にあらずと思って、空を駆け雲に乗って天上の仙宮に上ったということです。じつに素晴らしいことでございます。

原文

 昔が今に至るまで、めでたきためしに言ひ伝え侍る事、数々多きその中に、殊にすぐれて奇特なるは不老不死の薬とて、老いたる形を引き返し再び元の姿となし、もとより若き輩は齢(よはひ)を延べていつまでも変はらぬ色は常盤木や、松の緑の末永く、保つ命の限りなし。

 そもそもこの薬の出(いづ)る所を尋ぬれば、蓬莱山にありと言ふ。しかるにこの山は大海のうちにありて、諸々の仙人の集まり住む所なり。あるいはこの山を*藐姑射(はこや)の山とも名付けたり。唐土(もろこし)の古、五帝には第四にあたらせ給ふ*唐堯と申す帝、自らこの山に御幸(みゆき)して四人の神仙にあひ給ふ。仙人大いに喜びて不老不死の薬を奉り侍りけり。唐堯すでに都へ帰り給ひつつ、人に施し与へむと思し召しけれども、この帝と申すは、これ上代の聖人なり。*五常の道を正しくして、天理のまことを尊びつつ、人に教へて世を治め、この道を伝へ給ひ末の世までも絶えさじと、常に心にかけ給ふ。

 もしこの薬を人に与へ、齢久しく命尽きずば、この薬を頼みとしてほしいままに世を乱し、五常の道を忘れては、天理のまことを破るべし。しからば国家も乱れつつ、世の鎮まることあらじと、かねてより末の世を深く思ひ、遠く計りて不老不死の薬をば世に広め給はず。箱のうちに隠しつつ*驪山といふ山のうちに埋み置かせ給ひけり。その薬の徳故に山中大いにうるおひて、草木はなはだ栄えたり。またこの薬の箱の上には*黄精(わうせい)といふ草生ひたり。後の世の仙人、この草を取り得て丹薬を練りて服すとかや。長生不死の薬草にて、今の世までも黄精は命を養ふ三百六十種の草木の中の第一とす。

(注)藐姑射の山=邈(はる)か遠くにある姑射山。不老不死の仙人が住むという山。

   唐堯=三皇五帝は、中国古代の伝説上の帝王。唐堯(帝堯)には「鼓腹撃壌」の

    故事がある。

   五常儒教で人が常に行うべき正しい道。仁、義、礼、智、信。

   驪山=中国西安の東南にある山。麓に温泉があり、故事も多い。

   黄精=漢方薬。鳴子百合の根茎。強壮薬。

 しかるに、かの蓬莱山と申すは、これより南海に向かつて三万余里の波濤を経て、その次の大海をば冥海と名付けたり。水の色黒にして深きこと限りなし。この故に黒海とも名付けたり。風吹くことなけれども波常に高く上がり、漫々として湛へたれば、*雲のなみ煙の波その高さ百余丈、日夜さらに止むことなし。世の常のことには舟も筏も通ふことなければ、人間長く隔たりぬ。天仙神力の輩(ともがら)のみ心に任せて渡る故に、またこの海を*天池とも名付くとかや。かの冥海を渡ること、また三万里をうち過ぎて蓬莱山の岸に到る。

 この山始めて現れしその古を案ずるに、*我が朝その上唐土三皇の第一伏羲氏の御時に、大海の底に六の亀あり。年を重ね劫を積みてその大きさ一万里なり。ある時六の亀ひとところに集まり、海中に漂ふところの大山を甲にのせて差し上げたり。もとよりこの山は諸々の宝の集まりたりし精なれば綺麗美妙の名山なり。波打ち際の岸よりも峰の岩間に至るまで、*水晶(精)輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉いろいろの玉の光り、さながら*光明赫奕たり。

 かくて年を経るままに、草木多く生出たり。その草木のありさまさらに人間世界の種にあらず。花咲き実る粧ひ、色といひ匂ひといひ、また味はひのうるはしきは心も言葉も及ばず。上には梵天の大果報の徳を受け、下には*竜宮の変化無方の所より現れ出でし山なれば、なじかはこの世に類あらん。その後あやしきけだもの珍しき鳥数々に出産す。角の形毛の色、翼の粧ひ、鳴き囀る声、自づから天地五行の徳に従ひ、*五の調子乱るることなし。

(注)雲のなみ煙の波=波の立ち重なっている様を雲にたとえていう。

   天池=天然の大池。海をいう。

   我が朝その上=私の解釈によると我が朝以前に中国王朝があったことになる。そ

    のような史観に立った人の作という事になるが、別解もあるか。

   水晶(精)輪=水晶でできた輪宝(車輪の形をした宝石)。

   光明赫奕=多くな光彩を放つさま。

   竜宮の変化無方の所=竜宮城が変幻自在に存在する宮殿という意味か。

   五の調子=五調子。唐楽、雅楽の調子。調和がとれているの意か。五調には頑丈

    の意味もある。

 我が朝神代の古、天照太神の天の岩戸に閉ぢ籠もらせ給ひしかば、国の内常闇の夜となりにけり。その時八百万の神たち岩戸の前にして、これを嘆き給ひて、「いかにもしてふたたび太神を岩戸より出し奉らん。」とさまざまはかりごとをめぐらし給ふ。ここに、思兼(おもひかね)の命と申す御神あり。遠く思ひ深く計りて天の香具山の真榊を*根越にして、上の枝には鏡を懸け下の枝には*白幣(しらにぎて)青幣を懸け給ひ、庭火を焚き神楽を奏し給ひけり。またはかりごとをめぐらして、常世の国よりも*長鳴き鳥を求め寄せて、岩戸の前にて鳴かせられしに、太神の御心宥(なだ)まらせ給ひて、ふたたび岩戸を出でさせおはしましけり。

 *されば、常世の国と云ふは蓬莱山のことなり。長鳴き鳥と申すはこれ鶏のことなり。この鳥世の中に多きものにて侍れば、人さらに珍しからず思へども、暁ごとの時を違へず八声おとなふる、その奇特はまた余の鳥に比べ難し。まことに仙境の名鳥なれば、神代にも猶もてなし給ひ、今に伝へて社やしろに鶏は飼ひ給へリ。

 また、*垂仁天皇の御時、*田道間守(たぢまもり)といふ臣下に仰せて常世の国の香菓(かくのみ)を求めさせ給ふに、間守すなはち勅命を承り常世の国に行き向かふて香菓を求め得て帝にこれを奉りき。香菓と申すは、今我が朝に植えとどめてめでたきものにもてはやす橘のことなり。右近衛の陣の前に橘を植えらるるもこの故と聞こえたり。

(注)根越=根元から掘って植え替えること。

   白幣青幣=神に供える白や青の麻の布。

   垂仁天皇=第11代天皇

   田道間守=新羅王子天日槍の子孫。記紀に伝わる。

 しかるにこれより天上に、*太清宮・太玄宮・太真宮などとてその上、世界始まりしその古よりこのかた、長生不死の大仙王天帝の都あり。この内に住み給ふ天仙・飛仙の輩はるかにこの山をみそなはし、「これ清浄の霊地なり。」とてあるいは冥海の波を踏むこと陸地を行くがごとく、あるいは蒼々の空を駆けること鳥の飛ぶがごとく、天上より天下りこの山に住み給へば、十方諸国の仙人も皆この山に行き通ひて、楽しみを極むとかや。

 かかりければ、天仙・飛仙の神力によりて宮殿楼閣重々にして、*七宝をちりばめつつ、自づから出生せり。十二の玉楼九重の玄室、左には*瑤(たま)の池あり。右には*翠の泉あり。池の内には五色の亀あり。その他になほ*方壺・員岱・閬風・玉圃とて宮殿軒を並べ楼閣椽(たるき)を軋(きし)れり。また、冥海の波の内に*大蜃の蛤ありて気を吐く。

 その気に従うて五色の雲空にたなびき雲の上に三の宮殿あり。鳳の甍高く聳え、*虹の梁(うつばり)長く蟠れり。すべてあらゆる宮殿楼閣厳浄綺麗いふばかりなし。瑪瑙の柱・琥珀の長押・珊瑚の欄干・黄金の垂木・硨磲の簾には真珠の瓔珞を懸け、水晶の戸・玳瑁の垣・瑠璃の瓦を並べたり。蘭麝・沈水の香の匂ひ、とこしなへにして絶ゆることなし。

 庭には金銀の砂(いさご)を敷き、池には*八徳の水を湛へたり。池の汀には鳳凰・孔雀・迦陵頻、その他色音も珍らかなる諸々の鳥集まりつつ、羽先を並べて囀る声、聞くに心ぞ澄みわたる。咲き乱れたる花の色、*成りこだれぬる菓の匂ひ、四方に薫じ輝きて、類はさらにあるべからず。諸々の仙人花に戯れ水に遊び、楽を奏して舞をなし、四種の*肉芝・五色の*更梨・火棗・水瓜を食とし、*玉醴・金漿の天上の濃漿(こんず)の酒、玉の杯を傾け楽しみに誇る有様例へむかたはなかりけり。

(注)太清宮・太玄宮・太真宮=この三つの宮を列挙した用例は見つけられなかった。

   七宝=七つの宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙。法

    華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玟瑰。

   天仙・飛仙=天に住む仙人、空を飛ぶ仙人。地仙に対していうか。

   瑤・翠=瑤は美しい玉、翠は翡翠か。

   方壺・員岱・閬風・玉圃=方壺は神仙が澄んでいるという海中の山三壺(方壺・

    蓬壺・瀛壺)のひとつ。員岱は不明。岱山(泰山)と関係があるか。閬風は

    閬風苑か。崑崙山にあり仙人のいるところという。玉圃は瑤圃か。玉の園、仙

    人の住んでいる所。玄圃。是も崑崙山にあるという。

   大蜃=蜃気楼を生み出す伝説上の生物。大はまぐりとも。

   虹=虹は竜の一種と考えられていた。雄を虹、雌を蜺といった。

   八徳の水=八功徳水。心身を養う八つの功徳を持つといわれる水。

   成りこだれぬる=たわわになる。なってしなだれる。

   肉芝=晋代道家の書「抱朴子」によると五芝(芝は薬効のある食べ物か)に石

    芝・木芝・草芝・菌芝・肉芝があって、その肉芝には①万歳蟾蜍②千歳蝙蝠③

    千歳霊亀④風生獣があるという。これをいうか。

   更梨・火棗・水瓜=交(更)梨・火棗は道教の書「真誥」によると食すと空を飛

    べる薬のようである。水瓜は西瓜か。五色だと他の二つは?

   玉醴・金漿・濃漿=玉醴・金漿はともに美酒。現代中国語では金漿玉醴は上質な

    ワインをいうらしい。濃漿は酒の異称。「真誥」によると玉醴・金漿も空を飛

    べるらしい。

 また、ひとつの台(うてな)あり。*栢(柏)梁台と名付けたり。高さ五丈の幡(はたほこ)の上に白金の盤ありて天に向かうて捧げたり。秋の夕の白露を盤の中に受け留めて、これを練るに糖(あめ)となる。これを用ひて*煉丹の君薬とせり。また、青霜・玄雪とて雪霜までもところからに命を延ぶる薬となる。

 また、一つの宮殿あり。七宝をちりばめて二重に軒を構へたり。軒の上に額あり、長生殿と打ちたり。御殿の前に門あり、門の額には不老門と書きたりけり。殿の前には*白大椿を植えたりけり。「八千歳を春として、八千歳を秋とする」と記したり。契り深き例へにも「*八千世を籠めし玉椿変はらぬ色」と詠みたりける歌の心もこれぞかし。かの長生殿の内には不老不死の薬あり。これ天帝の治め給ひし所なり。黄金の台の上に瑠璃の壺に入れ給ひ、前には諸々の花を供へ、常に名香を焚きつつ、八人の天仙日夜に番を務むれば、門にはまた十六人の鬼神ありて、かたくこれを守るとかや。

 この薬の匂ひあまねく四方に燻じつつ、雲路を指して遡れば、空には五色の雲たなびき天人常に影向す。この薬を服すれば容貌(かたち)はいつも若やかに齢傾くこともなく、命もさらに限りなし。されば唐土の*麻姑と云ふ仙人は、そのかみ継母の讒言によつて、年十五と申せし時、父母の家を逃げて山に籠りし女なり。自づから仙術を悟り得て、蓬莱山に到りつつ不老不死の薬をなめたり。それより三百余歳の後、*張重花と云ふ人に山中にして行き合ひつつ、昔の事を語りける、その時の顔形さらに昔と違はずとなり。

