religionsloveの日記

室町物語です。

富士の人穴の草子①-異郷譚4ー

 「異郷譚」の四番目に取り上げるのは「富士の人穴草子」です。前半は異郷譚っぽいのですが、後半は地獄めぐりの様相です。地獄は異郷とはいえませんね。刊本写本も多く有名な話なので紹介するまでもないのかもしれませんが、お付き合いください。

 原文は「室町物語大成 富士の人穴の草子 346」を漢字や仮名遣いを適宜改めて載せました。「大成」の「富士の人穴草子 347」(以下347と略します)「富士の人穴 474」(以下474と略します)、信州大学小谷コレクションの「富士の人穴草子(三種)」(以下小谷と略します)を参照しました。

その1

 頃は正治三(1201)年卯月三日、辰の刻に二代将軍左衛門督源頼家殿は、和田平太胤長を召して、「これ平太よ聞きなさい。音に聞く富士の人穴といってもその内部は誰も見たことがないという。どんな不思議な世界があるのだろうか。探検して参れ。」とおっしゃいました。胤長は畏まって、「承りました。天を翔ける翼、地を走る獣を取って参れとの御命令でございますならば、たやすい事でございますが、この富士の人穴はどのようにしたら入られましょうか。しかし、御命令に背いたとあれば天の恐れとなりましょう。二つとない命ですが主君に差し上げましょう。」と申し上げました。

 胤長は御前を罷り立ってすぐに伯父の義盛の御前に参り、「胤長はよにも不思議なる御命令を君より承りました。」と申します。義盛が何事ぞとおっしゃいますと、「それです、富士の人穴を探検して参れとの御命令でございまして、その人穴へ入りましたならば、この深沢へ再び帰る事ができるかはわかりません。ですから人々との対面も今日を限りでございましょう。みなみな後の世でお目にかかりましょう。」と申して心細げに暇乞いをいたします。義盛は涙を流しなさって、「幼けなきより膝の上で育てた胤長ゆえ殊に不憫とは思うが、公儀とならばいたしかたない。功名を上げてとくとく帰りなさい。」とおっしゃったので、平太は涙ぐんで立とうとします。

 ここに居合わせた朝比奈三郎義秀はこれを見て、泥丸(でいまる)という太刀を取り寄せて鍔元をニ三寸引き出し、平太をはったと睨んで、「吾殿の有様の見苦しさよ。日本国の侍が見る前で泣き顔を見せるとは未練がましいぞ。こんな者を一門の中に置いては、みんなが臆病になってしまうわい。そんなに恐ろしいなら首を差し出しなさい。打ち首にしよう。」と言ったので、これを聞いて、「某(それがし)は臆病ではございません。竜の住む世界、岩盤石、虎が臥す野辺であっても、一度二度とうち破って人穴へ入ろうと思っています。決して不覚を取る事はありません。」と言って朝比奈殿に暇乞いをして立ったのでした。朝比奈はこれを見て笑いながら、「いや、殿輩よ、『走る馬にも鞭を打つ』とか『血潮に染まる紅も、生地を紅に染めればより色を増す』という諺もござる。義秀も連れていってほしいとは思うけれども、一人指命されたことゆえいたしかたない。必ず功名を遂げて、一門の名を上げなされ。」と暇乞いのをしてとどまったのでした。

 平太のその日の装束はいつにもまして華やかでした。肌着には帷子を脇深く解いて、その上には段金(どんきん)の小袖を着て、霞流しの直垂は両の袂を結んで肩に懸け、烏帽子を強く結んで、両方の括りを結わえて、銀の胴金を施した一尺七寸の刀に、畳んだ扇を差し添えて、赤銅造りで練鍔(ねりつば)の太刀の二振りを提げて佩いて、松明十六丁を手下に持たせ、七日と申す時には帰りましょうと言って、岩屋の内に入りました。諸人はこれを見て、「弓取りの身ほどつらいものはないなあ。」と言ってみな涙を流しました。

