religionsloveの日記

室町物語です。

塵荊鈔(抄)⑯ー稚児物語4ー

第十六

 広く諸経の文言を見ると、六道における衆生は、その苦しみはまちまちである。

 第一に、地獄道は、熱い鉄が堆く地に積もり、溶けた銅が河と流れて、鉄の城の四面は、猛火が洞然として激しく燃えている。研刺磨擣の苦しみで、飢骨は油を出し、刀の山、剣の樹の痛さに悲しみ、手足に血をぽたぽたと垂らす。焦熱、大焦熱地獄の炎に咽び、泣けども涙は落ちない。火の輪は眼にふりかかり、火の焦げる勢いは足の裏を焼き、紅蓮、大紅蓮地獄の氷に閉じこめられ、叫べども声が出でない。寒風が手足を貫き、鉄杖が頭や目を穿つ。これは煩悩殺生の因果である。この道では無二地蔵と達多菩薩、ならびび清浄観をお頼みもうしあげるべきである。

 第二に餓鬼道は、長く飢え困苦しておのずからやせ衰え憔悴し、久しく渇え逼迫して、ひたすら飢えやつれて慌てふためいている。百の果実が林に実を結んでも、見るとそれば剣の樹に変じ、万の水は海に満ちていても、汲みに向かうと灼熱の銅の汁となる。食物を願っても微塵も与える人はなく、住居を求めても暫時も息う場所はない。これは慳貪放逸の業報である。この道では善美地蔵、宝受菩薩、ならびに真観をお頼み申し上げるべきである。

 第三に畜生道とは、霊鳥や猛獣や喘耎(いもむし)の類、肖翹(蝶や蜂)のような物、羽翔潜鱗(空飛ぶ鳥や水に沈む魚)など、その姿は限りなくあり、大小が混雑している。親子の恩愛は、人間と同じとはいっても、成長するにつれて、互いに喰い合ってもまったく気づかない。闇のような愚かさはまことに深く、本来の覚りとは最も遠い所にある。飛ぶ蛾は灯火に吸い込まれ、蚊や虻は蜘蛛の網に掛かり、山の鹿野の麋(なれじか)は東へ西へと迷走する。峡谷の猿や泉の獺(かわうそ)は、夕暮れも朝方もわからない。飛ぶ鳥は天の高きを知らず、遊ぶ魚は渕の深きを覚らない。あるものは聾(みみしい)駭(おろか)無足(あしなえ)で、身のうちには苦しみがある。あるものはくねくねと蛇のように進み、心のなかには愁いがある。哀しいことだ、生死の苦しみは終わりがない。悲しいことだ、迷いを出離するのは何時だろう。梵網経にいう、『一切衆生類を見る時は、汝是畜生発菩提心(汝ら畜生よ、菩提心を発せよ)と唱えなさい。』と。ある人師がこの文を解釈して言った、『畜生はたとえ理解できなくても、説法の声は毛孔から入っていき、ついには菩提にいたる縁となるだろう。』と。この道では伏勝地蔵、救脱菩薩ならびに慈観をお頼み申し上げるべきである。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚(怒り恨むこと)を心に含んで、星旄電戟の軍勢をもって争いをなし、体中に疵を蒙り、いつまでも怨讐を懐いて魚鱗鶴翼の陣を張り、満身に汗を流して戦っている。天から枷や鎖が降り下って囚われ、首を廻らす事もできない。地からは鉄刀が垂直に立てられ、足の置ける所はない。昼夜闘戦の鬨(ときのこえ)が耳に聞こえ落ち、朝夕傷を受けた血が大きな盾の上に浮かんでいる。また、天帝帝釈天とと覇権を争い、しばしばその居城喜見城を侵略し、その領土須弥山を掌握し、日や月を我がものとするが、ついには天帝の軍に砕き破れて恐ろしさに満ちているのである。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗としている。およそ衆生はみな本覚の如来であり、世尊とみなしていいものである。相対しては恭敬すべきなのに、どうして害心を生ずるのであろうか。ましてや、一念の瞋恚で俱胝劫(永遠)の善根を焼き、刹那の怨害で無量生の苦報を招くといえるであろう。この道では諸竜地蔵、持地菩薩ならびに悲観をお頼み申し上げるべきである。