 かかるめでたき薬なれば、聞く人ごとに羨みて求むるといへどもたよりはさらになかりけり。

(注)栢(柏)梁台=漢の武帝が築いた楼閣に伯梁台という楼閣がある。

   煉丹=道士が辰砂練って作ったという不老不死の妙薬。

   青霜・玄雪=不明。仙薬の一種か。

   白大椿=白い大椿(だいちん)。「荘子(逍遥)」に「上古有大椿者、以八千歳

    為春、八千歳為秋」とある。

   八千世を・・・=謡曲「三輪」に同様の詞章がある。出典は「拾玉集(慈円)」

    の「君が代は春に春ある時ながら八千代籠めたる玉椿かな」。

   麻姑=二人の麻姑がいるようである。①「神仙伝」に見える中国神話に登場する

    仙女。長寿の象徴でもある。「孫(麻姑)の手」「滄海桑田」の故事が有名。

    蓬莱山を往来したという。②「列仙全伝」では五胡十六国時代後趙の武将麻

    秋の娘の麻姑は民を救い父の怒りを買い山に逃れ、仙女になったという。両者

    が混ざったものか。

   張重花=未詳。五胡十六国時代前涼の君主の張重華は前述の麻秋と闘ったこと

    があるが、蓬莱物語のエピソードにはつながらない。帝堯は名を重花といい、

    継子いじめというテーマでつながるという指摘がネット上で拝見した「継子の

    麻姑」(中前正志氏他二名)という論文にあった。素直に文脈を読むと張重花

    も三百歳以上という事になるから仙人の類だと思われる。「蓬莱山由来」は

    「蓬莱物語」とほぼ同じ内容であるが、張重花は王方平となっている。王方平

    は麻姑の兄である。兄妹が三百年ぶりに会うというのもどうか。

 唐土秦の始皇の時天下悉く定まり、始皇自ら御身の栄花例へむかたもなかりしに、つらつら心に思しけるは、「たとひ天下をば掌(たなごころ)のうちに収むるとも年重なれば齢傾き老いが身の果てしには、むなしくならんは疑ひなし。願はくは齢傾かず命限りなき長生不死の仙術を伝へ、蓬莱山の不老不死の薬を求めて与ふる人やある。」と天下の諸国を尋ねられしに、徐福と云ふ道士ありて帝に奏聞申すやう、「我願はくは君のために不死の薬を求め得て奉るべし。しからば此の薬は大海のうちに*蓬莱山とて神山あり。この内にこそあるなれば、この山に到つて取るべし。ただし風荒く波高ければたやすくは到り難し。十五以前の子供を男女各々五百人を船に乗せて、子々孫々あひ継ぎて終には山に到るべし。やがて取り得て奉らん。」と申しければ、「それこそ願ふところなれ。」と帝大いに喜び給ひて大船をこしらへ、千人の子供を乗せ、徐福これに取り乗りて大海にこそ浮かびけれ。 

 風荒く波高く目には蓬莱山を見れども岸に寄るべきやうもなし。波舟を上ぐる時は天上の雲にものぼるべく波より舟の下るる時は竜宮の底にも到るべし。しかも*鮫(蛟)竜と云ふ恐ろしきものその舟につきしかば舟さらに働かず。徐福すなはちこれを従へむととて舟ばたに五百の強弩をしつらひ蛟竜の浮かび上がるをあひ待ちけり。ある時蛟竜水の上に浮かび出でたり。かうべは獅子の頭に似て角帯び髪乱れまなこは又鏡のおもてに朱をさしたるごとくなり。*鱗さかしまに重なり六つの足は爪長く臥し長(たけ)は百余丈にも余りたり。徐福これを見てもとより待ちまうけたることなれば、五百の連弩の石弓を一同に放ちたれば蛟竜これに打たれつつ、頭砕け腹破れてたちまちに虚しくなる。大海の水この故に血に変じてこそ見えにけれ。しかれども徐福は猶も山には行き着かで舟に乗せたる童男*丱女(くわんぢよ)は徒に老いをとらへ、舟は風に放されて行く方なくこそ成りにけれ。

(注)徐福=秦時代の方士。

   蓬莱山とて・・・=すでに始皇帝が「蓬莱山・・・」といっているのだから不自

    然な発言。

   鮫(蛟)竜=蛟竜。竜の一種。

   丱女=総角に結った少女。童女

   鏡のおもてに朱をさしたる=白目が鏡のようで瞳孔が赤いのか。

   鱗さかしまに重なり=竜の逆鱗はふつう一枚だが。

 また、唐土漢の武帝は、これも不老不死の薬を求めて、西王母といふ仙人を招き請じて仙術を学び給ふ。王母すなはち勅に応じて禁中に参内して*七菓の桃を奉り、*丹砂・雲母・玉璞を練り、*紫芝黄精の仙薬を調へ、終に蓬莱の不死の薬を奉りき。

 それより唐の世に移りて玄宗皇帝の御時、楊貴妃の魂の行方を訪ねまほしく思し召し、方士に仰せて求め給ふに、方士すなはち勅命を承り、*十洲三島の間をあまねく訪ね巡るところにかの蓬莱の山の内太真宮にて訪ね会ふ。「*七月七日星合の夜、比翼連理の語らひ懇ろなる私語(ささめごと)おはしけり」と云ふことは*この時にぞ知りにける。楊貴妃と申すは蓬莱宮の神仙にて、仮に人間に現れて玄宗皇帝に近づき、花清宮の御遊にも仙家の曲を舞ひ給ふ。*霓裳羽衣の曲とは、これ天上の神仙より伝へたりし舞楽なり。かれといひこれといひまことに尊き事どもなり。

(注)七菓の桃=七菓という形容は不明。

   丹砂・雲母・玉璞=丹砂は辰砂。水銀の硫化鉱物。玉璞は宝石の原石。

   紫芝黄精=紫芝は霊芝。万年茸という茸。黄精は鳴子百合。

   十洲三島=道教にいう仙境。

   七月七日・・・=「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願

    為連理枝 天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期」(長恨歌)を踏まえる。

   この時にぞ知りにける=文意が取りずらい。

   霓裳羽衣の曲=玄宗皇帝が楊貴妃のために作ったとされる曲。

 ここに紀伊の国*名草の郡に、*安曇の安彦とて釣する海士のありけるが、春ものどかにうららかなる波に浮かべる小船に掉さして、沖の方に漕ぎ出だし魚を釣るところに、にはかに北風吹き落ちて、波高く上がりつつ雪の山のごとくなり。安彦心地惑ひて、舟を渚に寄せんとすれども、風はいよいよ激しう吹き、波はますます荒う打ちければ、力なく風に任せ波に引かれて南を指して馳せて行く。かくて行くこと飛ぶがごとく一日二日と馳するほどに、いづくとは知らず一つの山に吹き寄せたり。

 安彦すこし心地治りて、舟より上がり山の体を心静かに見渡せば、金銀水晶は岸を飾り、草木の花も世に変はり、聞き慣れぬ鳥の声、何につけてもさらに人間の境とも覚えず。

 「こはそも*九野八極を隔てし乾坤の外なるらん。」とあやしく思ひて立ちやすらふところに、年の頃二十ばかりの女房たち七八人、渚に沿ふて岩間を伝ひ歩み来たりし有様、雲の鬢(びんづら)・霞の眉・翡翠の簪・珠の*瓔珞・花を飾りし粧、心も言葉も及ばれず、らうたく美しく見えけるが、安彦を見給ひ大いに驚きのたまふやう、「そもそもここは蓬莱山とて、遥かに人間を隔てたる清浄(しやうじやう)の仙境なれば、たやすく人の通ふべきところならず。なんぢいかなる者なればここまで来たりけるやらん。」とのたまふ。安彦承り頭を地につけ手を合はせて申すやう、「それがしはこれより大日本紀伊の国名草に郡のすまひして、浦辺に舟に掉さして、玉藻を拾ひ磯菜を取り、また釣竿を携へて魚を取りて世を渡る賎しき海士の類なり。しかるに我一葉の舟に掉さして沖に出でて魚を取らんとせしところに、俄かに大風吹き落ちて、波に送られ風に馳せられて、心ならずこの地に来たれり。願はくは恵みを垂れて助けさせ給へ。」と申す。女房たちのたまふやう、「自ら各々世の常の人間にても侍(はん)べらず。同じく仙家の数にあり。さればなんぢらに言葉をも交はすべきことならねども、汝思ひがけずこの地に来たるもまた故あり。生まれてよりこの方心に怒りを忘れ、欲少なく正直にして、ものを憐れみ慈悲深き、その誠天理にかなひ事故(ことゆへ)なくこの所にも来たる事を得たるなり。さらば仙境の様を見せ侍らんに、先づ冥海の水に浴せよ。」とのたまふ。安彦水に浴すれば、*悴(かじ)け黒みし膚(はだへ)は、忽ちに色白く細やかに若やぎたり。また一粒の薬を与へて飲ましめ給ふに、安彦愚かなる迷ひの胸、忽ちに雰(きり)晴れてさやかなる月に向かふがごとくにて*自然智(じねんち)を悟りける。

(注)名草の郡=紀伊の国にある郡名。

   安曇の安彦=未詳。安曇という姓は海人系の氏族のようである。「安彦}という

    名は「名草」「紀伊」「安曇」で検索をかけてもヒットしなかった。

   九野八極=「九野」は天を九つに分けたその分野。全世界。「八極」は八方。こ

    れも全世界。

   瓔珞=宝石や金属を紐でつないで首や胸にかける装身具。

   悴け=生気を失いやつれる。

   自然智=師の教えによって得たのではなく、自然に悟りをひらいた智。

 かくて安彦は七人の仙女に伴ひて蓬莱宮の間を巡りてこれを見るに、まことに美妙綺麗なり。かかる所は生まれてよりこの方、目に見しことは云ふに及ばず、耳に聞きたる例もなし。見れども見れども弥珍らかに、飽きたることさらになし。また傍らより一人の仙人立ち出でて心も言葉も及ばぬほどの衣装を与へ、*天のこんす(柑子か?)・玄圃の梨・崑崙の棗などさしもに珍しきものを与へたれば、いよいよ心も爽やかに飛び立つばかりに覚えたり。

 それより不老門の内長生殿に連れ行きて、この仙人語りけるは、「いかにこれこそはなんぢも定めて聞き及びけん、不老不死の薬はこの宮中に籠められて、たやすく人には施し与ふることなけれども、なんぢが心の慈悲深く正直にして、親に孝あるそのこころざしを感ずる故に、これをなんぢに与へむ。」とて、すなはちこれを取り出だし、瑠璃に壺の内より七宝の器物に移し入れて安彦に給びてけり。安彦これを給はりて、「今はいとま申してふたたび故郷に帰らん。」と申す。「さらば心に任せよ。」とてやがて舟に送り乗せければ、七人の仙女も岸まで立ち出で給ひて、*東門の瓜・*南花の桃・玄雪の煉丹を安彦に給はりぬ。かくて艫綱を解き冥海に浮かびければ、南の風徐徐と吹きて日本の岸に着きにけり。

 昨日今日とは思へども、故郷は山川所を変へ、知れる人はさらになし。晋の*王質が仙家より帰りし事、水の江の浦島子が竜宮より帰りたりし昔の例につゆ違はず。安彦もやうやく七世の孫に尋ね逢ひたり。今安彦も三百余年を過ぎにけり。

 帝このことをきこしめし及ばせ給ひ、勅使を立て召されけり。安彦勅に従うて急ぎ参内仕り、蓬莱山の有様つぶさに奏聞申しつつ、不老不死の薬を帝にこれを奉る。帝叡感浅からず、安彦やがて一同に三位の宰相になし下され、自ら薬を嘗め給へば、帝の御齢若く盛りに立ち返り、長生不死の御寿を保ち給ふ。

 安彦はまた七世の孫もろともに通力自在の仙人となり、今はこの人界も我が住む所にあらずとて、空を駆けり雲に乗りて天上の仙宮に上りけるこそめでたけれ。

(注)天のこんす・玄圃の梨・崑崙の棗=天・玄圃(崑崙山上にある仙人の居所)・崑

    崙と対をなすが、「渾崙呑棗」という熟語があり、この場合「渾崙」は黒くて

    固く丸いものの意。玄圃梨(けんぽなし)は和名、漢名は枳梖。果実。こんす

    は酒の異称、濃漿(こんず)か。列挙する他の二者が梨・棗からすると果実か

    とも思われる。柑子が連想される。このような形容は未見。作者独自の表現

    か。

   東門の瓜=「秦の東陵侯瓜を長安城ノ東に種う。瓜有て五色甚だ美なり。之

    を青門の瓜東門の瓜と謂う也。(元和本草木門129①)ブログで見た「五

    色瓜」の解説より。出典未確認、孫引きです。

   南花の桃・玄雪の煉丹=未確認。いずれも仙果・仙薬であろう。

   王質=「述異記」に王質という木こりが山中で童子が碁を打っているのを見てい

    たところ気付いたら斧の柄が爛れていて、里に帰ったら知る人は誰もいなかっ

    た(爛柯)という故事がある。

   水の江=京丹後市にある入り江。浦島伝説で有名。

 