 さて、平太が人穴へ入って一町ほど行って見れば、口が朱を差したように真っ赤な蛇が簀の子を描くようのとぐろを巻いています。主命なのでしかたなく飛び越え飛び越え五町ほど行ってみると、生臭い風が吹きます。恐ろしいことこの上ありません。それを行き過ぎてみると、年の頃十七八ばかりの女房が、十二単を重ねて着て、紅の袴をまとって、三十二相を具足しているように美しく、簪は蝉の羽を並べて、する墨を流したように繊細で美しい。白金の踏板に黄金の杼を持って機を織っていらっしゃいましたが、迦陵頻ののような美しい声で、「何者が私の住む所へ来たのですか。」とおっしゃって平太の前へ出てきました。平太は畏まって、「私は鎌倉殿の御使いで、三浦の一門和田の平太胤長と申す者でございます。」と申し上げると、その女房は、「何者が使いであっても通すことはできません。無理に通ろうとしたならば、すぐさま命を奪いましょう。おまえは今年十八になると思うのですが、三十一とう春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡と戦って討たれるはずです。早々に帰りなさい。」とおっしゃいますので、平太は、「いかに頼家殿が日本を支配しているといっても、命があればこそ所領もいただけるというものだ。愚かな事をするものではない。」と思い、岩屋の奥を見ないのは無念極まりなかったのですが、この女房の仰せに従って、仕方なく帰参したのでした。

原文

 そもそも頃は*正治三年卯月三日、辰の刻に頼家の*こうの殿、*和田の平太胤長(原文たねなを)を召して仰せけるやうは、「いかに平太承れ。音に聞く富士の人穴といへども未だ見ることもなし。いかなる不思議のことやある。探して参れ。」とありければ、胤長(原文たねなを)承りかしこまつて申しけるやうは、「さん候ふ。天を翔つる翼、地を走る獣を取りて参れとの御定にて候はば、安き御事にて候へども、これはいかんとしてか入り申すべき。御定を背き申せば天の恐れなり。二つとなき命を君に奉らん。」と申す。

 御前を罷り立ちすぐに義盛の御前に参り、*この由かくと申せば、「胤長(ここから胤長になっている)こそ*希代不思議なる御定を君より承って候ふ。」と申す。義盛何事ぞやと仰せありければ、「されば富士の人穴捜して参れとの御定にて候ふ間、かの人穴へ入るほどにて候はば、*深沢へ再び帰らん事は不定なり。されば人々の対面も今を限りにてぞ候ふ。みなみな後の世にこそお目にかからん。」とて心細げにて暇乞い申す。義盛涙を流し給ひけるは、「幼けなきより膝の上にて育てし間、とりわけ不憫と思へども、私ならぬ事なれば力及ばず。功名してとくとく帰り給へ。」とのたまへば、平太涙ぐみて立ちにける。

 かかりけるところに*朝比奈三郎義秀これを見て、*てひまるといふ太刀を取り寄せて鍔元ニ三寸寛げて、平太をはつたと睨めて、「烏許なる吾殿が有様や。日本の侍の見る前にて泣き顔にて見ゆる事こそ未練なれ。あれほどの者を一門の中に置いては、みなみな臆病になるべし。それほどならば首を延べ給へ。」と言ふければ、これを聞きて申しけるは、「某臆病にてはあらずや。辰の世界、岩盤石、虎臥す野辺なりとも、一度二度とはうち破りて入り候はんと思ふ我が身なり。不覚の事はよもあらじ。」とて暇乞ひして朝比奈殿とて立ちにけり。朝比奈これを見て笑ひながら申しけるやうは、「や、殿輩、*走る馬にも鞭を打つ血潮に染むる紅も、染むるによりて色を増す。義秀も連ればやとは思へども一人指されてある間力及ばず。相構へて功名して、一門の名を上げ給へ。」と暇乞ひしてとどまりけり。