  第五に人道では、この身は常に不浄にして、さまざまな穢れがその中に満ちて内生は熟臓があって、外相は皮膜に覆われ、唾や汗が常に流出して、膿や血がいつまでも充満している。たまたま受け難き人身を受けて人間界に生まれたのに死ぬことを嫌がって、幸いにも逢い難き仏教に逢ったというのに菩提を願わない。日夜煩悩に追い立てられて暫くも心休まる事はない。生者は死に、盛者は衰えるというのに、会者定離の理をわきまえないで、ややもすれば、名利にのみ執着して、貪欲を業として、あまつさえ愛楽に引かれて邪執を宗として、一生は尽きるのに願望だけは尽きない。哀しいことだ、ふたたび三悪の趣(地獄道・餓鬼道・畜生道)に堕す事は。まことに悲しむべきであり、恥ずべきである。

 第六の天道では、悲想天で八万歳の寿命があっても、やはり必滅の愁いがある。欲界の六天でも、五衰の悲しみを免れることはできない。善見城の勝れて妙なる楽しみ、色界の中間禅の高い楼閣にいること、これらもまた夢の中の果報であり、幻の間の快楽である。この時に浄い修業を行えばどうして等しく妙覚に到らないことがあろうか。この道では伏恩地蔵、月光菩薩、ならびに広大智恵観をお頼み申し上げるべきである。ましてや三界は火宅のような迷いと苦しみに満ちた世界である。世が治まった安楽の上代でさえ人は遁世した。乱世澆季末法濁乱の今、前後の定まらない東岱(岱山=死者の霊魂が集まる山)の煙は、とりもなおさず朝に親しみ、夕に語らった友を火葬したものではないか。新しかったり古かったりする北芒山(墓地として知られる)の露は、遠くで聞き近くで見た人そのものではないか。私はたまたま頭を剃つても心は剃っていない。衣を墨色に染めたならば心までも染めないことがあろうか、いや心までも染めなくてはいけない。こうしてこそ真正の善知識となるであろう。」との思いに到って、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

  (このような状態にならなければ世を捨てる心もきっと起きなかっただろう。今は

  憂き世にはすまない身となってしまったよ)

 と詠んで、花若殿は、蟄居の後に、幾多の星霜を積み、生住異滅の無常を観じ、無上菩提の不退転の境地に入り、涅槃の岸にたどり着きなさったのです。

 それにしても僧正・花若殿・玉若殿は、多生の縁が浅くなくて、ふたたび同じ蓮に縁を結びなさったのです。かの発心成仏の因縁は、三人の氏神である、八幡・春日・厳島垂迹した和光同塵の御加護で、八相成道の御利益であり、とても素晴らしい事です。

原文

 凡そ*諸経の文を見るに、六道の衆生、其の苦区(まちまち)なり。

 第一、地獄道は、熱鉄地を堆しうし、*銅汁河を流し、*銕(鉄)城四面、猛火洞然たり。研刺磨擣の苦しみ、*飢骨油を出だし、刀山剣樹に悲しみ、手足に血を*疣(あや)す。*焼(焦?)熱、大焼熱の焔に咽び、泣けども涙落ちず。火輪眼に転じ、火燥趺(あなうら)を焚き、紅蓮、大紅蓮の氷に閉ぢられ、叫べども声出でず。寒風手足を列(つらぬ)き、銕(鉄)杖頭目を穿つ。是れ煩悩殺生の因果なり。*無二地蔵達多菩薩、幷びに清浄観を憑み奉るべし。

 第二に餓鬼道は、長飢困苦して自ら枯槁憔悴し、久渇逼迫して、偏に*飢羸障(慞)惶す。百菓林に結べども、之を見ば剣樹と変じ、万水海に崇すれども、之に向かへば銅汁と成る。食を楽(ねが)ふに微塵も与ふる人無く、居を求むるに暫時も息む処なし。是れ慳貪放逸の業報なり。善美地蔵、宝受菩薩、幷びに真観を憑み奉るべし。