 

蓬莱物語④-異郷譚1ー

第四

 さて、紀伊の国名草の郡に、安曇の安彦といって釣を生業とする海士がいましたが、春ののどかでうららかな波に小舟を浮かべて、沖つ方に漕ぎ出して漁をしていたところに、にわかに北風が吹きおろして、波が高く上がって雪の山のようになります。安彦は心が混乱して、舟を渚に寄せようとしますが、風はいよいよ激しく吹き、波はますます荒く打ち寄せたので、やむをえず風に任せ波に引かれて南を指して舟を走らせます。まるで空を飛ぶように一日二日と馳せると、どこともわからない一つの島に吹き寄せられました。

 安彦は多少は落ち着きを取り戻し、舟から上がってその山の様子を冷静に見渡すと、金・銀・水晶が岸を飾り、草木の花もじつに珍しく、聞き慣れない鳥の声がするなど、何につけてもまったく人間のすむ境界とは思われません。

 「ここはきっと九野八極の世界から隔絶された乾坤(天地)の外なのだろう。」と不思議に思いながら佇みとどまっていますと、年の頃二十ばかりの女房たちが七八人、渚に沿って岩の間を伝い歩いて来ます。その様子は、雲の鬢(びんづら)・霞の眉・翡翠の簪・珠の瓔珞・花を飾りった粧いは、なんとも言い表しようもなく、可憐で美しく見えます。安彦をごらんになって大いに驚いておっしゃるには、「そもそもここは蓬莱山といって、遥かに人界から隔てられた清浄の仙境なので、たやすく人が通えるところではありません。なんじはいかなる者で、どうしてここまで来たのでしょうか。」とおっしゃいます。安彦はそのお言葉を受け頭を地につけ手を合わせて申します。「それがしはこれよりかなたの大日本紀伊の国の名草の郡にすまいして、浦辺で舟に掉さして、玉藻を拾い磯菜を取り、また釣竿を携えて魚を取って世を渡る賎しい海士の類です。しかるに私は一葉の舟に掉さして沖に出て魚を取ろうとしたところ、俄かに大風が吹きおろして、波に送られ風に馳せられて、心ならずもこの地に来たのです。お願いですお情けをかけてくださってお助けください。」と申し上げます。女房たちは、「私たちはみんな世の常の人間ではございません。等しく仙家の者です。ですからなんじらと言葉を交わすべき身分ではありませんが、なんじが思いがけずこの地に来たのもまた理由があるのでしょう。きっと生まれてよりこの方心に怒りを覚えることもなく、欲少なく正直で、ものを憐れみ慈悲は深く、その誠実さが天理にかなったので無事にこの場所に来ることができたのです。そういうことならば仙境の様子を見せましょう。先ず冥海の水で沐浴して身を清めなさい。」とおっしゃいます。安彦が沐浴すると、やつれ黒ずんだ肌は、たちまち色白くきめ細やかに若やぎます。また一粒の薬を与えて飲ませなさると、安彦の愚かな迷いの心は、たちまち霧が晴れてさやかな月に向かうようでおのずから悟りの境地に達するようです。

 こうして安彦は七人の仙女に伴われて蓬莱宮の間を巡ってこれを見ると、まことに美妙で綺麗なのです。このような所は生まれてこの方、目に見ることはいうまでもなく、耳に聞いた経験もありません。見ればみるほどますます珍らしく、飽きることは全くありません。また傍らから一人の仙人が立ち現れて、心も言葉も及ばぬほどの美しい衣装が与えられ、天の濃漿(こんず)・玄圃の梨・崑崙の棗などなんとも珍しいものを与えられたので、いよいよ心も爽やかに飛び立つばかりに思われるのでした。

 それから不老門の内長、生殿に連れて行かれ、この仙人が語ったことには、「いやこれはなんじもきっと聞き及んでいることだろう、この宮中に不老不死の薬が秘蔵されていて、たやすく人には施し与えることはないのだけれども、なんじの心が慈悲深く正直で、親孝行であるそのこころざしに感ずる故に、これをなんじに与えよう。」。こういうわけで、この薬を取り出して、瑠璃に壺の内から七宝の器に移し入れて安彦に賜ったのです。安彦はこれをいただいて、「今はいとまを申してふたたび故郷に帰りたく思います。」と申し上げます。「そう思うならば、思いの通りするがいい。」ということですぐに舟に乗せて送り出すと、七人の仙女も岸まで立ち出なさって、東門の瓜・南花の桃・玄雪の煉丹を安彦にお与えになりました。かくて艫綱(ともづな)を解いて冥海に浮かんだところ、南の風がそよそよと吹いて日本の岸に着きました。

 昨日今日出来事だと思っていましたが、帰ってみると故郷は山川は所を変えたかのようで、見知った人はまったくいません。晋の王質が仙境から帰った事、水の江の浦島子が竜宮から帰った昔の例に全く同じです。安彦はやっとのことで七世後の孫に尋ね逢ました。今は安彦も齢三百余年を過ぎていたのです。

 帝はこのことをお聞き及びになり、勅使を立てお召しになりました。安彦は勅命に従って急いで参内いたし、蓬莱山の有様をつぶさに奏聞しつつ、不老不死の薬を帝に献上しました。帝の叡感は深く、安彦すぐさま一度に三位の宰相を下賜なされ、自らは薬を嘗めなさったので、帝の御齢は若く盛りに立ち戻り、長生不死の御寿命を保ちなさいました。

 安彦は七世の孫と一緒に通力自在の仙人となり、今はこの人界も我が住む所にあらずと思って、空を駆け雲に乗って天上の仙宮に上ったということです。じつに素晴らしいことでございます。

原文

 ここに紀伊の国*名草の郡に、*安曇の安彦とて釣する海士のありけるが、春ものどかにうららかなる波に浮かべる小船に掉さして、沖の方に漕ぎ出だし魚を釣るところに、にはかに北風吹き落ちて、波高く上がりつつ雪の山のごとくなり。安彦心地惑ひて、舟を渚に寄せんとすれども、風はいよいよ激しう吹き、波はますます荒う打ちければ、力なく風に任せ波に引かれて南を指して馳せて行く。かくて行くこと飛ぶがごとく一日二日と馳するほどに、いづくとは知らず一つの山に吹き寄せたり。

 安彦すこし心地治りて、舟より上がり山の体を心静かに見渡せば、金銀水晶は岸を飾り、草木の花も世に変はり、聞き慣れぬ鳥の声、何につけてもさらに人間の境とも覚えず。

 「こはそも*九野八極を隔てし乾坤の外なるらん。」とあやしく思ひて立ちやすらふところに、年の頃二十ばかりの女房たち七八人、渚に沿ふて岩間を伝ひ歩み来たりし有様、雲の鬢(びんづら)・霞の眉・翡翠の簪・珠の*瓔珞・花を飾りし粧、心も言葉も及ばれず、らうたく美しく見えけるが、安彦を見給ひ大いに驚きのたまふやう、「そもそもここは蓬莱山とて、遥かに人間を隔てたる清浄(しやうじやう)の仙境なれば、たやすく人の通ふべきところならず。なんぢいかなる者なればここまで来たりけるやらん。」とのたまふ。安彦承り頭を地につけ手を合はせて申すやう、「それがしはこれより大日本紀伊の国名草に郡のすまひして、浦辺に舟に掉さして、玉藻を拾ひ磯菜を取り、また釣竿を携へて魚を取りて世を渡る賎しき海士の類なり。しかるに我一葉の舟に掉さして沖に出でて魚を取らんとせしところに、俄かに大風吹き落ちて、波に送られ風に馳せられて、心ならずこの地に来たれり。願はくは恵みを垂れて助けさせ給へ。」と申す。女房たちのたまふやう、「自ら各々世の常の人間にても侍(はん)べらず。同じく仙家の数にあり。さればなんぢらに言葉をも交はすべきことならねども、汝思ひがけずこの地に来たるもまた故あり。生まれてよりこの方心に怒りを忘れ、欲少なく正直にして、ものを憐れみ慈悲深き、その誠天理にかなひ事故(ことゆへ)なくこの所にも来たる事を得たるなり。さらば仙境の様を見せ侍らんに、先づ冥海の水に浴せよ。」とのたまふ。安彦水に浴すれば、*悴(かじ)け黒みし膚(はだへ)は、忽ちに色白く細やかに若やぎたり。また一粒の薬を与へて飲ましめ給ふに、安彦愚かなる迷ひの胸、忽ちに雰(きり)晴れてさやかなる月に向かふがごとくにて*自然智(じねんち)を悟りける。

(注)名草の郡=紀伊の国にある郡名。

   安曇の安彦=未詳。安曇という姓は海人系の氏族のようである。「安彦}という

    名は「名草」「紀伊」「安曇」で検索をかけてもヒットしなかった。

   九野八極=「九野」は天を九つに分けたその分野。全世界。「八極」は八方。こ

    れも全世界。

   瓔珞=宝石や金属を紐でつないで首や胸にかける装身具。

   悴け=生気を失いやつれる。

   自然智=師の教えによって得たのではなく、自然に悟りをひらいた智。

 かくて安彦は七人の仙女に伴ひて蓬莱宮の間を巡りてこれを見るに、まことに美妙綺麗なり。かかる所は生まれてよりこの方、目に見しことは云ふに及ばず、耳に聞きたる例もなし。見れども見れども弥珍らかに、飽きたることさらになし。また傍らより一人の仙人立ち出でて心も言葉も及ばぬほどの衣装を与へ、*天のこんす(柑子か?)・玄圃の梨・崑崙の棗などさしもに珍しきものを与へたれば、いよいよ心も爽やかに飛び立つばかりに覚えたり。

 それより不老門の内長生殿に連れ行きて、この仙人語りけるは、「いかにこれこそはなんぢも定めて聞き及びけん、不老不死の薬はこの宮中に籠められて、たやすく人には施し与ふることなけれども、なんぢが心の慈悲深く正直にして、親に孝あるそのこころざしを感ずる故に、これをなんぢに与へむ。」とて、すなはちこれを取り出だし、瑠璃に壺の内より七宝の器物に移し入れて安彦に給びてけり。安彦これを給はりて、「今はいとま申してふたたび故郷に帰らん。」と申す。「さらば心に任せよ。」とてやがて舟に送り乗せければ、七人の仙女も岸まで立ち出で給ひて、*東門の瓜・*南花の桃・玄雪の煉丹を安彦に給はりぬ。かくて艫綱を解き冥海に浮かびければ、南の風徐徐と吹きて日本の岸に着きにけり。

 昨日今日とは思へども、故郷は山川所を変へ、知れる人はさらになし。晋の*王質が仙家より帰りし事、水の江の浦島子が竜宮より帰りたりし昔の例につゆ違はず。安彦もやうやく七世の孫に尋ね逢ひたり。今安彦も三百余年を過ぎにけり。

 帝このことをきこしめし及ばせ給ひ、勅使を立て召されけり。安彦勅に従うて急ぎ参内仕り、蓬莱山の有様つぶさに奏聞申しつつ、不老不死の薬を帝にこれを奉る。帝叡感浅からず、安彦やがて一同に三位の宰相になし下され、自ら薬を嘗め給へば、帝の御齢若く盛りに立ち返り、長生不死の御寿を保ち給ふ。

