religionsloveの日記

室町物語です。

上野君消息②ーリリジョンズラブ4ー

 その2

 上野君円厳が二十一歳の時の四月八日であったと覚えている。半輪の月が西に傾き皆も寝静まったころである。短檠(たんけい)に灯をともして看経(かんきん)していると仄明るい灯火の向こうにゆらりと人影が現れた。

 「どうした上野。」

 そこには上野君が立っていた。若いころの艶やかな面影の名残りはあるが、いまや学才随一と谷中に認められた智を讃えた大人の顔の僧である。上野君は幽かに笑みを浮かべながら灯に影を揺らせながら近寄り、私の傍らに座った。その表情には何か澄みきった決意のようなものが感じられた。

 「兄弟子、お話したいことがあって参ったのでございます。ここ数年来心の内で思っていたことなのですが、なかなか言い出せないでおりました。実は、私はおいとまをいただきたいと思っているのです。どうか私においとまをお与えください。」

 私などはただの同宿で、許可も何もその立場ではないのだが、親しく共に修学してきたとの思いがあったのであろうか。確かに最も近しい一人ではある。瞬時には返答もできず上野君をじっと見つめた。その微笑んでいるまなざしの奥には、強い意志が宿っているように思えた。

 「それは・・・どうしてなのかな。何事のいとまというのか。」

 と尋ねると、

 「ほかでもございません。私は九つという年に父母に先立たれたのでございます。それは私にとって、大切なものを喪失した悲しみというよりも、生きとし生ける者は終には死を迎えるのだという諦めに似た気持ちを起こさせました。もちろん、年端も行かない子供ですから、漠然とですが。この世を渡らうことが厭わしく思えてなりませんでした。身寄りをなくした私は、寺に預けられ、山に預けられと流転する中で、世間というものが、現世の利益や本能の赴くままの欲望にまかせて動いているのに嫌気がさしてきたのです。兄弟子は気付かれておいででしょう。宴や行楽の時にも私が時折曇りある表情をしていたのを。心の底では全く楽しめなかったのです。

 願いがかなって出家を果たした後は、心をくだいて仏道を学びました。千日の参籠が私を真の仏者へと導いてくれるのかと。しかしどうでしょうか。私は皆に認められて四季講の竪者(りっしゃ)を務めるほどになりました。自分で言うのもなんですが、人々からは称賛されます。しかし褒められるのは私の美声や外見、もしくは知識の多さばかりです。このまま進みますと、私はしかるべき地位を得て、、またあまたの稚児や弟子を持ち、浮き世の名声や利益を自分の者とするでしょう。しかしそれが何になりましょうか。私は真の仏道を求めたいのです。そのためには、今あるすべてを捨てて新たな道に踏み出したいと思ったのです。」

 と切実に訴えてきた。過去を多くは語らぬ上野君であったが、あの稚児時代の、経巻に顔をうずめて秘かに涙する姿や、宴の合間にふと見せるうつろなまなざしが、私の脳裏に去来した。仏陀の事績を尋ねる時も、おのれの将来の生きようを模索していたのかもしれない。師匠を始め、院内の人々には陰気で泣き虫な少年だと思われていたのかもしれないが。

 「固く心に決めての申し出のようであるな。私はそなたを弟のように思うてきた。そのかわいい弟弟子を失うのは悲しいことだ。しかし、その強い決意はなまじいの言葉では変えられまい。わかった、私は承知した。だが、阿闍梨にはもう申し出たのか。房主様がどう思われるか。まずはそちらへお願い申せ。」

 「いや、ご承知くだされてありがとうございます。まずは兄者にご相談して、それから師匠の許へ伺おうと思っていたのです。」

 上野君は晴れやかな顔で立ち去って行った。 

原文

 さて、生年二十一と申す卯月八日の夜、人静まりて後、うち笑みて来りて曰く、

 「この年月申すべき事の候ひつるを、今まで思ひながら申し致し候はぬなり。この僧にいとまたび候へと思ひ候ふなり。」

 と*申せば、

 「いかに何事のいとまぞ。」

 と*申さるれば、

 「別の事には候はず。父母に遅れ候ひにし時より、この世は、終に死すといふことあり。万事につけて、世間のはかなく厭はしく覚え候へば、この学生の道を捨てて、仏道を求めむと思ひ候ふなり。」

 と申せば、

 「思ひ取り▢▢われむことを、惜しむとも、かなふべからず。この僧は承りぬ。とくとく房主の阿闍梨にいとまを申し給ふべきなり。」

 と言へば、

 「先づ、うれしくいとまたびて候ふ。房主の御房には貴房にいとま申して後に申し候はむと思ひ候ひつるなり。」

 とて立ちぬ。

 

(注)申せば=上野君が語り手に話しかけているのであろうから、謙譲語「申す」語り

    手へ敬意になってしまう。

   申さるれば=語り手が上野君に話しかけているのであろうから、尊敬の助動詞 

    「る」の已然形「るれ」が接続しては自敬表現になってしまう。