 第三に畜生道とは、霊禽猛獣*喘耎の類、*肖翹の物、羽翔潜鱗等、其の貌万品にして、大小混雑せり。親子の恩愛、人間と同じと雖も、成長に及びて、互ひに相噉(か)み食して更に知る処なし。痴闇誠に深く、本覚尤も遠し。飛蛾は灯火に著して蚊虻は蛛網に繋がり、山鹿野麋東西に迷ふ。峡猿泉獺、昏暁を弁へず。飛鳥天の高きを知らず、遊魚渕の深きを覚えず。或は*聾駭(騃)無足にして、身在れば乃ち苦あり。或は蜿転腹行して、心在れば自づから愁ひあり。哀しいかな、生死終はることなく、悲しいかな出離何時ぞ。梵網経に云はく、『一切衆生類を見ん時、如(汝)是畜生発菩提心と唱ふべし。』と。*人師此の文を釈して云はく、『設ひ領解無くとも、法音毛孔に入り、遂に菩提縁とならん。』と云々。伏勝地蔵、救脱菩薩幷びにに慈観を憑み奉るべし。

(注)諸経=天上道の「非想の八万劫」の用例を求めたところ、平家物語・灌頂巻六

    道」に類似の文章があった。「非想の八万劫、なほ必滅の愁へにあひ、欲界の

    六天、いまだ五衰の悲しみをまぬかれず。善見城の勝妙の楽、仲間禅の高台の

    閣、また夢の裏の果報、幻の間の楽しみ、すでに流転無窮なり。車輪のめぐる

    がごとし。天人の五衰の悲しみは、人間にも候ひけるものを。」日本古典文学

    全集の注(市古貞治氏)によると典拠は「六道講式(二十五三昧式)・源信

    撰」というので「大日本仏教全書」で当たってみるとその大部分の表現がそれ

    に拠っているようである。ただ、美文調にするために語順を違えたり対句にし

    たりしている。天上道の表現がと人間道の方に入っていたりして、丸写しでは

    ない。

   銅汁=熱い銅の溶けた汁。

   銕(鉄)城=地獄の城。

   飢骨油を出だし=意味不詳。「骨が油を出す」という用例は未見。

   疣す=零す。血や汗などをしたたらす。ぽたぽたとたらす。「疣」はいぼ。

   焼熱、大焼熱=焦熱地獄大焦熱地獄。炎熱で焼かれる地獄。

   紅蓮、大紅蓮=紅蓮地獄、大紅蓮地獄。極寒に体が裂けて真紅の蓮の花のように

    なるという地獄。

   無二地蔵・・・=以下、人道以外の段落末には、頼みとすべき地蔵・菩薩・五観

    が記されている。

   枯槁憔悴=やせ衰え憔悴する事。

   飢羸障惶=慞飢えやつれてあわてること。法華経・譬喩品第三に「飢羸慞惶 処

    処求食」とある。

   喘耎=ウェブ上の中国語辞典では、喘蝡に同じで「無足虫、多く蛾を生ずる」と

    ある。芋虫の類か。

   肖翹=蝶や蜂などの小さい虫。

   羽翔潜鱗=「千字文」に「海鹹河淡 鱗潜羽翔」とある。

   聾駭無足=「法華経・譬喩品第三」に「聾騃無足 蜿転腹行 為諸小虫 之所唼

    食」とある。

   人師=人の師。徳のある人。

 第四に修羅道とは、常に瞋恚を含みて、*星矛(旄)電戟の争ひを成し、遍体疵を蒙り、鎮(とこしなへ)に怨讎を懐きて魚鱗鶴翼陣を張り、満身汗を流す。天より枷鎖降り下して首を廻らす事を得ず。地より銕刀を捧げて、足を措くに処なし。昼夜闘戦の鬨(ときのこゑ)耳に落ち、旦夕遭傷血櫓(ちたて)を泛ぶ。又天帝と権を争ひ、屢々*喜見城を侵し、須弥山を担(にぎ)り、日月輪を把り、天帝の軍に摧破せられて畏怖万端なり。諸仏は慈悲を心とし、菩薩は柔和を宗とす。凡そ衆生は皆是本覚の如来、*当成の世尊なり。相向かひては恭敬すべきに、何ぞ害心を生ずべき。況や、一念の瞋恚に俱低(胝)劫の善根を焼き、刹那の怨害も無量生の苦報を招くと云へり。諸竜地蔵、持地菩薩幷びに悲観を憑み奉るべし。