 安彦はまた七世の孫もろともに通力自在の仙人となり、今はこの人界も我が住む所にあらずとて、空を駆けり雲に乗りて天上の仙宮に上りけるこそめでたけれ。

(注)天のこんす・玄圃の梨・崑崙の棗=天・玄圃(崑崙山上にある仙人の居所)・崑

    崙と対をなすが、「渾崙呑棗」という熟語があり、この場合「渾崙」は黒くて

    固く丸いものの意。玄圃梨(けんぽなし)は和名、漢名は枳梖。果実。こんす

    は酒の異称、濃漿(こんず)か。列挙する他の二者が梨・棗からすると果実か

    とも思われる。柑子が連想される。このような形容は未見。作者独自の表現

    か。

   東門の瓜=「秦の東陵侯瓜を長安城ノ東に種う。瓜有て五色甚だ美なり。之

    を青門の瓜東門の瓜と謂う也。(元和本草木門129①)ブログで見た「五

    色瓜」の解説より。出典未確認、孫引きです。

   南花の桃・玄雪の煉丹=未確認。いずれも仙果・仙薬であろう。

   王質=「述異記」に王質という木こりが山中で童子が碁を打っているのを見てい

    たところ気付いたら斧の柄が爛れていて、里に帰ったら知る人は誰もいなかっ

    た(爛柯)という故事がある。

   水の江=京丹後市にある入り江。浦島伝説で有名。

蓬莱物語②-異郷譚1ー

第二

 我が朝では神代の昔、天照太神が天の岩戸に閉じ籠もりなさって、国中が常時闇夜となってしまいました。その時八百万の神々が岩戸の前で嘆きなさって、「どうにかしてもう一度太神に岩戸からお出でいただきたい。」とさまざまなはかりごとをめぐらしなさいました。その時です、思兼命(おもいかねのみこと)申す御神がいました。深謀遠慮をめぐらして、天の香具山の真榊を根ごと岩戸の前に移し替え、上の枝には鏡を懸けて下の枝には白幣(しらにぎて)青幣を懸けなさり、庭に火を焚いて神楽を演じなさいました。別にはかりごとをくわだてて、常世の国から長鳴き鳥を求め寄せて、岩戸の前で鳴かせなさると、太神の御心はなだめられなさって、ふたたび岩戸からお出になられました。

 そういうことで、わが国で常世の国というのは蓬莱山のことなのです。長鳴き鳥と申すのは鶏のことです。この鳥は世の中に多いものでございますので、人は全く珍しいとは思いませんが、暁ごとに時を間違えず八声(たびたび)鳴くという、その霊験は他の鳥とは比べようもありません。まことに仙境の名鳥なので、神代でもやはり大切に扱われなさり、今に至るまで神社神社で鶏は飼いなさっているのです。

 また、垂仁天皇の御時に、田道間守(たじまもり)という臣下に仰せつけて常世の国の香菓(かくのみ)を求めさせなさいましたが、間守はすぐさま勅命を承って常世の国に出向いて香菓を求め得て帝にこれを奉りました。香菓と申すのは、今我が国に植え続けられて素晴らしいものともてはやされる橘のことです。右近衛の陣の前に橘を植えられなさったのもこの故と聞いています。

 さて、この世より天上には、太清宮・太玄宮・太真宮などというその昔、世界が始まった太古以来の、長生不死の大仙王・天帝の都があります。この内に住みなさっている天仙・飛仙の輩がはるかにこの山を御覧になり、「これは清浄な霊地である。」ということで、あるいは冥海の波を踏むこと陸地を行くがごとく、あるいは蒼々の空を駆けること鳥の飛ぶがごとく、天上より天下ってこの山に住みなさったので、十方諸国の仙人も皆この山に行き通って、楽しみを極めたとかいうことです。

 このようなわけで、天仙・飛仙の神力によって、七宝がちりばめられた宮殿楼閣が幾重にも重なるように、自然と出現したのです。十二の玉楼・九重の玄室があり、左には瑤(美しい玉)の池があり、右には翡翠の泉があります。池の内には五色の亀がいます。その他にさらに方壺・員岱・閬風・玉圃といった宮殿が軒を並べ楼閣は椽(たるき)を軋(きし)ませています。また、冥海の波の内に大蜃の蛤がいて気を吐いています。

 その気に従って蜃気楼となり五色の雲が空にたなびき、雲の上に三つの宮殿が現れます。鳳のような甍が高く聳え、虹(虹は竜の一種と考えられていた)のような梁が長く横たわっています。すべての宮殿楼閣は厳浄にして綺麗で言いようもないほどです。瑪瑙の柱・琥珀の長押・珊瑚の欄干・黄金の垂木、硨磲の簾には真珠の瓔珞を懸け、水晶の戸・玳瑁の垣・瑠璃の瓦が並んでいます。蘭麝・沈水の香の匂いは、永遠に絶えることはありません。

 庭には金銀の砂を敷き、池には八徳の水を湛えています。池の汀には鳳凰・孔雀・迦陵頻、その他音色も珍らしい諸々の鳥が集まって、羽先を並べて囀る声は、聞くと心が澄みわたります。咲き乱れている花の色や、たわわに実っている果実の匂いは、四方に薫り輝いて、全く比類ないものです。諸々の仙人が花に戯れ水に遊び、音楽を演奏しては舞楽を舞い、四種の肉芝(効能ある獣肉)・五色の更梨・火棗・水瓜などの果実を食し、玉醴・金漿などの天上の濃漿(こんず)の美酒を、玉の杯を傾けて誇らしげに楽しむ有様は例えようもありません。

 また、ひとつの楼台があります。栢(柏)梁台と名付けられています。高さ五丈の幡(はたほこ)の上に白金(銀)の盤があって天に向かって捧げられています。秋の夕べの白露を盤の中に受けとめて、これを練ると飴になります。これを用いて煉丹の君薬とするのです。また、青霜・玄雪といって雪や霜までもこの聖地のゆえでしょうか寿命を延ばす薬となるのです。

 また、一つの宮殿があります。七宝をちりばめて二重に軒を構へています。軒の上には額があり、長生殿と打ちつけられています。御殿の前には門があります。門の額には不老門と書いてあります。御殿の前には白い大椿(だいちん)が植えられています。「荘子・逍遥」に「八千歳を春として、八千歳を秋とする」と記されている長寿の木です。契り深いことの例えにも「八千世を籠めし玉椿変はらぬ色」と詠まれている歌の心もこれでしょう。その長生殿の内には不老不死の薬があります。これは天帝が管理なさっている所です。黄金の台の上の瑠璃の壺にお入れなさって、前には諸々の花を供え、常にうるわしい香を焚きながら、八人の天仙が日夜に番を務めて、門にはまた十六人の鬼神がいて、かたくこれを守るとかいうことです。

 この薬は匂いをあまねく四方に燻らせながら、雲路を指して遡るので、空には五色の雲がたなびき、そこには天人が常に影向(姿を現す)するということです。この薬を服すると容貌(かたち)はいつも若やかに年を取ることもなく、命も全く限りがないのです。ですから、中国の麻姑と云ふ仙女は、その昔継母の讒言によつて、年十五と申す時、父母の家を逃げて山に籠ったり女性ですが、自分で仙術を悟り得て、蓬莱山に到ってこの不老不死の薬をなめそうです。それから三百余年後、張重花という人が山中で行き合って、昔の事を語ってくれたそうですが、その時の顔形は全く昔と違わなかったということです。

 このように素晴らしい薬なので、聞く人聞く人羨んで求めようとするのですが、そのよすがは全くございません。

原文

 我が朝神代の古、天照太神の天の岩戸に閉ぢ籠もらせ給ひしかば、国の内常闇の夜となりにけり。その時八百万の神たち岩戸の前にして、これを嘆き給ひて、「いかにもしてふたたび太神を岩戸より出し奉らん。」とさまざまはかりごとをめぐらし給ふ。ここに、思兼(おもひかね)の命と申す御神あり。遠く思ひ深く計りて天の香具山の真榊を*根越にして、上の枝には鏡を懸け下の枝には*白幣(しらにぎて)青幣を懸け給ひ、庭火を焚き神楽を奏し給ひけり。またはかりごとをめぐらして、常世の国よりも*長鳴き鳥を求め寄せて、岩戸の前にて鳴かせられしに、太神の御心宥(なだ)まらせ給ひて、ふたたび岩戸を出でさせおはしましけり。

 *されば、常世の国と云ふは蓬莱山のことなり。長鳴き鳥と申すはこれ鶏のことなり。この鳥世の中に多きものにて侍れば、人さらに珍しからず思へども、暁ごとの時を違へず八声おとなふる、その奇特はまた余の鳥に比べ難し。まことに仙境の名鳥なれば、神代にも猶もてなし給ひ、今に伝へて社やしろに鶏は飼ひ給へリ。

 また、*垂仁天皇の御時、*田道間守(たぢまもり)といふ臣下に仰せて常世の国の香菓(かくのみ)を求めさせ給ふに、間守すなはち勅命を承り常世の国に行き向かふて香菓を求め得て帝にこれを奉りき。香菓と申すは、今我が朝に植えとどめてめでたきものにもてはやす橘のことなり。右近衛の陣の前に橘を植えらるるもこの故と聞こえたり。

(注)根越=根元から掘って植え替えること。

   白幣青幣=神に供える白や青の麻の布。

   垂仁天皇=第11代天皇

   田道間守=新羅王子天日槍の子孫。記紀に伝わる。

 しかるにこれより天上に、*太清宮・太玄宮・太真宮などとてその上、世界始まりしその古よりこのかた、長生不死の大仙王天帝の都あり。この内に住み給ふ天仙・飛仙の輩はるかにこの山をみそなはし、「これ清浄の霊地なり。」とてあるいは冥海の波を踏むこと陸地を行くがごとく、あるいは蒼々の空を駆けること鳥の飛ぶがごとく、天上より天下りこの山に住み給へば、十方諸国の仙人も皆この山に行き通ひて、楽しみを極むとかや。

 かかりければ、天仙・飛仙の神力によりて宮殿楼閣重々にして、*七宝をちりばめつつ、自づから出生せり。十二の玉楼九重の玄室、左には*瑤(たま)の池あり。右には*翠の泉あり。池の内には五色の亀あり。その他になほ*方壺・員岱・閬風・玉圃とて宮殿軒を並べ楼閣椽(たるき)を軋(きし)れり。また、冥海の波の内に*大蜃の蛤ありて気を吐く。

 その気に従うて五色の雲空にたなびき雲の上に三の宮殿あり。鳳の甍高く聳え、*虹の梁(うつばり)長く蟠れり。すべてあらゆる宮殿楼閣厳浄綺麗いふばかりなし。瑪瑙の柱・琥珀の長押・珊瑚の欄干・黄金の垂木・硨磲の簾には真珠の瓔珞を懸け、水晶の戸・玳瑁の垣・瑠璃の瓦を並べたり。蘭麝・沈水の香の匂ひ、とこしなへにして絶ゆることなし。

 庭には金銀の砂(いさご)を敷き、池には*八徳の水を湛へたり。池の汀には鳳凰・孔雀・迦陵頻、その他色音も珍らかなる諸々の鳥集まりつつ、羽先を並べて囀る声、聞くに心ぞ澄みわたる。咲き乱れたる花の色、*成りこだれぬる菓の匂ひ、四方に薫じ輝きて、類はさらにあるべからず。諸々の仙人花に戯れ水に遊び、楽を奏して舞をなし、四種の*肉芝・五色の*更梨・火棗・水瓜を食とし、*玉醴・金漿の天上の濃漿(こんず)の酒、玉の杯を傾け楽しみに誇る有様例へむかたはなかりけり。

(注)太清宮・太玄宮・太真宮=この三つの宮を列挙した用例は見つけられなかった。

   七宝=七つの宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃・玻璃・硨磲・珊瑚・瑪瑙。法

    華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玟瑰。

   天仙・飛仙=天に住む仙人、空を飛ぶ仙人。地仙に対していうか。

   瑤・翠=瑤は美しい玉、翠は翡翠か。

   方壺・員岱・閬風・玉圃=方壺は神仙が澄んでいるという海中の山三壺(方壺・

    蓬壺・瀛壺)のひとつ。員岱は不明。岱山(泰山)と関係があるか。閬風は

    閬風苑か。崑崙山にあり仙人のいるところという。玉圃は瑤圃か。玉の園、仙

    人の住んでいる所。玄圃。是も崑崙山にあるという。

   大蜃=蜃気楼を生み出す伝説上の生物。大はまぐりとも。

   虹=虹は竜の一種と考えられていた。雄を虹、雌を蜺といった。

   八徳の水=八功徳水。心身を養う八つの功徳を持つといわれる水。

   成りこだれぬる=たわわになる。なってしなだれる。

   肉芝=晋代道家の書「抱朴子」によると五芝(芝は薬効のある食べ物か)に石

    芝・木芝・草芝・菌芝・肉芝があって、その肉芝には①万歳蟾蜍②千歳蝙蝠③

    千歳霊亀④風生獣があるという。これをいうか。

   更梨・火棗・水瓜=交(更)梨・火棗は道教の書「真誥」によると食すと空を飛

    べる薬のようである。水瓜は西瓜か。五色だと他の二つは?