(注)正治三年=正治三年は二月に建仁改元されているので卯月はないはずだが。

   こうの殿=衛門督を敬っていう語。頼家は正治二年に左衛門督に遷任。

   和田の平太胤長=鎌倉殿の御家人和田義盛の甥。胤直という人物は見当たらな

    い。

   この由かくと申せば=和田義盛が聞きなおしているので、不要な部分。

   希代不思議=世にもまれな事。

   深沢=鎌倉にある地名。和田氏の館があったのか。

   朝比奈三郎義秀=和田義盛の三男。剛勇無双と伝えられる。

   てひまる=名刀か?347では「四尺八寸のいかもの作り」474では「例の太

    刀」「四尺八寸の太刀」とあり、小谷に「四尺八寸の太刀」とある。四尺八寸

    はかなりの長さで、大太刀の形容に用いられるようである。「後鑑」に一色左

    京太夫が「四尺八寸の泥丸(どろまる)」を持ったとあるようだ。「古事類

    苑」によると、「明徳記」に一色詮範が「四尺三寸と聞こえし泥丸」持ってい

    たとあるようだ。朝比奈三郎が「泥丸」を所持していたかは確認できなかった

    が、泥丸という大太刀が存在していたのは確か七ようである。

   走る馬にも鞭を打つ=よく走っている馬にさらに鞭を加えていっそう早く走らせ

    ること。よい上にもよくすること。「血潮に染むる・・・」も同義か。

 平太がその日の装束はいつに優れて華やかなり。膚には帷子脇深くとき、その上には*段金(どんきん)といふ小袖を着、霞流しの直垂の両の袂結んで肩に懸け、烏帽子の影(掛け?)強くして、両の*括り結ひて白金の*胴金(どうがね)したる一尺七寸の刀に、たみたる(畳みたる?みたせる?)扇差し添へて、赤銅造りの太刀・練鍔(ねりつば)二振り提げて佩くままに、松明十六丁*持たせ、七日と申し候はんに帰るべしとて、ゆわや(岩屋?)の内に入りにけり。諸人これを見て、「弓取りの身ほどあはれなる事はあらじ。」とてみな涙をぞ流しける。

 さる間平太人穴へ入りて一町ばかり行きて見れば、口には朱を差したるごとくの蛇(くちなは)*簀の子を描きたるごとくなり。主命なれば力及ばず飛び越え飛び越え五町ばかり行きて見れば、生臭き風吹きけり。恐ろしきこと限りなし。それを行き過ぎ見れば、年の齢十七八ばかりなる女房(にうばう)の、十二単を重ねて紅の袴を*ふみしたひ、*三十二相を具足して、簪は蝉の羽を並べ、する墨を流せるがごとし。白金の*機(はた)あしに黄金の杼を持つて機を織りておはしますが、迦陵頻の御声にて、「何者なれば我が住む所へ来たるぞ。」とのたまひて出で給ふ。平太畏まつて申しけるは、「これは鎌倉殿の御使ひに、三浦の一門和田の平太*胤長と申す者にて候ふ。」と申しければ、かの女房のたまひけるは、「何者が使ひなりとも通すまじきなり。おして通るものならば、たちまち命を取るべきなり。」とのたまへば、*平太心に思ふやう、「いかに日本を持ちたればとて、命があればこそ所領もほしけれ、痴れたる事をばせぬものぞかし。汝は今年十八になると覚ゆるなり。三十一といはん春の頃、信濃の国の住人、泉の小三郎親衡に戦ひて討たれむずるなり。早々帰れ。」とありければ、平太この由承つて岩屋の奥を見ぬ事無念さ申すばかりなけれども、女房の仰せなりければ、力及ばず帰りける。

(注)段金=中国産の錦の一種。

   括り=狩衣などの袖や裾に付けてある紐。

   胴金=鞘や柄が割れないように中ほどに付けた環状の金具。

   持たせ=使役なら部下を伴ったことになる。

   簀の子を描きたる=とぐろを巻く形容か。

   ふみしたひ=語義未詳。

   三十二相=仏の備えている三十二のすぐれた相好。転じて女性の美しい容貌。

   機あし=機脚か。踏板(ペダル)のことか。

   胤長=ここから正しい氏名になっている。かなり書き誤りが多い本文である。

   平太心に思ふやう=こう書いたあるが、以下は明らかに女房の言ったことであ

    る。胤長は確かに三十一歳で誅殺されているがこう言われて納得するのだろう

    か。女房が平太の心に訴えたのだと解する。347,474のほうがわかりや

    すい。