  第五に人道とは、この身は常に不浄にして、雑穢其の中に満ちて内には生*熟臓ありて、外相皮膜を覆ひ、唾汗常に流出して、膿血鎮なへに充満す。偶々受け難き人身を受けて*生死を厭はば、幸ひに逢ひ難き仏教に逢ひて菩提を願はず。日夜煩悩に逼遷せられて暫くも停息する事なし。生者は死し、盛者をば衰ふると云へども、会者定離の理を弁へず、動(やや)もすれば、名利にのみ着して、貪欲を業とし、剰へ愛楽に引かれて邪執を宗とし、一生は尽くれども希望は竭(つ)きず。哀しいかな、又*三悪の趣に堕せん事、誠に以て悲しむべし、恥づべし。

 第六に天道とは、悲(非)想の八万歳、尚ほ必滅の愁ひあり。*欲界の六天、五衰の悲しみを免れず。*善見城の*勝妙の楽しみ、中間禅の高台の閣、亦是れ夢中果報、幻化の間の快楽なり。此の時何ぞ浄業を修して等地妙覚に到らざる。伏恩地蔵、月光菩薩、幷びに広大智恵観を憑み奉るべし。況や三界は火宅なり。理世安楽の上代さへ世を遁る。乱世澆季末法濁乱の今、東岱前後の烟、便ち是れ朝に昵(むつ)び、夕に語らひし友に非ずや。北芒新旧の露、遠く聞き近く見し人に非ずや。適々頭(かうべ)を剃つて心を剃らず。衣を染めて心を染めざらんや。是ぞ真正の善知識。」と思ひ取りて、

  かからずは捨つる心もよもあらじうきには住まぬよ(世?)とはなりぬる

 とて蟄居の後、幾多の星霜を積み、*生住異滅の無常を観じ、無上菩提の*不退に入り、涅槃の岸に致し給ふ。

 然れども僧正・花若殿・玉若殿、多生の縁浅からずして、また同じ蓮の縁を結び給ふ。彼の発心成仏の因縁、*三人の氏神、八幡・春日・厳島の*和光同塵の冥助、八相成道の利物、有り難き事なり。

(注)星矛(旄)電戟=「星旄電戟」は、星のように輝く旗と稲妻のように鋭い光を放

    つ戟。威勢を示す軍勢。多くの軍勢。

   魚鱗鶴翼=兵法の陣形。

   血櫓=血にまみれた大きな盾。

   喜見城=帝釈天の居城。天帝は帝釈天のこと。

   須弥山=世界に中心にある山。帝釈天の地。

   俱胝劫=極めて長い時間。

   当成の世尊=「当成」語義未詳。現代中国語により「~とみなす」の意にとらえ

    た。

   熟臓=成熟した臓器か?

   生死を厭はば=死ぬことを嫌がる、の意か。

   三悪の趣=三悪趣三悪道地獄道・餓鬼道・畜生道。   

   欲界の六天=六欲天四王天、忉利天、夜摩天兜率天楽変化天、他化自在

    天。三界は下から、欲界、色界、無色界。    

   善見城=喜見城に同じ。

   勝妙=すぐれてたえなるもの。

   中間禅=色界の四禅の一つ。梵天王の境地。

   生住異滅=一切の持仏が出現して生滅していく過程での四つのありかた。生じ、

    とどまり、変化し、亡びる事。四相。

   不退=功徳・善根が増進し、悪趣には戻らない状態。不退転。

   三人の氏神=花若(源氏)の氏神八幡宮、僧正(藤原氏)の氏神春日権現

    玉若(平氏)の氏神厳島神社

   和光同塵=仏が日本の神に垂迹して姿を現すこと。

 

 これで「稚児物語」に関して管見に及ぶものは訳し切りました。

  1.