   玉醴・金漿・濃漿=玉醴・金漿はともに美酒。現代中国語では金漿玉醴は上質な

    ワインをいうらしい。濃漿は酒の異称。「真誥」によると玉醴・金漿も空を飛

    べるらしい。

 また、ひとつの台(うてな)あり。*栢(柏)梁台と名付けたり。高さ五丈の幡(はたほこ)の上に白金の盤ありて天に向かうて捧げたり。秋の夕の白露を盤の中に受け留めて、これを練るに糖(あめ)となる。これを用ひて*煉丹の君薬とせり。また、青霜・玄雪とて雪霜までもところからに命を延ぶる薬となる。

 また、一つの宮殿あり。七宝をちりばめて二重に軒を構へたり。軒の上に額あり、長生殿と打ちたり。御殿の前に門あり、門の額には不老門と書きたりけり。殿の前には*白大椿を植えたりけり。「八千歳を春として、八千歳を秋とする」と記したり。契り深き例へにも「*八千世を籠めし玉椿変はらぬ色」と詠みたりける歌の心もこれぞかし。かの長生殿の内には不老不死の薬あり。これ天帝の治め給ひし所なり。黄金の台の上に瑠璃の壺に入れ給ひ、前には諸々の花を供へ、常に名香を焚きつつ、八人の天仙日夜に番を務むれば、門にはまた十六人の鬼神ありて、かたくこれを守るとかや。

 この薬の匂ひあまねく四方に燻じつつ、雲路を指して遡れば、空には五色の雲たなびき天人常に影向す。この薬を服すれば容貌(かたち)はいつも若やかに齢傾くこともなく、命もさらに限りなし。されば唐土の*麻姑と云ふ仙人は、そのかみ継母の讒言によつて、年十五と申せし時、父母の家を逃げて山に籠りし女なり。自づから仙術を悟り得て、蓬莱山に到りつつ不老不死の薬をなめたり。それより三百余歳の後、*張重花と云ふ人に山中にして行き合ひつつ、昔の事を語りける、その時の顔形さらに昔と違はずとなり。

 かかるめでたき薬なれば、聞く人ごとに羨みて求むるといへどもたよりはさらになかりけり。

(注)栢(柏)梁台=漢の武帝が築いた楼閣に伯梁台という楼閣がある。

   煉丹=道士が辰砂練って作ったという不老不死の妙薬。

   青霜・玄雪=不明。仙薬の一種か。

   白大椿=白い大椿(だいちん)。「荘子(逍遥)」に「上古有大椿者、以八千歳

    為春、八千歳為秋」とある。

   八千世を・・・=謡曲「三輪」に同様の詞章がある。出典は「拾玉集(慈円)」

    の「君が代は春に春ある時ながら八千代籠めたる玉椿かな」。

   麻姑=二人の麻姑がいるようである。①「神仙伝」に見える中国神話に登場する

    仙女。長寿の象徴でもある。「孫(麻姑)の手」「滄海桑田」の故事が有名。

    蓬莱山を往来したという。②「列仙全伝」では五胡十六国時代後趙の武将麻

    秋の娘の麻姑は民を救い父の怒りを買い山に逃れ、仙女になったという。両者

    が混ざったものか。

   張重花=未詳。五胡十六国時代前涼の君主の張重華は前述の麻秋と闘ったこと

    があるが、蓬莱物語のエピソードにはつながらない。帝堯は名を重花といい、

    継子いじめというテーマでつながるという指摘がネット上で拝見した「継子の

    麻姑」(中前正志氏他二名)という論文にあった。素直に文脈を読むと張重花

    も三百歳以上という事になるから仙人の類だと思われる。「蓬莱山由来」は

    「蓬莱物語」とほぼ同じ内容であるが、張重花は王方平となっている。王方平

    は麻姑の兄である。兄妹が三百年ぶりに会うというのもどうか。

 

蓬莱物語③-異郷譚1ー

第三

 中国では秦の始皇帝の時、天下がことごとく定まって、始皇帝は御身の栄華が比類ない事には満足しながらも、つらつら心の内でお考えになる事には、「たとえ天下を掌(たなごころ)のうちに収めたとしても年が重なれば齢は傾き、我が身は老いて最後には、間違いなく死んでしまうだろう。齢が傾かず命の限りない長生不死の仙術を朕に伝えてくれるべく、蓬莱山の不老不死の薬を探し出して献上してくれる人がいてほしいのだが。」と天下の諸国に尋ねなさいましたが、徐福という道士が帝に奏聞いたしました。「私に君のために不死の薬を求めて献上させてください。大海のうちに蓬莱山という神山がありります。不死の薬はこの内にあるといいます。この山に到つて取ってきましょう。ただ、そこに行き着くには風は荒く波が高いのでたやすくはありません。十五歳以前の子供を男女各々五百人を船に乗せていけば、子々孫々がその意思をうけ継いで終には山に到ることができるでしょう。さすればすぐにでも手に入れて献上いたしましょう。」と申し上げると、「それこそ我が願うところである。」と帝は大いに喜びなさって大船を建造させ、千人の子供を乗せて、徐福もこれに乗って大海に船出したのでした。 

 風は荒く波が高く蓬莱山は目にはそれと見えるのですが岸に寄るべき手立てはありません。波が船を持ち上げる時は天上の雲にも達するようで、波から舟が落ちる時は竜宮の底にも到りそうでした。しかも蛟竜という恐ろしいものがその船に取り付いて船は全く動きません。徐福はそこでこれを服従させようとして舷(ふなばた)に五百の強弩(強いいしゆみ)をしつらえて蛟竜が浮かび上がるのを待ち構えました。ある時蛟竜が水の上に浮かび出ました。首は獅子頭に似て角があり髪は乱れてまなこは鏡面に朱をさしたようです。鱗はさかさまにに重なり六つの足は爪が長く、横たわった長さはは百余丈です。徐福はこれを見てかねてから待ちうけていたことなので、五百の連弩の石弓を一斉に放ったので、蛟竜はこれに打たれて、頭が砕けて腹は破れてたちまちに死んでしまいました。大海の水はこのために血の色に変じて見えたということです。しかしそれでも徐福はやはり山には行き着かないで船に乗せた童男丱女は空しく老い迎え、船は風に吹き放されて行方知らずとなったそうです。

 また、唐土漢の武帝は、これも不老不死の薬を求めて、西王母という仙人を招き請じて仙術を学びなさいました。王母はそこで勅命に応じて禁中に参内して七菓の一つの桃を献上し、丹砂・雲母・玉璞などの宝石を練って、紫芝黄精の仙薬を調合し、蓬莱の不死の薬を奉ったのでした。

 その後唐の世となって玄宗皇帝の御時には、死んだ楊貴妃の魂の行方を訪たく思いなさって、方士にお命じになって探させなさると、方士は勅命を受けて、十洲三島あらゆる仙境を訪ね巡てかの蓬莱の山の内の太真宮を訪ねて逢うことができました。「七月七日星合の夜、比翼連理の語らひ懇ろなる私語(ささめごと)おはしけり」と長恨歌に描かれたのはこの時のことと思われます。楊貴妃と申す方は実は蓬莱宮の神仙で、仮に人間世界に現れて玄宗皇帝に近づき、花清宮の御遊宴にも仙家の曲を舞いなさったということです。この「霓裳羽衣の曲」とは、天上の神仙より伝えられた舞楽です。かの武帝の例といいこの玄宗皇帝の例といい実に素晴らしい事です。

原文

 唐土秦の始皇の時天下悉く定まり、始皇自ら御身の栄花例へむかたもなかりしに、つらつら心に思しけるは、「たとひ天下をば掌(たなごころ)のうちに収むるとも年重なれば齢傾き老いが身の果てしには、むなしくならんは疑ひなし。願はくは齢傾かず命限りなき長生不死の仙術を伝へ、蓬莱山の不老不死の薬を求めて与ふる人やある。」と天下の諸国を尋ねられしに、徐福と云ふ道士ありて帝に奏聞申すやう、「我願はくは君のために不死の薬を求め得て奉るべし。しからば此の薬は大海のうちに*蓬莱山とて神山あり。この内にこそあるなれば、この山に到つて取るべし。ただし風荒く波高ければたやすくは到り難し。十五以前の子供を男女各々五百人を船に乗せて、子々孫々あひ継ぎて終には山に到るべし。やがて取り得て奉らん。」と申しければ、「それこそ願ふところなれ。」と帝大いに喜び給ひて大船をこしらへ、千人の子供を乗せ、徐福これに取り乗りて大海にこそ浮かびけれ。 

 風荒く波高く目には蓬莱山を見れども岸に寄るべきやうもなし。波舟を上ぐる時は天上の雲にものぼるべく波より舟の下るる時は竜宮の底にも到るべし。しかも*鮫(蛟)竜と云ふ恐ろしきものその舟につきしかば舟さらに働かず。徐福すなはちこれを従へむととて舟ばたに五百の強弩をしつらひ蛟竜の浮かび上がるをあひ待ちけり。ある時蛟竜水の上に浮かび出でたり。かうべは獅子の頭に似て角帯び髪乱れまなこは又鏡のおもてに朱をさしたるごとくなり。*鱗さかしまに重なり六つの足は爪長く臥し長(たけ)は百余丈にも余りたり。徐福これを見てもとより待ちまうけたることなれば、五百の連弩の石弓を一同に放ちたれば蛟竜これに打たれつつ、頭砕け腹破れてたちまちに虚しくなる。大海の水この故に血に変じてこそ見えにけれ。しかれども徐福は猶も山には行き着かで舟に乗せたる童男*丱女(くわんぢよ)は徒に老いをとらへ、舟は風に放されて行く方なくこそ成りにけれ。

(注)徐福=秦時代の方士。

   蓬莱山とて・・・=すでに始皇帝が「蓬莱山・・・」といっているのだから不自

    然な発言。

   鮫(蛟)竜=蛟竜。竜の一種。

   丱女=総角に結った少女。童女

   鏡のおもてに朱をさしたる=白目が鏡のようで瞳孔が赤いのか。

   鱗さかしまに重なり=竜の逆鱗はふつう一枚だが。

 また、唐土漢の武帝は、これも不老不死の薬を求めて、西王母といふ仙人を招き請じて仙術を学び給ふ。王母すなはち勅に応じて禁中に参内して*七菓の桃を奉り、*丹砂・雲母・玉璞を練り、*紫芝黄精の仙薬を調へ、終に蓬莱の不死の薬を奉りき。

 それより唐の世に移りて玄宗皇帝の御時、楊貴妃の魂の行方を訪ねまほしく思し召し、方士に仰せて求め給ふに、方士すなはち勅命を承り、*十洲三島の間をあまねく訪ね巡るところにかの蓬莱の山の内太真宮にて訪ね会ふ。「*七月七日星合の夜、比翼連理の語らひ懇ろなる私語(ささめごと)おはしけり」と云ふことは*この時にぞ知りにける。楊貴妃と申すは蓬莱宮の神仙にて、仮に人間に現れて玄宗皇帝に近づき、花清宮の御遊にも仙家の曲を舞ひ給ふ。*霓裳羽衣の曲とは、これ天上の神仙より伝へたりし舞楽なり。かれといひこれといひまことに尊き事どもなり。

(注)七菓の桃=七菓という形容は不明。

   丹砂・雲母・玉璞=丹砂は辰砂。水銀の硫化鉱物。玉璞は宝石の原石。

   紫芝黄精=紫芝は霊芝。万年茸という茸。黄精は鳴子百合。

   十洲三島=道教にいう仙境。

   七月七日・・・=「七月七日長生殿 夜半無人私語時 在天願作比翼鳥 在地願

    為連理枝 天長地久有時尽 此恨綿綿無絶期」(長恨歌)を踏まえる。

   この時にぞ知りにける=文意が取りずらい。

   霓裳羽衣の曲=玄宗皇帝が楊貴妃のために作ったとされる曲。

蓬莱物語①-異郷譚1ー

 室町物語(広義でいう御伽草子)には異郷を扱った物語が多数あります。「中世小説の研究(市古貞次氏)」の分類では、「異郷小説」と呼びます。異郷そのものをテーマとしたものとしは、「蓬莱物語」「不老不死」がありますが、テーマは本地物だったり怪婚談だったりするものの、舞台が異郷に及ぶものは多くあります。

 「稚児物語」のように截然と分類できないジャンルですが、そのうちのいくつかを紹介したいと思います。「梵天国」「御曹子島渡り」「浦島太郎」「浜出」「さざれ石」は御伽草子で現代語訳も多く出ているので、それ以外のものを取り上げたいと思います。
第一

