religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息④ーリリジョンズラブ4ー

 その4

 かねてから山を下りようと決めていた上野君は、旅支度も秘かに整えていた。

 翌朝には、墨染の衣に袈裟を着て、経袋や檜笠を首に懸け、草履に緒を締めて庭に立った。朝の冷気が心地よく般若谷に漂う。住み慣れた僧房を見やると、師匠や同宿が門に立っている。阿闍梨は沈鬱な面持ちである。長年馴れ親しんだ同宿も悄然としている。

 しかし、上野君の心は晴れやかである。この旅姿を何年夢に見てきたことであろう。終に願いがかなったのだ。上野君は師匠に慇懃にいとまを陳べた。すると、師匠の阿闍梨は堰を切ったように上野に涙ながらに訴え始めた。

 「上野よ、どこへ行こうというのか。落ち着き先は決まっておるのか。心もとないとあればわしが書状を添えてやるぞよ。誰ぞと連れ立っていくのか。もしやどこぞの念者にかどわかされて、駆け落ちするのではあるまいな。」

 愛児を仏に隠された鬼母もかくやと思われる取り乱しようである。それだけ上野君を寵愛していたのである。しかし上野君はかつてのか弱い稚児ではない。四季講堂にその人ありと言われた、講者円厳である。言い含めるように優しく語る。

 「阿闍梨様、どうしてこのように仰るのでしょうか。私は不本意でなりません。私は私だけの意思でこの山を下りることを決めたのでございます。もし誰ぞやとしめし合わせて出奔しようとするのであれば、このような暇乞いをいたしましょうか。また、どこか落ち着き先があるかといえば、是非ともというようなところはございません。どこといって、落ち着き先が定まったならばそこが終の栖でございましょう。諸国を巡って、自然と逗留するところが定まりましたならば、お知らせいたしましょう。

 さあさあ、私は出発いたします。お師匠様もお早く中にお入りください。」

 優しく包み込むように語られると、阿闍梨も観念せざるを得ない。固く握りしめて引いていた上野君の袖を放すと、房中に駆け込んだ。残された同宿も涙ながらに上野君を見送るのである。

 房主の御坊は、しばし落ち沈んでいたが、その後平静を取り戻してこう語った。

 「上野の愛しさに、なんともあさましい振る舞いをしたことか。何とも情けないことだ。私は上野の志には遠く及ばない俗物であることよ。」

 大輔の阿闍梨も有徳の方である。わかってはいるのである。弟子をいつくしむあまりの激情であったのである。

 横川は平常を取り戻した。再び日常が淡々と流れていく。

原文

 日来(ひごろ)支度仕置きてありければ、墨染の衣・袈裟に経の袋、*檜笠(ひがさ)なむど首に懸けて、*藁沓(わらうづ)うち履きて庭に立ちて、

 「この姿の、年来せまほしく候ひつるなり。」

 とて、暇乞へば、房主泣く泣く、

 「いづくへぞ。また、落ち着くべきところはいづくぞ。伴には、人をば俱せぬか。」

 なむど騒ぎ狂へば、小僧の申すやう、

 「いかにかくは仰せ候ふぞ。本意ならず候ふ事かな。思ひ定めていとま申したることにて候ふぞ。▢▢ともに、人を俱すべき身にて候はばこそ、伴の定めも*候はめ。また、*いづくへ落ち着くべき*要事も候はず。いづくも終の栖にて候はばこそ、さも候はめ。*おのづから落ち留まる所も候はば、案内を申すとも候べし。とくとく入らせ給へ。」

 と申せば、房主は小僧の袖を許して、房中へ入りぬ。上下の諸人、涙を流さぬ者なし。

 房主はその後、わが身の心を恥ぢしめ、我が心の小僧に劣りぬることを嘆きて明かし暮らすほどに、 

(注)檜笠=檜で編んだ晴雨兼用の笠。

   藁沓=草履。

   要事=必要な事柄。

   いづくへ・おのづから=原文「イツクエ」・「ヲノツカラ」。仮名遣いを改めた。