 昔から今に至るまで、すばらしい例として語り伝えますことは数多いのですが、その中でもとりわけ霊験あらたかなものは不老不死の薬です。それは年老いた容貌を引き戻して再び元の若い姿にし、もとから若い者は寿命をのばして容色は常盤木や松の緑のようにいつまでも変わらず、末永く命を保つのです。

 そもそもこの不老不死の薬が出たところを尋ねると、その由来は蓬莱山にあるといいます。しかしながらこの山は大海の中にあって、諸々の仙人が集まり住む所なのです。またこの山を藐姑射(はこや)の山とも名付けられています。中国ではその昔、五帝の第四にあたりなさる唐堯と申す帝が自らこの山に行幸なさって、四人の神仙に会いなさいました。仙人は大いに喜んで不老不死の薬を献上いたしました。

 唐堯は都へ帰る道すがら、帰ったら人に施し与えようと思し召しなさったけれども、この帝堯と申す方は、上代の聖人です。五常仁義礼智信)の道を正しく行い、天然自然の心理を尊んで、人を教化して世を治め、この道をあまねく伝えてなさって後々の世までも絶やすまいと、常に心にかけなさっている方でした。

 もしこの薬を人に与えて、寿命を長く保ち命が尽きなければ、この薬を頼みとして、ほしいままに世を乱し、五常の道を忘れて、天然自然の真理はやぶられてしまうだろう。そうすれば国家も乱れて、世の中が鎮まることもないだろうと考え、かねてから末の世を深く思い、遠く慮っていたので、この不老不死の薬を世に広めなさりませんでした。そして箱の中に隠して驪山という山の中に埋め隠しなさいました。その薬の徳のおかげで山中は大いに潤って、草木は夥しく繁茂しました。またこの薬の箱の上には黄精(鳴子百合)という草が生えました。後の世の仙人は、この草を手に入れて丹薬を練って服用したとかいうことです。これは長生不死の薬草で、今の世でも黄精は体を養生する三百六十種の草木の中の第一と定められています。

 さて、かの蓬莱山と申す山についていうと、ここから(この世から)南海に向かって三万余里の波濤を経ると、その次の大海は冥海と名付けられています。水の色は黒くて深さは限りありません。この故に黒海とも名付けれれています。風が吹くことはないのですが、波は常に高く上がり、漫々として満ち溢れていて、雲や煙のように立ち重なる波はその高さ百余丈、日夜まったく止むことはありません。当然のことながら舟も筏も通うことはできないので、人の世とは長く隔絶されていました。天仙神力の輩(ともがら)だけが思い通りに渡ることができるので、またこの海を天池とも名付けたとかいうことです。この冥海を渡って、また三万里を過ぎて蓬莱山の岸に到ります。

 この山が出現したその昔を推測すると、我が朝がおこる以前、唐土三皇の第一伏羲氏の御代のころ、大海の底に六匹の亀がいました。年劫を積み重ねてその大きさは一万里でした。ある時その六匹の亀が一か所に集まり、海中に漂っていた大きな浮き島を甲にのせて差し上げました。この浮き島は諸々の宝が集まった結晶で、綺麗美妙の名山です。波打ち際の岸より峰の岩間に至るまで、水晶輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉色とりどりの宝玉が光り、まさに光明赫奕(こうみょうかくえき)と輝いていました。

 このようにしてできた山は年を経るうちに、草木が多く生えてきました。その草木のありさまはまったく人間世界の種類とは異なります。花が咲き果実の実る粧いは、色といい匂いといい、また味わいの素晴らしさといい想像も表現もできないほどです。上界では梵天国の大果報の徳を受け、下界では変幻自在に存在する竜宮城をもとに出現した山なので、どうしてこの世に類がありましょうか。その後不思議な獣、珍しい鳥が数々に出まれ出ました。角の形毛の色、翼の粧い鳴き囀る声はおのずから天地五行の徳に従うもので、五の調子が乱れないように調和が崩れることはありません。

原文

 昔が今に至るまで、めでたきためしに言ひ伝え侍る事、数々多きその中に、殊にすぐれて奇特なるは不老不死の薬とて、老いたる形を引き返し再び元の姿となし、もとより若き輩は齢(よはひ)を延べていつまでも変はらぬ色は常盤木や、松の緑の末永く、保つ命の限りなし。

 そもそもこの薬の出(いづ)る所を尋ぬれば、蓬莱山にありと言ふ。しかるにこの山は大海のうちにありて、諸々の仙人の集まり住む所なり。あるいはこの山を*藐姑射(はこや)の山とも名付けたり。唐土(もろこし)の古、五帝には第四にあたらせ給ふ*唐堯と申す帝、自らこの山に御幸(みゆき)して四人の神仙にあひ給ふ。仙人大いに喜びて不老不死の薬を奉り侍りけり。唐堯すでに都へ帰り給ひつつ、人に施し与へむと思し召しけれども、この帝と申すは、これ上代の聖人なり。*五常の道を正しくして、天理のまことを尊びつつ、人に教へて世を治め、この道を伝へ給ひ末の世までも絶えさじと、常に心にかけ給ふ。

 もしこの薬を人に与へ、齢久しく命尽きずば、この薬を頼みとしてほしいままに世を乱し、五常の道を忘れては、天理のまことを破るべし。しからば国家も乱れつつ、世の鎮まることあらじと、かねてより末の世を深く思ひ、遠く計りて不老不死の薬をば世に広め給はず。箱のうちに隠しつつ*驪山といふ山のうちに埋み置かせ給ひけり。その薬の徳故に山中大いにうるおひて、草木はなはだ栄えたり。またこの薬の箱の上には*黄精(わうせい)といふ草生ひたり。後の世の仙人、この草を取り得て丹薬を練りて服すとかや。長生不死の薬草にて、今の世までも黄精は命を養ふ三百六十種の草木の中の第一とす。

(注)藐姑射の山=邈(はる)か遠くにある姑射山。不老不死の仙人が住むという山。

   唐堯=三皇五帝は、中国古代の伝説上の帝王。唐堯(帝堯)には「鼓腹撃壌」の

    故事がある。

   五常儒教で人が常に行うべき正しい道。仁、義、礼、智、信。

   驪山=中国西安の東南にある山。麓に温泉があり、故事も多い。

   黄精=漢方薬。鳴子百合の根茎。強壮薬。

 しかるに、かの蓬莱山と申すは、これより南海に向かつて三万余里の波濤を経て、その次の大海をば冥海と名付けたり。水の色黒にして深きこと限りなし。この故に黒海とも名付けたり。風吹くことなけれども波常に高く上がり、漫々として湛へたれば、*雲のなみ煙の波その高さ百余丈、日夜さらに止むことなし。世の常のことには舟も筏も通ふことなければ、人間長く隔たりぬ。天仙神力の輩(ともがら)のみ心に任せて渡る故に、またこの海を*天池とも名付くとかや。かの冥海を渡ること、また三万里をうち過ぎて蓬莱山の岸に到る。

 この山始めて現れしその古を案ずるに、*我が朝その上唐土三皇の第一伏羲氏の御時に、大海の底に六の亀あり。年を重ね劫を積みてその大きさ一万里なり。ある時六の亀ひとところに集まり、海中に漂ふところの大山を甲にのせて差し上げたり。もとよりこの山は諸々の宝の集まりたりし精なれば綺麗美妙の名山なり。波打ち際の岸よりも峰の岩間に至るまで、*水晶(精)輪の台(うてな)の上に瑪瑙・琥珀・金銀白玉いろいろの玉の光り、さながら*光明赫奕たり。

 かくて年を経るままに、草木多く生出たり。その草木のありさまさらに人間世界の種にあらず。花咲き実る粧ひ、色といひ匂ひといひ、また味はひのうるはしきは心も言葉も及ばず。上には梵天の大果報の徳を受け、下には*竜宮の変化無方の所より現れ出でし山なれば、なじかはこの世に類あらん。その後あやしきけだもの珍しき鳥数々に出産す。角の形毛の色、翼の粧ひ、鳴き囀る声、自づから天地五行の徳に従ひ、*五の調子乱るることなし。

(注)雲のなみ煙の波=波の立ち重なっている様を雲にたとえていう。

   天池=天然の大池。海をいう。

   我が朝その上=私の解釈によると我が朝以前に中国王朝があったことになる。そ

    のような史観に立った人の作という事になるが、別解もあるか。

   水晶(精)輪=水晶でできた輪宝(車輪の形をした宝石)。

   光明赫奕=多くな光彩を放つさま。

   竜宮の変化無方の所=竜宮城が変幻自在に存在する宮殿という意味か。

   五の調子=五調子。唐楽、雅楽の調子。調和がとれているの意か。五調には頑丈

    の意味もある。

 

塵荊鈔(抄)⑯ー稚児物語4ー

第十六

 広く諸経の文言を見ると、六道における衆生は、その苦しみはまちまちである。

 第一に、地獄道は、熱い鉄が堆く地に積もり、溶けた銅が河と流れて、鉄の城の四面は、猛火が洞然として激しく燃えている。研刺磨擣の苦しみで、飢骨は油を出し、刀の山、剣の樹の痛さに悲しみ、手足に血をぽたぽたと垂らす。焦熱、大焦熱地獄の炎に咽び、泣けども涙は落ちない。火の輪は眼にふりかかり、火の焦げる勢いは足の裏を焼き、紅蓮、大紅蓮地獄の氷に閉じこめられ、叫べども声が出でない。寒風が手足を貫き、鉄杖が頭や目を穿つ。これは煩悩殺生の因果である。この道では無二地蔵と達多菩薩、ならびび清浄観をお頼みもうしあげるべきである。

 第二に餓鬼道は、長く飢え困苦しておのずからやせ衰え憔悴し、久しく渇え逼迫して、ひたすら飢えやつれて慌てふためいている。百の果実が林に実を結んでも、見るとそれば剣の樹に変じ、万の水は海に満ちていても、汲みに向かうと灼熱の銅の汁となる。食物を願っても微塵も与える人はなく、住居を求めても暫時も息う場所はない。これは慳貪放逸の業報である。この道では善美地蔵、宝受菩薩、ならびに真観をお頼み申し上げるべきである。

 第三に畜生道とは、霊鳥や猛獣や喘耎(いもむし)の類、肖翹(蝶や蜂)のような物、羽翔潜鱗(空飛ぶ鳥や水に沈む魚)など、その姿は限りなくあり、大小が混雑している。親子の恩愛は、人間と同じとはいっても、成長するにつれて、互いに喰い合ってもまったく気づかない。闇のような愚かさはまことに深く、本来の覚りとは最も遠い所にある。飛ぶ蛾は灯火に吸い込まれ、蚊や虻は蜘蛛の網に掛かり、山の鹿野の麋(なれじか)は東へ西へと迷走する。峡谷の猿や泉の獺(かわうそ)は、夕暮れも朝方もわからない。飛ぶ鳥は天の高きを知らず、遊ぶ魚は渕の深きを覚らない。あるものは聾(みみしい)駭(おろか)無足(あしなえ)で、身のうちには苦しみがある。あるものはくねくねと蛇のように進み、心のなかには愁いがある。哀しいことだ、生死の苦しみは終わりがない。悲しいことだ、迷いを出離するのは何時だろう。梵網経にいう、『一切衆生類を見る時は、汝是畜生発菩提心(汝ら畜生よ、菩提心を発せよ)と唱えなさい。』と。ある人師がこの文を解釈して言った、『畜生はたとえ理解できなくても、説法の声は毛孔から入っていき、ついには菩提にいたる縁となるだろう。』と。この道では伏勝地蔵、救脱菩薩ならびに慈観をお頼み申し上げるべきである。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚(怒り恨むこと)を心に含んで、星旄電戟の軍勢をもって争いをなし、体中に疵を蒙り、いつまでも怨讐を懐いて魚鱗鶴翼の陣を張り、満身に汗を流して戦っている。天から枷や鎖が降り下って囚われ、首を廻らす事もできない。地からは鉄刀が垂直に立てられ、足の置ける所はない。昼夜闘戦の鬨(ときのこえ)が耳に聞こえ落ち、朝夕傷を受けた血が大きな盾の上に浮かんでいる。また、天帝帝釈天とと覇権を争い、しばしばその居城喜見城を侵略し、その領土須弥山を掌握し、日や月を我がものとするが、ついには天帝の軍に砕き破れて恐ろしさに満ちているのである。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗としている。およそ衆生はみな本覚の如来であり、世尊とみなしていいものである。相対しては恭敬すべきなのに、どうして害心を生ずるのであろうか。ましてや、一念の瞋恚で俱胝劫(永遠)の善根を焼き、刹那の怨害で無量生の苦報を招くといえるであろう。この道では諸竜地蔵、持地菩薩ならびに悲観をお頼み申し上げるべきである。

  第五に人道では、この身は常に不浄にして、さまざまな穢れがその中に満ちて内生は熟臓があって、外相は皮膜に覆われ、唾や汗が常に流出して、膿や血がいつまでも充満している。たまたま受け難き人身を受けて人間界に生まれたのに死ぬことを嫌がって、幸いにも逢い難き仏教に逢ったというのに菩提を願わない。日夜煩悩に追い立てられて暫くも心休まる事はない。生者は死に、盛者は衰えるというのに、会者定離の理をわきまえないで、ややもすれば、名利にのみ執着して、貪欲を業として、あまつさえ愛楽に引かれて邪執を宗として、一生は尽きるのに願望だけは尽きない。哀しいことだ、ふたたび三悪の趣(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕す事は。まことに悲しむべきであり、恥ずべきである。

 第六の天道では、悲想天で八万歳の寿命があっても、やはり必滅の愁いがある。欲界の六天でも、五衰の悲しみを免れることはできない。善見城の勝れて妙なる楽しみ、色界の中間禅の高い楼閣にいること、これらもまた夢の中の果報であり、幻の間の快楽である。この時に浄い修業を行えばどうして等しく妙覚に到らないことがあろうか。この道では伏恩地蔵、月光菩薩、ならびに広大智恵観をお頼み申し上げるべきである。ましてや三界は火宅のような迷いと苦しみに満ちた世界である。世が治まった安楽の上代でさえ人は遁世した。乱世澆季末法濁乱の今、前後の定まらない東岱(岱山=死者の霊魂が集まる山)の煙は、とりもなおさず朝に親しみ、夕に語らった友を火葬したものではないか。新しかったり古かったりする北芒山(墓地として知られる)の露は、遠くで聞き近くで見た人そのものではないか。私はたまたま頭を剃つても心は剃っていない。衣を墨色に染めたならば心までも染めないことがあろうか、いや心までも染めなくてはいけない。こうしてこそ真正の善知識となるであろう。」との思いに到って、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

  (このような状態にならなければ世を捨てる心もきっと起きなかっただろう。今は

  憂き世にはすまない身となってしまったよ)

 と詠んで、花若殿は、蟄居の後に、幾多の星霜を積み、生住異滅の無常を観じ、無上菩提の不退転の境地に入り、涅槃の岸にたどり着きなさったのです。

 それにしても僧正・花若殿・玉若殿は、多生の縁が浅くなくて、ふたたび同じ蓮に縁を結びなさったのです。かの発心成仏の因縁は、三人の氏神である、八幡・春日・厳島垂迹した和光同塵の御加護で、八相成道の御利益であり、とても素晴らしい事です。

原文

 凡そ*諸経の文を見るに、六道の衆生、其の苦区(まちまち)なり。

 第一、地獄道は、熱鉄地を堆しうし、*銅汁河を流し、*銕(鉄)城四面、猛火洞然たり。研刺磨擣の苦しみ、*飢骨油を出だし、刀山剣樹に悲しみ、手足に血を*疣(あや)す。*焼(焦?)熱、大焼熱の焔に咽び、泣けども涙落ちず。火輪眼に転じ、火燥趺(あなうら)を焚き、紅蓮、大紅蓮の氷に閉ぢられ、叫べども声出でず。寒風手足を列(つらぬ)き、銕(鉄)杖頭目を穿つ。是れ煩悩殺生の因果なり。*無二地蔵達多菩薩、幷びに清浄観を憑み奉るべし。

 第二に餓鬼道は、長飢困苦して自ら枯槁憔悴し、久渇逼迫して、偏に*飢羸障(慞)惶す。百菓林に結べども、之を見ば剣樹と変じ、万水海に崇すれども、之に向かへば銅汁と成る。食を楽(ねが)ふに微塵も与ふる人無く、居を求むるに暫時も息む処なし。是れ慳貪放逸の業報なり。善美地蔵、宝受菩薩、幷びに真観を憑み奉るべし。

 第三に畜生道とは、霊禽猛獣*喘耎の類、*肖翹の物、羽翔潜鱗等、其の貌万品にして、大小混雑せり。親子の恩愛、人間と同じと雖も、成長に及びて、互ひに相噉(か)み食して更に知る処なし。痴闇誠に深く、本覚尤も遠し。飛蛾は灯火に著して蚊虻は蛛網に繋がり、山鹿野麋東西に迷ふ。峡猿泉獺、昏暁を弁へず。飛鳥天の高きを知らず、遊魚渕の深きを覚えず。或は*聾駭(騃)無足にして、身在れば乃ち苦あり。或は蜿転腹行して、心在れば自づから愁ひあり。哀しいかな、生死終はることなく、悲しいかな出離何時ぞ。梵網経に云はく、『一切衆生類を見ん時、如(汝)是畜生発菩提心と唱ふべし。』と。*人師此の文を釈して云はく、『設ひ領解無くとも、法音毛孔に入り、遂に菩提縁とならん。』と云々。伏勝地蔵、救脱菩薩幷びにに慈観を憑み奉るべし。

(注)諸経=天上道の「非想の八万劫」の用例を求めたところ、平家物語・灌頂巻六

    道」に類似の文章があった。「非想の八万劫、なほ必滅の愁へにあひ、欲界の

    六天、いまだ五衰の悲しみをまぬかれず。善見城の勝妙の楽、仲間禅の高台の

    閣、また夢の裏の果報、幻の間の楽しみ、すでに流転無窮なり。車輪のめぐる

    がごとし。天人の五衰の悲しみは、人間にも候ひけるものを。」日本古典文学

    全集の注(市古貞治氏)によると典拠は「六道講式(二十五三昧式)・源信

    撰」というので「大日本仏教全書」で当たってみるとその大部分の表現がそれ

    に拠っているようである。ただ、美文調にするために語順を違えたり対句にし

    たりしている。天上道の表現がと人間道の方に入っていたりして、丸写しでは

    ない。

   銅汁=熱い銅の溶けた汁。

   銕(鉄)城=地獄の城。

   飢骨油を出だし=意味不詳。「骨が油を出す」という用例は未見。

   疣す=零す。血や汗などをしたたらす。ぽたぽたとたらす。「疣」はいぼ。

   焼熱、大焼熱=焦熱地獄大焦熱地獄。炎熱で焼かれる地獄。

   紅蓮、大紅蓮=紅蓮地獄、大紅蓮地獄。極寒に体が裂けて真紅の蓮の花のように

    なるという地獄。

   無二地蔵・・・=以下、人道以外の段落末には、頼みとすべき地蔵・菩薩・五観

    が記されている。

   枯槁憔悴=やせ衰え憔悴する事。

   飢羸障惶=慞飢えやつれてあわてること。法華経・譬喩品第三に「飢羸慞惶 処

    処求食」とある。

   喘耎=ウェブ上の中国語辞典では、喘蝡に同じで「無足虫、多く蛾を生ずる」と

    ある。芋虫の類か。

   肖翹=蝶や蜂などの小さい虫。

   羽翔潜鱗=「千字文」に「海鹹河淡 鱗潜羽翔」とある。

   聾駭無足=「法華経・譬喩品第三」に「聾騃無足 蜿転腹行 為諸小虫 之所唼

    食」とある。

   人師=人の師。徳のある人。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚を含みて、*星矛(旄)電戟の争ひを成し、遍体疵を蒙り、鎮(とこしなへ)に怨讎を懐きて魚鱗鶴翼陣を張り、満身汗を流す。天より枷鎖降り下して首を廻らす事を得ず。地より銕刀を捧げて、足を措くに処なし。昼夜闘戦の鬨(ときのこゑ)耳に落ち、旦夕遭傷血櫓(ちたて)を泛ぶ。又天帝と権を争ひ、屢々*喜見城を侵し、須弥山を担(にぎ)り、日月輪を把り、天帝の軍に摧破せられて畏怖万端なり。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗とす。凡そ衆生は皆是本覚の如来、*当成の世尊なり。相向かひては恭敬すべきに、何ぞ害心を生ずべき。況や、一念の瞋恚に俱低(胝)劫の善根を焼き、刹那の怨害も無量生の苦報を招くと云へり。諸竜地蔵、持地菩薩幷びに悲観を憑み奉るべし。

  第五に人道とは、この身は常に不浄にして、雑穢其の中に満ちて内には生*熟臓ありて、外相皮膜を覆ひ、唾汗常に流出して、膿血鎮なへに充満す。偶々受け難き人身を受けて*生死を厭はば、幸ひに逢ひ難き仏教に逢ひて菩提を願はず。日夜煩悩に逼遷せられて暫くも停息する事なし。生者は死し、盛者をば衰ふると云へども、会者定離の理を弁へず、動(やや)もすれば、名利にのみ着して、貪欲を業とし、剰へ愛楽に引かれて邪執を宗とし、一生は尽くれども希望は竭(つ)きず。哀しいかな、又*三悪の趣に堕せん事、誠に以て悲しむべし、恥づべし。

 第六に天道とは、悲(非)想の八万歳、尚ほ必滅の愁ひあり。*欲界の六天、五衰の悲しみを免れず。*善見城の*勝妙の楽しみ、中間禅の高台の閣、亦是れ夢中果報、幻化の間の快楽なり。此の時何ぞ浄業を修して等地妙覚に到らざる。伏恩地蔵、月光菩薩、幷びに広大智恵観を憑み奉るべし。況や三界は火宅なり。理世安楽の上代さへ世を遁る。乱世澆季末法濁乱の今、東岱前後の烟、便ち是れ朝に昵(むつ)び、夕に語らひし友に非ずや。北芒新旧の露、遠く聞き近く見し人に非ずや。適々頭(かうべ)を剃つて心を剃らず。衣を染めて心を染めざらんや。是ぞ真正の善知識。」と思ひ取りて、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

 とて蟄居の後、幾多の星霜を積み、*生住異滅の無常を観じ、無上菩提の*不退に入り、涅槃の岸に致し給ふ。

 然れども僧正・花若殿・玉若殿、多生の縁浅からずして、また同じ蓮の縁を結び給ふ。彼の発心成仏の因縁、*三人の氏神、八幡・春日・厳島の*和光同塵の冥助、八相成道の利物、有り難き事なり。

(注)星矛(旄)電戟=「星旄電戟」は、星のように輝く旗と稲妻のように鋭い光を放

    つ戟。威勢を示す軍勢。多くの軍勢。

   魚鱗鶴翼=兵法の陣形。

   血櫓=血にまみれた大きな盾。

   喜見城=帝釈天の居城。天帝は帝釈天のこと。

   須弥山=世界に中心にある山。帝釈天の地。

   俱胝劫=極めて長い時間。

   当成の世尊=「当成」語義未詳。現代中国語により「~とみなす」の意にとらえ

    た。

   熟臓=成熟した臓器か?

   生死を厭はば=死ぬことを嫌がる、の意か。

   三悪の趣=三悪趣三悪道地獄道・餓鬼道・畜生道。   

   欲界の六天=六欲天四王天、忉利天、夜摩天兜率天楽変化天、他化自在

    天。三界は下から、欲界、色界、無色界。    

   善見城=喜見城に同じ。

   勝妙=すぐれてたえなるもの。

   中間禅=色界の四禅の一つ。梵天王の境地。

   生住異滅=一切の持仏が出現して生滅していく過程での四つのありかた。生じ、

    とどまり、変化し、亡びる事。四相。

   不退=功徳・善根が増進し、悪趣には戻らない状態。不退転。

   三人の氏神=花若(源氏)の氏神八幡宮、僧正(藤原氏)の氏神春日権現

    玉若(平氏)の氏神厳島神社

   和光同塵=仏が日本の神に垂迹して姿を現すこと。

 

 これで「稚児物語」に関して管見に及ぶものは訳し切りました。

  1.  

 

塵荊鈔(抄)⑮ー稚児物語4ー

第十五

 このようにして新発意となった花若は、師匠や同朋との別離がこらえようもなく悲しく、事に触れて大衆に交わることも空しく思われて、無常の思いばかりが心に染みて、常に静かに物思いなさっているのでした。「この世に飽きて、その秋(あき)風ではないが風に夢が醒めて、浮世の外(浄土)の月影を、隠さずに眺めたいものだ。かりそめの夢のような世に明け暮れ、妄念ばかり起こして、名利の思い囚われて、迷いの三界のしがらみを離れられないのは哀しいことだ。形は沙門(僧侶)のようにして、名は釈氏(釈尊の弟子)に借りた(僧名を名乗った)身で、槿(むくげ)の籬のようなはかない栄華を祈り、浮雲のようなむなしい富貴を望み、我執・偏執の満ちた空虚な境境に住んで、電光や朝露のような一瞬の仮の宿りを楽しみ、無始輪廻の罪業は厚くて身を身に任せることもできず、心を心に戒めることもし得ないで、人に随い、友に交わる習いや、詩歌管絃の遊びに肝を砕き、狂言綺語の戯れにまでも心を染める事は、ひとえに人々と交わっているせいであるよ。寂寞とした柴の庵にわずかに松風の音だけが軒先に聞こえ、木の間に漏れて来る月影を、独り寂しい深山で、厭ってもしかたない浮雲が、別の所で時雨を誘って、一方では夕露が結ばれ、荻を吹く風にその露は散って、草は末枯れ(うらが)れて虫の音は、弱り果ててしまったこのつらい秋に、心を静め無常を観じたならば、きっと心も澄んで涅槃の境地に至るであろう。そうはいってもさすがに住み慣れた吾が山比叡山を見捨てる事は難しく、友情を誓い合った朋輩とも別れがたい。」と、悟りきれぬ拙い心にはこの山を捨てかねていたのですが、「生死を厭い、菩提を願わなければいけないのは、まさにこの時である。」と思って、いよいよ二人の精霊の後世を弔って、勤行観念の修行を懈怠なく修めなさいました。「駒隙」の成句ではありませんが、隙行く駒を繋がないような早く流れる月日であるので、死別した春の花の匂いは、空しい風のぽつんとある松に残り、夏木立ちの緑は、秋が来てその色を改め、夕日の紅葉にうつろい、冬の天になると、凍った霜を吹く嵐で、落ち葉の上を打つ雹は、庭を白妙にして降り積もる雪のように積もった恨みは消え残りません。花若殿は「厚かましくも我が身は生き残って、袖を枕と独り仮寝をしていることだ。」と鬱々と日々を過ごしていましたが、歎きの色はさらに増していき、

  日数経ばわすれやするとおもひしに猶ほ恋しさのまさりこそゆけ

  (日にちが経てば忘れると思っていたが、尚更恋しさが増していくことだ)

 と詠じて、夜半に紛れて僧坊を抜け出して、薬師如来山王権現を伏し拝んで、東坂本に下りなさったのでした。

 志賀唐崎を過ぎて行くと、古い都(大津京)の桜の色が美しい。これこそ昔の名残りでしょう。恋しき人に逢うではありませんが、その逢坂の関の関屋を傍目に見ながら、大津の浜に出ていき、渚の波の浦伝いに、瀬田の唐橋を渡って、諸国流浪の身となり、諸国の山々寺々徘徊し、霊仏霊社を参詣して、精霊の供養だけでなく、自分自身の得脱をも祈ったのでした。しかし国(比叡山)を遠ざかり日は経ったのですが、自分が住み慣れた古寺で親しく交わった友とのつらい別れを思い出すと、ひどく慕わしさが募るのでした。それに添えて夕暮れの物憂さが重なる時に、比叡山のある方角の空を眺めると、雲井を遥かに雁が北に向かって飛んでいきます。その雁にちなむ雁書(手紙)ではないが、思いを列ねた言葉を、言わないで(手紙を送らないで)気を滅入らせているのでした。

 「それにしても、いつまで生きるか知らないが、その『しら』ではないが白雪のように、まだ消えてしまわないし我が身の命は、生きているのか死んでいるのか判らない様子で生き永らえて、夏にかかると心が暗くなって、五月雨が降るように思うばかりで、涙を袖で防ぐこともできないように溢れてしまう。秋になると野原は草の露が重く、深山は松風が吹いて、約束もしないのに待つ松虫や、妻を恋いしがって鳴く小牡鹿(さおじか)も、我が身と同類だと思われるのである。そうでなくても秋の夕辺は哀しいのに、萩の上を吹く風が身に染みて、どこの里かも分からないが悲しげに砧を打つ音がする。その打ち衣を着て訪ねる人もいなくて、ひどく恨めしさが募るのである。

 古仏は言った、『風声水音を聞いて仏本尊だと念じないのは、愚鈍の者が致すところである。飛花落葉を見て肉身(父母から受けた仏身)を観じないのは、観行(心を観る修行)が欠けているからである。』と。青々たる蒼松翠竹は、悉く真如(一切の存在の真実)である。妍々たる(美しい)紅花黄葉は、般若(真実を悟る智慧)でないことはない。森羅万象を見て、衆生(生きとし生ける者)の仏性は、我等の真如であると観じなくてはいけない。春の花が梢に綻び、夏の木立ちが緑を茂らせ、秋の紅葉が庭に敷きつめられ、はやくも季節が廻り冬枯れが烈しくなるのまで、無常を促す機会となるのである。明月は天に輝いているが、汚泥の水にその影(姿)は沈み、降る白雪もかりそめに、木々の梢に宿を借りて積もるが、風に随えばたやすく散り、縁に任せるならばいつまでも宿っている。(?)我等の仏性もこのようなものである。これらを観じないならば、鬼畜木石にも劣っている。そのようなわけで真如仏性は迷っていれば心の外にある。悟るならば身の内にあってたやすく得られるであろう。しかし、身の内の真如仏性は悟り難くて迷い易い。心の外の三毒六賊は迷い易くて、捨て難いのであるから、進心を友として(悟りを得ようとする心を強く持って)、ある時には禅法修行のために衆会する場臨んで、聞法(仏の教えを聴く)の縁を結ぶのである。ある時は念仏三昧の場に詣でて、罪障の垢を濯ぎ、名聞利養を棄てきり、飛花落葉の観行を凝らすのである。

原文

 かくて花若*新発意(しんぼち)、師匠同朋の別離為方(せんかた)無く、事に触れて交衆詮なく覚えて、無常のみ心に染み、常には心を澄まし侍りけり。「世を*秋風に夢醒めて、浮世の外の月影を、隠せで詠(なが)めばや。あだには夢の世に明け暮れ、妄念をのみ起こし、名利の思ひに繋がれて、三界の網(きずな)を離れも遣らぬ哀れさよ。形を沙門に類せし名を釈氏に借れる身の、*槿籬の栄華を祈り、浮雲の富貴を望み、我執・偏執のあだなる境に住し、電光朝露の仮なる宿りを楽しみ、無始輪廻の業厚くして身に身を任せず、心を心に戒めかね、人に随ひ、友に交はる習ひ、詩歌管絃の遊び肝に命じ、狂言綺語の戯れまでも心に染めける事、是れも偏に交衆の故ぞかし。寂寞(じゃくまく)たる柴の庵に纔かに松風の音のみ軒に聞こえ、木の間に漏り来る月影を、独り深山のさびしきに、厭ふ甲斐なき浮雲の、余処の時雨を誘ひ来て、*結ぶとすれば夕露の、荻吹く風に打ち散りて、草裡枯(うらが)れて虫の音の、弱り了てぬる浮き秋に、心を静め無常を観ぜんに、などか心の澄までは候ふべき。さすが栖馴れし吾山も棄て難く、契りし朋友も離れがたし」と、*拙心に捨てかねけるが、「生死を厭ひ、菩提を願ふべき事、偏に此の時なり」とて、弥よ幽霊の後世を弔ひ、勤行観念懈怠なく修し給ふ。*隙行く駒繋がぬ月日なれば、別れし春の花の匂ひ、空しき風独松に残り、夏木立ちの緑、秋来て其の色を改め、夕日紅葉にうつろひ、冬の天にも成りければ、凍れる霜を吹く嵐、落ち葉の上を打つ雹(あられ)、庭白妙に降る雪の積む恨みに消え遣らぬ、*強面吾身の長経(ながらへ)て、肩敷く袖の仮枕、嬉しからぬ日数は隔たれど、歎きの色は猶ほ勝れければ、

  日数経ばわすれやするとおもひしに猶ほ恋しさのまさりこそゆけ

 とうち詠じ、夜半に紛れ坊を出で、医王善逝山王大師を伏し拝み、東坂本に下り給ふ。

(注)新発意=新たに出家した者。

   秋風=「秋」に「秋」と「飽き」を掛ける。

   槿籬の栄華=槿は朝に咲き夕べにしぼむことから、はかない栄華のたとえ。

   結ぶとすれば=つながりがよくわからない。時雨が降ると夕露が結ばれるのか。

   拙心=未詳。心を謙譲した表現であろうが。

   隙行く駒=「駒隙」は月日の早く過ぎ去ることのたとえ。

   強面=厚かましいの意か。

   医王善逝=薬師如来。根本中堂の本尊。

 *志賀唐崎を過ぎ行けば、古き都の花の色、是ぞ昔の名残りなる。恋しき人に合坂(逢坂)の、関屋を余所に見成しつつ、大津の浜にうち出でて、渚の波の浦伝ひ、勢多の唐橋うち渡り、諸国流浪の身と成りて、山々寺々徘徊し、霊仏霊社参詣し、自身も得脱を祈りけり。*国遠ざかり日は経れど、吾栖馴れし古寺の、契りし友の浮き別れ、最(いとど)余波ぞ勝りける。猶ほ夕暮れの物憂さに、其の方の空詠むれば、雲井遥かに*帰る雁、思ひ列ぬる言の葉を、言はで心を腐(くた)しける。

 「さても何(いつ)までか白雪の、猶ほ消し遣らぬ身の命、有るか無きかに長経(ながらへ)て、夏に懸れば掻き暮れて、降る五月雨の思ひのみ、涙を袖に塞き敢へず。野原は草の露重く、深山は松風吹きて、契りも知らぬ松虫や、妻恋ひかぬる小男鹿(さおしか)も、思へば我が身の類なり。さらぬだに秋は夕部(辺)の哀しきに、萩の上風身に染みて、里をば分かず*打ち衣、着て問ふ人も無き儘に、最(いと)恨みぞ勝りける。

(注)志賀唐崎・・・=ここからの記述が語り手の地の文か花若の語りなのか判然とし

    ないが。「さても・・・以下を花若の思いと取った。

   志賀唐崎=大津市にある歌枕。天智天皇大津京があった。平忠度の歌に「さざ

    波や志賀の都は荒れにしを昔ながらの山桜かな」(千載和歌集)がある。

   国=花若の故郷の坂東足利の里か、比叡山か。「国」は気になるが比叡山と取っ

    ておく。

   帰る雁=春になって北へ帰る雁。雁は手紙を象徴する。

   打ち衣=砧を打つ事(秋の哀しさの象徴)と粗末な僧服(裏衣)を掛ける。

 其れ古仏の云ふ、『*風声水音を聞きて本尊と念ぜざるは、愚鈍の致す処なり。飛花落葉を見て肉身を観ぜざるは、*観行の闕けたるなり。』と云々。青々たる蒼松翠竹、悉く是れ*真如なり。妍々たる紅花黄葉、*般若に非ずと云ふ事なし。森羅万象之を見るに、衆生の仏性、我等が真如と観ずべし。春の花の梢に綻び、夏の木立ちの緑を茂し、秋の紅葉の庭にしき、はや冬枯れの冽(はげ)しきまで、無常を促す便りなり。明月天を照らせども、*淤泥の水に影沈み、降る白雪も*濔爾(かりそめ)に、木々の梢に宿を借り、風に随ひて散り易く、縁に任せて宿り易し。我等が仏性も此くの如し。是等を観ぜざるは、鬼畜木石に劣れり。されば真如仏性は迷へば心の外に在り。悟れば身の内に在りて得易し。身の内の真如仏性は悟り難くして迷ひ易し。心の外の三毒六賊は迷ひ易くして、棄て難しとなれば、*進心を友として、或時は禅法衆会の砌(には)に望みて、聞法の縁を結ぶ。或時は念仏三昧の場に詣で、罪障の垢を濯ぎ、名聞利養を棄て了て、飛花落葉の観行を凝らす。凡そ諸経の文を見るに、六道の衆生、其の苦区(まちまち)なり。

(注)風声水音・・・=出典未詳。

   観行=自分の心を観ずる修行。

   真如=一切存在の真実の姿。

   般若=悟りを得る智慧。真理を把握する智慧

   淤泥=汚泥。

   濔爾=「濔」は水が満ちる、数が多いことだが、なぜ「かりそめ」と訓むのか?

   進心=「心進む」は希望する気持ちが強くなること。